神殿の少女

聖アンナ神殿


 胸にひとつ、秘めた願い。
 聖アンナ神殿をシルフィスは静かに眺め、やがて、その門をくぐった。
 
 
「シルフィス」
 贖罪(しょくざい)の前にアルベールに迎えられないよう、人知れず神殿に戻ったシルフィスは、待ち構えていた娘に、ひどく驚かされた。
「――マリアンヌ?」
「残念だわ。神と命を冒涜(ぼうとく)する死霊術師に、魂を売り渡してまで、命乞いをする恥さらしな裏切り者が、この神殿から出るなんて――」
「っ……」
「恵まれた皇子をどんな手管で落としたの? 何人の仲間を売ったの? 後宮の居心地はどう? 穢らわしい!」
 マリアンヌの父親は、その命を懸けてアルディナン皇太子を暗殺し、亡くなったのだ。
 アルベールの命乞いのため、神殿を裏切ってゼルダの後宮に入った形のシルフィスを、彼女が憎むのは、無理からぬことだった。
 けれど、誤解だと、強いられたのだと釈明する術が、見出せない。
「アルベールには恩赦が出たわ。――司祭位まで頂くのね。皇室命令よ? 前代未聞だわ!」
 ぞくっと、背筋が凍った。
 アルベールの免罪は願った。けれど、皇室命令で司祭位なんて、あまりに無慈悲だ。その経緯では、神殿内でどれだけ冷遇されるか、どれほどの迫害を受けるか、わからない。
 誓約を破って見せた日の、魔物のようなゼルダの表情が、脳裏を(よぎ)った。
 マリアンヌの声が、冷たい怒りを帯びて震える。
「阻止しようとしたマーティン司祭とミトレックが、ゼルダ皇子暗殺未遂のかどで死罪になったわ……。あなたが密告したんですってね? そのあなたが、何をしに戻って来たのよ、よくも、穢れた身で神殿に……! 出て行って!!」
 聞き違えたかと、耳を疑って、シルフィスはマリアンヌを見た。
「し、知らない! そんなっ……!」
「しらばくれないで! 皇妃様が、何もかも教えて下さったのよ! あの方は、あの方だけは、カムラ皇室にあって優しいわ。私達の声に耳を傾けて下さるもの。忘れたの? アーシャ皇妃を暗殺したかどで、皇室は幼かったあなた達まで罪に落とした……! でも、ゼルシア皇妃は違ったわ! 幼くて、何もわからなかった私とミトレックを、あの方が救って下さったのよ! なのに、どうして……!? あなたに殺されるなんて、弟を、ミトレックを返してよ!!」
 先に涙を落としたのは、マリアンヌの方だった。
「……違う……密告なんて、しない……」
 シルフィスを鋭く睨みつけたマリアンヌが、透明な小瓶を差し出した。
「――違うの? 猛毒よ。違うなら、側室でしょう、皇子に飲ませて。ミトレックに罪を着せたのがあなたじゃないなら、できるはずだわ。――裏切り者にはできない!」
 カシャン――
 透明な小瓶が、石の床に落ちて割れ、中身が飛散した。
 シルフィスが、拒んだのだ。
 ――これで、裏切り者……?――
 マリアンヌの冷たい眼差しは、間違いなくそれと確信していた。
 これで、疑う余地なく、彼女が無実のマーティン司祭とミトレックを、皇室に売ったことになるのだと。
 どうして、両親が罪に落とされたのか、突然に、見えた気がした。
 両親もこうして、皇妃を殺したことになったのか。
 ――父様、母様、アーシャ様を、二人の皇子を、憎んでいらっしゃるって、本当ですか?――
 彼女自身、疑いもしなかった。――でも、本当に?
 両親からは、ただの一度も、アーシャ皇妃や皇子達を怨む言葉は、聞いていない。
 皇子達からも、ただの一度も、レダスに落とされたリネットの家を――彼女達を怨む言葉は、聞いていない。
 なのになぜ、確信してきたのか思い出せない。
 アーシャ皇妃を暗殺したとされ、リネットの家は悲惨な末路をたどった。
 けれど、リネットが罪に落とされた時、アーシャ皇妃は亡くなっていたのだ。二人の皇子は、十にもならない幼子だったのだ。
 ――誰が、リネットを罪に落としたの?――
 忘れていた疑問を思い出す。答えは今なお闇に葬られたまま、失われていて。
 ただ、誰もが、ゼルダ皇子こそがリネットの家の仇だと、認めていたから。
 信じて――
 諦めなのか、哀れみなのか。シルフィスは感情を失った瞳で、マリアンヌを見た。何の罪も犯していないのに、たった一人の弟まで失ったマリアンヌは、不幸だ。どんなに悲しいだろうか。寂しいだろうか――
 けれど、その慰めのために、犯してもいない罪を犯したと認めて、その償いに、皇子を暗殺する――? そんなことが、本当に、マリアンヌのため――?
 シルフィスは静かに目を伏せると、そこを歩み去った。
 
 
 胸に秘めた願いはひとつ。
 彼女をさらった皇子を憎み抜くことも、信じ抜くことも、できない彼女にできること。
 アルベールのため、身の潔白を証すため、ただひとつ、彼女にできること。
 この身と心を、皇子ならぬ存在(もの)に捧げること――
 シルフィスは儚く笑った。
 その資格さえない時には、どうしよう。もはや、神殿にさえ、憎しみと虚構の螺旋しか見えない。永らえても、アルベールの足枷になるだけの命なら――