クレールは動いた。
ドン!!
夜闇に鮮やかなまでに、炎が燃え広がった。
カムラ皇太子軍、本隊の狙いはマーザ・フォーメル太守館。無敵の死霊部隊を率い、手薄になった大都を一気に攻め落とす。そのつもりの突入だった。夜は闇の帳が降りて、死霊の力が強くなる。突入に際して誰一人、皇太子軍の勝利を疑わなかった。
――いや、軍の副官であるゼルダがただ一人、何か不吉なものを感じていた。
「ぎゃあああ!」
炎に巻かれた兵の断末魔。巨大なコウモリの羽、山羊の頭の、悪魔のような異形の影。
「合成獣か! 魔術師団、撃て!」
方術師にかけさせた守護輪が解ける前にと、一路、太守館を目指す皇太子軍の前に、『それ』が姿を見せたのは唐突だった。
闇の中空に、数体の魔術師を引き連れて、うっすらと青白く光る人影が静止していた。
『ザルマーク皇太子かな?』
「――いかにも。何やつか、用があるなら急ぐことだ」
不敵に笑う皇太子の影から、ゼルダが放った死霊術『死者の槍』が光る人影を直撃した。
「ち、幻影か……!」
たかが幻影に、魔術師を5体も6体もつける非常識に、皇太子は舌打ちした。
『お初お目にかかる、私がクレールの魔術王、アルザーディス・マリンカリンだ。隠れんぼをしないかね?』
年齢は四十代と見える、魔術師の割には体格が良く、長く伸ばした髪を、足元で束ねた男。
『皇太子殿は、太守館にご執心のようだがね……私の首を落とさぬ限り、その守護輪が解けた時点で、貴君の命も潰えよう。――細工をしたのは外壁だ』
アルザーディスがパチンと指を鳴らすと、闇を揺るがすような地響きをさせ、外壁がせり上がった。門さえも呑み込んで。
『クックック……。厚みも高さも増したぞ? どう破るね? ゾンビの体当たりなど効くはずもなく、死霊では、触れることすら叶うまい。袋の鼠だ。死の都と化すマーザから、貴君がどう逃げおおせるか、楽しみに見物させてもらうとしよう……』
鋭く飛んだ矢が、魔術師の一人を射落とした。ゼルダだ。
「兄上、撤退を! 罠です!」
「何を愚かな――!」
ゼルダを睨みつける皇太子の横から、ふいに、聖光をまとう者が、進み出た。背には純白の翼を従えた、人外の存在。
声が魔力を帯びているのか、アルザーディス同様、戦火をものともせず、よく届いた。
「アルザーディス、生命を解放しなさい。禁断の黒魔術は生命の冒涜、嘆きの声をまとい、非業の死で地を埋め尽くし、何を得ようというのです――このままでは、あなたの行く手には、死と悲しみしか待ち受けない。生命を還すのです」
消えかけていたアルザーディスが、わずか、目を見張った。
『ほう、おまえがカムラの天使か。――なるほど、クレールには今、ただ一人の方術師も存在しないな。神はなぜ、背きし死霊術師たちには天使を与え、我らには何も与えぬのか――そこな皇子どもの所業こそ、神への冒涜ではないのか?』
揶揄するような魔術王に、アンナは静かに答えた。
「アルザーディス、魔術に奢り、クレールは自ら神の加護を捨てました。カムラには、なお、神の加護を必要とする者たちがいます。クレールに神の慈悲が下されないのは、あなた方自身が望まず、感謝の心さえ、なくしているからです」
アルザーディスは初め薄く笑い、次には、声さえ立てて笑った。
『天使よ、さすがだ。よくよくわかっているではないか。そう、我がクレールには“神の加護”なるものなど不要。魔術が人を霊長とし、支配者たらしめ、その栄光と繁栄を約束するのだ。“神の加護”などに気休め以外の意味があるなら、そこな皇子ども、大都から無事生還させてみせるがよい。神の加護を受けた黒山羊どもを、その教えの冒涜者が虐殺するなら、冒涜者は神にも匹敵しような……』
ゆらりと、アルザーディスの影が揺れた。
そのまま、その姿は虚空に溶けた。
後には炎と合成獣、数体の魔術師だけが残された。
「アンナ、どういうことだ」
会話に納得行かない皇太子の問いに、アンナはしばし、沈黙していた。
やがて、スっとゼルダを指さした。
「真実はいずれ、ゼルダ皇子が暴くでしょう――ザルマーク皇太子、数時間後には、散っているクレールの魔術師二百四十名余りの生き残りが、この都に集結してきます。アルザーディスは都にいません。彼は配下をどれだけ捨て駒にしても、あなたの二万の軍を壊滅させてみたいと考えています。――魔法陣は外壁を端点に、五十四芒、満月が昇り詰める時、五十四の魔術師たちが残っていれば、マーザは文字通り、死の都と化すでしょう」
皇太子が目を見張る。魔術師は二桁でもやっかいなのだ。アンナが告げた数は、推測を桁で上回っていた。
「馬鹿な――」
「兄上、マーザの生き残りの兵士が、一人も確認されていません。一度退き、策を練り直して再戦に臨みましょう」
ゼルダは内心、アンナの予言に『それがわかるのは反則だろう』と思った。斥候に命懸けで探らせても、魔術師の数どころか、具体的なクレールの戦略すら、つかむことはできなかったのだ。
皇太子がアンナを軍に配したのは、別の意図だったとはいえ、彼らと都の命運を分ける幸運だった。
「……くそ! ――全軍に告ぐ、南門を目指し、撤退する! 途中、遭遇した敵は、特に魔術師は討てるだけ討て! カムラ魔術師団は総力をかけ、外壁の破壊に当たるよう!」
――カムラ帝国の歴史に残る大戦の、幕開けだった。
間もなく、満月が天頂にかかる。
破壊された大都の南門が、今まさに、血みどろの激戦区となっていた。
「皇太子! 守護輪の効果が切れています、これ以上は危険です、撤退を!」
「私がマーザを見捨てるわけには行かぬ!」
軍は既に都を出ていたが、都には、十万を越える逃げ場のない住人たちがいるのだ。その虐殺を阻止するために、五十四芒の魔法陣、一角なりと破壊しなければならなかった。その一角がこの場所だ。別働隊も動いていたが、他の場所を落とせたという報告はなかった。
「皇太子殿下、申し上げます! セリントが陥落し、そちらから魔術師数十名がこちらに向かったとのこと! このままでは退路を断たれます!」
月は天頂。
「兄上、ここは私が凌ぎます! あなたは死んではならない、行って下さい!」
ゼルダが絶叫した。
この場所に、もはや生存者はほとんど動いていない。
他にも術者はいるが、皇太子と皇子の操る死霊が、主戦力となっていた。皇太子が場を退けない理由の一つだ。
月は天頂。
ここまで来れば、確かに、ゼルダ一人でもこの場は凌げるかもしれない。
けれど、退路を断たれ、生還はまず望めなくなる。
「兄上、お急ぎ下さい!!」
皇太子は振り向いたゼルダを襲おうとした合成獣を、とっさの死霊術で塵にした。
満月の下、まだ幼い皇子の横顔が、月光に映える。
戦塵にまみれてなお、美しかった。誰よりも。
髪留めを片方、どこでなくしたものか、風に散る長い髪が印象的だった。
骸骨兵に守らせながら、ゼルダが次に試した死霊術は同士討ちを誘うもので、クレールの兵には効かないとの情報に、ここにいたるまで、皇太子は一度も試さなかった術だった。それでもゼルダが今試すのは、退路を断たれてなお、生き延びるすべを探してのことに違いなかった。
「狂冥宴!」
ゼルダが突き出した右手から、暗黒の波動が放たれた。満月の下、極めて高い強制力を宿した、死霊術。
敵には――
ドン!!
魔術による土砂が、皇子を守っていた死霊たちを呑み込んだ。
ゼルダはからくも逃れたが、結果、皇太子の脇ががら空きになった。
皇太子の放った死霊術が、魔術師を一人葬った。
その間に襲いかかってきた合成獣を、近衛が倒しに駆けつけるが、間に合わない。
「兄上!」
空から降ってきたものから、皇太子を庇ったゼルダの肩当てを、合成獣の爪が弾き飛ばした。次には、無防備になったその首筋に、獣の牙が深く突き立った。
「ゼルダ!!」
手にした剣で、ゼルダがあがくように敵をなぎ払うが、そのまま体勢を崩し、彼は落馬した。
「皇太子、危険です!」
「――ゼルダ!!」
その時だった。
青みがかった閃光が闇を走り、マーザに巨大な魔法陣を描き出した。
奇跡のように美しい、滅亡のさきがけ。
地が鳴動した。
キュドっ!
魔法陣の一芒となり、術に与していた魔術師を、別の閃光が撃ち落とした。
完成した魔法陣。
葬られた魔術師が一人。
「間に合ったのか……?」
――あるいは、手遅れなのか……。
皇太子軍が固唾を呑んで見守る中、循環しながら力を増そうとしていた光が、軌道を失い、天空へと呑まれていった。闇に束の間の残像だけを残して、走った時と同じ速度で、環が途切れたまさにこの場所から、光が失われていく。
地の鳴動も、いつしか収まっていた。後には、戦火と死霊と合成獣――それら全ての現実が、戻っていた。
「――よし! 月は天頂を過ぎた、退くぞ! 誰かゼルダを助けよ! 撤収!!」
大掛かりな虐殺の阻止。
それを成し得た喜びはあったが、ここに至るまで踏みとどまり、引き際を間違えたかもしれない事に、皇太子はきつく唇を噛んだ。
配下に後は任せるかどうかの判断の遅れが、ゼルダに身を捨てさせる結末を招いたのだ。
この上、自らゼルダを拾い、共倒れになる愚を犯せない。ゼルダのしたことが無駄になる。
「撤収!!」
――見捨てた。
嘘だろうと、その光景を目の当たりにした方術師の青年は、目を疑った。
最後、皇太子を庇って倒れたのは、女性と見紛うようなまだ若い、十四、五の少年だった。
月が天頂を過ぎた。
だから、もういいと、目の前で倒れたその少年を一顧だにせず、見捨てて逃げることを皇太子は選択したのだ。血も涙もなく。
これが、皇太子としての選択だというのか。
あるいは、死霊術師としての――?
青年はきりっと唇を噛むと、とにかく、身を隠す場所を探して走った。
馬には乗れなかったし、だからなのか、与えられてもいなかった。カムラ皇室は、決して方術師を顧みない。馬を持った騎士と、守られた魔術師だけが逃げるすべを与えられていた。
方術師である彼は、自力で、その足で逃げて生き延びるしかなかった。