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ケルトは静かに聖魔の消えていった空を眺めると、しばし、物思いに
耽った。
セルリアードは結局、ほとんど休息を取らなかった。
アルン陣営で、軽く身を清めて、動きやすい軽装を見繕っただけだ。
その程度でも、ふと見上げた空が暮れなずんでいるのに気付くと、彼は不安を覚えたようだった。
聖魔――
アルン王家に伝承されるその伝説は、彼にはあまり、似合わない。いっそ、聞いた時には驚いたけれど、マーディラの方がそれらしい。残酷なのだ、その伝説に付随する物語が。
彼が美しい翼を広げた姿には、圧倒された。もとより、あの風貌だ、文句のつけようもなかった。
けれど、彼には二面性がある。
冷酷で理知的で徹底的な、それでいながら優雅で、支配者然とした一面。
無防備で無欲で繊細な、あどけない、天使さながらの一面。
いずれも間違いなく、彼の本質なのだ。そんな、後者の本質をも併せ持つ彼に、炎の魔道師を除く四元の魔道師を死に導くことなど、望めるのか。
それをしなければならないのが、聖魔なのだ。
――伝説の成就を、人が、残酷にしてしまったんだって――
たとえば、ケルトが帯びる
地祇の剣こそ、地の魔道師のための祭具だった
地祇の環の成れの果てだ。人は、神が創造したという祭具を、剣に打ち直してしまったのだ。数百年前、『祭具』として剣を聖魔に献上した人間は、時の聖魔の怒りに触れ、その命を絶たれたと伝えられている。
聖魔と天魔、それは双璧の英雄だ。双方が、神威の代行者なのだと、伝説は謳う。
対極の存在で、かたや存続を司り、かたや滅亡を司るのに、そこに正邪は存在しないと、伝説は謳う。
神の真意は見えない。
それでも、アルン王国は聖魔に
与する。滅びそのものを望むことなど、ケルトには到底、理解し得ないからだ。
「陛下、スィール皇帝側近、カレン・リリオブザヴァリーと名乗る者が、目通りを願い出ておりますが」
ケルトはすぐに、最前、スィール軍を制止した少女かなと、思い至った。
「わかった。僕が会う、案内してくれ」
U
セルリアードは目指すシュレイディンガル城を、闇の中にとらえていた。日は完全に没し、さらに時間が経過している。外気は身を切るほどに冷たい。
急がなければ――
彼女は最後まで、諦めずに待つと約束してくれた。
もっとも、その彼女に、彼は――
身を切り裂いて置き去りにする仕打ちで、応えてしまったのだ。
彼女はもう、生きていないかもしれない。
それでも、彼女が生きていることを望み、それと信じることを、支えるべきだった少年の言葉が、彼に許していた。
いずれは
凌駕される予感があったにしても、随分と成長が早い。支えるはずが、既に支えられている。
気配を殺し、セルリアードはしなやかに闇の中を移動した。翼は邪魔だからしまった。
邪魔は入らなかった。真夜中のシュレイディンガル城は奇妙に静かで、わずかな人の気配さえ、しなかった。
セルリアードは間もなく、サリディアが捕らわれているはずの地下牢に到達した。
その地下牢の扉にさえ、鍵はかかっていなかった。彼はいよいよ、背筋が冷たくなる思いがした。
天魔に魅入られた城が、今、まるで墓場かのような静かさなのだ。
本性を
顕にした皇帝ディルアードが、城に棲んでいた者すべてを、
葬り去ったのか。
だとしたら――
地下牢は、真の闇に支配されていた。なおかつ、凍えるほど寒かった。
小さな明かりを灯すと、石の床に、人影が横たわるのが見えた。
セルリアードは息を呑み、その目を凝らした。影はぴくりとも、動かない。
「サリディア?」
呼び声にも、返事はなかった。
彼は、闇に横たわる少女をそっと、抱き起こした。
「…………で……」
何か、聞こえた気がした。セルリアードは耳を澄まし、少女の生命の証を求めるように、その手に触れた。温かかった。
――生きて……――
たまらず、彼は彼女の軽すぎる身を、儚い手応えに加減しながら、抱き締めた。
「………かない……で……」
何か、聞こえた。
「――サリディア」
セルリアードはもう一度だけ、その名を呼んだ。
それでも彼女の意識が戻らないなら、今は、眠っていていい。一刻も早く、互いを確かめたくもあったけれど、凍えることも、恐怖に震えることもない場所へ、彼女を連れ戻す。目覚めるのは、その後でもいいのだ。
「……セ…ルリ……アード……?」
うっすらと、サリディアの目が開いた。
彼は固く彼女を抱き締め、頷いた。
「私だ……済まない、遅くなって……」
「セ……」
彼女はしばし
惚けたように彼を見て、やがて、その手をゆっくりと彼の頬へと伸ばした。本物かどうか確かめるように、触れた。
「セルリアード……?」
彼は優しく微笑んだ。それが、伝えたい気持ちだった。
けれど、彼女は悲しい瞳しか、しなかった。目に涙を溜めて、首を横にふった。
「許して……」
「サリディア?」
力を失ったサリディアの手が、彼の頬から滑り落ち、彼女はただ、震える声で繰り返した。
「お願い……行かないで……」
彼女の頬を、遂に、涙が伝った。
――声が、出ない。
「お願い……」
今にも消え入りそうな、途切れかける声が、訴えた。恐怖を宿した瞳が、彼を見る。
「いや……行か…ないで……置いて…行かないで……!」
少女の身が酷く震え、とめどない涙が、その頬を伝い落ちていった。
なぜ――
夢と
現の境が、つかないのか。
きゅっと、彼女は一度つらそうに、口許を引き結んだ。嘆息すると、彼を見納めるように、これ以上ないくらいの哀色を瞳に
湛え、
呟いた。
「――行…くの……? 置いて…行っ………」
それきり、彼女は泣き崩れた。
もう、彼の腕の中にいることさえ、わからないようだった。
「サリディア――」
何度も、彼女は何度も、彼に行くなと懇願して、その度に、置き去りにされる悪夢を見続けたのか。
追い詰められた彼女に、彼がどれほど、残酷なことをしたのか。
終わりのない悪夢に苛まれ、彼女がどれほど、苦しんだのか。セルリアードは今こそ、思い知った。
何もかも、わかっていたはずだったのに。
彼女の全てを手に入れて、彼を失うなど、耐えられまいと――そう、確信が持てるまで魅了した。
それは面白かったし、彼女に必要とされるのは心地好かったから。
その彼女を、身を切り裂かれてまで彼にすがった彼女を、天魔の腕の中に、置き去りにしたのだ。
その残像の、不快。怒りに支配され、彼女がどんな思いで泣き叫んだか、考えることさえ、しなかった。
「――かない、もう、置き去りになどしない、サリディア!」
彼の声は、まだ、彼女の悪夢まで届かないようだった。
「サリディア!!」
強く呼ぶと、びくっと彼女の身が震えた。初めて、目が覚めたように。
「……セ…ルリアード……?」
「迎えに来た」
サリディアの目が大きく見開かれ、何か言いたげに、口許が動いた。
けれど、言葉にならない。
セルリアードもただ、もう何も言わず、彼女をきつく抱き締めた。
サリディアの肩が大きく震えた。
「いいの……? 一緒にいても、いいの……?」
「いいよ。当たり前だ」
少女の目から、大粒の涙が転がり落ちた。
「っ……」
「サリディア?」
彼女はひしと彼にしがみつくと、初めて声を上げて泣いた。しゃくり上げて泣いた。
「あき…らめようと思ったの……! 我慢…しな…きゃって……!」
セルリアードは驚いて彼女を抱いていた。彼女がこんな風に泣くことがあると、こんな風に泣きついてくることがあると、思ってもみなかったから。
「……もう……一緒にいてって、言えな……い…て………だけど……!!」
愛しさが込み上げて、彼は抱く腕に強く力を込めた。
「もう、いい……もう泣くな、サリディア」
セルリアードは彼女が凍えないよう、また宥めるようにしながら、サリディアが泣きやむのをじっと待った。
「な……泣きやめたら、傍に……いてもいい……?」
「いいよ」
サリディアが懸命な様子で
嗚咽を止めて、衣装の袖で涙を拭う。そんな彼女の様子が、愛しかったから。
サリディアがだいたい落ち着いた様子で静かになると、セルリアードは尋ねた。
「何か、頼みたいことはないか? 何でも聞くから言ってごらん」
「……何でも、いい…の……?」
彼が頷くと、彼女はしばらく、彼の腕の中で考えていた。止まらない彼女の震えが、それだけが不安を誘う。
「傍に……いて……?」
自信なげな小さな声が、ひどく遠慮がちに言った。
「……いる」
そんなこと、当たり前だと思っていたのに――
それは、欲張りな願いかもしれないけれど。
互いに望めばささやかだ。
彼は苦笑するべきところを、愛しさが勝って微笑した。
「いる。他には?」
彼女の震えはまだ、止まらない。
「……他に……」
もはやどれだけ残っているともつかない命の残りが、彼の腕の中でなお、震えによって奪われる。
どうしたら、どれほど強く抱き締めれば、つなぎ止めておけるのか――
「……夜明け…が……見たい……」
途切れがちな声で、サリディアが言った。
彼女は彼の胸に額をもたせていたので、その表情はうかがえなかったけれど。
「見せる」
そんな当たり前のことすら、この場所では叶わなかったのだ――
「見せてやるから――」
次第に、震えが激しさを増すのに気付いた。
壊れかけた、哀しいまで軽い彼女の身を抱き上げると、サリディアが力を失った手で、それでも、嬉しそうに微笑んで、彼につかまった。
「帰れるね」
「ああ」
――手遅れだった?――
震えが、彼女の震えが止まらない。
ようやく、つかまえたのに。
ようやく、この腕に取り戻したのに。
今度は、永遠に失われようとしているのか。
「嬉しいな」
彼には頷けなかった。
夜明けは遠い。
――死なせるものか――
暗い階段を上り詰め、冷たい石柱の廊下を駆け抜ける。
差し込む月明かりが、幻想的に辺りを照らしていた。夜空には星たちが儚く、それでも光を失うことなく瞬いている。
死なせるものか。
必ず、帰郷してみせる、彼女を連れて。
彼女の震えが、熱が、確実に命を削る営みが、止められない。
表に出そうになる不安と恐怖を、彼は気力で抑え続けた。
廊下の途中でふと。
彼女の震えが止まった。
「サリディア――?」
「わ……」
微かに、笑おうとしたのか――
「ごめん……なさい……夜明け、見られない……かも……」
彼は息を詰め、何かが崩壊する寸前の、刹那の薄氷に支えられるような沈黙の後、彼女に微笑みかけた。
「何を――? おまえらしくないな、約束したんだ、見せるよ」
彼女の瞳が、哀しげに彼を見上げた。
「うん、きっと、あなたなら見せてくれるね……でも、夜空も、あなたも、もう見えないの……」
夜風を心地好く感じるから、真の闇の中にはいないと、わかるのに、と――
彼女は指先で彼を探るようにして、哀しく、涙を一筋伝わせた。
「ごめん……ね……嘘、ついちゃった……ずっと、傍にいるって、約束したのに……ずっと、傍にいてくれたのに……」
セルリアードはもう、走るのをやめていた。
「……サリディア……いい、謝るな。――おまえは約束を守ったよ」
彼が、死神と呼ばれる者、許されざる者に成り果ててさえ、彼女は変わらなかった。彼の世界に、なお奇跡のような光彩を投げ掛け続けた、唯一人の少女。
「セルリアード……?」
「それに、どこへも行かせはしない、おまえを忘れたりは、しないから。おまえの記憶が、私を支えてくれる――」
サリディアの頬に、何か、温かいものが弾かれた。透明な――
胸に響くような、優しい感触を、残して。
「ただ、今だけだ……二度と、慟哭はしない。――だから、今くらいは、見逃してくれ――」
サリディアは、その時確かに微笑んだ。もはやその力がなくとも、思いくらいは伝わる。
「ありがとう……たくさん……楽しかった、とって……も……」
彼は静かな、本当に静かな少女の身体を抱き締めた。
「あたたかい――」
眠るように。彼の腕の中で、彼女はこときれた。
V
磨き抜かれた冷たい床に、その片膝を落としたまま、彼は微動だにしなかった。
悪夢から醒めるのを待つかのようでも、立ち上がる意義さえ失くしたかのようでもあった。
「――死んだか」
渡り廊下の奥から、冷たく無感情な声が、夜の
静寂に響いた。
硬い靴音を響かせ、醜悪な漆黒の羽根を背に負う者が、姿を現していた。
セルリアードはそっと、サリディアの
亡骸を床に横たえ、
怜悧な目をして、立ち上がった。
淡く輝くような聖白の翼を広げ、剣の鞘を払う。
恐怖は感じなかった。
一欠片すら。
研ぎ澄まされた心に静かに浮かぶのは、巡り合った人々のことだ。サリディアの傍で、世界は優しく美しく、輝くように生命を取り巻いていた。
寂しげなリシェーヌの面影、彼を気遣うケルトのふとした表情、口を尖らせて絡むくせに、憎みきれない膨れ面のディテイルのこと――
微笑みさえ、こぼれた。
彼がサリディアの傍で笑っていることを、許してくれた人々の住まう世界だ。
まだ、懸命に生きている、優しい人々の居場所を、この世界を存続させるために、できること。
この命に代えても天魔を阻めば、彼らへの償いくらいには、なるだろう。
サリディアがいなければ、きっと、こんな風には世界を愛せなかった。
もはや辛いだけの、痛みを伴うだけの記憶だとしても――
彼を衝き動かすものが、憎悪でも怨嗟でもなく、半生を取り巻いた人々の幸運と未来を願う愛しさであること。
誰のことを思い出しても、願いが唯一であること。
それこそが、失われない、彼女が存在した証。彼女からの、尊く美しい贈り物。
「――酔狂だな、愛した者の残骸を腕に、世界の存続を望むのか」
ひたと、セルリアードは天魔を見据えた。
彼が選んだ道の、過酷さと罪深さを鑑みれば、失う覚悟は必定で、それが宿命の巡り合わせだったとしても――
「彼女を育み、彼女に育まれた世界の存続を、望まない理由はない」
涙を伝わせていたのこそ、セルリアードの方だった。
けれど、自覚の及ばない、魂の最も深い場所で、わずかに混乱し、より動揺したのは、ディルアードの方だった。
天魔にとって、それはあまりに訝しく、理解の及ばない言葉の響きだったのだ。
それだけなら、聞き捨てたに過ぎない言葉。けれど、同じ響きを持つ言葉を、誰よりも美しく、大切だった生命の持ち主が、遺言した。
封印した記憶の奥底から、胸騒ぎが湧き上がる。
あの時にも、わからなかった。わからないまま、その遺言を破棄した。
そうせざるを得なかった。それを、何故今頃になって、恐怖にも似た、絶望と焦燥が湧き上がるのか。
ディルアードは片手で顔を覆うようにして、その指の隙間から、聖魔を見た。
その顔を歪め、聖魔をか、天魔をか、嘲笑するように呟いた。
「愚かしい、死んだ者との約束を果たせているかなど、どう知る術がある……?」
そんなものは、ただの自己満足だ。何の意味もない。
約束通りにしているつもりでも、望み通りにしているつもりでも、よく泣かせた。
それでもまだ、胸に突き刺さるような涙が落ちて、あるいは、花が綻ぶような笑顔がこぼれて、そこに生命があったから、わかったのだ。
死んだ者はもう二度と、嘆くことも、喜ぶこともない。方法の間違いを知る術も、もはや存在しない。
理解し得ない遺言を、果たせたものか。
「それを知る術がなければ、彼女が愛してきた世界を守ることは、愚かなのか」
蒼炎の剣の透き通る刀身が、刹那、月光を映してきらめいた。
思いがけない天魔の動揺は、聖魔に対極の真実を知らしめた。天魔の望みは真に世界の崩壊。天魔が何に絶望し、それを望むに至ったのかは知り得ない。けれど、絶望と苦痛を昇華できず、まだ美しい世界さえ、滅ぼさんとする存在が天魔なのだ。
「――戯れ言を」
セルリアードが静かに仕掛けた初太刀を、ディルアードが紙一重でかわし、返す刀で斬りつけた。その刃先がわずかに首筋を掠め、赤い筋を引くも、美しい聖魔の双眸は、遂に、完全に天魔の命核を捉えていた。
天魔の命核は、天魔が決して庇わないもの。
世界を滅ぼさなくとも、天魔の世界は崩壊し得るからだ。――その命を絶たれることで。
キン――
氷が砕けるような、澄んだ高音が夜闇に響いた。
天魔の魔剣を一閃で薙ぎ、
蒼炎の剣がその結界さえ砕いたのだ。精霊石の切っ先が、天魔の命核へと突き立てられる――
突如、双方の視界が、衝撃を伴う強力な光の奔流に閉ざされた。
「――!?」
天魔を討ち取る寸前で、
蒼炎の剣は止められていた。
「ディルアード」
美しい、
玲瓏たる女性の声が威圧した。
「産みの親として最初で最後の命令よ、剣を引きなさい」
艶やかな亜麻色の髪を風に流し、彼女は場違いに誘惑的な微笑みを天魔にくれた。
聖白の輝きは、魔力の奔流だ。利き腕で天魔の凶刃を止め、空いた逆腕で、
蒼炎の剣さえ制してみせたのは、――もう一羽の聖魔だった。
「産みの親として……?」
皮肉げな、凍てつく声色でディルアードが
訊ねた。
「貴様が親らしい務めを、何か一つでも果たしたのか?」
「果たしたわよ」
一触即発の、張り詰めた沈黙が降りた。彼女は氷の微笑を浮かべ、言い放った。
「産んでやったじゃないの」
「――はっ! 頼んだ覚えはないわ!!」
マーディラは心底可笑しげに、闇に高笑った。
「あら、奇遇ね。あたしも、産みたいなんて頼んだ覚えはないわ? でも、いい子ね、ディルアード、ここは退きなさい。そうしたら、金輪際、母親面しないであげるわ。――どう?」
それとも、愛されたいのかしら? ――と、天魔の神経を逆撫でするようなことを、彼女は甘い声音で囁いた。
凄まじい形相を呈したディルアードの唇の端が、やがて少しずつ引き上げられた。底冷えのするような、目だけが笑っていない微笑を見せ、天魔は黙って、その姿を虚空に溶かした。
「――セルリアード、よくやったわ」
驚愕に目を見張るセルリアードに、天魔の姿が消えるのを待って、マーディラが告げた。
「
北の魔王の血族は、母親の命核を喰らって生まれてくることが珍しくないし、そうして生まれた高魔族の幼生は、嬰児であっても、低級の魔族なら捕食できるほど際立った力を身に備える――ディルアードはその特質を備えて生まれたわ。それなのに、あたしが生きていることの意味が、わかるかしら?」
「――……」
セルリアードは黙って、かぶりを振った。
「あなたが、ディルアードの母親だと……?」
「――産んで呪っただけで、母親と呼べるのならね」
マーディラは嫣然と笑み、言葉を続けた。
「待っていたわ。あたしじゃなく、姉さんの眷属が、聖魔として覚醒するのを――」
屈み込んだマーディラが、冷たくなったサリディアの手に触れ、その深紫の瞳から、
陽炎のような、高密度の魔力を立ち昇らせた。
「聖魔と四元の魔道師だけに操れる、奥義があるわ。魔族であれば
喰魔結界――ディルアードの
喰魔結界に、あんた手こずってたようだけど、何の役にも立たない奥義よね。たとえ、魔王として君臨できたところで、何にもならないもの」
魔族ははずれよとでも言いたげに。
元来、結界を操れない魔族にとって、
喰魔結界は唯一無二の結界術だ。――シェラザードを北の魔王たらしめたのが、その奥義に他ならない。
「でも、姉さんの眷属は違うわ。魔族でも、妖精族でも、人間でもない」
北の魔王と
妖精のハーフが姉のラディアよと、何かを期待する声色で、マーディラは続けた。
「あんたには、命核――人間のものは、魂と呼ぶのかしら? それに働きかける魔力があるはず。あたしの呪術と織り合わせれば、死者を甦らせることさえ、できるかもしれない」
セルリアードが息を呑み、マーディラを凝視する。彼女は満足げな表情で、頷いた。
「ねぇ、あたしと手を組まない? 死者の命核は時間が経つほど変容し、欠損し、取り戻せなくなるわ。だから、決断は急いで。――あたしは奥義の術式を知ってるの。サリディアの壊れた肉体、命核を受け入れられる状態まで、戻してやることもできるわ。あんたがあたしの望みのためにも奥義を振る舞ってくれるのなら、術者の寿命が数百年削れるような呪術でも、サリディアにかけてあげる。――お安い御用よ?」
夢であることを、恐れるかのように。
彼は、冴え凍る夜気に、霜の降ったその翼を確かめた。ひんやりとした冷たさが、夢ではないと知らしめる――
もっともそれは、慎重にならざるを得ない申し出でもあった。彼自身は、サリディアを取り戻すためなら、どんな犠牲も厭いはしないが、彼等のみならず他人の犠牲さえ、厭いそうにないのがマーディラだ。
――天魔さえ、産み落とした女性。
「あなたのような魔族が、何を望む?」
彼女は瞳を哀切に揺らし、その後、麗しく微笑んだ。
「ディルアードが喰らった命核を――その本来の持ち主に、還したいの。まだ、滅んでいなかったのよ」
天魔に対峙した時とは別人のように真摯な瞳で、彼女は満天の星空を振り仰いだ。
「もう永遠に、巡り会えないと思っていたわ。でも、存在したの。この腕に抱きたい、慈しみたい、愛した人の子を――」
天魔を滅ぼすはずの命核を、それを待たずに在るべき処へ還してなんて、ごめんかしら? ――と、マーディラが艶のある仕種で、小首を傾げる。
セルリアードはわずかに途惑いながらも、その真意を確かめるように彼女を見返し、やがて、厭わないとかぶりを振った。
全ての光芒が収まり、呪文の詠唱がやんだ時。彼は遠ざかる意識の中、微かな息遣いを聞いたように思った。聞こえるはずのなかった、小さな小さな音を――