第三章 ヴァン・ガーデン物語

第一節 冥影円環


 
 ◆ 第二章に戻る ◆

 第1節 冥影円環  * ライゼール領 * 夜会 * 雪月花の物語 *
 第2節 フォアローゼス  * 支配の刻印 * 月光の下 *
 第3節 死霊術師  * 月夜渡り * 闇色の獣 * ルディアの海賊 *
 第4節 悪夢の夜  * お妃様は見た * 逃亡者 * 冥魔の誘惑 *
 第5節 闇血呪  * 聖域の悪魔 * 天への勅命 * 晩餐の後 *
 第6節 残酷な者  * 逆鱗 * 罪と罰 * 追憶の欠片 *
 第7節 優しい誓い  * 皇都 * フルーレイア * 庭園の氷解 *
 第8節 皇帝と少年  * 雪祭り * 婚約 * 崩落 * 御伽噺の終焉 *

 ◆ エピローグ ◆

2009.08.07更新



第一節 冥影円環


 ライゼールに移り、ゼルダが領主館に初めて出仕した午後のことだった。
「ゼルダ」
 兄皇子ヴァン・ガーディナが、ふいにゼルダの腕を引いた。
 何かがゼルダの首筋を掠めて過ぎ、壁際の彫刻に突き立った。
 短剣――
 毒が塗られているのか、暗い緑色の液体が滴っていた。
「出会え! 刺客だ、殺しても構わん、逃がすな!」
 ヴァン・ガーディナが呼ばわった。まさか、死ぬところだったのか。
「ゼルダ、冥影円環(オプティア・サークル)は使えないのか」
「――それは、習得していません。冥影円環など、物の役にも立たないでしょう?」
 ゼルダが動揺を隠して答えると、嘲笑のような表情を浮かべたヴァン・ガーディナが、書棚から黒表紙の書物を抜き取った。
「ゼルダ、この程度の奥儀書を鵜呑(うの)みにしているのか」
 帝国内で最も評価の高い、死霊術の奥儀書だ。ゼルダは途惑った。
「していますが」
 奥儀書によれば、冥影円環は領域内に術者の破滅や死を願う者、すなわち邪悪な意思を持つ者が居る時に、術者にその存在を感知させる。しかし、肝心の領域が狭いのだ。せいぜい、腕を伸ばして届く範囲だった。そんな至近距離まで迫った刺客に気付いたところで、何の意味があるだろう? 方術の守護輪(サークル)の方が、遥かに使える術だ。
「ゼルダ、奥儀書を著したエシャは、死霊術師としては凡庸な使い手だった。優れた死霊術師は奥儀の授受や呪文書の編纂などには興味を示さない。その為に、エシャ程度の術書が奥儀書として残るんだ。奥儀書はエシャを遥かに凌ぐ領域、威力で操れると慢心して読め、鵜呑みにするな」
 ゼルダは驚いて、ヴァン・ガーディナを見た。
「兄上は、冥影円環の領域拡大を成し遂げたとでも――!?」
 ヴァン・ガーディナは麗しく笑んで、造作もない事として、肯定した。
「私の最大瞬間領域は、あの辺りまでだな」
 窓の外、郊外の小塔を指し示す。
「まさか!」
「建国帝リフェイア・アド・カムラが具現した領域は皇都を覆うほどだったと、伝承にあるよ。知らないのか、ゼルダ」
「それは、御伽噺(おとぎばなし)だとばかり……!」
 ヴァン・ガーディナは呆れた顔をした。
「おまえ、よく、クレール戦役を生き延びたな。郊外まで届く冥影円環など、一瞬しか具現しないが、邸内の廊下に届く程度のものなら、そうだな――」
 どれほど使える術かわかるだろうな? と、ヴァン・ガーディナが艶のある表情で、ゼルダに流し目をくれた。ヴァン・ガーディナは冥影円環で、刺客に感付いたのだ。
「私の魔力で二刻はいける。その都度、術を掛け直せば何刻でも。ゼルダ、そのままでは足手まといだ。今夜、冥影円環を仕込んでやる、礼装で中庭へ。私を待たせるなよ」
「礼装?」
「貴重な余暇をおまえに割いてやるんだ、目の保養にくらいなれ」
 ――ぶ!?
 ゼルダは途惑いを隠せず、まじまじとヴァン・ガーディナを見た。
「礼装は柊式の桔梗、髪はジゼルの十六番。知らなければ私の侍従に結わせていいよ。そのままの姿で来たら、不敬罪で重い罰を与えるからな」
 
 
 その夜、ヴァン・ガーディナの望み通りの姿でゼルダが中庭に赴くと、兄皇子は満足げに、感嘆さえして、ゼルダを綺麗だと褒めた。その割には、すぐ指導に入った。
「呪文は覚えてきたんだろうな? いいか、実演して見せてやるから真似てみろ」
【挿絵】N人様  ゼルダは神妙に頷いた。死霊術師(ネクロマンサー)は術を操る姿を人に見せたがらないため、実演を伴う指導など、滅多なことでは受けられない。
「ライム ライム エルリウム ……」
 兄皇子の呪文の詠唱は滑らかで澱みがなく、魔力の乗せ方も見事としか言い様がなく、ゼルダは息を詰め、その全ての手順を記憶に刻み込んだ。ゼルシアの皇子の真似など気が進まないと思っていたことも、術のあまりの見事さに、何処かへ吹き飛んでしまった。
冥影円環(オプティア・サークル)!」
 ヴァン・ガーディナの左眼が真紅に輝き、金色の光を放つ美しい文様の円環が、瞬時に拡大し、中庭の端辺りで、刹那の残像となり掻き消えた。
「ゼルダ、やれ」
 ゼルダは頷くと、地に指先を突いた。ヴァン・ガーディナはどうしていた――?
「ライム ライム エルリウム ……」
 ゼルダはわずか、焦った。兄皇子ほどの澱みのなさで、魔力が呪文に乗ってこない。兄皇子の真似はできないのか、魔力においてか技術においてか、兄皇子に劣るということなのか。
冥影円環(オプティア・サークル)!」
 発動はしたものの、ゼルダの円環はようやくヴァン・ガーディナに届いた程度で、中庭の端までなど、到達しなかった。
「……く、そっ! 兄上、私はどうしてあなたに敵わないのですか! 魔力があなたのように乗らない!」
「なんだ、褒めてやろうと思ったのに。ゼルダ、何が不満だ――? 冥影円環の難易度は最高ランクだ、発動しただけ満足しておけ」
 言った後、ヴァン・ガーディナはふと、優越感をニヤニヤ笑いに織り込んで、クスクス笑いながら、ゼルダを見た。
「ああ、死霊術で他人に劣ると思ったこと、初めてなのか。おまえ、私に張り合うつもりなら――」
 (なぶ)りものにして、魔力の精度を上げてやろうかとのたまう。
 悲惨な境遇にある死霊術師ほど傑出するとされているので、兄皇子の申し出は、必ずしも、理に適わないものではなかった。
「結構です!!」
 絶対、不幸に見舞われるほど、格の高い死霊術を操れるなんて迷信だ。真実だとしたら、ヴァン・ガーディナの魔力の高さを説明できない。
「ゼルダ、私に(ひざまず)いて敬意を示したら、とっておきの智慧を授けてやるよ」
 ヴァン・ガーディナが何のつもりなのか、その瞳をじっと見て、測れないまま、ゼルダは従った。初めてのことでもなく、死霊術師として兄皇子はその要求にふさわしい上位者だった。すなわち、無償も同然の条件なのだ。
「たとえば、祭事などの折、群衆を狙って最大領域の冥影円環を仕掛ければ、何が出来ると思う?」
 ゼルダは視線を虚空に向け、考えを巡らせた。
「叛意のある者や刺客を突き止められる。皇族であれば、それにどれほどの意味があるか、わかるだろうな」
 ゼルダが考えもしなかった、驚くべきその奥儀の使い途は、疑いようもなく、術者を破滅から遠ざけるものだった。
「兄上、なぜ――? 冥影円環のことなど教えなければ、遥かに、私の命を絶ちやすかったはずです!」
 ヴァン・ガーディナは後ろ手に、大理石の台座に手を突いて、怠慢な姿勢を取った。兄皇子が浮かべる優麗で艶やかな微笑みからは、到底、その考えは読み解けない。ただ、ゼルシアを彷彿(ほうふつ)とさせるので直視を避けて来たヴァン・ガーディナの風貌が、抜きん出て美しい麗容だと、ゼルダはにわかに気付いて動揺した。綺麗すぎて、誘われそうになる。
「冥影円環のことを教えたら、私がその気になって、おまえを殺せないとでも?」
 ヴァン・ガーディナが左眼を真紅に輝かせ、ゼルダを支配するべく侵攻をかけた。戦慄(せんりつ)して、その魔力に抗おうとするも、ゼルダは兄皇子の前に跪かされたまま、動けなくなっていた。兄皇子がゼルダの顎を取って、その瞳を見るよう、その魔力の影響を強く受けるよう仕向けた。
「支配印なしにそのザマで、私にどう抗う気だ、話にならないな。なんなら、私の支配印も与えてやろうか」
「や、め……!」
 ゼルダの首筋にキスを落として、遠慮なく、ヴァン・ガーディナが笑った。
「おまえ、必死になっても私に抗えないんだな」
「兄上、やめ……! 嫌だ、――あぁあっ!」
 ゼルダに抗えるか抗えないか、ヴァン・ガーディナが試すように丁寧に施術するのを、ゼルダはついに阻止できなかった。
「……っ!」
「ゼルダ」
 ゼルダは全身を小刻みに震わせたまま、ヴァン・ガーディナを睨みつけた。
「返事もしないとか、意地を張るな。調教するぞ? 冥魔の瞳に抗えないなら同じこと、まずは努力しろ。私を納得させたら、解呪してやるよ、優しい兄上でよかったな」
「どこが!」
 優しげな笑顔のまま、ヴァン・ガーディナが左眼を光らせた。
 ゼルダが絶叫して地に手を突く。
「たいした威力だな。本気になったら殺せるか……」
「や……、め、……あぐっ!」
 死霊術の威力を確かめるためだけに、支配印に魔力を流したヴァン・ガーディナが、ゼルダが激痛に(あえ)ぐ様子に満足して、優麗に微笑む。
「ゼルダ、解呪するつもりはない。無闇やたらに、私を怒らせないことだな。私の期待以上の効果が出ている。その気がなくとも、おまえに怒りの感情を向ければ、殺してしまうかもしれない」
 ゼルダはぞっとして、ヴァン・ガーディナを見た。
「兄上、はずみで私を殺すかもしれないと承知で、施術したままになさるのですか!」
「私がアーシャ様や父上のように、無条件におまえを愛すると期待するな」
「そんな期待は……!」
「していたから、私がおまえを(あや)めることを(いと)わないと知って傷つくんだろう?」
 ゼルダは絶句して、こぶしをきゅっと握り締めた。
「まあ、冥影円環の領域内に、私がいたことの意味には気付いておけよ」
「え……?」
 冥影円環は、ヴァン・ガーディナを感知しなかった。
 それはつまり、ゼルシアの皇子であるヴァン・ガーディナが、ゼルダに対して何の悪意も抱いていない――?
 指摘されて、ゼルダは驚いて兄皇子の顔を見直してしまった。
 わからない。
 兄皇子が何を考えているのか、理解できない。なぜ、ゼルダに対して憎しみも親愛の情も抱かないのだ。他人ではない、兄弟なのに。
 刺客から救ってくれたと思えば、刹那の感情でゼルダを殺しかねない支配印を施して、容赦のない苦痛を与えたあげく、解呪しない。
 笑顔にも、何やら違いがあるのはわかっても、真意を読み解くには難度が高かった。
 ヴァン・ガーディナの笑顔には、種類と仕込みが多すぎるのだ。
 他の表情なら――?
 ゼルダを刺客から庇ったヴァン・ガーディナは笑っていなかった。兄皇子には珍しく、あの時は、笑顔の仮面を()いだ素顔だった。
 あとは、ゼルダが牙を()いた時、憎悪を(あらわ)にして睨みつけた時――
 兄皇子はいい顔をせず、冷酷さを隠しもしなかった。
「冥影円環は破滅円環とも呼ばれ、カムラの歴代皇帝を何人も死に至らしめてきた。憎しみだけで、同じ人間が抱える愛情や敬慕の念は、感知しないからな。冥影円環を使いこなすのは至難の技だ、歴代皇帝の二の舞には、なるなよ」
「――はい」
「ふうん? 素直にすると可愛いんだな? 普段からそういう態度なら、支配印など飾りだけどな」
「は?」
「そういう態度を取られると、苦痛を与える気にならないだろう?」
「――……」
 兄皇子はいったい、どういう答えを期待しているのか。ゼルダはただ、困惑するしかなかった。
「ゼルダ、冥魔の瞳でおまえが私を支配しようとしてみろ。はね退け方の手本を見せてやる」
「えっ……」
 ゼルダにも、冥魔の瞳は使える。死霊術師の左目を、他者の精神に干渉し、意のままにしようとする時、冥魔の瞳と呼ぶのだ。
「ゼルダ? なんだ、おまえ、私に敵わないと思っているのか」
「思って、いません……!」
 兄皇子がにやりと、にやにやと笑う。それと確信して、ゼルダの悪あがきを愉しんでいる。
「ふうん? じゃあ、冥魔の瞳で私に仕掛けられないのはどういうことか、説明してごらん? おまえ、気持ちで私に降伏しているんだ」
「〜!!」
 ヴァン・ガーディナの手が、ゼルダの喉元に伸びて、その手の冷たさに、ゼルダはぞくりと身を震わせた。
 兄皇子が、望み通りに結われたゼルダの髪を指に絡め、冷たく静かに、ゼルダの耳元に囁いた。
「いいか、私ならぬ者に殺されるな。私だけを受け容れろ。おまえはもう、私のものだよ? ゼルダ――」
 その触れ方の優しさが、言い様の残酷とかけ離れていて、ゼルダを深刻に困惑させたのだった。


◆ ライゼール領 ◆


 ライゼールに移り、兄皇子と過ごす時間が増えると、ゼルダは幾つか、思い掛けないことに気付いた。
 まず、皇都での半月ほどを兄皇子が遊んでいなかったということだ。ゼルダが神殿やサンジェニ侯爵家に根回ししていた間に、ヴァン・ガーディナはライゼールの街並みから気候、祭事、人々の暮らしまで下調べを済ませ、既に必要な資料を揃えさせていた。
 すなわち、ゼルダは執政官として、兄皇子に遅れを取ってしまったのだ。何か意見しても、軽く切り返されてしまう。ヴァン・ガーディナの洞察や方針策定はいちいち適切で、ゼルダは次第に、口を挟めなくなってきていた。
「最近、口答えしないな? どうした?」
「……したって、あなたの判断の方が確かじゃないですか」
 ヴァン・ガーディナがくすくす笑う。ゼルダはすねたように口を尖らせた。
「おまえが黙るとつまらないよ、おまえが私に敵わなくて、ガッカリするのを見るのが楽しみなんだから、黙るな」
「えー!」
 ヴァン・ガーディナはいつも、ゼルシアの庇護下で安穏と過ごしてきたはずの皇子らしからぬ迅速で誠実な判断をしたし、ゼルダに対する指導も、丁寧で充実した内容だった。ゼルダが遠からず敵に回ることを、想定していないかのようで、ゼルダはかえって困惑してしまうのだ。
「兄上、私に何も強いないのですか? 何のために支配印を?」
「ああ、どんなものかと思って。支配印なんて、おいそれと施術するものでもないしな。ゼルダ、毎週、闇曜はあけておけよ。冥影円環の他にも、尊敬する兄上が死霊術の奥義を伝授してやるよ」
 ――何たる傲慢、誰が『尊敬する兄上』か!
 ゼルダなんて、片手でさばけそうに優秀なヴァン・ガーディナだとしてもだ。
「私は戦場の経験に乏しいし、いろいろ、誰かに試したい術があったから丁度いい」
「ちょっと! 兄上それ、私にかけて試す気ですか!?」
「おまえ、後宮に方術師を囲っていたよな? 致命傷は与えないように気をつけるが、私の余興に付き合わされて、痛い目や辛い目を見たくなければ、一生懸命、抵抗してごらん」
「えーっ!?」
「ああ、出来ないんだっけ、おまえ」
 冥魔の瞳でゼルダの動きを止めて、ヴァン・ガーディナが麗しく微笑む。これなんて、狙い撃ち。
「次の闇曜は月桂式の一揃いに、髪はジゼルの七番」
「〜! またですか、月桂式は揃えていません、おあいにく様!」
「じゃあ、私が贈ろう」
 ――ぶっ。
「兄上、一夜、私を着飾らせて何がしたいんですか!」
「いいじゃないか、私のささやかな贅沢だよ」
「お妃様を飾って下さい!」
「なんでだ? おまえが綺麗だ」
 ――そこ! 世迷言はたいがいにーっ!!
 兄皇子と話していると疲れる。やたら疲れる。
 ゼルダが日頃、ヴァン・ガーディナの態度に引っ掛かりを覚えることがあるとすれば、何をしたいのか、はっきりしないことだった。兄皇子はライゼールの現状なら、ゼルダより遥かに、よく把握している。それにも関わらず、誰が困っていようと、非道や不正の横行に気付いていようと、ゼルダが望まなければ、傍観の姿勢でいるのだ。ゼルダが望めば、真意のさっぱり読めない笑顔で承認する。
 ゼルダを指導するつもりで、ゼルダがそれに気付くのを待っているのか、他人の惨状など見ても、何とも思わないのか――
 後者と考えるには、ゼルダが望みさえすれば、誠実に力を尽くす態度を説明できなかった。ヴァン・ガーディナは承認するだけではなくて、ゼルダが考えていたより適切な方法を示して、実行に移すことさえ厭わない。不祥事や失敗の責任も、別にいいよと言って、兄皇子の方で取ってくれることが珍しくなかった。
 ヴァン・ガーディナのやり様は「あれが欲しいのー♪」とゼルダにねだられては叶えてしまう、ほとんど猫可愛がりで、この異常な甘やかしを受け、ゼルダとて、兄皇子に情が移ってしまわないと言えば嘘だった。間違っているとは、すごく思うけれど。
「私は? 反撃してもいいんですか」
「しようとするのは構わないが、させないよ? やだな、ゼルダ。敵いっこないのに手向かって、お仕置きされたがるのは、ちょっと変態めいてる」
「誰が!? されたくないです、そんなの!」
 ゼルダが懸命に真剣に抗議するほど、兄皇子は魅惑的な笑顔になって、ご機嫌が麗し過ぎることになるのだった。
 もぉ泣きたい。
「ゼルダ、前領主のイクナートに挨拶しておけ。書簡でも、訪問でも構わない」
「はい」
 ヴァン・ガーディナの話の切り替えの早さには、好感を持つ。そもそも執務中だ、こんな話していたくないし。
 前領主への挨拶は、よろしくお願いしますの挨拶ではない。
 ライゼールは税が一律であるため、不毛な土地の荒廃が進み、生産性の高い土地と、利潤の良い産業が奪い合われてきた。それを勝ち取った者が富を独占している状態なのだ。ゼルダがこれを変革したいと望んでみたところ、ヴァン・ガーディナの承認を得られたので、敵情視察というか、腹を探り合う挨拶だ。
「訪問にします。こちらの出方に対する、イクナートの顔色を見たいので」
「そうか、なら手練の者を数名連れた上で、ある程度は強引にでも上がり込め。優雅にカフェで茶を飲んでいる暇はないからな」
「手練って?」
「私がいつも連れている、ゼンナとキールサキスが確かだ」
「はい」
 了解した後、ゼルダはその意味に気付いた。
「あ。――じゃあ、早めに戻ります」
「ん。……? じゃあ?」
「その、兄上の護衛が手薄になるでしょう?」
 嬉しいのか、ヴァン・ガーディナが優しい笑みを零した。甘い表情をすると、兄皇子はとても綺麗で、目のやり場に困る。ゼルダはつい見惚れて、魅せられそうになって目を逸らした。
 どうしても、ヴァン・ガーディナが優しくて、調子が狂う。兄皇子を心配する日が来るなんて、皇都にいた頃には、思いもよらなかった。ゼルダを手元で死なせれば、ヴァン・ガーディナの成績に傷がつく。クローヴィンスに大きく遅れを取るから、庇ってくれるのだ。そのはずだ。
 ヴァン・ガーディナの笑顔は仮面、優しさは偽りだと、思い知らされてきたはずなのに、心が迷って、兄皇子を信じたくて、苦しかった。
 かりそめだ。アーシャもアルディナンもザルマークも、見殺しに出来るのが、してきたのが、ヴァン・ガーディナなのだから。
 

 誰かに庇護されて、その顔を見れば安心するようなことは、優しかった第一皇子アルディナンを亡くしてから、ずっと、なかった。ゼルダはその死を境に、庇護する側に立ったのだ。
 アルディナンを亡くした時、まだ、十三歳だった。
 いつかは庇護する側に回るとしても、本当はまだ、庇護されていたかったのだと、思い知る。ヴァン・ガーディナの手元はほっとして、雪の城にでも匿われているように、冷たく、優しく、清らかな光に満たされて、居心地が好かった。


◆ 夜会 ◆


「ねえ、シルフィス。夜会とか、たまには一緒にどうかな? わからないことは、私が教えてあげる。ずっと、私の傍にいていいよ」
「まあ、羨ましいわ♪ でも素敵! 行きましょうよ、シルフィス。ゼルダ様に贈って頂いたドレスで着飾るの、アデリが、髪を結ってあげますね。アデリ、上手なのよ、ゼルダ様の髪もアデリが結うんだもん♪」
 アデリシアはヴァン・ガーディナと趣味が合うのか、ゼルダが髪をジゼルに結い上げたのを見て以来、やたら、それにしたがった。ゼルダとしては、これだけが、ちょっと気に入らない。
 ライゼールに移って夜会巡りをするようになってから、アデリシアは自分がモテまくること、ゼルダがどこの貴公子と比べても、抜群に魅力的だと知ったことで、それは、ご機嫌が麗しい。白い結婚の捉え方も変わってきていた。
 ゼルダが夜会の度、アデリシアをこよなく褒めて私の正妃ですと紹介してくれるので、アデリシアはもう、白い結婚に不安を覚えてはいない。白い結婚は本当に彼女のためで、ゼルダの方からこの結婚をなかったことにする気はないのだと、夜会で紹介される度、アデリシアは安心したし、初対面の殿方に告白される度、ときめいて嬉しくて有頂天になった。侯爵令嬢としての自信がついて、余裕の出て来たアデリシアは、シルフィスにもますます優しくなって、夜会が大好きなカレンの気持ちが、よくわかるようになった。
 若い身空で既にゼルダに縛られているシルフィスが、いつもおとなしく二人の帰りを待っていて、笑顔で迎えてくれることにも、アデリシアは胸打たれるのだ。
 シルフィスの健気さと慎ましさたるや、ゼルダが可愛がるのも無理からぬもので、アデリシアは腕いっぱいに抱えた、ゼルダならぬ殿方からの花束だの贈り物だの恋文だのが後ろめたかったりして。それでも「ゼルダ様がアデリを抱いてくれないのがいけないんですよ?」と彼女自身に言い訳して、ほくほくと恋文を読むのがアデリシアのお楽しみだ。嬉しい恋文を贈られると、ゼルダにはさすがに話しにくいので、アデリシアは侍女よりもシルフィスに話しに行ったりした。シルフィスは口が堅そうだったし、嫌な顔をしないし、何を話しても困ったことにならなかったので、アデリシアは段々とシルフィスが好きになって、ゼルダが側室を何人迎えても、きっと、後宮が楽しくて賑やかな居場所になるだけだと思った。こんなに優しくて綺麗なシルフィスがいても、アデリシアをないがしろにしないゼルダのことだ。どんなに綺麗なコを迎えても、アデリシアのことも正妃として、きっと、大切にしてくれるに違いない。
 だから、初めて夜会に誘われて、途惑うシルフィスをゼルダが強引に引っ張り込もうとするのも、アデリシアは微笑ましい気持ちで応援したのだ。そうすると、ゼルダが魅惑的なウィンクで応えてくれたりしたので、アデリシアはますます張り切った。ゼルダと一緒にシルフィスをずりずり、夜会まで引き摺ってでも連れて行こうと、シルフィスにも楽しいことを教えてあげようと、元気いっぱいに朗らかなアデリシアなのだった。
 

 ゼルダが正妃であるアデリシアに極上のドレスを五枚も六枚も仕立てて夜会巡りをするのは、アデリシアをいずれは本物の正妃として迎えるため、ゼルダもまた夜会を楽しむため、そして、ライゼールにおける確かな権力基盤を築き上げるために他ならない。
 社交上のはったりだ、夜会巡りをして、正妃にいつも同じドレスしか着せないのでは、侮られるのだ。逆に、夜会の度に異なるドレスを着せたアデリシアを連れ回せば、この年齢で既にこれだけの財貨を得ているのかと、この皇子に取り入っておけばいいことがありそうだという打算を上流の連中が働かせるので、はったりが本物になる。夜会は立派な戦場なのだ。
 もっとも、そういう手腕にはサンジェニ侯の方が長けていて、娘婿の栄達に力を貸すことに、侯爵は当然ながらやぶさかではなかった。
 アデリシアを着飾らせることにゼルダは苦労しなかったし、アデリシアは誰よりも綺麗に着飾らせてもらえて、魅力的な皇子様のエスコートつきでライゼールの夜会に咲き誇れることが、嬉しくて仕方がないようだった。笑顔の絶えないアデリシアの様子に、ゼルダも嬉しかった。ゼルダの大好物が綺麗なコの笑顔であることは、自他共に認めるところだ。
 とはいえ、シルフィスをいつも一人きりで待たせることに、ゼルダは心が咎めていた。
 何が幸せかなんて人それぞれで、シルフィスは優しい笑顔で二人の帰りを待っていてくれる。そうだとしても、寂しくないはずがない。
 レダスの罪姓を持つシルフィスは、夜会など社交の場では、ゼルダがよほど隙のないエスコートの手腕を見せつけなければ、かえって辛い目に遭わせてしまうのだ。
 それでも、シルフィスにも、少女時代の思い出になるような楽しい時を、寂しくない時を、過ごさせてあげたかった。
 
 
「いやぁん♪ アデリったらモテモテ!」
 今夜も、貴公子達からのお誘いが引きも切らないアデリシアが、満面の笑顔でゼルダに突撃してきた。それを難なく受け止めて、ゼルダは軽く、アデリシアを抱き締めた。
 白い結婚だというので、あわよくばとアデリシアに求婚するようなのもいる。少々目のよい手合いは、ゼルダの豪遊を可能にしているのがサンジェニ侯爵家の後援の賜物(たまもの)だと心得ているので、ゼルダを飛び越えてアデリシアを狙ったりするのだ。たとえ、第五皇子であるゼルダに睨まれることになっても、第四皇子ヴァン・ガーディナの方に取り入ればいいとの考えで、あまり深刻になる者はいない。ゼルダが十五歳という若年を活かした無邪気さと、麗しい笑顔で立ち回っているため、いまだ、その牙に気付かない者も多いのだ。
 なにしろ、求婚されるのもアデリシアのお楽しみなのだから、邪魔は野暮だった。
「アデリったら困っちゃいますわ♪ 今夜も、ステア家のアルレッド様に求婚(プロポーズ)されちゃいました。もちろん、アデリはゼルダ様一筋ですもの、丁重にお断りしましたけど! ゼルダ様、嬉しい?」
 こうやって、ひとかけらも困っていない笑顔で報告するのが、アデリシア至福の瞬間だ。ゼルダも喜んで、アデリシアに感謝と称賛の言葉で応えることにしていた。
 肝の据わらない男では、正妻の浮気を疑ったあげく、自滅するように信頼関係、ひいては結婚生活が破綻したりするのだけれど、ゼルダはそういう意味では必要以上に自信家だ。完璧なナルシストで、世の中の女性は誰しも己になびくと信じていると、もっぱらの評判である。その評判はかなり的確で、ゼルダとサンジェニ侯爵家の信頼関係はまったく揺らいではいない。
「でも、ゼルダ様が誰より綺麗で素敵です!」
「ありがとう。ねぇ、誰より、かっこいいのも私じゃない? アデリ、こっち向いて♪」
 言うや、凄まじい色香の流し目を、ゼルダがアデリシアにくれる。
 きゃーっと、アデリシアは卒倒せんばかりに、大はしゃぎした。
「ずきゅぅーん!! ゼルダ様かっこいい、魅惑的、アデリめろめろです〜! ゼルダ様、もう一回! ね、もう一回やって下さい♪」
「ふふ、だーめ。また、何かのご褒美にね?」
 たしたしと地団駄を踏んで、アデリシアが頬を膨らませる。可愛らしいこと、この上ない。
 ゼルダが気を遣うのは、どんなに綺麗な令嬢がいて誘惑されても、アデリシアの不興を買わないよう、何があっても誘惑されないことだった。ゼルダにとって、これだけが苦手なことだったけれど、シルフィスもリディアージュもいるので、女性に飢えてはいない。
 三人目を迎えた妃の、どの笑顔がそれぞれ魅力的だったか、なんて思い返していると、ふと、兄皇子の優麗な微笑みが、脳裏を掠めた。
 ――見なかったことにしよう。気の迷いだし、むしろ、大間違いだ。
 アデリシアは天真爛漫、リディアージュは純情可憐、そして、清楚で優しい雰囲気ならシルフィスだ。ゼルダの後宮は、現状で非常に贅沢なのだった。
 どよどよと、会場がざわめいた。
 皇太子候補のヴァン・ガーディナが初めて、ライゼールの夜会に姿を見せたのだ。紹介と、その麗姿に驚愕してのざわめきだった。
「ゼルダ様……!」
 アデリシアさえ、息を呑んでゼルダの礼装をつかんだ。
「あちら、お兄様です……!? 麗しい方、ヴァン・ガーディナ王子みたい――」
「は?」
 みたいもなにも、その人だ。
 麗容ならば、ゼルダも兄皇子に決して遜色はしない。けれど、ヴァン・ガーディナの雪白の髪の美しさは人目を引く上に印象的で、十七歳のヴァン・ガーディナは、ゼルダより頭半分ほど背が高い。兄皇子と並ぶと、さすがに、ゼルダの風貌さえ霞んでしまうのだった。
「兄上、今宵は何の趣向ですか。パートナーは?」
「ちょっと、気が向いてね。パートナーなんて、会場で探すよ。そちら、アデリシアーナ侯爵令嬢かな?」
 乙女の夢そのものの笑顔を見せたヴァン・ガーディナが、すっと、アデリシアに手を差し伸べた。
「可愛らしいお姫様、私と一曲いかが?」
 ヴァン・ガーディナの流し目の色香たるや、ゼルダのそれを遥かに凌ぐ魅力で、アデリシアなんて瞬く間に陥落した。頬を上気させてヴァン・ガーディナを見詰めるアデリシアの瞳は、もはや、完璧に恋する少女のものだ。
「まぁ! はい、もちろんです。あの、私などで、よろしければ……!」
 ほらねと、爽やかな笑顔をヴァン・ガーディナがゼルダに向ける。ほらねじゃない。
「兄上、私の正妃に手を出したら承知しませんよ!」
 アデリシアの髪の一筋を取って、ヴァン・ガーディナが唇を寄せた。アデリシアはもう眩暈(めまい)がしそうで、『ゼルダ様が、アデリに手を出したら承知しないって!』とか『素敵すぎるお兄様に、アデリ、キスされちゃいました!』とか、嬉しいやら困るやら興奮するやら、両手で顔を覆ってキャーキャーやっている。
「ゼルダ、その言い方じゃ手を出したくなるだろう。承知しないおまえってどんなか、是非、堪能したいよ、何のご褒美だ? 控えなさい」
「〜…!」
 何ですかその理屈、ふざけないで下さいとか、ド畜生、悪魔の申し子の分際で私の妖精にとか、浴びせたい罵声は多々あれど、ゼルダはぐっと(こら)えて微笑んで見せた。
 けれど、大切に守っている無邪気なアデリシアの貴重なファースト・キスとか奪ったら、ただでは置くものか。
 ゼルダの怒り心頭な視線に気付いてか、ヴァン・ガーディナはお得意の麗しい微笑みで返すと、絶対にわざと、アデリシアを胸に抱き寄せた。アデリシアは大喜びで、嫌がりもしない。巧みな踊り手であり、麗容も装いも華やかな第四皇子と侯爵令嬢が踊るというので、すぐに人だかりが出来た。これだけ人目があったら、逆に、手は出せないか。
 ゼルダは腰に手を当てて頬を膨らませ、ひとつ嘆息すると、兄皇子に負けないはずの麗笑を見せて、シルフィスを振り向いた。
「ねぇ、シルフィス、私達も踊らない? 私と踊って欲しいな」
 アデリシアほど人懐こくないシルフィスは、人見知りして、ゼルダの背に隠れるようにしていた。ヴァン・ガーディナの麗容にも、それだけで心奪われた様子はなかった。ほっとして、より一層、シルフィスが愛しくなるゼルダだ。はにかみやのシルフィスが、彼だけに心許しているのも嬉しい。
「……ごめんなさい、私、踊り方がわかりません……」
 澄んだ琥珀の瞳を翳らせて、シルフィスは顔をうつむかせた。
 シルフィスも楚々とした風情の可憐さで、アデリシアに遜色しない魅力の持ち主だ。けれど、誰一人、シルフィスを誘う者はない。ゼルダの御手付きで、貴族どころか先の皇妃暗殺のレダス――
 シルフィスを誘うには、駆け落ちと、末路には死の覚悟が必要なのだ。
 そのため、憧れの目でシルフィスを眺める者は多かったけれど、彼女に声をかける者はいなかった。
 シルフィスはそれを、彼女に魅力がないためと誤解しているのだろう。シルフィスは一途だ、アデリシアを羨ましがる様子はなかったものの、彼女ではゼルダと釣り合わないと気にしているようだった。なんという可愛げだろうか、超グっとくる。
「シルフィス、大丈夫だよ。私が教えるように動いてみて? シルフィスは綺麗だもの、誰も私達を笑わないよ。皆、私達を羨ましがるから、ね? 私を信じて」
 言うや、ゼルダは不意打ちでシルフィスに優しいキスをして驚かせた。アデリシアには内緒と口許に指を立てる。
 大広間の隅で軽く手解(てほど)きすると、ゼルダはシルフィスを引っ張って舞台に踊り上がった。
「シルフィス、私以外の誰も、君の瞳に映さないで欲しいな。私だけのために踊ってね?」
【挿絵】N人様  途惑うシルフィスを上手にリードして、舞わせたり、そこ駆け抜けるからついて来てと誘ったり。そのうち、緊張して硬かったシルフィスの表情もほぐれ、笑顔が零れはじめた。彼に振り回されて笑っている。すごく可愛い。
 流れていた曲が終わると、シルフィスは息を弾ませながら、ゼルダに笑いかけた。
「あ、はぁっ、疲れました。でも、ゼルダ様、楽しかったです、嬉しい……」
 ゼルダに振り回されるのが、踊るのがこんなに楽しいと思わなくて、シルフィスはつないだ手を離すのが、寂しかった。
「シルフィス、とっても可愛かった!」
 ゼルダにきゅっと抱き締められて、シルフィスは小さな悲鳴を上げた後、はにかみながら、笑顔を零した。
 シルフィスにとって、こんなに甘くて楽しい時間は生まれて初めてだった。
 ゼルダが大好きで、幸せな気持ちと愛しさに満たされて――
 優しい人々が集う場所だと信じていた神殿よりも、ゼルダの後宮がずっと、優しさと思いやりに満ちて、居心地が好かった。ゼルダもアデリシアも侍女達も、誰一人としてシルフィスを疎外しない。シルフィスのお菓子を美味しいと食べてくれるし、怪我をしたアデリシアに癒術をかけたら、アデリシアは天使でも見つけたかの瞳でシルフィスを見て、無邪気に笑いかけてくれた。最近はもう、毎日のように、シルフィスのおやつを食べることに決めているらしく、三時になるとナイフとフォークで菓子皿をチンチン鳴らし出す。神殿の子供達みたいで可愛い。
 アデリシアが髪に飾ってくれた白百合(しらゆり)の花も綺麗で、シルフィスにはどう結っているのか全然わからない魔法のような手際と結い方で、夜会に足を踏み入れてもおかしくない髪型にしてくれた。
 ゼルダの傍で過ごしていると、この世には優しい人しかいないような気がしてくるのだ。神殿にいた頃の悲しい出来事が、悪い夢を見ていたよう――
 そのアデリシアが、満面の笑顔で二人に抱きつくように飛び込んできた。
 

「ああ、夢みたい……! ゼルダ様、お兄様ったら、すっごく素敵! アデリ、めろめろですっ……!!」
「えぇええ!?」
 ――うわ、ちょっと待って! 今、何て言ったの、私のご正妃様はっ!!?
 ゼルダの斜向かいで、シルフィスさえむせていた。
 そんな、恍惚(こうこつ)としまくった表情で、旦那様に何ということをぉお!!
 ゼルダが夜会に伴うようになってから、アデリシアは花が綻ぶように優しく朗らかになって、周りの雰囲気と気持ちをいつも明るく、楽しいものにしてくれていた。そんなアデリシアが、ゼルダもどんどん好きになっている。
 それでも、もちろん、シルフィスへの気持ちも揺らいではいない。
 天真爛漫なアデリシアの無邪気さと素直さを守っているのは、ゼルダだけでなく、シルフィスでもあるのだ。
 シルフィスの立場では、アデリシアをひがんでもおかしくはない。けれど、シルフィスはありのままのアデリシアを愛せる、本物の天使だった。
 だが、由々しい。万が一にも、ヴァン・ガーディナにアデリシアを取られたら、シャレにならない。この政争負ける。いきなり負ける。完膚なきまでの敗北だ。
「ゼルダ様、シルフィスに優しくしてあげて下さいね。アデリ、シルフィスがこんなに誘われないと思わなくて、びっくりしたんですもの。シルフィスは可愛いのに、ゼルダ様の御手付きだからですよ? ちゃんと、ゼルダ様が可愛がってあげて下さいね」
「あ、うん。――アデリシア、優しいね。そういうことなら、心おきなく任せて!」
 アデリシアは愛らしく笑って、かと思えば、そわそわと落ち着かなげに広間を見た。
「ねぇねぇ、ゼルダ様。今夜はアデリ、お邪魔ですから、お兄様を探してきてもいいですかぁ!?」
 ――ちょっと! アデリ、そっちが本音っぽいからやめてっ!?
 あり得ない、女性に目移りされた経験ないのに、よりによってあの鬼畜兄とか! アデリの目腐ってる!!
「アデリ、騙されないで! あの人、夢の皇子様には程遠いよ!」
「そう、なんですか?」
 アデリシア、ややしょんぼり。明るい翠石の瞳が悲しげな(かげ)りを帯びた。
 いやいや、浮気だから。雰囲気出さないで。
「お妃様だって二人はいるはずなのに、一度も夜会に連れて来ないもの。他人に、とても冷たい方だよ」
 シルフィスが何かあわてていると思ったら、冷たい声がかかった。
「悪かったね」
 て、いたー!
 麗しく笑むと、ヴァン・ガーディナは容赦なく、ゼルダに施している支配印に魔力を流した。
「っ……!!」
 ゼルダは漏れそうになる苦痛の声を、必死に噛み殺してささやいた。
『――兄上、やめて下さい、お許し下さい』
 こんな場所で、死んでも苦痛にあえぐ姿など他人に見せられない。
 ヴァン・ガーディナは愉しげに笑むと、ゼルダの喉元に指を絡めた。
『おまえ、私と折り合いが悪いと思われているのを知らないのか。レダスなど夜会に連れ込む真似は、冒険に過ぎると思わないか? 私が庇ってやるのは、今夜だけだぞ』
『――!』
 兄皇子はすぐ、取り入ろうとする特権階級の者達や、妃の座を狙い、魅了しようとする令嬢方に囲まれて、姿が見えなくなった。
 それを兄皇子が知っているのは、何のことはない、ゼルダが断ったからだ。シルフィスを夜会に連れ込めば、一波乱あってもおかしくはない。一応、兄皇子の許可は得ておいたのだ。
 皇子様たちのひそひそ話が気になったらしく、アデリシアが「何かしら、えっちなお話かしら」とシルフィスに話を振っていた。えっちなお話ちがう。
「ゼルダ様、あの、アデリがお兄様を素敵と思ったら、ご不興ですか……?」
「それは、妬けるもの。でも、気持ちはわかるよ、兄上は綺麗で優しい方だし」
 だからといって、まさか、ゼルダがシルフィスを構いやすいように――?
 そんな、まさか。
 同じ兄皇子でも、アルディナンなら、それくらいしてくれそうだった。けれど、それはゼルダに愛情をもってくれていたからだ。
 喉元に絡められたヴァン・ガーディナの指の感触が残って、微笑まれた記憶とあいまって、落ち着かない。どうかして――
「君、目障りなんだよね、たかが第五皇子のくせに。第五皇子なんて、死ぬまで皇帝と皇太子にコキ使われる身分だろう?」
 ふいにかけられた声に、ゼルダは現実に引き戻された。かえって、ほっとした。なんだか、兄皇子の振る舞いに、幻惑されそうになっていたから。
「こんばんは、何か御用ですか?」
「生意気だね、顔、貸してもらえるかな?」
 今夜のゼルダは両手に花だ。しかも、アデリシアもシルフィスも瑞々(みずみず)しく、抜きん出て可愛らしい美少女なのだから、(うらや)むなと言うのが無理だった。狭量な人間には、目障り極まりないだろう。
「中庭まで?」
 場所を言い当てられ、不審げな顔をしたものの、青年は来いよとゼルダを(あご)でしゃくった。
 イルメスという名の、ライゼール元領主の息子だ。
「女性は一緒じゃない方が、お互い、都合がよさそうだね。(しか)るべき方に頼んできましょう」
 
 
 木陰に一人、二人、三人。
 あとは、門柱の影に二人。
 たぶん、イルメスの仲間だろう。粗暴な悪意を冥影円環(オプティア・サークル)で捉えている。もっとも、刺客というようなものではなくて、生意気な奴をちょっと痛めつけてやれという感じだ。
 取り囲んで袋叩きにする気だろうか。
「ねぇ、私が死霊術師だとご存知ないのかな? 大勢で取り囲むなら容赦しないよ?」
 十五、六歳の少年を、この人数で袋叩きとはえげつない。これが元領主の息子では、ライゼールは結構荒れた領地かもしれない。
「――はっ! あいにくだね、ここは墓地じゃないし、邪術師の君を守ってくれる取り巻きの姿も見えないな!」
「あなた程度を相手に、護衛なんて必要なさそうだけど」
 イルメスが怒りの目で、プライドを傷つけられた様子で、ゼルダを睨んだ。
「君、そんな風にいい気になっているようだけどね、すぐに、お終いだと覚悟しなよ! 知っているかい? 死を司る氷のヴァン・ガーディナ、君の兄上様は死神だってね! 師も召使も庭師も皆死んだ、次は君の番さ、泣き喚けよ、せいぜい、綺麗さっぱり忘れてもらうがいい! 誰だっけ、忘れたなってね!」
「――!」
 ゼルダは軽く目を見張った。その言い様を、忘れてなどいなかった。けれど、兄皇子はゼルダの前でだけ、冷酷に振る舞ったわけではなかったのか。
 イルメスが何を言っているのか、よく飲み込めなかったものの、ヴァン・ガーディナの悪い噂など、知らなかったゼルダは驚いた。
「先の皇妃様だって、皇太子殿下だって、きっと、奴に殺されたんだと思ったことはないのかい? 君の母君だろう、同腹の兄君だろう、そうさ、奴が皇太子になるのに邪魔だったからね! よくも、皇族の誇りを捨てたじゃないか? 親兄弟を(くび)り殺したお兄様に命乞い! さあ、僕にも(ひざまず)けよ、得意だろう? 奴には跪くんだろう?」
「――……」
 ゼルダの瞳が赤味を増すことに、それが危険な(しるし)だということに、イルメスは気付かなかった。
 それは、ゼルダを(とが)め続けてきた、やましさでもあったのだ。ヴァン・ガーディナの誠実さと優しさに惹かれ、心許すようになるにつれ、死に至らしめられた、愛した人々を裏切っている気持ちになって、苦しかった。
「はーっはっは! 待たせたね、お楽しみの時間だ、君、袋叩きにして、君のお兄様にこう伝えてあげるよ。『殿下の弟君が、先の皇妃様と皇太子様を謀殺したのは殿下だと、殿下など死ねばいいと恐ろしい言葉を吐きましたので、このように痛めつけまして御前にお連れしました』ってね!」
 思考が、真っ白になった。
「――おまえ!!」
 どうして、その言葉がヴァン・ガーディナを深刻に傷つけると思ったのか、それを許せないと思ったのか、わからない。
 それでも、ゼルダは怒りに目の色を変えていた。
「ぎゃあ!?」
 たとえ年長者でも、本物の死闘さえ知らない、大勢で一人を袋叩きにするしか能のない者の数人がかり程度で魔剣士をどうにかしようなど、その恐ろしさを知らないにも程があるのだ。
 剣を抜く必要さえなかった。
 冥影円環で完全に彼らの気配を把握できるゼルダにとっては、彼らはただの、連携さえ出来ない烏合の衆だ。冥魔の瞳でとらえ、同士討ちに誘い、端からのした。
「――死を司る氷のヴァン・ガーディナって、何かな? 初耳だよ、そんな話は。でも、参考になった」
御伽噺(おとぎばなし)だよ、ヴァン・ガーデン物語!」
 ほうほうのていで逃げ出そうとしていた一人が、悲鳴のように叫んだ。
「御伽噺って、童話とかの? ヴァン・ガーデン物語――」
 師も召使も庭師も皆死んだって、何なのか。あの兄皇子が、従者や召使の首をささいな粗相(そそう)で刎ねるとでも? ヴァン・ガーディナなら、笑って誰の首でも刎ねそうだという思いと、矛盾する優しい人だという確信があって、ゼルダを混乱させた。
 ――兄皇子に尋ねれば、粗相なんてしたらおまえの首も刎ねるよと、答えるに違いない。
 けれど、本当に粗相をしたら、容赦なく残酷な言葉を並べても、庇ってくれる人だ。本当は、もう、知っていたから。
 あるいは、それも、御伽噺のフレーズなのか――
  

 二階のテラスに、アデリシアとシルフィスと、二人を預けたヴァン・ガーディナの姿が見える。シルフィスはほっとした様子、アデリシアは歓声を上げて手を振っていた。ゼルダが英雄譚の主役のように悪役(アデリシア的に)をみんなのしてしまったので、興奮している。
 ヴァン・ガーディナがこの場にいるなら、ゼルダにとって最も信頼できるのは、この兄皇子だったのだ。何のつもりかなんてわからないけれど、ゼルダの冥影円環に、兄皇子がかかったことはない。
 ゼルダの心配なんて欠片もしていなかった様子で、ヴァン・ガーディナは涼しい笑みを零していた。


◆ 雪月花の物語 ◆


 随分、死者が多いな――?
 イルメスの言葉が気になり、ヴァン・ガーディナの師や従者を調べたゼルダは、ざっと調べただけでも随分な死者の多さに眉をひそめた。生きていれば、ヴァン・ガーディナを支えたはずの人々なのだ、どういうことなのか。こんなでは、ヴァン・ガーディナは孤立無援で、苦境に立たされても誰も頼れない。ゼルシア皇妃はヴァン・ガーディナを皇太子に据えたいはずだ、それならば、まさか殺すはずのない人々だったし、いったい、何者の手に掛かったのか――
 

 二人の妃と夕食後のデザートを楽しみながら、その居室でゼルダが尋ねた。
「ねぇ、ヴァン・ガーデン物語って知ってる? 死を司る氷のヴァン・ガーディナって、聞いたことあるかな?」
 途端、アデリシアが目を輝かせた。
「アデリ知ってます! でも、死を司る氷のヴァン・ガーディナだなんて、ゼルダ様、誰に聞いたんですか? ヴァン・ガーディナ王子はそれは素敵な方で、雪の化身で、乙女の夢なんですよ♪」
 絵本を持ってきますね! と、部屋に走って、すぐに戻ったアデリシアが、興奮した様子でゼルダの手に豪華な装丁の絵本を押し付けた。
 ヴァン・ガーデン物語の表紙は白亜の城の大階段で、優しい桜色のお姫様に、ヴァン・ガーディナのような王子様が手を差し伸べる、幻想的な絵だった。
「もしかして、この王子様、ヴァン・ガーディナとかいう?」
「ええ、そうですよ! それでね、愛するお姫様が――」
 やっぱりか。似合い過ぎではある。
「ゼルダ様です♪」
「――はぁ!?」
「うふふ、花の化身のお姫様は、ゼルダのお花の化身ですもの!」
「ちょっと、何それ、聞いてないよ!」
 だから、いつかゼルダに見せたかったのだと、アデリシアは大喜びだ。
「ヴァン・ガーデン物語って、神話から創られていて、御伽噺(おとぎばなし)にはたくさんの種類があるんですけど。さっき、ゼルダ様が仰ったのは『冬女神の死の庭園』だと思います。でも、アデリは断然『雪月花の物語』と『庭園の崩落』がお勧めですし、ヴァン・ガーデン物語といったら、ふつうはアデリがお勧めした御伽噺のどちらかなんですよ。『冬女神の死の庭園』なんて、かなり邪道です! モテない殿方のひがみだと思います!」
 ――ぶっ!
 まあ、言ったのは確かに『モテない殿方』だった。
「『雪月花の物語』では、月の女神の嫉妬を受けて、お姫様が呪いを掛けられてお花にされてしまった姿がゼルダの花で、お姫様は二度と、雪である王子様とは会えなくなってしまうんです。でも、ゼルダ姫は愛しのヴァン・ガーディナ王子に会いたい一心で、雪が消える前に早咲きするんですよ! すっごく、切ないでしょう!?」
「ぐはっ!」
 いやだー。ヴァン・ガーディナに会いたい一心で早咲きなんてしたくないー。それとか切なくないー。
「雪と花が、あまり長くは共存できない運命ですから、悲恋になりがちみたいです」
 あやしい。アデリシアが悲恋ばっかり勧めてるんじゃないの。『冬女神の死の庭園』は悲恋じゃない。
 アデリシアの絵本にもあったので、ざっと読んでみたところ、厳冬の地は、欲深き人間に生命を許さない聖地ゆえに美しいという物語だった。創世の遺産ヴァン・ガーデンを守護する冬女神が、その息子、氷と吹雪のヴァン・ガーディナに命じて人々を残酷に退ける様子が語られてゆく。物語の最後は雪解けの庭園で、ゼルダの花が咲き乱れ、動物達が春を謳歌する。決して、邪道な感じはしない。これをモテない男のひがみとするのはどうか。『死を司る氷のヴァン・ガーディナ』という言い様がモテない男のひがみなのか。
 シルフィスが読みたそうに絵本を見るので、アデリシアに許してもらって手渡すと、シルフィスは宝物のように絵本を開いて、丁寧に読み始めた。庶民には、絵本は高価だ。憧れても、文字が読める頃には孤児となっていたシルフィスは、手に取ることが出来なかったのか。今度、贈り物にしてあげよう。
「それでね、ゼルダ様?」
 アデリシアが話の続きを聞かせようと、ゼルダの袖を引いた。
「涙なしには読めないのが『庭園の崩落』なんです! どんな病も癒す薬草を探して、冬女神の庭園ヴァン・ガーデンに迷い込んだ美しい娘を、雪精の王子様が助けて下さるの。でも、息子である王子様が恋に落ちたと知った冬の女神が、王子様を惑わす邪悪とみなして娘を殺そうとして、王子様は娘を庇って、冬の女神を滅ぼすと王子様も消えてしまうのに、滅ぼしてしまうんです! もお、アデリシア泣けて泣けて……! それで、世界で最も美しかったヴァン・ガーデンは崩落して、守り抜かれた娘は悲しくて、寂しくて、神様に願ってお花にしてもらうんです。崩落したヴァン・ガーデンを慰めるために」
「……ああ、そう……」
「ゼルダ様、やっぱり、お姫様の御名じゃ嬉しくないですか?」
「うーん、それもあるし、兄上にヴァン・ガーディナっているんだよ。なんか凄くヤだ、あの人と悲恋とかありえない。ゼルダを虐める意地悪な継兄(ままあに)とかのが似合う」
「まあ!」
 夜会にいらしたお兄様ですか!? と、アデリシアが夢見るような目をして手を組んだ。
「きっと、それなら神話の方から取ったんですね。御伽噺だとお母様が悪役になってしまいますもの。神話では、冬の女神ゼルシアの美しい庭園がヴァン・ガーデンと呼ばれる場所で、長い冬の間、庭園に降る雪が息子のヴァン・ガーディナ、短い春の庭を彩る可憐な花が娘のゼルダなんですよ。女神様は月に象徴されますから、雪月花が揃う、雪解けの月夜が最も美しいヴァン・ガーデンなんですって♪」
 ――そうくるか! それも素敵に嬉しくない!
 とはいえ、ゼルシアも似合いすぎではあった。授かった真っ白な子供に、親が神話から取ってつけたのだろう。
 そ れよりも、ゼルダの命名はもとよりヴァン・ガーディナの命名も皇妃アーシャだったと聞いている。亡き皇妃が何を期待して皇子にゼルダの名を与えたのか、もの凄く悩ましかった。泣きたいし。
 勘弁して下さい、愛しの母上様と、ゼルダは胸のうちで絶望の涙を流したのだった。――合掌。
 
 
 翌日、兄皇子の方は知っているのかと思って、ゼルダは何の覚悟もなしに尋ねてしまった。
「兄上、ヴァン・ガーデン物語ってご存知ですか?」
「いや? 知らないが、どんな物語だ?」
 そんな話を振れば、興味を持たれて当然だと、失言に気付いても遅かった。
 王子様とお姫様の恋物語です、なんて、答えられるはずがないゼルダは、返答に窮した。
「いえ、不適切でした。ただの童話なので、執務を――」
 途端、ヴァン・ガーディナが失笑した。
「おまえって、私の想像の斜め上を行く墓穴の掘り方するな。何だか知らないが、知られたくない話なら、そういう時は鎌を掛けるんだよ。まぁ、これで一つ賢くなったな? その物語はぜひ探してみよう」
「いえ、ちょっとやめて下さい! ただの童話ですから!」
「私の名前みたいだし、おまえがどうして知られたくないのか、兄上様はぜひ知りたいから諦めなさい」
 あぎゃー!
「ちょうど、そろそろ飽きてたんだ。それ楽しみに、真面目に謝罪しようかな」
「謝罪って、兄上さっきから、ひと言も謝ってないじゃないですか!」
 先日の夜会で、ゼルダが名家の子息を何人ものしてしまったので、その後始末に追われているのだ。元領主イクナート派の者達が、徒党を組んで直訴にやって来たためだ。
 しかし、兄皇子ときたらゼルダを傍に控えさせ、口を挟むことは禁じた上で、とんでもない対応をしている。
 一人ずつ通して訴えを聞いては「貴殿の子息のしてくれたことは、この私がゼルダを陥れようとして、失敗したという風評を招くでしょうね。貴殿も、そのおつもりで?」とか「十五歳のゼルダを成年の者が大勢で取り囲んでおいて、死者もなくのされるなんて、大失態だな。ゼルダの人望が高まるよう仕向けた貴殿に私の(ため)と仰られても、私がどんな感情を抱いているか、あなたのご想像では?」とか、年長の権力者を相手に淀みなく威圧するわ脅迫するわ、あげく、退室させた後にのたまう。
「駄目だな、使えない。ゼルダ、お前の目で見ても私に威圧されていたよな、今の奴? 十七歳の皇子に威圧されてどうするんだ」
 兄皇子に言わせれば、謝罪というのは、面倒を見てくれる相手に対してするものらしい。まだ十七歳の皇子なのだ、こんな時には上から物を言うべきだし、騒動の収拾を引き受けて、青二才に模範を示すべきだろうと言う。誰にもそれが出来ないから、謝らないだけだよと。
「ですが兄上、あなたは瞳に魔力があるから別格ですよ、冥魔の瞳、使っていないでしょうね?」
「そんなの、おまえが見極めろ。冥魔の瞳の魔力は意識しなくても働くじゃないか、私の知ったことじゃないよ」
 いずれ、兄皇子が冥魔の瞳を使っていたとしても、それに負けるような手合いでは、見込みがないのは確かだ。
 何か言う前に、ぐうぅきゅるると、盛大にゼルダのお腹が鳴った。
 いつもなら、私邸で食卓を囲む時間だ。領主館でも食事は(まかな)われるものの、ゼルダは兄皇子より先に食べてはならないと、厳しく言い渡されている。今夜は、ずっと兄皇子に付き従って、我慢しているのだ。『私がお腹を空かせているのに、おまえだけ食べるなんて許せないな』と笑顔でのたまわれてしまっては。
 ゼルダの後始末をしてもらっているのだから、文句も言えない。言えないのだけれど、空腹で、とても切ない。
「おまえ、情けない顔だな?」
 ヴァン・ガーディナがにやにやしながら言った。兄皇子の胃袋はどうなっているのか。食べ盛りのゼルダには、兄皇子がどうして平然としているのか、もはや理解不能の域だった。
「……お腹が減りました……」
 泣きそうだ。
 仕方なさげに立った兄皇子が、食堂に用意されていた食事を一口ずつ確かめて、許可した。
「ゼルダ、食べたら帰って構わない。残りの奴は私が一人で片付けてやるから、優しい兄上様に感謝しろよ?」
「えぇっ! そんな、私の不始末なのにあなたに押し付けて帰れないでしょう! 兄上こそ、お帰りになられて下さい。あと二組くらい、私が――」
「おまえに任せたら、また乱闘騒ぎにするんじゃないのか」
 ――ぐふっ、それとか無限ループだ。
「あの、兄上せめて、夕食はきちんとお取りになられて下さい」
「満腹になると、雰囲気が緩むだろう? 相手は『権力の闇に巣食う魑魅魍魎ども』だぞ、経験が違うからな。侮りすぎると、痛い目を見るかもしれない」
 余裕の笑顔で対していても、ヴァン・ガーディナがそれなりに真剣なのだと知って、ゼルダは少し意外な気持ちになった。
 兄皇子が失敗するなど、ゼルダには想像もできないためだ。
 けれど、兄皇子の方は謙虚にも、食事を取ったくらいで失敗する可能性が高くなると判断しているようだった。
 たぶん、ヴァン・ガーディナの判断が正しい。相手はゼルダにのされた若いのじゃなく、その親御だ。仮にも、それぞれの方法でライゼールを牛耳ってきた連中なのだ。ヴァン・ガーディナなら失敗する気がしないゼルダの方が、おかしいのだろう。
 それとは、また別に気になることがある。兄皇子がしているのは毒見ではないのかと。
「でしたら、食べたらやっぱり、最後まで控えます。睨みを利かせてる時にお腹が鳴らないように、食べさせて頂きますけど、すぐ済ませますから!」
 ヴァン・ガーディナは嬉しそうにしたくせに、憎まれ口を叩いた。
「私も疲れた。早く帰りたいからな、おまえ、もたもたするなよ」
「はい。――私でも控えた方が、少しは、お役に立ちますよね?」
「愚弟が息子さんをのしてしまいましてと、おまえに頭を下げさせるのと、私が頭を下げるのとじゃ、だいぶ違うからな」
 素直じゃないけれど、少しと言わず、だいぶ役に立つらしい。
「だ・か・ら! あなたはひと言も謝ってないし、私にも頭下げさせてませんから!」
 ヴァン・ガーディナは心地好さげに笑って、食堂を後にした。
 
 
 ほんの一月前まで、アーシャがどうして、ゼルシアを信じたのかわからなかった。
 けれど、兄皇子の誠意と優しさに強く惹かれるゼルダには、皇妃になる前の、アーシャと懇意にしていた頃のゼルシアが仮にこんな風だったとしたら、もはや、母妃の気持ちがわからないとは言えなかった。
 ヴァン・ガーディナは冥影円環にかからない。それでも、アーシャの死を笑っていた。
 愛情や信頼を失いたくないと思う感情が欠落しているとしか――
 あの人は、ゼルダが死んでも笑っているのだろうか。ちょっと都合が悪いだけで、悲しまないのかなと思うと、この想いには価値がないのかなと思うと、何だか、ひどく寂しかった。


第二節 フォアローゼス


 ライゼールに移って、一月半が経つ頃のことだった。
「動くな、命が惜しければね――」
 黒覆面に黒眼鏡をかけた、見るからに怪しい二人連れが、領主館の前をうろうろしていた。
 背の高い方の背後に回り、抜き身の剣を突きつけたゼルダを振り向き、小柄な方の不審者が、可愛らしい少年の声を上げた。
「うわ、待って! ゼルダ兄様、僕だよ、マリ、マリ! そっちはクローヴィンス! うわぁん、だからこんなカッコやめようって言ったのに、ヴィンスが馬鹿なんだもん〜!!」
「っさいな! ここまで皇子だってバレなかっただろ! 怪しまれたっていーんだよ、そっちがバレなければ!」
「いやだよ! じろじろ見られてさぁ!?」
「――て、兄上!? マリなの!?」
「久しぶりだな、ゼルダ」
 第三皇子クローヴィンスを名乗った不審者が、しっと指を一本立てて、にやりとした口調で告げた。
「お忍びだ、極秘で邸内に入れてくれ。ガーディナとも話したいが、とりあえずおまえだ」
 
 
 貴公子然とした、優麗な風貌の皇子が多い六皇子の中にあって、クローヴィンスは異彩を放つ。日焼けした浅黒い肌や精悍な顔立ちは、いかにも武官という風情だ。性格もかなり荒っぽい。もっとも、クローヴィンスの強引さは、軍事国家の皇帝然とした威風と知性ならしっかり備えたもので、良く言えば頼りがいや統率力を感じさせる。
「俺とマリは、皇太子はヴァン・ガーディナで構わないと思ってる」
 客間の椅子に掛け、泰然と構えたクローヴィンスの第一声に、ゼルダは振る舞おうとした紅茶のカップを取り落とした。
「ゼルダ、父上は生まれた時から、おまえを皇帝の補佐にするつもりで仕込んでるだろ。父上がおまえの指導を言い渡すのが、父上が皇太子にしようと考える皇子だぞ」
 クローヴィンスの指摘に違わず、アルディナン、ザルマーク、ヴァン・ガーディナ、皇太子も同然の兄皇子たちに、ゼルダは父皇帝の命令で預けられてきた。事の真相を知らずに観察すれば、そう取れないことはない。
「おまえもガーディナも知らないだろう、俺も知らなかった。おまえ達が、五歳の頃から帝王学やってたなんてな」
「――まさか! 兄上は修めていないとでも!?」
 我が意を得たりとばかり、にやりとしたクローヴィンスが断言した。
「そのまさかだ! 恐れおののけ、自慢じゃないがな、俺は三日前に文字の綴りを覚えたばかりだぜ!」
 ゼルダは間髪入れず、クローヴィンスの戯れ言を冷たく一蹴した。
「兄上、そんなわけないでしょう」
 クローヴィンスは初等部から寄宿学校に通っているので、ゼルダとの面識はあまりない。それでも、帝国屈指の名門校に優秀な成績を残したと聞いているのに、文字が綴れないわけはない。
「マジだって。俺、文字がみっしり並んだ教本なんて、見ただけで眩暈(めまい)がするんだぜ!」
「わぁ、本当!? 十八歳まで文字も書けずに生きてきたなんて、前から思ってたけど、ヴィンスって、ただ者じゃないよね!」
 『みっしり』じゃなくて『ぎっしり』だよと訂正しながら、真に受けたマリが感嘆すると、それまで熱心に本当だと主張していたクローヴィンスが、手の平を返して馬鹿にした。
「嘘に決まってるだろ! 何でおまえが騙されてんだ、恋文のやり取りができないだろうが!」
「そういえば、ヴィンスってやたらモテるもんね、ゼルダ兄様とどっちがモテるのかな?」
 慣れているのか、マリは気にしない。
「それは、俺だな。ゼルダの後宮はいか様だ、よりによって聖女系の綺麗なのさらいやがって、どこの魔王見習いだ? ゼルダ、皇子様親衛隊みたいな取り巻きもいなくてなぁ、綺麗なのさらって後宮にねじ込む真似は、モテ皇子のすることじゃないぜ!」
「だけど、ヴィンスもどうするとあんなにモテるの? こんなに雑な性格で、デリカシーのかけらもないのに。お妃様のクリシーヌなんて、ボランティアの鑑なんだよ! 性懲りもなくヴィンスがやんちゃして、やれ停学だ退学だって騒ぎになる度に、クリシーヌが謝って回るんだもの!」
 スゴいんだよと、兄皇子の取り巻きについて、マリが語った。正妃と側室に迎えているのは、ごく一握りなんだとか。
「馬鹿マリ、おかげで俺は、クリシーヌに頭が上がらないだろうが!? 俺の後宮を牛耳ってるのは俺じゃなくて、クリシーヌなんだぞ!? あり得ない悲劇だ!」
 それ、あり得ないのはクローヴィンスの方だろう、何やってるんだか。
「やれやれ、ここにも顔騙しが」
「あぁ? なんだゼルダそれ、俺の顔が素敵だってか」
「ええ、そんな感じで。鍛え抜かれたスタイルも、男性として抜群ですよ」
 クローヴィンスといい、ヴァン・ガーディナといい、顔で女性にもてはやされてるなと、ゼルダは深く嘆息した。
 カムラの女性には見る目がない。――自分もそうだとは思わないあたりが、ゼルダなのだった。
「ま、皇子様の優しさはな、もったいつけて、ここぞという時にチラ見せしろ。女の大半はな、団体行動でちょっと手貸してやっただけでも、異性を意識するものなんだぜ? あなたは女性だから大切に扱いますって、態度で示せ!」
「えぇ!? ヴィンスってば、そんなことしてたの!? それで皇子様親衛隊なの!? なんてやり口だ!」
 そういうのって罪つくりだよと、マリはお叱りだ。
「あのなぁ!? お子様ランチ!」
 頭痛を覚えたゼルダが額を押さえて、そもそもの話の続きを促しかけると、それを見越したようにクローヴィンスが話を戻した。
「さて、本題だな。帝王学やら宮廷儀礼やら、とっくに修了してるヴァン・ガーディナと俺が競うためには、死に物狂いで、俺もそれを修めないとならない」
 傲慢な笑みを浮かべるクローヴィンスは、それに怯んではいないようだった。
「ゼルダ、そうして欲しいか」
 どう、答えられただろう。現在、皇位継承権第一位のクローヴィンスが皇太子を望まないなど、ゼルダは考えもしなかったのだ。
 皇太子を望めば、その地位が確たるものになるほど、皇妃に命を狙われることになる。それと承知で――
 ゼルダが浮かべた苦渋の表情に、クローヴィンスは察したようだった。
「皇妃様に狙われるとかは、気にしなくていいぞ。俺も、皇妃様のなさりようは気に食わない。そういう意味では、ヴァン・ガーディナに皇太子を譲るのはどうかと思うけどな」
「兄上、知って――!?」
「ヴィンスでいい。俺はこれでも皇子だし、テッサリアに仕込まれたんだ、知ってるぜ」
 テッサリアはクローヴィンスの母妃で、元は女官長を務めていた女性だ。
「――ヴィンス、それは、気にするなと言われたって!」
 クローヴィンスの隣から、マリが大丈夫だよとウィンクした。
「ゼルダ兄様、ヴィンスの命は、割と安泰なんだ。父上の子じゃないって噂があるし」
 驚いて、ゼルダはクローヴィンスを凝視した。そんな噂は初耳だ。
「ゼルダ、言っとくが俺の父上はハーケンベルクの皇帝陛下だぜ、間違いなくな。テッサリアはあれで一途だからなぁ。『あたしはあんたに最高の遺伝子を獲得してやったわ、ハーケンベルクのね!』って、耳にタコが出来るっつーの」
「でもテッサリアは凄いよ、ヴィンスと一緒でめんどくさいこと大っ嫌いでさ、ヴィンスの父親が皇帝陛下じゃないなんて不名誉な噂が立ったら、かっこよく啖呵(たんか)切ったもんね! 知ってる? 『ヴィンスの父親? 誰だったかしら、あたしに夢中の男がたくさんいすぎて忘れたわ! でも、陛下が認めていらっしゃるなら、陛下に違いないわね? 伝統あるフォレスト家のテッサリアは逃げも隠れもしないわよ、気に入らないなら陛下に伺いなさいな! ついでに、こんなところまでご苦労様ですこと、ヴァルキュ リア霊峰の湧き水をどうぞご堪能なさって♪』って、人の足を引っ張るやつらに、冷水ぶっかけたの! 伯爵様でも侯爵様でもお構いなし! しかも、その翌日には陛下が大輪の薔薇の花束抱えて、テッサリアの別荘にいらしたんだよ。ほんと、すっごいよねぇ♪ テッサリアはアーシャ様とは別の意味で伝説だよ」
「それ、凄いな。ていうか、テッサリア様のこと、何でマリまで呼び捨てなの?」
「えっ……、えぇと、おかしいかな? だって、ヴィンスがテッサリアって呼ぶんだもん。テッサリア、僕がテッサリアって呼んでも気にしないよ」
「ゼルダ、堅いこと言わんでいい。俺もテッサリアもめんどくせぇのは嫌いだ。おまえも、畏敬と親愛を込めてテッサリアと呼んでいいぞ。ただし、敬称は略しても、敬意は略すなよな」
 ゼルダは神妙に頷いた。
「いずれ、テッサリアが伝説だとしてもだな。俺が妾腹なのは揺るぎのない事実だ。いくら最年長の皇子だって、正嫡のガーディナやゼルダを差し置いて俺を皇太子にとか、父上は気でも違ったんじゃねーかと思ったぜ。だが、俺は悟ったんだ、父上の本音ってゆーの? 悪の高笑いが聞こえたぜ? 『ハーッハッハッハ、ヴィンス! さぁ、この父の名に恥じぬ教養を身につけるため、あがき苦しむがいい! 帝王学全二十六巻、完璧に修了したあかつきには帝位をくれてやろう!』だぜ!? 俺の帝王学の書物の山は、十八年間、書棚の肥やしだったのに! こんなもん修める気になるガーディナとゼルダはどうかしてる、称賛すべきイカレ具合だ、褒めてんだ俺は」
「ヴィンスったら大袈裟じゃなく、書物は読む気ないんだよ。歴史書のひいおじい様の肖像画とかに落書きしてて、テッサリアにすごい大目玉喰らってたもの。しかも、反省したかと思ったら、こないだなんて僕の本にまで変な落書きしたんだよ!? ひどいんだから、もう最悪だよ! よりによって神聖なカムラ法典にひわいな落書きだなんて! 無駄に上手いから余計に腹が立つよ!!」
「――それは、なんていうか、ヴィンスにちょっと師事してみたいな
「ゼルダ兄様ぁ!!」
 マリが可愛らしく、ほっぺたをぷうと膨らませて怒った。
「おぉ、ゼルダはやっぱり話がわかる。いか様でも後宮持ちはお子様とは違うな
 いか様ゆーな。
「まぁ、それでも、俺はガーディナに勝てねぇとは思ってねぇけどな。ゼルダ、おまえがどうしても望むなら、俺は皇太子を狙ってやるし、これからガーディナにも会ってみてだな、俺の剣を捧げるにふさわしくねぇ奴だったら、ゼルダ、俺はおまえが皇太子になるのを支持してやってもいいんだぜ?」
「えぇっ!? ちょっと、何で私なんですか!」
「おまえな、何でじゃねぇだろ! 正嫡の皇子のくせに、皇帝になりたいと思ったことねぇのか!」
「あるわけないでしょう、優秀で立派な兄皇子が四人もいるのに! あ、ヴィンスは微妙だと会ってみて思ったけど!」
 だいたい、どうしてヴァン・ガーディナに勝つ気なのだろう。この長兄、帝王学の全二十六巻と言わず、第一巻も修了できないんじゃないの。
「ヴィンス、貴方が勝つ方法は?」
「ガーディナは優秀らしいが、統率力ねぇだろ? 致命的だぞ、奴がそれを克服しない限りは、正攻法でいい勝負だな」
 目から鱗が落ちるとは、このことか。
 ヴァン・ガーディナは決して、他人前に立てないわけではないから、ゼルダの目には盲点だったのだ。
 兄皇子が何かを主張したり、望んだり、民衆を統率して事業を成し遂げたりしたことは、指摘されてみれば、ゼルダの記憶には皆無だった。なぜ、いつもゼルダにやらせるのかなと思っていたのだ。まさか、クローヴィンスの言う通り、出来ないのか。そんな馬鹿な、あの優秀さで出来ないわけがない、怠慢じゃないの?
「俺も、勝ちに行くなら、人の話を聞けって言われるのを何とかしねぇとな。だから、ガーディナがいい奴だったら、皇帝になろうと努力するのがまず、めんどくせぇだろ?」
「聞きなよ、それは!」
 マリが嘆いた。なるほど、書物に目を通すのも、他人の話を聞くのと同じことだ。目を使うか耳を使うかの違いに過ぎない。どちらも面倒くさいと。
 クローヴィンスは人の話を聞くのが嫌いで、ヴァン・ガーディナは人に話をするのが嫌い、なんて我が侭な皇太子候補たちなのか。
 けれど、ヴァン・ガーディナは話術そのものは巧みだし、観衆の視線を独占しながら、優雅に踊ることさえ出来るのだ。統率だけが出来ないなんてこと、あるだろうか。やっぱり、怠慢じゃないの?
「ゼルダ、誰か来ているのか?」
 
 
 話し声を聞きつけたのだろう、顔を見せたヴァン・ガーディナが、裏切り行為を目撃してしまったように、その表情を凍りつかせた。
 ゼルダはしまったと思ったけれど、もう遅い。ゼルダだって、彼だけをのけ者にして、残りの皇子達が歓談していたら傷つく。まして、クローヴィンスとヴァン・ガーディナは競っているのだ。ゼルダが裏切り、ヴァン・ガーディナの孤立を狙ったようにしか見えないだろう。何を言っても言い訳がましいし、疑心暗鬼に囚われたが最後、ヴァン・ガーディナは他者の言葉なんて信じない。聞こうともしないのだ。どうしたら――
 ゼルダとヴァン・ガーディナの視線が絡み、一触即発の緊張が走ったことなどお構いなしで、マリが歓声を上げた。
「ガーディナ兄様!」
 マリの明るく澄んだ碧眼が、屈託のない歓迎と憧憬の色を湛えて、ヴァン・ガーディナに吸い寄せられた。
「わぁ、ガーディナ兄様、すっごく綺麗! 僕、こんなに近くでガーディナ兄様を見るのは初めてだもの。ヴィンスと違って、優しそうで素敵だね。いいなぁ、ゼルダ兄様♪」
 ――て、第一声がそれなのォ!?
 さすがのヴァン・ガーディナも、マリの奇襲には絶句していた。この兄皇子が途惑うのを、ゼルダは初めて見たように思った。
「マリ……? そちらは、兄上とお見受けしますが?」
「おう、邪魔しに来てやったぜ!」
「僕たち、ガーディナ兄様を皇太子に立てられないかと思って、相談に来たの。ヴィンスが馬鹿なことばっかり言うから、ちっとも話が進まなくて、ゼルダ兄様のお返事がまだなんだけどね。ガーディナ兄様も、座って座って♪」
 マリが笑顔で椅子を引く。天然なのか配慮なのか、どちらだとしても、ゼルダは感心するしかなかった。それなのに、何か狭量な感情が胸を掠めた気がして、ゼルダは必死にそれを否定した。平たく言えば、私の兄上に馴れ馴れしくしないでみたいな、そんな感情だったからだ。
 そんな馬鹿な。
 欲しければのしをつけてあげるよ、くらいの気持ちだったはずだ。断じて、ヴァン・ガーディナに手懐(てなず)けられてなどいない!
「マリ、おまえなあ! 何をいきなりバラしてんだ、バラしちまったら、ゼルダが本音で答えられねぇだろが!」
「何、言ってるの! ガーディナ兄様だけに隠したら、ガーディナ兄様が悲しくなるじゃないか! ゼルダ兄様だって、僕たちが抜き打ちで訪ねたのに、ガーディナ兄様に誤解されちゃうんだよ!? ゼルダ兄様の答えは『即答できない』でいいじゃないか。続きはガーディナ兄様も交えて、みんなで話し合おうよ」
 可愛らしい見かけによらず、マリはきっぱりとクローヴィンスに主張した後で、ヴァン・ガーディナに微笑みかけた。
「ガーディナ兄様、ゼルダ兄様はね、ガーディナ兄様を皇太子にするのはいやだって、即答出来なかったんだ。それにね、ヴィンスがゼルダ兄様を支持して皇太子に推薦してもいいって言ったら、優秀な兄上がいるのに何でって、ヴィンスは微妙らしいから、ゼルダ兄様の言う優秀な兄上って、ガーディナ兄様のことなんだ」
「うわ、マリちょっと! 違うから、それ違うから!」
「えぇ? でも、ゼルダ兄様、そう言ったよ?」
 何これ、何この無邪気かつ凶悪な強襲――!? 何この弟皇子、どれだけ慧眼(けいがん)なの!
 クローヴィンスがにやにやしながら言った。
「なぁ、どうよ? 本音を言うとだな、俺の本命はマリなんだよ。俺は断然、皇太子はマリがいいと思うんだが、マリはお子様だ、いやがりやがんだ」
 嘆かわしいぜと、クローヴィンスが大仰に額を覆う。
「ヴィンス、やめてったら! 絶対やだって言ったじゃないか! もう、ほんとそういうこと言わないでよ!」
 マリが泣きそうになって、目を潤ませてヴァン・ガーディナとゼルダを交互に見た。
「ねぇ、ガーディナ兄様もゼルダ兄様も皇太子はいや!? やっぱり、なりたくない!? 僕、ガーディナ兄様かゼルダ兄様なら断然、応援するよ!」
「うん? マリ、兄上が皇太子になるのはいやなの?」
 やや、雰囲気を緩めたヴァン・ガーディナの問いに、マリは涙目のまま、力いっぱい頷いた。
「いやなの! 僕が皇太子になるのの次にいやなの! 全力でいやなの!!」
「マリ、なんつぅ恩知らずかましてくれてんだ!?」
「何の恩か言ってみなよ! 奴隷待遇の恩!? 無神経の恩!? おまえのものは俺のもの、俺のものは俺のものの恩!?」
 わっと顔を覆って、さめざめとマリが泣く。
「おう、そんな感じで」
 しかも、そんな感じなのか!
「これだもの!」
 わっははと笑ったクローヴィンスが、ひょいとマリの口に飴玉を投げ込んだ。
 何だかんだで仲がいい。クローヴィンスは仮にも、マリが望めば、マリを皇太子にしたいと言っているのだし。
「マリ、私は皇太子になっても構わないよ」
 微笑んでヴァン・ガーディナが告げた言葉に、マリは諸手を挙げて喜びをあらわにした。
「本当!? よかった、よかったぁ! ガーディナ兄様なら、きっと、立派な皇太子になられるよね! 僕、全力で応援するからね!」
「あのなマリ、ガーディナの何を知ってて言うんだ、おまえは」
 クローヴィンスがマリの襟首を捕まえて突っ込むと、マリは綺麗な碧眼で不思議そうに兄皇子を見て、真剣に答えた。
「顔」
『ぶっ!!』
 クローヴィンスとゼルダが同時に吹いた。
「えぇ、吹くところ!? だってほら、ガーディナ兄様は最初まず、ゼルダ兄様に悲しいお顔を向けたでしょう? ゼルダ兄様を信頼なさってるから、僕達のことより、ゼルダ兄様に裏切られたかもって、ショックを受けるんだよね?」
「マリ」
 ヴァン・ガーディナがやや冷酷な表情を見せ、指を口許に一本立てて、お黙りとマリに微笑みかけた。
 マリがごくんと唾を呑んで、ヴァン・ガーディナの真似をして、指を口許に一本立てる。
「ごめんなさい、ガーディナ兄様。えっと、ゼルダ兄様のことも、しー?」
「ゼルダのこと? マリ、どう見えたの?」
 興味を示したヴァン・ガーディナが、今度は、ゼルダがマリを黙らせようとするのを優雅に阻止して尋ねた。
「ご自分が叱られることより、ガーディナ兄様を悲しませたこと、気になさってるお顔に見えたよ?」
「――ふむ」
 ギャース!
 ゼルダは痛恨の一撃を喰らって、マリに打ち倒された。
「ま、俺も何をしでかすかわからんと思われてる節もあるが」
「今、まさにしでかしてるよね」
 慣れているのか、クローヴィンスが気にせず仕切りにかかった。
「俺の本命マリが、皇帝はやだっつーからな。んで、根拠がイマイチわからねーが、ガーディナには『マリ様のお墨付き』が出たからな。俺はマリの勘を信じるぜ。ガーディナ、おまえが皇統を継ぐなら、俺は元帥の地位に挑戦するつもりだ。いつか、伝説に残るような剣匠になってだな、俺がおまえを守ってやるぜ!」
「僕はね、天文学と建築学を修めてるの。いつか、何千年も残るような、暦を司る宮殿を建てるよ!」
「マリは司法官がいいと思うんだがなー」
「いやだよ! もお、ちょっと聞いてよ、ガーディナ兄様、ゼルダ兄様!? ヴィンスったら、十三歳だっていうのに、カムラ法典だって修めてないのに、僕のこと司法官にしちゃったんだよ! 深刻な話がたくさん回ってくるし、僕に法廷の最高責任者として裁けとか、信じらんないよ!」
 マリ、涙目だ。こっちはこっちで、兄皇子のご無体に泣かされているらしい。
【挿絵】N人様 「いやぁ、うけたぜ。初日のマリ、法廷にねこさんリュックで来やがったからな。腹がよじれた」
 ――ぶふぅっ!
「ひどいよ、おかしいって誰も教えてくれなかったのぉーっ!!」
 つい、ヴァン・ガーディナでもゼルダに対して同じ反応しそうだなぁとか思ったのは内緒だ。ゼルダがうさぎさんリュックでも背負って来たら、一生、辱めるネタにするだろう。さすがは兄弟、血は争えないとはこのことだ。
「ねこさんリュックはともかくだ。マリのお裁きは見事だぜ! 俺は断然、司法官はマリがいいね、太鼓判だ。こいつは法に振り回されねぇ、法を使える奴だ」
「意味わかんないよ! ヴィンスは、僕ならヴィンスの無法を罪に問わないから僕がいいんでしょ!」
「おう、マリ、愛してるぜ♪」
「ヴィンスを見逃す度に、僕、物凄い悪口叩かれるのぉーっ!!」
「マリ、悲惨だね」
「悲惨」
「だけどな、ゼルダ。俺は本気でマリの裁きが好きだぜ。まだ今は、これまでの司法官と違うからガタガタ言われるだけだ。絶対、慣れればマリの司法区は暮らしやすいぞ」
「そんなのヴィンスだけ」
 マリ、もはや卑屈だ。
「なに、心配しなくても、ガーディナが皇帝になってくれるだろ。ガーディナは俺と違って、いやがるおまえを無理強いで法王になんてしないんじゃねー?」
「そう、そうだよね! ガーディナ兄様、お願い、ヴィンスなんてけちょんけちょんのぎったぎたにして! 僕は天文と建築を学んで、気象を読んで災害被害を抑えたりとかね、水利設備の充実とか、そういうことして、毎年豊作にして、皆に喜んでもらいたいの! ガーディナ兄様なら、僕に、そういうことやらせてくれるでしょう!? ヴィンスみたいに司法官無理強いしないでー! 僕は、僕はガーディナ兄様の味方!!」
「おぉ? マリ、じゃあ滅茶苦茶なお裁きすればいいだろ? 女奴隷を犯して殺して埋めたよーな奴、奴隷は人間じゃないからって無罪放免したり、ちょっと俺の悪口を言っただけの奴、不敬罪で死罪にしたり、どうよ? おまえを司法官に任命した俺は、民衆からも官僚連中からもごーごーの非難を浴びて、評価なんて素敵に失墜するぞ、バッチリ再起不能だぜ!」
「できるわけないでしょ! それじゃ、関係ない、僕なんかに裁かれる人たちが可哀相じゃないか!!」
 クローヴィンス、超えげつない。どれだけご無体なのか。
「マリ馬ぁ鹿。慣例通りじゃねーかよ。そんなだから、おまえ、法も秩序も知らないって言われるんだぞ!」
「その法解釈おかしいでしょ! どれだけ歪めてるの!?」
「司法官が是といえば是なんだよ」
「駄目だったら!」
 ふざけていても、クローヴィンスは本気だろう。さっきから、マリの慧眼には目を見張るものがある。
 ひとのエゴと痛みがぶつかり合う法廷で、苦しむ人々を断罪しなければならない司法官は、心ある人間にとってはつらい。
 けれど、それぞれの気持ちや立場を汲める、心ある人間こそが、人々に望まれる司法官なのだ。
 マリが法を司れば、マリが人々の痛みや苦しみを引き受けることになる。マリはつらいだろうけれど、その保護下に置かれる人々は、感謝するだろう。
 さらに、マリを皇帝に立てるなら、法王として立てるのが賢明だろうし、カムラに法王が立ったことはないけれど、マリなら帝国を平和に公平に、よく治めるかもしれない。
「ほら、いいだろ? マリって司法官向きだと思わねぇ? この責任感、自己犠牲の精神! 真似できねぇよな。前任の司法官は、俺が例に出したよーな奴だったんだぜ!」
 ――ぶっ!
 父皇帝もたいがい、問題のある領地を選り抜いて、それぞれにあてがってくれたのか。試験のついでにどうにかしろと。
「そんなの、僕じゃなくたってあの人よりマシな裁定はするよ!」
「しねぇんじゃねー? あいつと違う裁定したら、奴の派閥に睨まれて、重箱の隅つつきまくった悪口流されて、今のおまえみたいになるじゃねぇかよ。良心に誠実に裁定してるだけなのに、身内びいきだ無能だ不公平だ世の中を混乱させる駄目な司法官だって、噂流しまくられるんだぜ? おまえじゃなきゃ、それでも良心に従った裁定続けたりできねーよ。フツーは心が折れるって」
 十三歳のマリにそれ耐えさせるか。
 状況は想像にかたくなくて、ゼルダはにわかに、マリに親近感を覚えた。兄皇子の適当な偏見で、冗談じゃないことまで強いられる弟皇子ってつらい。
「マリ、頑張ってね。ガーディナ兄様の補佐は、私がしっかりやるから。ガーディナ兄様が皇太子になるまでの辛抱だよ」
「うわぁん、ゼルダ兄様ありがとう〜! ゼルダ兄様も優しい! ひどいのはヴィンスだけ!」
 あ。
 それでも、クローヴィンスはヴァン・ガーディナに皇太子を譲るつもりなのだ。
 だとしたら、ヴァン・ガーディナがマリを解任した後、新しく司法官を務める人間は、マリほど不当で苛烈な誹謗中傷に遭わずに済む。案外、そこまで考えているなら、クローヴィンスも脳ミソまで筋肉ではないかも。
「いいか、俺達はフォアローゼスだ。ヴァン・ガーディナを皇帝に、ゼルダをその補佐官に、カムラ史上かつてない最高の全盛期を俺達が築く。帝国に寄生する分際で、父上を侮辱した奴らに目にもの見せてやろうぜ! 父上の偉大さを、俺達が帝国中に知らしめるんだ」
 ヴァン・ガーディナ、ゼルダ、マリ・ダナ、残りの皇子達が、それぞれなりの覚悟を映した瞳で頷くと、クローヴィンスはにやりと笑った。
「俺は、こういうの得意だからな。元帥になりたいって、この俺の手腕を見てたら、無謀じゃないって気がしねー? 人の十倍努力すれば、壮年になる頃には、元帥になれるかもしれない! と思うわけだ」
「まぁね。でもヴィンス、元帥は確かに軍事の取り(まと)めだけど、教養がいらない身分でもないよ」
 クローヴィンスはなぜか、黒焦げになって打ち倒された。
「マリ、今のは痛恨の一撃だったぜ……」
「うっわ〜、根性なし! 人の十倍の努力が聞いて呆れるよ!」
 クローヴィンスとマリの仲の良さに、ゼルダは知らず嫉妬して、つい、ヴァン・ガーディナを上目遣いに見た。何を期待して兄皇子をうかがったのか、目が合った途端に気付いたゼルダは、すぐに、その顔を背けようとした。
「ゼルダ?」
 弟皇子の望みに目ざとく気付いたらしいヴァン・ガーディナが、その魔性を(あらわ)すように、不穏かつ楽しげに微笑んだ。兄皇子のそんな表情を見るのは初めてのゼルダが、途惑ったわずかな(すき)を突き、ヴァン・ガーディナが優雅な挙動でゼルダを腕に捕えた。
「え――!?」
 首筋に抜いた刃物を押し当てられて、ゼルダのみならず、クローヴィンスもマリも息を呑んだ。ヴァン・ガーディナがゼルダの命を絶ちかねないことを、皇子達それぞれが、ひそやかに危惧してきたからだ。
 (いまし)めたゼルダを(なぶ)る声音で、ヴァン・ガーディナが(ささや)いた。
「ゼルダ、欲しいものは――」
 耳元に触れた、優しい感触。
「んっ……」
 解放されても、ゼルダにはしばらく、兄皇子がしたこと、囁かれた言葉の意味が、どちらもわからなかった。
「ま、待て! ヴァン・ガーディナ、いくらなんでもそれは!! 兄弟として間違ってる、正気に返ろうぜ!?」
「ふふ、ヴィンスとマリが仲の良さを誇示するから、ゼルダが()ねたんでしょう? (なだ)めましたが何か?」
「その刃物はなんだ!」
 ヴァン・ガーディナはひどく甘やかに、艶やかに笑った。さすが、ゼルシアの皇子だと、クローヴィンスもマリも戦慄した。
「ゼルダ、私がゼルダを傷つけないこと、知っているよな。殺されるとは、思わなかっただろう?」
「ガーディナ、馬鹿言うな! ゼルダ、真っ青だったぞ!」
 ヴァン・ガーディナは麗しく笑うと、クローヴィンスに答える代わりに、よどみなくゼルダに問いかけた。
「私に憎まれていたら、悲しいものな? ゼルダ、愛しているよ」
 ゼルダを捕らえたことに気をよくしたのか、ヴァン・ガーディナがゼルダの耳元に二度目のキスを落として、余裕のないゼルダの苦しげな様子を堪能してから、その腕を解いた。
「――っ……」
 ゼルダは頭の芯が痺れたようになって、紅潮した顔を指で覆った。もともとが美貌の少年なので、見ていた皇子二人には、さらに衝撃だった。
「うっわ、ガーディナ兄様、ゼルダ兄様とそういう関係……!?」
「マリ、驚いたの? いつも、ゼルダには目を掛けて、可愛がっているよ。ゼルダも、(ひざまず)いて私に忠誠を誓えるようになった」
「――っ!」
 また、別種の緊張が走った。
 確かめるべきか、確かめてはならないのか、間違えればゼルダが血に染まる局面で、クローヴィンスが慎重な声音で問い掛けた。
「ヴァン・ガーディナ、もしも、ゼルシア様がゼルダを手に掛けようとしたら――?」
 静かに瞳を翳らせ、ヴァン・ガーディナは優麗で哀切な微笑を浮かべた。
「もう、ずっと、ゼルダを守っています。確かではないけど、私の命を盾にすれば、母上もあまり無理なことはなさらない」
 マリが素直に驚嘆して、目を見張った。
「すごいや、ガーディナ兄様、ゼルダ兄様のこと、本当に愛してるんだね!」
 ヴァン・ガーディナが驚いた表情をして、やがて、想いが零れるような微笑みを見せた。
「愛しているよ。私は、アーシャ様にも憧れていたから」
 クローヴィンスとマリも、ようやく心底ほっとして、手を打ち合って握りこぶしを突き上げた。
「ゼルダ、聞くまでもないだろうが、はっきりさせておこうぜ。本音で答えろ。ヴァン・ガーディナが皇太子に立つことに、異論はないな?」
 ゼルダは幾ばくかの葛藤の後、観念したように、異論のない旨を認めた。少し、恨みがましくヴァン・ガーディナを見る。優しく微笑みかけられると、また頬が紅潮して、なんだか色仕掛けで籠絡されたみたいだ。
 そもそも、ゼルダの方から兄皇子の愛情を求めたことなど、力いっぱい棚上げなのだった。
「さすが、アーシャ様の皇子だな、ヴァン・ガーディナを籠絡するか」
「ヴィンス……?」
「何だその、きょとんとした顔。たった今、俺が確かめてやったろ、どっちがどっちを籠絡したのか」
「――えぇ!? 僕も気付かなかったよ! ていうか、ガーディナ兄様がゼルダ兄様を落としたんでしょ?」
「馬鹿だな、たった今、ガーディナがゼルダに落とされたって、認めたろ。これだからお子様は……」
「ええぇえ!? ガーディナ兄様、ガーディナ兄様が、ゼルダ兄様に落とされたの!?」
 マリのみならず、ゼルダも目を見張った。ヴァン・ガーディナを籠絡した覚えなど、断じてない。
「――ヴィンス、気付かないマリにまで教えるのやめてくれないか」
「ほら」
「わぁ、ほんとだ!」
「ガーディナも、いいことあったんだから、堅いこと言いっこなしだぜ」
「――何があった? ゼルダに耳キスくらい、しようと思えばいつでも出来るよ」
「どあほぅ! おまえ、なんつーことをっ……! そこら辺はおまえ、正気に返ろうぜ!? いくら類稀な美貌でも、ゼルダは弟皇子! ガーディナ、頼むから正気に返って、綺麗な女に惚れるんだ!!」
 腹の底から主張した後、クローヴィンスは言いたくなさそうに嘆息した。
「まぁ、なんだ。いいことってのは、おまえ、片想いじゃなかったって、わかっただろうに?」
「――え?」
「え、じゃねぇ。ゼルダの反応、半端なかっただろ。あげく、おまえが皇帝になって構わないときたんだぞ」
「――あ、そうか」
「おまえ時々、へんなトコ抜けてんのな」


◆ 支配の刻印 ◆


「ところでな、ゼルダ。見ていて気が付いたんだが、おまえには重大な欠陥がある」
「――なに?」
 クローヴィンスが真剣な様子で切り出したので、ゼルダはそんな重大な欠陥があるなら、そのせいでヴァン・ガーディナに敵わないのかな、などと思いながら、兄皇子の言葉を待って、神妙に耳を傾けた。
「ゼルダ、おまえにはな! ノリ突っ込みが足りないんだぜ!!」
「〜…」
 ――何この、まじめに聴いてすごく損した気持ち。
「馬鹿ヴィンス、真顔で何言ってんの!」
 とぅ! とマリが果敢にも小柄な身で回し蹴りを放った。おとなしい子かと思いきや、護身術の心得はあるのか、若年ゆえの身の軽さに、速さと技術でものを言わせた見事な蹴りだ。
 とはいえ、クローヴィンスこそ元帥になりたいと豪語するだけのことはあって、マリの蹴りなど軽く受けつつ、沈痛にこめかみを押さえた。
「マリ、おまえな、突っ込みが激しいっつーの!!」
「えぇ〜!? 僕、張り切って、ゼルダ兄様にお手本見せてあげたのにぃ!」
 どうしても、兄弟として仲の良い二人が(うらや)ましいゼルダは、アルディナンを失った寂しさを隠して微笑んだ。
「ヴィンス、面倒見いいんだね」
「まぁな。おまえはどうなんだ、ガーディナの指導、不満か?」
 ゼルダは唇を噛み、かぶりを振った。
「――不満じゃ、ない」
 どうして、ゼルシアの皇子がヴァン・ガーディナなのだろう。
 惹かれても、素直な気持ちでは慕えない。
 クローヴィンスがにやりとして言った。
「ガーディナ、やるな。おまえに仕えるよう言われた時、父上に噛み付きそうだったゼルダが素直になったじゃないか」
「それは、やっ――!」
 腕にゼルダを捕らえて黙らせたヴァン・ガーディナが、その指で(もてあそ)ぶようにゼルダの首筋をなぞって、微笑んだ。
「可愛がっています」
「まぁ、なんだ。兄弟として、可愛がり方は間違ってくれるなよな、頼むぜ?」
「どうしようかな」
「兄の意見を尊重しろ! 目のやり場に困るだろうが!」
「――だって。ゼルダ、兄上の前では控えようか。あまり、寂しがらないように」
 ヴァン・ガーディナがゼルダを離しながら言った。
「もぉ、誤解を招く表現をなさらないでください!」
 しかも、何だかちょっと寂しかったのは間違いだし!
 兄皇子に弄ばれて、乱れたゼルダの襟元から、忌まわしい刻印が(のぞ)いたのはその時だった。
「待て! それは、支配印か――!?」
 クローヴィンスが顔色を変えた。
「ガーディナ、皇族への施術は厳罰だ、極刑もあると知らないのか!」
「バレたね。仕方ないな、ゼルダ、そろそろ庇護印はずす?」
「え……?」
 ヴァン・ガーディナは落ち着いた様子で、優麗な笑みさえ浮かべて、クローヴィンスに向き直った。
「ゼルダは、真意を隠してのあくどい駆け引きが出来ないし、不手際も目立ちます。致命的なミスを犯したら、私がかぶってやろうかと思って。でも、独り立ちの頃合かもしれないな」
 ――ちょ、それ、どこまで本気だろう!?
 大嘘つきくさい兄皇子が言うと、何から何まで、口から出任せとも本気ともつかない。
「ガーディナ兄様、ほんと、ゼルダ兄様のこと愛してるんだね♪ ヴィンスなんて、まさか、僕の失敗かぶったりしてくれないよ」
 素直に信じたマリが感嘆して、愛されてるね、よかったねとゼルダに笑いかけた。
 ――えぇえ!?
 幸い、クローヴィンスの方はゼルダと同様で、超うさんくさいと思った模様だ。
「マリ、庇ってやってるだろーが! ガーディナとは方法が違うんだ、ガーディナみたいな意味不明なやり方は、軍じゃ殴られるぜ」
「――兄上のようなやり方では、宮廷では暗殺されますね」
 ヴァン・ガーディナときたら、優しい笑顔のままで、もの凄く、さらりと言ってのけた。
「私は、アルディナン兄様を抜きん出て優れた皇太子だったと記憶しています。私より遥かに。その兄上でさえ、誠実なやり方では生き残れなかった。真意は隠さなければ、私もいずれ、皇后陛下の毒牙にかかるでしょう」
 ――ぶはっ!?
「アホ、かかるかァ! おまえな、皇后陛下のって、ゼルシア様はおまえを皇太子にしたくてやってんだろが!」
 凄絶な冷笑を浮かべて、ヴァン・ガーディナがのたまう。
「ヴィンス、貴方は宮廷にいらっしゃらない方がいいな」
 そんなでは、すぐに、亡くなられますよと。
「母上は確かに、私を皇太子にしたいのでしょう。でも、私が子を成せば話は別です。皇太子に据えるのは、私の子でも構わなくなる。あの方は、御意向に背く私に優しい顔をして下さるほど、寛容ではないな」
 ヴァン・ガーディナは、微笑んだままだったけれど。
 ゼルダには、その瞳がいつになく、哀しく、寂しく見えた。
「まぁ、支配印はゼルダを嬲るのにも便利だったし」
 降り積もる雪が、哀しみも、死も覆い隠して行くように――
 浸透しかけた、何も言えなくなる雰囲気を、そっと深呼吸したマリが、明るく優しい笑顔で(はら)った。
「わぁ、ガーディナ兄様、鬼畜だね♪ ほんと、ゼルダ兄様のこと愛してるんだね」
 ヴァン・ガーディナの瞳から、雪の冷たさが掻き消え、優しい感情が戻った。
 うん、と無邪気に頷いて、ヴァン・ガーディナが冥魔の瞳を光らせる。
「……っ……!」
 支配印に魔力を流され、苦痛に喘ぐゼルダを見て、兄弟皇子が口々に言った。
「えぇ!? 苦しむゼルダ兄様、すっごく綺麗じゃない!?」
「いや、まずいだろゼルダそれ。ガーディナじゃなくても嗜虐欲をくすぐられるぞ。そんな妖艶な美貌で苦しむな」
「綺麗でしょう? 何なら、サービスしようかな」
「なっ! ……あうっ!!」
 また、支配印に魔力を流して、ゼルダを苦しめたヴァン・ガーディナが、涼しげに言った。
「するな馬鹿! ゼルダが可哀相だろが!」
 ヴァン・ガーディナのあまりのやり様に、半ば拒絶するように、ゼルダがその手を(いと)って振り切り、席を立った時だった。
 ヴァン・ガーディナが刹那、容赦のない真紅の瞳でゼルダを睨み、途端、ゼルダは絶叫して地に片膝を落とした。ヴァン・ガーディナがゼルダに与えた苦痛が、綺麗だとか言っていられない深刻さだったのは、傍目にも明らかだ。
「ゼルダ、許可なしに私の手を離れることは許さない、おいで」
 血の気を引かせて、クローヴィンスが椅子を蹴立てた。
「ガーディナ、おまえ、ゼルダに与えた支配印を解け! 今すぐだ!」
「なぜ?」
「ガーディナ、おまえはゼルダの心を殺し過ぎる! 絶対服従させていないと気が済まないのか! 今に、ゼルダを絶命させるぞ!」
「ゼルダが、無為に私の意向に背かなければいい」
 カっとして、クローヴィンスが怒鳴った。
「ガーディナ、ふざけるな! 残酷だ、ゼルダがどんな気持ちでおまえに仕えているか、考えたことがあるのか!」
「ヴィンス、いいから」
「ゼルダ!」
「惨めになる! ガーディナ兄様の冥魔の瞳に抗えたら、解いて頂ける約束です。ガーディナ兄様に屈服したまま、憐れみで解呪されたって、屈辱でしかない!」
「ゼルダ、意地張ってる場合か! おまえの命に関わるんだぞ!」
 はぁと苦しい息をして、涙さえ伝わせながら、ゼルダは首を振った。
「私とガーディナ兄様の闘いです、手出しは無用! 死霊術師として、私がガーディナ兄様に一生敵わないと、ヴィンスはそう言ってるのと同じだ!」
 クローヴィンスがぐっと握り締めたこぶしを、真摯にいたわる眼をして、マリが取った。
「ヴィンス、引きなよ。ほら、心配しなくても、ガーディナ兄様はゼルダ兄様を傷つけてめげてるじゃないか。ゼルダ兄様はちゃんと言えるんだから、大丈夫だよ」
「マリ……?」
「ゼルダ兄様の言う通りだと思う。びっくりしたけど、そのうち、ガーディナ兄様の方がゼルダ兄様に逆らえなくなるかもしれないよ? ゼルダ兄様は御心が強いもの。ゼルダ兄様はガーディナ兄様に追いつきたいんだ、真っ向から競ってるのに、手出ししちゃ駄目だよ」
「はあ? ゼルダがガーディナと競ってどうするんだよ、帝位でも奪うわけか?」
「そうじゃなくて! もう、ヴィンスはほんっと、考えが大雑把だよ! ゼルダ兄様とガーディナ兄様はね、ヴィンスには理解できない次元で愛し合ってるの!」
 途端、全員がむせた。
「なっ……!」
「マリ、ちょっと待て!」
「あれ? ぼく、何か変だった??」
「変すぎだろ!」
「恋と変は半分しか違わないよ♪」
「そうじゃねぇええ!」
 マリの一言一言に、ゼルダに至っては異様に強烈なダメージを喰らわされて、もはや虫の息、瀕死でぴくぴくしていた。
「いや、マリは筋がいい、ヴィンス兄様より的を射てるな」
「そうだよね!」
「私はともかく、ゼルダは私を愛してるからね」
「なんっだ、そりゃあぁああ!」
「うっわ、ガーディナ兄様、鬼畜ーっ! 酷ーっ!」
「愛してな――っ!」
「否定したら、私への愛をおまえが告白するまで、苦痛を与えるよ? ゼルダ、お黙りよ」
 無駄に妖艶に、ヴァン・ガーディナがのたまった。凄絶に麗しい風貌が際立つ。
「すごいね、ガーディナ兄様も負けてないね!」
「だからマリ、何の話なんだ。俺にはどこら辺に愛があるのか、サッパリわからん。あるのは鬼畜な強要だけだろが」
「だからぁ! 愛がなかったら、ゼルダ兄様はそゆこと許さないの!」
 
 ――皇子様たちがわかり合う日は、遥か彼方に遠いのだった。
 
 
◆ マリ皇子、語る ◆  ≪テーマ≫組み合わせ
 
 ぼくたちって、どこまでいっても、意見がばらばらだなーって思うんだけど。
 この組み合わせになったこと、ゼルダ兄様は、父様に拒絶されたって受け止めて、傷ついてたと思う。ゼルダ兄様だけじゃなく、重臣たちもそう受け止めてた。ザルマーク兄様を暗殺した黒幕はゼルダ兄様である可能性が濃厚で、ガーディナ兄様にその判断が委ねられ、場合によってはゼルダ兄様のお命を絶つ権限が与えられたって。
 ぼく、父様がそう見せようとしたのは、間違いないと思うんだ。
 
 でもね、ガーディナ兄様はそういう風には受け止めていないよ。
 父様がゼルシア様の本性をご存知だって、ガーディナ兄様はご承知だもの。
 ゼルダ兄様を守れって、ガーディナ兄様なら出来るだろうって、無理難題を課されたと思って、それでも、懸命にゼルダ兄様を守ってる。父様のご意向もあるけど、それとは別に、ガーディナ兄様はゼルダ兄様のこと、きっと、大切に思ってるんだよね。ぼくも、ヴィンスにやたら可愛がられてるから、なんとなくわかるんだ。うちの家系、庇護欲が強いよね。庇護対象の意向を無視するところが困りものだけど、憎めないよね。ほんと、泣きたいけどね。
 
 それで、ヴィンスは本人も言った通り、父様はガーディナ兄様を皇太子にするつもりで、ゼルダ兄様を補佐につけたんだっていう自説に自信満々だよ。ヴィンスは単純明快な性格だからね。物事をわかりやすく、前向きに捉えようとするの、いいことだと思うよ。だから、ぼくはヴィンスの意見を支持してる。
 でも、ぼくの本当の受け止め方は、必ずしもヴィンスと同じじゃない。誰にも言わないよ。言うべきじゃないから、父様も言わないんだと思うの。
 ぼくとヴィンスはね、恵まれてるんだ。母様と、家族を愛してくれる父様がいて、ぼくには優しくて綺麗な二人の姉姫がいて、ヴィンスには可愛い(ヴィンスいわく邪魔くさい)妹姫が一人。
 だから、ガーディナ兄様とゼルダ兄様のことを思うと、ぼくは本音を言うなら、胸が苦しくなるんだ。ゼルダ兄様にはもう、母様も兄様もいない。アーシャ様の生前、一番、賑やかで優しかったアーシャ様の宮にたった一人取り残されて、どんなに、悲しくて寂しかったのかなって。本当は、ゼルダ兄様が十四歳でお妃様を迎えたのとかも、手が早いとか変態だとか、そういう冗談では片付かないことだと思うの。ゼルダ兄様は取り戻したかったんだ、アーシャ様の宮を。大切なものの何もかも、まだ必要な時期に奪われて、無残に踏みにじられても、もう、誰も助けてくれないなら、自分が頑張って取り戻そうって、思ったんだよね。もう、誰も庇護してくれないなら、自分が庇護する側に回って幸せだった居場所を取り戻そうって、ぼくはそういうゼルダ兄様が大好きだし、尊敬してる。絶対、ぼくなんかよりゼルダ兄様の方が、いい皇帝になると思うよ。ヴィンスがぼくがいいって言うから、断っておくけど。
 ガーディナ兄様にはね、父様も母様もいるけど、いないのと同じなんだ。ううん、いない方がまだ――
 生んで育ててくれた母親を、いない方がいいなんて思うのは、すごく悲しいけど、友達や兄弟をあんな風にどんどん殺されたら、ぼくだって、耐えられない。ガーディナ兄様がどうして御心を閉ざしたか、ぼくには、よくわかるんだ。ぼくでもきっと、ガーディナ兄様みたいに死ぬことばかり考えるようになったと思うよ。
 ヴィンスとゼルダ兄様には、そういうの、全然、わからないんだけどね。
 ヴィンスはそんな母親ぶん殴って家おんでちまえって人だから、ガーディナ兄様がどうしてそうしないのか、わからないんだ。
 ゼルダ兄様なんて、もっと奇跡。アーシャ様がそうだったように、ゼルダ兄様はたぶん、ゼルダ兄様だったら、ゼルシア様を変えてしまえるんだ。ゼルダ兄様はそれ、特別なことだと思っていないから、ガーディナ兄様がどうしてそうしないのか、そうしたくないからだって、誤解してるんだよね。究極の甘え上手っていうか、ゼルダ兄様はお願いすれば何でも叶うと思ってるもの。ゼルダ兄様の世界に、我が子の切実な願いを聞かない母親なんて、いないんだ。ゼルダ兄様ご自身がお妃様に激甘なの、ゼルダ兄様はふつうのことだと思ってるから。
 
 ぼくは――
 父様は、ガーディナ兄様とゼルダ兄様に、生涯、信頼しあえる兄弟を、孤独じゃない、寂しくない居場所を与えようとしたんだと思う。父様はどこか、死に憧憬を抱いて生きておいでの方だから、ガーディナ兄様とゼルダ兄様には、そうなって欲しくなかったんだ。死霊術師になんて、きっと、なって欲しくないよ、親は。
 
 でも、ぼくのこの感傷は、ご立派に、懸命に闘ってるガーディナ兄様とゼルダ兄様に対して、よくないものだと思う。可哀相だとか、そんなこと、仕舞っておいた方がいいんだ。
 自分ばかり恵まれてる胸の苦しさは、ぼくもいつか立派になって、ガーディナ兄様とゼルダ兄様を支えていくことで、なくしていけばいいよね。いつか、マリがいてくれたから寂しくなかった、生まれて来てよかったよって、兄様たちが笑ってくれたら、嬉しいな。


◆ 月光の下 ◆


「ねぇ、シルフィス。アルベールは立派だよね」
「ゼルダ様……?」
 その夜、ゼルダはシルフィスの部屋の寝台に腰掛けて、立てた片膝に顔を埋めた。
「シルフィス、ごめん。どうかしてるって、わかってるんだけど――」
 ヴァン・ガーディナはシルフィスにとっても両親の仇だ。何を血迷って、皇太子に就けたいなんて――
「兄上が、嫌いじゃないんだ」
 シルフィスは少し首を傾けて、膝に顔を埋めたままのゼルダを、目の高さを合わせて見詰めた。
「夜会にいらしたお兄様ですか?」
「――そう。亡くなった母上も、無念の死を遂げた上の兄上達も、私を(うら)むよね」
 シルフィスも恨む? とゼルダが聞くので、シルフィスは横にかぶりを振った。
「ゼルダ様、下のお兄様が本当に、ゼルダ様のお母様や、上のお兄様の死を望まれたのか、わからないのでしょう? 間違いかもしれないのに、信じて疑わないゼルダ様より、間違いかもしれないから、そうして迷うゼルダ様の方が好きです」
 シルフィスは優しく笑って、ふて腐れたゼルダの頭を撫でた。
 夜会で見たヴァン・ガーディナは、彼女の目にも優しい人と見えたし、誠実に彼女達を守ってくれた。ゼルダがもし、たった一度の裏切り行為の記憶に固執し、兄皇子が無償で与える誠意と優しさを見ようとしないとしたら、シルフィスには、その方が悲しいのだ。
 間違いかもしれない。でも、間違いじゃないかもしれない。
 そうして迷うゼルダの方が、シルフィスはずっと、好きだった。
 思い出しても、ゼルダを両親の仇と信じ込んで、ゼルダを傷つけることしか考えられなかった頃の彼女は悲しい。彼女は本当の意味で、ゼルダに憎しみから救われたのだと、どんなに感謝しても、言い尽くせない。
「アルベール兄様も、いつか、ゼルダ様を信じて下さったらいいのに――」
 

「ん、俺達か? 俺は領地の治め方なんて知らねぇからな。引退した前領主のじっちゃんを顧問にして、あとは、領内にうまくねぇ何かがあるなら、犯罪や揉め事になって司法に上がってくるだろ? その取りまとめをマリに覚えさせてるトコだぜ。さすがに、マリを司法官に任官した時には、じっちゃんに怒鳴られたけどな! わっはは!」
「ふむ……」
 せっかくだからと、数日間、逗留していくことになったクローヴィンスを捕まえて、ゼルダが彼らの方はどう治めているのかと尋ねてみたところ、その返事がこれだった。
「てかな、何でおまえが食いついてくんだよ。ガーディナが食いつくとこじゃねぇ? 何でガーディナはマリと仲良くお月見してんだよ」
 ばんと、手にしていた資料で、ゼルダがテーブルを叩いた。
「ムカつくから、そういうこと言わないでよ! ガーディナ兄様ったら、マリばっかり、可愛がって!」
 ぶっと、『何だこの高級そうな茶は』とか言いながら試し飲みしていたクローヴィンスが吹いた。
「ゼルダおまえ、マリに()いてんのか!」
「妬いてないよ!」
 私には意地悪ばかりなのにマリには優しいなんて不公平だと、ゼルダが涙目で不満を口にするのを、クローヴィンスが呆れ顔で眺めた。
「物好きな……マリがガーディナに(なつ)くのはまだしも、何でおまえ妬いてんだ。あんな扱いされてまでガーディナが好きなのって、やばくねぇ? 変態じゃねぇ?」
「妬いてないったら! ガーディナ兄様なんて好きじゃないよ!」
 間が悪く、通りがかったヴァン・ガーディナが、ゼルダの文句の後わりだけ聞いて冷たく笑んだ。
「あ……」
 ゼルダはどきんとして、そのまま、ふいっと背を向けて行きかけたヴァン・ガーディナと、どうしていいのかわからず、すれ違いかけた。
 けれど、すれ違ってしまうと、矢も盾もたまらなかった。衝動のままに追いかけて、兄皇子の上掛けの裾をつかんで、声を上げた。
「あの、兄上、何でマリばっかり可愛がるんですか!」
 クローヴィンスが背後で突っ伏していたりした。
「何で? 可愛いからだろう。おまえみたいに私が嫌いだなんて、マリは言わない。どうして、私を慕う弟皇子に優しくしたらいけないんだ」
 だって、あなたが私には意地悪ばかりするからじゃないですか、と抗議しかけて、最初から敵意を向けていたのも、優しくされて、なお素直になれなかったのも、彼自身の方だと気付いたゼルダは、言葉に詰まった。
「おまえ、私に可愛がって欲しいとでも言うのか」
「そ、そんなじゃないです! もう、結構です! マリばっかり、可愛がっていたらいいでしょう!!」
 腹立たしげに、ヴァン・ガーディナがゼルダを睨んだ。
「言われなくても、そうしてる。おまえが文句をつけたんだ。どうせ、私をマリに取られて面白くないだけだろう。おまえなんかより、マリがずっと素直で可愛くていい子だよ」
 ゼルダは唇を噛んで、素直じゃなくて悪かったですねと吐き捨てるなり、クローヴィンスの向かいに腕で顔を隠すようにして戻った。
 
 
「ガーディナ兄様、あんまり、ゼルダ兄様に意地悪しないで?」
「私が? ゼルダに意地悪した?」
 飲み物を持って戻ったヴァン・ガーディナに、マリが言った。
「してたよー。だって、ゼルダ兄様はガーディナ兄様が大好きなのに、あんな風に言われたら、すごくつらいと思う」
「マリ、ゼルダはずっとヴィンスに構ってばかりで、昼間は私を放ってヴィンスと街に出掛けるし、ヴィンスと一緒の方が楽しそうじゃないか。私なんて好きじゃないって、ついに、大声で言ってくれたしね。同じ居間にいるのに、……聞こえよがしにも程があるな」
「えっ……ちょ、ちょっと待って! ガーディナ兄様、本気!? あんな宣言、真に受けておいでなの!? 挑発したヴィンスがいけないし、ていうか、僕にばっかり優しいガーディナ兄様が、ゼルダ兄様は好きじゃないんでしょう? それって、ガーディナ兄様を慕っていらっしゃるから!」
「――……」
「ねぇ、ガーディナ兄様。ゼルダ兄様は確かに、ヴィンスと一緒にいて楽しいと思うよ? ヴィンスの言うことなら、ゼルダ兄様は一を聞いて、十まで理解なさってるもの。僕なんて、びっくりしちゃうよ。そういうのって、得意になれて、きっと、楽しい時間だよね? でも、だからこそ、ずっと一緒にいる必要はないと思うの」
「え……? あぁ、そうか……そうかもしれないけど……」
 ガーディナ兄様が相手だと、やっぱり話の通りが違うねと、マリがにっこり笑う。
「ゼルダ兄様にとっては、ガーディナ兄様のご指導の方が難しいんだ。一から十まで、手取り足取り教えてもらわないとわからないの。たくさん、一緒にいなくちゃならないのは、ガーディナ兄様の方だってことでしょう?」
 それも、仕方がない。ヴァン・ガーディナの世界はゼルダにとって、あまりにも違いすぎるから。
「それにね、僕もガーディナ兄様が大好きだけど、僕のは、甘えなんだ。ガーディナ兄様は優しいし、僕にどんな嫌なことも強いないもの。だから、僕はガーディナ兄様と組みたいんだと思うの。僕の気持ち、ガーディナ兄様はとってもよく理解して下さるし。でも、甘やかされたら僕は、きっと、ただ甘えて腐ってしまうよ。ヴィンスが僕を仕込むのは、僕が皇子様の権限で、頑張ればたくさんの人を救えるからなんだ。ヴィンスは、僕にたくさんの人を救わせると思う。蹴っ飛ばしてでも、僕がそうするように仕向けると思う。それは僕のためで、皆のためで、無茶させるけど、それでも、ヴィンスが僕に背負わせる責任は、ヴィンスが父様に背負わされた責任の、ほんの一端なんだ。それなのに、僕が甘えっ子で、重い重いって言ってるだけなの。ヴィンスが僕の何倍も背負って立ってること、ほんとは、わかってるのにね」
 そう言って肩を落とすマリの姿は、わかっていても、背負わされる責任が重くて、怖くて、つらいのだと、兄弟を見渡せば誰よりも甘やかされているのに、駄目なんだと、マリなりに思い悩んできた心境を、吐露しているようだった。
「だけど、ゼルダ兄様は誰より御心が強くて、ゼルダ兄様だって痛くないはずがないのに、困ってる人がいたら、ご自身が傷ついてまで庇うでしょう? ヴィンスなんかは、もう一人で闘える逞しさがある気がするけど、ゼルダ兄様は、まだ本当は、誰かに守って欲しいこともあるんじゃないかな。平気だよって、平気じゃないのに、無理なさってるような気がするの。ゼルダ兄様には、ガーディナ兄様が必要なんだよ。ゼルダ兄様のことも、誰かが庇ってあげないと、ゼルダ兄様はいつか倒れちゃうよ」
 ヴァン・ガーディナはあえかな光を零す月を見上げながら、夜風に舞う白雪の髪を、一筋、指に絡めた。
「ゼルダ兄様だって、お一人では、そう多くの人は救えないかもしれない。でも、ガーディナ兄様が守ってあげれば、ゼルダ兄様は、ずっと、たくさんの人を救うと思う。――ガーディナ兄様、傍にいて、ゼルダ兄様を助けてあげてね」
 ふっと、ヴァン・ガーディナが微笑んだ。
「あの子が望むなら、そうしてやらないでもないよ。でも、優しくしてやっても、頼んでないって言うようじゃ御免だな。まずは、あの子のご主人様が誰か、叩き込んでやらないとね」
 つられたように、マリも笑った。
「さすが、ガーディナ兄様は鬼畜だね!」
 それ褒め言葉? と、ヴァン・ガーディナが妖艶な笑みを刻んで、首を傾げた拍子に、美しい白雪の髪が流れて、月光が舞い散った。
「ふふ、マリが考えるほど、私と組むのは楽じゃないけどね。マリがお客様だから、猫をかぶってるんだ」
「――そう?」
「そんな、責任の一端だなんて。私はゼルダに丸投げ。あの子、丸投げされてるとも気付かずに、私を尊敬してて面白いよね」
「えぇ、それって、冗談だよね!?」
「冗談じゃないさ、ライゼールの施策は全てゼルダだし、貴族や富豪どもの攻撃の矢面に立つのもゼルダだよ。私はちょっと、ゼルダが倒れそうな時に助けてあげるだけ」
 ヴァン・ガーディナはまるで悪びれずに、言い切った。
「うわぁ、びっくり……! けど、それ責任は投げてないよ、最悪の難局だけ切り回すのって、かえって難しくない? そんなじゃ、ゼルダ兄様だって、ガーディナ兄様尊敬しちゃうって! でも、確かにちょっと、僕ムリっぽいかも……そんな、領政とか丸投げで任されたら、僕、泣いて夜逃げしそう……」
 ヴァン・ガーディナがクスクス笑う。
「ゼルダは夜逃げ出来ないな、あの子は見栄っ張りだし。腑に落ちない顔しながら、それでも、まさか丸投げされてるなんて考えないで、大変なのは能力が足りないせいだと思うみたいでね。私に助けを求めるのは嫌なんだろう、虚勢を張って、健気に頑張ってるな」
「うわぁ……」
「マリ、おまえもそんなに背負い込まなくていい。疲れたら、いつでも休みにおいで」
 ぽんと、ヴァン・ガーディナがマリの頭を叩いた。
「兄様……ほんとに、また来てもいい?」
「いいよ。私の母上にはバレないように気をつけて」
 口許に指を一本立てたヴァン・ガーディナは、冗談のような口調でも、真摯に心配している様子だった。
「あの、ゼルシア様にバレたらマズいかな?」
「マズいよ。気をつけて。それからね、マリ? いずれにせよ、ヴィンスは逞しいにしても無神経じゃないか。私にとっては、マリがあんな風になったら嘆かわしいから、適当に手を抜いてくれた方がいいよ。ヴィンスが責任の重さをものともしないのは、デリケートな物事の痛みなど、斟酌しないからなんだ」
「ぷっ」
「私はヴィンスなんて認めない、私のゼルダに手を出したら許すものか、抹殺してやらないと」
「え、待って! 兄様、それって……!?」
 マリはまじまじとヴァン・ガーディナを見た。いつも通りの、魅惑的な麗笑を浮かべていて、本気なんだか冗談なんだか、さっぱりわからない。
 とりあえず、マリとしては、クローヴィンスが文字通りゼルダに手を出すなんてあり得ないと思う。ヴァン・ガーディナは何をもって『ゼルダに手を出された』と解釈するつもりなのか。極端な話『ゼルダに指導していいのは私だけ』とか言い出すのなら、決闘沙汰になるかもしれない。大変だ、ヴァン・ガーディナとクローヴィンスの決闘なんて、怪獣大激突もかくやだ、カムラ帝国の危機だ。
「あのね、ガーディナ兄様? 僕に優しい人はたくさんいるけど、ゼルダ兄様に優しい人は、ガーディナ兄様だけなんだと思う。たった一人の優しい人まで取られてしまうって、ゼルダ兄様の方が、いてもたってもいられないご様子だもの。僕、食事の時とかすごくゼルダ兄様にニラまれるんだけど、まさか、ガーディナ兄様が気付いてないとは思わなかったよ。その鈍いヴィンスでさえ、もう気付いてると思うよ?」
「――……」
 それは悪かった。全然、気付かなかった。何だか目が下向き三角だなとは思っていたけど、ゼルダのことだから、食事のメニューでも気に入らないんだろうと納得していた。
「おまえ、いい子だね」
 ヴァン・ガーディナはふっと微笑むと、マリの金髪に優しく、長い指を絡めた。
「ご褒美にいい事を教えてあげるよ。司法官として迷ったら、民衆の立場になってみて、安心して暮らせる裁定を考えればいい。裁定の正しさとか、公平さとか、信じるだけ不毛なんだ。人には、それを見極める能力など、もとより与えられていないんだからね。どんなに慎重に、よくよく熟慮した末の結論であっても、間違っているかもしれないことを、忘れなければいい。それだけ忘れなければ、そんなに間違った判断はしないものだよ。人が、人を憎まずに済む裁定をしていけばいい。私も、おまえはその能力に長けると思うよ」
 私はマリになら、断罪されても構わないからと、マリの耳元に、ヴァン・ガーディナが雪の結晶ひと欠片(かけら)の儚さで、(ささや)いた。
『マリは、私がアルディナン兄様を愛していたって、わかってくれるだろう?』
 もう二度と――
 愛さない、誰も。ゼルダだって、愛さない。
「え……? ガーディナ兄様……?」
 おまえ、間違いなくヴィンスやゼルダや私よりはマシな裁定をするから自信を持ちなさいと笑って、ヴァン・ガーディナはマリの物問いたげな眼差しには、答えなかった。
「僕、ガーディナ兄様のお言葉にね、とっても感銘を受けたよ。僕なんかじゃ、ヴィンスはともかく、ガーディナ兄様よりいい裁定なんて、出来ないと思う」
「マリ、私はそもそも、いい裁定を心掛けない。論外だろう? 他人なんて、どうなってもいいからね。おまえやゼルダが笑っていればいい。見知らぬ者同士の揉め事の仲裁なんて、御免こうむるよ」
 他人の心と誠実に向き合えること、それ自体が才能だよと言われると、マリはまた、異なる方向に感銘を受けた。
「わぁ。なんか、そこまで言い切っちゃうと、いっそ立派だね!」
「褒め言葉かな? ありがとう」
 ヴァン・ガーディナお得意の魅惑の笑みに、皇都では見せることのなかった楽しげな雰囲気があって、マリも笑った。
「僕こそ、ありがとう。ちょっと自信ついたみたい。僕ね、ゼルダ兄様は将来、ガーディナ兄様の補佐官に就くのが一番いいと思うんだ。だから、僕も、挫けそうだったけど、頑張ってみる。夢はやっぱり諦められないから、天文と建築の勉強も続けるけどね」
「私が皇帝になったら、その程度の夢は叶えてあげるよ。私には、才能に恵まれたマリが、民衆のためにその才能を活かしたいと思うのを、邪魔立てする理由の方がわからないな。マリが司法官っていうのは魅力的だけど、気に入らない司法官なんて、皇帝権力で押さえつけておけばいい。ヴィンスのように、力のない民衆の都合まで考慮する必要はないな」
 マリは内心、その必要はすごくあるよねとか、ゼルダ兄様頑張ってねとか思った。ヴァン・ガーディナが皇太子に就くなら、ゼルダが補佐官についてバランスを取ってくれないと、民衆にどこまでも残酷なカムラ皇室になりそうだ。
 もっとも、ヴァン・ガーディナは傍目にもゼルダに甘いので、傍にゼルダがいる限りは、大丈夫だろう。
 マリはふと、ゼルダがじぃーっとニラんでいるのに気付いて、戦々恐々とした。泣きたいのを堪えるようなガンのつけ方で、むしろ、可哀相だった。ヴァン・ガーディナがマリの耳元に囁いたのとか、気になるんだろうなぁと思う。ゼルダ兄様が心配するような内緒話じゃないんだけどなぁと思う。
 ――合掌。
 
 
「で、おまえらはどうやってフルスコアなんて出したんだ?」
「は?」
 最終日の夜、クローヴィンスが尋ねた。
「ほらぁ、ゼルダ兄様達は知らないんだよ、ヴィンスが知ってるのがズルなんだって!」
「んなわけねぇだろ! 知らなくてフルスコアって、どんな奇跡だよ!」
「実力じゃない?」
「フルスコアって?」
「だぁから、初期査定だっつの。前領主を除いたライゼールの奴ら、揃いも揃って、おまえらを最高評価で皇都に報告しやがったんだぞ?」
「ちょ、初期査定なんて聞いてない!」
 ゼルダは焦って椅子を蹴立てたものの、振り向けば、ヴァン・ガーディナも知らなかった様子だ。
「うん、知らせないでやるはずだったんだよ。なのに、ヴィンスったら父上とテッサリアの話を故意に盗み聞きしたの!」
「マリ、ちったぁ俺の身になって考えてもみろよ! 俺なんてなぁ、父上がテッサリアの離宮にお通いになる度に、都合の悪いやんちゃをことこまかに把握されてんだぞ! 俺にだって、父上やテッサリアの不都合を知る権利があるはずだ!」
「で、あったの?」
 マリは(しん)らつだ。
「いや、――ねぇけど」
 クローヴィンス、ややしょんぼり。
「にしても、じゃあ、おまえら実力でフルスコアなわけか? マジか?」
 心当たりがあるので、ゼルダは沈痛にこめかみを押さえた。
「ていうか、知ってたら初期査定でフルスコアなんて出してない。まずいな、その評価は確実に落ちるんだから」
「――は?」
「ライゼールの流儀なんだ、権力者におもねって保身を図る。その最高評価は『当家の便宜を図って下されば、次も最高評価を出しますよ』っていう申し出にすぎない」
「あぁ? ちょっと待て、それ、全然まじめに評価してねぇだろ。皇太子を決める重要な査定だぞ!?」
「その通りだよ、彼らの特権を認めてくれる皇子であることが、彼らにとっては重要なんだ。彼らがそういうつもりだってことを逆手に取って、評価を落とさない方法はあるけど、そんなことしてたら領政に集中できないし」
 クローヴィンスとマリが目を丸くしてゼルダを見る。ライゼールの流儀に呆れつつ、ゼルダの洞察力と、すぐさま打つ手を考える度胸だとか手腕だとかに感心した様子だ。
「ヴィンスの評価は確実に上がるよ、マリを司法官に抜擢したこととか、今は不評でも、必ず巻き返す。最終的に同程度の評価になった時、次第に下がってその評価になったチームと、次第に上がってその評価になったチームとでは、どちらに将来性が認められる?」
「そりゃ、後者だよな……」
 ゼルダは頷いて、話をまとめた。
「つまり、まともな領政を敷いてガーディナ兄様を勝たせようと思ったら、確実なのは、ガーディナ兄様とヴィンスに歴然たる格差がある今のうちに、諸侯に強引な決断を迫ってしまうことなんだ。根回しっていうか、裏工作っていうか。現段階でヴィンスにつくのはリスクが高すぎるから、そういう風にすれば、ガーディナ兄様は先手必勝で権力基盤を固めてしまえる。でも、そんなことはしたくないし――」
 クローヴィンスはかーっと髪をぐしゃぐしゃやった。
「権力闘争ってな、反吐が出んなぁ。人がせっかくやる気出してんのに、なんだそりゃ。ライゼールの奴ら、ちゃんと評価しやがれ、若い皇子様の頑張りを何だと思ってやがる」
 何だかんだ言って、クローヴィンスは機転を利かせた、後々、周囲があっと驚くような領政を敷いている。試されることを楽しんでいたのだ。ヴァン・ガーディナと競うこと自体に、競技者として燃えていたのだろう。ここへ来たのも、フェアに行こうぜと誘うためもあったに違いない。そういうまともな若い皇子が、ちゃんと評価して欲しいと願うのは当然で、おかしいのは間違いなく貴族諸侯の方だ。けれど、それこそ腐敗した現体制を変革するのは皇帝であっても至難の業なのだ。
「そんなもの、つけ込みどころだと思ってるんだよ」
「うがーっ!」
 クローヴィンスは吼えた後、ヴァン・ガーディナをキっと睨んだ。
「ガーディナ、どうする気なんだ。ゼルダが言ったみたいにすんのか?」
「まさか、ゼルダの考えなんて甘い、ぬるい、愚の骨頂もいいところだろう? 検討に値しない」
「なっ……」
 ゼルダの考え甘かったか? とクローヴィンスに視線を送られて、ついていくのがやっとだった様子のマリは、わかんないよとかぶりを振った。
「ゼルダ、おまえは前提が間違ってる。この皇太子争奪は目くらまし、父上が私達に与えた試練は、二年間、一人も欠けずに生き延びることだろうな。私を皇太子に就ける方法など考えても、何の意味もないとわからないか?」
 ヴァン・ガーディナの考えでは、初期査定が隠すように行われたなら、皇帝の本命はゼルダ、貴族諸侯の本命はマリだ。
「この皇太子争奪は、おそらく、ゼルダとマリに時間を与えるために仕組まれた茶番劇です。ゼルダは、私達の時間稼ぎのために、私が早い段階で皇太子に推薦されるのを、阻止しなければならない」
 そう、皇帝に仕組まれた茶番劇だ。
 クローヴィンスとヴァン・ガーディナは、いずれも、母妃が貴族の出身ではない。後ろ盾が弱いのだ。
 ゼルダの母妃は王女だったが、国が滅んでいる。
 こういう場合、貴族諸侯が推薦するのは、伯爵令嬢を母妃に持つマリだが、マリは十三歳と若年なので、まだ、皇太子に推薦する時期ではない。
 皇太子争奪にヴァン・ガーディナが勝っても、クローヴィンスが勝っても、数年後には必ず、現皇太子を廃して、マリを皇太子にするべきだという声が上がる。それが、貴族政治だ。貴族は、貴族の血が流れない皇子が権力の座に就くことを嫌う。
 そのような皇子は、貴族が貴族として得ている、不適切な特権を廃止しかねないからだ。
 皇帝にとって、貴族の出身ではないゼルシアがそういう政治の仕組を知らず、マリを暗殺する必要性を感じていないことは、不幸中の幸いだろう。
 皇帝はそれと悟られる前に、できるだけマリを育てて、可能性を与えたいのだ。マリが、貴族諸侯の意向で飾り物の皇太子にされることも、ゼルシアの意向で暗殺されることもなく、己が望む未来へとはばたくための力を。
 それだけでなく、兄弟としての愛情を信じる前提に立てば、既に、ゼルシアに命を狙われているゼルダを庇えるとしたら、適任者はゼルシアの皇子であるヴァン・ガーディナに他ならない。皇妃の暗殺リストの筆頭がゼルダなら、皇帝の守護リストの筆頭もまた、ゼルダではないのか。
 アルディナン亡き後、ゼルダは一人で生きてきたつもりだろう。
 けれど、ゼルダの命は、皇帝が守り抜いてきたからこそ、つながれているとしかヴァン・ガーディナには思えなかった。ゼルダが一人で立ち向かえるほど、皇妃の魔手は甘くない。
「ゼルダ、私の足手まといになりたくないなら、まずは己が身を守る術を身につけなさい。受け身を最初に覚える、権力闘争であっても基本だろう?」
 不服そうに頬を膨らますゼルダに、ヴァン・ガーディナは畳み掛けた。
「私がどれだけ苦心して、おまえを庇っていると思う。生き延びること、それは、私と兄上のどちらが皇太子にふさわしいかより、よほど困難で重要な試練だと、おまえは思わないのか?」
 ゼルダはどきんとして、言葉に詰まった。
「ヴィンスに皇太子をもっていかれるなんて、随分、マシな未来じゃないか。亡くなった兄上達が切望し、全力で奮闘しながら、つかめなかった未来が前提か」
「待て、待てって、ガーディナ! 容赦してやれよ、ゼルダが凹むって! 立ち直れねぇぞ!?」
「ヴィンス、ゼルダは二人の兄皇子に目の前で死なれながら、まだ、事の深刻さがわかっていないんです。ゼルダは私や父上になら、何でも出来ると思っているんだから」
「……ちがうの?」
「違う」
 ヴァン・ガーディナは厳しい。得意になっていたゼルダは地面にめり込むほど凹んで、唇を噛んだ。
「大丈夫、この程度はいつも凹ませています。ゼルダは打たれ強さが取り柄ですから」
 爽やかな笑顔でのたまうヴァン・ガーディナに、やや引き気味に、クローヴィンスが答えた。
「お、おう……」
 どういうわけか、ゼルダは自主的に正座していたりした。いつも、この調子だから、ヴァン・ガーディナに口答え出来なくなるのだ。なのに、口答えしろって言うし。
「ヴィンス、いみじくもゼルダの言った通り、あなたの評価は上がり、私の評価は下がるでしょう。そうなるよう努めて下さい。あなたは最善を尽くして正当な評価を得て下さらなければ、いずれ、役立たずに成り下がります。そんな兄上を庇うのなんて御免ですから、あなたも私を支えて下さい」
「なっ……」
「なぜなら、母上が目の仇にしているのが、兄上よりもゼルダだから。あの方は、妄想も同然の理屈をこねて、とにかくゼルダを粛清したがっておいでだ。女性は感情的な生き物と聞きますが、本当に、こちらの理屈が通じない。そして兄上、母上はあなたに、いえ、テッサリア様には遠慮している節があるでしょう? 母上はテッサリア様のご不興を買いたがらないし、必要とあらば、皇太子殺しの罪を首尾よくなすりつけたゼルダに、次の皇太子殺しの罪もなすりつけようとなさるでしょう。その上で、今度こそ確定させてゼルダを葬れば、後腐れがないと考えるでしょうね。ならば、兄上と私のどちらが勝つかわからない状態にある限り、母上はゼルダを『取っておく』と思われませんか?」
 これには、皇子達はそろって戦慄した。
「今の私は、本気になったあの方と渡り合う力など、持ち合わせていないのですから。シャークス皇弟、アーシャ皇妃、アルディナン皇太子、ザルマーク皇太子、帝国各地で独立の気運を高めていた数多の勢力の柱となる人物――片端から粛清したあの方が、証拠も泥はねも残さないあの方が、どれほど恐ろしい方か、縁戚関係を抜きにして考えて下さい。今の私達では、束になってもあの方には敵わないでしょう。それでも、父上が与えて下さった時間が二年ある。ゼルダが二年後にも、今のままのゼルダだなんて許さないし、私も兄上もマリもです。私達はせめて、総力でアルディナン兄様に追いつかなければならない」
 いつものヴァン・ガーディナだった。ゼルダが『この試験にあなたを勝たせて、皇太子に就けたい』と望めば、その望みを叶えるため、最善の方策を示してくれる。その指揮さえ厭わない。
 ゼルダは失念していたけれど、フォアローゼスが揃ってその日を迎えることが、言葉にした望みよりも遥かに大切で、ヴァン・ガーディナがゼルダの真逆の方策を示したのは、より誠実にゼルダの望みに応えてのことだった。
 たとえ、ヴァン・ガーディナが皇太子に就けても、その日にフォアローゼスが崩壊していたら、ゼルダはこんな形では意味がないと、兄皇子をなじるに違いないからだ。そのくらい、愚かで甘えた弟皇子なのだ。
「私達はこの二年を生き延び、その間に、皇后陛下と渡り合える権勢を得なければならない。それは、皇太子として認められることより、遥かに至難です。すなわち、私達が指名する皇太子が、通るくらいでなければならないのだから」
 ヴァン・ガーディナの判断は『堅実にまっとうに努力して、皇子として実力を蓄えて下さい。私もそうします』という、何の仕込みもない、誠実なだけのものに酷似していた。それでも、ヴァン・ガーディナがこれだけ考えて決断しているのだと知ると、慄然とさせられるのだ。
 己が洞察力を活かし、創意工夫を凝らしてライゼールの改革に挑むことは面白いけれど、その間、どう身を守るつもりだったのか。
 問われれば、ゼルダは気付いた。父皇帝や兄皇子をアテにしていて、守ってもらえて当然だと思っていた。
 ――こんな感じで、反省したかな? とてもよく、反省したよね?
 ゼルダは割にあっさり立ち直ると、ヴァン・ガーディナの隣の席についた。
「私は、陛下は母上を欺いておくため、私が兄上を大きく突き放してしまう初期査定を公表しなかったのだと思います。皇太子ザルマークを暗殺した黒幕がゼルダだという噂を放置したのも、母上や諸侯がゼルダを侮り、次の皇太子が定まるまでは、おとなしく待った方が得策だと踏むようにでしょう」
 ゼルダは上目遣いに、首を傾げてヴァン・ガーディナを見た。
 その考えは少しおかしい。父皇帝がゼルダを信じてくれているなら、そうまでしてゼルシア皇妃を断罪しない理由は何だろう?
 ヴァン・ガーディナにとって、皇帝と皇妃は両親だ。その二人が喰い合わないのはおかしいなんて、口に出すのもはばかられたので、ゼルダは聞かなかった。
 聞かなかったことを後悔する日が来るなんて、思いもよらなかった。
 聞けば、クローヴィンスが答えただろう。馬鹿、ヴァン・ガーディナまで断罪されるからに決まってるだろ、と。その言葉を、聞くことが出来ていたら――
 取り返しのつかない間違いを、犯すこともなかったかもしれない。
「でもおそらく、二年もないな。私がボロを出して、遠くないうち、ゼルダを死なせるでしょう。二人の兄皇子を守れなかったのは、私だから。ゼルダ、覚悟しておおき? おまえ、私のために死ぬよ、きっとね――」
 ヴァン・ガーディナは笑っていた。一段と綺麗に。――泣き顔を隠しているみたい、だった。
 ゼルダはむぅと、ヴァン・ガーディナを睨んだ。黙っていられなかった。
「兄上、今宵は一段と世迷言に磨きがかかっておいでですね? あなたのためなんかに、私が死ぬものですか! 私は、ええと、あなたの庇護を受けてるんじゃなくて、庇護させてるんだから! 私の実力で! あなたのためだなんて、思い上がりです!」
「ぷっ」
 あ、笑った。
「そう」
 ヴァン・ガーディナの手が伸びて、ゼルダの頭を撫でた。
「大好きだよ、ゼルダ」
 ゼルダはわたわたして、紅潮した顔を指で覆った。
 目のやり場に困るっつーの再びになりながら、クローヴィンスもヴァン・ガーディナを認めた。
「こりゃあ……見損なってたぜ。おまえ、指揮も統率も出来んのな。俺も人の話くらい聞かねぇと、勝てそうにもねぇぞこりゃ」
 マリが間髪を容れず突っ込んだ。
「だから、聞きなってばそれは!」
 えーやだぁとか、超まじめにやれと言いたい。
 ヴァン・ガーディナの手の優しさにゴロゴロ言ってる状態で、何を偉そうにとかいう突っ込みはなしの方向で。
「ゼルダ、私とヴィンスの評価は、いずれも高いに越したことはない。だけど、ライゼールの連中がどれほど腐った査定をして、私とヴィンスのどちらが皇太子に選ばれようと、構いやしないよ。初日に私を皇太子にすると合意しただろう? 何かの奇跡でヴィンスが選ばれてしまったら、ヴィンスが快く皇太子の位を私に譲る、それだけの話じゃないか」
 ――ぶっ!
「奇跡とは大きく出やがったな、ガーディナ。だが、俺達が皇太子を指名する高みっつーのは、俺としたことが盲点だったぜ。文句なしに最高だな、それでいこう。おまえに全面的に協力してやるが、それ、俺が勝ったらマリを指名してもいいのか?」
 これには、指名されるマリが悲鳴を上げた。
「やめてったら!」
「私はマリの意向を尊重するけど、それを承知の上での指名なら、構わないよ。じゃあ、私が勝ったらゼルダを指名してもいいんだ?」
「ぶふ!?」
 今度はゼルダが吹いた。
「おぉ!?」
「ガーディナ兄様、無駄な対抗意識で馬鹿をおっしゃらないで下さい! 何で、あなたがいるのに私!?」
「何だ、おまえ、皇帝になりたくないの? おまえが私におねだりするなら、譲ってやらなくもないかと思って。私は優しい兄上だからね」
「何かそれ、かえって屈辱です!」
 ぷっと、ヴァン・ガーディナがまた笑った。
「おまえ、ずっと、私の好きにされていたいんだ? 可愛いね、そういうことなら、そうしてあげようかな」
「そうじゃなぁあい!!」
 何という、恐ろしい兄皇子か!
 クローヴィンスとマリも、じゃれてるな、じゃれてるね、とか言い合ってる場合じゃないし!
 
 ――やっぱり、皇子様たちがわかり合う日は、遥か彼方に遠いのだった。
 
 
「ガーディナ、お茶」
 クローヴィンスが言った。
「ゼルダ、お茶」
 ヴァン・ガーディナが言った。
 マリが、最終的にぼく!? と身構えるも、クローヴィンスが突っ伏した。
「ガーディナ、アホか! ゼルダを使うな! 俺はな、ちょっと席外せって言ったんだ」
 不服そうに眉を顰めて、仕方なく、ヴァン・ガーディナが立ち上がった。
「あまり、いい気分じゃないな」
「ま、そうだろうな。我慢しろ。帰る前に、おまえを皇太子に仕立てるなら、ゼルダに話があってな。気になるなら立ち聞きしてろ、その代わり、終わるまで入ってくるなよ」
 立ち聞きしてろ、には少し驚いた顔をして、その次には、ヴァン・ガーディナも表情を緩めた。
「ん」
 
 
「さてと、ゼルダ、おまえに教えておきたい事がある。アルディナンの兄上が死んだ時だ、ガーディナがな、『死の秒読み(デス・カウントダウン)』に入った」
 驚愕するゼルダに、クローヴィンスが頷いて、珍しく真面目な顔をして話を続けた。
「その意味は多分、俺よりおまえの方が知ってんだろう。当時はちょっとした騒ぎになったんだぜ? ガーディナのやつ、『死の秒読み(デス・カウントダウン)』に入った状態で塔の最上階まで登りやがって、飛び降りそうだってんで、誰が助けに行くんだってな」
 それは、騒ぎにもなるだろう。『死の秒読み』に入っているなら、いつ飛び降りてもおかしくない。
「父上が行った。狂気に陥ったガーディナに、死呪文を放たれる恐れもあったのに、迷わず助けに行かれて、無事に、連れ戻された」
 ゼルダは目を見張り、複雑な心境になって、ガーネットの瞳を翳らせた。
 『死の秒読み』に入ったのがゼルダでも、父皇帝は命まで懸けてくれただろうか――
 到底、そこまで愛されているとは思えない。それなのに、あの冷酷な父皇帝が、兄皇子のことはそこまで愛しているのだ。
「その父上の話なんだが、ガーディナはどうもな、記憶に封印をかけてるらしい。アーシャ様のことも、兄上のことも、死んだ後、忘れてておかしかった事、あったろ」
「え……」
 イルメスの話を聞いた時にも違和感は覚えたけれど、ヴァン・ガーディナは、ゼルダの前でだけ、忘れたフリをしていたのじゃないのだ。
「ゼルダ、なんつーかな。ガーディナの記憶を刺激すると、また、『死の秒読み』に入る恐れがあるらしい。俺はよく知らねぇが、あれって本人だけじゃなくて、傍にいる奴にもとばっちりがいくんだろう? おまえの命に関わるからな。まぁ、あんまガーディナの心に踏み込んでやるんじゃねぇ。ガーディナが忘れたっつったら、忘れたで納得しとけ。なんだっけな、『冥門』(ヘル・ゲート)? ガーディナは開けるんだぜ、遠隔地に。自分がそこにいるっつー自己暗示を織り込んでかけるそうだ」
「そんな馬鹿な、いくら自己暗示に長けたって、失敗すれば兄上の命がない! 『冥門』(ヘル・ゲート)は本来、己を中心に開くんです!」
「だから、ガーディナが本気で、失敗なんてお構いなしだから、『冥門』(ヘル・ゲート)が開くんだろう?」
 死霊術師として、ゼルダに言えることはなかった。クローヴィンスの指摘通りで、間違いない。
「ガーディナが皇帝になるなら、おまえ、側近として長い付き合いになるだろう。知っておいた方がいいと思ってな。ガーディナは優秀だが心が欠けてる、氷細工みてーで非常にやっかいだ。下手に触れば砕ける、ほっといても駄目だ、明るい陽だまりに数刻もあれば消えちまう。ゼルダ、支えてやれよ?」

第三節 死霊術師≪ネクロマンサー≫