ⅰ
「メレディアが？」
アルン王宮の奥まった一室。深刻な表情でケルトが頷いた。アルンの若き国王だ。セルリアードとは従兄弟にあたる。
「ラルスに宣戦布告してきた。アルンへの宣戦布告も時間の問題だと思う」
アルン王国、ラルス公国、スィール帝国のあるフォラギリアと呼ばれる地方は、四方を険しい山脈と海に囲まれた、いわゆる陸の孤島だ。
フォラギリアの人々は、呼び分ける場合にはフォラギリアを『聖地』と呼び、山向こうを『大陸』と呼ぶ。
「セルリアードも知ってるだろうけど、大陸とは交易も盛んじゃないし、大陸にひしめく国々の動向に、フォラギリアは疎いんだ。だけど、とんでもない話を聞いた」
ケルトはきゅっとこぶしを握り、緊張した様子でセルリアードを真っ向から見た。
「二年程前から、大陸の統一を進めてきた国がある。それが、メレディア帝国だ。破竹の勢いで他国を併合して、もう、版図になっていないのはフォラギリアみたいな、守りやすく攻めにくい、限られた地域だけっていう話なんだ」
セルリアードもさすがに驚いた。ケルトだけでなく、セルリアードにとっても初耳となる話が多かった。
メレディアは歴史の古い国で、メレディアがなまって大陸名マラディアになった、という話もあるほどだ。ただし、真偽の程は定かではない。
はっきり言って、フォラギリアの人々は大陸のことを『誰も知らない』。ただ、フォラギリアよりもはるかに広大な土地に、多くの国々がひしめいていて、フォラギリアを守っている険しい山脈のような国境がないので、それらの国々では戦争が絶えない、という噂話があるのみだった。
「大陸の様子を探ってきて欲しい」
「――わかった」
短く答え、セルリアードは席を立った。その話が事実ならば、由々しい事態だ。
「誰かつけようか？」
「そうだな、大陸のことを少しは知っていて、信頼できる者がいるならつけてくれ。２、３人以上はいらない。あと、サリディアを連れて行くつもりだ」
少し驚かされて、ケルトはセルリアードの顔をまじまじと見た。
「どうした？」
「いや、危険な任務なのに、連れて行くんだなと思って……」
「そうでもない。あえて何かさせなければ、こちらが大陸のことを探りに来ているフォラギリアの斥候だなんて、わからないだろう？ 傍にいない方が心配だ」
ケルトは納得した。
「ああ、そっか。サリサもちょっと、フォニーみたいなところあるしね。おまえが何日も戻らなかったら、心配して、大陸に探しに行くかな」
彼女は優秀な魔道師だ。なまじ、身一つでも山脈を超えて移動できそうなだけに、冗談では済まない。連れて行くのは、賢明な判断かもしれない。
女の子は守るべきだと思って、フォニーやファスティーヌを危ない場所に連れて行かない判断をしがちなケルトは、それで、失敗することも珍しくなかった。なにしろ、フォニーもファスティーヌも、おとなしく守られていてはくれない。
「おまえなら、誰より、アルンのためになる判断ができるだろう。私にも、この話が本当だとしたら、どうしていいかわからないが」
どうしていいかわからない、というセルリアードの言葉は、ケルトには少し意外だった。
いつでも、正しい判断ができていそうなこの従兄から、こういった言葉を聞くとは思わなかった。
「セルリアードでも……そうか……」
信頼に足ると信じている他人にも、方法がわからないと知ると、ふっと、探している方法はそもそもないのだ、と気付くことがある。
アルンはフォラギリアにおいては最も広大で豊かな領地を持つ王国だ。それだけに、ケルトはこれまで、敵の大きさに手も足も出ない場合に、国民をどう守ればいいのか、苦悩する経験をしたことがなかった。
己の信じる道のために、己の命ひとつを懸けるのと、アルン王国のすべての民の命を懸けるのとでは、決断の重さがまるで違う。
ケルトは、追い詰められていた気持ちを緩めて、セルリアードに笑いかけた。
「じゃあ、よろしく頼む。こっちで僕も、打てるだけの手は打っておくけど、聖魔の魔力って、戦争とかに使うわけにはいかないよな」
「わからないが」
少なくとも、セルリアードは、他人の命の責任など負いたくない。彼がなぜ、ケルトに王位を譲ったか、不思議がる者も少なくないが、他人の命運をできるだけ預かりたくない彼では国王に向かないと、よく、わかっていたからだ。ケルトやサリディアの方がずっといい。真っ直ぐに、皆のために何ができるかを考えて、理不尽に傷つけられても挫けない。
「……セルリアード、おまえが聖魔なの、みんな知ってるんだから、駄目って言ってくれないと、聖魔に何とかしてもらえばいいって、そういう話になるだろ」
「ああ、じゃあ、駄目ということにしておく」
ケルトは大袈裟にため息を吐いた。
「あのさ、聖魔はともかく、サリサのことは知られない方がいいんだから、気をつけなよ」
セルリアードは確信犯の微笑みだ。何しろ麗容の持ち主なので、無駄に妖艶だった。
言われなくても、地の魔道師のことは何も知られてないだろう、という自信というか、自慢というか。
聖魔であることを、セルリアードがその事実を知っている相手に対して下手に隠さないのは、威圧して、それ以上の詮索をさせないためでもあるのだ。
聖魔はいい。
けれど、地の魔道師は、知られない方がいい。
サリスディーン博士からの指示で古文書を当たっていた神官が、とんでもない事実を発掘したのだ。
古文書の記述が事実であることは、もう一人の聖魔マーディラが知っていた。
魔族である彼女の年齢はようとして知れないが、先代の地の魔道師によって、人間界の文明を遥かに凌駕していた魔界の文明は、跡形もなく、滅ぼされたのだという。
天魔は時を滅ぼすが、地の魔道師は文明を滅ぼす。
サリディアが怒り、大地震を起こして、おびただしい死者を出しながら文明を滅ぼすなんて、ケルトにはまったく考えられない。だが、誰もそう考えないわけではない。
彼女を知らない者ほど、魔界文明を滅ぼした地の魔道師と同じことを彼女がすると、考えてもおかしくないのだ。
だから、地の魔道師は知られない方がいい。
きっと、サリディアが悲しむようなことが起こるだろうから。
ⅱ
アルンの諜報部隊がメレディアの皇都に辿り着くまでに、出発から七日が経過していた。
皇都までの長い道程は、メレディアの版図の広大さを知らしめるものだった。しかも、帝国中の至る所に人が住んでいる。
ようやく皇都に入ったものの、王城はまだ遠い。
「サリディア、話があるんじゃないか？」
普段、あまりわがままを言わないサリディアが、今日に限って、彼と二人で馬車に乗りたいと言ったのだ。純粋に、彼と二人になりたかったからではないだろう。
そうだったら、遠慮して、彼女はあまりはっきり言えない。
窓の外には平和な景色が広がっている。フォラギリアと同じように、人々が泣いたり、笑ったりしながら生活している。
「戦争、したくないね……」
初夏の陽射しに輝く菜園や、通り過ぎて行く街並みは、アルンと同じもの。
彼女が彼と二人きりになって、この言葉を口にしたのは――
感傷ではなく、彼女が導き出した答えだから、だ。
ほんの数年前にも、アルン王国は隣接するスィール帝国と戦争している。
スィール帝国との戦争では、アルン王国軍は、アルンに住まう人々の命と暮らしを守るために戦った。
けれど、メレディア帝国軍は、敵国の王侯貴族の首は切っても、町や村を焼き払ったり、人々から略奪したりという、戦争につきものの非道な行いを、極端にしてきていない。
敗戦国の民は、賠償金ならぬ二度の賠償戦を要求されるが、これに勝てば、メレディア帝国に晴れて国民として受け入れられる。この二度の賠償戦に、メレディアは敵国の倍の戦力を用意している。
倍のメレディア帝国軍と戦うより、半分の他国軍と戦う方が、勝算は遥かに高いだろう。
周辺国より強大な軍事力を得るまでの、厳しい緒戦を勝ち抜いた後、メレディアが破竹の勢いで版図を拡大したのは、人々の暮らしを極力踏み荒らさない賢明な戦い方と、征服後の良政によるところが大きかったようなのだ。
「この様子なら、メレディアに征服されたとして、国王と法律が変わるだけ、あまり、不幸な国にも見えない」
そのメレディアが、最後に残したのが聖地フォラギリアだ。
実質的に、アルン王国を落とせば、メレディアの大陸統一は完遂となる。
「王侯貴族を助命してもらう交渉に力を尽くして、大陸全土を敵に回すような戦争は避けたい――そんなところかな」
こくんと、サリディアがうなずいた。
セルリアードもサリディアも、アルン王国に宮廷魔道師として仕えてはいるものの、生まれも育ちも周縁の都市国家だ。
アルン王国に対する愛国心は強くない。
「ケルトはともかく、貴族諸侯は納得しないだろうな」
「貴族諸侯じゃなくても、アルンが生まれ故郷なら――ディテイルやピートだって、納得できないと思う」
理解していながら、彼女がそうしたいのは、大陸全土を敵に回した戦争でも、四元の魔道師が参戦すれば、勝敗はわからなくなるからだ。
古文書によれば、地祇の環を携えた地の魔道師が、一人で魔界を滅ぼしている。魔界を滅ぼせるのだ、人間界だって滅ぼせるだろう。彼女が受け継いだ地祇の環には欠損があるが、炎の魔道師が受け継ぐ蒼炎の剣には欠損がない。アルン王国の王妃である炎の魔道師ファスティーヌが、アルン王国とケルトを守るため、メレディア帝国軍を壊滅させないとは限らない。それどころか、アルン王国の宮廷魔道師という立場上、その役割はまず、サリディアに回ってくるものだ。
風の魔道師が風韻の珠を携えれば、敵軍を竜巻で吹き飛ばしたり、真空刃で切り刻んだり、恐ろしいことができるだろう。
地の魔道師が地祇の環を携えれば、大地震を起こして、敵軍を大地に呑み込むような真似もできるだろう。
流水の杖を携えた水の魔道師にも、大洪水を起こして、古代の王国を丸ごと水の底に沈めたという伝説がある。
けれど、四元の魔道師は殺戮のための兵器ではなく、彼女らには心があるし、そこまでの術の行使は命と引き換えだ。
「まだ、そう深刻になることもないだろう。国を見る限り、メレディア皇帝は聡明だろうし、交渉の余地はある。私が何とかできると思う」
セルリアードの瞳の色と、口調の冷静さに、サリディアは微笑んだ。何とかできるらしい。
「どうやって、交渉するの？」
「『大陸』には魔族がいない。その意味と恩恵を、『聖地』の何たるかを、大陸の人々が知らないとしたら――？」
険しい山脈に囲まれた陸の孤島、聖地フォラギリアは、天然の要塞であるだけでなく、魔界や妖精界とつながっている。
人間界を『世界』と見れば大陸の片隅でも、人間界、魔界、妖精界の三界を『世界』と見れば、聖地は世界の中央に位置しているのだ。
フォラギリア地方では、人里を少し離れれば、運が悪ければ魔族に出くわし、大人でも命を落とす。
けれど、聖地の外側にはまだ、魔族や妖精族は少ない。ほとんどいない。
険しい山脈だけでなく、聖地には高い魔力を持つエマ一族がいて、人間界に深入りする魔族を牽制してきたためだ。
魔族や妖精族と人間との混血が、より強い魔力を示しやすいのも、三界の均衡を守るための、創世神のからくりだったらしい。
「そうだね。大陸には、子供が歩けるくらい、魔族も猛獣もいない森がある」
国中の至る所に人が住める。それは、聖地では望み得ない、魔族がいないことの恩恵だ。
聖地が魔族に蹂躙されるようになったのは、エマ一族が魔女狩りに遭い、同族の人間の手によって滅ぼされてからだという。
聖地も最初から、魔族の脅威にさらされてきたわけではないのだ。
大陸の人々が大挙して押し寄せ、聖地を攻め落とせば、おびただしい数の魔族が、聖地から大陸へと、勢力圏を拡大しかねない。
メレディアの侵攻は、エマ一族を滅ぼした魔女狩りの二の舞だ。
「戦争にはさせない、国も明け渡さない」
エマの末裔であるサリディアを安心させるように、優しい口調で、セルリアードは交渉の手札を示して、自信を見せた。
不穏な情勢を受け、彼女の中でずっと緊張していたものが解けて、心が軽くなる。
サリディアはほっとして、セルリアードに笑いかけた。
ⅲ
「サリディア」
皇都の中心部、城下に宿を取った翌日の昼下がり。
魔術での目立つ移動を控え、馬車を乗り継いだ長旅の疲れが出たのか、サリディアは少し熱を出していた。
その彼女を休ませて、城下の下見に出ていたセルリアードが宿に戻った。何か興味深いことでもあったような様子だ。仕事になるかもしれない。
「なに？」
「皇太子誕生記念のパレードだ。もうすぐ通るらしい」
サリディアの額に手を当てて、熱をはかるようにしたセルリアードが、そのまま額を合わせた。
「ひゃ」
驚いて、小動物のように身を引きかけたサリディアの腕を、セルリアードがやや強引につかんで、軽めのキスの後、少女のしなやかな首筋と胸元にも、口付けを落とした。
「んっ――」
「どうした？」
「あ、体調はへいき。熱は下がったけど、あの、熱が、上がるから……」
セルリアードはくすくす笑って、サリディアの口許に指を当てた。
「仕事っていう顔をして参列しないように。パレードを見にきた旅行者だから」
こくこく、うなずいたサリディアの頭を軽くなでると、セルリアードはてきぱきと自分の髪をまとめにかかった。
「それ、もったいないね」
彼の月光が零れたような銀髪はすれ違う人を振り向かせるので、目立たないよう、紐でまとめて、布を巻いて隠してしまうのだ。
「後で、また見せてあげるから」
「うん」
サリディアの素直な様子に、セルリアードが口許を隠すようにして失笑した。
それにしても、隠密行動に、彼ほど向かない人もいない。
髪を隠しても、容姿の美しさでまだ目立つ。
彼女も身支度を整えて、彼が差し伸べてくれた手につかまった。
メレディアまで、一緒に連れてきてもらえて嬉しい。
子供の頃は、いつも、彼が帰ってしまうと寂しかった。ずっと、一緒にいたいと願っても、叶わないまま、会えなくなって――
いつまでも、彼の傍にいられる時が続いて欲しい。
大切にしたい、この時を。
ⅳ
わっと、人だかりがわいた。
パレードの先頭、白馬に引かれた、豪華な四頭立ての馬車が街道に姿を見せたのだ。
楽隊が奏でる荘厳な音楽も、人々の興奮に拍車をかける。
「すごいね、ケルト達もこういうのするのかな」
「どうかな、やめて欲しいが」
するとなったら、従兄として、宮廷魔道師として、セルリアードは中心になって取り仕切らなければならない立場だ。
あまり、積極的に催事に参加しないセルリアードに、取り仕切る側に回れというのも酷な話なのだが、義理人情に篤いディテイルあたりに『どうして従弟の幸せを積極的に祝ってやれないんだ、人情味のないヤツだな！』とか、叱られるのは目に見えている。ピートあたりが『どうして祭りを楽しめないんだ、焼きトウモロコシと焼き鳥の屋台は、間違っても欠かさないでくれよな！』とか、セルリアードが疲れるのを承知で、ディテイルにかぶせてくるのも目に見えている。
「皇帝は？ わかるか？」
「ううん。まだ、遠くて」
パレードが通る大通りと観衆の間は、白い綱に茜の色糸を編み込んだ、頑丈な二本の綱で仕切られている。
と、セルリアードが魔力を動かした。
「なに？」
観衆とパレードを仕切る白い綱の内側の地面に、精密な紋様の帯があって、その紋様の一部が一瞬、翡翠の燐光を放った。
「精霊壁――」
「え？」
「サリディア、これ、国では黙ってて。こんな真似はしないから」
襲撃者への警戒か、街道を精霊壁で守ってパレードを強行しているのだ。歩哨も立っているし、馬車の前後は、純白に金糸の式服の近衛隊が守っている。
「花びらをまいて、パレードの先頭を行く少女達がいるだろう？ 彼女たちの衣装、精霊魔法の威力を高める紋様がこまかく織り込まれている。たぶん、精霊使いだろう」
セルリアードは腑に落ちない顔だ。
「警備が厳重すぎる気がするんだが――ここまでして、皇太子の生誕って祝わないとならないものか？」
大陸統一戦争を推し進め、その完遂を間近に控えたメレディア帝国の、皇帝と皇太子が群集の前に姿を現すパレードだ。襲撃を厳重に警戒するのは必然ながら、違和感があるのは、それでも、皇帝や皇太子の命を無駄に危険にさらすようなパレードが強行されたことだ。
「そうだね。でも、帝国の人達の心をまとめるために、必要なのかもしれない。皇帝陛下が子供の生誕を祝ってもらいたいかどうかとは、別の問題なんじゃないかな」
「ああ、そうか――」
ほんの数年前まで、大陸には多くの国々がひしめき合い、人々は、それぞれ異なる国で、異なる暮らしを営んできたのだ。そんな、立場も習慣も違う人々の心をひとつにまとめるために、こうした催事が必要になるのか。
話すうちに、馬車がすぐそこまで近付いた。
赤ん坊を抱いた美しい女性と、風格のある高貴な青年が、人々を惹きつけてやまない笑顔で手を振っている。
どちらからともなく、セルリアードとサリディアは顔を見合わせた。ある人物に似ている、そう強く感じたからだ。
黒曜の瞳、くるみ色の、肩のあたりで軽く結った長い髪。
色彩的にも、雰囲気的にも違うのに――
「似てないか？」
「うん、フェルディナント公子に？」
二人は視線を皇帝に戻し、彼らの共通点を見極めようとした。まるで違う、公子は一度も、こんな風には笑わなかった。
だとしたら、もし、公子がこういう表情を見せたらどうか。
それこそ、そっくりなのでは――
「サリディア」
セルリアードが軽く、サリディアの腕を引いた。
「なに？」
「皇帝と目が合った。いやな予感がする。抜けよう」
こういうパレードの場合、主役は誰とも目を合わさず、上手に視線を逸らして、全体に笑顔を向ける。観衆の一人と皇帝の目が合うことなど、まず、ないはずなのだ。
彼女は驚いたものの、とにかく、彼の後に従った。
「でも、悪いことしてないよ」
「ああ。だが、私のいやな予感は当たるんだ」
「マーディラさんが来る時みたい？」
彼に言わせれば、魔女マーディラの来訪は、突発的かつ繰り返される災厄なんだとか。
「――的確」
人々でごった返す大通りを足早に抜けて、パレードとは外れた通りに入る。
「誰か、ついてくるね」
「まく」
セルリアードの悪い予感は当たったようだ。
まくと言っても、駆け去ったりしては怪しまれる。落ち度はないはずなのだ、どこか、街角を利用してまくしかなかった。
「しつこいな」
かなり歩いたけれど、追手は執拗だった。ただ、追手の方も、あからさまには追えないらしく、通行人を装っている。
「困ったね」
そう言ったか、言わないか。くらっとして、サリディアは気が遠くなった。
「サリディア!?」
セルリアードの声が聞こえる。何が起こったのか、彼女には、わからなかった。歩いていたはずなのに、彼に抱きとめられている。
「大丈夫ですか!?」
見知らぬ中年の男性に声をかけられた。
「大丈夫です。ご丁寧に」
セルリアードが答えた。サリディアにもすぐ、状況が見えてきた。彼女が一瞬、意識を失って、追手に駆け寄る口実を与えてしまったのだ。
追手は二人で、ともに三十代前後の男性だった。
気品と隙のなさを兼ね備えた立ち居振る舞いで、よく見れば、純白に金糸の式服だ。パレードで見たばかりの、近衛の式服だった。
「突然で申し訳ないが、少々、時間を頂きたい」
「いえ、彼女を休ませたいので」
セルリアードが冷静に、やや突き放した口調で断る。
「こちらで診ましょう。皇宮になら、優れた医師がおります」
彼らの強引な申し出に、さすがに、セルリアードも息を呑んだ。
「――人混みに疲れただけだと思います。医師に診て頂くような、それも、皇宮に伺うような大袈裟な真似はしたくないのですが」
彼らはそれでも、紳士的な態度を崩していない。
敵国の人間と知られてのことなら、この態度は不自然だった。
けれど、知られていないなら、この状況が不自然だ。
「申し訳ないが、大事でないならば、なおのこと従って頂きたい。皇帝命令です」
サリディアがきゅっと、セルリアードの袖を握った。
人々はパレードが通る大通りに詰めかけていて、この辺りは人目もまばらだ。
不意打ちで、相手を気絶させて逃げることも、できなくはない。
「サリディア、平気か？」
「うん」
けれど、彼らはまだ、縄をかけるような真似はしてきていないのだ。皇宮に潜り込むチャンスと言えば、チャンスだった。
行こう、と彼女が頷いて見せると、セルリアードは少し驚いた顔をした後、笑みを浮かべた。どこか妖艶な、魔物めいた笑みだった。
