けれど、母皇妃アーシャはいつも、優しい人だと言って微笑んでいた。
権力闘争の最中、民に失望して冷酷になったハーケンベルクの姿を見て、皇帝となり、人気取りの必要がなくなって冷酷になったのだと、シャークスの言う通りだったのだと、人々は考えた。
その傍らで、最後までハーケンベルクを信じて、懸命に闘っていたのがアーシャだ。
もう十年も前の春の日に、ゼルシアに毒を盛られて、アーシャは命を落とした。
その伴侶が、民の信頼と尊敬を一身に集めようと、非難と否定を一身に集めようと、変わらず信じ、理解し、愛し続けた皇妃の最期だった。
“ ゼルシアを糾弾することは許さぬ。私が、おまえの世迷言を真に受けると思って来たなら、思い違いだ ”
ゼルダはきゅっと、エメラルドを象嵌した母皇妃の形見のペンダントを、握り締めた。
母皇妃と兄皇太子を暗殺したゼルシアに、その皇子に、かしずくくらいなら――
皇太子争奪についての話があった後、ゼルシアの提案が素通りする形で、聖アンナ神殿を滅ぼすことも、議決されてしまった。
現皇帝ハーケンベルクの治世下だけで、立て続けに、三人もの皇族が聖アンナ神殿に属する方術師に葬られたのだ。
方術師は冤罪をかけられたか、捨て駒にされたかに過ぎず、一連の暗殺を企てたのはゼルシアだ。それなのに、肝心の方術師が、皇室への要求だけを声明すると、追求を待たず命を絶ってしまう。
この期に及んでの釈明は受け入れられないと、聖アンナ神殿そのものを滅ぼす気運が高まっていたのだ。
その気運に、ゼルシアが乗じた。
聖アンナ神殿が滅べば、皇族暗殺の真相もまた、闇に葬られる。
もとより、ゼルシアはいずれ切り捨てるつもりで、方術師の命運を弄んできたのだ。
ゼルシアに、その皇子に、かしずくくらいなら――
議会が解散した後、聖アンナ神殿に足を運んだゼルダは、その中庭に面した廊下を渡りながら、微笑んだ。
父皇帝に感謝するべきなのか。
リディアージュとエルディナスは逃がした。
神殿を守るため、今、彼が事を起こしたなら、その累はヴァン・ガーディナ、ひいてはゼルシアに及ぶのだ。
他者の命運を弄んできたゼルシアへの報いだ。
父皇帝とゼルシアのおかげで、もう、失うものは何もない。
それなら、この命、聖アンナに捧ぐ。シャンディナの姿をし、彼女の願いを叶える約束をした、闇の帝国に降ろされた天使に――
決意して目を上げたゼルダは、見覚えのある人影に気付いた。
神殿の中庭に、シルフィスと名乗った少女と、もう一人は、アルベールだ。
二人はゼルダに気付かない様子で少し話して、別れた。
「こんにちは、シルフィス。また会ったね。可愛い女の子と縁があって嬉しいな」
「え……?」
中庭に残った少女に声をかけると、見る間に、柔らかだったその表情が強張った。
「帰って下さい……!」
「アルベールとは知り合い? 恋人同士みたいに見えたけど」
シルフィスは壊れそうな目でゼルダを見たきり、答えなかった。
「それなら、彼は君を連れて逃げてくれそうかな」
シルフィスの肩が、小刻みに震えた。
「私の兄です。皇帝が、私の家族をみんな奪ってしまう! みんな、優しい人達だったのに!」
少女の琥珀の瞳は、確かに、アルベールの真摯な瞳によく似ていた。
「アルベールが、君のお兄さん? じゃあ、アルベール・レダスなのか」
それでと、ゼルダは納得した。
皇族を随分、肩書きだけで憎むと思っていたけれど。
冤罪で両親を断首されていれば、憎みもするだろう。
琥珀の瞳を悲しみに揺らして、恨むようにゼルダを見詰める少女の思いも、無理からぬものだった。
数ヶ月前の戦地で、アルベールは十七歳だと言っていた。兄妹は、もう間もなく引き離されるのだ。
少女に残るものは、罪人の子だという烙印と孤独。待ち受ける未来には、恐怖と絶望しか見えない――
「ねぇ、シルフィス」
ゼルダは優しく少女に微笑みかけると、その横顔を取った。
「君のことも、アルベールのことも、私が助けてあげようか?」
少女は口許を頑なに結んで、ゼルダの手が届かないところまで身を退けた。
そうしてから、横にかぶりを振った。
「そんなの、嘘です。――だって、助けられるなら――」
少女は、琥珀の瞳に涙を浮かべた。
「私の父と母を、助けて下さったはずです。父も母も、皇妃様を殺したりしないのに死刑になったの!」
シルフィスは身を震わせて、両手で顔を覆った。優しい亜麻色の髪が肩から落ちた。
両親を連れて行かれた日のことを、思い出して――
何かの間違いだと、両親は懸命に身の潔白を訴えたけれど、ついに、それきり帰らなかった。数日後に、首が晒された。
「宮殿に住む、悪魔に魂を売った人の助けなんていらない、兄を連れて行かれたら、兄が死んでしまったら、命だっていらない! 私達、あなた達の手が届かないところで、神様の国で、幸せになるもの!」
「――……」
何だか、ゼルダは居心地の悪い思いをした。覚えたのは既視感だ。
―― ゼルダ、助けてあげようか? ――
ゼルダが十二、三歳の時に、ヴァン・ガーディナが同じ言葉をかけた。
あの時、その手には乗らないと拒んだ。
助けられるなら、アルディナンをなぜ助けてくれなかったのかと。二度と騙されないし、助けて欲しいことなどないと拒絶した。
だから、シルフィスの気持ちはよくわかる。彼女が死ぬつもりなのは頂けないけれど。
今の彼女に、きっと、彼の言葉は届かない。誠意と方法を先に示さなければ、その希望を救い上げて見せなければ、固く閉ざされた心は開かない。
それなら――
「シルフィス、可愛いね。私がその気になったら、明日にも、アルベールを死罪にすることだってできるんだよ。呪いをかけて、魂が狂うまで苦しめることもね」
シルフィスに向かって踏み出すと、ゼルダは絶句した少女の白い喉元に、指を這わせた。
「おいで。アルベールをどう助けるのか教えてあげる。先の戦役で、アルベールに命を助けてもらった。アルベールと君が奴隷に落とされないよう、手を打つんだ。君達のご両親が冤罪だってことを、君達にはいずれ、証言してもらわなければならない」
「!」
シルフィスの琥珀の瞳が揺れた。
「でも、兄様は、そんなこと何も……」
「アルベールは、徴兵された少年兵と見間違えて、私を助けたんだ。名乗ったら顔色を変えたからね。不本意だったから、話したくないんだろうな」
「……」
ためらうシルフィスの手を引いて、厩舎まで連れると、ゼルダは難なく彼女を抱え上げ、ひらりと馬に跨った。
シルフィスがたまらず悲鳴を上げる。
「待って! どこへ――」
「皇宮の、私の宮へ」
「やめて! だめ、兄様に断っ――」
「邪魔は、させないよ」
息を呑むシルフィスを抱き締め、ゼルダは強く馬の腹を蹴った。
馬に乗るのなんて初めてなのだろう。身を硬くしてしがみつくシルフィスに、ゼルダはあえて追い打ちをかけた。
「――シルフィス、私の趣味は『かどわかし』なんだ。知っていた? もう、帰れないよ――」
皇宮に連れ込まれ、馬から降ろされると、シルフィスは手討ちも覚悟でゼルダをなじった。
「私を神殿に、帰して下さい!」
恐怖に、全身ががくがく震えている。
ゼルダがぽんぽんと、落ち着かせるように優しく彼女の頭を叩き、その髪を一筋指に絡めた。柔らかな口付けを落とす。
「おいで」
とくんと、シルフィスの心臓が跳ねた。
けれど、恐怖や警戒心は解けず、彼女は血の気を引かせて立ち尽くしたままだった。その彼女に、ゼルダが言った。
「シルフィス、――君自身が犠牲になるのが怖いなら、」
彼女の肩先に、ゼルタが触れた。
「ずっと、震えているね。今なら、なかったことにもできる。私に従ったら、君はアルベールの免罪と引き換えに、酷い目に遭う。アルベールも、それを望みはしないよ。君が、望むかと思ったんだ」
シルフィスの髪が一筋、ゼルダの指をすり抜けて流れた。
初めて、琥珀の瞳がすがるようにゼルダを見た。
「――本当、なら……どんなに――」
不幸な兄妹に、真心から手を差し伸べてくれた人は、皆、事の深刻さを知ると、去ってしまった。
関わり合いになるのを恐れて、誰も、出来るだけのことすら、してくれなかった。
怯まないのは、何もしないうちから何かを求める――何かする気はもとよりない、そんな人達だけだった。
あなたもと、シルフィスは目に涙をためて、かぶりをふった。
ゼルダは何も、言わなかった。
哀しく優しい瞳で彼女を見詰め、その髪を、そっと撫でた。それすら、慰めになったのかは、わからないけれど。
「――シルフィス、私に従うなら、アルベールの免罪は約束する。方術に、破れない誓約をさせるものがあるね。君に使えるなら、この場で」
耳を疑うように、シルフィスは数秒、微動だにしなかった。
方術の『魂の誓約』は、破れば命を落とすものだ。
「誓約は、破らないから。私を信じて」
「――……」