後・聖魔伝説1≪帝国編≫

序章



 青い空に白い雲。
 初夏の明るい日差しを浴びて、緑が生き生きと輝いている。
「きゃあっ」
 楽しげな悲鳴が聞こえた。若い娘のそれだ。
 胸元まで水に()かる程度の水深の川に、あろうことか服のまま。
 冴えた蒼の瞳の青年が、妙に(すき)のない体勢で娘を沈めている。まるで少年のように目を輝かせて娘を押さえ込んでいるけれど、静かに(たたず)めば、かなりの美貌だろう。今でさえ、むしろ、今こそなのか、輝くような魅力が放たれている。
 青年が娘の頭を押さえる手をはなすと、ぷはっと娘が川面から頭を出した。まだ二十歳にもならないと見受けられる、綺麗な、明るくて優しい感じの少女だ。澄んだ鳶色(とびいろ)の瞳をしていて、楽しげな笑顔を見せている。水を吸ってかたまった髪は、今は黒にも見えるけれど、茶色だろう。
「サリサ!?」
 岸辺に姿を見せた少年が、目を丸くして彼女を呼んだ。
「ディテイル」
 はあはあと荒い息をしながら、サリサと呼ばれた少女――サリディア・メルセフォリアが手を振った。
「何やってんだよ!? おまえら!」
「仕事じゃないか」
 答えたのは青年だ。
「嘘つけっ」
 もちろん、ディテイルは即座に力いっぱい否定した。どう見たって遊んでた。
「嘘じゃないさ。その辺、荒れてるだろう? 術の威力がちょっと強すぎて、サリディアが川に落ちたんだ」
「おまえは?」
「助けに行ったら落とされた」
 途端にサリディアが謝り、青年は笑いながら川から上がった。岸辺から、当たり前のように手を差し伸べている。
 サリディアもすぐにその手を取って川から上がり、ディテイルを見直した。
「何か、用があったんじゃない?」
 無邪気に聞いてくる。ディテイルは思い出した顔で青年――ギルファニート・アル・セルリアードに探るような視線を向けた。
「博士が話があるって。なんか、すっごく機嫌悪かったぞ。サリサも一緒に来いって」
 途端に、二人は顔を見合わせた。
「このかっこ、ちょっと歩いて帰るの恥ずかしいね」
「じゃあ、帰還の呪文を使うか」
 などと言い合う。
「ディテイルも帰る?」
「いい。帰還魔法、好きじゃないんだ」
「そっか。ごめんね、先に帰ってるね」
 ディテイルは「はいはい」とばかり軽く手を振った。これだから魔道師ってやつは。
 二人は共に、アルン王国の高名な宮廷魔道師なのだ。魔道や天文の研究から、軍事の補佐まで宮廷魔道師の職務は幅広い。
 こんな子供っぽい奴が、まったく素直さの足りない青年が、短い間とはいえ、宰相など務めていたアルン王国は、そろそろ終わりなんじゃなかろうか。
「それじゃ」
 サリディアの笑顔に、ディテイルは笑い返したものの、やっぱり、摩訶不思議だと思っていた。こんなに明るくて可愛くて素直な少女が、何をどう間違って、あんな奴に持っていかれたんだろう。しかも、あんなに仲が良い。
 ディテイルはそうじゃないぞと、すぐに、思い直した。彼の大切な少女は、あんな風にはあつかえない。泣かせてしまうはずだ。
 ヒュン――
 微かに足元の草を揺らして、二人は虚空に消えた。



 だんっと、セルリアードが珍しく腹立たしげに机を叩いた。ラーテムズの部屋だ。
 サリスディーン博士の助手であるラーテムズは、一年ほど前に前髪を下ろし、妙に貴族めいた見た目になった。ただし、性格の方は相変わらずだ。
「私に当たるなよ、口が滑ったんだ」
「約束を破って、口が滑ったで済ますつもりですか」
 二ヶ月半くらい前のことだ。セルリアードとサリディアの二人は、魔術の相乗効果を実験した。
 聖魔と四元の魔道師の魔力を合わせたら、どの程度の威力の術が発動するのか――
 それは、良く言えば知的好奇心であり、悪く言えば若気の至り、興味本位だった。
 結果的に、術の威力は二人の想定を遥かに上回り、入念に準備しておいた四元結界さえ砕いてしまった。
 術者である二人も無事では済まず、セルリアードが庇ってさえ、サリディアが瀕死の重傷を負ってしまったのだ。
 リシェーヌの癒術のおかげで、サリディアは無事に復調したものの、冷静に考えたなら、世界ごと砕くかもしれない無茶だった。それなのに、制御できると判断したあげく、サリディアを失いかけて、セルリアードは己の判断の甘さを悔いたし、聖魔と四元の魔道師の魔力の何たるかを、二人は強烈なショックによって、身をもって知ることになったのだ。
 いずれにせよ、この失態をサリスディーン博士に知られれば、深刻なカミナリが落ちるのは間違いなかった。
 二人は、後始末を手伝ったラーテムズとリシェーヌに、黙っていて欲しいと頼んだのだが――
「セルリアード!」
 バン、と荒々しく扉を開けて、ディテイルが怒鳴り込んできた。かなり怒っているようだ。
「こら、行儀が悪いぞ。ちゃんと挨拶しろ、ここは私の部屋だ」
 ラーテムズがとぼけた口調でたしなめる。けれど、ディテイルは全然聞いていなかった。
「あんまりサリサのこといじめんなよ! 泣いてたぞ!」
 セルリアードは黙ったまま、やれやれ、という顔をした。
 彼がいつ、彼女をいじめたのか。彼はいつだって、彼女の笑顔を守ることに全力を傾けているのに、ディテイルはもちろん、博士すらわかっていないんじゃないかと、ちょっと疑っている。
「すまん」
 ラーテムズが謝った。
「じゃあ、協力してもらえるんでしょうね」
 セルリアードが冷たく言う。
「もとはと言えば、おまえが悪いの忘れてないか」
「だからと言って、別れろは筋が違いませんか」
 ほ、とラーテムズが感心したような声を出した。
「別にいいじゃないか」
「何が!」
 セルリアードが平手で机を叩く。
「仕方ないな、おまえ、最初の子供の姓をメルセフォリアにするかギルファニートにするかで、博士ともめてたよな。譲って許してもらえ」
「それこそ、筋が違うでしょう。それで許してもらえるはずが――」
「何、言ってるんだ。許してもらえるに決まってるだろう」
「は?」
「いいか、博士はあらかじめ劣勢なんだ。この件、博士が頑固な態度を取り続ければ、お嬢様が、おまえのためにメルセフォリアを捨てるぞ。遊び相手も探せない、陸の孤島も同然のこの研究所で、寂しく一人きりで泣いているお嬢様を、研究所の博士と助手は、十七年間、面倒くさがって泣かせておいたんだからな。お嬢様を構ったのも、守ったのも、おまえであって博士じゃない」
「……あなた方は、そこまで保護者として最低な真似を……」
「博士と助手の誉れ高くも素晴らしい研究と実績の数々を見て、子供になんて一切、構わなかったに違いないとわからないとは。魔道技術研究の第一人者だぞ、サリスディーン博士は」
 セルリアードは沈痛にこめかみを押さえた。
 どうでもいいが、助手の研究はまったく誉れ高くない。
「お嬢様にメルセフォリアを捨てられたら、さすがに博士が可哀相かなと思うなら、子供の姓を譲って博士の顔を立ててやれ。博士も後に引けなくて、今頃、困ってるだろう。許さなかった場合に、お嬢様を失うのがどちらか、冷静になったら気がつくからな。お嬢様が死ぬところだったと聞いて、ちょっと、平静を失ったんだろう。一人娘だ、察してやれ」
 にこやかに言ってのけるラーテムズの向かい側、セルリアードが軽く息を吐く。
「私が、やりたいって言ったの。私が、セルリアードにまで怪我をさせたの!」
 廊下からは、博士に抗議するサリディアの涙声が聞こえてきていた。
「ほー、お嬢様が言い出したのか? 勝負あったな」
 ディテイルが一人、会話について行けずに当惑していた。

 第一章 メレディア帝国 に続く


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