クレールの魔術師

第三節 死霊術師と方術師


 敵の気配が消えた頃、ひどく気になったその少年を助けに行って、抱き起こして、青年はどきりとした。少年がうら若い女性のような、美麗な顔立ちをしていたから。
 
 
 夜明け前。
 ゼルダは寒さだけを感じていた。
 動こうとしても、体に力が入らず、鈍い苦痛を覚えた。体が冷たい。首筋と背が、時折、痺れるように冷たく痛んだ。
 ここまでか。
 母の無念も、兄の無念も、晴らせないまま――
 けれど、やっと、終わるんだと思った。
 優しく包んでくれた母のいない、誇りにしていた兄のいない、置き去りにされた、明けることのない夜が。
 ――やっと――
 ふいに、仰向かされた。
「……うっ……」
 苦痛に呻き、それでもゼルダは目を開けた。敵なら、一人でも減らしておくのだ。一人でも減らして、皇太子を無事に凱旋させたい。
 死霊術の一つや二つなら、まだ、撃てるから――
「しっかりしろ! 今、助ける!」
 ……?
 薄汚れた聖衣が、定まらない視界に入った。
「……おま……えは……?」
「アルベール。それより、癒すから話したらだめだ。終わるまで待つんだ。待てるな?」
「……」
 ――アルベール?――
 知らない名だ。
 方術師がどうして助けるのかなと、あまり、働かない頭で考えた。皇室を目の仇にする彼らのこと、むしろ、皇子になど死んでもらいたいだろうに。
 それでも、アルベールと名乗った青年の言葉に、嘘はないようだった。痛みが引いていく。
 何とか上体を起こし、ゼルダは直後、身のつらさに青年の腕にすがった。
 
 
 アルベールはまた、どきりとした。他者にここまで無防備にすがられたことなど、生まれて初めてだったから。まして、相手は魔物かと思うほどの、類稀(たぐいまれ)な美貌の少年だ。
 動揺を隠して呪文を唱えながら、アルベールはふと、自分が少年に対して、魔物のようとは感じても、天使のようとは感じないんだなと、気付いた。少年の冴えて美しい、強い瞳には相手を(とりこ)にする魔があって、彼自身、すでに魅入られた気がしたからなのかもしれない。
 
 
 腕を強くつかまれて、アルベールは少し、途惑ったようだった。それでもそのまま、治癒の呪文を唱え続ける。穏やかな声が、耳に心地好かった。
 この青年は彼を害さない。そのことにひどくほっとして、何だか、兄の腕にいるような錯覚に、ゼルダは微笑んだ。
「……と、大丈夫か? もう、立てるか?」
 もう少しとゼルダが甘えると、アルベールはいよいよ途惑って、それでも、彼を受け入れた。甘いヤツ。ゼルダがくすくす笑うと、アルベールは今度はむっとしたようだった。
「何がおかしいんだ。それより、立てるなら行くぞ? ここは危ないんだから」
「うん? そうだな。でもおまえ、どうして怒るんだ」
 彼はひどく驚いた顔をした。いや、呆れた顔か。
「年上の者に向かっておまえは失礼だろう? 君、名前は?」
 一瞬の沈黙の後、ゼルダはたまらず吹き出した。あまりに遠慮もなく笑ったものだから、アルベールが余計に怒るのすら、おかしい。
 どうして助けるのかと思ったら、この青年は、軍の副官の顔すら知らなかったのだ。
 倒れた彼が、アルベールの目には、まだ幼いのに戦に狩り出された、哀れな少年兵に見えたのだろう。
 ひとしきり笑った後、ゼルダはふと黙り込んだ。
 ――気に入らない。
 アルベールの考えは、あながち間違いではない。ゼルダはまさに、幼いうちに悪い継母(ままはは)に、優しかった母も兄も殺されて、そして今、死を期待されて前線に送り込まれているのだから。不幸と言うなら、ゼルダの不幸は、アルベールの考えの斜め上を行くに違いない。
 けれど、方術師はこう言うのだ。
『功名心に駆られた皇子が、民の命など何とも思わず行う戦の犠牲者がここに』
 アルベールとて、同じだ。賭けてもいい。
 少年の身で戦地に送り込まれるのは、民なら痛ましく、皇子なら自業自得だと、平然と言い放つのだ。
 だから、方術師が嫌いだ。
 自分の命も自分の国も、自分の手で守るのが当然のはずだ。身分の別なく。それができないと言うのは、自分の命も自分の国も、自分のものだと思っていないからではないのか。
 国は皇室のものであり、民のものではないと言っているのは、他ならぬ、方術師の方ではないのか。
 ……そんなこと、いかにも下っ端に見えるこの青年に、今、ぶつけても仕方がないけれど。
 闇を彷徨(さまよ)う心、行き場のない物思いが、ゼルダにわざわざ、一筋縄では行かない名前を名乗らせたのかもしれない。
「――アルディナン」
 この青年は、二年前に死んだ皇太子の名を、知るだろうか。
「そうか。アルディナン、年は?」
 少し、拍子抜けした。本当に、知らないんだなと。
「十四歳」
「そうか、まだ十四歳なのに大変だな。――だけど、私は十七歳だ。こんな場所なんだ、仲間への礼を欠いたら生き残れない。改めた方がいい」
 ゼルダはまず、あっけにとられた。皇帝でも、皇太子でもない誰かから、こんな口のきき方をされるのは初めてだ。つい吹き出して、また、アルベールを怒らせた。
「そうだね、アルベールさん?」
 助けてもらった礼はとか、青年が何か言っているのは放っておいて。
 近くに、血にまみれ、冷たくなった愛馬を見つけると、ゼルダはそっと、その艶やかだった毛並みを撫でた。見捨てて逃げればよかったのに、落馬した彼の周りをうろうろしていたりするから、助かる命も助からなかった。
 呪文を唱える声が、少し震えた。落ちた涙をこっそり拭い、屍馬が立ち上がると、ゼルダは何事もなかった顔で振り向いた。初歩の死霊術だ。
「逃げようか」
 アルベールが愕然として彼を見る。ゼルダは少し笑っただけで屍馬に跨ると、アルベールに手を差し伸べた。
「足なんかで逃げ切れない。乗りなよ」
 
 
「軍に戻るって、アルディナン、君、正気なのか!」
 屍馬がどこに向かっているかを知ると、アルベールが信じがたげに怒りを見せた。死なせるために生かしたんじゃない、と。
「そんなこと言っても、当たり前じゃないか。軍に戻らずに、どうするんだ?」
 遠慮もなく聞き返すゼルダに、アルベールがいよいよ、理解できないとかぶりを振った。
「信じられない、皇太子は君を見捨てたんだぞ!」
 む。
 ゼルダは少しカチンときて、そんなじゃないと口答えした。
「皇太子殿下が、好きで見捨てたみたいな言い方は気に食わないな。それを言うなら、アルベール、さんはどうして、まだ聖アンナを信じるだろう? 天使なんて、あれだけ多くの血が流れるのを、ただ見ていただけじゃないか」
 皇太子には何度か命を救われたけれど、アンナには救われていないよと、付け加えた。
「そんなの……そんなのは、君が死霊術師だからだ」
「アンナが方術師を助ける姿も、見ていないよ?」
 本当は、アンナの助言がなければ皇太子軍はほぼ間違いなく全滅だったのだから、救われていない、と言うのは嘘だ。
 ただ、それを嘘だと言うなら、皇太子が彼を見捨てた、と言うのも嘘だから、あいこだ。
「……アンナは……みだりに力を使わないんだ。……神や、その使いによる力の行使は、世の理を乱すから……」
 つたない言葉で、アンナを懸命に庇うアルベールの姿に、ゼルダはふっと笑った。
 しどろもどろになるのは、アンナの意向にきちんと適っているか、考えながら話しているからだろう。そして、本当は彼自身、納得行かない部分なのに違いない。つかみきれない天使の心を語ろうなんて、勢いで無茶をするから。
 アルベールのそんな、世俗ずれしない、裏表のない懸命さが好ましかった。
「そうかもしれないね、アルベールさん。本当を言えば、確かに、天使が教えてくれたんだ。あの場を死守しなければ、大掛かりな魔術がマーザを滅ぼすと。だから殿下は、マーザを守って戦うことを決意された。私は、その殿下を守りたかった。マーザも殿下も無事だったなら、置き去りにされたくらい、構いはしないよ。軍に戻れば、殿下は私を迎えてくれるだろうし」
 最悪の事態を免れる道を示したアンナと、その道を命懸けで確保して、実際に人々を救った皇太子について、文句をつけ合うのはへんだから。
 どちらがより優れたことをしたか、で言い合うくらいがいい。
 なお、アルベールは納得行かなげに、それでも少し毒気を抜かれた顔をして、ゼルダを見た。
「……アルディナンは、不思議だな……人を憎んだことはないの? 君の、その志は尊いのかもしれない。……だけど……」
「だけど?」
 ――人を憎んだことなら、ある。今なお、ゼルシア皇妃を心の底から憎んでいる。
 そして、だからこそわかるのだ。違うと。助けてくれないとか、何かしてくれないとか、そういう風に憎むのは違う。皇太子なんて、逃げろと言ってもゼルダを見捨てられなくて、ギリギリまであの場で指揮していたのだから、むしろ、逃げ遅れていないか心配だ。
「……いや、いい……」
 そう答えたアルベールの瞳が、ひどく哀切だった。アルベールはそれきり口をつぐんだ。
「――先に、方術師の幕営地に寄ってアルベールさんを置いていくから。助けてくれてありがとう」
 そんなアルベールの様子に、ゼルダはふと、この青年、皇室に身内を殺されでもしたかなと思った。『皇室に殺された』ことしかわからないから、皇室を憎む方術師は多いのだ。
 たとえば、先の皇妃を暗殺したのはゼルシアだ。その際、ゼルシアは何も知らない方術師にその罪を着せて、皇帝の名の下に断首させている。そんなだから、皇帝は『最愛の皇妃を殺した』方術師が憎くて仕方がないし、方術師も『何の罪もない同胞を殺した』皇帝が憎くて仕方がない。
 先の皇太子を殺したのも、また方術師だ。
 アルディナン皇太子は母皇妃の死に疑問を抱き、ついに、黒幕はゼルシアだという証拠をつかんだが、そのために死期を早めた。
 追い詰められたゼルシアが、方術師に偽りを吹き込んだのだ。
 
 ――アルディナン皇太子が母親を殺された恨みで、神殿を滅ぼし、方術師を虐殺しようとしています。私からどんなに間違いではと言ってみても、聞く耳を持たれないのです――
 
 皇妃を信じた、高位の方術師が正式に面会を申し入れ、命を代償にした方術で、皇太子の命を摘み取ってしまった。
 
 ――我々が殺す時にはこうする、先の皇妃暗殺は我々ではない!――
 
 死ぬ間際、そう叫んだ方術師の姿が、ゼルシアの目にはどれほど滑稽で、痛快なものと見えただろうか。誠実な人柄で優秀だった皇太子を、その糾弾で名誉を回復するはずだった方術師が、殺めたのだから。
 恐らくゼルシアは、彼女の皇子が即位する時には、神殿も滅ぼしたいのに違いない。
 別の誰かに、彼女の真似ができないように。
 神殿の尊さも、国や皇統を継ぐ意味も、まるで知らずに卑劣に冷酷に国を傾ける。そんな者が、ゼルシアだけでもないのだ。
 なすすべもなく、大切なひとを失ってきた。大切なものを踏みにじられてきた。
 力を得たかった。
 理不尽な力に、何者も蹂躙させない力を得たい。二度と、守り切れずに失うことのないよう。
「アルベールは――皇室と神殿の和解など、無理だと思う?」
 いつの間にか、ゼルダは重厚な真紅ではなく、戦塵に汚れた白のマントを身に着けていた。意識がもうろうとしていた頃に、寒くないようにと、アルベールが着せてくれたのだろう。自分のものは、戦闘中に引き裂かれた気がするから。
「アルディナン……?」
 見ず知らずの子供のために、自分が寒い思いをして。
 命さえ危険にさらして。
 何の見返りも期待せず、助けてくれたのが、アルベールだった。
「私は、方術師がきらいだよ……」
「……」
 彼が皇子だと知ったら、きっと、手を離すから。
 
 
「兄上!」
 皇太子軍の陣に戻ると、ゼルダは真っ直ぐに皇太子の無事を確かめに向かった。
 ゼルダの元気な姿を見ると、皇太子はやや目を見張り、びっくりした顔で彼を見た。
「ご無事で良かった!」
 ゼルダが大喜びで皇太子の腕に飛び込むのを、ザルマークはさらにびっくりした様子で、それでも、受け止めた。
「よく戻った。――無事で良かった」
 兄の手がぽんぽんと、優しく、弟の頭を叩いた。
 ゼルダが心地好さげに目を閉じる。
「……おまえ、甘え上手だな」
 皇太子ザルマークにとっては、身内をここまでかけがえないと思ったのも、ここまで、懐深くまで踏み込ませたのも、どちらも初めてだった。
 ゼルダはその腕の中で満足げに微笑んでいたけれど、やがて、ザルマークの表情に何かを察した様子を見せた。
「戦局の方、思わしくありませんか」
「……ああ」
 戦死者四千名。
 戦地となった七都市全て、陥落――
 各戦地からの報告書に目を通し、皇太子の顔に苦悩の色が濃い事情を、ゼルダは知った。
「戦果は――」
 皇太子が聞きたくなさげに顔を背ける。
「陛下におよそ報告できん」
 任された兵の多くを失い、何も取り戻せないどころか、さらに侵略を許した。唇を噛む皇太子に、ゼルダは揺るがない口調で告げた。
「敵国王はアルザーディス・マリンカリン。魔術を操り、自分の影によって遠方の情報を見ること、聞くこと、話すこと、場合によっては魔術の発動すら可能。軍容は戦闘前で魔術師が二百四十、討ち取った数が約四十。残り二百程度と推測され、飛行能力を持った合成獣がその数十倍。一般兵の参加はなく、精神を操る死霊術は、魔術師にも合成獣にも効かない。敵は魔法陣を用いれば、大都一つを一夜に壊滅させるほど、大掛かりな魔術も使用可能。その条件に、満月が含まれる可能性あり――兄上、聖アンナを同行させたのは、大変な好判断であられたと思われませんか? 皇妃が情報を握りつぶしたおかげで危うく全滅するはずだった都と軍を、危険極まりなかったこの初戦を、致命傷を負わずに済ませただけでも、立派にあなたの戦功だと、私は思います。侵略されたままとはいえ、あなたはマーザ・フォーメルを滅びから救った。存続さえしていれば、取り戻せます」
「――ゼルダ?」
 ザルマークが目を見張る。ゼルダは含みのある笑みを見せた。
「おかしいと思いませんか、兄上。小国の侵略など、戦功を立てる絶好の機会です。そこへ、なぜ皇妃が自分の皇子は派遣せず、最も邪魔としている私とあなたを派遣させたか――それも、十分な軍を与えて」
 皇太子の目が、いよいよ見張られた。皇妃は、軍が初戦で全滅しかねないという情報を、あらかじめ握っていた――?
 それが事実なら、由々しき売国行為だ。
「兄上、この戦、数は何の役にも立たないでしょう。敵の戦い方は、合成獣で軍を足止めし、魔術で味方もろとも焼き払うもの。合成獣も魔術師も空へ逃げる。――方術師が必要です。そして、弓や魔術など飛び道具が必要です」
「……」
 方術師。
 初戦で方術師の犠牲を多く出したのが痛いですねと、しかし、皇帝が方術師の犠牲をとやかく言いはしないでしょうと、ゼルダは付け加えた。
「方術師が役に立つか?」
「あらゆる攻撃から身を守る、守護輪(サークル)を。この術をかけて、効果がある間に、敵地に乗り込んで魔術師を討ちます。たとえ、一人ずつでも」
 長期戦になっても確実にと、敵に方術師がいない以上はと、ゼルダが提案した。
「――そうだな、やってみるか」
 皇太子の表情から、厳しいものは消えない。ゼルダの案は、敵が動かないことを前提としたものだ。敵がさらに侵攻をかけてきた時、どうするか――
 初戦を生き残った方術師は多くない。守護輪を使える者はさらに限られる。少しずつ削る作戦では、どう考えても、大勢に影響が出る前に敵が動く。
「そこを何とかしてこその、私の戦功だな」
 皇太子はここからだなと、ゼルダに笑いかけた。
「ゼルダ、私は先刻まで――戦場で、おまえを助けようとして死んだ方がましだったと、そんな後ろ向きな考えしか浮かばずにいた。だが、怒るか? おまえを見捨てて逃げて良かったと、今、心底思うよ。おかげで、私もおまえも生きてここにいるようだ」
 ゼルダも笑い返した。
「いいえ、見捨てて下さったご判断、痛み入ります。兄上が生きて逃げて下さったおかげで、敵が兄上に引き付けられて、私にトドメを刺すこと、二の次にしたようではないですか? オトリ役、感謝します兄上」
 まだ、何も好転しない。
 苦しい戦局だったが、二人の皇子は互いに挑発的に、妙に不敵に笑い合った。
 
 
 翌朝。
 朝食と軍議を済ませると、ゼルダは軍を抜け出した。冷たくなった愛馬に(またが)る。昨日のうちに綺麗にしてやった、屍馬だった。馬鹿だなと思っても、もう少し、乗ってやりたかった。
 それはもしかしたら、魂の安息を妨げるのかもしれないけれど――
 もう少し、最期まで彼の傍にいたこの馬に。
 
 
「皇子が――!? 殺してやる!」
 ガタンと椅子を蹴立てて、司祭の一人が立ち上がった。
「司祭、落ち着かれて下さい! 皇室を真っ向から敵に回せば、私たちが滅ぼされます! 今は耐えるのです!」
 カムラ方術師たちの幕営地に、皇子が単身乗り込んできたのだ。
「耐えてどうなる、戦で犬死にするだけだ。それくらいなら、一矢なりと報いて死ぬ!」
「司祭!」
 天幕を出ようとした方術師を、いつからいたのか、聖アンナが手をかざし、制した。
「……アンナ……」
「クレスタ、心を静め、考えなさい。なぜ今ここに、皇子が一人で来たのか――皇子は私が迎えます。あなたは、あなたなりの答えが出てから、来て下さい」
 クレスタと呼ばれた方術師は、なぜと、なぜ止めるのかと、かぶりをふった。同胞の多くが見捨てられ、初戦で命を落とした。盾にされ、捨て駒にされ、軍からは何の援助もなく、ただ、遺棄されている。葬儀はおろか、補償も恩賞も、与えられないのだ。残された家族が路頭に迷うことなど気にも留めない、そんな、皇帝と皇太子なのに――!
「司祭、アンナの言われる通りです。どうか、お心を静めて下さい。こんな時だからこそ、我々こそが、強くあらねばなりません。皇帝は死霊術師、死だけを見詰めています。その狂気から、我々が生命を守って行かねばならないのです。皇帝が与える運命を受け入れては、命を諦めては、ならないのですから……」
 方術師は震えるこぶしを机に突いて、ただ、唇を噛み締めていた。
 
 
 ―― シャラン ――
 両脇に飾った、金の髪留めが揺れる。
 (つや)やかな、軽く結い上げた焦げ茶(バーントアンバー)の髪が流れる。
 敵地同然の方術師の幕営地を、その皇子はひどく無防備に、単身訪れていた。
 正装して立つ皇子の姿は、幼いながらに類稀な美貌とも相まって、一枚の絵のように美しかった。
 アンナが迎えに出ると、ゼルダは少し驚いた顔をして、それでも、完璧なロイヤル・スマイルを見せた。
守護輪(サークル)を使える方術師を一人、紹介してもらいに来ました」
「――わかりました。司祭長のカデリに会わせましょう」
 ゼルダを案内するように、アンナが先に立って、幕営地の奥へと向かう。その後につき従いながら、ゼルダはさすがに無謀だったかなと思い始めた。行き会う方術師の視線の冷たさ、あからさまな不信、向けられる憎悪――
 本音を言えば、こたえた。わかっていて、覚悟してここに来たのだ。それでも、自信がぐらつきかけるのを、懸命に支えなければならなかった。ここで自信を失えば、灯せるはずの火も、灯せなくなる。
 たとえば皇帝も皇太子も、不信に不信、憎悪に憎悪で応え続けている。そうすることは楽なのだけれど――
 それでは、わかり合えない。いつまで憎しみ合っても、誰のためにもならない。
 マーザ・フォーメルに乗り込み、魔術師を一人捕虜にする。情報が必要なのだ。このままでは、いつ全滅するかわからない危険な橋を、いつまでも渡り続けることになる。
「アルディナン……!?」
 ふいに、聞いた声がかかった。目を向ければ、子連れのアルベールがいた。
 ……て、子連れ?
 アルベールの目には、君がなぜ、ここにと言いたげな、ゼルダの正装に何か不吉な予感を覚えたような、そんな驚愕が見て取れた。
「驚いた、アルベール、子供がいたんだな」
「何言っ……! いくつの時の子供だと思って言うんだ!」
 そんなことを言っても、薄茶の髪の、澄んだ目をした可愛らしい子供が、アルベールにしがみついているのは確かだ。
「アルベール、こちら、ゼルダ皇子。アルディナン皇太子は、数年前に亡くなられています」
 何を言われたのか呑み込めない顔で、アルベールがゼルダを見た。次にはアンナを。
 やがて、その顔から徐々に、血の気が引き始めた。
「こちらはアルベール。その子はセデスと言って、アルベールが面倒を見ている子で、――明日が四歳の誕生日です」
 ――孤児(みなしご)かな?
 ゼルダはちょっと、その子に笑いかけてみた。すると、子供は喜んで、にこにこと「セデスです。こんにちは。あなたのおなまえは?」と挨拶してきた。
「ゼルダ、皇子」
 名乗ってみた。
「ゼルダ、おうじさま? ゼルダおうじさま、おなまえ、おしえてくれてありがとうございます」
 子供がぺこりとお辞儀をした。あまり、よく出来た子供なので、ゼルダはつい 笑みを零した。そういえば、アルベールは彼にも礼儀を教えようとしたっけ。
 麗しの美少年であるゼルダの笑顔は、花が綻ぶようで、子供が目を見開いてその笑顔に見入る。
「ゼルダ皇子、アルベールも守護輪(サークル)を操ります。この幕営地にいる者の中では、五指に入るでしょう」
 アンナの言葉に、ゼルダは改めてアルベールを見直した。
「そうか――」
 アルベールは強張った表情で、唇を噛んでゼルダを見ていた。
「アルベール、どう? もし、私に守護輪をかけて欲しいと頼んだら、何時間のものをかけられる? 最低でも一時間、欲を言えば三時間欲しいんだけど」
 ゼルダが持ちかけると、アルベールはいよいよ顔色を悪くした。
「……誰が、誰が君なんかに!」
 ゼルダは屈託なく微笑んだ。
「なんだ、名前を偽ったのを怒ってるの? 兄上の名前だって、大差ないだろうに」
 女性と見紛うような綺麗な顔で流し目をするから、タチが悪い。
 高慢に、優雅に微笑む。
 皇子と知れば、それだけで、態度を変える者は多い。アルベールも例外ではなかったなと、少々の失望を隠した微笑みだった。皇子の身で、同じ人間として見て欲しいと思うこと自体が、無理難題なんだと知らないでもないから。
 アルベールはますます瞳に敵意の炎を揺らし、ゼルダを見た。
「取り引きしないか?」
「!?」
「明日、四歳の誕生日なんだろう? 私が生還できたら人数分、ケーキを用意するっていうのでどう? 手を打たないか?」
 ケーキがわかる? とセデスに聞くと、セデスはこくりと頷いた。
 食べたことある? と続けて聞くと、ないとかぶりをふった。
 甘くておいしいよ、食べさせてあげようか? と笑いかけると、子供は少し困った顔をして、しばらく、考えていた。
「アルベールさんが、こまるケーキは、なくていいです。……へいきです」
「……」
 利発な子供だ。
 三歳でもう、我慢することを知っている。欲しがれば、アルベールが困るということも、わかるんだなと思った。
「セデス……」
 アルベールが何か葛藤するように、顔をゆがめた。
「……人数分と言うのは……?」
「女子供の人数分、用意するよ。おいしいものの独り占めは、苦手な子だろう?」
「……」
 その通りだった。アルベールは正直、暗黒皇帝と呼ばれるハーケンベルクの皇子がそういう配慮をすること自体に驚いた。
 しばらくの間、アルベールは難しい顔で沈黙し、やがて、不承不承ゼルダの頼みを引き受けた。
 
 
 守護輪がかかったらすぐにマーザに向かうため、場所は、幕営地を出てすぐの街道脇を選んだ。
 まだ抵抗があるらしく、すんなりやれないアルベールに、ゼルダが言った。
「三時間と偽って、一時間の術をかけたら私を殺せるかもしれない。私はおまえを信じるし、ここには忍びで来ているから、なまじ私が死んでも、どうして死んだかなんて、下手をすれば死んだことさえ、わからないだろうな。せいぜい、ケーキがなくなるくらいだ」
 ゼルダは誘惑的にアルベールを見ると、挑発した。
「やってみるか?」
 アルベールが息を呑む。
 何を考えてと、その目が信じがたげにゼルダを見た。
「……なぜ、皇子がわざわざ出向くんです。危険な任務は、兵に任せるものでは、ないんですか?」
 アルベールの問いに、ゼルダは悪戯(いたずら)っぽく微笑んだ。
「皇太子がいるうちは、私は予備の指揮官だから、好きに出来るんだ。皇太子は国に、兵は皇太子に縛られて、私だけが自由なんだよ」
 ゼルダが口許に二本、指を立てる。
「それなら、役に立つことをしないとね。大切な兄上を守り抜いて、私はまだまだ、可愛がってもらうんだから」
 言葉を失くしたように固まるアルベールを、そこに置いて。
 ゼルダは傍の小さな柵に寄りかかると、改めてアルベールに目を向けた。
「おまえにこの命、預ける。好きにしていい」
 どこか哀切に、――優雅に微笑んだ。
 
 
 ……好 きに……?
 アルベールは軽いめまいを覚えた。
 ドッ、ドッと、動悸がする。押し込めた記憶が、残酷な絵が、脳裏に蘇る。
「……わかっているのか。君が忍びで来たと言うのなら、今、この場で殺したって同じなんだ」
 アルベールは、衝動的にまだ細い少年の首に手をかけ、絞めていた。
 ゼルダが苦しげに顔をゆがめる。
 ドキリとしてアルベールが手を緩めると、抵抗はしないまま、ただ、アルベールの目を見てゼルダが言った。
「――生まれた時から全てを与えられて、全てを求められてきた」
 必要な物すら事欠くような不幸は一目瞭然だ。しかし、その逆の――守れないものまで与えられる不幸を、どれだけの人間が、知るのだろうか。
「私は国の象徴なのかもしれない。けれど、人間だよ。誰かに助けて欲しいと思ったら、何か、出来なくても許して欲しいと思ったら、いけない?」
 美しく澄んだガーネットの瞳が、死霊術師(ネクロマンサー)のそれとは思いがたいくらい、印象的に彼を見ていた。
 皇子なら、親の仇だ。ゼルダの首を絞めようとする手に、力が入らない。
 アルベールには、それ以上は無理だった。
 
 
 守護輪(サークル)がかかると、ゼルダが早速、馬に(またが)りながらアルベールに尋ねた。
「何時間もつ?」
「――五時間」
 ゼルダは少し驚いた顔をして、次には、
「子供の誕生日、期待していて!」
 アルベールにありがとうと笑顔を残して、マーザへと馬を駆った。