「母上、残酷なことをなさるのですね。ゼルダはよく我慢して、私にも誠実に仕えているものを」
真意を読み取らせない、無駄に妖艶な笑みを浮かべて、ヴァン・ガーディナが皇妃ゼルシアを見た。
「意外だったな。あなたがまだ、ゼルダへの手出しを諦めていらっしゃらないとは。あなたにとって、あの子がどれほどの障害となるのか――」
ヴァン・ガーディナは一度、言葉を切った。ミステリアスな燐光を帯びたガーネットの瞳で、母妃を斜にうかがう。
「――それとも、あなたは婉曲に私こそが無能とお考えなのですか。弟皇子まで廃さねば、私では帝位に就けないと?」
最初こそ、ゼルダが敵意を剥き出しに彼を睨むから、跪くことを強いもした。
ゼルダが彼に降るならよし、真っ向から牙を剥くなら、手に掛けることも厭わなかった。
怨嗟に揺れる、魔を秘めた瞳で睨みつけられるのは、いい気持ちではなかったからだ。
それだというのに、ゼルダの怨嗟は、思わぬ片付き方をした。神殿から少女をひとり、後宮に連れ込んだ日を境に、どんな心境の変化があったのか、ゼルダは途端、彼にも誠実に跪き、礼を取るようになったのだ。
単純に、少女を守らなければという思いが、怨嗟を凌駕しただけかもしれない。ゼルダの感情の発露は素直だ。読みにくいと思ったことはない。
――誠実なのだ。誰に対しても。
意見はしても、最終的に彼が方針を示せば、理解して、ついてくる。
不満らしい不満のひとつも言わず、邪魔立てもしてこない。
意中の少女が泣いたとか笑ったとか、つまらないことに一喜一憂して、見ていて飽きない。
最初はどうかと思ったけれど、正直、悪くなかった。ゼルダを手駒にライゼール領を統治するのは、思いのほか興味深い趣向になりそうで、もし、父皇帝がここまで見越して、彼にゼルダを預けたのなら――
父皇帝は、最愛の皇子を彼に預けたとも、解釈できるのだ。それは弟皇子のみならず、ゼルシアの皇子である彼にさえ、父皇帝がまだ、期待と信頼を寄せてくれる証ではないのか。そんな一縷の望みに託して、父皇帝の愛情を感じなくもなかったこの時に、母妃が入れた横槍は鬱陶しかった。
「まあ、ヴァン・ガーディナ。わたくしをあなた呼ばわりなさるの? 随分と他人行儀ね」
何も答えたくなかったヴァン・ガーディナは、魅惑的に微笑んで流した。ゼルシアが彼の意向を汲むかどうか、それだけに興味がある。面倒事にする気はない。
「そのような愚かなこと、考えもしなくてよ。――でも、よろしいわ。この機会に覚えてお置きなさい、ゼルダは道に背く者。若芽のうちに摘み取らなければ、必ずや、皇室に仇なすでしょう」
ヴァン・ガーディナの知る限り、誰よりも道に背くゼルシアから、その言葉を聞くとは思わなかった。
「亡くなったザルマーク皇子も、皇太子の位をあなたと競うクローヴィンス皇子も、ただ、邪魔なだけ。道なりに進む者には、道を譲らせれば済むこと。それはとても容易いと、おわかりになって?」
「――ええ」
道というのは、人の道ではなく、政権そのものを指したらしい。
さすがに、皮肉な笑みがこぼれた。母皇妃には皇太子暗殺さえ、容易いのだ。
その母皇妃が、美少女と見れば見境なくさらってくることをして、ゼルダこそが皇室に仇なすと言うのだろうか。ないとは言わないが。
「ですが、皇子達の中でも、ゼルダは異端。アーシャと同じ血の生き物だわ。たとえ進む道を譲らせても、不毛の地にさえ道を拓いて人を導き、権益の均衡を崩す――アーシャの血は、政権そのものを覆しかねない異端の血。カムラに君臨するなら、許してはなりません」
ヴァン・ガーディナは確信を宿した瞳で、母妃を見た。
よく、わかった。
母妃は鳥だ。毒蛇だと、ゼルダが罵るのを聞いたことがあるけれど、わかっていない。
かっこう、という名の鳥だ。
別の鳥の巣に卵を産みつけ、その巣に元よりあった卵は、蹴落とす鳥。
ゼルダが、蹴落とされた者にまで道を拓くから、彼女には目障りなのだ。
それを許しては、蹴落とした意味がなくなってしまう。
そう――
彼女がゼルダの何を恐れるのか、よく、わかった。
ゼルダは『違う世界』を創る者。
搾り取られ、見捨てられた大地、見捨てられた人々にさえ、未来を拓く。
ゼルシアの指摘した通り、ゼルダは道なりになど進まない。道を奪われた誰かのために、いつも、道を拓き続けている。
ゼルダを疎んじるのは、カムラ皇室に寄生する、闇に巣食う者達なのだ。
まさにそれである母妃にとって、ゼルダの存在は脅威以外の何者でもないだろう。
母妃に全てを約束された彼でさえ、ゼルダに心惹かれている。
彼が離反するだけで、彼女の野望は足元から瓦解するのだから。
――父上?――
ふと、気付く。
まさか、母妃を御すことを、期待されている――?
母妃を御せるとしたら、それは、父も帝位なんて喜んで献上してくれるだろう。いやしかし無理だろうそれは難度が高すぎるだろう。
だとしたら、期待されているのは、ゼルダを皇妃に殺させないこと――?
それでも随分、難度は高い。だが、クローヴィンスの方は『皇妃に殺されないこと』を期待されているとしたら、どうか。
皇妃ゼルシアの暗殺リストの筆頭に、おそらくクローヴィンス、次順にゼルダだ。公正か――
そうではない、クローヴィンスの方はもはや、裏から手を回せばどうとでも、皇太子の座を譲渡させ得るのだ。だとしたら、暗殺リストの筆頭は、――ゼルダか?
ドクン――
ヴァン・ガーディナは初めて、戦慄を覚えた。
もし、彼の考えが正しいとしたなら。
蚊帳の外、どころではない。
皇太子選定の二年間に、誰一人、皇子が失われなかったなら、父皇帝は、彼を皇太子に選ぶつもりではないのか。期待通りに事が運んだ時、あえてクローヴィンスを選べば、全てが水泡に帰しかねない。
母妃を御し、帝国を治め、皇室を護る力が彼にあるかどうか、試して――?
父皇帝が、積極的に彼を皇太子に選ぶことなど、考えもしなかった。
けれど、合法的に皇太子を入れ替える建前も兼ねて、準備は万端整えられている。
――無理難題、だ。
彼とて、母妃の支配下で帝位と栄誉を約束されて生きるよりも、弟皇子を傍らに、自由に生きてみたいと、心の片隅には、思い始めていた。
帝位よりも、ゼルダが欲しかった。
誰も取り合わなかった、誰も興味を示さなかった彼の意向を、ゼルダは汲んだのだ。初めは疑わしげに、次第に興味深く寄って来て、真剣に取り合うようになっていた。
ゼルダの魔物めいたガーネットの瞳が、彼に向けられる。水を向ければ、捉え方を変える。最近では、甘えさえする。
この時間が、いつまでも続けばいいと願っていた。
母妃を御すことが出来れば、全て、彼の望み通りに与えると――?
――まさか、あるはずがない――
否定しながらも、ヴァン・ガーディナは額を覆って、痛切に笑んだ。
父皇帝に期待されているなら、絶望的だ。
たった今、母妃がゼルダを暗殺しようとすることさえ、止められなかった。
それでも、優雅な微笑みを向け、母妃を敬う礼を取り、丁重に皇后宮を辞すのが彼なのだ。
もはや、失望にしか値すまい。
“ ヴァン・ガーディナ。あのような者、あなたのためになりませんわ ”
思い出したくもないから、永遠に、思い出しはしない。
慈しんでくれた人達、幼い頃に慕った人達の面影など、永遠に――
母妃が麗しく微笑んでその言葉を口にするのは、何もかもが終わってしまった後だった。
たとえ彼が選んだものが意に添わずとも、母妃は何も言わなかった。彼の知らぬ間に、何もかも――
誰も、この世に残らなかった。消えてしまった。物言わぬ冷たい骸だけを、残して。
何が欲しい、何がしたい、誰を傍らに置きたい、何も、考えてはならない。望んではならない。
心を閉ざし、いつでも、魅惑的な妖艶さで、微笑むようになった。
母妃の望み通りに立ち回り、母妃が選んだ貴族の娘を妃に迎え、母妃の思惑通りに生きる限りは、何ひとつ、不自由しなかった。
何も望まなければ、何も失わない。
彼が慕わなければ、誰も――
慈しんでくれた人々を、彼が、殺したのだ。
母妃に忠誠を示す以外の態度は、忘却してなお、全身が拒絶した。
弟皇子なんてどうでもいい態度を装って、ただ、少し残酷ではありませんか? そう、揶揄するのが精一杯だった。
父皇帝の期待には、到底、添えはしない。自嘲しか浮かばない。
ただ、彼自身がゼルダを望むから。出来るだけのことはして、傍で守るけれど。
傍にいない時間の方が長い以上、あまり意味がないことは、わかっていた。