セルリアード十二歳。リシェーヌ十歳。
運命の歯車は、既に狂い出していた――
黒髪を背中のなかほどまで伸ばした、十歳くらいの少女が郵便受けを覗く。そこに小さな封書を見つけると、彼女は大事そうにそれを取り、胸に抱えて家へと戻って行った。
『 リシェーヌへ
5月18日
元気にしていますか。水はもう支配できるようになった?まだできていなくても、大丈夫。あせらずゆっくり身につけていって下さい。父さんはきっと、甘やかしたくないだけだから。
そっちはもう水霊花は咲いていますか?僕は毎日走り回っているので、いろいろな花を見ます。鳥も見ます。今日は瑠璃色をした、きれいな鳥を見ました。でも、やっぱりひわやすずめの方が好きだな。こっちに来てから鳥寄せをする暇がないから、余計にそう思うのかもしれないけど。
そうそう、僕はただ走るだけじゃなくて、いろいろな時間に走っているんだけど。月明かりの夜の泉は、すごく素敵だった。月からこぼれた光が、水面や草の露をきらきら光らせるんだ。すごく静かでいい感じだった。リシェーヌにも見せてあげたかったな。いつか大きくなったら、大事なひとを連れて夜の泉に行こうと思います。そこで、宝石なんかよりもずっと綺麗な満天の星空を、彼女に贈るんだ。きっと、喜んでくれると思います。ただ、ついそこで立ち止まっちゃったから、帰った時怒られたけどね。
それでは、短いけれど終わりにします。今すごく疲れてて、とにかく布団にもぐりたいんです。ごめんね。
リシェーヌも大変だろうけど、頑張って下さい。
追伸 お誕生日おめでとう。十六日に間に合わなくてごめん。こっちに来る前に、一つ用意しておいたものがあります。森の、リシェーヌの良く知ってるところに置いておいたから。わからなかったら次回、教えます。もちろん、それはリシェーヌにあげるんだからね。
セルリアード 』
『 お兄ちゃんへ
5月20日
きれい。すごくきれいです。本当にありがとう。ずっとほしかったの。お兄ちゃんが鳥さんを集めるたび、楽しかったけどうらやましくって。私がお兄ちゃんの笛を吹いてもだめだったけど、これは私の笛なんだよね?お兄ちゃんが作ったんだから、ぜったいに寄って来るよね、鳥さんたち。今からすごく楽しみです。まだ全然うまく吹けなくて、あいた時間に練習してるだけだけど、でも、本当にうれしいです。私もお兄ちゃんの誕生日にはぜったい、何かあげます。楽しみにしててね。
ええと、水は、動かせるんだけど、まだしはいできません。本当は、しはいするっていう意味がよくわからなくて、でも、いい加減お父さんには怒られます。そうじゃない、しはいできてないって、最近はお父さんが怖いです。私は、本当にだめな子なんだなあと思います。お兄ちゃんは鳥さんとも精霊さんともすぐに仲良しになれてたのに、私は全然です。でも、精霊さんはすごく優しくて、優しいから、時々お母さんを思い出します。寂しいです。
……(中略)
だけど、本当は鳥さんより……。笛を吹いたらお兄ちゃんとサリサちゃんが、一緒に遊ぼって遊びに来てくれたら。そうしたら、一番うれしいです。
リシェーヌ 』
『 お兄ちゃんへ
11月21日
お兄ちゃん、元気ですか?お兄ちゃんはいつも、リシェーヌは元気って聞いてくれるけど、自分のお返事を忘れてるよ。もしかして、病気ですか?私は軽いかぜです。だけど、かぜよりも、すごく寂しくてたまりません。
お兄ちゃん、もしかして、いつも長い手紙を書いてしまって、私は悪い子ですか?お兄ちゃん、最近自分のことを全然教えてくれないのは、私が悪い子だからですか?もし迷惑だったら教えて下さい。寂しいけど、お兄ちゃんに迷惑をかけるくらいならやめます。でも、お願いだからリシェーヌのことを忘れないで下さい。お願いだからリシェーヌのことを好きでいて下さい。
私は、ずっとお兄ちゃんが大好きです。
リシェーヌ 』
『 リシェーヌへ
11月25日
かぜは大丈夫ですか?すごく会いに行きたいけど、行けません。許して下さい。
今日はたくさん謝ること、伝えることがあります。まず、僕はずっとリシェーヌのことが大好きだし、リシェーヌからの手紙はすごく嬉しいってことです。絶対に迷惑じゃないから、リシェーヌがあきるまでいくらでもお手紙下さい。不安にさせてごめんね。
それから、僕は 』
セルリアードはじっと紙面を見つめた。
元気です、と書く? いつも、その文句を忘れていたわけではなかった。けれど、書けなかったのだ。
「っ……」
引きつるような痛みに、彼は筆を取り落とした。
「あ……」
紙面に散った赤い色を、彼はひどくやりきれない気持ちで見つめた。
――書き直さなくちゃ――
早く書いて、早く送らなければ。今も、リシェーヌを不安にさせているのだから。
「うっ……」
けれど、だめだった。今日も書けない――
もう筆が持てなかった。いつもいつも、元気です、と言える状態ではないのだ。
明日になれば、魔力が回復するから傷も癒せる。けれど、そうしたらまた稽古をしなければならない。時々、不安だった。あの人は――彼を預かっているアドラは、まともな人間なのだろうかと。このままアドラに師事していて、何か、取り返しのつかないことになりはしないかと――
セルリアードはいやな考えを追い払うように思考を手紙に戻した。妹を支える手紙は、彼自身にとっても支えだった。
11月26日
『何度言わせれば気が済む?痛いなら避けろ、受けろ、反撃しろ――』
『仕留めるまで攻撃を休むな!言っておくぞ、3合で決まらなければおまえの負けだ!』
毒こそ仕込んでいないものの、アドラは常に真剣を使った。アドラが左手に隠し持った短剣に脇を切り裂かれ、セルリアードが思わず悲鳴を上げて片膝を突く。その途端。
「悲鳴を上げる暇があったら反撃しろ!ガキが!痛みに負けて攻撃を止めたらどうなるか――まだわからないなら、その体に教えてやる!」
「やっ――」
凄まじい速度で蹴り出されてきた足を、セルリアードはただ恐怖に凍りつきながら見つめていた。情け容赦のない傷口狙いの蹴りが、彼を撥ね飛ばす。小柄な少年の体は難なく宙を舞った。
「うああぁあぁあ――!」
ふと、セルリアードは跳ね起きて荒い息をしている自分に気付いた。
――夢――
そう、現実では彼は叫ばなかった。声を出す代わりに、気が遠くなるほどの痛みに涙が出たらしい。アドラはひどく怒って、気を失うまで彼を責め続けた。アドラは涙を極端に嫌う。
激痛を思い出し、セルリアードはぞくっと身震いした。
――もう、いやだ――
父親に帰りたい、と告げてみたことはあった。けれど……。
彼は身を起こすと、まず傷を癒すため精霊を呼んだ。
今日の午前中は何の予定だっただろう?
彼は魔道書と手紙を見比べた。時間までにきっちり魔道古語を叩き込んでおかねば、ひどい目に会わされる。けれど、一日の終わった後では、とても手紙など書けない。
――いいや。今、書こう――
彼は筆を取った。
12月15日
「セド」
「はい」
午前中の日課――主に魔道古語と毒薬の製法――を終える頃、どこかに出ていたアドラが手に一振りの剣と小さな水差しを持って戻って来た。
「今日で十三か?」
「え……あ、はい」
これにはさすがに驚かされた。よもや、アドラが彼の誕生日を覚えているとは。
「やる」
「え……」
アドラが差し出したのは、一振りの精巧な造りの片刃刀だった。毒の香りがする。
「あの……」
「やると言ってるんだ。受け取らない気か?」
――あんまり、ほしくないけど――
もの自体にはかなりの抵抗があったものの、彼はそれを受け取った。剣はかなりの名品だ。半ば信じられないにしろ、これが現実ならばアドラの気持ちが嬉しい。それゆえだった。
「ありがとうございます」
アドラが微かに笑った。けれど、セルリアードはそこに冷たいものしか見出せない。彼にはそんな自分が、何だか悲しく思えた。
「飲め」
アドラが水差しを差し出す。毒なのはわかっていたが、セルリアードは黙ってそれを受け取った。緊張しながらグラスにその中身を注ぐ。かなり香りの良いものだ。
――どのくらいだ?――
いくら香りが良くとも、毒は毒だ。毒を知り、耐性をつけるために色々飲まされる。初めのうちこそアドラの方で量を調節してくれたが、今ではそれすら彼に任せられていた。
セルリアードは注ぎ終えると、アドラの顔色を窺った。アドラは沈黙している。多すぎても少なすぎても体罰を与えられるが――それがないからといって油断はできない。『多め』が一番ひどい。その場合、毒による苦痛は軽く体罰を上回る。しかも、それだけでは済まないのだ。精霊魔法を使えることを理由に、アドラは解毒剤を与えてくれない。ゆえに、知りもしない毒の中和を自力で成功させなければならなかった。失敗し続ける限り、苦痛もまた続くのだ。
「……」
セルリアードは一つ深呼吸すると、それをゆっくりと飲み干した。
「ふん……少し飲み過ぎだな。まあいい。せいぜい生き残れよ」
アドラの言葉に、これから来るであろう苦痛を想像し、セルリアードは気を滅入らせた。
「……今日は、ここまでですか?」
それでも、早く中和できれば残りは自由時間になるかもしれない。セルリアードの問いに、アドラは彼の期待を知っているからこそ、冷笑した。
「今日は特別だ――さほど苦痛のある毒じゃない。中和はおまえには無理だし、されては困るな」
「アドラ……?」
「課題は毒ではないと言うことだ。すぐにわかるだろうが、それをこなせば後はおまえの自由だ。なに、すぐに決着はつく……仕留めろよ」
「アド――」
ふいに、声が出せなくなった。
――え……?
アドラはさっと身を翻すと、どこかに行ってしまった。
何だか、ひどく不安だった。何をこなせと――
アドラはすぐにわかると言ったが、それまでどうしていればいいのだろう?
セルリアードは落ち着かなげに自室に向かおうとした。出したくても声が出ないというのが、これほど不安なことだとは。いざという時助けを呼べない。精霊を呼べないのだ。そのため中和もできない。
――少し、痺れてるかな……。
体全体がややだるいような気がした。けれど、彼にとっては精霊と交信できない、という突然の孤独感の方が大きかった。
それをごまかそうとしたのだろうか。彼は笛を取ってこようと考えていた。この季節ではたいして寄せられないだろうが、久しぶりに鳥を寄せたかった。
「いい根性してるじゃないか」
聞きなれない声がした。
「ガキが――おまえなんぞに侵入を許したとは、俺もヤキが回ったもんだな?」
誰?
セルリアードがふり仰ぐ。窓枠に足をかけた声の主は、二十代後半だろうか。一見普通に見える格好をしていたが、セルリアードはすぐに相手の異常に気付いた。血の臭いがする。
彼は一歩後退った。
「言い訳してみるか?」
男が冷たい殺気を放ちつつ、不機嫌に言った。
「可愛い顔しやがって――黒豹のアドラが弟子を取ったらしいとは聞いてたが、怪しいもんだな。可愛がられてんじゃねえか、あん?」
ひどく混乱していた。何を言っている?どうしたらいい!?
けれど、ずっと奥の方では――おそらくセルリアードは理解していた。アドラの狙いを。
「だんまりか……。なめたもんだな。俺もあまり気の長い方じゃない。これが最後だ。土下座して謝って、その剣を返しな。そうすれば半殺しにした上で売り飛ばす――その辺で勘弁してやる。できないなら」
男の目に、ひどく危険で暗い光が点る。セルリアードは動けない。
「――死ね」
瞬時に影が迫った。懐から取り出した短刀を、男がセルリアードの首筋目がけて突き入れる。
「何!?」
予想外の速さでそれをかわされ、男は驚きの声を上げて飛び退いた。
「なるほど……さすがだな」
――!!
男のマントがセルリアードの視界を覆った。
どこから来る!?
気配をつかんだ瞬間、セルリアードは跳んだ。しかし、わずかに遅い。急所こそ外したものの、左腕に短刀が突き立っていた。目の前が真っ暗になったような錯覚。殺し屋の刃に、毒が塗られていないわけがない。
死ぬ――?リシェーヌにも会えないまま!?
愛刀なのだろう、男はセルリアードから片刃刀を取り返すと、即座にそれを寝かせて再度迫って来た。
いやだ……――助けて!!
恐怖と同時に、彼の中で何かが爆発した。風だ。凄まじい突風が、男を勢い良く撥ね飛ばした。
ガッ
壁に叩きつけられ、男の体勢が崩れる。セルリアードは考える前に動いていた。
――三合で決まらなければおまえの負けだ――
その言葉だけが頭の中に響いていた。今一体何が起こったのか。自分はどうするべきなのか。
そんな疑問は、もはや彼の頭になかった。
キン――!
斜めに突き入れた剣は、耳障りな音を立てて真上に弾かれた。
一合――
がらあきとなった相手の心臓めがけて、左手の小刀を滑らせる。
男はそれをよけるため、転がった。
追い討ち――
小刀を男に向けて放つ。男はかろうじてそれを弾いた。
二合!
セルリアードは地を蹴り、男の利き腕に着地した。体重が体重だ。男は迷わず彼を投げ出そうとしたが、ここばかりはセルリアードの方が速かった。
ザシュッ
背筋を悪寒が走った。ぞっとするような手応え。
セルリアードはただ、視界が鮮血の色に染まっていくのを見つめていた。動けない。
「――!」
切り裂いた男の首筋から吹き出す血が、やっと勢いを失ってくる頃。セルリアードは返り血に濡れたまま――闇に落ちた。
12月20日
沼にはまっていた。真っ黒な沼だ。
もがけばもがくほど沈んでいくのだと気付いた時には、もう胸までつかっていた。
――苦しい
ゆっくり、ゆっくり。もがくのをやめても、体は沈み続ける。
――助けて
もはや完全に沼に呑み込まれていた。目が開かない。息が――できない。
――助けて!!
こぽ……
突如、それまで死んだように静かだった少年が、胸をかきむしった。見る間にその口許に赤くどろどろとしたものが溢れ、溜まる。
「仕方ないな――」
アドラは大儀そうに呟くと、立ち上がった。
ここまで育てたのだ。見殺しにするのもやや惜しい。
血を吸い出すくらいはしてやるか――
あまり気持ちの良い作業でこそなかったが、さほど苦痛というわけでもない。アドラは血そのものは嫌いでなかったから。
しばらくそれを続けると、やがてヒュウヒュウと、どうやら呼吸が回復したらしい音が聞こえてきた。
「ふん――」
アドラは口許を拭うと、小机の上のオルゴールに手を伸ばした。ねじを巻くと、ポロポロと澄んだ音色がこぼれ出す。
少年が生き残れるかどうかはわからなかった。かろうじて毒は克服したようだが、衰弱しすぎている。
微かに、セルリアードが呻いた。
いやだ!
彼はずっと逃げ続けていた。目の前に男の顔がある。殺した男の死に顔が――
いやだ!!
視線を逸らしても逸らしても、それも一緒に動いてつきまとった。気が狂いそうだ。
体はねっとりと生温かい何かに濡れている。
『だって、僕のせいじゃない!僕のせいじゃない!!』
死ぬのは怖い。けれど殺すのも怖い。
『体が勝手に動いたんだ!あなたが僕を殺そうとしたから――!』
もう、いやだ――
この暗い崖の下に身を躍らせたら、終わるのだろうか?
ふらふらと、彼が歩み出した時だ。
ポロン……
何かが聞こえた。
知っている。この曲は――
「リ……シェー……ヌ?」
「目が覚めたか?」
いまだ頭に靄がかかっているような感触だったが、セルリアードは現実を認識した。
「……アドラ……」
「失望させてくれたな」
セルリアードは何も言わなかった。自分の抱いている感情が何なのか、わからない。
「今日を何日だと思ってる?」
「え……?」
「二十日だ」
「二十日……」
つまり、彼は五日間も眠り続けていたらしい。
「五日も何もしないとは、いい身分だな」
アドラは冷たく言うと、何か小さなものをその手の中で鳴らした。夢で聞いた音色――
「おまえ宛だ。下らんと思わんか?」
セルリアードははっとアドラを見た。
「下らん。何の役にも立たん」
「返して下さい」
アドラは興味なさげに彼を見た。しかし、ふっとその口許を歪める。
「五日間、何もしなかったな」
「――返して下さい」
セルリアードはひどくいやな予感を持て余しつつ、繰り返した。間違いなく、夢に届いたのはこのメロディー――月の詩!
「死体の後始末も、貴様の看病もしてやった」
「……返して下さい」
アドラは冷ややかな目で少年を見た。初めのうちこそ楽しませてくれたが――。最近、あまり反応がない。
だが、今はどうだ?どうすればもっと楽しいか――知っている。
アドラは静かに手を離した。
「――!!」
陶製のオルゴールは、音高く――粉々に砕け散った。
「――」
起き上がったまま、セルリアードはもはや微動だにしなかった。
アドラはしばしそれを眺めてから、言い捨てる。
「片付けておけよ」
「――」
パタン……
扉が閉まった。
「――」
何も動かない。
「――」
いまだ動くことも考えることもできない少年の頬を、ただ、雫の感触が伝っていった……。
『 リシェーヌへ
12月20日
お返事が遅れてごめんなさい。ここのところ調子が悪くて、起き上がれなかったんだ。でも、もう大丈夫だから。心配はしなくていいです。
ところで、素敵なプレゼントありがとう。
覚えてたんだね、3人で歌った歌。驚きました。歌詞も覚えてる?僕は覚えてるよ。それで、せっかくだから元の歌詞を教えてあげます。これ、本当は神聖語の歌だから。
……(中略)
これじゃわかんない?だと思った。だけど、面倒だから解説はなしね。父さんにでも聞いて下さい。
そうそう、雪の遊び方はわかる?水と同じようにやれば動くから、遊んでごらん。ダイヤモンドダストに成功したら一流かな。僕はもちろんできるし。
それで思い出した。この間ね、呪文なしで精霊を動かせたんだよ。驚いた?だけど、これは秘密だから。誰にも言っちゃだめだからね。
……(中略)
それじゃあ、また。今日は暇だったからたくさん書いたけど、次はどうかな。あんまり期待せずに待ってて下さい。オルゴールはずっと大切にします。
セルリアード 』
なぜだろう。その日から、彼は平然と嘘をつけるようになった。アドラにも父にも。リシェーヌにすら。
そして、鳥を寄せられなくなった。
寄せ方を忘れてしまったのだ。笛の吹き方すら。
嘘で固めた手紙。嘘で固めた自分。一体何のために――?
知っている。
ただ一つだけ真実があるから。
ただ一つだけ――
リシェーヌを愛している。
そしてあの子を――彼を忘れてしまったあの子を、愛している。
真実など、一つあれば十分なのだ。あとは全て嘘でも構わない。
壊れたオルゴールでも大切に隠している。取り上げられないように。誰にも見えないように。
それでいい。
翌12月10日
「いやです」
再び、冬が巡って来ていた。ここへ来てから二度目の冬。もうすぐ雪が戸外を覆う。
「何がいやだ?」
「そんなことはできません」
子供らしさをなくした静かな声で、セルリアードが言った。
ムチがしなる。
「!……っ……」
身を震わせるほどの痛みに、セルリアードは黙って耐えていた。繋がれているため、下ろすことのできない両腕も痛む。
「臆病者!」
アドラの罵声に、セルリアードは顔を上げ、キっと相手を見据えて罵倒し返した。
「卑怯者!」
アドラがカっと頭に血を昇らせる。彼は全く同じ位置を三度ムチ打った。これにはさすがにセルリアードも耐えかね、悲鳴とも、呻きともつかない声を漏らしてうなだれた。この一年半で、彼は悲鳴はおろか表情すらあまり変えなくなっていた。
「昨日言ったことは覚えているだろうな?」
「……」
「もう一度だけ言うぞ。私に従えないと言うなら、その枷は貴様が死ぬまで外さん。今からは水も食事も抜きだ。せいぜい何が得かを考えるんだな」
「……」
アドラは苛立ちながら部屋に戻ると、暖炉に次々と薪をくべた。心底頭に来ていた。
一体この一年半、何のために叩き上げたと思っている!?この日のためだ!
――そう、半月前のことだ。いつになく大きな仕事が入った。裏組織、魔狼城<ルデモンドゥルー>の頭を殺してくれと。
調べ上げて、その愛人と娘も見つけた。それをあのガキに殺させ、逆上して出てきた所を後ろから――のつもりだった。ところが、あろうことか手駒が動かない。
このまま、死なせるか――?
いっそ、それもいいかもしれない。動かない手駒に用はない。そもそも、前々からその徴候はあったのだ。
実力はある。恐ろしいほど。去年の段階で、戦闘力だけなら水準以上の殺し屋を倒しているのだから。もっとも、油断している殺し屋など殺し屋と呼ぶに値しないが。
しかし――
なぜだ?
彼は血を極端に嫌う。考えられなかった。一度人を殺めれば、あとは諦めもつくというものなのに。なぜ、これほどひどい目にあわせてもまだ首を縦にふらない?摩訶不思議もいいところだった。知りもしない女子供の一人や二人――なぜ殺せない!?
「くそっ」
アドラは空の杯を思い切り床にたたきつけた。
12月11日
「気は変わったか?」
翌朝。さすがに4日目ともなると、少年の顔色も最悪に近い。この状態では眠りも浅いし、昨日から何もやっていないのだから。
「水が欲しいだろう?」
「殺す気はありません……」
アドラはカッとして手をふり上げかけたが、ふと方針を変える気になった。
「読みたくないか?」
アドラが手にしたものに、セルリアードの目が釘付けになる。
「可愛い妹がいるんだろう?このまま貴様が死んだら、さぞ悲しむだろうな」
「……」
「そら」
セルリアードは驚いてアドラを見た。読ませてくれる?
アドラは少年の手を片方だけ自由にすると、その手に手紙を握らせた。
「死にたくなくなったら言うがいい。自由にしてやる」
「――」
アドラがいなくなると、セルリアードは改めて手紙を見直した。
――もう、会えない――
彼は騙されていなかった。そう。確かに彼が死ねば彼女は悲しむだろう。
けれど、彼が人を殺したら――?
悲しむのは同じだ。
もう、誰も殺す気はなかった。これ以上殺すくらいなら、死んだ方がまし――
ふいに、彼は異常に気付いた。宛名が妙に乱れている。よほど急いで書いた?そういえば、いつもは厚い封書が今日はひどく――薄い。
彼は急いで封を切った。不安を持て余しながら。
中には、紙切れが一枚だけ入っていた。
『父さんがこわい』
*
――逃げよう
夜闇の中を、冷たい森の中を、彼はひたすら駆けていた。
――リシェーヌを連れて逃げよう
どこへ?
そんなことはわからない。けれど、自分も妹もこのままではいけない。
夜を待って、彼は脱走した。あるいは昼の方が良かったのかもしれないが……。
鎖を外す、などという器用な真似はできなかった。他にやりようもなく、彼は驚異的な精神力で、一声も上げることなく鎖を焼き切った。手首ごと。
そして、逃げた。
ホウ、ホウ……
ふくろうの声と、自分の足音だけが聞こえる。アドラはもう気付いたろうか?もう、すぐそこまで追って来ているのだろうか。
枯れ葉を踏む音を、彼にはどうしても消すことができなかった。せっかく夜を選んだというのに、かえって足音が目立つ。
恐ろしかった。今にも脇の木の陰から、背後から、アドラの毒刃が繰り出されるような気がして……。逃げ出した自分を、アドラが許すはずがない。見つかったが、追いつかれたが最後、間違いなく殺される――
「あっ」
木の根にでもつまづいたのか、足がもつれ、彼は地面を転がった。
「う……」
立ち上がれない。ただでさえ衰弱していた上に、空腹と恐怖で、彼はもう心身ともにぼろぼろだった。
――助けて――
微かに風が吹いた。冷たい水が、雨が、ぱらぱらと降り始める。彼はかろうじて木の根元まで這って行った。容赦なく身を濡らそうとする雨に命じる。
僕をよけて降って――
雨は勢いを増すばかりで、座り込んだ地面を流れるそれに、体温はどんどん奪われていく。十二月の雨は冷たすぎた。
「怖い……」
死にたくなかった。一度でいい。あと一度でいいからリシェーヌに……あの子に会いたい。そうしたら、もう二度と――
12月12日
目を開けると、幾本もの灰色の木々が見えた。
――生きてる――
体は冷え切っていたが、それでも生きていた。やっと昇った日が暖かい。
――生きてる――
彼は気力でどうにか立ち上がったが、そこまでだった。衰弱しきった体は、もはや思うように動かない。それもそのはず、ここ数日、彼はまともな食事を取っていないのだ。
――どうしよう、歩けない――
風が吹いた。
――風?――
彼は澄んだ蒼の瞳で白い空を仰ぎ見た。
――乗れるだろうか、風に――
セルリアードは静かに目を閉じ、意識を集中した。
風は彼の意に従った。
やがて、視界に研究所の影が姿を現す。ほっとした途端だった。彼はにわかに失速し、落下した。
――お兄ちゃん――
妹の声を聞いたように思った。目を開けると、研究所の白い天井が見えた。
そして、脇の小机の上に置かれた食事――
食べなさい、とだけ書いた紙切れが一枚添えられていた。
*
彼が食事を終える頃。
キィ、と小さな音がして、部屋の戸が開けられた。
「父さん……」
「何をしに戻って来た?」
サニエルの声は冷たかった。予想していないこともなかったが、現実となると、改めて胸が痛んだ。
「あの……リシェーヌは?」
「それが答えか?」
セルリアードは視線を落とし、唇を噛んだ。それから、静かに首を横にふる。
「もう……戻りたくないんです。そばに置いて下さい。あそこには……」
「だめだ」
「父さんっ!」
叫んで父親を見上げた少年の目は、ひどく澄んで――サニエルの記憶に残る、一人の女性のものに酷似していた。
それにぎくりとしたまま、サニエルは動けなかった。
「どうしてなんですか?どうして……」
セルリアードはおぼつかなげに立ち上がると、そのまま倒れ込むように、父親の胸にすがった。
「お願いです……お願いです。母さんがいなくても、僕は……リシェーヌと父さんと、3人で暮らしたい……昔のように……暮ら……し……」
胸が痛い。
「どうして……どうして僕を遠ざけようとするんですか!?僕は……僕はここにいたい!」
そのまま、セルリアードはわっと声を出して泣いた。寂しくて寂しくてたまらなかった。ずっと――
「やだ……もう……いやだ――!!」
「やめっ……」
サニエルは荒い息をしながら、がくがく震える手で目を覆った。
「やめろっ!!」
サニエルは夢中でセルリアードを突き飛ばした。
「あっ……」
肩をしたたかに打って、セルリアードが微かに声を上げる。しかし、むしろその後の絶望したような瞳が――生きる意義を見失ったかのような瞳が、サニエルの胸に突き刺さった。
「やめろっ!!」
自室に戻るなり、サニエルは顔を覆って壁に背を預けた。そのままずるずるとずり落ちる。
――どうしてだ……!?――
抱きしめてやりたくて仕方なかった。もう、行かなくていいと……ここにいていいと!
――ばかな!――
どうして、愛さなくてはならないのだ。これほどまで深く――!
「違う――!」
いつも、いつも。本気になるのは自分だけだ。自分だけが本気で、相手は――相手はこちらの半分も愛してはくれないのに。自分をだまして、影であざ笑っていると知っているのに、止められない。
「違う……」
うずくまったまま、サニエルはしばらく動けなかった。
*
ふらふらと、セルリアードはおぼつかない足取りでリシェーヌを探してさまよっていた。
胸が痛い。
もう、彼に残っているのは彼女だけ。
妹だけは、彼が守らなくては――
「リシェーヌ?」
ふいに、細い歌声が聞こえたような気がした。
なんとなく気が急いて地下への階段を駆け下り、突き当たりを右に折れる。そこには、覚えのない檻があった。
え――?
中で、格子に寄りかかって――つまりこちらに背を向けて、一人の少女が歌っていた。
歌――?
違う。とてもではないが、その音の連なりには意味やメロディーは見出せない。
「リ……シェーヌ?」
胸を不安に突かれたような――ひどく胸騒ぎがした。胸が騒ぎすぎて、気が狂うかと思ったほどだ。
少女がふり向いた。瞬間、セルリアードはぎょっとして一歩後退った。
違う!?
多分、本当はその瞬間にわかっていた。けれど、それは認めたくない事実だったから――。
「誰?」
まるで、地の底から響いてくるような声で少女が尋ねた。セルリアードはその場に凍りついたまま、何一つ答えられなかった。
「嬉しいわ――精気が足りないの。あなたの精気を私に分けて――」
少女の雪のように白く滑らかな手が、彼へと伸ばされる。少女の額の第三の目が、鮮やかな紫色の瞳が、彼の生命に殺気にも似た執着を示す。
ぞくっと背筋が鳥肌立った。
「ねえ……」
少女の指先が、彼の腕に触れた瞬間だ。
「うわっ」
痺れるような感覚があり、皮膚が裂け、血が散った。彼は弾かれたように身を退けた。
「あ」
もう、届かない。
彼女は心底残念そうに嘆息し、そこにうずくまった。
いや――
その白い指先を染める赤い血を、憂いを帯びた瞳のままに吸っていた。
違う……。
「来て――」
少女が切なげに手を伸ばす。
魔族のような尖った耳。長く艶やかな黒髪。そして、その虚ろに開いた二つの瞳の色は…………妹と同じ、碧だった。
違う……。
彼はただひたすら、わき上がる何かを否定していた。
「セルリアード」
ふいに、横合いから声がかかった。父親だ。
「どう思う?合成に失敗してな――。エルフとの掛け合わせは成功だったんだが、同じ方法で魔族と掛け合わせたのが悪かったらしい。エルフの特性は全滅だし、人格もこの通り破綻した」
「リシェーヌはどこですか?」
「うん?」
「探したんだけどいなくて……。知りませんか」
「わからないのか?ここにいる」
いません――
「いません」
サニエルが檻の中の怪女を指し示す。
「リシェーヌだ」
少年の指先がぴくりと動いた。
視界が回っていた。定まらない。視界と一緒に、思考もぐるぐる回っていた。
「毎日毎日胸が悪くなるようなことを言っては、外に出せとせがむんだ。うっとうしいから、望み通りにしてやろうかとも思うんだが……もう、研究の価値はないかな」
もはや哀しい、とも思わなかった。それなのに、涙だけが頬を伝っていく。
「どうした?」
「……殺して下さい」
「うん?」
「ばかなこと言ってないで、殺してやって下さい! なんてことを――!!」
どこか遠い所に、泣き叫んでいるもう一人の自分を見た気がした。
「ばかはおまえだ。殺して何になる。この技術を極めて応用すれば、ただの人間を魔道師にできるんだ。それも、強力な魔道師にだぞ」
セルリアードは黙って短剣を引き抜くと、鍵を取って自ら格子を開けにかかった。
「何をする気だ!?」
「人でなし!! よくも、リシェーヌを……!!」
突然、二分されていた自我が融合した。どっと涙が溢れ出し、視界を歪ませた。それでも、彼は行動をやめようとはしなかった。
「アドラ!」
サニエルが叫び、ほぼ同時に冷たい手がセルリアードの肩をつかんだ。
それが誰のものかを頭より先に体が察し、ぞくっと背筋が凍った。
だめだ――!!
「もうやめて下さい!! これ以上――これ以上リシェーヌを苦しめないで下さい!!」
虫も殺せないほどに優しい、真っ白な天使だったのに――!!
「連れて行け」
アドラのこぶしが、鳩尾に滑らかに流れた。
12月13日
何か、奇妙に強い刺激があった。目を開けるとアドラがいた。身動きした拍子に鎖が鳴る。そこはもといた場所だった。
アドラは気付け薬らしいものをテーブルに置くと、再度近付いてきた。
「……リシェーヌは?」
セルリアードは虚ろな目で、それだけを聞いた。
「……もうしばらくは様子を見るそうだ。何だかんだであの男はおまえに甘いからな――。泣きつかれて、動けなくなったんだろう」
甘い――?
白く靄のかかったような頭で、セルリアードは苦労して考えた。サニエルのこと――?
どこが!!
「まあ、化け物でもふと自我を取り戻すことはあるらしいから――。様子を見たい、というのもあながち言い訳ではないかもしれんがな」
……何……?
「そんなことより」
無造作に、アドラはセルリアードの前髪をつかんで上向かせた。それから、その喉元にひたりと短剣を押し当てる。
「もう、時間は十分だな? 今すぐ答えてもらおう。ここで死ぬのか、それとも殺るのか」
自我が、戻る……?
恐ろしい幻影が脳裏をよぎった。殺戮の果てに、ふと自我を取り戻した妹の――
すでに、世界はかなり暗く見えていたけれど。
光が存在するという、その当たり前の事実がふと迷信に思えた。
もう――
「教えてもらえますか……? 人の欺き方と、楽に、苦痛を与えずに殺す方法……」
「ふうん……?」
アドラはわずかに口の端で笑った。なるほど、あくまで父親の意に背きたいらしい。
それに協力してはいけない、などとは言われていないわけだから――
「いいだろう。暗殺の基本だ」
12月15日
雪が降っていた。
自分は、どこで間違ったのだろう? それとも、これから間違うのか――
あの白い手を。あの優しく無垢な微笑みを。
血で汚させはしない――
セルリアードは固く握っていた手を開き、手の中の2つの銀の輪を見つめた。
その手に、雪がひとひら舞い落ちる。今では形見となってしまったイヤリング――
サニエルがセリュージャに贈ったものを、彼女はそのまま子供達に与えた。気に入った風景を閉じ込めておける、魔法のリングだと言って。
どうして、二つとも持ってるんだっけ……?
――お兄ちゃん、リシェーヌのこと忘れないで――
寂しそうに、申し訳なさそうに言ったあの日の妹。彼が家を出る時だった。
これは、僕のじゃない……。
セルリアードはうちの一つを懐に収め、残った一つを発動させた。
淡い光とともに、優しすぎる景色が広がる。映像は、それこそ手の中に収まる程度の規模だったけれど。
あの子に花の冠を贈って、たわいない冒険に胸躍らせたあの日。
光が溢れていた――
温かくて、幸せだった。
そこには自分がいて、妹がいて、あの子がいて。そして、日々安心できる場所で眠った――父と母のそばで。
けれど、もう、思い出してはいけない。
自分はきっと奈落に向かって落ちているのだから。
あの子を自分と同じ色には染めたくない。
唯一残された綺麗なものを、思い出まで、赤く染めたくはないから――
彼の手の中で、リングが哀しげな悲鳴を上げた。少年の魔力に侵されて――
音もなく。
崩れたリングの残骸は、雪にとけて消えた。
「おかあたん、あの子、迷子?」
ふいに、子供の声が聞こえた。喉の奥が詰まる。
「あらあら、大変」
いったい、どれくらいの間そこに立ち尽くしていたのだろう?あっという間だった気がするのに、体は冷たい。
「どうしたの、ぼく?雪が積もってるじゃない。誰か待ってるの?」
雪を払ってくれながら、しっとりとした女性が言った。
「迷子やよー、迷子。あって、いい子の迷子はうおうおしあいんえしょ?」
3つくらいの女の子が、かわいらしく主張する。
「ええと、お家は?待ってなきゃいけないなら、家で待っててもいいし。すぐそこだからいらっしゃ――」
彼が懐から閃かせたものを、それでも彼女はかろうじて受け止めた。迷いがあったのは、むしろセルリアードの方だ。
「――あなたを、待ってました」
雪の中、銀色に冷たい刃が閃く。女性の方も懐剣を抜いて応戦しようとしたが、抜いた瞬間に懐剣は弾き飛ばされていた。彼女が首筋を庇った腕に、深々と短剣が突き立つ。
「あ……」
女の子が、わずかに声を漏らした。いまだ、何が起きているのか理解しきれない顔で。
「アステル、逃げなさい!お父さんの所に――」
彼女はセルリアードから短剣を奪おうとしたが、軽くかわされた。
「早く!!」
母親の絶叫に、弾かれたように少女が駆け出す。しかし、雪に足をとられて思うようには進めない。
「アステル!!」
ふり返った少女は、母親が殺される瞬間を目撃してしまった。血が、胸から噴水のようにしぶいて――
「やあぁあぁぁ!!」
恐怖と悲しみに、少女は狂ったような悲鳴を上げた。
「こあぁ、こあぁ、こああぁぁぁ!!」
泣き叫ぶ少女を、少年は静かに腕の中に抱き締めて――
人はこんなに震えることができるものかと、そう疑わずにはいられないほど、彼女は激しく震えていた。
「あ」
悲鳴が途切れた。
何の抵抗もできない幼女の首筋など、短剣はあまりにたやすく切り裂く。血が、雪の絨毯を染めていった。赤く、赤く――一度焼き付いたら、二度と脳裏を離れ得ない赤さで。
女の子は――アステルは。静かに、彼の腕の中でこときれた。
カタ……タ……
手が激しく震えて、彼は短剣を取り落とした。生温かい返り血が、襟元から胸をべっとりと濡らしている。
「う……」
女の子は――……
声にならない声を上げ、彼は固く少女の亡骸を抱き締めた。
その頬にまで散った血を、幾筋もの涙が洗っていく。けれど――きっと、二度と拭うことなどできないのだ。拭う気にもなれない。
幼い命を散らした少女が、ただ、哀れで――
どんなに、こわかったろう。
こんな幼い娘を死に神のそばに残したまま、母親はどんな思いで逝ったろう。
――お願いです――
彼は幼女の亡骸を抱いたまま、ただ――願った。
どんな呪いも受けます。だから――だから、どうか安らかに――……。
そんなこと、願う資格はないのかもしれない。だから、その時は。
「……!……!!」
二人の悲鳴を聞いたのだろう。駆けつけてきた者たちの、激しい怒声が聞こえ始めていた。
――僕を地獄に落として下さい――
*
その日から、彼は悲鳴を上げることも、涙を流すこともしなくなった。
だって、それは当然のことだから。
痛いのも苦しいのも悲しいのも――皆、当然のことだから。
生きていたくないなんて、当たり前――
世界には、色彩がなかった。
半年後
――まずいな――
殺しをさせてから、死に神に憑かれたようになった少年は、アドラさえ恐れさせるほどの冷酷さと技の冴えを見せ始めた。今に、追い抜かれるかも――いや、すでに追い抜かれた後なのかもしれない。
――あれは、私を嫌ってるし――
今のうちに、始末するしかないのだろうか?そう、寝首でもかいて――
「アドラ」
ふいに呼びかけられ、アドラはどきりとしてふり向いた。
「ああ、終わったのか、セド」
それでも、表面上は何事もなかったかのように応じる。どうしよう?
多少、情が移っていないこともないのだが――
危険な思考を巡らせながらも、アドラは通常通り用意しておいた毒の小瓶を彼に手渡した。
少年はそれが何であるかに見当をつけると、グラスに半分ほどその中身を注いだ。
え――?
少年は黙ってアドラの指示を待っている。
――レヴラと間違ってるのか!?
致命的なミスは、ほぼ半年ぶりだった。このままそれだけ飲み干せば――確実に死に至る。
アドラは心底揺れた。見殺しにするか?それとも――。
「……多すぎですか?」
少年の、硝子玉のような澄んでいるばかりで人らしくない目がアドラを見る。彼がこんな目をするようになったのも、あれからだ。目が澱まなかったのは奇跡だが、かえって気味悪い。その澱む代わりに感情の失われた目は――。
ここのところ、アドラは意識的に少年に近寄るのを避けていた。
運命、か――?
アドラは黙って、少年の手から瓶を取った。
「飲め」
少年が頷き、グラスを傾ける。
――哀れだな――
生き地獄の果てに、何一つ得られないまま。その優れた才を何一つ生かせないまま。
若芽は摘み取られる。
自分がこんなふうな感情を抱けるとは意外だったが……。
少年の父親は気違いだ。
このアドラに息子を預けておきながら、あの男は何と言った?命に別状のあるようなことはさせるな、だと!笑わせる。しかも、彼が逃げ出したあの日には――もっと愚かなことを口走った。
『あまり……性格が歪むほどひどいことはしてないだろうな?あれは繊細なんだ。甘やかすのは論外だが……少しは気を遣えよ』
殺し屋のもとで、子供がどう歪まずに育つというのだ。気が狂っている。あの研究所の連中は皆――皆、気違いだ。もっとも、自分には関係のないことだが。
少年は毒を飲み干すと、グラスを机に戻した。
「あとは自由……で…す……」
ぐっと、少年は胸を押さえた。そのまま前のめりに倒れ込む。
苦しげに喘ぐ少年の髪を、アドラは屈み込んで静かにかいた。もう、あと数秒で死ぬだろう。自分が間違いを指摘してやらなかったばかりに。
「私が憎いか?セド――それでも、私はおまえが気に入っていたよ……」
「そうだったんですか?」
突然、アドラの胸に奇妙な感触が、痛みにも似た感触がきた。
「――!?」
胸に――細身の短剣が突き立っていた。
「瓶の中身、入れ替えておいたんです」
少年は何事もなかったかのように起き上がると、近頃ますます美貌が冴え渡ってきた顔を傾けた。
「憎くはありません……大嫌いですけど。いずれにしろ、何の罪もない幼子すらこの手にかけて――あなたを欺き、殺すことくらい簡単でしたね」
「貴様……!」
まるで道連れにでもしようとするかのごとく、アドラは少年に向かって手を伸ばした。その手を、あろうことか少年は優しく取った。
「大丈夫です、妹を悪夢から解放したら――すぐに、僕もあなたと同じ場所に逝きますから。ああ、違った。あなたには会いたくないから、もっとずっとずっと底の方までいかないと――ちゃんと、僕が地獄に落ちるよう祈っておいて下さいね」
なんてことだ――
初めて、アドラは自分のしたことに気が付いた。
「……て、やる……」
そう、自分は――
「落としてやるさ……かなら……ず…な……」
それは、むしろ安心できる響きだった。少年はアドラの遺体を運び出すと、骨すら炭化するまで焼き尽くした。
*
それからかなり長いこと、セルリアードはアドラの死を隠し続けた。
合成とは、強きが弱きを喰らうこと――喰らわれたものは、復活しえない。それは当然のことだ。それでも。
彼は妹を救う手段を探した。
見つからなかった。
そして――
十五の冬
セルリアードはじっと、檻の中の『妹だったもの』を見つめていた。
今日、彼はそれを殺しに研究所へとやって来たのだ。
アドラの死を隠すのも、いい加減限界だった。妹を救うすべは、もはや、これしか残されていない……。
彼は全ての痛みを噛み殺し、檻の鍵を開けた。
その両手の間にまばゆく輝く魔力を生み出し、それに突き付ける。
キュドッ
セルリアードは大きく目を見開いた。
貫かれたのはそれではなく、彼の方だった。
「サニエル……!?」
「アドラはどうした。死んだのか?」
サニエルが後ろから放った魔力球に肩を貫かれ、彼は膝が落ちそうになるのをかろうじてこらえていた。
「裏切ったな」
「……どっちが……」
サニエルがさっと手をふった。
「リシェーヌ、これはおまえを殺しに来た者だ! 殺してしまえ!」
途端、何とも形容しがたい異様な殺気が膨れ上がった。
三つの瞳を嬉しそうに輝かせ、少女がその手に魔力の渦を生み出している。
「くっ……」
一体、どうやって切り抜けたのだろう?
そんなことは覚えていないし、思い出したくもない。
とにかく、それが境だった。以来、研究所には強力な結界が張られ、破壊することはおろか入ることさえできなくなった。また、彼の元には刺客が次々送りつけられ、彼を『アルバレン』へと落としていった。
それでも、彼の存在は確かにその妹を血の汚れからは守っていた。代わりに、彼女はますます歪んだものへと変えられていったが……。
十八の春
風が吹いていた。
木の梢がさやさやと鳴っている。
時とは、不思議なもの――。状況は全く変わらないのに、心だけは日毎、落ち着いていくようだった。
感情を手放すと、心はひどく楽になった。そこには虚しさだけが残って。
記憶も、感情的な部分はひどく不鮮明であやふやになっていた。
からっぽ――
胸のどこかで、少年がおかしそうに囁いた。あまり、自分の気が違っていないという自信はない。けれど、それはどうでもいいことだ。
頭と体がしっかりと目的のために動くなら、いい。
いつか、妹を解放して――
そうしたら、奈落の底へ。
それが自分の使命。それが、唯一残された感情的な記憶。
ふいに、信じられないことが起こった。色彩のないはずの世界に――一瞬、色が見えた。
「……?」
木の上から、灰色の葉の間を通して街道を見下ろす。
また、色彩が広がった。同時に、胸が締め付けられるような気がした。
蘇りたい感情と記憶が、暴れている――?
オモイダシテハ イケナイ
少女が歩いていた。両脇を緑に挟まれた街道を、一人、歩いて――
ふいに、彼女は眩しそうに梢を見上げた。
オモイダシテハ イケナイ
思い出したら。
きっと、自分は目的を遂げられなくなってしまう。
少女は再び歩き出した。
彼は静かに。絶望するでもなく、微笑むでもなく。
周りの木々たちがそうするように、静かにそれを見送った。
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