神殿の少女

贈り物


 翌々日。アデリシアがああでもない、こうでもないと侍女と近衛の面接を張り切っている間に、ゼルダはお忍びでシルフィスを街に連れ出した。
「うぅ、侍女は綺麗なコの方がゼルダ様がお喜びになりそうですけど、アデリ不安です!」
「やだなあ、アデリってば♪ こんなに可愛らしい君がいるのに、侍女なんかに目移りしないよ」
「嘘うそウソー! ゼルダ様、サンジェニで街を歩いている時だって、綺麗なコとすれ違う度に、目が吸い寄せられてましたもの!」
「えぇえっ!?」
「自覚ないしー!」
 なんて会話が、出掛けにあったりしたのは内緒だ。
「ゼルダ様、私にドレス……?」
「そう。妃を綺麗に着飾らせておくのは、当然の愛情表現だと思わない? あ、でも、アデリには何枚も綺麗なドレスを仕立てるのに、シルフィスには一枚だけって、誤解しないでね。アデリの調度や衣装は私たちの武装だし、サンジェニ侯の援助なんだ。支度金として、結構な額の資産を分けて頂いたから。君に贈るドレスは、私が皇子として贈るものだから、あまり、贅沢はできないけど、許してね」
 ゼルダはわずか、瞳を翳らせた。
「皇室からの資金援助はね、全部、兄上なんだ。私の母を殺して、その罪をリネットに着せたゼルシア皇妃の皇子ヴァン・ガーディナに、分与の全権が与えられてるから――私は、皇室の援助を求めるなら、その兄上に頭を下げなきゃならない。だから、何をしても、兄上なんかに頼らず、資産も権力も得たいんだ」
 クローヴィンスとマリの側も、資金援助はすべてクローヴィンスに与えられている。
 改めて、第五皇子など、皇帝の配下でしかないと思い知らされる現実だった。ヴァン・ガーディナが皇太子となり、皇帝となれば、死ぬまで、その支配と意向を受け容れなければならない。
 今、父皇帝にしているような嘆願を、ヴァン・ガーディナ相手にしなければならない日が来るのだと――
 たとえゼルシアの手にかからずとも、そんなのは、耐えられない。クローヴィンスに期待をかけたいけれど、どうなのか。
 クローヴィンスとマリの両皇子は寄宿学校に行ったため、ゼルダとは疎遠だ。兄弟でも、あまりよくは知らない。クローヴィンスも抜きん出て優秀だという噂があるのが、せめてもの救いだった。
「私の聞き分けがよくて、ゼルシア皇妃の皇子にも頭を下げられたら、シルフィスに贈るドレスも一枚なんてケチなこと言わずに済むのにね」
 事を構えれば敗れるから、アルディナンの二の舞になるだけだから、今はただ、音のない関係でいるけれど。
 シルフィスは微笑んで、かぶりを振った。
「リネットを陥れた方からの援助は必要ないって、断って下さるゼルダ様の方が嬉しいです」
 ほっとして、ゼルダも微笑み返した。
 ゼルダにとって、ヴァン・ガーディナはゼルシアと同じ種類の人間だ。本当は、その兄に跪くことを強いられるのも、いまだ苦痛だった。ただ、アルベールに与えている苦痛の罰だと考えれば、相応だ。いつかアルベールに償うためにも、まだ、ヴァン・ガーディナは敵に回せない。
 アーシャを殺されるまで、とりわけ、すぐ上のヴァン・ガーディナに(なつ)いて、のこのこついて回っていたなんて、今となっては苦すぎる記憶だった。ヴァン・ガーディナは幼い頃から綺麗だったし、優しかったし、ゼルダよりアルディナンを気に掛けたので、そこは子供のこと、関心をこちらに向けたかったのだ。
 幼かったゼルダは、当時のヴァン・ガーディナを印象でしか覚えていない。
 いつだったか、中庭のどこかで、振り向いたヴァン・ガーディナの雪色の髪が風に舞い、まるで、光を零したように綺麗だった。そんな、刹那的で直感的な印象だけだ。
 今も、胸に響く。ゼルダを呼んだ、優しい声と笑顔を忘れられない。
 けれど、最も強烈な印象は、アーシャの死を嘆き悲しんだヴァン・ガーディナが、その翌日には、笑顔でいたことなのだ。
 アーシャが死んだことはもういいのかと、動揺して取りすがったゼルダの手を、ヴァン・ガーディナは知らないよと振り払った。
「私の母が殺された日、兄はね、泣いて下さって……私はそれまで、兄が好きだったよ。泣いて下さって嬉しかった。それなのに、翌日には『アーシャ様? 誰だっけ、忘れたよ』って……! 兄は、人目があったから泣いて見せたんだ。私しかいなかったら、知らないって!」
 慕っていたから、信じていたから、ショックだった。
 何もかも、偽りだったのだ。
 その後、ヴァン・ガーディナの母妃ゼルシアが、アーシャを殺したのだと知った。
 あの神殿で、アーシャに毒杯を渡したのは、他ならぬヴァン・ガーディナだった。翌日の笑顔を思えば、知っていたのだろう。感情的には、ゼルシアよりも許せない。
「ゼルダ様……」
 シルフィスが優しく、ゼルダの頭を撫でた。
 普段は人目をはばかるシルフィスが、木陰に引き込んで抱き締めても、抵抗しなかった。彼が傷ついていたからだ。それと悟ると、ゼルダは努めて、感傷的になっていた思いを振り切った。
「ありがとう、ごめんね。さて、どの仕立て屋にしようかな」
 シルフィスは控えめにゼルダの様子を見守り、彼の気持ちを汲むように、その傷には触れなかった。
 永遠に、過ぎ去った時は戻らない。どんなに虚しいものを大切にしていたか、そのことを知って、愕然としても。
 一枚――
 彼女は代わりに、それでも、着てみたいと憧れたようなドレスを贈ってもらえるのかと、少し胸を高鳴らせた。
「あの、ドレスは……私が、選んでも?」
 神殿にいた頃、いつも、街に出掛ける度、眺めているだけだった綺麗な衣装があるのだ。
「もちろん、いいよ」
 あれ、とシルフィスが街の仕立て屋に飾られたものを指し示すと、それねと、ゼルダはすぐに店員を呼び付けた。待たせると思ったら、他にも綺麗で可愛らしい衣装を何枚か包ませている。
「ゼルダ様、一枚でしょう!?」
「ドレスは一枚だよ。だけどね、シルフィス、私は皇子なんだよ? ただの平服さえ一枚しか買えない皇子様ってナニ」
 優しい色合いの絹の細布で飾られた、袖元の刺繍も可愛らしい衣装がドレスでなくて何なのか。
「あの、それ、ドレスじゃないですか?」
「こんなの、出来合いの安物じゃないか。贈り物にならないよ、皇子様をナメない、めー!」
「……」
 シルフィスはちょっと、ゼルダと見詰め合ってしまった。何だか、感覚が著しく違う。
「ドレスはちゃんと採寸からするんだよ、ああいうの。シルフィス、この店の雰囲気が好きなら、この店で仕立ててもらおうか」
 ゼルダが言う『ああいうの』の値札を見て、シルフィスは目を疑った。
 完全なオーダーメイドになるので、定価はないものの、シルフィスが選んだものとは二桁は違う値札が展示品についている。
「ゼルダ様、こんな、高すぎます! 私一人の為にこれだけ使えるなら、困ってる人達がたくさんいるのに……!」
「シルフィス、言っておくけど、陛下は民衆を踏みつけるような酷い搾取はなさっていないよ? 私だって皇子なんだから、目先の施しじゃ駄目なんだよ、民衆は働かせて、住む家と、働きに見合った暮らしを与えないと。とにかく、これは私が愛する君に贈る花嫁衣裳なんだから、贅沢とか言わないの!」
「花嫁衣裳――」
「だってシルフィス、私のお妃様じゃないか。順番が違ってごめんね」