聖魔伝説≪逸話≫

光片

---

 サリスディーン博士が学校から、サリディアがクラスメイトに魔術で火傷を負わせた、として呼び出されたのは、何の変哲もない冬の午後だった。
 博士はもちろん驚いた。
 彼女にはまだ、魔術を教えていなかったから、何かの間違いだろうと思った。
 あるいは、勝手に覚えた魔術を友達に見せようとして、誤ったのか……。
 しかし、9つの子供が起こしたものながら、事件は立派な傷害だった。
 それも、素手の相手にナイフで切りかかるも同じの、タチの悪いものだった。

     *

「リース!」
 ハイネスが投げて寄越したものを、リースは上手に取って後ろに逃げた。
「だめ、返して!」
 クラスで一人だけ、2つ下の9つの子が追いかける。
「おじいちゃんがサリサにくれたの! 壊れるから返して! 投げちゃだめぇっ!!」
 リースは一瞬どきっとしたが、ハイネスの目配せを受け、また別の女子にそれを投げ渡した。リースからそれを取ろうとしていたサリディアが、「あっ」と言って、必死に追いかける。必死になるに決まっていた。ものはただの耳当てでも、春に亡くなった祖父に買ってもらった、彼女にとっては大切なものだ。母親がおらず、父親にも世話係にもあまり構ってもらえていない彼女にとって、祖父の存在は決して軽くなかった。
 その祖父も亡くなってしまった。
 祖父のことを思い出していたのか、サリディアがじっと、大事そうに耳当てを握っている様子に、ハイネスが目をつけた。
 彼女がじっとしていたのは他でもない。友達がいないのだ。
 リースは別に彼女が嫌いではなかったし、クラスの大半の女子がそうだと思う。大人たちは「国籍が違うから」と言うが、彼女が疎外され、いじめられるのは、単にハイネスに逆らったからだ。あの時――
 何だっただろう。学級会で使うリボンか何か、先生が配っていた。好きな色のを取りなさい、と言って。
 国籍も年齢も違う彼女は目を引いて、可愛らしくも見え、お姉さんぶりたいハイネスが寄って行って、ピンクのリボンを取った。
「サリサはピンクがいいよね。似合うよ」
 彼女は不思議そうにハイネスを見て、ちょっと首を傾げ、それから無邪気に笑って言った。
「ううん、白いのか、水色のがいい」
 どうしてわからなかったのだろう。ハイネスがあからさまに不愉快そうな顔をしたのに、皆がハラハラしながら見守っていたのに、彼女はそれが彼女のせいだと気付いた風もなく、自分で水色のリボンを取ってきてしまった。
 すかさず謝って、ピンクにすると言えば良かったのだ。
 でも、彼女はなぜハイネスが不愉快になったのか、わからないようだった。
 おかげでその日から、ハイネスは彼女が嫌いになった。
 ハイネスを怒らせるのが怖くて、他のクラスメイトも彼女を遠巻きにするようになった。
 そして、ずっと一番だったハイネスよりもいい成績を彼女が取ると、ハイネスはますます彼女が嫌いになった。ハイネスに流されて、クラスメイトもそんな彼女を可愛くないと思い始めた。
 そして、今に至る。
 彼女を可哀相だと思わなければ、からかって遊ぶのは楽しい。2つ下の彼女はその分小柄で、しかも多対一だから勝負にならず、いいようにからかえた。時折、こんなことをしていいのかと不安になりもしたが、ハイネスがいいと言うからいいんだと思った。
 下手に逆らったら、自分が彼女の二の舞だ。
 ハイネスには、逆らわない方がいいのだ。


「あっ」
 リースが投げたものを取り損ねた女子が、わずかに声を上げた。耳当てが、あまり綺麗ではない床に落ちる。
「ああっ……汚した……だからだめって言ったのに!」
 サリディアが涙目になって抗議する。
「あんたがリースを突き飛ばしたから悪いんじゃないの。ほら、拾って帰りなさいよ」
 ハイネスが言った。
 サリディアは決してリースを突き飛ばしたりしていなかったが、皆口をそろえてそうだと言うだけだった。
 サリディアは睨むようにハイネスを見た。
「何よ、いらないの? 汚れたくらいでさ!」
 彼女が唇を噛みしめてそれを拾おうと屈み込むと、気に入らないなら捨てればいいと、ハイネスが耳当てを蹴飛ばした。蹴飛ばされた耳当ては、壁に当たって軸の部分がパキンと割れた。
「壊したあっ!!」
 サリディアが何事かと思うような、絶叫に近い声を上げた。
「あんたがいらなそうな顔してるからじゃない。大事な物なら使えば? 軸、テープで貼れば使えるわよ。ほら、テープで巻きなさいよ、きったないけどね!」


 ――サリサ――
 祖父が買ってくれたもの。
 ――うむ、可愛いのう。白いのと水色の、どちらにするか迷ったが……おまえには白が似合うの。優しく輝いておる――
 せめて次の誕生日まで、壊さないで大事に使ってごらんと、そうしたら耳当ても嬉しいと、笑っていた。
 7つの時にもらった物も、8つの時にもらった物も、そこは子供のことで、壊してしまったからだ。
 でも、次の誕生日は、ない。
 祖父からの最後の贈り物だから、大切に、大切に使っていた。
 次の誕生日は、ない――


 サリディアはカっと目を見開くと、ぼろぼろと涙をこぼしながら、昂ぶった感情に震える声で呟き始めた。
『光の欠片 陽の欠片 我が手に集いて姿を現せ』
 クラスメイトの誰にもわからない言葉、呪文。サリディアは繰り返し、手応えがあるまで、それを唱え続けた。
光片(ライトチップ)!』
 彼女の小さな手から光が生まれ、ハイネスを打った。
「きゃああっ!」

     *

 家に戻って、一通り娘の言い分を聞くと、博士は深く嘆息した。
 魔術は自宅の魔術書を頼りに、自学自習で覚えたらしい。
「サリディア……。それでもそこで魔術に頼れば、おまえは一生、そういう時どうするべきなのか、わかるようにならない」
「でも……!」
「手加減したのは褒めておく。だがな、サリディア。安易に力に頼ってはならん。力によって立つ者は、いずれ力によって滅ぼされる。まして、憎しみに任せて魔術を使ってはならん。母さんの一族は、そのために滅ぼされたのだ。一部の者が、今日のおまえのように魔術を使い、魔術師を憎ませた。それがどんなに悲しいことか、わかるか」
「……」
「サリディア、けんかはしてもいい。手が出てもいい。だが、魔術や刃物を使ってはだめだ。それは卑怯なことなんだよ、サリディア」
「……だけど、ハイネスが……」
 窮鼠(きゅうそ)猫を噛む、とはよく言ったものだ。人を傷つけることを極端に嫌うサリディアが、それでもこんなことをするなど、博士は想像だにしていなかった。
 飛び級の意味を甘く見ていたかもしれない。
 小柄な彼女では、しかも多対一では、まともなケンカにならないのだろう。相手に痛い思いをさせるのに、他の方法を思いつかなかったのは、わかる。
「そうだな。友達も卑怯だったが、それでもダメだ」
 考えるしかないのだ。他の方法を考え出すしかないし、それがメルセフォリアのやり方でもある。安易に力に頼らず、自分だけの利益を追わず、優れた魔道師としての自覚と誇りを持って、その名を響かせてきた。
「魔術は人を守るために使いなさい。おまえの怒りは、もっと別の方法で――誰もが持っている方法で、表現しなさい。それができる子だから、私もおじいちゃんも、おまえが好きなんだよ」
 サリディアはうなだれて、肩を落として部屋に戻って行った。
 耳当てを壊したことよりも、もっと祖父ががっかりしたであろうこと。
 彼女が、受け継いだ魔術で人を傷つけたこと。
 それを突きつけられたから。
「……博士、でも、可哀相なんじゃないですか? セルリアードがいなくなって、記憶がなくても、拠り所をなくして心細いんでしょうし……。そこまでして通うほどのものですかねえ、学校なんて」
「どうだろう」
 ラーテムズの言葉に、博士は曖昧な返事を返しただけだ。
「ラーテムズ、他人事のような顔をしてるがな。おまえ、自分が言ったことの意味、わかってるのか? 言っておくが、あの子が学校をやめるとしたら、おまえに面倒を見てもらうからな。――そもそもおまえだぞ、あれの教育係に雇ったのに、面倒くさがって学校に通わせろと言い出したのは」
「――トラバス助手が出て行って、手が足りないからと、私に正式に助手の仕事を回してきたのは博士でしょう?」
 ……。
「その前の話じゃないか」
 博士の指摘に、助手は慌てず騒がず、無害そうに笑って言った。
「博士、せめてヒントくらい、出してあげてはいかがです? このまま放任しても、そう簡単には上手くやれないでしょう。今度のことも、相当追い詰められてる証拠だと思いますけどね。実際、難しいでしょう。あのくらいの女子は、おしゃべりと仲間外れが大好きなんですから」
「あれには、そういうことはしないし、されない子になってほしいんだがな」
「そうですね」
 学校、やめさせる話はどうなった。
「簡単そうに言うが、わしにだって、どうやったら上手くやれるのかなんてわからん。おまえ、わかるのか」
「――まさか。女心は不可解で、混沌として、あまつさえ興ざめですから。私は数式の方が好きです」
「うむ、学問はいいな。確実に前に進むし、わかる」
 そこ。保護者二人、逃げる気か。
「ま、大丈夫なんじゃないですか。学生時代くらい失敗したって、どこからでも人生やり直せます」
「そうだな。苦労は若いうちにせんと。いい人生経験になる」
 ……。
 二人は何か悟ったような、穏やかな表情を見せた。
「お嬢様ですからね。乗り越えるでしょう」
「うむ」
 博士は席を立つと、家政婦を呼んだ。
「バルダ! 今日は、何かサリディアの好きなものを作ってやってくれ」
「甘いものですよ」
 と、助手。
「たまには付き合え。これくらいしか、してやれんからな」

     *

 サリディアは、ハイネスに謝らなかった。
 彼女自身が招いた失敗だったかもしれない。
 ハイネスに怪我をさせたと後ろ指さされ、非難される身になって、楽しいとは言えない日々が続いた。

「サリサ……ゴミ捨て、一緒に行く?」
 一週間ほど経った頃だった。
 リースが声をかけると、サリディアは驚いた顔で彼女を見た。
 この一週間、彼女に声をかける者など誰もいなかったから。
「うん」
 ゴミ箱は小学生の女子には重いので、2人がかりで運ぶのだ。
 焼却炉への道すがら、リースはためらいがちに彼女に言った。
「サリサ、耳当てのこと、ごめんね……」
 サリディアはしばらく黙っていたが、やがて言った。
「リースも、私がきらい?」
「……ううん」
「どうして、耳当て返してくれなかったの?」
 リースはしばらく黙り、それから言った。
「皆が返さないから……。サリサが、わがままだからいけないんだよ。ハイネス、怒らせるから……」
 サリディアには、わからないようだった。不思議な子だ。頭はいいのに、どうしてわからないのだろう。
 それでもその日から、サリディアはすっかりリースになつき、ついて回るようになった。リースを見ると、嬉しそうに駆け寄ってくる。
 可愛くはあったが、リースは正直困った。
 ハイネスに睨まれるわ、リース自身が孤立するわ、散々だ。
 そんなある日、リースは「サリサなんか手懐けて」とクラスメイトに笑われた。
 最悪とか、だから友達がいなくなるとか、クスクスやられて、目の前が真っ暗になる思いだ。
 それと気付いたサリディアが、そこに駆け込んできた。
「違う! リースは優しいだけだよ! 意地悪しないもの!」
 驚くほど強い口調で言って、リースを後ろに庇う。
 自分が何か言われる分には黙っている方なのに、普段のそれが嘘のように感じるほど、サリディアは必死で積極的だった。
 けれど、リースは喜べなかった。
 彼女の好意はわかる。彼女に、自分しかいないのも。だから、振り払えなかった。
 けれど、彼女に大事にされるというのは、耳当てと同じ運命なのだ。
 それだけで、クラスメイトのいじめの的になる。
「……めて……」
「リース?」
「やめて、もうやめて! つきまとわないでよ! 私は、誰もいなかったから、ゴミ捨て誘っただけよ! もう、つきまとわないで!!」
 サリディアが息を呑み、追い詰められた瞳で彼女を見るのが見えた。
 小さな体が、震えている。


 やめて! そんな目で私を見ないでよ!


 リースは無言で席を立ち、逃げ出すように、教室から走り出た。
 涙が止まらない。
 傷つけた。精一杯、彼女を守ろうとしてくれたあの子を、傷つけた。


 だけど……!


 それから一週間、リースは学校を休んだ。
 次に登校した日、机の中に小さなメモが入っていて、リースはどきりとした。誰かのいやがらせだろうか。
 メモにはあの子の字で、


『ごめんなさい。
 構ってくれてありがとう』


 とだけ書いてあった。
 サリディアはもう、リースに声をかけるでもなく、自分の席にいた。何か、一人遊びしているようだった。
 ……鉛筆の握り方がおかしい。
 こぶしで握り締めて……泣いてる……?
 頑なな小さな背中が、リースの胸をズキリと痛ませた。
 ハイネスが寄ってきた。緊張するリースに、ハイネスはいつも通りの、世話好きで案外優しい口調で言った。
「リース、この間はごめんね。あたしに謝らせる約束で、サリサと仲良くしてやってたんだってね。でも、あの子謝らなかったのよ。だからもう、仲良くしてやらなくていいからね」
 リースは驚いてハイネスを見た。
「サリサがそう言ったの?」
「うん? そうよ。ありがとね、リース」
 リースはぐっと、メモを握り締めた。


 ごめん――私は――


「うん。構ってほしくて、なかなか謝らないんだって思ってた……。でも、あの子、嘘つきだよね」
 サリディアに聞こえるように言った。
 嘘つき。
 彼女が庇わなければ、リースは元のようにはクラスの他の子たちと、仲良くできなかったかもしれないのに。
 そうしたら、彼女と仲良くするしかなくて、彼女はもう、一人遊びしなくて良かったかもしれないのに。
 彼女が決して、一人遊びが好きではないことは、短いながらも仲良くしていた期間でわかった。


 リースの後をついて回った彼女は可愛らしくて、無防備で、朗らかだった。
 リースを庇って、自分より大きな相手と闘っていた彼女は、綺麗で強かった。


 彼女に優しいねと、大好きと、心のままに言える人も、どこかにはいるんだろうか。
 彼女を手に入れるのは――

     *

「従おうとも、従わせようともしない。
 彼女の心はとても自由で――ここでは少し、浮いてしまっています」
 保護者面談で、担任の先生がそう言った。
「いけませんか? そういうふうに育てたのですが」
 博士が答える。
「つらい思いをしているようです」
 もっと、自由だった少女を知っている。
 ターニャ・エマ。
 それでも、ああいうふうに育ってほしいのだ。
「……大学までの辛抱です。それに、あれなら乗り越えるでしょう、いつか――」

     *

 小学校、中学校と失敗してしまうサリディアながら、博士の言う通り、大学ではついにうまくやった。
 カティラシティの大学は、カティラ独特の自由な空気に包まれ、彼女の気質に合ったのかもしれない。
 組織にはいまいち適応しない少女ながら、個人としての魅力は高く、彼女の周りには自然と人が集まるようになっていた。
 そして今、彼女が独りだった過去をして、中傷する者は誰もいない。
 よく頑張ったねと、微笑むだけだ。
 その上に、今の彼女があるのだから――

● 終わり ●

---