神殿の少女

遥かな皇都を


 ライゼールへ向かう馬車の中、シルフィスは贈られた絹のドレスの肌触りを、そっと確かめていた。
 衣装一枚で、こんなに、大切にされている、と噛み締める気持ちになると思わなかった。
 こんなに綺麗で精巧な、優しい手触りの衣装が彼女に似合うと、ゼルダは想ってくれるのだ。一生、大切に抱き締めていたい。ドレスはいつか擦り切れても、この想いはきっと色褪せない。
「シルフィス、あれがレイデン塔よ♪ とっても綺麗な宗教画が、最上階の一面に飾られてるのよ。あとはねー♪」
 この頃は、アデリシアもシルフィスに優しくて、一緒にいると明るい気持ちになった。アデリシアがシルフィスに優しくすると、ゼルダが褒めるので、アデリシアも彼女なりに正妃を目指して頑張っているのだ。
 最初は強かった嫉妬の気持ちも、白い結婚であるためか、別の理由によってか、不思議に薄れていた。
 
 
 はしゃぎ疲れたのか、ゼルダの膝枕で静かな寝息を立てるアデリシアが、少し、羨ましい。
 ゼルダと二人きりの夜、彼女も膝枕して欲しいと頼んでみようか――
 シルフィスにとっても、ゼルダが時折、優しく微笑んで与えてくれる褒め言葉は、何にも代えがたいものになっていた。想いに満たされて、幸せで、麻薬のようだ。どんどん、ゼルダの愛情を失うのが怖くなって、ゼルダに逆らえなくなってしまう。
 ゼルダに褒められるほど、自分が優しい、他者に愛される人間になっていく感触がして、それが快さの源だった。ゼルダが褒めてくれるのは、いつも、誰かを喜ばせたり、誰かに優しくした時だったから。
「シルフィス、神殿を離れるのは寂しい?」
 ゼルダに名を呼ばれるのは心地好い。最近は、それだけでも嬉しい。
 ただ、神殿を思うと心が(うず)いた。
「アルベール兄様が、セデスの優しさを摘んでしまわないか、少し、心配になります」
「セデス? 孤児の子だっけ?」
「兄様はその、優しいのに頭が固くて、セデスが怪我をした小鳥に癒しを施して門限に遅れても、叱るので……」
 ゼルダはぷっと吹き出した。筋金入りの頭の固さだ、さすが。
「ふふ、それは見込みあるな、セデスだっけ? 認めてもらえるならともかく、叱られるのに優しくするなら、純粋にそうしたいんだ。素直で優しい子だね。もう少し育ったら、手駒にしてみようかな」
「兄様のセデスを? まだ、四歳です」
 アルベールが叱るのは、きっと、その子のためだ。門限に遅れたのを見つかったら、役人に切り殺されるかもしれないから、アルベールは必死なのに違いない。神殿に属する者に、カムラの皇都は厳しい。
 アルベール自身、シルフィスを探して夜を走り回っていたくせに、血もつながらない、拾ってきた孤児がそれをするのは許せないんだなと思うと、おかしい。素敵な心の棚だ。アルベールのそういうところが大好きだ。
「本当はね、アルベールみたいな有能で信頼できる人材の確保って大変なんだ。アルベールは誠実で真面目で字も綺麗だし、君を大切にしているよ。私への態度は不敬だけど、それは両親や君を大切に思う気持ちの裏返しだし、つらいと思うな。アルベールがあまり苦しまないように、様子を探って、傍で支えてくれる誰かが、欲しいと思ってたんだ。シルフィスのこと、取り上げてしまったもの」
 丁寧な字を書くというのは、意外に重要だ。読めない報告書しか書けない、というか、字を書けない者も珍しくはない。カムラの識字率は五割ほどだ。
 シルフィスを盾に神殿の内情を探らせる手駒として、アルベールは使い勝手が良かった。
「ゼルダ様はいつまで、兄様を許して下さいますか……?」
 サンジェニ侯爵令嬢であるアデリシアは、ゼルダに富と権力を与えられる。シルフィスには、与えることのできないものだ。
 けれど、シルフィスもまた、ゼルダにとって必要不可欠な存在だった。
 彼の手に救われる存在が、求めても不幸にしない存在が、死の影が付き纏うゼルダには必要だったのだ。
 誰しも、彼の傍に置くと不幸になって、やがて死んでしまうと、時折、瞳に真紅の燐光を揺らし、心狂わせるゼルダを抱き締められるのは、シルフィスだけだった。そういう時、他の誰が抱き締めても、ゼルダの恐怖は増してしまう。愛しいほど、守りたいほど、喪失の恐怖をゼルダは深くするからだ。ゼルダは、他者を愛し過ぎる。
 それでも、そんな時にシルフィスが抱き締めると落ち着くようで、ゼルダはよく、彼女の腕の中でそのまま眠ったりした。
 ゼルダの恐怖を、死を望む心を抑えられるのはシルフィスだけだ。
 リネットの兄妹をゼルダが救ったことは、間違いがないから。シルフィスもあえて、悪夢を見せられた日以来、ゼルダを追い詰めたりはしなかった。あの日だって、ゼルダがそれで傷つくなんて思わなかったから、追い詰めてしまっただけだ。
 彼の傍にいられてどんなに幸せか、気持ちを言葉にすれば、彼は安心するようだった。彼女の想いだけが、ゼルダを救い得た。
 アデリシアに、アデリシアにしか出来ないことがあるように、シルフィスにも、シルフィスにしか出来ないことがあって、ゼルダにかけがえない妃として必要とされている、その事実が、彼女にとっても心の支えだった。
「え……? 別に、アルベールじゃなくても、あんなだよ。皆が、私を残酷な人間だと思ってるんだ、仕方ないよ。父上さえ、兄上を殺したのは私じゃないと言っても、聞いて下さらないのに。アルベールが信じてくれないなんて、序の口だよね」
 ライゼールに移る前、アルベールを説得しようとした日のことが、琥珀の瞳に鋭い痛みを抱えて、みなまで聞かずに神殿の奥に駆け去ってしまった兄が、シルフィスにはつらかった。
 ゼルダは今は、アルベールにどれだけ残酷な言葉を投げつけられても、命の恩人だし、シルフィスのお兄さんだからと、笑って許してくれる。それでも、いつまでそうあってくれるのか。ゼルダの誠意を、その献身と優しさを、偽物と決め付けて踏みにじる兄が、悲しかった。彼女の言葉さえ届かない。
 シルフィスが下手な説得を試みたのは失敗だったのだ。アルベールは、シルフィスがゼルダに騙されているのだと、思い込んでしまった。
 ゼルダがリネットにも神殿にも悪意を持たないことに、両親と仲間の仇だと信じる限り、アルベールが気付くことはない。どうしたら、いいのか――
「たとえ、父上もアルベールも私を信じてくれなくても、だから、私を信じてくれるシルフィスが愛しいんだと思えば――他の誰かが私を信じてくれない分まで、君が愛しい。今は、君が信じてくれるから、それでいいんだ。いつか、私が汚名を(そそ)げたら、アルベールも信じてくれるようになると思う。シルフィス、不安にさせてごめん、一日も早くその日が来るよう、力を尽くすから」
 シルフィスは頷いて、なお、人を愛することをやめないゼルダに微笑みかけた。ゼルダもほっとした様子で、微笑み返した。
 不幸にも憎しみにもとらわれないゼルダの背には、羽でも生えてきそうで、シルフィスは想像して、くすくす笑った。兄皇子のことさえ、ゼルダは裏切られてなお、心の奥底では愛しているのに違いない。ゼルダが抱え続ける幼い日の記憶は、綺麗すぎるから――
 ゼルダだけを残して、誰もいなくなった皇后宮など、悪夢であって欲しいと願うから、ゼルダは悲しいのだ。
 アーシャ皇妃の宮は、ゼルダが離れてしまえば、本当に静かになる。
 遠くなっていく皇都と神殿を眺めながら、シルフィスは心の中で、聖アンナに語りかけた。
 
 ――アンナ様、カムラには天使が二羽いました。アンナ様と、ゼルダ様が――
 
 いつか、アルベールがそれに気付いてくれることを、シルフィスは祈る気持ちで、遥かな白亜の神殿を見晴るかし続けた。