神殿の少女

魂の誓約


「寝台にかけて」
 シルフィスを居室に通すと、ゼルダはそう指示して、隣室へと姿を消した。
 木彫の豪奢な机と椅子が、傍にある。そちらを使わせないのは、彼女が神殿の者だからなのか、飾りだからなのか。
 グラスと飲み物を持って、間もなく、ゼルダが戻った。
 十日後、彼女の兄は地下刑場での、死ぬまでの苦役が待ち受ける十八歳になる。
 
 ――聖アンナの守る世界は、美しいね。さっきまで雨が降っていたから、雨上がりの光を浴びて、葉の上で雫が輝いている。当たり前の風景なのに、どうして今まで、この美しさに気付かなかったのかな――
 
 ゼルダが寝台のサイドテーブルにグラスを置き、彼女の隣にかけて、誘うようにシルフィスを見た。
 
 ――そうだね、セデスが寂しがるかもしれない。あの子は、とても素直ないい子なんだ。私になついてくれている。シルフィス、よく聞いて。十七歳になったら、セデスを連れて逃げるんだ。カスティールへ向かえば、あの廃墟の人達なら、匿ってくれる。会えなくなった後も、ずっと、二人を守るから。迷ったけれど、皇室への報復は、諦めたんだ。この命が果てる時には、二人への加護を、聖アンナに願うよ。だから必ず、それぞれ幸せに――
 
 生涯を信仰に捧げた方術師に、ただ一度、与えられる加護がある。
 アルベールは、それを復讐ではなく、彼女と拾い子のために供するような、誠実で優しい人だった。
 救えるなら、何をしても、救いたい――
 シルフィスは祈るように、ゼルダに願った。
「兄を、助けて下さい――」
 うなずいたゼルダが差し延べた手に、誓約の刻印。
 カムラ皇室の人々を、彼女は、人の心など持たない、背徳的で残酷な死霊術師だと思ってきた。けれど、ゼルダはレダスを冤罪だと言い、聖アンナの刻印さえ、受け入れてみせた。
 シルフィスがそっとゼルダの手を取ると、彼は微笑んで、寝台に片膝を立てた。
「誰かでも、何かでもいい。己の全てを代償にしても、守りたいと願ったことがある? その気持ちを、君は知っている?」
 シルフィスは静かにゼルダを見詰め、こくんと頷いた。
「――そう。愛する人のために、己の命さえ懸けること、それよりも、耐えて生き抜くこと、両方できるなら、聖アンナの教えは確かに、尊いのかもしれない」
 聖印を刻んだゼルダの手が、少女の細い肩を捕らえ、遠慮なくシルフィスを寝台に押し倒した。
「えっ――!」
 押さえ込まれ、シルフィスは混乱する瞳でゼルダを見た。
「優しかった母上も、慕っていた兄上も、害されてしまった。妃と子は、遠方に逃がさざるを得なかった。抱き締めて、愛しさを確かめられる場所に、誰もいないんだ――」
 ゼルダの手が、聖衣の上から少女の胸をまさぐった。
 何をされているのか、何をされるのか、シルフィスは恐ろしくて、たまらなかった。
「全てでも、懸けられる。けれど、失った時には――この痛みも寂しさも、死が訪れれば終わると――冥王が甘く囁く声に、抗いがたい。それが、死霊術師の資質だそうだよ」
 ゼルダの左眼に、あえかな真紅の光が宿り、彼女を射抜いた。
「お人好しだね、シルフィス。君達は方術に頼りすぎる。宮廷人を、信じるものではないな。ご両親と同じように、君達の命運も絶たれるだろう」
 聖衣を容赦なく()がれ、(なぶ)られて、震えながら恐怖を募らせるシルフィスに、ゼルダが左手の甲の聖印を、示した。
「確かなものだと信じたね」
 魂の誓約より確かなものなんて、存在しない。
 相手がどれほど優れた死霊術師であっても、魂の誓約だけは、破れない。
「シルフィス、胸を一突きにして、アルベールの命を絶っておいで」
「――!」
 押さえ込まれたまま、シルフィスは目を見開いて、身を強張らせた。
「死んだ方術師の免罪は、容易い。私に従うと約束したはずだ」
 彼女が唇を噛んでかぶりをふると、ゼルダの手の甲に確かに在った聖印が、消え失せた。
「ひ、酷い……! 初めから……!? 初めから、そのつもりで――!!」
 ゼルダは魔のある微笑みを見せると、露にした少女の肌に、熱を伴う、(てのひら)と口付けで触れた。
 
 確かなものは、ただ、この想い。
 どんな言葉も、魔法も、かなわない。
 
「あ、やめて! やめて! ――いやぁ!!」
「シルフィス、君達は真心で誓約し、誠実にその約束を守るけれど。宮廷人の誓約は、そんな、いいものではないよ。心のない、契約だ。相手が何を期待しているか、知った上で相手の読み違いを誘い、己に都合の良い契約を結ばせる。君達にはそれが見えていないから、いいように騙され、悪事の片棒を担がされるんだ」
 口許を震わせただけで、シルフィスには何も、言えなかった。
 寝台のサイドテーブルに、ゼルダが外したらしい、護身用の短剣。
 それに気付くと、シルフィスは懸命にゼルダの腕を逃れ、飛びつくようにそれを取った。恐怖に掠れる声で、ゼルダに告げた。
「触れないで……! これ以上、私に何かするなら、あなたを殺して、私も死にます!」
「――即死は、させるのもするのも難しい。怪我をするだけだ。君の綺麗な肌に傷がつくよ」
 シルフィスは短剣を両手に構えて身を沈めると、ゼルダに突きかかった。
 間一髪で阻止したゼルダが、少し驚いた表情で、シルフィスの手から短剣を取り上げた。
「驚いたな、短剣の握り方を知っているのか」
 ゼルダの目には、顔を背けた少女の乱れた横顔さえ、美しく映った。
「気に入った、シルフィス。私の側室になってもらうよ」
「側室になん――!」
 ゼルダは不遜な微笑みを見せると、シルフィスの両手首をつかんで、寝台に組み伏せた。悲鳴を上げて抗う少女に、麗しく微笑みかけた。
「シルフィス、今は抗っても、すぐ、(とりこ)になる。――私なしではいられなくしてあげるから、覚悟して――」
「や、やめて! ――お願い、やあぁっ!!」
 渾身の力で抗い、シルフィスは力尽きるまでゼルダを拒絶し、泣き叫んだ。
 けれど、長くしなやかな腕と、魔物めいたガーネットの瞳に絡めとられ、拒絶はほとんど意味をなさなかった。
「シルフィス、とても綺麗。――肌が熱い――」
 彼女の震える、絶え絶えの悲鳴はもとより、涙さえ、彼を感じてのものと、ゼルダは判断するようだった。
 苦しさと恥辱にさっと頬を染めたシルフィスに、ゼルダが遠慮なくのしかかった。
「……あぁっ――! や、いやあぁあっ――!」
 
 
 ゼルダになすすべなく陵辱されたシルフィスは、震える手を寝台に突き、色を失くすほど、こぶしを握り締めた。
 もう――
 シルフィスは生まれて初めて、人の死を願った。絶てるものなら、ゼルダの命を絶ちたい。
 それと知ってか、知るよしもなくか、ゼルダが震える彼女を抱き寄せた。
 シルフィスはわずか、微笑んだ。
 彼女が抗わない意味を、勘違い、していればいいから。
 解放されたら、この部屋の窓から身を投げる。
 虜になんてできなかったこと、思い知ればいい――!
 微笑みはすぐ、悲痛な思いに歪んだ。
 ただそれだけの報復しか、出来ないのだ。愛してくれた両親の命、優しい兄と、彼女自身の未来、理不尽に絶たれ、何もかも、完膚なきまで蹂躙されたのに――
 握り締めた指を、なお涙が濡らし、身が酷く震えた。
「シルフィス、アルベールの命を絶てと言ったのは、聖アンナの加護があっても、人が容易に騙されることを教えておきたかったからなんだ。本気ではないよ。君を側室に迎えることで、アルベールに恩赦を出せる。魂の誓約などなくても、私はそうする。そうしたい。――君と、アルベールのために」
 何を言われたのか、シルフィスはとっさに飲み込めなかった。
 ようやく飲み込めても、たった今、彼女に彼を信じるなと教えたゼルダの言葉だ。
 それに、こんな形での恩赦を、アルベールは望まない。
 その誇り、信仰と引き換えの命乞いを、両親の尊厳さえ貶める命乞いを、誇り高いアルベールは――
 恐怖と混乱に、シルフィスは身を震わせて喘いだ。
 信じていいのなら、彼女がゼルダに、彼女の全てを蹂躙したゼルダに従えば、アルベールは奴隷にされない。
 けれど、彼女を大切に守ってくれた家族の信仰と真心を、どれだけ貶め、傷つけることになるのだろう。
「私、は……! 信仰に背いて、兄を傷つけて、それでも、兄を死なせまいとする……!」
 寝台の影、ビロードの絨毯(じゅうたん)に、叩き落とされた短剣が、そのままになっていた。
 取り返しのつかない罪を犯す前に、この命、絶ちたい――
 混乱し、追い詰められたシルフィスは、それだけを願った。
 震える手を短剣に伸ばしかけたシルフィスを、ゼルダが固く抱き締め、取り押さえた。
「――いやっ、放して!」
 泣き叫ぶ彼女の、半ばうわごとのような拒絶の言葉を、ゼルダは辛抱強く聞き取った。やがて、その瞳を翳らせた。
「シルフィス――、もう、いい。君の意向は問わない。君を側室として、私の宮に迎える。死を選ぶことは許さない。アルベールだけでは足りないなら、君が死を選んだ時には、セデスと言ったね……? あの子をまず、八つ裂きにするよ。その上で、アルベールもろとも、聖アンナ神殿を滅ぼすから。そうされたくなければ、君は私の駒として、生きなければならない」
「……そんな、関係ない子供や神殿を巻き込まないで! そんな風にしないで、お願い――!」
 泣いてすがる彼女に、ゼルダは優しく微笑みかけて、寝台を立った。
「駄目だよ、シルフィス。わかったら、アルベールへの恩赦は、君が生きていれば出す。彼が助けてくれるまで、神殿の、君の大切な人達のために、生きていて」
 その脅迫は、冷酷な事実をはらむ。
 ゼルダが闘わなければ、神殿は遠からず、ゼルシアに滅ぼされるのだ。たった一人で、自己満足のためだけに闘えるほど、ゼルダだって強くはない。
 
 
「――……」
 泣き疲れて眠り込んだ、憔悴した少女の横顔を見ながら、ゼルダは嘆息した。
 望んだ相手の心を奪えないのは初めてで、本当は少し、途惑っていた。
 こんなはずでは、なかったから。
 誠実に、彼が彼女と神殿を守ろうとしていること、彼女を愛しむ思い、抱くことで、ある程度伝わるものと思っていたのだ。
 そうすれば、この容姿で、夢の皇子様だ。彼を望まない女性がいるなんて、夢にも思わなかった。
 それが思い違いだったことは、思い知った。