奪われた大都マーザ・フォーメルに隣接する森の中を、カムラの皇太子軍は進んでいた。早ければ明日にも戦闘かと、軽い緊張感が漂っている。間もなく拠点にする砦だ。
「殿下、先行した斥候が戻ったようです」
「そうか。砦は無事か?」
「はっ」
皇太子とその側近の会話を横に、鳥の声を聞いた気がして、ゼルダは晴れ渡った空を振り仰いだ。
どう、兄皇子との距離を詰めようか。
ここまでの十日の行程で、兄皇子に警戒されていることを知った。
初陣だ、戦場は知らない。けれど、信頼関係のひずみは、命取りにもなろうと思える。このまま砦に入り、なし崩しに開戦を迎えるのは、いかにも危うい気がした。
「兄上」
手は。
皇太子も死霊術師だ。
あえて術を受け、兄皇子に命を預けようかと、ゼルダが馬を寄せかけた時だった。
先に、閃光が走ったかもしれない。
昼日中、突然のこと、定かには知覚できなかった。
ドン!!
大地を揺るがすような、轟音がした。
いくつもの鳥の声、羽ばたき。
数秒後には、辺り一面が炎上していた。
「敵襲! 敵襲!」
「兄上!」
「うろたえるな! 敵はどこか! 敵を探せ!」
ドン!! ドン!!
馬が狂ったようにいなないた。
大火が森に落ち、周辺が見る間に熱と炎に包まれた。
――鳥?――
何かの影が上空を過ぎった。
フードを目深にかぶり、紫苑のローブを身にまとった人影が、二つ。
「魔術師か!」
ゼルダは即座に弓を構えると、続けざまに射た。
その矢を受け、影の一つが炎に落ちた。
「殿下、危ない!」
炎上した大木が、バキバキと音を立て、地響きをさせて倒れた。
視界がガクンと揺れた。
かろうじて避けたが、馬が恐慌状態に陥り、ゼルダの言うことを聞かなくなっていた。
「止まれ、落ち着け、ナルディア! ナルディア!!」
「――貴様、もう一度言ってみろ!」
皇太子ザルマークが、声を荒げた。
「はっ、か、確認された敵兵はニ名……ゼルダ皇子が落としたものと、兵の一人が落としたものと、いずれも炎に巻かれ、確認はならず……」
「馬鹿な!」
その日、皇太子軍は七百の兵を失っていた。総勢は二万、大勢に影響のある数字ではないが、失い方が、皇太子を激昂させていた。敵が、ただ二人しか確認されなかったのだ。
「方術師どもは何をしていた!」
「は、突然のことに、逃げるだけで精一杯だったと……」
何がと、皇太子の顔が怒りと憎悪に歪む。
「方術師ども、我が軍を守る気があるのか……!」
大帝国カムラは、死霊術師が治める国だ。元来、その天敵たる神の使い、方術師たちと仲良くやれるはずもなく、戦時には守りの要となるべき方術師が、この国では極めて信用ならない存在だった。
「……待て……」
ふいに、皇太子が黙り込んだ。やがて、口の端に薄く笑みを刻むと、側近に告げた。
「アンナを――、聖アンナを、前線に配すのだ。否とは言わせぬ。至急、国に連絡を」
側近が驚いて、皇太子を見た。聖アンナというのは、神がカムラを見放す際に与えたという、カムラに降ろされた天使の名だ。アンナが直接、その力を使うことはない。しかし、その存在こそが、カムラ方術師たちの力の源だと言われていた。
「アンナは俗世のことに、一切、その力を貸しません。配す意味は……」
「愚かなことを。アンナが前線にあれば、方術師ども、全力で軍を守ろうよ。やつらに言っておけ。私の首が落ちる時には、アンナのそれも落ちるのだとな。――落とせ」
息を呑む側近を残し、皇太子は大股に部屋を出て行った。
「行け。兄上のお考え、確かに、一理ある」
ずっと控えていたゼルダが、フっと笑って告げた。
「なに、兄上の首は私が死守するからな。それより、気になることがあるんだ――」
本当に、奇襲だったのかと。
嫌な予感がするのだ。
奇襲なら、もっと計画的になされるべきではないか。敵が二桁いれば、あの時、彼の命は難なく摘まれたはずだ。
斥候を放ち、マーザ・フォーメルの様子を詳しく探るよう、基本であったがゼルダは念を押した。
魔術王国と、クレールは呼ばれる。
「何――?」
まずは市民の暴動を誘い、敵が浮き足立ったところで太守館に死霊を送り、内からも外からも混乱させて、それに乗じて叩き潰す。
皇太子はその構想で準備を進めていたが、その日、斥候がもたらした報は、戦役の前提から、覆すものだった。
「五日後の満月、周辺六都市をまとめて殲滅せんと、画策しているようです。クレールの魔術には、月の満ち欠けが影響するようで」
侵攻を食い止めると同時に、マーザ・フォーメル奪還を果たすことが、使命のはずだった。斥候の情報が確かであれば、クレールの軍勢は三千。二万の皇太子軍が到着したことそのものが、侵攻の阻止となるはずだった。
国境の大都とはいえ、マーザ・フォーメルに常駐していたカムラ軍は約四千。クレールが周到に準備した、魔術師を駆使した奇襲を受ければ、陥落したとしても不思議はない。
しかし。
「クレールめ、魔術に奢ったか」
二万の皇太子軍を目と鼻の先に、もし出戦が本気ならば、クレールは慢心している。
領土の拡大は、国境の延長をも意味する。小国が無理に大国を侵攻すれば、延びた国境を守るために分散し、かつ侵攻のために疲弊した兵力で、敵の本隊を迎え撃たねばならなくなるのだ。
「いいだろう、五日後、侵攻して来るなら迎え撃て」
「殿下!?」
斥候が目を剥いて、わざわざ、敵の力が最大となる満月に事を構えるのかと、皇太子の正気を疑うように声を上げた。皇太子は不敵な笑みで応じた。
「クレールと事を構えるに当たって、最も愚かなのはどうすることか」
「……強力な魔術の発動条件を、整わせることではないでしょうか。だからこそ、」
言い募ろうとする側近を制し、皇太子は続けた。
「そうだ。最も危険なのは、無策に敵地に攻め込むことだ。大都を占拠して二十日、都のいたるところに魔法陣など敷いていよう。その地で二桁の魔術師に取り囲まれた時には、大軍すら危ういな。さて、我らにそうさせるために、奴らは何をする?」
「あ……」
満月の話は、カムラ軍を誘き出すためのでっち上げだと、皇太子は一笑に付した。
「我が軍とて魔術師くらい抱えているが、そんな話はついぞ聞かぬ。なまじ真実だとして、クレールが本気であるなら結構だ。わざわざ軍を分散し、危険な出戦を仕掛けて来るなら、その時こそ叩き潰す好機だ」
クレールが動くならば五日後に、動かないならば予定通りに進めるぞと、皇太子は結論を下した。