クレールの魔術師

第五節 生命の意味


 アカンタスは、夕食をほとんど口にしなかった。

「この部屋を使っていいから、疲れているなら、休んで」
 ゼルダは自分の部屋に彼女を案内すると、彼女のために羽根のクッションを数個あつらえさせた寝台を示した。
 少女は天蓋つきの寝台を見て、軽く、目を見開いた。
「あの……」
 遠慮がちにふりむく少女に、微笑んだ。
「どうぞ」
 おそるおそる、アカンタスが寝台を隠すレースのカーテンに、手を触れる。入浴させたので、甘く優しい香りが漂った。
 少しだけそのカーテンを引き開けて、そこでまた、ためらうように少女が振り向く。ゼルダは誘うように微笑んだ。
「シャンディナ、押し倒してあげようか」
「……はい」
「え!?」
 アカンタスが頼りなげな細い腕をクッションに伸ばし、こうですかと倒す。
 ――ちょっと違う。
 それでも、『クッションを倒す』という働きをしたから寝台に上がってもいい気になったのか、少女はふわりと寝台に上がると、物珍しげに羽根の掛け布団に触れて、触れても良かったですかという顔をして、ゼルダを見た。
 どうしようかなと、ゼルダもさすがに迷った。
 天使のように可愛らしい、まっさらな少女が無防備に、寝台の上で枕を抱いているのだ。押し倒してあげようかと言ったら、曲がりなりにもはいと言われてしまったし。
 ここで手を出さないのは、彼の信念からしたら背徳行為だ。しかし、彼女に限り、これを誘いと受け取って手を出すのは、犯罪のような、手酷い裏切りのような行為に思えた。
 しばらく思案した後、ゼルダはふっきるような笑顔を見せて、自分も寝台に上がった。
「シャンディナ、少し倒し方が違うんだ。こうしてね」
 ゼルダは優しく少女の肩を抱くと、驚かせるように、ふいに力を込めた。小さな悲鳴を上げるアカンタスを、強引に、クッションの上に押し倒した。
「こうすると、逃げられないよね」
 左手を寝台につき、右手で少女の横顔をとらえ、柔らかな巻き髪に指を絡めた。
「たとえ、こんなことをしても」
 そっと少女の白い肌に唇を付けて、強めに吸った。
「んっ!」
 少女がびくりと震え、あわてて、たおやかな腕でゼルダを引き剥がそうとする。ゼルダは誘惑的な声音と微笑みで、彼女の耳元に囁いた。私を教えてあげる、覚悟してと。
「……んっ……や、ゼルダ、さ……っ……」
 震える少女の頬を、ふいに、涙が伝った。
「……花売りの、おばあさんも…………おばあさんも、逃げられな……くて…………」
 息を呑むゼルダを見詰め、彼の髪を一筋、アカンタスが手に取った。
「ゼルダ様は、魔法使い……魔法使いの人……幸せな、夢のような時を、与えて下さいました……でも、綺麗な服も、優しいあなたも、この場所も、みんな夢……みんな、かげろうのような魔法……」
 少女の瞳に、悲しみが揺れる。
「ずっと、傍にいたい。でも、夢は必ず覚めて、魔法は必ず解けて」
 アカンタスは顔をくしゃくしゃにして、横を向いた。
「私は、あなたやカムラの人を殺さなければならないことを、思い出します……」
「――シャンディナ」
 ゼルダは静かに、寝台の上に身を起こした。
「この場所は、夢でも魔法でもない。今までの君が、悪夢だよ。魔術王(マクリム)の悪い魔法にかけられていた」
「……」
「ここにいたらいい。私が必ず、君を守るよ。――ずっと」
 アカンタスも、震えが止まらない身を起こした。彼女は白い腕で身を抱くようにして、しばらく動かなかった。
「ゼルダ様……」
 
 ――魔術王(マクリム)の手に戻らなければ、ほんの数日で(つい)える命です。魔術王(マクリム)の支配印を外せば、その瞬間に潰える命です――
 
「死ぬまで、シャンディナと呼んで下さいますか……?」
 ゼルダは優しく彼女に微笑みかけると、誓った。
「この命、果てるまで。――シャンディナ」
 
 ――私は、魔術王(マクリム)操り人形(マリオネット)……この命は、偽物……です――
 
 ――でも、ゼルダ様――
 
「私が、何度あなたを殺そうとしても……? 何度あなたを裏切っても、ゼルダ様は、私をシャンディナと……微笑んで、シャンディナと呼んで下さいますか……?」
 
 ――あなたの傍にいたい。シャンディナの名で、呼ばれたい。この気持ちも、偽物ですか……?――
 
 震える少女の肩に、ゼルダがそっとストールをかけた。必ずと誓って、その耳元にささやいた。――シャンディナ、大好きと。
 アカンタスは感極まって、涙を落として顔を覆った。
 たとえ、魔術王(マクリム)に与えられた全てを失うのだとしても。
 優しいこの時が、彼女の全てになるから。
 彼女の命ごと悪夢が終わるとしても、偽物ではない、命になるから。
 幸せなこの夢が、現実になるから――
 
 
 翌朝。先に目を覚ましたゼルダは、彼にしがみついて眠る少女の薄茶の髪を、軽く指先で遊んだ。
 天使か妖精か、可愛らしい少女の寝顔を、しばらく見詰めていた。
 アカンタスの目が、ぱちりと開いた。
「おはよう、シャンディナ」
 ゼルダが微笑んで声をかけると、少女も幸せそうに微笑み返した。
 ゼルダが優しく、巻き髪の上からアカンタスにキスすると、彼女は嬉しかったようで、細い指で口元を隠した。はにかんだ微笑みが、指の隙間からこぼれて、儚い幸せをのぞかせる。
「――兄上に知られたら、笑われてしまうよ」
「何をですか?」
「シャンディナを、私が大切にしていること」
 寝室に連れ込んだ少女を、ゼルダが抱かなかったなんて誰も信じまい。
 一夜、ゼルダはただ、彼女を腕に守って眠った。
「?」
 どうして笑われるのか、アカンタスは不思議そうだ。
 ゼルダは何も言わず微笑んで、それにつられて笑うアカンタスに手を差しのべた。
「おいで。朝食にしよう。今朝は食べられるね?」
 アカンタスのお腹が、くーと鳴った。
 ゼルダはくすくす笑うと、えいとアカンタスの手を引っ張って、彼女のバランスを崩し、驚きあわてる少女を胸に抱きとめた。
 アカンタスも、びっくりした後には、楽しそうに笑った。
 
 
「兄上、こちらが敵の魔術師に、こちらが占領された都市の住民に、それぞれ、施されている魔法印です。至急、調べさせて下さい」
 ゼルダが美貌の少女を捕虜として連れ帰ったという噂は、あっという間に軍内に広まっていたが、それを本当に捕虜だと考えたのは、ごく一握りの人々に過ぎなかった。皇太子すら、例外ではない。
「――まさか、あの娘、本当にクレールの魔術師なのか?」
 噂を聞いた者の多くが、ゼルダのこと、どうかして、美しい娘をさらってきたなと考えていた。
「ええ、本物です。私はシャンディナと呼んでいますが、国ではアカンタスと呼ばれていたようです。偶然なのか、何かからくりがあるのか、実際に、稲妻(アカンタス)を操ります」
 手配した侍女がアカンタスの身支度を整える間に、ゼルダは皇太子を捕まえ、手にした情報をいくつか、報告した。
「ゼルダ、手柄はいいが、私に断りなく動くのは、今回限りにしてもらいたい。次やったら、ただでは済まないと思え。さらわれたのと見分けのつかない真似はやめろ」
 ゼルダは軽く目を開いて、怒っているザルマークを見た。
「……心配、されました……?」
 当たり前だと、皇太子が眉を顰める。
 ゼルダはくすっと無邪気に笑うと、少し上目遣いに、兄にねだった。
「……今日も、シャンディナを連れて軍を抜け出すつもりでいます。日暮れまでには戻りますから、昼間の行動は、自由にさせて下さい」
「〜」
 皇太子はこめかみを押さえてゼルダを見ると、ふー、と息を吐いた。
「娘には? 支配印なり、施してあるんだろうな」
「……」
 皇太子の目が、驚きにわずか見張られた。
「……馬鹿な、施していないのか!? おまえ、女好き(フェミニスト)もたいがいに――」
 ゼルダは真剣な表情でかぶりをふると、皇太子の叱責を(さえぎ)った。
「シャンディナは、魔術による支配を受けているようです。支配印は、彼女を殺す役にしか立たない」
 死霊術で支配印と言えば、命を支配する烙印で、服従か死かを選ばせる。対象を操る力はなく、殺せるだけの死の烙印。
 施術に口付けを伴うので、死の接吻(せっぷん)とも呼ばれた。
「――ゼルダ、女に目がくらむのは、おまえの悪いクセだな。それなら余計に、施術の必要がある。カムラに牙を()くなら、容赦なく殺せ」
「――」
「……ゼルダ……?」
 抵抗するゼルダの様子に、少女に本気なのだと、皇太子は察した。
 (かたく)なな目をして従わないゼルダの肩を強くつかむと、壁際に追い詰めた。
「兄上――」
「従え」
 空いた右に逃げようとしたゼルダの退路を、左腕で断った。
 (えり)を開いて、ゼルダのまだ細い首の付け根に、死の接吻を落とした。
「――っ……!」
「どうだ? 他人に命を握られる気分は」
 ゼルダが少し乱れた息遣いで、ザルマークを見る。
 その、ゼルダの澄み切ったガーネットの瞳の鮮やかさ。ザルマークは魅入られたように、魔力を司る左眼を緋に光らせた。
「――! ……やめっ……!」
 支配印からの苦痛に、ゼルダが(あえ)いで目を潤ませる。
 何の衝動か、ザルマークは限界までゼルダを追い詰めて、すがらせて、それで、やっと解放した。
 苦しげに刻印を押さえるゼルダの(あご)を取り、彼の方を向かせた。
「――兄上」
 ゼルダが見せたのは、――支配者の微笑み。
 ザルマークはどきりとした。
 一片の負の光も宿らない、その瞳。支配したつもりが、逆に、心を捕らわれた――?
「あなたこそ、私の命を握る気分はいかがです? 私を殺す力、殺すだけの力を得られて――愛する者を死へと誘う。死霊術師(ネクロマンサー)は、真に呪われていると思いませんか」
 だから、施術したくないのだと。
「……」
 軽いノックの音に、鈴を振るような声が続いたのはその時だった。
「ゼルダ様、こちらですか……?」
 ゼルダは手早く襟を正すと、何事もなかった顔をして、扉を開けた。
 忘れな草色の、リボンやフリルをふんだんにあしらった衣装をまとい、髪も結ってもらったアカンタスが、用意ができましたと、ゼルダに微笑みかける。
 ――心躍り出す、夢のような可愛らしさだ。
「よく似合う、可愛いよ、シャンディナ」
 おいでと手招いて、少女の額に、耳元に、優しいキスを降らせて微笑んだ。
 息を詰めてキスを受けた少女が、つられ、思いが零れるように笑って、彼の衣装の袖を、置いて行かれまいという様に、握り締めた。
 
 
「うん、……そう――」
 アカンタスを小舟で川下りに連れ出して、その中州の東屋(あずまや)で、ゼルダはいくつかのことを、彼女に尋ねた。
魔術王(マクリム)は――」
 空から見るとこうなっていて、この辺りに居城していますと、アカンタスが答える。
「そう……、シャンディナも、そこに?」
 少女がこくりと頷く。
「魔術師がここにいて、……合成獣(キメラ)はどこにいるのかな。どこで生まれて、どこに集められているか、知っている?」
「お城で、魔術王(マクリム)が生み出します。……お城の周りに、森があって――」
 アカンタスはもちろん、多くを知っているわけではなかった。とはいえ、表面的なことなら、いくつか知っていた。
 この辺りですと、書いた地図に『キメラさんが住んでいます』と書き加える少女。
 ペンの握りも、書く文字も、いちいちが可愛らしかった。
 ゼルダがクレールやその戦略について尋ねたことに、アカンタスは拍子抜けするほどあっけなく、知る限りのことを答えた。
 正直なところ、ゼルダは少し、がっかりした。
 彼女が話せませんと抵抗したら、色仕掛けでと、手段の方を期待していたからであり、彼女が重要なことを知らないから、とかではない。色仕掛けの必要がない。――とても、残念だ。
 
 
 一通りのことを聞き終えた後、思案するゼルダの横顔が、アカンタスにはひどく物珍しかった。真剣な目をすると、ゼルダは一際(ひときわ)印象的で、引き込まれるように、彼女はその様子を眺めた。
「シャンディナ?」
 視線に気付いたゼルダが顔を上げる。アカンタスはふっと微笑むと、
「ゼルダ様、とても綺麗です」
 素直に過ぎる答えを返し、ゼルダを多少なり、途惑わせた。
 彼女にとって、ゼルダに連れ回され、笑いかけてもらった時間は、世界に生命が吹き込まれたようだったから。
 心の奥深くに眠っていたものが、目覚めていく。色を取り戻していく。
 空の色、風の匂いを、初めてのように感じた時間。それはとても新鮮で、美しい世界の広がり。
 心が生きたいと、願い始めていた。
 
 ―― キリ …… ――
 
 胸に、鋭い痛みがあった。
「シャンディナ?」
 アカンタスは、胸を押さえて息を詰めた。
 声が出ない。
 終わりが近づいていると、もう、この命が壊れると、予感させる痛みだった。
「――シャンディ――」
 彼女の手を取り、その冷たさに気付いたゼルダが、見る間に血の気を引かせた。
 あわてて、彼女を連れ戻ろうとするゼルダを、懸命にその袖を引き、止めた。
「……何でも、……何でもありません……」
 大丈夫ですと、弱く微笑んだ。
 時の砂が、容赦なく滑り落ちるから。
 だからこそ、束の間でも、与えられた全てを感じていたかった。
 樹々の梢から零れる陽の光や、水面を渡る風の中に――
 
 
 午後。
 カムラ方術師の幕営地で、アカンタスは楽しい一時を過ごしていた。
 四歳の誕生日という子供が可愛らしい。
 子供が難しそうにフォークを使うので、小さく切って持たせてやると、その子供はお礼を言って、ケーキを大事そうに口に運んで、美味しそうに微笑んだ。
 けれど、その子供には心配事があるようで、少しだけ、落ち着かなかった。
 ゼルダと一緒に消えたアルベールが気になるのだと、見ていた女性が教えてくれた。
 アカンタスが、子供と一緒にケーキを食べ終えた頃だ。
「アンナ様……!?」
 先ほどの女性が、驚いた様子で声を上げた。
 美しい翼を持つ人が、ふいに、天幕に姿を見せたのだ。穏やかで、優しい響きを伴う声が、少女を呼んだ。