クレールの魔術師

第七節 ただ一つの願いを


 月の光の下、光の加減で銀にも見える、雪色の衣をまとった少女の影は、一羽の鳥のようにも見えた。
 
“ ゼルダ皇子、誘拐のためだなんて聞いていない! ”
“ 誘拐? ”
 
 アルベールには、彼のかけた守護輪(サークル)を使い、ゼルダがアカンタスをさらってきたことが、どうしても許せなかった。捕虜だと言われて納得なんて、できようはずはなく。
 命に代えても少女を逃がそうと、決意して行動に移そうとした夜だった。
 月明かりの夜空から、鳥のような少女が降ってきた。
 あわてて受け止めて、アルベールは息を呑んだ。
 華奢な少女の胸に、致命傷としか見えない、血の滴り。
「アンナ様は……アンナ様は、どこですか……? 会わ…せて……」
 絶え絶えの息の中、懸命にアンナを探す少女に、アルベールは唇を噛んで頷いた。
 あの日、手を貸したりしなければ良かった――
 
 
 夜闇の聖堂に、聖光をまとうアンナの翼が、柔らかで優しい光を降らせていた。
「アンナ様……」
 少女は、消えかける命の中で、天使を――老女を呼んだ。
 
“ 願いが強いなら ”
“ 間もなく、この身が朽ちます。あなたの身と引き換えに、力を貸しましょう ”
 
 あの日、天使が言った。
 魔術王(マクリム)のもとを離れれば、数日ともたない、かりそめの命。
 もう、消える命。
 そんな、壊れかけた偽物の――本物と、等価であるはずもない命の彼女に。
 
「私は、願いと引き換えにできる命を……持っていますか……?」
 涙ににじむ視界の中、アンナが優しく、微笑むのが見えた。
「持っています」
 アカンタスの中に、(せき)を切った感情が(あふ)れた。
 彼女は懸命に、血に濡れた白い手を、天使に伸ばした。
「引き換えて……ください……クレールの、悪夢を終わりに……」
 少女の手を、そっと、天使が取った。
「……クレールから、ゼルダ皇子を、お守りください……この身で足りるなら、供します……どうか……」
 
 ――ゼルダ皇子――
 
 彼女を失いたくないと、泣いて訴えてくれた人。置いて逝く。
 
 ――ごめんなさい――
 
 聖光をまとった天使の翼が、ファサリ、彼女を包んだ。
「引き換えましょう――」
 
 感謝、を。
 魔術王に、殺戮のための力しか与えられなかった人形の身に、ゼルダとアンナが、命を与えてくれた。
 ――感謝、を――
 言葉にしたいと願い、懸命に、紡ごうとした。
「……あ……り…………」
 陽の光の優しさを、水の流れの心地好さを、教えてくれた人。
 とても、優しく美しかった世界の中心に、あの人がいる。大切な――
 その人によく似た、優しい天使の翼の中で、少女は静かに、命の灯を消した。
 
 ――もう一度、あの場所に……――
 
 最後の、願いを残して。
 
 
 ドカッ ドカカッ
 
 夜の静けさを破り、顔色をなくして、腐り始めた屍馬でゼルダが向かったのは、敵地も同然の場所だった。
 何も、考えられなかった。ただ一つしか。
 残された血の痕跡。黒い予感。見失った、少女。
 聖アンナ以外に、少女の行方を突き止め得る者、救い得る者、思い当たらなかった。
 
 シャン……!
 
 光の矢が、掠めた。
「!?」
「ゼルダ!」
 黄土色(イエローオーカー)のアルベールの髪が、月の光を鈍く弾いた。
 アルベールが真夜中に表にいること、放たれた光の矢の意味、いずれも、今ばかりは問うに値しなかった。
「アルベール、アンナは!? アンナの居場所に案内しろ! 話は後で聞く!」
「……っ……、行かせるものか! なぜ、あんな少女を手にかけたんだ! 彼女が君を拒んだからか、それとも、クレールの魔術師だからか!」
「……!?」
 アルベールの聖衣に、血の染み。
「待て、アルベール、シャンディナに会ったのか!? シャンディナは!」
 問答無用でアルベールが呪文を唱え、生まれた聖光が、光の矢となって放たれた。
 
 ザシュッ
 
 至近距離からのそれをかわし切れず、腕を裂かれて落馬したゼルダを、馬乗りになってアルベールが押さえ込んだ。
「人の痛みを、君が与えた痛みを、その身で思い知ればいい!」
 ゼルダが帯びていた剣をアルベールが引き抜き、ゼルダの胸に突き立てようとした。
 
 ――やめなさい、アルベール!――
 
 目を大きく見開き、アルベールが固まった。
 機を逃さず、ゼルダはからくもそこを逃れ、肩で息をしてアルベールを見た。
「シャンディナの居場所に連れて行け」
 闇よりもなお深い、漆黒の魔力をまとい、真紅の光を帯びた瞳で、ゼルダはただ一つを繰り返した。
 その姿に悪寒を覚えたように、アルベールが身を強張らせる。
「だ……れが……!」
 死を呼ぶ闇が、膨れ上がった。
 
 ――アルベール、アカンタスは、魔術王の支配を逃れるための自決です。皇子をここへ――
 
 その思念波は、アルベールのみならず、ゼルダにも知覚された。
 それは、恐れていた、予感していた、最悪の――
 
 闇を従えた死霊術師が涙を伝わせるのを、信じがたいものを見る顔で、アルベールが動揺して見詰めていた。
 
 
「ゼルダ皇子」
 聖堂で待っていたのは、天使。
「シャン……ディナ……?」
 天使は静かに、いいえと、かぶりをふった。薄茶の巻き毛がこぼれ、淡い青紫(ラベンダー)の瞳が翳る。
 造作は確かに愛した少女のものだった。
 けれど違うと、瞳の色が、絶望的な事実を彼に確信させた。
 その瞳はもう、彼に頼った少女のものではなかった。
 天上から降ろされた、人外の、天使の瞳。
 瞳の色が、そこに宿る想いと願いが、少女のものではなくなっていた。
「アカンタスが、その身と命を代償に、願ったことがあります」
「……何を――?」
 震える声で答え、ゼルダは冷笑した。
 ただ一つ、傍にいて欲しいと願った彼のそれは聞かないで、彼女ばかり、この上何を願えるつもりだったのか。
「クレールを、魔術王から解放することを。――ゼルダ皇子、そのために必要ならば、私の力をあなたに貸しましょう。考えなさい。――あなた自身が納得できる答えを」
「そんなもの!」
 叫びかけ、ゼルダはぐっと、こぶしを握った。
 天使の力を、直に借り受ける。
 この戦役において、切り札になると、直感した。国と人々の命運を預かる身で、感情のままに拒絶していい申し出ではない。
「クレールの魔術師たちは、虚ろゆえに身の不幸に気付かず、魔術王に命ぜられるまま、殺戮を繰り返します。――いつか、魔術王ならぬものを愛し、虚ろでなくなった時には、血に染まった身と、死だけが、待ち受けます。魔術王の紡ぐ悪夢から、クレールを解放することを――あなたを愛したゆえに、アカンタスは願い、その身を供しました。ゼルダ皇子、もし、受け止め得るのなら」
 アカンタスの想い、受け止め得るのなら、応えて欲しいのだと。
 愛した少女の顔で、その姿で、アンナが願う。儚い微笑みさえ、そのままに。
「――」
 何も、言えなかった。
 ゼルダは混乱し、黙したままで踵を返し、わずかな月明かりを頼りに、うっそうとした闇の森を、屍馬で駆け抜けた。
 幸せにできると――
 それでも、幸せにするつもりだった。その力があるつもりだった。
 思い上がりなのか。
 母と兄を守れなかったように。
 どれほど懸命に、心のすべてで愛しても、守り抜くことなど、人にはできないのか。
 何が足りなかったのか、わからない。
 守れると思うのが、間違いなのか。
 生きている者は、『結果的に』生きているだけなのか――
 ただ、混乱した。
 
 
 聖アンナの参戦から、戦局は一転、皇太子軍優勢となった。
 後に、『ゼルダ伝承(サーガ)』の序章として謡われる、クレール戦役である。
 優勢を維持しながらも、魔術師相手の、油断が命取りになる戦役が数ヶ月に渡り、皇太子軍は徐々に疲弊していった。最後、転移する魔術王を追い詰めるための複雑な包囲網を張り巡らせたゼルダ皇子が、その中央で魔術王を迎え討つことに成功するが、居合わせた者の中で、生還を果たしたのは彼だけだった。彼は語らない。このため、クレール戦役の結末に関する部分、サーガは謡い手の創作である。
 魔術王を待ち受けた場所で、見てはならないものを見たゼルダは、本能的に記憶を封鎖、抹消した。
 
 
 ――複製人形(レプリカ)、だと。
 魔術王が哂った。
 待ち受けた精鋭部隊を炎に包み、逃れた者から切り裂き、血の海に沈めた魔術王が、最後に残したゼルダを嬲ろうとして、残酷な形で、真実を知らしめた。
 少女の哀しい、死を覚悟した瞳の意味を。
 少女が、知られまいと恐れ続けた秘密を、ゼルダは知ってしまった。
 愛した少女と同じ姿をした人形(もの)を、葬るよう命ぜられ、そうせざるを得なかったゼルダは、――気を、違えた。
 死霊術師(ネクロマンサー)の致命的な負の感情の発露であり、意のままに操れる術者は存在しないと言われた禁忌の死呪文『(デス』。
 鮮烈な赤の閃光が、魔術王の命を奪い、ゼルダの意識もまた、闇に落ちた。
 
 
 ザリ……
 足元の砂利が、音を立てた。
「君は、何をしているんだ……?」
 血と砂に汚れた軍装のまま、地下室につながれていたゼルダが、顔を上げる。
 凱旋するから、ゼルダを迎えに行けと、皇太子が命じた。
 誰も、行きたがらなかった。
 ゼルダが正気に戻っていなければ、命を絶たれるかもしれないからだ。
 死呪文を無効化できるのは、力のある方術師だけであり、そのためという建前で、その役目は方術師たちに回されてきた。
 魔術王さえ屠った死呪文だ。いくら対抗呪文があると言っても、危険だった。
 話を聞いて、アルベールは自ら志願した。
「……」
 薄く笑ったゼルダの瞳は、ガーネットだった。瞳が赤でなければ連れ戻るよう言い渡されたけれど、わずかに赤みがかった光も帯びて、どちらとも、つかなかった。
「……終わったよ。聖アンナはもう、力を貸さないようだ。あの子が、君を想って身を捨てたなんて、思わなかった。――済まなかった」
「……」
「君は、正気なのか……?」
 知らないなと、ゼルダが暗い地面に視線を落とす。
「シャンディナは死んだ。母も、兄も――少なくともシャンディナは、私と関わらなければ、命を落とすこと、なかったのかもしれない。まだ、出来ることがあったのか、わからないな――」
「――……」
 アルベールの中に、ゼルダの言葉と様子を疑う思いがあった。アルベールは葛藤するように、口元を覆って黙した。
 しばらくの後。
 今は忘れようと、彼は顔を上げて、ゼルダを見た。
「――君は、彼女に救われた命がどれだけあるか、承知の上で、そんなことを考えていたのか……? 君がさらわなければ、彼女は確かに、サクリファイスにはならなかっただろう。だけれど、多くの人の命を、彼女は救いたいと願ったんだ。尊い、無私の心で。彼女は願いを叶えた。あのまま、クレールで生き続けることより、望んで、サクリファイスの道を選んだんだ。君は、そうした彼女の魂の美しさを、気高さを、無視するつもりなのか……?」
 ゼルダを束縛する鎖が、怒りと悲しみを音にしたように、軋んだ。
「多くの命を助けるためなら、愛する命でも差し出せと言うのか! 私はそんなのはごめんだ! そんなこと、誰が望むんだ! ――っ――」
 ゼルダの頬を、二筋、涙が伝った。
 望まなかった。
 そんなことのために、さらってきたんじゃない。
 けれど。
 何も犠牲にせずに、済むはずだと。
 その力があると、あまりにも甘い考えで、信じていたのだ。
 現実は甘くなかった。甘い、ロマンティストな彼の代わりに、彼女が選んだ。それだけの、結末が――
 未来ごと、シャンディナが命をくれたのか。
 大切にしなければならない、粗末にしてはならない、命なのか。
 母の形見も、兄の遺志を継げるものも、彼自身しか、ないのか。
「――まだしばらく、一人にして。落ち着いたら戻る……鎖だけ、外して行って」
 アルベールは静かに頷くと、言われたままにゼルダの鎖を外し、そこを後にした。
 
 
 ゼルダは一人、岩場の小高くなった位置から、森を眺めた。
 森の先に小さな町がある。少女に出会った、セリントの町――