陶然と見入るリディアージュに、ゼルダは優しく微笑みかけると、その足元に跪き、そっと、その手の甲に口付けた。鮮やかに頬を染め、息も吐けない様子のリディアージュが可愛らしくて、ゼルダはくすくすと笑った。
立ち上がり、リディアージュを柔らかく抱いて、口付ける。もう死んでもいいですと顔に書いたリディアージュが、へろへろと胸にしがみついた。可愛らしいことこの上ない。
「会いに行くよ。一日も早く君を迎えに行けるように、努力するから、信じていて欲しい。エルディナスを頼む」
何度も頷いて涙を堪えるリディアージュを馬車まで送ると、ゼルダはエルディナスとリディアージュに最後のキスをして、離れた。
朝露の滴る木立の合間から、馬車の影が見えなくなるまで、ゼルダは妃と子を見送り続けた。
独りになると、ゼルダは厳しい目をして、皇宮を見やった。
父皇帝に今日、訴える。母皇妃と兄皇太子を殺させたのが、ゼルシアであること。
父が何と答えるか――
父に愛されていると感じたことは、あまりなかった。
信じてもらえるのか。
父皇帝にとって、皇子の一人にすぎない彼に、価値があるのか。
正直なところわからなかった。
そもそも、父皇帝は本当に、ゼルシアの所業を知らないのか。そんなことがあるのだろうか。
知っていて黙認しているのだとしたら――
考えれば考えるだけ、分の悪い、綱渡りも同然の賭けに思えた。
けれど――
透き通る湖面に姿を映し、ゼルダはふっと微笑んだ。
年々、亡き母の面影が強くなる。
父はどんな思いでこの姿を見るだろう。
こうして髪を結い上げれば、ますます、肖像画のアーシャ皇妃に酷似する。生き写しだ。
知っていて、この姿で父皇帝に目通る。それが残酷なのか、愚かなのか、ゼルダは知らない。
父皇帝と真正面から相対すれば、もう、後戻りはできない。
“ 父上は昔、民を愛して下さっていたが、愛すればこそ、無理もしていらしたようだ ”
“ 願いという形の人の欲に、応えれば応えるほど、父上への期待は増して―― ”
兄皇太子が語った言葉の幾つかを、ゼルダは思い起こした。
人々はいつか、同じ人間であるのに、ハーケンベルクになら何でもできて当然だと、皇太子であり、能力も高いのだから、何でもできるはずだと、思うようになっていたのだと。
その隙に、第二皇子が付け込む。
民と摩擦し始めていた皇太子を、弟皇子が追い落としにかかるのだ。
小さな失望をきっかけに、民はシャークスの、皇太子を貶める言葉に耳を貸した。それまで、民のためになど指一本動かしてこなかった第二皇子の言葉に。
当時、民を思えばこそ力を尽くしてきた皇太子の誠意さえ、『民衆の支持を得ようという下心による』そんな言葉で貶められ、愛されたはずの民が、皇太子を裏切った。
皇太子の失望は、深かった。
それを境に、皇太子は周囲に心を期待しなくなった。その脆さを目の当たりにし、価値を見失ったのだ。
そして、そんな皇太子が即位する頃に側室に上がったゼルシアが、いつしか、その懐に滑り込む。どんなことがあっても、皇帝を裏切らない女として――
“ 陛下は、これ以上、裏切られたくなかったのです。与え続けた愛情や誠意を、享受した者達に否定され、心を、虚しさと疲れに蝕まれて――アルディナン、ゼルダ、あなた達だけは、お父様を信じていてあげて――どうか、お父様を、孤独の中に置かないで―― ”
ゼルダは酷薄な笑みを浮かべると、こぶしを握り締めた。
ハーケンベルクを最後まで信じたアーシャは、ゼルシアに暗殺された。
そのゼルシアが、次の皇妃に立つ。
父皇帝の何を信じることが、できたのか。
五歳の時に母皇妃を亡くし、十二歳の時に兄皇太子を亡くし、怒りと悲しみに我を見失ったゼルダを侍従が押し止めた。
“ ゼルダ皇子、陛下には、ゼルシア皇妃が必要なのです! そこまで負わずと良いと、生活苦の全てを陛下の責にする者達を、あちらが愚民と、ゼルシア皇妃は切って捨てられる方――! ゼルシア皇妃を敵に回してはなりません、陛下のご勘気をこうむれば、陛下の愛情なくしては、あなたはこの皇宮では生きられないのです! 皇子、あなたを愛した母妃様のために、なにとぞ、お止まりを……!! ”
強欲なようで、ゼルシアほど、欲がなく信用できる妃はいない。
不作の年、皇帝が力を尽くしたあげくに何万の民が死のうとも、ゼルシアの食事さえ不足しなければ、ゼルシアは意に介さなかった。
“ 陛下、皆、自分が責められることがいやなだけ――陛下に何もかも押し付けていれば良いと思っているのですわ。あのような者達の言葉に耳など貸されますな。あの者達が何をしたのです。陛下を責めるのは簡単ですけれど、あの者達の言うようにしていたら、今頃、カムラはとっくに傾いていたのです。この天災にも、国力を全く落とさず済ませた陛下が、偉大な皇帝でなくて何だというのでしょう。ゼルシアには、陛下の偉大さがわかりますわ ”
ゼルシアはまた、知略と人の心の機微を見抜く目とも備え、皇帝を陥れんとする誹謗に、ただの一度として、惑わされなかった。惑わされるどころか、人心が惑う度、人心を惑わす手管を学び取る女だった。それを駆使してゼルシアはのし上がる。
ゼルシアは、手を汚さず他人を陥れる人間を見て、泥はねの一つもなく邪魔な相手を始末する、その手管を悠々、学び続けたのだ――
ゼルダは重い気持ちで嘆息した。
父皇帝に、母皇妃ならまだしも、自分の言葉に耳を貸せと言うのは、無謀に思えた。
この姿は悪あがきだなと、自嘲めいた微笑を浮かべる。
それでも、父が母を愛していたのか、確かめたくもあった。確かめなければ、前に進めない。
父を愛した母の言葉を、振り切れないから――