聖魔伝説6≪伝説編≫ 祈り

第13章 ――失われないもの――


目次

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◆ T  U  V

≪2008.08.15更新≫



 T
 ケルトは静かに聖魔の消えていった空を眺めると、しばし、物思いに(ふけ)った。
 セルリアードは結局、ほとんど休息を取らなかった。
 アルン陣営で、軽く身を清めて、動きやすい軽装を見繕っただけだ。
 その程度でも、ふと見上げた空が暮れなずんでいるのに気付くと、彼は不安を覚えたようだった。
 聖魔――
 アルン王家に伝承されるその伝説は、彼にはあまり、似合わない。いっそ、聞いた時には驚いたけれど、マーディラの方がそれらしい。残酷なのだ、その伝説に付随する物語が。
 彼が美しい翼を広げた姿には、圧倒された。もとより、あの風貌だ、文句のつけようもなかった。
 けれど、彼には二面性がある。
 冷酷で理知的で徹底的な、それでいながら優雅で、支配者然とした一面。
 無防備で無欲で繊細な、あどけない、天使さながらの一面。
 いずれも間違いなく、彼の本質なのだ。そんな、後者の本質をも併せ持つ彼に、炎の魔道師を除く四元の魔道師を死に導くことなど、望めるのか。
 それをしなければならないのが、聖魔なのだ。
 ――伝説の成就を、人が、残酷にしてしまったんだって――
 たとえば、ケルトが帯びる地祇の剣(アストヴェスト)こそ、地の魔道師のための祭具だった地祇の環(アストヴェスト)の成れの果てだ。人は、神が創造したという祭具を、剣に打ち直してしまったのだ。数百年前、『祭具』として剣を聖魔に献上した人間は、時の聖魔の怒りに触れ、その命を絶たれたと伝えられている。
 聖魔と天魔、それは双璧の英雄だ。双方が、神威の代行者なのだと、伝説は謳う。
 対極の存在で、かたや存続を司り、かたや滅亡を司るのに、そこに正邪は存在しないと、伝説は謳う。
 神の真意は見えない。
 それでも、アルン王国は聖魔に(くみ)する。滅びそのものを望むことなど、ケルトには到底、理解し得ないからだ。
「陛下、スィール皇帝側近、カレン・リリオブザヴァリーと名乗る者が、目通りを願い出ておりますが」
 ケルトはすぐに、最前、スィール軍を制止した少女かなと、思い至った。
「わかった。僕が会う、案内してくれ」


 U
 セルリアードは目指すシュレイディンガル城を、闇の中にとらえていた。日は完全に没し、さらに時間が経過している。外気は身を切るほどに冷たい。
 急がなければ――
 彼女は最後まで、諦めずに待つと約束してくれた。
 もっとも、その彼女に、彼は――
 身を切り裂いて置き去りにする仕打ちで、応えてしまったのだ。
 彼女はもう、生きていないかもしれない。
 それでも、彼女が生きていることを望み、それと信じることを、支えるべきだった少年の言葉が、彼に許していた。
 いずれは凌駕(りょうが)される予感があったにしても、随分と成長が早い。支えるはずが、既に支えられている。
 気配を殺し、セルリアードはしなやかに闇の中を移動した。翼は邪魔だからしまった。
 邪魔は入らなかった。真夜中のシュレイディンガル城は奇妙に静かで、わずかな人の気配さえ、しなかった。
 セルリアードは間もなく、サリディアが捕らわれているはずの地下牢に到達した。
 その地下牢の扉にさえ、鍵はかかっていなかった。彼はいよいよ、背筋が冷たくなる思いがした。
 天魔に魅入られた城が、今、まるで墓場かのような静かさなのだ。
 本性を(あらわ)にした皇帝ディルアードが、城に棲んでいた者すべてを、(ほうむ)り去ったのか。
 だとしたら――
 地下牢は、真の闇に支配されていた。なおかつ、凍えるほど寒かった。
 小さな明かりを灯すと、石の床に、人影が横たわるのが見えた。
 セルリアードは息を呑み、その目を凝らした。影はぴくりとも、動かない。
「サリディア?」
 呼び声にも、返事はなかった。
 彼は、闇に横たわる少女をそっと、抱き起こした。
「…………で……」
 何か、聞こえた気がした。セルリアードは耳を澄まし、少女の生命の証を求めるように、その手に触れた。温かかった。
 ――生きて……――
 たまらず、彼は彼女の軽すぎる身を、儚い手応えに加減しながら、抱き締めた。
「………かない……で……」
 何か、聞こえた。
「――サリディア」
 セルリアードはもう一度だけ、その名を呼んだ。
 それでも彼女の意識が戻らないなら、今は、眠っていていい。一刻も早く、互いを確かめたくもあったけれど、凍えることも、恐怖に震えることもない場所へ、彼女を連れ戻す。目覚めるのは、その後でもいいのだ。
「……セ…ルリ……アード……?」
 うっすらと、サリディアの目が開いた。
 彼は固く彼女を抱き締め、頷いた。
「私だ……済まない、遅くなって……」
「セ……」
 彼女はしばし(ほう)けたように彼を見て、やがて、その手をゆっくりと彼の頬へと伸ばした。本物かどうか確かめるように、触れた。
「セルリアード……?」
 彼は優しく微笑んだ。それが、伝えたい気持ちだった。
 けれど、彼女は悲しい瞳しか、しなかった。目に涙を溜めて、首を横にふった。
「許して……」
「サリディア?」
 力を失ったサリディアの手が、彼の頬から滑り落ち、彼女はただ、震える声で繰り返した。
「お願い……行かないで……」
 彼女の頬を、遂に、涙が伝った。
 ――声が、出ない。
「お願い……」
 今にも消え入りそうな、途切れかける声が、訴えた。恐怖を宿した瞳が、彼を見る。
「いや……行か…ないで……置いて…行かないで……!」
 少女の身が酷く震え、とめどない涙が、その頬を伝い落ちていった。
 なぜ――
 夢と(うつつ)の境が、つかないのか。
 きゅっと、彼女は一度つらそうに、口許を引き結んだ。嘆息すると、彼を見納めるように、これ以上ないくらいの哀色を瞳に(たた)え、(つぶや)いた。
「――行…くの……? 置いて…行っ………」
 それきり、彼女は泣き崩れた。
 もう、彼の腕の中にいることさえ、わからないようだった。
「サリディア――」
 何度も、彼女は何度も、彼に行くなと懇願して、その度に、置き去りにされる悪夢を見続けたのか。
 追い詰められた彼女に、彼がどれほど、残酷なことをしたのか。
 終わりのない悪夢に苛まれ、彼女がどれほど、苦しんだのか。セルリアードは今こそ、思い知った。
 何もかも、わかっていたはずだったのに。
 彼女の全てを手に入れて、彼を失うなど、耐えられまいと――そう、確信が持てるまで魅了した。
 それは面白かったし、彼女に必要とされるのは心地好かったから。
 その彼女を、身を切り裂かれてまで彼にすがった彼女を、天魔の腕の中に、置き去りにしたのだ。
 その残像の、不快。怒りに支配され、彼女がどんな思いで泣き叫んだか、考えることさえ、しなかった。
「――かない、もう、置き去りになどしない、サリディア!」
 彼の声は、まだ、彼女の悪夢まで届かないようだった。
「サリディア!!」
 強く呼ぶと、びくっと彼女の身が震えた。初めて、目が覚めたように。
「……セ…ルリアード……?」
「迎えに来た」
 サリディアの目が大きく見開かれ、何か言いたげに、口許が動いた。
 けれど、言葉にならない。
 セルリアードもただ、もう何も言わず、彼女をきつく抱き締めた。
 サリディアの肩が大きく震えた。
「いいの……? 一緒にいても、いいの……?」
「いいよ。当たり前だ」
 少女の目から、大粒の涙が転がり落ちた。
「っ……」
「サリディア?」
 彼女はひしと彼にしがみつくと、初めて声を上げて泣いた。しゃくり上げて泣いた。
「あき…らめようと思ったの……! 我慢…しな…きゃって……!」
 セルリアードは驚いて彼女を抱いていた。彼女がこんな風に泣くことがあると、こんな風に泣きついてくることがあると、思ってもみなかったから。
「……もう……一緒にいてって、言えな……い…て………だけど……!!」
 愛しさが込み上げて、彼は抱く腕に強く力を込めた。
「もう、いい……もう泣くな、サリディア」
 セルリアードは彼女が凍えないよう、また宥めるようにしながら、サリディアが泣きやむのをじっと待った。
「な……泣きやめたら、傍に……いてもいい……?」
「いいよ」
 サリディアが懸命な様子で嗚咽(おえつ)を止めて、衣装の袖で涙を拭う。そんな彼女の様子が、愛しかったから。
 サリディアがだいたい落ち着いた様子で静かになると、セルリアードは尋ねた。
「何か、頼みたいことはないか? 何でも聞くから言ってごらん」
「……何でも、いい…の……?」
 彼が頷くと、彼女はしばらく、彼の腕の中で考えていた。止まらない彼女の震えが、それだけが不安を誘う。
「傍に……いて……?」
 自信なげな小さな声が、ひどく遠慮がちに言った。
「……いる」
 そんなこと、当たり前だと思っていたのに――
 それは、欲張りな願いかもしれないけれど。
 互いに望めばささやかだ。
 彼は苦笑するべきところを、愛しさが勝って微笑した。
「いる。他には?」
 彼女の震えはまだ、止まらない。
「……他に……」
 もはやどれだけ残っているともつかない命の残りが、彼の腕の中でなお、震えによって奪われる。
 どうしたら、どれほど強く抱き締めれば、つなぎ止めておけるのか――
「……夜明け…が……見たい……」
 途切れがちな声で、サリディアが言った。
 彼女は彼の胸に額をもたせていたので、その表情はうかがえなかったけれど。
「見せる」
 そんな当たり前のことすら、この場所では叶わなかったのだ――
「見せてやるから――」
 次第に、震えが激しさを増すのに気付いた。
 壊れかけた、哀しいまで軽い彼女の身を抱き上げると、サリディアが力を失った手で、それでも、嬉しそうに微笑んで、彼につかまった。
「帰れるね」
「ああ」
 ――手遅れだった?――
 震えが、彼女の震えが止まらない。
 ようやく、つかまえたのに。
 ようやく、この腕に取り戻したのに。
 今度は、永遠に失われようとしているのか。
「嬉しいな」
 彼には頷けなかった。
 夜明けは遠い。
 ――死なせるものか――
 暗い階段を上り詰め、冷たい石柱の廊下を駆け抜ける。
 差し込む月明かりが、幻想的に辺りを照らしていた。夜空には星たちが儚く、それでも光を失うことなく瞬いている。
 死なせるものか。
 必ず、帰郷してみせる、彼女を連れて。
 彼女の震えが、熱が、確実に命を削る営みが、止められない。
 表に出そうになる不安と恐怖を、彼は気力で抑え続けた。
 廊下の途中でふと。
 彼女の震えが止まった。
「サリディア――?」
「わ……」
 微かに、笑おうとしたのか――
「ごめん……なさい……夜明け、見られない……かも……」
 彼は息を詰め、何かが崩壊する寸前の、刹那の薄氷に支えられるような沈黙の後、彼女に微笑みかけた。
「何を――? おまえらしくないな、約束したんだ、見せるよ」
 彼女の瞳が、哀しげに彼を見上げた。
「うん、きっと、あなたなら見せてくれるね……でも、夜空も、あなたも、もう見えないの……」
 夜風を心地好く感じるから、真の闇の中にはいないと、わかるのに、と――
 彼女は指先で彼を探るようにして、哀しく、涙を一筋伝わせた。
「ごめん……ね……嘘、ついちゃった……ずっと、傍にいるって、約束したのに……ずっと、傍にいてくれたのに……」
 セルリアードはもう、走るのをやめていた。
「……サリディア……いい、謝るな。――おまえは約束を守ったよ」
 彼が、死神と呼ばれる者、許されざる者に成り果ててさえ、彼女は変わらなかった。彼の世界に、なお奇跡のような光彩を投げ掛け続けた、唯一人の少女。
「セルリアード……?」
「それに、どこへも行かせはしない、おまえを忘れたりは、しないから。おまえの記憶が、私を支えてくれる――」
 サリディアの頬に、何か、温かいものが弾かれた。透明な――
 胸に響くような、優しい感触を、残して。
「ただ、今だけだ……二度と、慟哭はしない。――だから、今くらいは、見逃してくれ――」
 サリディアは、その時確かに微笑んだ。もはやその力がなくとも、思いくらいは伝わる。
「ありがとう……たくさん……楽しかった、とって……も……」
 彼は静かな、本当に静かな少女の身体を抱き締めた。
「あたたかい――」
 眠るように。彼の腕の中で、彼女はこときれた。


 V
 磨き抜かれた冷たい床に、その片膝を落としたまま、彼は微動だにしなかった。
 悪夢から醒めるのを待つかのようでも、立ち上がる意義さえ失くしたかのようでもあった。
「――死んだか」
 渡り廊下の奥から、冷たく無感情な声が、夜の静寂(しじま)に響いた。
 硬い靴音を響かせ、醜悪な漆黒の羽根を背に負う者が、姿を現していた。
 セルリアードはそっと、サリディアの亡骸(なきがら)を床に横たえ、怜悧(れいり)な目をして、立ち上がった。
 淡く輝くような聖白の翼を広げ、剣の鞘を払う。
 恐怖は感じなかった。一欠片(ひとかけら)すら。
 研ぎ澄まされた心に静かに浮かぶのは、巡り合った人々のことだ。サリディアの傍で、世界は優しく美しく、輝くように生命を取り巻いていた。
 寂しげなリシェーヌの面影、彼を気遣うケルトのふとした表情、口を尖らせて絡むくせに、憎みきれない膨れ面のディテイルのこと――
 微笑みさえ、こぼれた。
 彼がサリディアの傍で笑っていることを、許してくれた人々の住まう世界だ。
 まだ、懸命に生きている、優しい人々の居場所を、この世界を存続させるために、できること。
 この命に代えても天魔を阻めば、彼らへの償いくらいには、なるだろう。
 サリディアがいなければ、きっと、こんな風には世界を愛せなかった。
 もはや辛いだけの、痛みを伴うだけの記憶だとしても――
 彼を衝き動かすものが、憎悪でも怨嗟でもなく、半生を取り巻いた人々の幸運と未来を願う愛しさであること。
 誰のことを思い出しても、願いが唯一であること。
 それこそが、失われない、彼女が存在した証。彼女からの、尊く美しい贈り物。
「――酔狂だな、愛した者の残骸を腕に、世界の存続を望むのか」
 ひたと、セルリアードは天魔を見据えた。
 彼が選んだ道の、過酷さと罪深さを鑑みれば、失う覚悟は必定で、それが宿命の巡り合わせだったとしても――
「彼女を育み、彼女に育まれた世界の存続を、望まない理由はない」
 涙を伝わせていたのこそ、セルリアードの方だった。
 けれど、自覚の及ばない、魂の最も深い場所で、わずかに混乱し、より動揺したのは、ディルアードの方だった。
 天魔にとって、それはあまりに訝しく、理解の及ばない言葉の響きだったのだ。
 それだけなら、聞き捨てたに過ぎない言葉。けれど、同じ響きを持つ言葉を、誰よりも美しく、大切だった生命の持ち主が、遺言した。
 封印した記憶の奥底から、胸騒ぎが湧き上がる。
 あの時にも、わからなかった。わからないまま、その遺言を破棄した。
 そうせざるを得なかった。それを、何故今頃になって、恐怖にも似た、絶望と焦燥が湧き上がるのか。
 ディルアードは片手で顔を覆うようにして、その指の隙間から、聖魔を見た。
 その顔を歪め、聖魔をか、天魔をか、嘲笑するように呟いた。
「愚かしい、死んだ者との約束を果たせているかなど、どう知る術がある……?」
 そんなものは、ただの自己満足だ。何の意味もない。
 約束通りにしているつもりでも、望み通りにしているつもりでも、よく泣かせた。
 それでもまだ、胸に突き刺さるような涙が落ちて、あるいは、花が綻ぶような笑顔がこぼれて、そこに生命があったから、わかったのだ。
 死んだ者はもう二度と、嘆くことも、喜ぶこともない。方法の間違いを知る術も、もはや存在しない。
 理解し得ない遺言を、果たせたものか。
「それを知る術がなければ、彼女が愛してきた世界を守ることは、愚かなのか」
 蒼炎の剣(ティストラーゼ)の透き通る刀身が、刹那、月光を映してきらめいた。
 思いがけない天魔の動揺は、聖魔に対極の真実を知らしめた。天魔の望みは真に世界の崩壊。天魔が何に絶望し、それを望むに至ったのかは知り得ない。けれど、絶望と苦痛を昇華できず、まだ美しい世界さえ、滅ぼさんとする存在が天魔なのだ。
「――戯れ言を」
 セルリアードが静かに仕掛けた初太刀を、ディルアードが紙一重でかわし、返す刀で斬りつけた。その刃先がわずかに首筋を掠め、赤い筋を引くも、美しい聖魔の双眸は、遂に、完全に天魔の命核を捉えていた。
 天魔の命核は、天魔が決して庇わないもの。
 世界を滅ぼさなくとも、天魔の世界は崩壊し得るからだ。――その命を絶たれることで。

 キン――

 氷が砕けるような、澄んだ高音が夜闇に響いた。
 天魔の魔剣を一閃で薙ぎ、蒼炎の剣(ティストラーゼ)がその結界さえ砕いたのだ。精霊石の切っ先が、天魔の命核へと突き立てられる――
 突如、双方の視界が、衝撃を伴う強力な光の奔流に閉ざされた。
「――!?」
 天魔を討ち取る寸前で、蒼炎の剣(ティストラーゼ)は止められていた。
「ディルアード」
 美しい、玲瓏(れいろう)たる女性の声が威圧した。
「産みの親として最初で最後の命令よ、剣を引きなさい」
 艶やかな亜麻色の髪を風に流し、彼女は場違いに誘惑的な微笑みを天魔にくれた。
 聖白の輝きは、魔力の奔流だ。利き腕で天魔の凶刃を止め、空いた逆腕で、蒼炎の剣(ティストラーゼ)さえ制してみせたのは、――もう一羽の聖魔だった。
「産みの親として……?」
 皮肉げな、凍てつく声色でディルアードが(たず)ねた。
「貴様が親らしい務めを、何か一つでも果たしたのか?」
「果たしたわよ」
 一触即発の、張り詰めた沈黙が降りた。彼女は氷の微笑を浮かべ、言い放った。
「産んでやったじゃないの」
「――はっ! 頼んだ覚えはないわ!!」
 マーディラは心底可笑しげに、闇に高笑った。
「あら、奇遇ね。あたしも、産みたいなんて頼んだ覚えはないわ? でも、いい子ね、ディルアード、ここは退きなさい。そうしたら、金輪際、母親面しないであげるわ。――どう?」
 それとも、愛されたいのかしら? ――と、天魔の神経を逆撫でするようなことを、彼女は甘い声音で囁いた。
 凄まじい形相を呈したディルアードの唇の端が、やがて少しずつ引き上げられた。底冷えのするような、目だけが笑っていない微笑を見せ、天魔は黙って、その姿を虚空に溶かした。
「――セルリアード、よくやったわ」
 驚愕に目を見張るセルリアードに、天魔の姿が消えるのを待って、マーディラが告げた。
北の魔王(シェラザード)の血族は、母親の命核を喰らって生まれてくることが珍しくないし、そうして生まれた高魔族の幼生は、嬰児であっても、低級の魔族なら捕食できるほど際立った力を身に備える――ディルアードはその特質を備えて生まれたわ。それなのに、あたしが生きていることの意味が、わかるかしら?」
「――……」
 セルリアードは黙って、かぶりを振った。
「あなたが、ディルアードの母親だと……?」
「――産んで呪っただけで、母親と呼べるのならね」
 マーディラは嫣然と笑み、言葉を続けた。
「待っていたわ。あたしじゃなく、姉さんの眷属が、聖魔として覚醒するのを――」
 屈み込んだマーディラが、冷たくなったサリディアの手に触れ、その深紫の瞳から、陽炎(かげろう)のような、高密度の魔力を立ち昇らせた。
「聖魔と四元の魔道師だけに操れる、奥義があるわ。魔族であれば喰魔結界(ハウル・カミラ)――ディルアードの喰魔結界(ハウル・カミラ)に、あんた手こずってたようだけど、何の役にも立たない奥義よね。たとえ、魔王として君臨できたところで、何にもならないもの」
 魔族ははずれよとでも言いたげに。
 元来、結界を操れない魔族にとって、喰魔結界(ハウル・カミラ)は唯一無二の結界術だ。――シェラザードを北の魔王たらしめたのが、その奥義に他ならない。
「でも、姉さんの眷属は違うわ。魔族でも、妖精族でも、人間でもない」
 北の魔王(シェラザード)妖精(エルフ)のハーフが姉のラディアよと、何かを期待する声色で、マーディラは続けた。
「あんたには、命核――人間のものは、魂と呼ぶのかしら? それに働きかける魔力があるはず。あたしの呪術と織り合わせれば、死者を甦らせることさえ、できるかもしれない」
 セルリアードが息を呑み、マーディラを凝視する。彼女は満足げな表情で、頷いた。
「ねぇ、あたしと手を組まない? 死者の命核は時間が経つほど変容し、欠損し、取り戻せなくなるわ。だから、決断は急いで。――あたしは奥義の術式を知ってるの。サリディアの壊れた肉体、命核を受け入れられる状態まで、戻してやることもできるわ。あんたがあたしの望みのためにも奥義を振る舞ってくれるのなら、術者の寿命が数百年削れるような呪術でも、サリディアにかけてあげる。――お安い御用よ?」
 夢であることを、恐れるかのように。
 彼は、冴え凍る夜気に、霜の降ったその翼を確かめた。ひんやりとした冷たさが、夢ではないと知らしめる――
 もっともそれは、慎重にならざるを得ない申し出でもあった。彼自身は、サリディアを取り戻すためなら、どんな犠牲も厭いはしないが、彼等のみならず他人の犠牲さえ、厭いそうにないのがマーディラだ。
 ――天魔さえ、産み落とした女性。
「あなたのような魔族が、何を望む?」
 彼女は瞳を哀切に揺らし、その後、麗しく微笑んだ。
「ディルアードが喰らった命核を――その本来の持ち主に、還したいの。まだ、滅んでいなかったのよ」
 天魔に対峙した時とは別人のように真摯な瞳で、彼女は満天の星空を振り仰いだ。
「もう永遠に、巡り会えないと思っていたわ。でも、存在したの。この腕に抱きたい、慈しみたい、愛した人の子を――」
 天魔を滅ぼすはずの命核を、それを待たずに在るべき処へ還してなんて、ごめんかしら? ――と、マーディラが艶のある仕種で、小首を傾げる。
 セルリアードはわずかに途惑いながらも、その真意を確かめるように彼女を見返し、やがて、厭わないとかぶりを振った。


 全ての光芒が収まり、呪文の詠唱がやんだ時。彼は遠ざかる意識の中、微かな息遣いを聞いたように思った。聞こえるはずのなかった、小さな小さな音を――

*
◆ 第14章 永遠に貴方を ◆ に続く


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