聖魔伝説 外伝≪聖≫

ローレライ

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* T  U  V  W  X  Y  Y  Z  [  \  ]

≪2000.10.23完結≫

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 T

 カサリ
 茂みがかすかに鳴った。
 暖かい春の昼下がり。一人真剣に本に目を通しながら、彼は危なげもなく歩みを進めていた。せっかくの陽気だが、のんびりしている暇はない。
 彼の恩師でもある魔道技術の権威が、この春助手を募ったのだ。
 魔道力学を志す彼にとっては、一生に一度あるかないかのチャンスだった。
 知識を習得するにも、研究者としての未来を開くにも、これ以上に良い話はない。
 おかげで当然のように競争率は高かったが、その数度に渡る厳しい選抜試験を、彼はここまでどうにかクリアしてきていた。これまでに培ってきた知識と技術を総動員し、全力で臨んだ結果だ。
 しかし、現時点でトップに立つのは彼ではなかった。彼の同期で、秀才と呼ばれたトラバスだ。さすがにどこにも隙がなく、他の追随を許さない結果を出してきていた。
 だが。
 夢と誇りをかけて、彼も諦めなかった。そしてついに、つい先日の課題ではトラバスを抜く結果を出し、総得点でも僅差にまで詰め寄ったのだ。残る二つの課題で十分逆転可能な位置だ。
 そして、課題も四題目。受験者が心身共に参り始める頃合を迎え、ここからが本番と――彼、サニエルは改めて気持ちを引き締めていた。
 そんな昼下がり。
「きゃっ」
 突然彼の耳に飛び込んだ、鈴を転がすような澄んだ声。驚いて目を上げて、彼はまた驚いた。
 すぐ目の前に、夢にも出てこないほどの美女がいた。長い、長い、束ねてなお腰まで届く金の髪。それを揺らして、彼女は逃げるように身を引いた。
 とにかく美しい。その金髪はややけばけばしさを感じさせるような色合いだったが、そんなことなど気にならないくらい、彼女は神秘的かつ罪深いまでの美貌の持ち主だった。
 薔薇の唇が何か言いかけるようにわずかに動く。宝石と見紛うばかりの果てしなく澄んだ碧の瞳が、長いまつげの奥で憂いに満ちてけぶっている。
「あ……あ……」
 瞳に混乱の色を湛えて、彼女は追い詰められた者のそれで、前後を忙しく確認した。
「どうかなさいましたか?」
 サニエルが声をかけた時だ。林の向こうから、数人の男女の声が聞こえてきた。
「見つけたわ、こっち!」
「捕まえろ! 逃がすな」
 あれよあれよと言う間にばらばらと人が集まってきて、すぐに二人は五、六人の男女に取り囲まれた。
「逃げ出すとはまた随分だな、ローレライ」
 身なりもよろしく、どこか高慢な感じのする男が一歩前に出て言った。
「全くその通りね。いったい、何様のつもり? あんたみたいなどこの馬の骨ともわかんない娘が、貴族の愛人になれるってのに」
 今度はラメ入りレオタードに身を包んだ、いかにも芸人風の女。かなり気の強そうな、それでも結構な美人だった。
 ふと、サニエルは気付いた。今までその雰囲気に呑まれて気付かなかったが、ローレライと呼ばれた女性の方もなかなか普通ではない服装だった。追ってきた女のように露出度の高い服でこそないが……。初め豪華なドレスのように見えたそれは、近くで見ると実にいい加減な代物であるとわかった。布は見るからに安物だったし、ところどころにスパンコールなど散りばめられていて――何だか、急にわけのわからない腹立ちを覚えた。
「お願いです……見逃して下さい、どうか……」
 怯えきった様子でなされた彼女の懇願は、しかし一笑に付された。
「馬鹿なこと言ってるんじゃないわよ、あんた。座長への恩を、仇で返す気?」
 女に責められ、彼女は震えながら一歩後退った。その背がサニエルにぶつかる。野犬を前にした子うさぎのような怯え方だった。まるで抵抗力を持たない、子うさぎのような――
 その二人の他は貴族の護衛風の男たちで、今話題に上った『座長』らしき人物は見当たらない。
 なんだろう、すごく腹が立つ……。
 サニエルが黙って見ている間にも、例の男がさらに彼女に詰め寄ってきた。
「さあ、おとなしく帰るんだ」
「や……いや!」
 彼女は伸ばされてきた男の手をふり払うと、恐怖に瞳を潤ませながら、夢中でサニエルにしがみついた。
「助けて……助けて下さいっ! お願いです、助けて……」


 サニエルを除いた全員が呆れ返り、一瞬場が白けた。しかし、次にサニエルがとった行動は、さらに彼らの意表を突いた。
 サニエルはすっと、彼女を庇うように前に出て、彼らにきっぱりと言ってのけた。
「いやがっているじゃありませんか。どういう事情か知りませんが、女性一人にこんな大人数で、どういうつもりなんです?」
 事情は知らない、と言ったが、今までの会話などから予想がつかないこともなかった。彼女の美貌、そして追手の組み合わせ。おそらく彼女は芸団の一員で、どこかの女好きな貴族にでも見初められたのだ。そして、追われて――。こういう経路で貴族の愛人にされた女性の末路は哀れだ。散々弄ばれたあげくに美貌を失うか本妻に知られるかした途端、捨てられるのが目に見えている。
「お引き取り願えませんか?」
 妙に落ち着き払った青年の様子に、追手の者達は一様に違和感を覚えた。
「冗談も休み休み言って欲しいものですな。あんたが誰かは知らないが、関係のない方は口を挟まないで頂きたい」
 男が高圧的に言う。しかし、サニエルは怯むでもなく平然としていた。いや、わずかに頬が上気しているようだが――本人も含め、それに気付いた者はいなかった。
「関係なくなどありませんよ。聞こえませんでしたか? 彼女は私に助けを求めた」
 彼の背にしがみつくように隠れていた少女が、驚いた顔で彼を見る。彼は続けて言った。
「とにかく、私も暇ではないんです。もうすぐ大事な試験なのでね。ですから、お引き取り願えないなら、無理にでもそうして頂きます」
「――は? 今、何とおっしゃられた?」
 無理にでも、と聞こえたような気がするが――どう見ても真面目な学生、としか見えないこの青年が、この状況下、どう力押しできると言うのか。聞き違えたとしか思えない。
「お引き取り願えないなら、無理にでもそうして頂く、と言ったんです」
 彼は再度言い切った。はったりには見えないのだが、そんなことができるわけもない。だとしたら、もしかすると、この青年は少しおかしいのではないだろうか? あるいは、芸団切っての美女に「助けて」などと言われたのだ。冷静に見えるがこの手の人間はよく知らないし、実は浮かれて何が何だかわからなくなっている、という線かもしれない。
「あんた、おかしーんじゃない? やれるもんならやってみなさいよ。こっちはその子を放って帰る気なんてないんだから」
 例の、ラメ入りレオタードを着た女性が言った。サニエルがわずかに眉をひそめる。今庇っている女性にしろこの女性にしろ、どうもこういう――ちゃらちゃらした服は好きになれない。いや、今はそんなことを気にしていても始まらないのだが。彼女の言う通り、彼らに退く気は全くないようだった。当然ではあるのだが――
「ん?」
 サニエルの足元で、ふわっと落ち葉が舞った。まるで、そこから風が吹き出したかのように。
「まさか――」
 すぐに彼が何事か呟き出す。
「魔道師か!?」
 おおっ、と声が上がった。魔道師になど、滅多に遭遇できるものではない。魔道師自体が少ない上に、大半の魔道師は魔道都市・サン・エリスンに行って魔道師協会の一員となるか、王宮や貴族の専属となる。しかし、そういえば、ここカティラ・シティにはいくつか小さな魔道の研究所があるらしい、と聞いた気も……。
「見てないで取り押さえろ! 呪文が完成する前に何とかするんだっ!」
 男に叱責されて、やっと護衛らしい4人が動き出した。言われてみればその通り、この距離なら、呪文が完成する前に取り押さえるのも難しくない。
「なっ……!?」
 しかし、飛びかろうとした数人はその場でたたらを踏んだ。サニエルが懐から取り出した短剣を、あろうことかローレライに突き付けたためだ。
「は……はったりだ! 構わん、取り押さ……」
 そこで、指示を出していた男も言葉をなくした。サニエルが、短剣を少女自身に握らせたからだ。
 彼女の運命は、彼女自身で決めるものとでも言いたげに――
「貴様!」
 少女は最初こそ驚いたものの、すぐに彼の意図を理解した。彼女は震える両手でぐっとそれを握ると、なけなしの勇気をふりしぼって声を張り上げた。
「来ないで! 私、私……」
 彼女は左右にかぶりをふり、彼らを見た。
「何もかも好きにされるくらいなら、今この場で死にます!」
 追手たちは互いに顔を見合わせ、どうするんだと目配せしあった。あくまで生きたまま、それも無傷で捕まえなければ意味がない。
「ばか、できやしないわよ、捕まえなさい!」
 レオタードの女性が言った。男達が少女を見る。
 ああ、もうだめ――
 もはやこれまでと、彼女は目をぎゅっと瞑って短剣をふり上げた。
「っ!?」
 どきっとして、彼女はおそるおそる目を開けた。青年が、短剣を素手でつかんで止めていた。血がぼたぼた流れて――
水晶壁(クリスタル・ウォール)!」
 サニエルの呪文が完成すると同時に、2人と6人を何か、透明な壁が遮った。続けて、彼は再び呪文を唱え始めた。
「あ……?」
 壁に取り付いて何とか中に入ろうとしていた者たちをも巻き込み、爆風が球を弾いた。かなり乱暴に、それは空高く舞い上がる。
「……」
 あっという間に、水晶球は空の彼方へと飛び去った。


 U

 サニエルがローレライを連れて降り立ったのは、小さな家の庭だった。
 彼は呪文を解除すると、痛そうに利き手を押さえた。
「あ、あの、ああ……」
 ひたすらおろおろする彼女に、サニエルは軽く手をふって言った。
「このくらい、平気ですから……。それよりね、ローレライさん。あなたを助けるためにやってるのに、本当に死のうとするなんて――びっくりしましたよ。はったりで良かったんです。うまいもんだと思ってたら、本気なんだから……。心臓が止まるかと思った」
「え……」
 彼女は拍子抜けして彼を見た。
 そう。彼は別に、彼女に何かの覚悟を期待したわけではなかった。芸団の一員みたいだし、お芝居くらいは簡単だろうと思っただけで。
 彼は彼女を家に案内すると、ちょっと立って救急箱を持ってきた。とりあえず手当てしたい。
 傷は浅かったものの、利き手なのでやりにくかった。
「あの……手当て……やらせてほしいと言ったら、ご迷惑ですか?」
 彼女が言った。
「え?」
 彼はきょとんと彼女を見て、それから笑った。
「迷惑なんかじゃありません。それじゃあ、お言葉に甘えようかな」
 彼女は愛らしく微笑むと、彼の手を取った。彼女の華奢で優しい手。それに手当てしてもらって、正直、悪い気はしない。むしろ、サニエルは少し得した気分になった。
 間もなく手当てを終えると、彼女は静かに彼を見た。
「助けて頂いて、どうもありがとうございました。……あの、ところでここは……?」
「私の家です。両親は5年前に亡くなって……今は一人で住んでいます」
「お一人で……」
 彼女はどこか不安そうに辺りを見回した。
「何か?」
「あの……」
 彼女はちょっと口ごもり、それから真っ直ぐ彼の目を見て言った。
「どうして助けて下さったんですか? 私、お礼は何も……」
「どうして……?」
 つぶやいて、サニエルも首を傾げた。そういえば――
「そうですね、どうしてかな――……助けてと言われたから、かな?」
 生真面目に答える青年の顔を、まじまじと見つめて。彼女はその答えに、極上の笑顔を見せた。
「本当に、ありがとうございます!」


 彼の家は、簡素で小さな木の家だったが、優しく落ち着いていて居心地が良かった。その家と同じように簡素なお昼をとりながら、二人は互いに紹介しあった。
 まず、ローレライ。
 彼女はもともと捨て子で、8歳の時に今の芸団の座長に拾われたという。「座長は本当にいい人なんです」と彼女は何度も繰り返した。今回のことでも、貴族には逆らえないから庇えないけれど、せめて――そう言って、逃がしてくれたのは座長だと言う。
 一方、サニエル。
 彼は極めて一般人で、違うことと言ったら魔力があることくらい――いや、仮にもエデミランという最高学府の学生だ。知性もそれなりには高い。しかし、その魔力も知性も基本的に優秀の域で、天才の域には届いていない。すなわち、一般人なのだった。
「ところで、この後はどうなさるおつもりですか? あては?」
 痛い所を突かれたらしく、彼女は困った顔でうつむいた。
「それが……こうなった以上、芸団に戻るわけにもいかなくて……」
「……」
 サニエルは思案しながら、しばらく彼女を見つめていた。
「――あなたさえおいやでなければ、ここに滞在されても構いませんが」
 彼を見つめる彼女の瞳は、あまりにも純粋で無防備で――人を疑うことを知らない者のそれだった。ちょっと、無造作に放り出せない。
「え!? あの、いいんですか? 本当に?」
 やっぱりだめだ――
 サニエルはやや沈痛な気持ちで彼女を見た。こんなに世間知らずで可憐な女性だ。外に放り出そうものなら、いったいどれほど過酷な定めが待ち受けるか。想像にかたくない。
 だめだだめだ、そんなのは。
 ゆえに、サニエルは優しく笑って頷いたのだった。
「ああ、ただ、今は大事な試験があるので……。しばらくはたいしたお構いもできませんが」
 彼女は嬉しそうにかぶりをふった。
「いいんです、そんなこと。私も、できるだけ早く自立できるようにしますから……それまで、お願いします」
 サニエルは立ち上がると、一度奥の部屋に引っ込んだ。自分が彼女の最後のセリフを、少し残念がっていることにはまだ気付いていなかった。
 サニエルが戻ってみると、彼女はお昼の後片付けをしていた。そうしろと言ったわけでもないのに――何だか嬉しくなって、彼は思いつきを早く実行してみたくて仕方なくなった。
「こちらに着替えませんか? お風呂も勝手に使って下さい。私は奥の部屋にいますから、着替え終えたら見せに来て……あ、いや……」
 ローレライはきょとんとした顔をしていた。サニエルが、何をあわてているのかわからない。
 サニエルが差し出したのは、彼の亡き母が着ていた服だった。着古されてやや色褪せたものだったが清潔だし、何より他に彼女に着られそうな服はない。
 それはそうと人間、一度混乱するとなかなか立ち直れないものらしく――あどけない目で見つめられ、サニエルはますます混乱してしまった。その上自分の顔が赤そうなのも気になって、もうどうしていいやらわからない。彼はとにかくそれを彼女に押し付け、そのまま逃げるように奥の部屋へと引っ込んだ。
 彼女はしばらくきょとんとしていたが、やがておかしそうにふっと笑った。言われた通りに化粧を落としてからそれを着てみることにし、洗面所へと向かう。


 V

 ザアァァァ
 シャワーの音が気になって、論文にほとんど手がつかなかった。誰か家にいる、というだけなのにこんなにウキウキしてしまう。
 だめだ、浮かれている場合じゃない。しっかり書かないと。
 しかし、そう自分を叱咤するそばから、あの服を身に着けた彼女を想像してしまって……結局論文は手につかない。
 あれで化粧が落ちたらどんな感じだろう、ずっといい感じになるはず――
 そんなことばかり考えてしまって、ちっとも進まない。けれど今年で二十三だというのに、今まで浮いた話の一つもなく、魔道力学一筋に生きてきた彼にとって、しかも一人暮らしが長かった彼にとって、この状況はあまりに新鮮だった。
 だめだ、だめだ、何をやって……。
 サニエルは余計な考えを追い払うように頭をふった。こんなことでは、せっかく追いついたのに、また引き離されてしまう。
 背後で軽いノックの後に、カチャリ、と扉の開く音がした。サニエルは期待に弾む胸を持て余して、ふり向くにふり向けない。
「あの……」
「や、やぁ」
 何とも間抜けな声を出して、彼はやっとふり向いた。そしてそのまま、開いた口がふさがらなくなった。そこにいた彼女は、彼のどんな想像すら越えて美しかったのだ。あんな質素な服を身に着けているのに――いや、待て。その前に、何か決定的に印象が違って……。
「え……? その髪……」
 彼女は困ったように視線を落とし、じっとかき寄せた長い髪を見つめた。それはもう輝くような金色ではなく、美しく艶やかな、けれど冷たい銀色だった。そう、あれは染めていただけなのだ。
「あの、騙してたつもりは……その、あれは舞台用のメーキャップで……」
 彼女はいつになくしどろもどろに答えながら、ついにその瞳に涙さえ浮かべた。
「私……私……」
 サニエルは無意識のうちに彼女に伸ばしかけた手を、はっと引っ込めた。絞り出すような感嘆の声を上げる。
「すごく、綺麗だ……どうして泣くの?」
「だって……銀の髪は不吉だって、みんな……」
 彼女は過去の悲しみと、この髪のせいで見捨てられるかも、という切迫した思いの入り混じった瞳で彼を見た。
「捨てられた近くの村で腫れ物のように扱われて……引き取ってくれると言って下さったのは、座長さんだけだったんです」
「……? それって、どこの話?」
「え……?」
 見上げる彼女の顔は、化粧を落とすと初めの印象よりずっと若いようだった。二十代半ばくらいかと思っていたが、二十歳になるかならないかというところだ。
「私はそんなこと、聞かないけどね。確かに、銀の髪は数奇な運命の証、と言われることもあるし、銀髪は珍しいのに、英雄や大悪人に多いらしいけど……。私はそういう迷信は信じていないんだ。それに、この辺りでは、銀髪だからといって不吉がられはしないはずだよ。むしろ重宝されるんじゃないかな」
 彼女の目に、はっきりと驚きの色が浮かんだ。よほど意外だったらしい。
「それより……いや、その……」
 サニエルが、何やらひどく言いにくそうに言い淀む。その間に、彼女は改めて、自分の長い髪を見直していた。不吉じゃない――?
「えーと……その髪、触ってもいいかい? いや、いやならいいんだ……けど……」
 彼女はきょとんと彼を見た。
「あ、どうぞ……髪くらい別にいいですよ?」
 許しを得て、あの髪に触れてみたい、という衝動を抑える必要がなくなると、彼は恐る恐るそれに手を伸ばし、すくってみた。サラ、と滑らかに銀の糸が手の中ですべる。
 なんて、綺麗なんだろう――
 彼は心からそう思った。こんな美しいものに触れている自分が、ひどく罰当たり者に思えてくる。
 それでも、彼はそれに触れるのをやめなかった。続けて、すくった髪に指をからめる。髪は滑らかにしなやかに、その指の間をすり抜けて逃げていった。
「綺麗だ、本当に……どうして、あなたみたいな人が存在するんだろう……」
「そんなに、綺麗ですか?」
 問われて、サニエルは静かに頷いた。いつまでもその髪に触れていたくて、なかなか指が離せない。彼女が嫌がらないせいもある。
「あの……でしたら、お礼に差し上げます。こんなに長くても、動きづらいだけですし」
 ――え?
 彼女の言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
「な、とんでもない! そんな……切るなんて言わないで下さい、もったいない」
「え……そうですか……? このままの方が?」
「ええ、そのままの方が」
 言った後、サニエルはふいに我に帰って自分の言葉に赤面した。彼女には、わかっていないようなのがありがたい。
 ――あ?
 急に目が眩んで、彼は崩れるように椅子にぺたんとかけた。信じられない。こんな――彼女を抱き締めたいと思っている。欲望がどんどんエスカレートしていく。
 彼は生まれて初めて、自分を怖いと思った。あるいはおぞましいと。
 何も知らない、わからない、あまりにも純粋で無防備な少女だ。
 触れていいわけがないのに。
 だめだ、このままではいずれ……いずれ、抑えられなくなる!
「あの、大丈夫ですか?」
 サニエルは彼女の声にびくっと身を震わせ、喘いだ。目が合わせられない。自分の鼓動の音が彼女に聞こえやしないかと、ひやひやする。
 相当追い詰められた状態で、それでも彼は言った。やっとのことで。
「済まない……気分が悪いんだ。居間の隣の部屋、使っていいから……一人にしておいてくれないか? 気分が悪くても、論文は書かないとならないし……」
 そうだ、論文……。
 少しだけ、彼は落ち着きを取り戻した。論文だ。論文を書いていればいいのだ。もとよりそうするべきなのだから。
 その後、彼は夢中で論文を書いた。昼間、彼女に関わったことで遅れた分も取り戻すほどの勢いだった。何かに憑かれたように、彼はとにかくなすべきことをやった。疲れて、眠りに落ちるまで――


 W

 黒髪に蒼い目、なんて冷たい色――
 翌朝。サニエルは顔を洗って顔を上げ、ふと鏡の中の自分を見た。冷たく、無機質な人間に見えた。こんなことを思うのは初めてだ。今まで、一度として気にしたことのなかったことなのに。
「あ、おはようございます。朝食、できてますから。よろしかったら食べて下さい」
 ふいに声をかけられ、サニエルはあわてた。
「あ、ありがとう。ええと……昨日はよく眠れた?」
 彼女はその言葉に、くすっと笑って頷いた。まるで花が綻ぶように笑う。思わず目を奪われ、サニエルがじっと見入っていると、彼女は小首を傾げた。
「あの、何か……?」
 しまった。サニエルは内心ひどく動揺しながら、用を探した。それが見つからないでいるうちに、
「昨日、ずいぶん夜遅くまで起きてらしたから、寝不足なんじゃないでしょうか。お体、大事になさって下さいね」
「え……? ああ」
 彼女の方から聞いてくれた。
「ありがとう。大丈夫だよ、そんなに遅くまでは起きてなかったし」
 彼女が安心したように微笑む。
 サニエルはまた、彼女に見惚れてしまった。あまりに愛らしくて。
 これは……。
 心を揺らさず、落ち着いて臨まなければ結果の出ない試験のさなか、大変な拾いものをしてしまった。窮地だ。
 ――いや、大丈夫、大丈夫――
 サニエルは軽く胸を手で押さえると、ほう、と息をついた。


 朝食の後、彼は居間の机に書斎から何冊もの分厚い本やらノートやらを運び込み、早速論文に取りかかっていた。晴れた日の午前中は採光、風通し共に良い居間で過ごすのが常だった。
「論文ですか? 学校の?」
 お茶を運んできたローレライの問いに、サニエルはちょっと手を休めて答えた。
「違うよ。実は、とても優れた博士が助手を募集されているんだ。希望者が殺到してしまって、試験で選ぶことになってね。これはその内の一つ。一生に一度あるかないかのチャンスだし、一度あの人の下で、直接あの人柄に触れてみたいと思っていたから……どうしても受かりたいんだ。だから頑張ってる。難しいけど、私の夢だからね」
「夢……」
 ローレライは不思議そうに、あるいは羨ましそうに彼を見た。それから言った。
「素敵ですね、頑張って下さい」
 サニエルは無性に嬉しくなって、機嫌良く頷いた。それからふと。
「ああ、一つ気が付いたんだけど、貴方の名前……ローレライって言うと、確か伝説の美女の名前だね。知っていた?」
 とたん、彼女はぷっと吹き出した。
「あ、済みません。そういえば名乗っていなかったんですね。私はセリュージャ。『ローレライ』は、芸団でやっていた役なんです」
 サニエルはぽかんと彼女を見た。彼女はスっと向かいの椅子に腰かけ、その長い髪を手に取った。それからゆっくり、それを梳くような動作をしながら、リュートさながらの美声で歌い始める。
 その歌声の美しさたるや、他に比肩し得るものなどあり得ない程――
 彼女の澄んだ歌声を聞きながら、サニエルはそこにいるのが真に、ローレライなのではないかと疑ってすらしまうのだった。ローレライ。それは美しい乙女の姿をした魔物で、その美貌と魔力すら持った歌声で、船乗りを迷わせ、その船を沈めてしまうという――


 X

 彼女を滞在させてから、乱れがちだったサニエルの生活は、まるで冗談みたいに規則正しく、健康的になった。
 朝はもともと早い。これは変わらない。
 変わったのは食事だ。朝と昼はまともなものを食べないことが多かったのだが、彼女が文句も言わずに作ってくれて、しかも片付けまでしてくれるので、きちんと食べるようになった。食べたくないわけではなく、作るのが面倒くさくて食べなかっただけの彼としては、これには素直に感謝せずにはいられなかった。
 午前中に軽く前日に作った資料をまとめ、昼食を取って。
 午後は腹ごなしも兼ねて、彼女を色々な場所に案内する。
 世間知らずな彼女は物の相場も知らないので、買い物の仕方から教えた。何が必需品で、何が贅沢品なのか。入ってはいけない店、用がなくても入っていい店……。
 本が好きだと言うので図書館にも案内した。ただで本が借りられると聞いて、彼女はひどく喜んだ。
 いずれ働き口も探さなければならないのだが、まずは生活が先だと思い、それは後回しにしている。今の世間知らずぶりで、まともな仕事になるとは……いや、できる仕事はあるだろうが、身の守り方がわかっていない彼女を、とても一人では外に出せない。頭はいいようなので、一ヶ月もこんなふうに案内していれば、一人で行動しても問題なくなるとは思うけれど。
 ……それまでの縁かな……。
 彼女ののみ込みの良さを、彼はあまり素直には喜べなかった。
 手放したくないのだ、彼女を。
 彼女には彼女の人生があるのだから、そういうわけにはいかない。
 彼とて、この試験に通れば晴れてセティス博士の助手だ。彼女に構っている暇はなくなる。
「サニエルさん」
 セリュージャは花畑を見つけると、嬉しそうに中に入ってくるりと回って見せた。
 銀の髪や柔らかいスカートがふわりと広がって、まるでフェアリーだ。
 彼は適当な花を一輪手折ると、そっと彼女の髪にさした。
 綺麗だった。
 セリュージャがはにかんだように微笑む。まるで天使のように。
 一、二時間ほど外を歩くと二人は小さな家に戻り、別々に午後を過ごす。
 サニエルは論文に取りかかり、彼女は夕食の支度まで読書をしたり、花に水をやったりする。それから猫。彼女は餌付けした猫にご執心で、サニエルに構ってもらえない間は、その猫をそばに置いて過ごすことが多かった。猫がいない時は鳥でもたぬきでも。彼女は驚くほど、鳥獣を手なづけるのがうまかった。
 夕食を挟み、また机に向かう。時間がない。昼間彼女と過ごす一、二時間を除けば、サニエルは一日中机に向かっていると言って良かった。こんな無茶をするのは、もちろん試験中の今だけだけれど。切羽詰まりながら課題に当たるのも、今は苦痛ではなかった。彼女のことを考えてしまうと、その方がよほどつらいのだ。自分のものにしてしまいたくて、その気持ちを抑えるのがつらい。それを恐れたせいか、彼はかなりの集中力で課題に当たれていた。

「――……」
 課題提出を間近に控えた夜遅く。うつらうつらしていた彼に、セリュージャがぱさっと毛布をかけた。
「あ……」
 行こうとした彼女を、サニエルは思わず引き止めた。
「……え? あ……。ごめんなさい、起こしちゃったんですね」
 彼の瞳には、疲労の色が濃い。この際だから、ついでに寝床まで歩いてもらえないだろうか。これ以上は体に悪いと思うのだ。
「……セリュージャさん、少しだけ、そばにいて下さいませんか……?」
 彼が言った。
 ――そばに?
「ここに……いたら?」
 サニエルが頷き、遠慮がちに彼女の手を取る。
「……少しだけ……あなたに触れていたい……」
「……」
 彼女はしばらくの間、おとなしくそこにいた。
 サニエルはひと時とはいえ彼女に触れることを許されて、それに感謝しながらその手を押し頂いた。細くて白くてなめらかな、小さな手。いつまでも触れていたいけれど……。
 間もなく、彼女が身ぶりではなしてほしいと訴えたので、彼は手をはなした。
 少し胸が痛い。
 もう、触れられない……。
 彼女は静かに彼の背後に回ると、ふわりと。
 その細い腕で彼を抱き締めた。
 ――え!?
 そうしたいと思ったままに。
 駆け引きのかけらもない自然な動作で、彼女は彼の肩に顔を埋めた。
 ――あ――
 彼女の存在が甘い。愛しい。
 心の全てを奪われながら、彼はなお、それに気付かなかった。
 ただ苦しい。
 彼女が彼のものではないという、ただそれだけのことが、信じがたいほど苦しかった。
 彼を優しく抱える細い腕を、彼はぐっと握り締めた。
 手放したくない。失いたくない。
 今この時が、永遠に続けばいいのに――


 Y

「セリュージャ!」
 四題目の課題の結果が発表された、その日。帰宅したサニエルは、喜びもあらわに彼女を高く抱き上げた。
「あなたのおかげだ、私がトップだ!」
「本当!?」
 セリュージャが驚きながらも、嬉しそうに笑う。
 彼はくるりと彼女を宙で回した。
 セリュージャが楽しそうに明るく笑う。
「ありがとう、本当にあなたのおかげだ、あなたは私の幸運のフェアリーだ」
 彼は彼女に怪我をさせないよう、細心の注意を払って彼女を下ろすと、懐から何か取り出した。
 セリュージャが興味深そうに覗き込む。
「これをあなたに……」
「何ですか? 開けても……開けてもいい?」
 わくわくしながら彼女はそう聞いた。
「ええ。開けて下さい」
 小さな包みを開けると、紺のビロード張りの、可愛らしい箱が出てきた。
 さらにそれを開ける。
「あ……」
 指輪だ。
 彼女の瞳の色と同じ、碧色の小さな石のついた指輪。
 彼女はひどくびっくりした。宝石店で見かけて、ずっと心惹かれていた物だ。宝石は贅沢品だから買えないと言われたので、手に入れることはあきらめていた。それでも、彼女は彼の目を盗んでは宝石店に行って、この石を眺めていた。
 精霊石、という特殊な石の指輪だと、店の主人が言っていた。
 透き通った碧の石。
「気に入って頂けましたか……?」
 彼の問いに、彼女は屈託のなさすぎる笑顔で答えた。
「ええ、とても。ありがとうございます、嬉しい……」
 その笑顔があまりに愛らしくて、彼も嬉しくなってしまう。
 しかし、彼は気を引き締めた。いや、勝手に引き締まった。
 言わなければならないことがあるのだ。とても覚悟のいること。
「セリュージャさん……」
「はい?」
「もし……もし、よろしければ私と結婚して下さいませんか?」
「!」
 セリュージャはびっくりして、無意識に手を口許にやった。
「け、結婚……?」
 何だか不思議な響き。幸せな響き。怖い響き。セリュージャはどきどきしながら、何とも複雑そうな顔をした。嬉しそうにも見えるが、はいと答える顔でもない。
「これは……この指輪は、エンゲージ・リングなんですか?」
「――はい」
 エンゲージ・リング……
 セリュージャはさらにどきどきした。嬉しい。彼女にこんなものをくれる人がいるなんて。しかも、こんなに素敵な人が……。
 夢じゃないかしら。
 お姫様にでもなった気分だ。
「答えは……すぐでなくて構いません。いつまででも待ちますから……ゆっくり考えて、結論が出たら教えて下さい」
「はい」
 なんて優しい人だろう。
 セリュージャはうっとりした。
 劇団ではいつも急かされて、責められて、つらい思いをたくさんした。
 けれど、彼は座長さんのように優しい人だ。
 その彼が……。
 彼は言うべきことを言うと、逃げるように書斎に引っ込んでしまった。そうだ、確か、まだ最後の課題があると言っていた。でも、きっとあの人なら大丈夫だ。


 セリュージャは部屋に戻ると、うきうきしながら指輪を見た。どうしよう。
 頭が良くて優しい人。魔法も使える素敵な人。あの優しい、蒼い目が大好きだ。
 そんな人が、彼女にプロポーズしてくれるなんて……。
 どうしよう。
 彼女はにこにこしながら指輪を弄ぶ。
 この指輪をはめたら、私はあの人のものになるのかしら?
 嬉しいような、くすぐったいような、少しこわいような。
 結婚、しちゃおうかなあ……。


 夕飯の支度ができたので、彼を呼びに行って。
 そのついでに、セリュージャはどきどきしながら尋ねてみた。
「サニエルさん、もし結婚したら……ずっと、そばにいて下さいますか?」
 彼は少し驚いた顔で彼女を見て、すぐに笑って言った。
「もちろんです」
「じゃあ、ずっと……ずっと、守ってほしいと言ったら……? ご迷惑ですか?」
「まさか! そんなこと――私の方が、あなたを守りたいんです」
 素敵だ。
 嬉しくて、つい笑みがこぼれる。
 どうしよう。もう他に聞くことはない?
 もう答えを出せる?
「ずっと……今と同じ顔で、私に笑いかけて下さいますか……?」
「――あなたがそばにいて下さるなら」
 セリュージャは嬉しそうに、花が綻ぶように笑うと、彼の腕の中に体を預けた。
 サニエルがびっくりしながらも、彼女をぎゅっと抱き締める。
 温かい。
 ずっと、この腕の中に――
「や……いやあああああっ!」
 突然身を震わせたかと思うと、彼女は甲高い悲鳴を上げて彼を突き飛ばした。
 なくした。なくした。これと同じもの。
「セ、セリュージャさん!? すみません、てっきり、抱いてもいいのかと思って……すみません、本当に……こんなつもりでは……」
 彼女は大きく横にかぶりをふると、大粒の涙を流しながら彼を見た。
「私……私、捨てられる前のこと、覚えていないんです。でも……」
 大事な人を、大事な人が、殺した。
 父が母を?
 わからない――
「私を置いて……私を置き去りにしたり、しない……?」
「……」
 彼を見上げる彼女の瞳は、痛ましいほど傷ついていた。そして美しかった。
「当たり前です。そんなこと、問わないで下さい」
「私が……私がどんなにあなたを傷つけても、嫌いになったりしない……?」
 サニエルは優しく彼女を抱き締めると、言った。
「あなたが望むなら」
 セリュージャはぎゅっと彼にしがみつくと、気が済むまで泣いた。


 Z

「127  250  251  ……」
 サニエルは自説に基づく推定値と、たった今とったばかりの実測値を比べ、ぱしんとメモ紙を打った。
「よし」
 抑えきれない微笑が漏れる。結果が出た。これは、今の彼に成せる最高の出来の最終課題を提出できそうだ。これでだめなら悔いはない。
 サニエルははやる気持ちを抑えて実験室を片付け、それが終わるやいなや上着を取って駆け出した。
 今日は必要な実験を行うため、大学の方に来ていたのだ。一刻も早く家に戻って、セリュージャに報告したい。


 息を切らしながら家に戻ったサニエルは、門前に見知らぬ人影を見た。
「何か……?」
 いたのは人の良さげな初老の男で、何か長いものを布でくるんで両手に抱えていた。
「ああ、この家の方ですか? ここに、セリュージャという娘がいないでしょうか」
「いますが……何か?」
 彼はかなり警戒しながら聞いた。いないと言った方が良かったかもしれない。けれど、近所に聞き回られればそれまでだ。
 男は布でくるんだ荷物を示し、
「あの子の親の形見です。あの子に手渡したいと思いまして」
 そう言って彼の目を見た。
「あなたは……彼女がいた劇団の座長さん?」
「――ええ。聞いていますか?」
 彼はちょっと安心し、家の扉に手をかけた。
「どうぞ。上がって下さい」
 鍵は開いていた。
「セリュージャ!」
 玄関から呼んだが、返事はなかった。
 え――?
 鍵をかけ忘れてでかけたのだろうか。
 そう考えながら、いやな予感がした。
「セリュージャ!」
 もう一度呼び、彼は座長と顔を見合わせた。
 ふと、彼は隣人が玄関先からこちらをうかがっているのに気が付いた。
「あの、何か……?」
 隣人は彼を手招くと、
「サニエルさん、さっき、おかしな馬車が停まっていましたよ。あの子の悲鳴が聞こえて……。あの馬車、お役人の馬車だったんじゃないかねえ。そろいの制服を着た、お役人っぽい人たちが乗っていて……どこから来たのか知らないけど、あの子、何かしたんじゃないかねえ……違ったらごめんなさいね」
 そう言って肩を竦めた。
 サニエルは真っ青になった。
「なんて……ことだ……」
「じゃあ、あたしはこれで……」
 隣人はそそくさと隣家に戻った。
 力なく肩を落とした座長が、首を横にふる。
「可哀相に……」
 サニエルはとってきたばかりの資料をぐっと握ると、座長に尋ねた。
「彼女を拉致したのは、どこの貴族です? ご存知ですね?」
 座長は驚いた顔で彼を見た。
「まさか……どうする気で? もう手遅れだ!」
「まだわからない」
「相手は貴族だぞ!?」
 サニエルは強い意志を宿した瞳で座長を見た。
「守ると約束しました。助けに行きます」

     *

「ラドナック……」
 サニエルは行ったばかりの大学に戻り、資料室でラドナック家の領地の場所やら家系やら、ある限りの資料を集めた。
 ラドナック本邸は遠かった。
 縁の深い、この近くのミオ家に招待されたと見るべきか……。
 彼女を連れ去るとしたらどこに?
 彼は可能性と、取れる限りの手立てを考える。
「サニエル?」
 ふいに、声がかけられた。
「トラバス……」
 その顔を見て、こんなことをしている場合か?
 という声が聞こえた気がした。最終課題の期日まで、あと二日。
「おかしな資料を広げているな。何を調べてる? ラドナック夫人の……カーラデートか」
「カーラデート?」
「魔方陣を織り込んだタペストリーだ。確か、今、リバイルで開催中のカーラデート展に出品している。なんだ、違うのか」
「リバイル……」
 こんなことをしていては間に合わなくなる、そんな焦りがくすぶる一方で、サニエルははっとした。
「ありがとう、トラバス。恩に着る」

     *

 大急ぎで自宅に戻ったサニエルは、ふと机の上の資料を見た。
 あと3時間でいい。
 本当なら残り二日、目一杯使って仕上げるつもりだったが、3時間で形にしてみせる。3時間だ。仕上げて提出して、それから助けに行けば……。
 サニエルは短剣を取り、路銀を持ち、あまり持っていない魔法の品をかき集める。
 ――3時間?
 部屋を見直す。これ以上、準備するものはない……。
 彼はどこか悲壮な顔で、しかし不敵に笑った。
 3時間で仕上げられるなら後回しだ。今日中に彼女を連れ戻し、明日中に課題を仕上げる。決まりだ。
 それがどんなに難しいかは理解していた。
 確実に仕上がる課題を後回しにして、不確実な彼女の救出に赴くのが、どんなに非合理的か。
 ――不確実?
 とんでもない!
 女性一人確実に守れなくてどうするのだ。
 女性は当然守る。夢も叶える。
 それができないようなら、例え今試験に通っても、夢など叶わない!
 彼はもはや迷いを見せず、外套を羽織って表に出た。
 呪文を唱えて舞い上がる。
 ――セリュージャ、無事で……!


 [

「帰して下さい! お願い、帰して!」
「間もなくご主人様が参ります。おとなしくお待ちになるよう」
「待っ……」
 無慈悲に扉が閉じられ、外側から鍵をかけられて。
 セリュージャはどうすることもできず、心細げに部屋を見回した。
 知らない場所。
 天蓋付きのベッドがある。
 豪奢な化粧台がある。
 机もあるしクローゼットもある。
 どれも素晴らしいものだったけれど、それでもここにいたくはなかった。
 部屋が嫌いだ。落ち着かない。
 部屋の空気が……。
 気が狂いそうなほど嫌なものに満ちている。
 窓はあったけれど、高くて逃げ出せそうになかった。
 ――サニエルさん……!!
 彼女は出窓に手を突き、ぼろぼろ泣いた。
 ここは怖い。
 助けて――……。
 セリュージャは懐から小さな箱を取り出すと、震える手でそれを開いた。
 彼にもらった指輪。
 その石だけが、この場所でも彼女の味方だった。
 いつでも庇ってくれた。優しかった。
 何もできない彼女に、根気良く必要なことを教えてくれた。
 愛して……くれた……。
 彼女の笑顔を見て、あんなに嬉しそうに――
 涙がまたあふれる。
 もう少し、じらしていたかっただけなのに。
 彼女のちょっとしたそぶりに一喜一憂する彼を、もう少しだけ、見ていたかっただけなのに。
 彼女なりに、どういうふうに返事をしたら彼が一番喜ぶだろうと、一生懸命考えていたのだ。それはとても楽しい考え事だったし、彼をふり回すのも、とても楽しかった。彼がどんなに彼女を思っているか、すごく良くわかって……。
 答え方が決まっていなかっただけで、答えは決まっていたのだ。それなのに。
 彼の前で指輪を嵌める。それはとても楽しみだった瞬間だ。彼がどんな顔をするか、とても期待していた瞬間だ。
 けれど。
 彼女は静かに指輪を取ると、祈るような気持ちで左手の薬指に嵌めた。
 それは本当に大切な、彼と分かち合いたかった瞬間。
 それでも、もう彼女は彼のものだと。だから助けに来てくれると、信じたくて――
 誰かが近付いてくる気配を感じ、セリュージャは身を硬くした。
 扉が開き、彼女をいやらしい視線で眺める男が入室してきた。
 呼吸がうまくできない。
 どうしよう。どうしたら……。
 セリュージャは何もできない彼女自身に絶望していた。
「ふ……随分逃げ回ってくれたじゃないか」
 男がいたぶるように、追い詰めるように彼女にゆっくり近付いてくる。
「来ないで……か、帰して下さい! 私は、あなたのものでは――」
「私のものだが?」
 男は遠慮もなく彼女の顎を取ると、まとわりつくような視線で彼女を見た。気持ち悪い。
「この私が気に入ったんだ。逃げられやしない……じらされた分は、せいぜい、楽しませてもらうとしよう……」
「や……やめ……」
 セリュージャは必死に男の腕を外そうとしたが、それはびくともしなかった。
 男が唇を重ねようと、顔を近付けてくる。
 ――いや!!
 カっと何かが光った。
「うわっ」
 男は何事かと辺りを見回し、発光源を見つけた。彼女の左手で、指輪が眩しく点滅している。
「何だ、一体……」
 何が起こっているのかわからないのは、セリュージャも同じだった。ただ、ここに彼女の力になってくれるものがある――それだけは直感した。
 指輪は精霊石で、精霊使いにのみ使いこなせる石だった。彼女はそんなことは知らなかったし、サニエルとて、彼女に精霊魔法の素質があるなど知らなかった。
 セリュージャは何も知らないなりに、生命ある精霊石を美しいと感じたのだ。だから宝石店に通った。
 サニエルは何も知らないなりに、宝石店の主人から彼女がひどく気に入っている石がある、と聞いて。だからこの指輪にした。
 それは偶然ながら、必然だった。
「ふ……ふん、まあいい。夕食の後でじっくり可愛がってやるからな。覚悟しておけよ……」
 男は動揺を隠して捨てゼリフを吐くと、部屋を出て行った。
 指輪が何だ、あんなもの――
 飲み物に薬を入れて眠らせて、その隙に外してしまえば良いのだ。
 どうせ、誰も助けに来やしないのだから。


 \

 その夜。
 夕食と入浴を済ませ、思う存分、と彼女のもとを訪れたラドナック男爵は、窓際の椅子に座って、身を硬くしている彼女を見た。
 夕食には手をつけていない。
 セリュージャはただ、この状況化で食事など取る気にならなかっただけなのだが、男爵にとっては計算外だった。
「余計な手間をかけさせる……」
 男爵は苛立ちながら、部屋の入り口から彼女を見た。
 あの指輪は昼間、確かに光った。
 けれど、光っただけではないか?
 ただの飾りではないのか?
 しょせんアクセサリーだ。何かできるなら、とっくにしているはずだ。
 男爵はこけおどしだと判断し、彼女に再度近寄り始めた。

 セリュージャは進退窮まっていた。あれから必死に指輪に呼びかけたが、力の引き出し方はもとより、光らせ方すらわからなかった。
 ああ――
 セリュージャは逃げ場を求めるように窓を開けた。その行動に、男爵はかえって自信を得た。やはりこけおどしだ。
「どうする気だね? 下を見てみるがいい。闇しか見えないか――? 下にあるのは、鉄柵と街路樹だ。飛び下りようものなら、その白い喉に枝が突き刺さるかもしれないな――即死できなかったら、さぞ酷い苦しみを味わうだろう……」
 セリュージャの顔から血の気が引く。
 仮にも男爵だ、彼にはそれなりに人を見る目があった。この女性に、ここから飛び下りる度胸などない。せいぜい怖がらせてやれば、身動きできなくなるはずだ。
「何も、あなたを酷い目にあわせようというのじゃない。悦びを教えてやろうというのだよ……? すぐに、良い気持ちにさせてあげよう」
「いや……いや……来ないで 」
 ――サニエルさん!!
 瞬間、指輪が再度発光した。一瞬の光彩が闇の中、窓際の彼女の姿を幻想的に浮き上がらせた。
「ふ……はっはっは!」
 男爵はひとしきり笑うと、残酷な目で彼女を見据えて言った。
「やはり光るだけか! その光……私を歓迎しているのか? 素晴らしい歓迎だ。美しいぞ、ローレライ。歌ってみろ」
「……!?」
 もう何もわからず、彼女はただ身を震わせて窓枠にしがみついた。
「どうした」
 男爵は言うなり彼女の右手を引くと、窓枠から引き剥がした。そのまま、彼女の脇にその服ごしに指を這わせる。
「あぁっ!」
 セリュージャの悲鳴に、男爵は楽しそうに笑った。
「なんだ、男を知らんのか。可愛い声で鳴きおって……それとも、男を騙す手管かな?」
 男爵は試すように彼女の脇から背中、そして胸と彼女の体を撫でた。
「あぁっ……うっ……あっ……」
 セリュージャがどうにか逃れようと身悶える。
「随分感じるようだな、ローレライ。せっかくだ、もっと感じさせてやろう」
 男爵は一度彼女をはなすと、コポコポとグラスにワインを注いだ。
「面白い薬がある。口移しで飲ませてやるぞ」
 ワインを口に含むと、男爵は強引に彼女を引き寄せた。
「や――」
「やめろ!!」
 突然の第三者の声に、男爵は驚いて動きを止めた。
 どこから入ってきたのか、窓枠に見知らぬ男が手をかけていた。
「サ、サニエルさん!」
 セリュージャは夢中で男爵の手をふり払うと、彼に駆け寄った。
「サニエルさん! サニエルさん!!」
 彼女は夢中で彼にしがみつき、直後、火が付いたように泣き出した。
 サニエルはぎゅっと彼女を抱いて、怒りを込めた声で男爵に言い放った。
「嫌がる女性のかどわかし、立派な犯罪だ! 身分がどれほどのものか知らないが、この上彼女に手を出す気なら、法に訴える!」
 男爵はやっと硬直状態から抜けると、いきなり短剣を抜いて彼に投げつけた。
「な……」
 とっさにセリュージャを庇ったサニエルの肩に、短剣が深々と突き立った。
「っ……」
「ばかめ! 訴えるだと!? その女は私が芸団から買った、私のものだ! 貴様こそ不法侵入の罪人だ!」
「買った……?」
 サニエルが底冷えしそうな声音で言う。
「いずれにしろ、聞くに堪えない醜聞だぞ、ラドナック男爵。その上」
 彼は冷たい笑みを浮かべた。
「何か、勘違いされているようだ。私も彼女も異邦人――そして、私は魔道師協会に登録している……我々はあなたの故国の法廷ではなく、国際司法機関エスティ・グレードで裁かれる。そして、エスティ・グレードは人身売買を禁止している……」
「何……!?」
 サニエルは冷たい汗を流しながらも、不敵な姿勢を崩さなかった。ほとんどはったりだ。裁判は確かにエスティ・グレードで行われるが、エスティ・グレードとて諸国の有力者による出資で機能している。本当のところ、貴族有利は変わらない。諦めてくれればいいが――
「ふ……残念だが、死人に口はないぞ。死んでしまえばここは私の屋敷だ。貴様はただの不法侵入者――裁判沙汰にはならんな」
「そんなっ」
 セリュージャが悲鳴に近い声を上げる。
「ひどい! どうしてそんなひどいことを――!?」
 男爵はにやりと笑うと彼女に言った。
「どうだ、ローレライ。おまえは誰のものだ? おまえが私のものなら、私にその男を殺す必要はないぞ? うん?」
 言いながら、男爵は壁に飾ってあった長剣を取り、サニエルに突きつけた。
 一方、サニエルは肩に突き立った短剣を抜き、痛みをこらえて構えようとしていた。その際に、ふと彼女の指で何かが光っているのに気付いた。
 指輪――
 サニエルは優しい瞳で彼女を見ると、その手を取って静かに言った。
「セリュージャ、あなたは私のものだね? 構わないから本心を」
「そんな……」
「構わない」
 サニエルに静かに見つめられ、セリュージャは何も言えなくなった。
 彼女は恐る恐る男爵に向き直ると、震える声で告げた。
「私は、私はあなたのものではありません。……この人を……この人を、愛しています……」
 男爵は腹立たしげに目を座らせた。
「なるほど……その男を殺して奪ってほしいというわけか。良かろう」
 サニエルは静かに彼女を後ろに庇うと、短剣を構えた。
 痛みのせいで、うまく精神集中できない。これではあまり、魔術は当てにならない。
 短剣なんて扱い方もわからないけれど……。
 不利な要素はまだある。
 こんな男でも貴族だ。殺してしまえば彼に未来はない。
 それ以前に、痛む肩でどこまで刃物を振り回せるか。
 ほとんど絶望的な状況下で、彼は不敵に笑った。
「男爵、私は魔道師ですから……死ぬ時には呪います……」
「何!?」
 魔道師の何たるかがあまり知られていないのをいいことに、またはったりを言う。そんなことは不可能だ。
「ふん、で……できるものか……」
 男爵は強がりめいた口調でそう言った後、ずる賢く目を光らせた。
「できやせんさ。この私がわざわざ手を下すまでもない」
 言うが早いか、男爵は家人を呼ばわった。
「曲者だ! レディアかマイトを呼べ!」


 さて、いよいよ後がない。サニエルは肩の痛みをこらえ、呪文の詠唱に入った。瞬間移動の呪文だ。瞬間移動は契約地にだけ移動できる魔術で、現在は自宅と契約している。最後まで精神集中を乱すことなく唱えてしまえばこちらのものだが……。
 男爵が許すはずがなかった。
「させるかあっ!」
 男爵には何の呪文かわからないから、逆に必死だ。呪文を完成させたら殺されるかもという形相だ。
「うわっ……くっ……」
 男爵の剣の一閃を受け損ね、サニエルは体勢を崩して床に膝をついた。そのはずみに肩の傷が痛む。
「フン、話には聞いていたが本当に使えんな、極魔道師ではない魔道師と言うのは。こんなに簡単に呪文を中断してなあ?」
 極魔道師、というのは呪文の詠唱なしで魔道を操る、一クラス上の魔道師だ。
「く……」
「サ、サニエルさん……」
 セリュージャは真っ青な顔で彼のもとに駆け寄ると、目に涙をためて言った。
「もう、もういいです、置いて逃げて下さい。これ以上……」
「いやです」
 サニエルはきっぱり言うと、怪我のない左腕で彼女を抱き締めた。
「だけど、殺さ――!」
 バンと扉が開いた。
 これまでか――
 覚悟しかけたサニエルは、そこに待ちに待った者を見た。
「おお、来たな。さっそく――」
 片付いた、という顔でふり向いた男爵は、いきなり真っ青になった。
「イ、イザベラ……!?」
 侍従に扉を開けさせ、そこに毅然と立っていたのは美しくも高貴な女性だった。
「お、おまえ……カ、カーラデート展は? なあ?」
 もはや間抜けとしか言いようのない口調で、男爵はそれを聞いた。
「お聞きになりたいことはそれだけですの? あなたという方は――」
 彼女は怒りもあらわに男爵に詰め寄ると、ばしんと男爵の頬を平手打ちにした。
「買った!? 買ったですって!? 私にはドレスの一着も新調しないで、芸団の女風情を買ったですって!? 下賎の女を抱いたその手で、何くわぬ顔で何も知らない私に触れるおつもりでしたの!? 汚らわしい!」
「お、おまえ、なぜそれを……」
 彼女は何やら小さなものを取り出すと、サニエルに投げ渡した。
「面白いものをお持ちね。何と言う魔法の品なのかしら? 大変不愉快になりましたわ」
「え……?」
 男爵は呆然とその様子を見た後、怒りを通り越した目でサニエルを凝視した。
「まさか……」
「そのまさかですわ。あなたが浮気をしてらっしゃるという失礼な密告書と、その魔法の品を頂きましたの。信じられませんわ。このような事実無根の密告書、どこの不貞の輩が送り付けたのかと……懲らしめてやろうと戻りましたのに……!」
 彼女は目に涙をためて男爵を睨んでいたが、ついに涙を伝わせた。
「浮気者! お父様に相談致します! 実家に帰らせて頂きますわ!!」
「ま、待て! わしが悪かった!! なあおい、わしが悪かったったら!! 二度とせん! ちょっと待て、イザベラ!!」
 ツカツカと部屋を出て行く妻を追って、男爵もあわてて部屋を出て行った。
 廊下の向こうから、男爵が必死に妻をなだめる間抜けな声が聞こえてくる。
「クっ」
 サニエルは思わず失笑し、嬉しそうにセリュージャの手を取った。
「帰りましょうか、セリュージャさん」
 彼女もやっと微笑んで、次いで嬉しそうに頷いた。
「はいっ!」


 ]

 サニエルが気付くと、彼は自宅の寝台で横になっていた。
 あれ――?
 間もなく、サニエルは思い出した。あの後瞬間移動を使って戻ったまでは良かったが、そこで意識が途切れた。多分、出血のショックか何かだ。かなり血が流れていたから。
 まだ少し痛いし――
 セリュージャが手当てしてくれたのだろう。傷はきちんと処置されていた。
 ――期限!
 彼ははっと時計を見た。朝の九時。まだ間に合う!
 彼は急いで起き出すと、机に向かった。
 その気配に気付いたものか、セリュージャがぱたぱたと部屋にやってきた。
「サニエルさん! 気が付いたんですね!!」
「ええ、ありがとう。申し訳ありませんが、今は構わないで下さいますか? 時間がないので」
 彼女がどんなに心細かったか、察しがつかないわけではない。けれど本当に、この課題だけは上げてしまいたいのだ。自信作だ。これでだめなら悔いはない。
「サニエルさん……」
 セリュージャが悲しそうにうつむく。胸がズキリと痛んだ。
「……済みません、本当に……。ですが、今だけは後にしてほしいんです。どうか、わかって下さい。課題を上げたら、必ずあなたの気が済むまで付き合いますから――」
 セリュージャは静かに首を横にふると、まだ癒え切らないサニエルの手をいたわるように取った。気持ちは嬉しいのだけれど、今は構ってほしくない。
 部屋を出てもらおうと口を開きかけたサニエルに、セリュージャが震える声で言った。
「今日は……二十日です」
 二十日?
 期限の締め切りは、一八日だ。
 それはつまり……。
「私は……。私は、三日も昏睡状態で……?」
 セリュージャが目を潤ませて頷いた。
 サニエルは呆けたように論文を見た。二十日?
 終わった――
 彼は力なく書きかけの論文を手にとり、しばらく眺めて。それから、ばらばらとそれを部屋に投げ出した。
「サニエルさん……」
 終わった。
 彼は一度目を閉じると、微笑んでセリュージャを見た。
「あなたが無事で良かった……。心細かったでしょう? もう二度と、こんな思いはさせませんから……三日も……あなたが看病して下さったんですよね? ありがとう」
「サニエルさん……!」
 セリュージャは目に涙をためてサニエルを見た。
 あんなに頑張っていたのに。
 彼女のせいで夢破れたのに。
 こんなにひどい怪我までして、それなのに、どうして優しい?
「怪我などなさっていませんよね?」
「……はい」
 サニエルはつと、何か考えるように目を逸らした。
「サニエルさん?」
「今言うのは……卑怯かもしれないんですが……」
「何でも……何でも言って下さい。私にできることなら……」
 サニエルはそれでもためらった末、ふっきるような顔で彼女に言った。
「――あなたを愛しています。どうか、私と結婚して下さい」
 セリュージャはたまらず、両手で顔を覆って泣いた。
 それでも。
 それでも望んでくれるのだ。
 一言の文句も言わず、あの日のままに彼女を望んでくれる。
「はい――」
 彼女はその細い腕を彼の首に回すと、きゅっと抱きしめた。サニエルが優しく抱きしめ返す。
 やがて抱擁を解くと、彼は彼女の白く滑らかな、泣き濡れた頬に手を当てた。
 唇を重ねる。
 優しかった。
「愛しています、セリュージャ……。もう泣かないで下さい。私は本当に幸せです。あなたを妻に迎えられるなんて」
「でも……!」
 彼は静かにかぶりをふると、笑った。
「夢は、もっと大きく持つことにしますよ」
「……大きく……?」
 サニエルは立ち上がると、床に散らした論文を手に取った。
「博士の下でなくても、これなら――私なら十分通用するはずです。何もない所から、自力で研究所を興してみるのも楽しいかもしれない。セティス博士には助手としてでなく、協力者として関わればいい。メルセフォリアと交換できるほどのものを、きっと研究してみせます」
 そして、サニエルはやはりセティス博士は偉大な人だと感じた。彼にこれだけの可能性があることを、この試験そのものから教えてくれたのだから。
 試験には使えなかったものの、この論文はそのまま、彼の研究者としての財産にできるレベルのものだ。
「あ……」
 ふと彼は思い出して細長い布包みを取り出した。
「あなたがいなかった時、座長さんがご両親の形見だと言って持ってこられたんですが」
「形見?」
 包みを開いて驚いた。それは一振りの精巧な造りの片刃刀で、鞘にはどこかの紋が刻まれていた。
「この刀身……精霊石かもしれない。こんな見事な……」
 しかし、彼女はどこか青ざめた顔で、身を引いた。
「セリュージャさん?」
「あの……済みません、どこかにしまっておいて下さい、あまり、見たくない……んです……」
「……」
 サニエルは少し驚いた。指輪の精霊石にはあんなに熱心に見入っていたのに。
「わかりました」
 言われた通りにそれをしまうと、彼は微笑んで彼女の手を取った。
「とりあえず、せっかく試験も終わって天気もいいようですから、一緒に散歩をかねて大学まで行きませんか? セティス博士に連絡なしで期日を無視したお詫びをして、それからあなたを紹介したい……。一緒に来て下さいますよね?」
「はい」
 セリュージャがにっこり笑って頷く。

 外は春爛漫、咲き乱れる花々が、風に揺れていた。

* あとがき

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