夕刻、身なりを整えたゼルダが顔を出すと、皇太子がことのほか上機嫌に、彼を迎えた。
「ゼルダ、やっと正気に戻ったようだな」
ゼルダはふっと遠くした目を、ゆっくりと戻し、改めて皇太子に向き直った。
「ご心配、おかけいたしました。晴れての凱旋、明日にも出立なさいますか」
「ああ、そのつもりだ。慌しくなる」
そこで、ふいにザルマークが表情を消した。
「――ゼルダ、もし、皇妃の失脚を狙う気でいるなら――」
息を呑み、ゼルダも表情を消した。
「狙うのか――言っておく。そのつもりなら、皇妃と真っ向から対峙した兄上の末路を忘れるな。そして、汚名を着る覚悟、身を滅ぼす覚悟、ないならやめておけ。いいな」
ゼルシアは他人を罪に落とす方法を知り抜いている。
真実に迫り、皇妃の失脚を狙った者の全て、糾弾される前に糾弾し、暗殺される前に暗殺し、ゼルシアはその地位と名誉を守り続けてきたのだ。自分ならその例外になれるなどと、甘い考えは持つなよということだった。
それは案外、難しい。
身に覚えのない糾弾を受ける中、構わず本懐を遂げること、それは至難の業だ。
「わかりました。……兄上、あなたはいつから……?」
ゼルシアの本性を知る者は、決して、多くない。
「……戦役の前は、おまえの忠言も、皇妃との確執ゆえのものと、聞けなかったな。この戦役、アンナがいなければ、軍も大都も壊滅していただろう。それを狙って、守ってくれと送り出すなど――女の性根の恐ろしさ、卑劣さ、甘く見ていた。皇妃が握り潰した報告は、皇妃しか知り得ない。皇妃は惨劇を悼み、嘆いて見せれば済んだろう。何万、何十万の命が失われようとな。汚名は全て、戦地で命を落とす私に着せられ、皇妃は手を汚さず、ただ優しげに、『死んだ私』を庇う――アルディナン皇太子の時、そうしていたな……」
顔色を変えたゼルダに、ザルマークが問うた。
「先の皇妃と皇太子を殺したのは、ゼルシアなのか」
幼かった頃に、次に命を狙われる兄皇子に、訴えた。
今一度、ゼルダが頷くと、
「信じてやれなくて、済まなかったな。私が治世を取ったら、アルディナン皇太子の名誉も、皇妃を殺したとされる方術師の名誉も回復させよう。いつまで、神殿といがみあっているのも無益だ。アンナを認める形で、弾圧を緩めることも悪くない」
それは、理想に近づく治世。
「戦勝祝いだ。今夜の晩餐には出席しろよ」
ゼルダは初めて笑みを見せ、頷いた。
「兄上、あなたが私の兄上で良かった」
まんざらでもない表情をして、ザルマークも去り際、あまり見せない笑顔を見せた。
明朝の出立に備え、部屋を片付けていた侍女が、ご衣裳はどうしましょうかと、ゼルダに尋ねた。
アカンタスが着てみたいと選び、ついに、袖を通すことのなかった衣装だ。
彼女は先に、彼が選んだ衣装を身にまとい、彼が喜ぶのを見てはにかんだ。
二度と、少女が彼に微笑みかけることはない。
袖を通す日を楽しみに、嬉しげに衣装を抱き締めていた少女は、衣装だけを残して、――残骸になった。
ゼルダは一人、衣装を方術師の幕営地に届けに行った。アンナに。
袖を通して欲しいとは、願わなかった。愛した少女がそれを望むのか、彼には、わからなかったから。アンナの方が、その答えを知るのだろう。
その帰路でのことだった。
幼い声を聞いた気がして、ゼルダは馬を止めた。
空耳か。
月明かりの暗い森、幼い子供なんて、いるはずが――
『――待って――皇子さま――』
愛らしい、あえかな光を放つ幼い少女の幻影が、闇間に見えた。ゼルダは目を見開いて、息を詰めた。
『――いま、お帰りになっては、命を落とします――あなたの、星めぐり――』
幻影の小さな白い手が、たどたどしく、空間に象形文字のようなものを描いた。銀月の光の軌跡。
『――あなたは――カスティールを滅亡から救ってくれるひと――』
「カス、ティール? ……君はだれ? 君は、滅亡したカスティール聖王国の神子――?」
異国の礼装を身にまとう、まだ幼い少女がこくりと頷いて、祈りの形に手を組んだ。
『――国は滅びました――でも、ひとはまだ、あの国で――王家もひとも、死に絶えてはいません――』
カスティール聖王国。
数年前、侵略を受け、滅ぼされたと聞く辺境の国。
一昨年、その一帯をカムラが征服しているが、カムラ皇帝ハーケンベルクは雪に閉ざされたカスティールの廃墟にまでは、手を伸ばさなかった。極寒の地に手を伸ばしても、国益なしと判断したためだ。そこでの人々の暮らしを、人々が暮らすのかさえ、ハーケンベルクもゼルダも知ることはない。
「……君の名前は?」
少女が不思議そうにゼルダを見た。
『――ラスク……? ラスクは、ラスクという名前を――しています――』
少女の幼いがゆえの愛らしさに、ゼルダは知らず、笑みをこぼした。
「そう。可愛い名前だね。ありがとう、ラスク。――今、帰ってはいけないなら、いつならいいだろう? 帰ると何があるのかな」
幼い少女は静かに瞑目し、断片的な言葉を返した。
『――水――命をうばう――飲んではいけない――美しい――アクアマリンの瞳の身分ある女の人――信じては――いけない――』
美しい、アクアマリンの瞳の身分ある女――
ぞっとして、ゼルダは血の気を引かせた。
既視の、惨劇。
今また、ゼルシアが凱旋する皇太子を暗殺しようというのか。
夢中で馬首を返した。
ザルマークまで、やっと、笑顔を見た兄皇子まで死なせない――!
「兄上!!」
戻るなり、ゼルダは声を張り上げた。
「皇都から何か届いたか! 兄上はどちらだ!」
「は、ワインが戦勝祝いに届けられております。皇太子はお部屋に――」
「毒だ、出すな!」
それだけ命じ、ゼルダは息もつかずに皇太子の部屋へと走った。
侍従と談笑しながら、ザルマークは皇帝からのワインを注いだ。祝杯だ。
「ゼルダも塞いでいたようだが、その知らせを聞けば、喜ぶだろう。あれは鮮やかだ、憂えた顔も美しいが、凱旋しようという日に、憂い顔もない。颯爽としてもらわないとな」
「ええ、そうですな。喜ばれるでしょう、なにしろ、皇子は女性に――ぐ…ふっ……」
滴ったのは、鮮血。
目を見開いて侍従を見たザルマークも、同じものを吐いた。
鮮血――?
水を、探した。
こんなところで死ねない。こんなところで終わるはずがない。
凱旋する。
武勲を掲げて、帝都に凱旋するのだ。
侍女の悲鳴と、ゼルダの慟哭を、最期に聞いた気がした。