神殿の少女

第五節 白い結婚


「おはよう、シルフィス」
 翌朝、ゼルダは目を覚ますなり、寝台に身を起こしていたシルフィスを、背中からきゅっと抱き締めた。驚いて、小さな悲鳴をあげるシルフィスが可愛らしい。
「ふふ、シルフィス。そんなだと、朝から襲いたくなるよ?」
「えっ」
 ねぇ、誘っているのと、あわてふためいて逃げようとする彼女を捕まえて、ほんとに襲う。
「んっ、ん……! 皇子、や、めて……っ! お召し物も、寝台も、血まみれのままなのに……!!」
「あ」
 耳まで赤くして息を乱したシルフィスが、それでも、震えが収まると健気に、ゼルダの傷を確かめようとする。
「ほんとだ、酷いね、これはさすがに、沐浴しないと侍女が卒倒するかな。――シルフィス、一緒にどう?」
 身を硬くして、初々しく頬を染め、シルフィスは泣きそうになって、顔をうつむかせた。
「無理強いはしないよ。シルフィス、そんな風に泣くと可愛いから、泣かないで」
 ゼルダは優しく微笑むと、シルフィスを抱き寄せて、柔らかくキスした。首筋や胸元にも、彼を教えるように、キスを落としていく。少女が小さく震えて、潤んだ瞳でゼルダを見た。
「皇子、……い、痛む、でしょう……? ……んっ……」
 白い手がすがるようにゼルダの衣装をつかむ。澄んだ琥珀の瞳が、可哀相なくらい、罪の意識に揺れながら、一途な思いを吐露した。
「着替えはそこだよ」
 ようやく放してもらうと、シルフィスは頬を紅潮させたまま、よろよろと寝台を降り、よたよたと大理石の柱に頭をぶつけたりした。しゃがみ込んでたんこぶを押さえたりして、ちょっと可愛すぎる動揺ぶりを見せながら、着替えを抱えて、彼の後をついてくるから。
 まずいなぁと思う。
 これを取り上げられたアルベール、怒ってるだろうなぁと思うと、背筋がうすら寒いかもしれない。
 凄い目で、睨まれそうだ。――その程度で済んだら、神に感謝するべきか。
「え……」
 湯殿で、ゼルダの傷にできるだけ障らないよう、背中を流しかけたシルフィスが、手を止めた。
「どうかした? ――あ、傷、酷い?」
 方術師を皇宮に入れてはならない、という慣例を一夜にして木っ端微塵にした報いに、それなりに手酷く背中を鞭打たれたのを忘れていた。背中の傷は見えないし。
「あの、どうして……こんな、酷い傷……」
「――よく、あることだよ」
 シルフィスが悲しげに(まつげ)を伏せる。
 何だか、可哀相で。
「教えたくないわけじゃないんだ。皇宮の権力争いは、とても複雑に絡み合っていて、私が鞭打たれた意味も、一言で教えられるほど、簡単なことではないから。いつか君が、皇族と、伺候する貴族の見分けだけでもつけられるようになったら、その時には教えてあげるよ。私の側室として、夜会に出る覚悟があるなら早いけど、それは多分つらいよね」
 ゼルダの心遣いにか、シルフィスが少し驚いたように、軽く目を見張った。
「あの……。皇子様でも、夜会をつらく感じられますか……?」
「――君と同じ。母と兄を殺した女にも、愛想良く挨拶しないとならないんだ。いいものじゃないよ」
 息を呑む、沈黙。
「あ、でも。可愛くて綺麗なご令嬢に挨拶したり誘ったりするのは、生きがいだけどね。すごく楽しいよね
 ぱしゃんと、シルフィスが遠慮なくお湯をゼルダの背中にかけたから。
「痛っ! 染みるよっ!」
「――……」
 少女がむくれて、ぷいと顔をそむける。その仕種に、ゼルダは何だかおかしくなって、吹き出した。
「シルフィス、なに? 君がいるのに、私が君以外のコに関心を示すの、妬けるの?」
「〜っ!」
 涙目になったシルフィスが、何か言いかけて、うつむいて、零れ落ちた涙を拭いながら、こくんと頷く。
「わ、ごめん、泣かないで。ごめん、シルフィス――」
 堰を切ったように、少女の涙も嗚咽も止まらない。シルフィスは顔を覆って、湯殿を飛び出して行ってしまった。
「シルフィス、待って!」
 
 
 取り残された形で、ひとりで沐浴を済ませ、身繕いも整えたゼルダが居室に戻ると、シルフィスもひとり、寝台に突っ伏して泣いていた。
 ゼルダはそっと、その隣に腰掛けた。
「ねぇ、シルフィス。私は君を選んだんだ。君に不満があって、他のご令嬢が気になるわけじゃないんだよ? たとえば君だって、神殿で身寄りのない子を見かけたら、何人でも迎え入れて、優しくしてあげたくなると思わない?」
 シルフィスがきゅっと口許を引き結んで、泣き腫らした目でゼルダを見た。抱き締めていた羽根の枕を、両手でゼルダに投げつけた。
 もちろん、クリーン・ヒットしても痛くはない。
「あなたの側室になんて、なりたくて、なったんじゃないもの……! ひとは一人を愛するべきだって、お母様が言ったもの! 私、わかるもの! だって、あなたに、お妃様とお子様がいらっしゃること、考えただけで、こんなに、つらくてたまらないのに……!」
 思いが募れば募るだけ、苦しい。胸が張り裂けそうなのに。
「あなたは、平気なの!? お妃様が他の人を愛しても、他の人の子を産んでも!? それがつらいと思う、私なんて、どんなに傷ついても平気なのね……!?」
 ゼルダは目を見開いて、絶句した。
「大嫌い!!」
 ゼルダは皇子であり、リディアージュは貴族の令嬢だ。
 王侯貴族が妃を何人も迎えるのは自然なことで、それを否定する道徳は、どこか蜃気楼(しんきろう)のように、御伽噺(おとぎばなし)のように、儚く現実味のないものだった。
 けれど、改めて突きつけられると、どうして王侯貴族は、そのことにかけらの疑念もないのか、わからない。
「――シルフィス、それは……」
 ゼルダは困って、手の平で口許を覆った。
「……平気じゃ、ないよ。私も、シルフィスには私だけ見ていて欲しいし、シルフィスが傷付いて、平気なんかじゃないよ……?」
「嘘よ!!」
 ゼルダは深く嘆息して、困り果ててシルフィスを見た。
「――参ったな。追い討ちをかけるようだけど、近く、婚約のためにサンジェニに滞在するんだ。サンジェニ侯の姫を、正妃に迎えなければならないから」
「え……?」
 
 
 貴公子然とした風貌の、美貌の皇子と目が合うと、シルフィスはどきんとして、すぐにその目を逸らした。
 おかしいくらい、身がカタカタ震えた。
 問い返そうとした声も、もう、出なかった。涙だけが、まだ、溢れて(したた)った。
 ゼルダが手を差し延べなければ、期待、しなかったのに。
 未来さえ絶たれていながら、神殿で見た、優雅な天上の鳥のような少年が、残酷な現実から救い出してくれるなんて、彼女の傍に舞い降りてくれるなんて、期待しなかったのに。
 ――どう、して……?――
 皇宮の奥深くにさらわれて、追い詰められて、彼を信じて求めるまで、許してもらえなかった。
 正妃を迎えるなら、子を産んだ側室だっているのに、何のために彼女にまで、彼を信じさせ求めさせただろう。
 正妃を迎えてしまえば、今ほど自由な身ではいられないから? だから、その前に後ろ盾のない娘を(とりこ)にして、その心まで、(もてあそ)ぶために――?
 それと認めてしまうと、ただ、涙がこぼれた。
 ゼルダにとって、彼女は心ゆくまで蹂躙(じゅうりん)できる、どれだけ弄んでも(とが)めのない、罪人の娘。それだけ、だった――
 声が出ない。
 身も心も千々に引き裂かれるような痛みしか、シルフィスにはもう、わからなかった。
 これが、報い。
 優しく誠実だった両親に、神の道に背いた報い。なお、ゼルダを望む彼女が罪深く、間違っている。
「皇子……サンジェニに、滞在される間だけ……その間だけでも、私を神殿に、戻して下さい――」
「え……?」
「……許して、頂けますか……?」
 真っ直ぐなゼルダの瞳が、彼女を見詰める。
「その時には、正妃を迎えた上で、君を呼び戻すことになる。――それでも?」
 シルフィスは痛みの中に微笑むと、こくんと頷いた。
 
 
「ねぇ、シルフィス」
 政務に向かう前に、ゼルダがもう一度だけ、シルフィスを振り向いた。
「――君なら、君だけは、祈っても、それだけでは神が応えてくれないこと、知っていると思ったんだ。思い違いで、傷つけたね。ごめん」
 シルフィスはただ、虚空を見詰めていた。
 ゼルダはわずかに嘆息すると、もう振り向かず、部屋を後にした。
 胸が痛かった。
 けれど、たとえ彼の罪だとしても――
 他にどうすることができるのか、わからなかった。
 少女の祈りはとても清らかで、可憐で美しい。だからゼルダは、一命を懸けても、シルフィスの願いを叶えたいのだ。そのためには、彼女の分まで、彼が行動しなければならない。
 もはや、猶予はない。神殿粛清は決議されてしまった。
 皇妃と渡り合うだけの権力基盤を、どんな無理をしてでも、築かなければならない。
 サンジェニ候の後ろ盾を得れば、あるいは、それが可能かもしれないのだ。サンジェニ侯の姫君になんて、まだ、会ったこともないけれど。
 それでも、妃に迎える以上は誠心誠意、大切に守るつもりでいる。
 ゼルダは祈る気持ちで、そっと、聖アンナにもらった天使の羽根飾りに触れると、愛しい少女に加護をと、囁いた。