神殿の少女

第六節 侯爵令嬢


 サンジェニの末姫アデリシアーナは、二階のテラスから、カムラ帝国の皇子だという、姉姫との婚約のために訪れた少年を見て、そこを動けなくなった。
 数名の供の者を引き連れ、馬を駆って来たらしい少年は、貴公子然とした風貌で、結い上げた髪が風に舞う様子など、地上に降りた天使のよう、夢か童話の一枚絵のようだった。
 あと数年もしたら、彼女にも、父侯爵がこんな素敵な人を、見つけて来てくれるのだろうか。その日が待ち遠しい気持ち。
 この素敵な人が義理の兄になるなんて、それだけでも嬉しくて、舞い上がってしまいそうな気持ち。
「お姉様、クラリッサお姉様! 皇子様を見ました? とても素敵な人、アデリシアはお姉様が(うらや)ましい、アデリシアも早くあんな――」
他人事(ひとごと)だと思って!」
 彼女を恐ろしい目で(にら)んだ、思いもよらない姉姫の剣幕に、アデリシアはびっくりして身を引いた。
「アデリシア、知っているの……!? あの皇子には、妃も子も、もういるのよ! しかも、まだ少年だわ。綺麗な女性と見れば、敵国からでも、神殿からでもさらってくる見境のなさだと聞くのに、私はいやよ!」
「そんな、お姉様……」
 まだ、会ってもいないのに。
 それに、あんなに素敵な人なら、三、四歳年下でも、構わないと思うのに。
 中流では、親子ほどに年の離れた相手との結婚も珍しくはないと聞く。
 サンジェニ侯爵家は中流ではないから、彼女達はもちろん、そんな覚悟はしていない。
 とはいえ、それでも良縁だと思うのにと、アデリシアは残念な気持ちになった。姉姫は言い募る。
「ねぇ、どうして年齢的に釣り合うカレンやアデリシアがいるのに、長女である私が選ばれたか知っていて……!? 父様には嫡男がいない、跡継ぎがいない。あの皇子は、サンジェニ侯爵家を継ぐ者として、私を選んだのよ! 後ろ盾のない第五皇子が、財産目当ての政略結婚を(たくら)んだのよ、ふざけないで!!」
 アデリシアはおろおろして、テラスの方を見た。邸内に迎えられたのか、もう、皇子の姿は見えない。
「――クラリッサ、こちらへ!」
 階下から父侯爵の声がして、クラリッサはテーブルに飾られた花瓶を引っくり返して、部屋を出て行った。
 
 
 アデリシアは諦め切れず、大階段の手摺りの陰から、大広間の様子をうかがった。
 姉姫が断ってしまうのなら、もう、その美貌を拝顔する機会さえ、きっとない。
 クラリッサを紹介された皇子が、麗しく微笑んで(ひざ)を突き、優雅に、貴人への礼儀として完璧な手の甲へのキスを贈る。アデリシアには、姉姫が(うらや)ましくて仕方なかった。
 年頃になると、十五歳なんて子供なのかもしれないけれど。
 それでも、姉姫にはこの美貌の皇子にぜひ、目を(くら)ませて欲しかった。姉姫さえ承諾すれば、この皇子が、憧れの義兄になるのだ。
「お父様、私は嫌ですわ!」
 アデリシアの願い虚しく、クラリッサは噛み付くように、皇子との縁談を拒絶した。
「ご正妃にとのお話でも、他にお妃様もご子息もいらっしゃる方になんて、嫁ぎたくありません! それに、第五皇子なんて、陛下にとっては、どうでもいい皇子でしょう!?」
「クラリッサ、控えなさい!」
 父侯爵がどうにか諭そうとするも、クラリッサは聞く耳持たず、しまいに皇子の手を払い退け、駆け去ってしまった。
「ゼルダ皇子、大変な失礼を――」
 不興を買って当然のクラリッサの態度にも、皇子は困ったように苦笑したばかり、アデリシアの知る少年達とは比べ物にならない配慮を見せ、返事をした。
「いいえ、こちらが無理を言ったのです。侯爵、もしよろしければ、それでも数日間だけ、滞在してみたいのですが」
 その申し出を、父侯爵が皇子の意向を確かめた上で、承諾したから。
 アデリシアは嬉しくなって、矢も楯もたまらず、その場に躍り出た。
「お父様、皇子様、滞在なさるのですか!?」
「はしたない! アデリシア、立ち聞きしておったのか!」
 少し緊張しているようだった皇子が、微笑んで会釈してくれた。
「お父様、お怒りにならないで。アデリシアも、皇子様に紹介して頂きたいのです」
 侯爵は深く嘆息すると、両者を引き合わせた。
「こちら、末姫のアデリシアーナ。見ての通り、天真爛漫なところがありましてな」
 来客の度に頭が痛くなるという侯爵の紹介に、社交辞令とも思われない口調で、皇子が丁重に挨拶した。
「とても可愛らしいご令嬢で、お会い出来て、心より嬉しく思います」
「もったいないお言葉ですが、アデリシア、こちら、ゼルダ・ライゼルファン皇子。カムラ帝国の第五皇子にあらせられる。くれぐれも、そそうのないようにな」
「ありませんわ、お父様!」
 アデリシアの様子に微笑みを零し、短く断ったゼルダが、取り出した精巧な細工の髪飾りを、彼女の髪に飾った。
「うん、とてもよく似合う、妖精(フェアリー)のように綺麗で可愛らしい。この髪飾りは、君の髪を飾るために、生まれて来たのかもしれないね」
 誰よりも麗しい美少年に、優しい笑顔で、そんなことを言われてしまったら。
「皇子様、そんな……ほ、本当ですか……?」
「神に誓って」
 頬にさっと血が昇り、アデリシアは動揺して、にわかに恥らって、挨拶もそこそこに部屋に戻った。
 
 
 アデリシアは何かに浮かされたように、いつまでも、部屋で恍惚(こうこつ)としていた。
「――クラリッサお姉様、ゼルダ皇子様は、本当に素敵な方ね。お姉様がお嫌なら、アデリシアが代わって差し上げたいのに。サンジェニを継がないアデリシアでは、駄目なのかしら」
 クラリッサは冷たく妹姫を一瞥(いちべつ)し、感情的な口調で言った。
「私に求婚しに来た身で、あなたにまで、美辞麗句を並べ立てるような皇子なのよ? あの年齢で女性を口説き慣れているなんて、噂通りにも程があるわ。あなたもあなたよ!」
「そんな、お姉様……」
 腹立たしくて、堪えがたくて、クラリッサはこぶしをぎゅっと握り締めた。
 考え得る限り手酷く拒絶してみたけれど、父侯爵が考え直すとは限らない。無理強いされるかもしれない縁談なのに、皇子は彼女に求婚している身で、アデリシアにまで愛想を振りまく。今後、どれだけ妃を増やしてくれるのか、想像しただけでも泣きたくなった。サンジェニ侯爵令嬢ともあろう身で、年若い妃達と、年若い皇子の(ちょう)を競わねばならないなんて、あまりに(みじ)めだ。
 
 ――こんな、不条理なこと……!
 
 そんな彼女の悲しみと怒りを、無神経に逆撫でするアデリシアに、憎しみさえ、覚えかけていたから。
 クラリッサは瞳に不穏な光を宿し、父侯爵に口止めされていたことを、アデリシアに教えてしまいたい衝動に駆られた。
 アデリシアも思い知ればいい、侯爵令嬢という身分の、本当の意味を。
「ねぇ、アデリシア? あなたには無理よ、あなたはカサンドラの伯爵と、内々に婚姻が決まっているもの。先月、いらしたでしょう?」
 アデリシアはきょとんと、姉姫を見た。寝耳に水で、伯爵が誰だったかを思い出すのにも、一苦労という様子だ。
「あの夜会で、見初められたそうよ」
「え……? 伯爵のご子息に?」
「伯爵その人よ」
「――いやよ!!」
 アデリシアが真っ青になるのを見、クラリッサは満足げに微笑んだ。
 貴族社会、こと中流では、親子ほどに年の離れた相手との結婚も珍しくはない。
 サンジェニ侯爵家は中流ではないし、令息であれば選ぶ立場だ。
 ただし、令嬢は、侯爵や嫡子の手駒に過ぎない。政略結婚の必要こそないけれど、手駒として、それを強いられることは、上流でもままある。必要に迫られる中流ほどではないというだけで、嫡子のいないサンジェニ侯爵家は、そういう意味ではむしろ際どい立場にあり、父侯爵が保身をはかるべく、末の姫をカサンドラに売りつけようとしていることとて、何ら不思議ではないのだ。
 ――そう、皇太子でない皇子の立場も難しいものだ。
 その立ち回り次第で、爵位を得ることも、没落を余儀なくされることもままある。皇帝の椅子をも狙える立場にあるからこそ、皇帝の信頼をどれだけ得られるかで、待遇が全く異なってしまうのだ。
 アデリシアには、まだ、そういった諸々の政治事情などわからないから、皇子の美貌だけに目が(くら)んで、舞い上がったりもするけれど。
 ゼルシア皇妃との確執が噂され、際どい立場にあるゼルダ皇子と、サンジェニ侯爵家の嫡子も同然のクラリッサを結ばせようなどと、父侯爵は正気なのか。
 いずれにしろ、この縁談は、まとまるならクラリッサに来る。代わりたくても代われない。アデリシアには、必要な教育が(ほどこ)されていないのだから――
 
 
「お父様!」
 姉姫から思わぬ宣告を受けたアデリシアは、色を失って父侯爵の書斎に向かった。
「アデリシア、ゼルダ皇子と大切な話をしているところだ。後にできないのか?」
「できません! お父様、お姉様に聞いたの、アデリシアが、カサンドラ伯に嫁ぐことになっているって、本当なのですか!?」
 なるほど、と、サンジェニ侯が浮かべた表情は、何とも言えない、どこか不敵なものだった。不測の事態ながら、我が意を得たりというようでもある。
「クラリッサめ、まったく、聞き分けのない。――おまえと言いクラリッサといい、サンジェニ侯爵家の繁栄に貢献しようという精神は、かけらも持ち合わせておらんのか。やれ年下の皇子がいやだ、やれ年上の伯爵がいやだ……カレンはカレンで、狙ったように遊興に出おって。あれは要領が良いからな、どうせ、恋人も勝手に見繕ってよろしくやっておるのだろう」
 侯爵家の次女であるカレンは、それらしい企図の催しがあると、知らぬ風を装って無断外泊し、顔を見せない。そもそも見合いの席を上手に避ければ、見初められて無理を強いられることもないのだ、上策だろう。
 深窓の令嬢として、末の姫として、甘やかされて育った素直なアデリシアには、クラリッサのようなしたたかさも、カレンのような要領の良さもないから、知らぬ間に、貧乏くじを引かされるのだ。
 それと知らされたアデリシアは、いよいよ、涙ながらに訴えた。
「お父様、酷いわ! 娘の幸せを、アデリシアの幸せを願っては下さらないのですか!? カサンドラの伯爵だなんて、お父様より御年を召していらっしゃるのに! アデリシアは、サンジェニ侯爵家の繁栄にだって、貢献しようと思っていましたわ! でも酷すぎます、お姉様達と一緒にしないで! アデリシアは、ゼルダ皇子様になら喜んで嫁ぎましたのに――!」
 ふっと、傍で聞いていたゼルダが微笑んだ。
「泣かないで、アデリシア。侯爵と、その話をしていたところなんだ」
「え……?」
「アデリシア、カサンドラ伯に嫁いだ方が、私に嫁ぐより、はるかに贅沢で、安寧とした暮らしができる。侯爵が、君の幸せを願っていないとは思わないよ」
 アデリシアが途惑いながら、ゼルダに差し伸べられた手を取ると、しゃくり上げる彼女を(なだ)めるように優しく抱き寄せた彼が、その背中をぽんぽんと叩いた。
「私は十八歳を迎える前に、政争の渦中で暗殺される恐れがある。カサンドラ伯の方は、身分が高いだけじゃない、資産家だよ。その伯との婚姻が、せっかく決まっている君を、私がさらっては――君を不幸にすることにさえ、なりかねない」
 アデリシアはきゅっと涙を拭って、その腕の中から、ゼルダを見上げた。その後、優しい彼の胸に額を預けて、その目を伏せた。
「お父様も皇子様も、どうして、財産や権力ばかりなのですか……? アデリシアは皇子様にお迎え頂けるなら、カサンドラ伯に与えられるものなど、何もいりませんのに。皇子様が暗殺されるかもしれないのなら、アデリシアは傍でお守りしたいわ! ゼルダ皇子様、アデリシアでは駄目ですか……? お姉様の方が、賢くて、お美しくて、爵位も継ぐ方ですもの。アデリシアなど――」
「侯爵と君のお許しさえ頂けるなら、私は君を、正妃に迎えたいと思う」
 アデリシアは目を見張り、侯爵と皇子を交互に見た。
「ほ、本当に……!? お父様、アデリシアは皇子様がいい! カサンドラ伯は嫌です! どうしても伯爵に嫁げと仰るなら、塔から身を投げて死にます!」
 侯爵は沈痛に、こめかみを押さえた。
 アデリシアは思い詰めれば本当に、塔からでも居城の上階からでも身を投げかねない。
「落ち着け、待て、アデリシア。誰に似たんだ、その思い込みの激しさは」
「お父様は、カサンドラ伯に嫁げなどと言われたことがないから、わからないのですわ! 伯が男色家で、お父様を望まれたらどんなお気持ちになりますか!」
 侯爵はげんなりした顔をした。大変に、説得力のあるご高説で。
「アデリシア、わかった、わかった。皇子は数日間滞在なさるとのこと、まずは、ご一緒させて頂きなさい。また後日、クラリッサだけでなく、おまえの意向も聞こうか。考えておくから、――退室しなさい」
 
 
 侯爵の書斎を退室したアデリシアは、邸内の廊下を行ったり来たりしながら、ゼルダが姿を見せるのを待った。ようやくそれが叶うと、今度は片時もその傍から離れまいと、午後のお茶の席にも、夕食の席にも、嬉々として一緒に着いた。
 ゼルダを避けて籠もりがちにしていたクラリッサも、さすがにその様子に気付き、驚きと疑念を隠せない表情を見せた。
 アデリシアは一抹の不安を覚えたけれど、この期に及んでは、譲れない。いざとなれば、姉姫と諍いになってでもと、覚悟していた。
 
 
「お父様、どういうことなのですか、アデリシアは伯爵と結ばせると、仰っていましたのに」
 侯爵はまず人払いをし、書斎にクラリッサと二人きりになると、口を開いた。
「おまえが、ゼルダ皇子に嫁ぐのは嫌だと言ったのではなかったか?」
「それは――そうですが、でも!」
「クラリッサ、皇子が望んでいるのはサンジェニ侯領やその爵位などではないのだよ」
 侯爵は一度言葉を切り、口の端だけに、侯爵らしい不遜な笑みを浮かべた。
「ゼルダ皇子が望むのは、私の後見そのものだ。あの皇子は、聖アンナ神殿を守るつもりでいるようだ。まずは断るつもりでいたが、なかなかどうして、さすがはアーシャ皇妃の血筋だな」
 
 サンジェニ侯領は、二十年ほど前まで王国だった。
 サンジェニ王国は、カムラ帝国の侵攻を受け、無血開城した国なのだ。
 父王のその判断は間違っていなかったと、サンジェニ侯は今でも信じている。
 抗戦したところで、多くの犠牲を払い、サンジェニを疲弊させただけで、併合は免れなかったに違いないからだ。
 もっともそれは、死の帝国と呼ばれていながら、カムラ帝国が侵攻した土地を片端から死霊の跋扈する地獄に変えるほどには、極悪非道な圧政を敷かないことを、あらかじめ確かめた上でのことだった。
 極悪非道どころか、侵攻された国の人々が、土地や家を奪われたり、奴隷として連れ去られるという話すら、聞こえて来なかったのだ。
 降伏し、忠誠を誓ったサンジェニの国王に、カムラ帝国は王子を人質とすることを条件に、サンジェニ侯としての爵位を与え、事実上、継続しての執政を許した。
 その後、十年程前に父が死に、彼がすんなりと、サンジェニの爵位を継いだ。
 恐ろしい戦乱を免れたサンジェニ侯領は、カムラ帝国内でも屈指の国力――もとい、勢力を誇る。ただし、質実剛健を旨とし、領民たちの誠実さと堅実さ、愛国心が強みのサンジェニが、それほどの勢力だと知る者は少ない。年若い身でそれと見抜き、後見を求めてきたゼルダ皇子は、優れた慧眼の持ち主だ。
 
 侯爵は満足げに頷くと、言葉を続けた。
「先の初陣のことなども語らせてみたが、あの皇子、要点を押さえた語り口、客観性、誠実さ、兼ね備えている。聡明だということだ。おまえの態度にも、礼を尽くして接する態度を崩さんようだしな」
「聖アンナ神殿は、皇帝陛下が既に、滅ぼすと決定なさったのでしょう? その神殿を、守る……?」
「その通りだ。ゼルダ皇子は偉大なるハーケンベルク皇帝と、その皇妃さえも敵に回さんと、私の後見を求めてきたのだよ」
 クラリッサは驚愕に目を見張り、わずかに震えながら、かぶりを振った。
「お父様、そんな、ご正気なのですか……! 無謀に過ぎます、サンジェニ侯爵家の浮沈に関わりますわ!」
「クラリッサ、おまえはまだ、アルディナン皇太子が忘れられぬのか」
「――っ!」
 なぜ今その事をと、答えになっていませんわと、クラリッサが侯爵を見る。
 けれど、その瞳は今にも泣き出しそうだった。
 クラリッサは、亡きアルディナン皇太子と婚約していたのだ。
 文武両道に秀で、人望も篤い、稀に優れた皇太子だった。
 いつまでも、あの皇太子を基準にしていては、クラリッサは永遠に嫁げまい。
「正直なところ、カレンに改めて、クローヴィンス皇子かヴァン・ガーディナ皇子を考えていたのだがな」
 カムラ帝国の中枢で、全域で、何が起こっているか。
 気付いている者が、どれほどいるだろう。
 何の証拠もないが、サンジェニ候は確信している。ゼルシア皇妃が暗躍し、カムラ帝国を掌握(しょうあく)しようとしているのだと。
 カムラ帝国の歴史的な混乱もあり、各地で独立の気運を高めていた勢力が、片端から実質的に再併合され、皇都に匹敵する繁栄を誇る勢力は、もはや数えるほどしかなくなっているのだ。
 それだけなら、皇帝の偉業と考えるのが妥当だったし、サンジェニ侯もはじめはそう考え、娘の一人をぜひ皇太子妃にと推薦した。
 しかし、サンジェニ侯の思惑は一度ならず三度までも阻止される。
 正式にクラリッサと婚約した矢先、まず、アルディナン皇太子が暗殺されてしまった。
 仕方なく、次のザルマーク皇太子を狙って、次女カレンを夜会に送り込んだ。
 カレンは気まぐれだが、相手を気に入った場合の手腕は三姉妹の中でも随一だ。ザルマーク皇太子はカレンの目に適ったらしく、呆れたことに、婚約もしないうちから、カレンはさっさと皇太子と関係してしまった。
 下手を打てば側室止まりだが、それでもまあ上々かと、満足しかけた矢先のことだった。
 そのザルマーク皇太子までもが、暗殺されてしまった。
 いったい誰がと、かなり調べたものの、両皇太子暗殺とも、真相は闇の中だった。
 二度あることが三度あってもたまらない。皇都の情勢は様子見し、ベアトリーチェの領主とアデリシアの婚約を内々に決めた、その矢先のことだ。今度は恐ろしい伝染病で、ベアトリーチェの首都そのものが壊滅の憂き目に遭った。
「――何もかもが、偶然なものか」
「お父様?」
 たとえ証拠が挙がらなくとも、何者かが、目障りな者を片端から始末していると考えたなら、導かれる答えはただ一つ。
 アーシャ皇妃暗殺、シャークス皇弟失脚――
 数々の歴史的な事件の裏で、常に益を得ているのは、皇帝に隠れた存在として目立たない、ゼルシア皇妃ただ一人。
 だから、証拠はないが、確信があるのだ。もっとも、証拠もなく、皇妃を敵に回すわけにはいかない。
 クローヴィンス皇子か、ヴァン・ガーディナ皇子か。
 ベアトリーチェが壊滅したなら、それが人為的なものなら、次に狙われるのはカサンドラかこのサンジェニで、一刻の猶予もない。
 そんな時に、皇帝の内意を受け、後見を望んで飛び込んできたのがゼルダ皇子だった。
 次の皇太子はヴァン・ガーディナ皇子と睨んでいるが、ゼルシア皇妃がまさに黒幕だったなら、たとえカレンを皇太子妃に据えたとしても、サンジェニ侯爵家の繁栄は危ぶまれる。カレンを皇太子妃に差し出すことで、侯爵家の人間が軒並み謀殺された後のサンジェニ侯爵領を、カムラ皇室の直轄領に組み込む口実さえ、与えかねないのだ。
「――これを、八方塞がりだと思うか? クラリッサ」
「何か方法が……?」
 人払いはしてあったが、侯爵は聞き取れないほど声を低くした。
「私がゼルシア皇妃に謀殺される前に、ゼルシア皇妃を謀殺することだ。相手は皇妃だ、間違いでしたでは済まされんが、おそらく、間違いはあるまい。皇宮にお住まいのゼルダ皇子も、皇妃こそが黒幕だと断言しておられる。皇帝に盾突くつもりのゼルダ皇子を、その皇帝が、私に後見するよう内意を寄越すというのも、な」
 サンジェニ侯に、ハーケンベルク皇帝とゼルシア皇妃が結託して、サンジェニを滅ぼそうと目論んでいる、という考えはない。亡くなったアーシャ皇妃は男として得がたい女であったはずだし、アルディナン皇太子も、父親として失いたくない息子であったはずだからだ。皇帝の立場で、ゼルシア皇妃が有能な人材であることは間違いないが、ハーケンベルク皇帝は、皇妃に依存した政権に頼むほど、覇気のない人物でもない。
 内意を受けた際、皇帝に対面した印象もあり、この考えで間違いないと判断している。
「だが、くれぐれも内密にな。事が公になれば滅ぼされるのは我々だ。皇妃が証拠を残しておらんことは、皇太子暗殺の際にも、ベアトリーチェが壊滅した際にも、確かな事なのだ。何ひとつ――証人は全て、口封じに殺されているとしか思えん」
 血の気を引かせたクラリッサが、それでも、緊張した表情で頷く。
「そのゼルダ皇子だが、三年間の白い結婚をご所望だ。聖アンナ神殿を守るため、皇帝、皇妃と事を構えようというのだ、失脚はもとより、死の覚悟もおありのご様子。――亡くなられたアルディナン皇太子こそが、黒幕がゼルシア皇妃だという証拠を、つかんでおられたそうなのだがな」
「アルディナン様が……!」
 侯爵は口の端だけで笑った。ゼルダ皇子との白い結婚は、クラリッサの方が望むかもしれないと、もとより考えていたのだ。
「サンジェニ侯爵家に累が及ばぬよう、敗色濃厚となった時には、ゼルダ皇子は寝首をかかれ、ゼルシア皇妃に献上されても構わぬとまでの仰せだ。並の覚悟ではない。母君も兄君も暗殺されながら、その黒幕に孤立無援で立ち向かおうなどとは。私の後見を求めてくるやり方は、決して、玉砕覚悟で自暴自棄を起こしたものでもないしな。――別の筋から、ゼルダ皇子がヴァン・ガーディナ皇子を半ば抱き込んでいるとの噂もある。面白いだろう?」
 クラリッサの表情に、驚きと途惑いが浮かんで消えた。
「見ていろ、クラリッサ。私は必ずや、ゼルダ皇子をカムラ帝国の皇太子に仕立て、このサンジェニの姫を皇太子妃に納めてみせるぞ。ゼルシア皇妃の傀儡(かいらい)も同然のヴァン・ガーディナ皇子では駄目だ。サンジェニ侯爵家のためにも、カムラ帝国のためにも、皇太子にはゼルダ皇子に立って頂かねばな」
 そもそも、サンジェニ候はゼルシア皇妃を失脚させ、クローヴィンス皇子を皇太子に立てることなら、検討していたのだ。だが、若年と侮っていたゼルダ皇子に、そこまでの器量と覚悟があるのなら、それもまたよしだ。
 クローヴィンス皇子は正妃クリシーヌを筆頭に、二妃の側室を既に娶っているので、娘をどう後宮にねじ込んだものか、考えあぐねてはいたのだし。
 ゼルシア皇妃をアーシャ皇妃暗殺の黒幕として断罪すれば、ゼルダ皇子を正統な皇太子として立てることも、決して難しくはない。
「今となっては、クラリッサ、おまえにはサンジェニ侯爵家を継いでもらいたいと思っているのでな。ゼルダ皇子に娶らせるなら、アデリシアの方が都合良くもあるのだ。私としては、どちらでも構わんよ。――ああ、それから、この件は、ゼルダ皇子にも内密にな。皇太子位を望むご意向は、承っておらんのだ。あの皇子なら、皇太子にならずとも、帝国の政治の中枢には、関わるようになるのだろうが。皇太子の件は、サンジェニ侯爵家としての都合なのだ。――わかるだろうな」
 クラリッサは頷いて、父侯爵の書斎を後にした。
 
 
 サンジェニ邸への滞在も、翌日までとなった朝食の席に、ゼルダが初めて会う、麗しくもあか抜けた侯爵令嬢が姿を見せた。
「ご機嫌よう、クラリッサお姉様。こちら、皇子様?」
 しゃなりとドレスの裾をさばいて会釈する。
「――まぁ! 花も欺く美少年ね、驚いたわ。こんなに貴公子然とした風貌の、容姿端麗な皇子様だったなんて。もったいないわ、私ったら外泊していて。でも、三年間も白い結婚だなんてあくびが出ちゃう。アデリシアにお似合いね」
「カレン、控えて!」
 クラリッサの叱責など、意にも介さない。当家の侯爵は頭痛を覚えるのか、沈痛な面持ちだ。
「初めまして、皇子様。カレン・カイザー・サンジェニと申しますわ」
 席を立つと、ゼルダは優雅な礼を取り、カレンに微笑みかけた。
「ゼルダ・ライゼルファン。こちらに滞在するのは明朝までですが、どうぞ、お見知り置きを。貴女(あなた)のような、可憐で麗しい女性にお会いできるなんて、至上の喜び、光栄の極みです」
 セリフは社交辞令のようでも、綺麗な異性を迎えて、少年、瞳がきらきらと輝いている。カレンはつい、クスクス笑ってしまった。
「皇子様、あと三年もしたら、きっと、名高い女殺しにおなりですわね。そんなに優雅な御身のこなしで、称讃の瞳で、甘くて優しいお声で誘惑の言葉を囁かれたら、どんな淑女でも胸がときめいてしまいますもの」
「お姉様、ゼルダ皇子様の前で、はしたないお話はやめて下さいっ!」
 アデリシア、泣きそうだ。いろんな意味で。
「うーん、そうかな? まるで、ご本気ではないようだけれど。皇宮の夜会では完璧な淑女でいらしたのに、私には冗談ばかり、ちっとも、誘惑して下さらない」
「うふふ、わかります? カレンは、お姉様やアデリシアと皇子様を取り合うなんて、したくありませんのよ。それに、皇子様こそ、わたくしに夢中になって、一夜のために身代を傾かせるような貢ぎ物なんて、なさっては下さらないでしょう?」
「貴女にふさわしいご衣裳や装飾品は、まだ、おいそれとは揃えられないな」
 カレン一人、侯爵家の中でも抜きん出て格調高い。さりげなく、その身に纏うドレスの素材から縫製に至るまで、贅の限りを尽くした最高級のものなのだ。たとえ皇子であっても、大袈裟ではなく、おいそれとは贈れないような。
 それはつまり、上流階級の貴公子達を誘惑して貢がせたものらしい。
 サンジェニ侯が重々しい咳払いをした。
 カレンがちらりと舌を出す。そんな仕種は、容姿の可憐さともあいまって、可愛らしい。
「だけど、よく、白い結婚だと知られましたね。こちらへの滞在も、あまり周囲には知らせなかったことなのに」
 悪戯っぽく微笑んで、カレンが言う。
「それなのに誰も、皇子様がこんなに魅力的な方だとは、教えて下さいませんでしたの。意地悪だわ」
 情報源は、やはり、どこぞの貴公子達であるようだった。彼女を射止めるために、都合の悪いことは教えないあたり。
 ゼルダは微笑みを零して、可愛らしく首を傾げてねだった。
「貴女とは、ぜひ、懇意になりたいな」
「そんな、ゼルダ皇子様、ひどい――!」
 アデリシアが泣きそうになって、悲鳴のような声を上げるも、侯爵とクラリッサはわずかな驚愕を見せ、その手を止めた。カレンも少し驚いた顔をして、そのすぐ後に、微笑みを浮かべかけた口許を、気品ある仕種で意匠を凝らした扇に隠した。
「アデリシア、泣かないで。君が心配するような事じゃないから。――ね? カレン」
「――そう、かもしれない。ゼルダ皇子様、それなりの見返りは、期待してもよろしい?」
「貴女の為なら、一命を懸けても」
 たまらず、カレンは失笑しながら、その核兵器たる色香をかいま見せ、ゼルダに魅力的にウィンクした。
「うぇ、えぐ、ゼルダ皇子様の馬鹿ぁ――っ!!」
 必死さのあまり、もう、いっぱいいっぱいなアデリシアに泣き喚かれて、持て余すどころか、ゼルダは心底、楽しげな笑顔だ。何よりも得意な様子で、巧みに甘やかして、仕上げにその手の甲に優しくキスをして、宥めてしまう。
 実際、アデリシアが心配するような事ではなかった。
 それは、サンジェニ侯がゼルダとアデリシアの婚約を決意した瞬間だったのだから。
 カレンはサンジェニの懐刀。気まぐれにして最強の牙。
 カレンの色香に迷った貴族が貢いで寄越す財も情報も、極秘ながら、半端ではないものだ。彼女はサンジェニの、超法規的手段そのものなのだ。
 社交辞令も同然の短いやり取りで、それと見抜き、手を組みにかかったゼルダの手腕はただ事ではない。
「皇子様、カレンと懇意にしたいと仰って下さるなら、ザルマーク皇太子とのことは、乙女の秘密とお心得下さいます?」
 社交界では、彼女は処女ということになっているのだ。
「――ええ」
 ゼルダはにっこり笑って、快く承諾した。
 貴族社会において、涙では、誰も助けてくれないから。
 たとえ、その可憐さと愛嬌で魔性の女を気取って見せても、カレンの肩も腰も華奢で頼りない。まだ十七歳の少女が夢中になって、全身全霊を懸けて落とした皇太子の死が、ショックでなかったはずは、ないから。
 だから少女は、微笑んで凛として立つのだ。兄皇太子の暗殺を、傍にいながら食い止め得なかったゼルダには、よく、それがわかった。
 
 
 翌日、邸宅を辞すゼルダを、クラリッサとカレンは二階のテラスから見送った。
「お姉様、よろしかったの?」
 カレンには少し、クラリッサがあっさり婚約をアデリシアに譲ったことが意外だった。
 クラリッサは物憂げに、どこか、冷たさを感じさせる口調で告げた。
「カレン、白い結婚よ。ゼルダ皇子が、誰と婚約しようが構わないわ。必要なのは、皇子とサンジェニ侯爵家との縁組であって、アデリシアが選ばれたと思っているのは、何も知らない、アデリシアだけでしょうね。カサンドラ伯の時と、何も変わりはしないわ。もっとも、伯爵との婚約は、これで流れるでしょうから、それだけでも、アデリシアにとっては幸運かもしれない。皇帝のご内意とあっては、さすがに伯爵も文句をつけられないもの」
「まあ、そんな」
「十四歳のアデリシアとなら、誰にも不自然さを問われずに白い結婚を望める。皇子にとっても侯爵家にとっても、まだ、それだけのことなのよ」
「お姉様、ゼルダ皇子が立派に成人なさったら、白い結婚を盾に、アデリシアから取り上げてしまうおつもりなの? アデリシアが可哀相だわ、あんなに喜んでいますのに」
「まだ、わからない。私はアデリシアほど、無邪気な子供ではないもの。後宮の意味も、アーシャ皇妃の形見であるゼルダ皇子の立場の意味も、ずっと、知っているわ。とても覚悟のいることよ、権力の闇など何も知らない、無垢が取り柄のアデリシアでは、すぐに、あの皇子のご正妃は務まらないとわかるかもしれないし」
 クラリッサの瞳は、どこか遠くを見ているようだった。
「――アルディナン皇太子のためなら、どんな覚悟も厭わなかったわ。でも、私にとって、ゼルダ皇子は違うのよ。アルディナン皇太子は優れて立派な方だったけれど、ゼルダ皇子はその兄皇子の庇護下で育った、甘やかされた弟皇子だもの」
 けれど、アルディナン皇太子が亡くなり、孤立無援となったゼルダが、それでも甘えず運命に立ち向かうのなら――
 クラリッサの方もまた、父侯爵の言う通り、アルディナン皇太子を基準にしていては、おそらく、独身のままで生涯を終えてしまう。
 アルディナン皇太子を、愛した人を忘れてしまって後悔するのと、忘れられなくて後悔するのと、どちらがましなのか、クラリッサにはわからなかった。
「――そうね、まだ、わからない。でも、考えておくわ」
 
 
 クラリッサが部屋に戻ると、カレンは独りテラスに残って、その手すりに身をもたせ、風に吹かれながら、昨夜の逢瀬を思った。
 夜の帳が降りる頃、カレンの寝室を訪ねたゼルダ皇子が、彼女に(ひざまず)いて謝ったのだ。ザルマーク皇太子の暗殺を、阻止できなかったことを。
 あの夜から、ザルマーク皇太子を失った夜から、ただの一度も、涙など落とさなかった。
 それなのに、ゼルダ皇子に謝られたら、兄皇太子を慕う言葉を聞いたら、涙がとめどなく溢れて止まらなかった。
 暗殺を阻止できなかったのは、彼女とて、変わらない。凱旋すると聞いて、嬉々として迎えに行ったのに。
 本当は、ゼルダが美貌の皇子であろうことくらい、想像がついていた。
 ザルマークの腹違いの弟で、その母親は傾城の美姫と謳われたアーシャ皇妃なのだ。美貌の持ち主でない方が、何かの間違いだろう。
 それでも外泊して会うことを避けたのは、ザルマーク皇太子を暗殺したと囁かれるゼルダ皇子の口から、兄皇太子を貶める言葉など、聞きたくなかったからだ。
 けれど、違った。ザルマークを暗殺したのは、ゼルダではなかった。他の誰にわからなくとも、会えば、彼女にはよくわかった。
 ゼルダ皇子は紛うことなく、彼女と同じ悲しみと傷を抱える者。
 ザルマークを失って、身を引き裂かれる思いで流す涙を、嘘泣きだと、家柄目当ての女がと、穢されたくなかった。
 だから、微笑んだ。
 自業自得だ、そう取られて仕方ないだけのことはしてきた。
 けれど、涙を落とせば嘘泣きだと、暗殺の主犯がと貶められるのは同じでも、ゼルダ皇子は自業自得ですらない。だから、かの皇子はただ瞳に真紅の光を孕ませ、微笑んで死霊を舞い狂わせるのだ。
 ゼルダ皇子が、とても好き――
 カレンは甘く誘惑的に微笑んだ。姉クラリッサか、妹アデリシアと結ばれればいい。いつか、ザルマークを真に暗殺した誰かを、ゼルダは滅ぼすだろう。そのための力は彼女も貸すから。
 ザルマーク皇太子の子を孕んでいる。誰にも言わない。知られれば、クローヴィンス皇子でもヴァン・ガーディナ皇子でもなく、この子が皇位継承権第一位ともなり得る。ザルマーク皇太子を暗殺した『誰か』に狙われてしまう。
 カレンを次に射止めるのは、この子に家督を継がせてもいいと言ってくれる、どこかの魅力的な殿方なのだ。だから、ゼルダ皇子のことは好きだけれど、白い結婚では駄目だ。
 候補者はいるし、ようやく涙で、後悔と悲しみを流せたから。明日からはもっと、綺麗に笑えるかもしれない。誰よりも綺麗に笑って、誘惑してみせる。
 
 ゼルダ皇子の馬車が見えなくなって、さらに、しばらくの後、カレンも静かにテラスを離れた。