雪月花の物語

第二節 フォアローゼス


 ライゼールに移って、一月半が経つ頃のことだった。
「動くな、命が惜しければね――」
 黒覆面に黒眼鏡をかけた、見るからに怪しい二人連れが、領主館の前をうろうろしていた。
 背の高い方の背後に回り、抜き身の剣を突きつけたゼルダを振り向き、小柄な方の不審者が、可愛らしい少年の声を上げた。
「うわ、待って! ゼルダ兄様、僕だよ、マリ、マリ! そっちはクローヴィンス! うわぁん、だからこんなカッコやめようって言ったのに、ヴィンスが馬鹿なんだもん〜!!」
「っさいな! ここまで皇子だってバレなかっただろ! 怪しまれたっていーんだよ、そっちがバレなければ!」
「いやだよ! じろじろ見られてさぁ!?」
「――て、兄上!? マリなの!?」
「久しぶりだな、ゼルダ」
 第三皇子クローヴィンスを名乗った不審者が、しっと指を一本立てて、にやりとした口調で告げた。
「お忍びだ、極秘で邸内に入れてくれ。ガーディナとも話したいが、とりあえずおまえだ」
 
 
 貴公子然とした、優麗な風貌の皇子が多い六皇子の中にあって、クローヴィンスは異彩を放つ。日焼けした浅黒い肌や精悍な顔立ちは、いかにも武官という風情だ。性格もかなり荒っぽい。もっとも、クローヴィンスの強引さは、軍事国家の皇帝然とした威風と知性ならしっかり備えたもので、良く言えば頼りがいや統率力を感じさせる。
「俺とマリは、皇太子はヴァン・ガーディナで構わないと思ってる」
 客間の椅子に掛け、泰然と構えたクローヴィンスの第一声に、ゼルダは振る舞おうとした紅茶のカップを取り落とした。
「ゼルダ、父上は生まれた時から、おまえを皇帝の補佐にするつもりで仕込んでるだろ。父上がおまえの指導を言い渡すのが、父上が皇太子にしようと考える皇子だぞ」
 クローヴィンスの指摘に違わず、アルディナン、ザルマーク、ヴァン・ガーディナ、皇太子も同然の兄皇子たちに、ゼルダは父皇帝の命令で預けられてきた。事の真相を知らずに観察すれば、そう取れないことはない。
「おまえもガーディナも知らないだろう、俺も知らなかった。おまえ達が、五歳の頃から帝王学やってたなんてな」
「――まさか! 兄上は修めていないとでも!?」
 我が意を得たりとばかり、にやりとしたクローヴィンスが断言した。
「そのまさかだ! 恐れおののけ、自慢じゃないがな、俺は三日前に文字の綴りを覚えたばかりだぜ!」
 ゼルダは間髪入れず、クローヴィンスの戯れ言を冷たく一蹴した。
「兄上、そんなわけないでしょう」
 クローヴィンスは初等部から寄宿学校に通っているので、ゼルダとの面識はあまりない。それでも、帝国屈指の名門校に優秀な成績を残したと聞いているのに、文字が綴れないわけはない。
「マジだって。俺、文字がみっしり並んだ教本なんて、見ただけで眩暈(めまい)がするんだぜ!」
「わぁ、本当!? 十八歳まで文字も書けずに生きてきたなんて、前から思ってたけど、ヴィンスって、ただ者じゃないよね!」
 『みっしり』じゃなくて『ぎっしり』だよと訂正しながら、真に受けたマリが感嘆すると、それまで熱心に本当だと主張していたクローヴィンスが、手の平を返して馬鹿にした。
「嘘に決まってるだろ! 何でおまえが騙されてんだ、恋文のやり取りができないだろうが!」
「そういえば、ヴィンスってやたらモテるもんね、ゼルダ兄様とどっちがモテるのかな?」
 慣れているのか、マリは気にしない。
「それは、俺だな。ゼルダの後宮はいか様だ、よりによって聖女系の綺麗なのさらいやがって、どこの魔王見習いだ? ゼルダ、皇子様親衛隊みたいな取り巻きもいなくてなぁ、綺麗なのさらって後宮にねじ込む真似は、モテ皇子のすることじゃないぜ!」
「だけど、ヴィンスもどうするとあんなにモテるの? こんなに雑な性格で、デリカシーのかけらもないのに。お妃様のクリシーヌなんて、ボランティアの鑑なんだよ! 性懲りもなくヴィンスがやんちゃして、やれ停学だ退学だって騒ぎになる度に、クリシーヌが謝って回るんだもの!」
 スゴいんだよと、兄皇子の取り巻きについて、マリが語った。正妃と側室に迎えているのは、ごく一握りなんだとか。
「馬鹿マリ、おかげで俺は、クリシーヌに頭が上がらないだろうが!? 俺の後宮を牛耳ってるのは俺じゃなくて、クリシーヌなんだぞ!? あり得ない悲劇だ!」
 それ、あり得ないのはクローヴィンスの方だろう、何やってるんだか。
「やれやれ、ここにも顔騙しが」
「あぁ? なんだゼルダそれ、俺の顔が素敵だってか」
「ええ、そんな感じで。鍛え抜かれたスタイルも、男性として抜群ですよ」
 クローヴィンスといい、ヴァン・ガーディナといい、顔で女性にもてはやされてるなと、ゼルダは深く嘆息した。
 カムラの女性には見る目がない。――自分もそうだとは思わないあたりが、ゼルダなのだった。
「ま、皇子様の優しさはな、もったいつけて、ここぞという時にチラ見せしろ。女の大半はな、団体行動でちょっと手貸してやっただけでも、異性を意識するものなんだぜ? あなたは女性だから大切に扱いますって、態度で示せ!」
「えぇ!? ヴィンスってば、そんなことしてたの!? それで皇子様親衛隊なの!? なんてやり口だ!」
 そういうのって罪つくりだよと、マリはお叱りだ。
「あのなぁ!? お子様ランチ!」
 頭痛を覚えたゼルダが額を押さえて、そもそもの話の続きを促しかけると、それを見越したようにクローヴィンスが話を戻した。
「さて、本題だな。帝王学やら宮廷儀礼やら、とっくに修了してるヴァン・ガーディナと俺が競うためには、死に物狂いで、俺もそれを修めないとならない」
 傲慢な笑みを浮かべるクローヴィンスは、それに怯んではいないようだった。
「ゼルダ、そうして欲しいか」
 どう、答えられただろう。現在、皇位継承権第一位のクローヴィンスが皇太子を望まないなど、ゼルダは考えもしなかったのだ。
 皇太子を望めば、その地位が確たるものになるほど、皇妃に命を狙われることになる。それと承知で――
 ゼルダが浮かべた苦渋の表情に、クローヴィンスは察したようだった。
「皇妃様に狙われるとかは、気にしなくていいぞ。俺も、皇妃様のなさりようは気に食わない。そういう意味では、ヴァン・ガーディナに皇太子を譲るのはどうかと思うけどな」
「兄上、知って――!?」
「ヴィンスでいい。俺はこれでも皇子だし、テッサリアに仕込まれたんだ、知ってるぜ」
 テッサリアはクローヴィンスの母妃で、元は女官長を務めていた女性だ。
「――ヴィンス、それは、気にするなと言われたって!」
 クローヴィンスの隣から、マリが大丈夫だよとウィンクした。
「ゼルダ兄様、ヴィンスの命は、割と安泰なんだ。父上の子じゃないって噂があるし」
 驚いて、ゼルダはクローヴィンスを凝視した。そんな噂は初耳だ。
「ゼルダ、言っとくが俺の父上はハーケンベルクの皇帝陛下だぜ、間違いなくな。テッサリアはあれで一途だからなぁ。『あたしはあんたに最高の遺伝子を獲得してやったわ、ハーケンベルクのね!』って、耳にタコが出来るっつーの」
「でもテッサリアは凄いよ、ヴィンスと一緒でめんどくさいこと大っ嫌いでさ、ヴィンスの父親が皇帝陛下じゃないなんて不名誉な噂が立ったら、かっこよく啖呵(たんか)切ったもんね! 知ってる? 『ヴィンスの父親? 誰だったかしら、あたしに夢中の男がたくさんいすぎて忘れたわ! でも、陛下が認めていらっしゃるなら、陛下に違いないわね? 伝統あるフォレスト家のテッサリアは逃げも隠れもしないわよ、気に入らないなら陛下に伺いなさいな! ついでに、こんなところまでご苦労様ですこと、ヴァルキュ リア霊峰の湧き水をどうぞご堪能なさって♪』って、人の足を引っ張るやつらに、冷水ぶっかけたの! 伯爵様でも侯爵様でもお構いなし! しかも、その翌日には陛下が大輪の薔薇の花束抱えて、テッサリアの別荘にいらしたんだよ。ほんと、すっごいよねぇ♪ テッサリアはアーシャ様とは別の意味で伝説だよ」
「それ、凄いな。ていうか、テッサリア様のこと、何でマリまで呼び捨てなの?」
「えっ……、えぇと、おかしいかな? だって、ヴィンスがテッサリアって呼ぶんだもん。テッサリア、僕がテッサリアって呼んでも気にしないよ」
「ゼルダ、堅いこと言わんでいい。俺もテッサリアもめんどくせぇのは嫌いだ。おまえも、畏敬と親愛を込めてテッサリアと呼んでいいぞ。ただし、敬称は略しても、敬意は略すなよな」
 ゼルダは神妙に頷いた。
「いずれ、テッサリアが伝説だとしてもだな。俺が妾腹なのは揺るぎのない事実だ。いくら最年長の皇子だって、正嫡のガーディナやゼルダを差し置いて俺を皇太子にとか、父上は気でも違ったんじゃねーかと思ったぜ。だが、俺は悟ったんだ、父上の本音ってゆーの? 悪の高笑いが聞こえたぜ? 『ハーッハッハッハ、ヴィンス! さぁ、この父の名に恥じぬ教養を身につけるため、あがき苦しむがいい! 帝王学全二十六巻、完璧に修了したあかつきには帝位をくれてやろう!』だぜ!? 俺の帝王学の書物の山は、十八年間、書棚の肥やしだったのに! こんなもん修める気になるガーディナとゼルダはどうかしてる、称賛すべきイカレ具合だ、褒めてんだ俺は」
「ヴィンスったら大袈裟じゃなく、書物は読む気ないんだよ。歴史書のひいおじい様の肖像画とかに落書きしてて、テッサリアにすごい大目玉喰らってたもの。しかも、反省したかと思ったら、こないだなんて僕の本にまで変な落書きしたんだよ!? ひどいんだから、もう最悪だよ! よりによって神聖なカムラ法典にひわいな落書きだなんて! 無駄に上手いから余計に腹が立つよ!!」
「――それは、なんていうか、ヴィンスにちょっと師事してみたいな
「ゼルダ兄様ぁ!!」
 マリが可愛らしく、ほっぺたをぷうと膨らませて怒った。
「おぉ、ゼルダはやっぱり話がわかる。いか様でも後宮持ちはお子様とは違うな
 いか様ゆーな。
「まぁ、それでも、俺はガーディナに勝てねぇとは思ってねぇけどな。ゼルダ、おまえがどうしても望むなら、俺は皇太子を狙ってやるし、これからガーディナにも会ってみてだな、俺の剣を捧げるにふさわしくねぇ奴だったら、ゼルダ、俺はおまえが皇太子になるのを支持してやってもいいんだぜ?」
「えぇっ!? ちょっと、何で私なんですか!」
「おまえな、何でじゃねぇだろ! 正嫡の皇子のくせに、皇帝になりたいと思ったことねぇのか!」
「あるわけないでしょう、優秀で立派な兄皇子が四人もいるのに! あ、ヴィンスは微妙だと会ってみて思ったけど!」
 だいたい、どうしてヴァン・ガーディナに勝つ気なのだろう。この長兄、帝王学の全二十六巻と言わず、第一巻も修了できないんじゃないの。
「ヴィンス、貴方が勝つ方法は?」
「ガーディナは優秀らしいが、統率力ねぇだろ? 致命的だぞ、奴がそれを克服しない限りは、正攻法でいい勝負だな」
 目から鱗が落ちるとは、このことか。
 ヴァン・ガーディナは決して、他人前に立てないわけではないから、ゼルダの目には盲点だったのだ。
 兄皇子が何かを主張したり、望んだり、民衆を統率して事業を成し遂げたりしたことは、指摘されてみれば、ゼルダの記憶には皆無だった。なぜ、いつもゼルダにやらせるのかなと思っていたのだ。まさか、クローヴィンスの言う通り、出来ないのか。そんな馬鹿な、あの優秀さで出来ないわけがない、怠慢じゃないの?
「俺も、勝ちに行くなら、人の話を聞けって言われるのを何とかしねぇとな。だから、ガーディナがいい奴だったら、皇帝になろうと努力するのがまず、めんどくせぇだろ?」
「聞きなよ、それは!」
 マリが嘆いた。なるほど、書物に目を通すのも、他人の話を聞くのと同じことだ。目を使うか耳を使うかの違いに過ぎない。どちらも面倒くさいと。
 クローヴィンスは人の話を聞くのが嫌いで、ヴァン・ガーディナは人に話をするのが嫌い、なんて我が侭な皇太子候補たちなのか。
 けれど、ヴァン・ガーディナは話術そのものは巧みだし、観衆の視線を独占しながら、優雅に踊ることさえ出来るのだ。統率だけが出来ないなんてこと、あるだろうか。やっぱり、怠慢じゃないの?
「ゼルダ、誰か来ているのか?」
 
 
 話し声を聞きつけたのだろう、顔を見せたヴァン・ガーディナが、裏切り行為を目撃してしまったように、その表情を凍りつかせた。
 ゼルダはしまったと思ったけれど、もう遅い。ゼルダだって、彼だけをのけ者にして、残りの皇子達が歓談していたら傷つく。まして、クローヴィンスとヴァン・ガーディナは競っているのだ。ゼルダが裏切り、ヴァン・ガーディナの孤立を狙ったようにしか見えないだろう。何を言っても言い訳がましいし、疑心暗鬼に囚われたが最後、ヴァン・ガーディナは他者の言葉なんて信じない。聞こうともしないのだ。どうしたら――
 ゼルダとヴァン・ガーディナの視線が絡み、一触即発の緊張が走ったことなどお構いなしで、マリが歓声を上げた。
「ガーディナ兄様!」
 マリの明るく澄んだ碧眼が、屈託のない歓迎と憧憬の色を湛えて、ヴァン・ガーディナに吸い寄せられた。
「わぁ、ガーディナ兄様、すっごく綺麗! 僕、こんなに近くでガーディナ兄様を見るのは初めてだもの。ヴィンスと違って、優しそうで素敵だね。いいなぁ、ゼルダ兄様♪」
 ――て、第一声がそれなのォ!?
 さすがのヴァン・ガーディナも、マリの奇襲には絶句していた。この兄皇子が途惑うのを、ゼルダは初めて見たように思った。
「マリ……? そちらは、兄上とお見受けしますが?」
「おう、邪魔しに来てやったぜ!」
「僕たち、ガーディナ兄様を皇太子に立てられないかと思って、相談に来たの。ヴィンスが馬鹿なことばっかり言うから、ちっとも話が進まなくて、ゼルダ兄様のお返事がまだなんだけどね。ガーディナ兄様も、座って座って♪」
 マリが笑顔で椅子を引く。天然なのか配慮なのか、どちらだとしても、ゼルダは感心するしかなかった。それなのに、何か狭量な感情が胸を掠めた気がして、ゼルダは必死にそれを否定した。平たく言えば、私の兄上に馴れ馴れしくしないでみたいな、そんな感情だったからだ。
 そんな馬鹿な。
 欲しければのしをつけてあげるよ、くらいの気持ちだったはずだ。断じて、ヴァン・ガーディナに手懐(てなず)けられてなどいない!
「マリ、おまえなあ! 何をいきなりバラしてんだ、バラしちまったら、ゼルダが本音で答えられねぇだろが!」
「何、言ってるの! ガーディナ兄様だけに隠したら、ガーディナ兄様が悲しくなるじゃないか! ゼルダ兄様だって、僕たちが抜き打ちで訪ねたのに、ガーディナ兄様に誤解されちゃうんだよ!? ゼルダ兄様の答えは『即答できない』でいいじゃないか。続きはガーディナ兄様も交えて、みんなで話し合おうよ」
 可愛らしい見かけによらず、マリはきっぱりとクローヴィンスに主張した後で、ヴァン・ガーディナに微笑みかけた。
「ガーディナ兄様、ゼルダ兄様はね、ガーディナ兄様を皇太子にするのはいやだって、即答出来なかったんだ。それにね、ヴィンスがゼルダ兄様を支持して皇太子に推薦してもいいって言ったら、優秀な兄上がいるのに何でって、ヴィンスは微妙らしいから、ゼルダ兄様の言う優秀な兄上って、ガーディナ兄様のことなんだ」
「うわ、マリちょっと! 違うから、それ違うから!」
「えぇ? でも、ゼルダ兄様、そう言ったよ?」
 何これ、何この無邪気かつ凶悪な強襲――!? 何この弟皇子、どれだけ慧眼(けいがん)なの!
 クローヴィンスがにやにやしながら言った。
「なぁ、どうよ? 本音を言うとだな、俺の本命はマリなんだよ。俺は断然、皇太子はマリがいいと思うんだが、マリはお子様だ、いやがりやがんだ」
 嘆かわしいぜと、クローヴィンスが大仰に額を覆う。
「ヴィンス、やめてったら! 絶対やだって言ったじゃないか! もう、ほんとそういうこと言わないでよ!」
 マリが泣きそうになって、目を潤ませてヴァン・ガーディナとゼルダを交互に見た。
「ねぇ、ガーディナ兄様もゼルダ兄様も皇太子はいや!? やっぱり、なりたくない!? 僕、ガーディナ兄様かゼルダ兄様なら断然、応援するよ!」
「うん? マリ、兄上が皇太子になるのはいやなの?」
 やや、雰囲気を緩めたヴァン・ガーディナの問いに、マリは涙目のまま、力いっぱい頷いた。
「いやなの! 僕が皇太子になるのの次にいやなの! 全力でいやなの!!」
「マリ、なんつぅ恩知らずかましてくれてんだ!?」
「何の恩か言ってみなよ! 奴隷待遇の恩!? 無神経の恩!? おまえのものは俺のもの、俺のものは俺のものの恩!?」
 わっと顔を覆って、さめざめとマリが泣く。
「おう、そんな感じで」
 しかも、そんな感じなのか!
「これだもの!」
 わっははと笑ったクローヴィンスが、ひょいとマリの口に飴玉を投げ込んだ。
 何だかんだで仲がいい。クローヴィンスは仮にも、マリが望めば、マリを皇太子にしたいと言っているのだし。
「マリ、私は皇太子になっても構わないよ」
 微笑んでヴァン・ガーディナが告げた言葉に、マリは諸手を挙げて喜びをあらわにした。
「本当!? よかった、よかったぁ! ガーディナ兄様なら、きっと、立派な皇太子になられるよね! 僕、全力で応援するからね!」
「あのなマリ、ガーディナの何を知ってて言うんだ、おまえは」
 クローヴィンスがマリの襟首を捕まえて突っ込むと、マリは綺麗な碧眼で不思議そうに兄皇子を見て、真剣に答えた。
「顔」
『ぶっ!!』
 クローヴィンスとゼルダが同時に吹いた。
「えぇ、吹くところ!? だってほら、ガーディナ兄様は最初まず、ゼルダ兄様に悲しいお顔を向けたでしょう? ゼルダ兄様を信頼なさってるから、僕達のことより、ゼルダ兄様に裏切られたかもって、ショックを受けるんだよね?」
「マリ」
 ヴァン・ガーディナがやや冷酷な表情を見せ、指を口許に一本立てて、お黙りとマリに微笑みかけた。
 マリがごくんと唾を呑んで、ヴァン・ガーディナの真似をして、指を口許に一本立てる。
「ごめんなさい、ガーディナ兄様。えっと、ゼルダ兄様のことも、しー?」
「ゼルダのこと? マリ、どう見えたの?」
 興味を示したヴァン・ガーディナが、今度は、ゼルダがマリを黙らせようとするのを優雅に阻止して尋ねた。
「ご自分が叱られることより、ガーディナ兄様を悲しませたこと、気になさってるお顔に見えたよ?」
「――ふむ」
 ギャース!
 ゼルダは痛恨の一撃を喰らって、マリに打ち倒された。
「ま、俺も何をしでかすかわからんと思われてる節もあるが」
「今、まさにしでかしてるよね」
 慣れているのか、クローヴィンスが気にせず仕切りにかかった。
「俺の本命マリが、皇帝はやだっつーからな。んで、根拠がイマイチわからねーが、ガーディナには『マリ様のお墨付き』が出たからな。俺はマリの勘を信じるぜ。ガーディナ、おまえが皇統を継ぐなら、俺は元帥の地位に挑戦するつもりだ。いつか、伝説に残るような剣匠になってだな、俺がおまえを守ってやるぜ!」
「僕はね、天文学と建築学を修めてるの。いつか、何千年も残るような、暦を司る宮殿を建てるよ!」
「マリは司法官がいいと思うんだがなー」
「いやだよ! もお、ちょっと聞いてよ、ガーディナ兄様、ゼルダ兄様!? ヴィンスったら、十三歳だっていうのに、カムラ法典だって修めてないのに、僕のこと司法官にしちゃったんだよ! 深刻な話がたくさん回ってくるし、僕に法廷の最高責任者として裁けとか、信じらんないよ!」
 マリ、涙目だ。こっちはこっちで、兄皇子のご無体に泣かされているらしい。
【挿絵】N人様 「いやぁ、うけたぜ。初日のマリ、法廷にねこさんリュックで来やがったからな。腹がよじれた」
 ――ぶふぅっ!
「ひどいよ、おかしいって誰も教えてくれなかったのぉーっ!!」
 つい、ヴァン・ガーディナでもゼルダに対して同じ反応しそうだなぁとか思ったのは内緒だ。ゼルダがうさぎさんリュックでも背負って来たら、一生、辱めるネタにするだろう。さすがは兄弟、血は争えないとはこのことだ。
「ねこさんリュックはともかくだ。マリのお裁きは見事だぜ! 俺は断然、司法官はマリがいいね、太鼓判だ。こいつは法に振り回されねぇ、法を使える奴だ」
「意味わかんないよ! ヴィンスは、僕ならヴィンスの無法を罪に問わないから僕がいいんでしょ!」
「おう、マリ、愛してるぜ♪」
「ヴィンスを見逃す度に、僕、物凄い悪口叩かれるのぉーっ!!」
「マリ、悲惨だね」
「悲惨」
「だけどな、ゼルダ。俺は本気でマリの裁きが好きだぜ。まだ今は、これまでの司法官と違うからガタガタ言われるだけだ。絶対、慣れればマリの司法区は暮らしやすいぞ」
「そんなのヴィンスだけ」
 マリ、もはや卑屈だ。
「なに、心配しなくても、ガーディナが皇帝になってくれるだろ。ガーディナは俺と違って、いやがるおまえを無理強いで法王になんてしないんじゃねー?」
「そう、そうだよね! ガーディナ兄様、お願い、ヴィンスなんてけちょんけちょんのぎったぎたにして! 僕は天文と建築を学んで、気象を読んで災害被害を抑えたりとかね、水利設備の充実とか、そういうことして、毎年豊作にして、皆に喜んでもらいたいの! ガーディナ兄様なら、僕に、そういうことやらせてくれるでしょう!? ヴィンスみたいに司法官無理強いしないでー! 僕は、僕はガーディナ兄様の味方!!」
「おぉ? マリ、じゃあ滅茶苦茶なお裁きすればいいだろ? 女奴隷を犯して殺して埋めたよーな奴、奴隷は人間じゃないからって無罪放免したり、ちょっと俺の悪口を言っただけの奴、不敬罪で死罪にしたり、どうよ? おまえを司法官に任命した俺は、民衆からも官僚連中からもごーごーの非難を浴びて、評価なんて素敵に失墜するぞ、バッチリ再起不能だぜ!」
「できるわけないでしょ! それじゃ、関係ない、僕なんかに裁かれる人たちが可哀相じゃないか!!」
 クローヴィンス、超えげつない。どれだけご無体なのか。
「マリ馬ぁ鹿。慣例通りじゃねーかよ。そんなだから、おまえ、法も秩序も知らないって言われるんだぞ!」
「その法解釈おかしいでしょ! どれだけ歪めてるの!?」
「司法官が是といえば是なんだよ」
「駄目だったら!」
 ふざけていても、クローヴィンスは本気だろう。さっきから、マリの慧眼には目を見張るものがある。
 ひとのエゴと痛みがぶつかり合う法廷で、苦しむ人々を断罪しなければならない司法官は、心ある人間にとってはつらい。
 けれど、それぞれの気持ちや立場を汲める、心ある人間こそが、人々に望まれる司法官なのだ。
 マリが法を司れば、マリが人々の痛みや苦しみを引き受けることになる。マリはつらいだろうけれど、その保護下に置かれる人々は、感謝するだろう。
 さらに、マリを皇帝に立てるなら、法王として立てるのが賢明だろうし、カムラに法王が立ったことはないけれど、マリなら帝国を平和に公平に、よく治めるかもしれない。
「ほら、いいだろ? マリって司法官向きだと思わねぇ? この責任感、自己犠牲の精神! 真似できねぇよな。前任の司法官は、俺が例に出したよーな奴だったんだぜ!」
 ――ぶっ!
 父皇帝もたいがい、問題のある領地を選り抜いて、それぞれにあてがってくれたのか。試験のついでにどうにかしろと。
「そんなの、僕じゃなくたってあの人よりマシな裁定はするよ!」
「しねぇんじゃねー? あいつと違う裁定したら、奴の派閥に睨まれて、重箱の隅つつきまくった悪口流されて、今のおまえみたいになるじゃねぇかよ。良心に誠実に裁定してるだけなのに、身内びいきだ無能だ不公平だ世の中を混乱させる駄目な司法官だって、噂流しまくられるんだぜ? おまえじゃなきゃ、それでも良心に従った裁定続けたりできねーよ。フツーは心が折れるって」
 十三歳のマリにそれ耐えさせるか。
 状況は想像にかたくなくて、ゼルダはにわかに、マリに親近感を覚えた。兄皇子の適当な偏見で、冗談じゃないことまで強いられる弟皇子ってつらい。
「マリ、頑張ってね。ガーディナ兄様の補佐は、私がしっかりやるから。ガーディナ兄様が皇太子になるまでの辛抱だよ」
「うわぁん、ゼルダ兄様ありがとう〜! ゼルダ兄様も優しい! ひどいのはヴィンスだけ!」
 あ。
 それでも、クローヴィンスはヴァン・ガーディナに皇太子を譲るつもりなのだ。
 だとしたら、ヴァン・ガーディナがマリを解任した後、新しく司法官を務める人間は、マリほど不当で苛烈な誹謗中傷に遭わずに済む。案外、そこまで考えているなら、クローヴィンスも脳ミソまで筋肉ではないかも。
「いいか、俺達はフォアローゼスだ。ヴァン・ガーディナを皇帝に、ゼルダをその補佐官に、カムラ史上かつてない最高の全盛期を俺達が築く。帝国に寄生する分際で、父上を侮辱した奴らに目にもの見せてやろうぜ! 父上の偉大さを、俺達が帝国中に知らしめるんだ」
 ヴァン・ガーディナ、ゼルダ、マリ・ダナ、残りの皇子達が、それぞれなりの覚悟を映した瞳で頷くと、クローヴィンスはにやりと笑った。
「俺は、こういうの得意だからな。元帥になりたいって、この俺の手腕を見てたら、無謀じゃないって気がしねー? 人の十倍努力すれば、壮年になる頃には、元帥になれるかもしれない! と思うわけだ」
「まぁね。でもヴィンス、元帥は確かに軍事の取り(まと)めだけど、教養がいらない身分でもないよ」
 クローヴィンスはなぜか、黒焦げになって打ち倒された。
「マリ、今のは痛恨の一撃だったぜ……」
「うっわ〜、根性なし! 人の十倍の努力が聞いて呆れるよ!」
 クローヴィンスとマリの仲の良さに、ゼルダは知らず嫉妬して、つい、ヴァン・ガーディナを上目遣いに見た。何を期待して兄皇子をうかがったのか、目が合った途端に気付いたゼルダは、すぐに、その顔を背けようとした。
「ゼルダ?」
 弟皇子の望みに目ざとく気付いたらしいヴァン・ガーディナが、その魔性を(あらわ)すように、不穏かつ楽しげに微笑んだ。兄皇子のそんな表情を見るのは初めてのゼルダが、途惑ったわずかな(すき)を突き、ヴァン・ガーディナが優雅な挙動でゼルダを腕に捕えた。
「え――!?」
 首筋に抜いた刃物を押し当てられて、ゼルダのみならず、クローヴィンスもマリも息を呑んだ。ヴァン・ガーディナがゼルダの命を絶ちかねないことを、皇子達それぞれが、ひそやかに危惧してきたからだ。
 (いまし)めたゼルダを(なぶ)る声音で、ヴァン・ガーディナが(ささや)いた。
「ゼルダ、欲しいものは――」
 耳元に触れた、優しい感触。
「んっ……」
 解放されても、ゼルダにはしばらく、兄皇子がしたこと、囁かれた言葉の意味が、どちらもわからなかった。
「ま、待て! ヴァン・ガーディナ、いくらなんでもそれは!! 兄弟として間違ってる、正気に返ろうぜ!?」
「ふふ、ヴィンスとマリが仲の良さを誇示するから、ゼルダが()ねたんでしょう? (なだ)めましたが何か?」
「その刃物はなんだ!」
 ヴァン・ガーディナはひどく甘やかに、艶やかに笑った。さすが、ゼルシアの皇子だと、クローヴィンスもマリも戦慄した。
「ゼルダ、私がゼルダを傷つけないこと、知っているよな。殺されるとは、思わなかっただろう?」
「ガーディナ、馬鹿言うな! ゼルダ、真っ青だったぞ!」
 ヴァン・ガーディナは麗しく笑うと、クローヴィンスに答える代わりに、よどみなくゼルダに問いかけた。
「私に憎まれていたら、悲しいものな? ゼルダ、愛しているよ」
 ゼルダを捕らえたことに気をよくしたのか、ヴァン・ガーディナがゼルダの耳元に二度目のキスを落として、余裕のないゼルダの苦しげな様子を堪能してから、その腕を解いた。
「――っ……」
 ゼルダは頭の芯が痺れたようになって、紅潮した顔を指で覆った。もともとが美貌の少年なので、見ていた皇子二人には、さらに衝撃だった。
「うっわ、ガーディナ兄様、ゼルダ兄様とそういう関係……!?」
「マリ、驚いたの? いつも、ゼルダには目を掛けて、可愛がっているよ。ゼルダも、(ひざまず)いて私に忠誠を誓えるようになった」
「――っ!」
 また、別種の緊張が走った。
 確かめるべきか、確かめてはならないのか、間違えればゼルダが血に染まる局面で、クローヴィンスが慎重な声音で問い掛けた。
「ヴァン・ガーディナ、もしも、ゼルシア様がゼルダを手に掛けようとしたら――?」
 静かに瞳を翳らせ、ヴァン・ガーディナは優麗で哀切な微笑を浮かべた。
「もう、ずっと、ゼルダを守っています。確かではないけど、私の命を盾にすれば、母上もあまり無理なことはなさらない」
 マリが素直に驚嘆して、目を見張った。
「すごいや、ガーディナ兄様、ゼルダ兄様のこと、本当に愛してるんだね!」
 ヴァン・ガーディナが驚いた表情をして、やがて、想いが零れるような微笑みを見せた。
「愛しているよ。私は、アーシャ様にも憧れていたから」
 クローヴィンスとマリも、ようやく心底ほっとして、手を打ち合って握りこぶしを突き上げた。
「ゼルダ、聞くまでもないだろうが、はっきりさせておこうぜ。本音で答えろ。ヴァン・ガーディナが皇太子に立つことに、異論はないな?」
 ゼルダは幾ばくかの葛藤の後、観念したように、異論のない旨を認めた。少し、恨みがましくヴァン・ガーディナを見る。優しく微笑みかけられると、また頬が紅潮して、なんだか色仕掛けで籠絡されたみたいだ。
 そもそも、ゼルダの方から兄皇子の愛情を求めたことなど、力いっぱい棚上げなのだった。
「さすが、アーシャ様の皇子だな、ヴァン・ガーディナを籠絡するか」
「ヴィンス……?」
「何だその、きょとんとした顔。たった今、俺が確かめてやったろ、どっちがどっちを籠絡したのか」
「――えぇ!? 僕も気付かなかったよ! ていうか、ガーディナ兄様がゼルダ兄様を落としたんでしょ?」
「馬鹿だな、たった今、ガーディナがゼルダに落とされたって、認めたろ。これだからお子様は……」
「ええぇえ!? ガーディナ兄様、ガーディナ兄様が、ゼルダ兄様に落とされたの!?」
 マリのみならず、ゼルダも目を見張った。ヴァン・ガーディナを籠絡した覚えなど、断じてない。
「――ヴィンス、気付かないマリにまで教えるのやめてくれないか」
「ほら」
「わぁ、ほんとだ!」
「ガーディナも、いいことあったんだから、堅いこと言いっこなしだぜ」
「――何があった? ゼルダに耳キスくらい、しようと思えばいつでも出来るよ」
「どあほぅ! おまえ、なんつーことをっ……! そこら辺はおまえ、正気に返ろうぜ!? いくら類稀な美貌でも、ゼルダは弟皇子! ガーディナ、頼むから正気に返って、綺麗な女に惚れるんだ!!」
 腹の底から主張した後、クローヴィンスは言いたくなさそうに嘆息した。
「まぁ、なんだ。いいことってのは、おまえ、片想いじゃなかったって、わかっただろうに?」
「――え?」
「え、じゃねぇ。ゼルダの反応、半端なかっただろ。あげく、おまえが皇帝になって構わないときたんだぞ」
「――あ、そうか」
「おまえ時々、へんなトコ抜けてんのな」