雪月花の物語

晩餐の後【3】


 アーシャが真っ直ぐに彼を見詰めた瞳を、今でも覚えている。
 彼女の澄んだ瞳は、彼の心の奥底まで、見極めるようだった。
 覚えた感覚は、不思議な期待感だった。深い夜を覆う霧が晴れ、目が覚めて行くような。
 隠さなければならない醜い欲を、彼は抱えていなかった。
 やり場のない悲しみや怒りや痛みを、降り積もるままに、一人で抱えているだけだった。
 彼女は言った。王家に国を守る力がなくて、国を滅ぼされたとは思わないと。
 クラレットは良い国で、良い王家で、皆幸せだったと信じていると。
 あなたの瞳は両親と同じ優しい色、あなたは無力ではないし、あなたが助けてくれると言うのなら、助けて欲しい――
 アーシャはそこまで言って喉を詰まらせた。
 王家の者が彼女一人を残して皆殺しにされてしまったのなら、彼女が何としてもクラレットの民を守らなければならないのに、彼女はあまりに力がなくて、どうしていいのか、わからないのだと――
 抱き締めれば、驚くアーシャは簡単に彼の腕の中におさまった。
 無力、という言葉の意味を履き違えていた。
 国を滅ぼされ、家族を皆殺しにされた年端もいかない亡国の王女が、まだ、民を守ろうと必死なのに。
 内戦が起きるかもしれない。暗殺されるかもしれない。歴史に悪名が残るかもしれない。
 それでも、覚悟して闘おうと思えば、彼に出来ることは山とあった。
『貴女のために私の命を懸けよう。貴女の愛するものすべて、私も愛し守ると誓うよ』
 
 アーシャとの出会いは、彼の闇を革命した。
 二人は愛し合うようになり、彼はアーシャを正妃に迎え、クラレットの民を奴隷身分から解放した。
 彼女は聡明で、王家の姫君だっただけはあり、彼がこの時、何人もの妃を迎えなければならなかった意味も、真摯に理解した。
 三十年物の腐敗を後ろ盾にしたシャークスと渡り合うには、ハーケンベルクの基盤と後ろ盾はあまりに弱かったのだ。
 有力な貴族の娘を妃に迎え、一族の繁栄を約束し、支援を取り付ける必要があった。
 アーシャは後宮をまとめ、力を尽くして彼の妃達を守った。
 彼女は民を守るという使命を、彼女自身の喜びとして背負っていたから、彼と同じ高さから、物事を見ていたのだ。守る立場の彼の考えや感情を、誰よりも、よく理解してくれた。
 しかし、危惧されていた通り、アーシャが兄皇子の正妃になったと知った時のシャークスの激昂は、凄まじいものだった。
 ハーケンベルクも事ここに至っては引かず、彼女を自分に戻せというシャークスの要請など真っ向から突っぱねた。皇太子の位を返上し、帝位を寄越せという要請もまた同様に。
 先代の喪が明けたその日、カムラはついに、泥沼の内戦に突入したのである。
 
 
 よく冷えた酒を一口飲むと、ハーケンベルクは静かにヴァン・ガーディナを見た。
 ゼルシアはまだ、出て来ない。
 それでも、ヴァン・ガーディナが何か考え込んでいる様子なのは見て取れた。
「なかなか壮絶だろう、ご感想は?」
 言葉が見つからない様子で、ヴァン・ガーディナも水で割った酒を一口飲んで、首を振った。
 ヴァン・ガーディナは、ゼルシアを失えば自分も生きていられまいと思ってきたのだ。復讐者達が自分を殺すだろうと。
 けれど、今のヴァン・ガーディナと同じ十七歳でハーケンベルクが置かれた逆境は、ヴァン・ガーディナが想定していた最悪の事態よりも遥かに苛烈で、父皇帝がそれでも生き抜いたという事実は、彼に様々なことを考え直させていた。
「私は些事で、あなたを煩わせたのですね。父上にとっては、私の境遇など進退窮まるものではないでしょう」
「――いいや? そうでもないぞ、おまえがそうして傷ついているのを知るたびに、つくづく、ゼルシアの上手を思い知るよ。あいつは隠すからな。おまえがどんな仕打ちを受けてきたか、私はよく知らないんだ。おまえ、もっと積極的に恨み言を私に吐いて、教えとけ。父親なんだから、甘えればいい」
 ヴァン・ガーディナはかろんと、杯の中の酒と氷を揺らした。何か、慣れない感情が芽生えて落ち着かなかった。
「そのすぐ後だ、アーシャがゼルシアを後宮に連れ込んだのは」

 
◆ 次回予告 ◆
 その子供は袋叩きにあって、血染めの屍骸のようだった。
 他の側室が悲鳴を上げて逃げ惑う中、アーシャが一人で献身的に介抱し、ゼルシアは奇跡的に一命を取り留める。
 傷が癒えてみれば夢のような美少女で、まだ十四歳だった。
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