雪月花の物語

お妃様は見た


「ねぇ、シルフィスぅ。アデリつまらないの。ゼルダ様ったら、最近、帰りが遅いわ」
 ゼルダに贈られた綺麗な手まりをもてあそびながら、アデリシアが頬をふくらませた。
 ぽーんと手まりを放って、シルフィスに取って、と言う。
 ゼルダが見ていたら、「アデリ、シルフィスを侍女みたいに使わないの、めー!」と言うところだ。
 もっとも、当のシルフィスは使われているというより、子供をあやしている気持ちだった。シルフィスの目にも、アデリシアは可愛らしくて、笑ってくれると嬉しかった。
「ゼルダ様、大丈夫でしょうか。ルディア湾の上空に出た黒い十字架は、たぶん『死の逆十字』――冥門が開いたなら、術者は死んでしまうはずです――」
「死の逆十字!? スゴイわ、なんだかカッコイイ!」
 にわかに興奮して、目を輝かせてアデリシアがはしゃいだ。
「シルフィスは魔法使いだもの、魔法には詳しいのね!? ゼルダ様の危機なのね!?」
 神聖魔法と死霊術を一緒くたにするアデリシア、恐るべしだ。
「ゼルダ様の危機なんて、アデリ、妃として放っておけません! ぴーん! いいことを思いついたわ、ねぇ、シルフィス、領主館に差し入れを持って行かない!? シルフィスも行こう!? わぁい、ゼルダ様に愛妃弁当をお届けしましょうよ! ねぇ、シルフィス、卵ってどうやって焼くのか教えてー。卵焼きつくろう、卵焼き。あとは、イチゴ味のカキ氷がいいわよね♪」
 アデリシアが善意なだけに、真夜中まで領主館に詰めてクタクタになって、それでも、卵焼きとカキ氷の差し入れを笑顔で受け取るだろうゼルダが、不憫かもしれない。ゼルダは喜ぶだろうし、アデリシアの精一杯だけれど、体はつらいだろうから。
「えっと、私も少し、献立を足しても……?」
「うん、シルフィスは何でも上手だもの、アデリもつまみたいわ♪ だから、卵焼きはアデリに譲ってね!」
 脈絡のなさに吹きつつ、シルフィスはにっこり笑って頷いた。アデリシアは凄いと、シルフィスは思う。
 やっぱり、卵焼きとカキ氷だけでも、何もないよりはゼルダも嬉しいだろう。領主館を約束もなく訪ねるなんて、シルフィスには畏れ多くて、発想さえ出来なかった。
 いつも、してもらうばかり、与えてもらうばかりの受け身でいる。アデリシアのように、ゼルダのために何かしようと思える勇気を持てたら――
 引っ込み思案なシルフィスには、優しくて天真爛漫なアデリシアが、憧れを伴って、羨ましかった。
 
 
 頭と体が重く、何かしたい気分ではなかったヴァン・ガーディナは、夕刻まで、ゼルダが事後処理に追われる様子を猫とたわむれながら見ていただけで、何もしなかった。
 ゼルダがそれを許したのだ。出来た弟皇子だなと思う。
 ただ、ゼルダは兄上様を何だか叱った。高度な死霊術の乱れ撃ちは術者を死に至らしめることもままあるのだから、二度としないで下さいと――
 ライゼールの港町が砲撃されたことなど久しくなかったので、何をどうしたらと、使者が多岐に渡る用向きを携えて、ひっきりなしに領主館を訪ねて来る一日だった。
 夕刻になって、ゼルダに夕食と湯浴みを指示して職務に復帰したヴァン・ガーディナは、区切りがついたところで、ゼルダの様子を見に立った。なかなか、傍に戻って来ないのだ。
「ゼルダ?」
 ずっと、食事も休憩も取らずに動き回っていたゼルダは、食事をして眠くなったのだろうか、ソファでうたたねしていた。
 職務に当たろうとはした様子で、何かの書簡が手元に落ちていた。
 ヴァン・ガーディナはくすくす笑って、その傍らにかけて、ゼルダの寝顔を指でなぞった。
「おまえ、愚かだな」
 この命を絶ってやろうかなんて、二度とは、言ってやらない。
 ゼルダは薄いブラウスにベストを重ねているだけで、湯上りの肢体はしなやかだった。
 ヴァン・ガーディナは軽くゼルダを抱き起こして、眠り姫のようなゼルダにキスした。
「なんだ、失礼だな?」
 花の姫(ゼルダ)のくせに、雪の王子(ヴァン・ガーディナ)のキスで目を覚まさない。
 起こして抱いてやろうかと思ったけれど、それも可哀相か――
 あどけない寝顔も可愛いけれど、やはり、起きていないとつまらなかった。
 ヴァン・ガーディナは、ふと、扉を閉めていなかったなと思い至った。


 ライゼールの領主館に踏み込むのは初めてだ。案内人に教えてもらったゼルダの執務室に、アデリシアはシルフィスと連れ立って、期待に胸弾ませながら向かっていた。
 二階の廊下を曲がると、夜会の日から忘れもしない、麗しのヴァン・ガーディナ皇子がゼルダの執務室に入って行くところで、アデリシアははしゃいで、シルフィスを振り向いた。
「アデリ、ゼルダ様がどうお仕事なさっているのか見たいです! こっそり、覗き見るのよ♪ 抜き足、差し足、忍び足!」
 そのためにお夜食を預かってねと、ここで待ってと言われたシルフィスは、正直ほっとした。一緒にやってと言われたら、困ってしまうから。
 執政官としての、ゼルダの有能でセクシーな姿を期待して、ひょいと執務室をのぞいたアデリシアは、見てはならないものを見てしまった。
 ソファに寝かせたゼルダを抱き起こして、麗容のお兄様が、いけないことをしているのを、見てしまったのだ。
 ――ゼルダ様ったら、遅いと思ったらこんなことをぉ!? 朝帰りも、いわゆる朝帰りですかぁ!?
 純真で清楚なシルフィスは、絶対に見てはいけない。アデリシアは懸命に腕でペケを作って、シルフィスに来たら駄目と訴えた。
 兄皇子がこちらを振り向いて、アデリシアはその瞬間、すぐさま逃げ出さなかったことを、心の底から後悔した。
 どうしよう、どうしよう、どうしよおぅ!
 頭はパニックで、微笑みながら近付いてくるヴァン・ガーディナが、今にも死を宣告するのではないかと、アデリシアは恐ろしさのあまり、足が竦んで逃げ出すことさえ適わなかった。
「困ったお妃様だな、アデリシアーナ侯爵令嬢?」
 どうしよおぉおおぅ!
 ――アデリ、口封じに殺されちゃうかもしれません! キスもしないまま、死にたくないです!!
 冷酷に笑んだヴァン・ガーディナの指が喉元に伸び、アデリシアはガタガタ震えながら、全力で、見ていませんとかぶりを振った。祈るように手を組んで、許して下さいと訴えた。
「ご存知かな? こういうのはね、苦しむのは手を出された方なんだ」
「え……」
 手を出した者に与えられる罰など、ささやかなものだよと、手を出された者に与えられる、理不尽な軽蔑という重い枷に比べたらねと、麗しい兄皇子が平然と言ってのけ、アデリシアを見た。
「これが噂になったら、もう誰も、ゼルダに従わないだろうな。ゼルダはつまらない者にまで軽蔑されて、何もなせなくなる。あなたは心がけの良いお妃様だ、ゼルダを破滅させたりはしないね?」
 アデリシアは何度も頷いた。麗しい皇子様が、なぜか、とてつもなく悪魔の申し子に見えた。
「どうしようか、あなたの口も封じておこうか――」
 アデリシアは恐くて、ゼルダ様起きてぇと心で絶叫しながら、懸命にかぶりを振った。恐怖のあまり声が出ない。動けない。
 ヴァン・ガーディナの指がアデリシアの顎を取った。
 くびり殺されると思ったアデリシアの唇に、ヴァン・ガーディナのそれが重ねられた。
 目を見張って、抵抗しかけたアデリシアの腕をヴァン・ガーディナがつかみ、廊下の壁際に追い詰めた。
「んっ……!」
 アデリシアはへなへなと、廊下にへたり込んだ。
 ――い、いけませんー!! アデリったら、アデリったら、ゼルダ様という御方がありながら!?
「ファ、ファースト・キスだったのにどうしましょう! ゼルダ様が先にされていたから、セーフかしら!?」
 駆けつけたシルフィスの腕にしがみつきながら、アデリシアが言う。
「知られたら困るのはあなただと、我が身に降りかかると、よくわかるだろう? ゼルダには隠しておきなさい。そちらのご側室もね」
 麗しい魔物の笑顔でヴァン・ガーディナがのたまった。その風貌はむしろ、天からの御使いかのようなのに。
「ん……」
 先ほどの、アデリシアの懸命な祈りが届いたのか、ゼルダが身を起こした。
「ゼルダ様!」
「あれ、アデリシア? もしかして、心配して来てくれたの?」
「あの、はい、シルフィスも! イチゴ味のかき氷、持ってきたんです。アデリが氷かきました……!」
 ぷっと、ヴァン・ガーディナが失笑した。
 アデリシアにどう見えたとしても、ゼルダのあまりの抜かり具合に、ヴァン・ガーディナはとっても、楽しいのだった。
「わぁ、ありがとう。嬉しいな。ガーディナ兄様、かき氷を食べたら、今夜は帰邸してもよろしいでしょうか? 今夜は、兄上はいつまで? あなたにもあまり、無理をして頂きたくないです」
「わかった。私も帰邸しよう、ナオゥが寂しがるものな」
 ゼルダはがくうとソファに両手を突いた。
「兄上、猫じゃなくて! お妃様を少しは気遣って下さい!」
「どうしてだ? 妃は皇都だ」
 ぶっと、かき氷を吹きそうになったゼルダをよそに、アデリシアは一人、こぶしを握り締めていた。
 ――き、期待通り!――
 何か、目の端を光らせるアデリシア。
「ちょ、皇都って、どういうことですか! 兄上まさか、二年間もお妃様を放っておかれるのですか!?」
「そのつもりだが?」
 ゼルダの背後にピシャンと稲妻が走った。あり得ない。
 一方、アデリシアはいよいよ、そうでしょうとも! と萌えていたり。
「妃は十四歳と十七歳だ。二年くらい、放っておいた方がいいだろうに」
 何言ってますか。手を出さないと言うならともかく、文字通り放っておく馬鹿がどこに。あ、ここに。
「ないです、それはないですよ! 兄上、ご自分がどれほどのご麗容かわからないのですか! お妃様は、絶対に兄上に構われたいはずで――」
 ゼルダの言葉半ばに、ヴァン・ガーディナがゼルダの顎を取って、妖しい微笑を浮かべた。ゼルダはどうかされそうで、たまらず、そろそろと目を逸らした。
「おまえ、そんなに私の容姿を魅力的だと思うなら、憧れのお兄様が、もてあそんでやろうか?」
「うわ、やめ――」
 ゼルダはふと、アデリシアの世にも哀れなものを見る目に気付いた。
「えっと、アデリ? いたたまれないんだけど、その目、何だろう……?」
「ゼルダ様、お兄様が大好きなんですね。いいんですよ、アデリ納得しました」
「えぇ!? 待って、納得しないで!」
 面白そうにクスクス笑って、ゼルダの背後に回ったヴァン・ガーディナが、きゅっとゼルダを抱き締めてきた。
「兄上、何をなさ――」
「ゼルダ、私の気が済むまでおとなしくしていなさい」
 おとなしくって!
 しかも、優しくて心地好くて、妃の前で気になるのに、逆らえない。
「あの、兄上、はなして下さい――」
 ようやく言ったゼルダを、ヴァン・ガーディナがいよいよ優しく抱き締めて、耳元と後頭部にキスを落とした。
 駄目だ、苦しい。毅然として突き放したいのに、甘くて切ない気持ちになって――
 たまらず片手で顔を覆ったゼルダの耳元に囁きを落として、後は妃達とよろしくやりなさいと、兄皇子は部屋を出て行った。
「あの、ゼルダ様?」
 兄皇子が落としていった囁きは、あろうことか死霊術で。
 ゼルダの様子を心配そうに覗き込むシルフィスに、ゼルダは何でもないと、かぶりを振るしかなかった。
 あ、の、ド畜生兄――!!
 夜の記憶を呼び戻されて、ゼルダはどうしようもなく動揺していた。
「もぉ、な、何かなぁ? 今の。アデリシアやシルフィスも、姉兄にあんな風に抱き締められたりする?」
 シルフィスが途惑いがちにかぶりを振る。
 アデリシアの方は、はしゃいだ様子で、にこにこしていた。
「ゼルダ様ったら、もちろん、しませんわ!」
 さっきから気になるんだけど、この、アデリシアの妙なテンションなに。
 
 
「ねぇ、ゼルダ様。今夜はシルフィスの部屋にお泊りになって下さいね。アデリは体の調子が優れませんの」
 その夜、とてもそうとは思えない、艶々した顔色でアデリシアが言った。
 腑に落ちない様子のゼルダをシルフィスの部屋に送り出すと、アデリシアは嬉々として、羽根ペンと絵の具を取った。
「うふふ、うふふふふ
 アデリシアの水彩画はサンジェニではちょっとした評判で、絵本の挿絵も描いた。
「お兄様ったら、ゼルダ様への切ない恋心を秘めていらっしゃるのね。ヴァン・ガーディナ様ですものね ていうか、お兄様ったら、あんなに大胆なのに、ゼルダ様は気付かないなんて!」
『アデリのいけない絵日記』
 お妃様はその夜、帰りが遅い日にはまた、必ず様子を見に行きましょうと、懲りずに、乙女心に誓ったのだった。