聖魔伝説 外伝≪聖≫

エマの魔法使い

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* 先頭  T  U  V  W  X  Y  Z

≪2000.12.12完結≫

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 サリスディーンはじっと、無残な姿になったうさぎ小屋を見ていた。
 彼がやったのだ。
 ひく、ひくっと、かろうじて息のある、けれど間もなく死ぬであろううさぎが一匹、その足をひきつらせていた。


 T

 反省文と始末書を提出し、大学内の研究室に戻って。
 サリスディーンは重い息をついた。
 魔道師の家に生まれ、何の疑いもなくその道に入った。
 特待でエデミラン(大学)に入学した彼は、その才覚で大いに周囲を驚嘆させてきた。けれど――
 この道に初めて疑問を感じたのは、少し前。ある破壊の術に長けた魔道師が野望に取り憑かれ、自国の首都を半壊させたと風の噂に聞いた時。
 一個人が血迷っただけでそんなことができてしまうほど、魔術は強力なのだ。
 いったい、魔術とは何なのだ?
 答えを出せないまま、彼は知識と技術を磨き続けた。それは興味本位であり、ただ、好きだったからだ。
 しかし。
 運命は再度、彼にしまい込んだ問いを再認識させた。
 彼は今日うさぎ小屋を襲う野犬を追い払おうとして、誤って術を暴走させてしまった。
 結果は惨憺たるものだった。
 うさぎは全滅、建物にも損傷を与え、彼自身も軽い火傷を負った。
 運が悪かった?
 ――とんでもない!
 彼は強くこぶしを握り、机を睨む。
 運が良かったのだ。
 暴走したのが小さな術で、間違いなく運が良かった。
 魔術の暴走、失敗により死傷者が出る事件は相次いで起こっている。
 魔道師たちを統括する魔道師協会は徹底した注意・備えを呼びかけているが、ミスをするのが当たり前だ。人間なのだから。
 だとしたら――
 技術を高め、魔術の力を大きくしていくことは、大破壊を招くことにはなるまいか。
 魔道師が悪意を持てばもちろん、ミスをしただけで、とてつもない惨事になる。
 魔術や魔道技術は便利だ。生活を豊かにし、時には人の命を救う。
 だけれど便利だからと、爆弾を抱えて生きることが、果たして正しいのか――。
 本当に必要なのか?
 答えを出せないまま、彼の日々は続いていた。


 U

 ふいに、目の前に一枚の羽根が差し出された。先端だけ深い青色で、残りは鮮やかな山吹色に縁取られた、純白の羽根。特筆すべきは大きさだ。四十センチはある。いったい、どんな鳥の羽根なのか……。
 いかにも「取って」という様子で差し出されたので、彼は特に疑問も持たず、何気なくそれを手に取った。
 羽根を差し出したのは見知らぬ女生徒だった。1年生か2年生か……上級生ではあるまい。サラサラと揺れる栗色の髪。同色の深く澄んだ瞳。
 何となく惹かれる女性だ。綺麗だった。特に、その瞳が。
「――ターニャ・エマ?」
 彼がふと思い出して尋ねると、彼女はにっこり微笑んだ。
「そう。知っていた?」
 ターニャ・エマ。
 彼と同じくらい有名な、神聖語科の特待生だ。何でも大学内に封じられてきた呪物の浄化を成功させたという、いわくつきの学生だ。大きな羽根飾りをつけた異国風の子だと聞いていたので、手渡された羽根と彼女の服装から、思い出した。
「浮かない顔だね。どうかした?」
 ターニャが尋ねる。
「君は何しにここへ?」
「通りかかったの。機会があったら、一度話してみたいと思っていたから」
「私と?」
「そう」
 不思議な子だ。何も隠す気がない感じなのに、正体がつかめない。
 ふと、彼は羽根の色が変わっているのに気付いた。いつの間にか、明るい翠色になっている。
「これは……」
「『風』の色。やっぱりあなたも――」
「え?」
 彼女が握ると、羽根は再び青と山吹の縁取りに戻った。
「それは、何の羽根かな? 祭器かい?」
 言いながら、彼は納得した。彼女は羽根の効果を試すため、彼に話しかけてきたのだ。学内で最も魔力が高いと噂の彼に。
「ううん」
 しかし、彼女は首を横にふった。それからにこりと笑った。
「信じる? 聖魔のかざきり羽なんだって。1575年も前の」
「……」
 サリスディーンは少し考えてから、首をふった。
「古いものには見えない。千年以上も羽根一枚が形を残しているとは、考えにくいしね。冗談だね?」
 ううん、と彼女はまたもや首を横にふった。
「本物だって言われてる。私も本物だろうと思ってる。証明する手立てはないし、その必要もないけどね。もう、私の一族には、聖魔として覚醒できる資質がないから……。この羽根をシェラが握れば、羽根は目映い光を放ち、七色のプリズムを生み出すはずなんだって。でも、私が握って浮き出る色は二つだけ……。地の山吹と、光の青。他の5つの資質は失われてしまった」
「……私が握っても、色が出たね」
 遠まわしに本物ではない、と言うつもりで口にした言葉に、彼女は嬉しそうな笑顔を見せた。
「きっと、色が出ると思ってたんだよ。貴方もシェラの血を引いてる。とても薄いけど」
「……なんだって?」
 彼女はくすくす笑うと、「冗談よ」と言った。
 本当につかめない。彼をからかっているのか、真剣に話しているのか、それすらもいまだつかめない。
「私はターニャ。ターニャ・エマ。あなたのお名前は?」
「え?」
 彼は驚いて彼女を見直した。
「私が誰だか知らずに話しかけてきたのかい?」
「ええそう。だって、初対面だよね? 私は何度か遠目で見たけど、見ただけじゃ名前はわからないし」
 彼は心底あっけに取られ、彼女をまじまじと見た。彼をメルセフォリアと知ってでないなら、本当になぜ、話しかけてきたのか。
「メルセフォリア・ラ・サリスディーン。魔道技術科の3年だ」
「メルセフォリア?」
 彼女は聞き返し、少し考え、ぽんと手を打った。
「ああ、魔道技術の特待の人だね。魔力は高いの? 魔道は面白い?」
 驚きもしない。まあ、彼女自身が特待だから、特に驚くことでもないかもしれないが。
 彼女は1年生のはずだが、上級生相手に気後れすることもないようだった。傍若無人な感じはないが、何と言うか……上位者をおそれる気配がない。瞳が美しい。
「……魔力は高いよ。君は?」
 彼女はいたずらっぽく笑った。
「魔力は持ってないな。知らない?」
 祭司や神官と呼ばれる神聖語を修めた者たちに、本当のところ力があるかは謎なのだ。神聖語には確かに力があり、儀式や祈りによって奇跡を起こすと言われている。しかし、雨乞いにしろ厄除けにしろ、どこまでが奇跡で、どこまでが自然現象なのか、定かでない。特に魔道技術の学生などには、祭司を詐欺師呼ばわりしてはばからない者もいる。
「やはりないのか……。神聖語の起こす奇跡というのはどういうものなんだろう。何の力で邪を払うんだい? 君は何かの呪いを解いたそうだけど、具体的にはどんな呪いのかかった物が、どんなふうに浄化されたんだろう」
 けんかをしやすい魔道技術科と神聖語科の生徒ながら、彼に神聖語の力を否定する気は今の所なかった。彼にはまだ、それを否定するか肯定するか、判断するに足るだけの材料がないのだ。
「知りたいんだね、好奇心旺盛」
 皮肉にも取れる言葉だが、彼女の笑顔が違うと言っていた。ひどく人好きのする、屈託のない笑顔だ。
「いいことだね、あなたは特待生だから。神聖語はね、生命の奇跡を起こすの。魔術で使うのは、『力ある言葉』。神聖語は、『生命ある言葉』。全ての存在には多かれ少なかれ、発現の仕方は違えど生命がある。異なる存在にでも、語りかけることができるのが神聖語なの。神聖語による語りかけはあくまで語りかけであって、どんな強制力もない。例えば今、私はあなたに話しかけているよね。あなたに何かを頼むこともできる。でも、あなたがそれに応じてくれるかは、わからない。つまり魔術のように、確実に何かをなせるわけではないの。でも、心が通えば、こちらの願いが聞き届けられることもある。あなたが今、私に応じてくれているように」
「……なるほど、雨乞いや厄除けが、あまり効かないわけがわかった。雨や厄に、祭司の頼みを聞く義理はないものな」
 おかしかったらしく、彼女はくすくすと笑った。
「ついでに、祭司に若い女性が多く、純潔を求められがちなのも納得いった。やはり、穢れない乙女の祈りほど、無視しがたいものもないな」
「あなたも、私のお願いだったら聞いてくれる?」
 またそういうことを。サリスディーンは苦笑して言った。
「それは願いによるよ。君は? どんな呪いを解いたのか、教えてくれないのかい?」
 彼女は綺麗な瞳で笑う。
「知らないの、教授に聞いて。私はあった呪いに還ることを望んだだけで、呪いの気配が消えたから、解けたと判断したの」
 サリスディーンはびっくりした。自分が何を成したのか、知りたいと思わないのだ、この女性は。それは理解しがたい感覚だった。
「驚いたな。私だったらぜひ、自分がどんな呪いを解いたか知ろうと思うけど。それを知らなければ、自分の力が見極められないだろう? その必要は感じないのかい?」
 彼女は嬉しそうに笑った。
「魔術との違いだね。魔術は『使える術』と『使えない術』がはっきり分かれるから、そういうふうに感じるんだと思う。でも、神聖語で肝心なのは心の共鳴――対象のあり方、心を感じ取れるかであって、目に見える現象とはあんまり関係ないんだ。だから、呪いの効果を聞いてもあんまりね、意味がないから」
「……不思議な世界だね」
「ふふ、そうかもね。でも、私はこの世界が好き。色々な存在と心を通わせるのは、とても楽しいよ。新しい存在に出会うたび、どうしたらいいだろう、どうしたら気持ちが通うだろうって、すごくわくわくするの」
「それはいいね」
「あなたは? 魔道が好き?」
 彼は複雑な顔で沈黙した。魔道技術を高めることに、疑問を感じ始めた矢先だ。
「じゃあ、私のことは好き?」
「君?」
 彼はちょっと意表を突かれて彼女を見直した。
「……嫌いではないよ。綺麗な人だと思ってる。でも、特別な感情は持っていない」
 彼女は満足げに頷くと、「綺麗な人」に対して「ありがとう」と答えた。
「私はね、あなたが好きかもしれない。今、あなたと話していて楽しいから。最初に見た時から、少し、いいなあと思ってたんだ」
 彼女はすっと右手を差し出した。
「お友達になって下さい、メルセフォリア先輩」
「……変わった人だね」
 彼はちょっとためらって、しかしまあ、断るのもどうかと思い、彼女の手を取った。女性の手というのはこんなに華奢で小さなものかと、少し驚いた。見た感じと、実際に握った感じの違いが妙に新鮮だった。
 ――あれ?
 何だろう、この感じ……。
 彼の途惑いに気付いてかどうか、彼女はふふ、と笑った。
「私のこと、好きになりそうだね、先輩」
「――? なぜ?」
 彼女はこわいくらいに曇りのない目で言った。
「かん」
「……それは怖いな」
 非常にいい加減な答えだが、仮にも相手は巫女の特待だ。カンだと言って侮れない。
 あまりぴんと来ないけど……。
 巫女という存在にも、彼女を好きになるという予言にも、いまいちぴんと来ない。
 まあ、目が綺麗だからいいか、何でも……。


 V

 それ以来、二人はよく話すようになった。
 適度な共通点と相違点が二人の会話を弾ませたのもあるが、それ以上に――
 サリスディーンはすぐに、彼女の瞳が見えない日には、物足りないと感じるようになった。
 何を話さなくてもいいのだけれど、彼女の姿が見たい。束の間なりと、そばにいてほしい。
 あまり接点のない魔道技術科と神聖語科の学生だから、物足りない日の方が多かった。


「ターニャ」
「何?」
 ある日、行き会った彼女に彼は淡々と言った。
「私はあなたが好きみたいだ。今度の休みに、どこかに出かけたいと思うのだけれど、どうかな」
 恋の駆け引きのコの字もない、そのまんまの誘いにターニャは笑った。
「いいよ、先輩。やっぱり私のこと、好きになっちゃったんだね。でも、私はまだあの時のまま……。先輩のことは好きだけど、他のみんなを好きな気持ちと、そんなに違わないみたい。だから、頑張って捕まえてね」
「……頑張るよ」
 彼は神妙な顔で頷いた。生真面目に答える彼が可笑しくて、ターニャはくすくす笑った。
 けれど、本音だ。
 自分の心がとても自由なのを、ターニャは知っていた。その自由度が高いほど、巫女としての実力も高いことになる。それだけ自由に多くの存在と心が通うためだ。
 そのために彼女は心を澄ましてきたし、積極的に自由を求めて生きてきた。
 けれど――
 ある時ふと、ターニャは気付いた。
 自分があらゆる執着を失いかけていることに。
 それはほとんど手遅れだった。
 今の彼女には、死とすら心を通わすことができる。
 それが何を意味するか――
 存在の枠、生死の枠、時の流れの枠。そういった全ての枠から解放された時、彼女は拠り所を失っていた。
 こわい、と思った。
 それすらもたいして強い思いではない。
 けれど、彼女は必死にそれにしがみついた。
 この恐怖をなくしてしまったら、もう、自分は人間ではなくなってしまう。
 それを直感的に察したからだ。完全なる自由への恐れを、彼女は強く意識した。
 彼女は本心から、今何かに束縛されたかった。
 自由なのは悪いことではない。けれど、それは生きることでもない。
 彼女は生きたいと思った。そのために生まれてきたのだから。
 彼を見た時、この人なら、彼女を捕まえ得ると――そんな気がした。
 だから近付いた。
 彼は彼女を好きになったようだ。彼女の方は、彼を捕まえたらしい。
 しかし、彼の方は――

     *

 木々の間を軽やかに、楽しそうに歩く彼女をサリスディーンは幸せな気持ちで眺めていた。多分、これが愛しいという感情なのだ。
 最近では時々、彼女を抱きしめたいと思うこともある。
 けれど――
 自分があまり、色恋沙汰が得意でないのは自覚していた。そして、ひどく難しい相手を好きになってしまったことも。
 後から知ったのだけれど、彼女に思いを寄せる学生は、決して少なくない。彼と同じく可憐さや華やかさ、色香からは縁遠い彼女がなぜこれほどに、と思うくらいだ。清楚で綺麗な女性だが、その容姿はむしろ地味で、性格もクールなのに――
 それは、彼女がいとも簡単に相手を理解し、認め、好意を与えるからだと最近気付いた。
 それはいいとして、問題は誰にも彼女を捕まえることができない、ということだ。
 彼女には相手の本質を見抜く力がある。それを認め、好意を持つことができる。
 存在そのものを肯定されて、嬉しくないわけがない。おかげで、彼女に入れ込む男は大勢いる。しかしながら、逆に彼女を理解できる者、となるとほとんどいないかった。その心はいつでも開かれていて、どこまでも踏み込めそうなのに、どこまで行ってもつかめない。つかみ所がない。
 とても不思議な少女だ。
「先輩、エマの魔法使いって、知っている?」
 ふいにターニャが話をふった。
「いや。何だい?」
「私たちの一族は、もともと内陸にいたの。優れた魔術師を多く排出していて、いつからか『エマの魔法使い』と呼ばれるようになっていた。でも、代を重ねるうちに一族の力は衰え、魂も高潔さをなくしていった。やがて希代の魔術師が減り、時には人を苛む魔術師が出るようになった」
「『魔術師狩り』……!?」
 サリスディーンは思わず声を上げ、ターニャを見直した。
「そう」
 ターニャは短く答えた。
 魔術師狩り。内陸で数年前に起きたと言われる、魔術師の大虐殺。
 公主が強力な結界を張り、魔術を封じ、とある魔術師の一族を虐殺したという。
「存在を否定され、迫害と殺意の的にされた私たちは、選択をした。最後まで己を貫き、潔白と存在価値を証すために残った者。そして、その命を託され、一族の無念と存在を背負い、何をなくしても生きることを選択した者」
「君は……」
 彼女は少し寂しそうに笑った。
「十歳だった私には、どちらも選べなかった。どちらを選ぶ意味もわからなかった。両親が残ると知って、私もそうしようと考えただけ……。でも、自分で選べない者は死んではいけない、両親が残るからこそ生きなさいと言われたの」
「ターニャ……」
「私は生きたかったし、そう言われたから、従った。今ではあの選択の意味もわかる。今なら選べる。私は生きたい。だけど……」
 ターニャは困ったようにうつむいた。
「それがどういうことなのか、時々わからなくなるの。あなたも迷っているよね。魔道を極めたいと思いながら、その意味に」
「!」
 しばらく二人は立ち止まり、黙って見つめ合った。そよ風が吹き過ぎて行く。
 ターニャの栗色の髪が揺れた。サリスディーンの胸のリボンが揺れた。
「私を捕まえて」
 そう言って微笑む彼女を、その日も、彼には捕まえられなかった。


 W

「サリスディーン!」
 声をかけてきたのは同期の学生だ。サニエルと言って、もう一人、トラバスとの三つ巴で魔道技術科のトップ争いをしている。
 もっとも三つ巴と言っても、いつもトップはトラバスで、そのすぐ後ろに2人が続くというものなのだが、それについて、サリスディーンは特に思うところを持たなかった。他人の動向・競争にいまいち興味を持たない辺り、彼とターニャは良く似ていた。
「正気かい? 明日、彼女と出かけるって……」
 明後日が学期末の考査で、明日はその準備のための休日なのだ。その日にサリスディーンがターニャと出かけるらしいと聞いて、サニエルは真偽を確かめに来たのだった。
「誰に聞いたんだい? 間違ってる」
 サニエルはほっとした顔で苦笑した。
「そうだな、当たり前か。真に受けるなんて、どうかしてたよ」
 サニエルは熱心な学生で人なつこい。その健気な性格が幸いしてか、たいていの者と仲が良かった。トラバスともサリスディーンとも仲が良いのは彼だけだ。
「私は確かに彼女が好きだけれど、一方通行だ。彼女とは呼べないよ」
「え……そこが間違いなのかい?」
 ちょっと面食らった様子でサニエルが言う。
「ああ。出かけるというのは本当だ。ぜひ彼女に見せたいものがあってね。明日のために、きちんと考査の準備は済ませておいたし、彼女も大丈夫だと言うから、問題ない。応援してくれるかい?」
「え? あ、ああ……」
 サニエルにはちょっとわからない感覚だった。時間が許す限り、考査の準備はするものだと思っていたのだけれど。
 ついでにこんなに淡々と、真顔で「片思いだ」と言われても、「どの辺が?」と思ってしまう。まあ恋をした経験はないので、意外にこんなものなのかも……しれないけれど。


 彼はその後もちょくちょく彼女を外に連れ出しては、いろいろなものを見たり聞いたりした。
 全ての美しいものを彼女と見たかった。
 全ての楽しいことを彼女としたかった。
 彼はその度ごと、それなりに満足した。
 彼女もその度ごと、それなりに楽しんでくれていた。
 しかし、二人の関係は――。
 一向に進まなかった。
 出さねばならない問いの答えが、一向に見出せなかったように。


 X

「ターニャ、最近、神聖語を使わないそうだね」
 出会ってからどれだけたっただろう。ターニャは2年生に、サリスディーンは4年生になっていた。
「……うん……そうだね」
 彼女はどこか歯切れ悪く答えた。
「なぜ?」
 ターニャはじっとサリスディーンを見つめた。
「こわいの」
 え、と、サリスディーンもまじまじとターニャを見返した。その瞳は確かに何かを恐れている。
「――失敗するのが?」
 ターニャは入学以来、一度も祈祷に失敗していない。それを受け、周囲は彼女に過度なまでの期待を寄せるようになっていた。それが重いのだろうかと、彼は考えたのだ。
「ううん、違うの。こわい……祈祷するのがこわい。異質なものと、心を通わせるのがこわい」
 彼女の答えに、サリスディーンはびっくりした。一年前には、それがひどく楽しいのだと言っていたのに。第一、それではもはや巫女たりえない。
「心は通う。でも……通いすぎる。最近、相手に取り込まれそうになるの。自分が何者だったか、忘れてしまいそうになる。こわい……どうしよう、私……」
 ターニャはひどく声を震わせていた。そうかと思うと、涙をぽたりとこぼした。
 真珠のように輝くそれが、彼女の頬を伝い落ちて行く。彼女が泣くところなど、彼は初めて見た。
「どうしよう……私、消えてしまうかもしれない。自分がなくなりそうなの。こわいよ……!」
 胸にすがりついてきたターニャを、サリスディーンは思わず抱きしめた。
「ターニャ……」
 何をしてやれる?
 わからないまま、彼は彼女をこの世につなぎ止めようとでもするかのように、ただ抱き締めた。その存在を確かめるように、温もりを感じ取る。
「……あなたは生きている。……感じる。あなたは――」
 カッと、彼の言葉半ばに視界が輝いた。
 ほんの数瞬遅れて、大気を揺るがすような重低音が轟いた。
 その瞬間、サリスディーンの背筋をひどく不吉な予感が駆け抜けた。
 今のは――
「サリスディーン?」
 よほど血の気の引いた顔をしたのか。ターニャがどうしたのかと聞いてきた。
 どうしたって? どうもしない。ただ――
「何かしら、今の……」
 ドッ、ドッと、胸が不吉な予感にまともに反応し、強く打っていた。
 今のは、彼が卒業のために研究している魔道の、いまだ未完成なある術を、未完成なままに打ったらどうなるか。こうなるだろう、そう考えていた状況に酷似していた。
 彼はここにいるのだ。彼が打ったわけはない。
 けれど――
 資料は大学内の研究室だ。
 簡単な鍵はかけているが、アンロックの術を使えば容易に外れる代物だ。誰が盗むとも思わなかった。下手に盗んでも、難解すぎて読み解くだけも難しい。というか下書きだ。彼以外の者が見たのでは、よくわからないだろう。
 よくわからずに――
 それはひどく不吉な予感。
 未完成だとわからずに、完成しているつもりで打った!?
 ――まさか!
 彼は思わず駆け出していた。
 音のした方に。
「サリスディーン!?」
 ターニャの声も聞こえない。それはあまりに不吉な予感。
 術は、魔道技術科のそばの森で暴走していた。
 学生たちがよく、魔道実験を行う場所だ。
 茫然自失の体の、同期生が一人。
「ラヴェルナ!?」
 彼が声をかけると、ラヴェルナが蒼白な顔でふり向いた。そして叫んだ。
「どうにかしろ、暴走してる! おまえの術だ!!」
「何を……どうして私の術が発動してる!? あれはまだ未完成だ、止める方法などない!」
 ラヴェルナはぐっと言葉に詰まり、次の瞬間脱兎のごとく駆け出した。逃げ出した。
 なんてことを――!
 既に大騒ぎになっていて、教官や学生たちが急場しのぎの結界や中和魔道を使い、必死に止めようとしていた。しかし、術は抑え込まれながら膨張し続けている。
 危険だ。
 このままでは――!
 サリスディーンは必死に打開策を探したが、見つからなかった。当たり前だ。それが見つかっていれば術は完成している。それが見つからないから「未完成」だったのだ。
「サリスディーン!? どうしたの!? どうなってるの!?」
 走って追いかけてきたらしいターニャが聞いた。
「魔道が暴走してる。危険だ。君は一刻も早く逃げろ。――そ――」
 サリスディーンは真っ青になった。
「大変だ、ターニャ、すぐみんなを避難させてくれ。私はここで、少しでも暴走を抑えるから――!」
「抑えるって、止められないの!?」
「――止まらない、大爆発になる!」
 それが全てだった。
 術はもともと攻撃用のものではなかったが、歪みから歪みが生まれ、エネルギーがエネルギーを呼ぶ無限連鎖を内包していた。
 どれほどの被害が出るか――
 それ以前に止まるのか!?
「ターニャ!?」
 止まらない、と聞くと、彼女は森を正面に見据え、静かに上着を払った。
「止めるから、下がって」
「なっ……」
 巫女が魔術を止めるなど、聞いたこともなかった。
 そんなことができるはずがない。
 中和も結界も、それは全て魔術の領域だ。巫女が操るものではない。
 しかし、ターニャは玲瓏な声で呼びかけた。もちろん神聖語で。
『時空よ!』


 Y

 わかっていた。それが最も危険。
 時間や空間の心は、もっとも生命からかけ離れている。それに呼びかけるのは最も難しく、最も自由で、だからこそ最も危険なことだった。己を維持する上で。
 通う――!
 目を閉じ、半ば眠ったような状態で、彼女は呼びかけた。
『焦らないで。そんなふうに膨張したら壊れてしまうよ。落ち着いて――もとの状態に――』
 心が通う。
 祈りが届く。
 わかっていた。
 けれどターニャは構わず切り込んでいった。
 時空と心を合わせ、己の意思で相手を流す。
 彼女の意思は、確実に時空のそれを流していった。
 逆に、彼女はその存在を流されていた。
 彼女の心は半ば時空に同化し、己が何者だったか、ほとんど見失った状態になった。
「ターニャ!」
 それは音。
 音がした。
 音……。
「ターニャ!」
 魔術の暴走は止まっていた。あろうことか、彼女は魔術を「打たれなかった」ことにしたのだ。
 これほどの奇跡を起こした巫女を、サリスディーンは他には知らない。
 しかし、今はそれどころではなかった。
 ターニャが冷たいのだ。息をしていない。
 いや、それ以前に物理法則を無視して体が軽い。どういうことなのか。わけがわからない。
 彼女は――彼女は何と言っていた!?
 サリスディーンは強く彼女を抱きしめた。
 彼女をなくすまいとするかのように。
 彼女に代わって、彼女の体を維持しておこうとするかのように。
 本当に消えてしまいそうだった。彼女の体は異常に軽く、体温も鼓動も感じられなかった。
「ターニャ!」
 どんどん軽くなる。このままでは――
 サリスディーンは強く彼女を見据えると、意を決して彼女に口付けた。
 彼女の合意がないのだ。どんなことになるか。
 最悪、万が一にも彼女が巫女としての資質を失ったりしたら――
 それでもだ。
 彼女を失うくらいなら、構うものか。
 ――ターニャ、戻ってきてくれ、ターニャ!――
 必死だった。
 その手の中で、文字通り消えようとする少女をつなぎ止めようと。
 ――愛している、ターニャ!――
 口付けの存在感すら、もはや希薄だった。
 彼女の存在の薄さに、恐怖が胸いっぱいに満ちる。
 ――ターニャ!――
 ぱしっと、ターニャの手が彼の頬を叩いた。
 まだ存在感の戻りきらない、重さの足りない平手打ちではあったけれど。
「ターニャ!?」
「……サ……リス……ディーン……?」
 彼はぱっと顔を輝かせた。
「ターニャ!」
 しかし、まだ安心できない。
 まだまだ不安定だ。
「ターニャ、私はここにいる。あなたはどこにいる?」
 捕まえかけた少女を逃がさないよう、きつくきつく抱きしめながら彼は問うた。
「……あなたの……腕の中……?」
「そうだ。あなたはターニャだ。体に縛られている。だから面白いんだろう? 何を感じている?」
 彼女は茫洋とした顔でしばらく沈黙していた。
「……あたた……かい……?……あたたかい……」
 ふいに、ターニャの体に存在感が戻り始めた。温もりと重さを取り戻し始める。
「ターニャ!」
「サリスディーン……」
 彼女は初めて、彼に抱かれているのに気付いたような顔をした。しかし、案外心地良いのか、彼女は目を細めて彼を見た。
「あなたを……愛して……る……」
「ターニャ……!?」
 サリスディーンがびっくりして聞き返すと、彼女はあまりに無邪気に、罪のない笑顔を見せた。
「先輩が、そう思ってるの、感じる……」
「……え?……ああ、そうだね」
 ちょっとがっかりした。何の悪意もないようなので、怒るに怒れないのだが。
「ああ、愛している……」
 彼が言うと、彼女はふふ、と笑って言った。
「私も、あなたが好きだよ、多分……。捕まえてくれてありがとう……。だから、きっと、捕まえていてね」
 サリスディーンはまじまじと彼女を見た。
 彼女は幸せそうに笑っていた。
「ああ……ああ、頑張るよ」


 Z

 事後、ラヴェルナは退学になった。
 サリスディーンについては、大学の規定通りの研究管理をしていたので、お咎めなしだ。とはいえ、大学側は管理に関する規定の見直しを図るらしい。

「サリスディーン」
 いよいよ彼が卒業する日、ターニャがお祝いに来た。
「あなたの答えは見つかった?」
 彼が探しているのは魔道を極める意味だ。それを見つけられたかどうかは、卒業後の進路に大きく影響するだろう。彼は真面目だから。
 ターニャの問いに、サリスディーンは嘆息した。
「あの件以来、やはり、魔道など極めるべきではないと考えているよ。大きすぎる力は人の身には余る……」
「やめるの?」
「……ああ」
 ターニャは優しく笑うと、彼を大学内の中庭へと誘った。
「ねえ、サリスディーン。あなたが魔道を捨てても、『人』はそれを捨てないよ」
 サリスディーンは黙って彼女の後を歩いていた。
「あなたには才能がある」
 ターニャはくるりと身を返し、サリスディーンに向き直ると、例のかざきり羽を手渡した。
「見て。翠色になる。あなたも聖魔の末裔――聖魔には、人を導くための高い資質が与えられているの。道を選ぶのは人々だけど、人に正しい道を示し、未来へつながる道へと導くのが、聖魔の務め」
 サリスディーンはじっとターニャを見た。苦悩の色が濃い。
「……私に何ができる?」
 ターニャはにっこり笑って言った。
「魔道を極めればいいよ。誰よりも深く、広く、その道の効果と危険性を見極めながら。才の乏しい人は焦る。力を手にするために、その効果だけを追い求め、道を誤る。でも、あなたには才があるから余裕がある。何かの力を見つけても、むやみに手を出さず、先にその本質を見極めることに集中できる余裕がある。大切なことだよ。そうして、得た知識で人を導いて。魔道師たちが、危険な領域、破滅を導く力に取り込まれないように」
 サリスディーンは言葉もなく、ターニャを見つめた。
「……私に……それができるだろうか」
「できるよ」
 ターニャは真っ直ぐ彼を見つめると、花が綻ぶように笑った。
「あなたは私を捕まえてくれた。一年も二年もかけて、何があっても何がなくても動揺せず、ただ私を見て、できることを考え続けてくれた。あなたは努力することに、実らないかもしれない努力でも、疑問を持たない人なんだよね。だから、できる」
「ターニャ……」
 彼は一度目を閉じ、その上で、改めて彼女を見直した。
「わかった……あなたがそう言ってくれるなら、あなたのために努力しよう。あなたの生きる世界を、守り続けるために――」

 二人の手の中で、不思議なかざきり羽が優しく揺れていた。

* あとがき

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