聖魔伝説5≪伝説編≫ 祈り

第十章 ――聖魔の鼓動――

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≪2005.06.24更新≫

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「ファス!!」
「ケル……」
 あまりに突然で、何だかわからなかった。
 アルン陣営に戻ってすぐ。
「ファス……!!」
 抱き締める腕が、ケルトのものであること。呼んでくれる声が、ケルトのものであること。
 突然、懐かしさと温かさが胸に溢れた。身をがんじがらめにしていたはずの、重い悪夢の鎖――それが、不可思議なほどあっけなく消えて行く。
 ――何を恐れてたの? 私は――
 ケルトを感じた瞬間、驚くほど綺麗に皇帝の影は消えていた。ほんの一時前まで、確かに心のどこかで皇帝がいないことに、言いようのない不安を覚えていたのに。ケルトが簡単に与えてくれた安らぎは、そんな歪んで不安定な感情など、あっさりと凌駕するに足るものだった。
「ケルト……」


 T
 他に急ぎの役割を帯びていなかったコルベールは、既に託された史書を読み終えていた。そして、宰相が生還したとの報を受け、あの人ならまず『炎の魔道師』を確かめる、そう踏んで、そこへと向かっているところだった。

     *

 奇妙に感情のない目をしていた――
 魔道師長セッグがすれ違ったセルリアードは、まるで生気を感じさせない静かさだった。
「セッグ様」
 行き過ぎるかと見えたセルリアードが、ふいにセッグを振り向いた。彼の後ろ姿を追っていたセッグは、それをごまかしようもなく、途惑った。しかし、
「貴方もいらして下さい」
 何を見ているのかと問われることもなく、やはり異様に静かな声で、彼はそれだけ言った。一体、彼が今何を考えているのか、セッグには見当もつかない。
「セルリアード様っ」
 その奇妙で不安な緊張を、若くやや高めの声が破った。
 いまだ、セッグはセルリアードの静かさに戦慄にも似た緊張を覚えていたが、コルベールの方は、それに気付かないようだった。
「探しました、よく、お戻りに――」
 よくぞご無事でと、コルベールが胸に手を当てて一礼する。心配していたのだと、一目でわかる表情だった。感情を隠すことに慣れた、冷たい表情の多いコルベールには、珍しい。
 礼の後、コルベールは懐から史書を取り出して、セルリアードに差し出した。
「指示通り、目を通しました。気になったことが、いくつかあります」
 史書は概要を別紙にまとめられ、また、幾筋も細いしおりを挟まれていた。几帳面なコルベールらしい仕事だ。彼はそのうちの、もともと元帥がしおりを挟んでいたページを開くと、
「スィールの皇帝、魔族ということは、あり得ないでしょうか」
 やや緊張した面持ちで、切り出した。
「――魔族?」
 セルリアードは極めて冷静に、その言葉に答えた。史書の開かれたページと、コルベールの報告書を照らし、頷く。
「ありがとう、検討しよう。短時間でよくまとめたな。この件も合わせてファスティーヌ様に確かめる。どうも、エルフが絡んでいる気配がある。あの皇帝――」
 精霊使いの気配は微塵もないのに、精霊語を知っていたからと。そう言ったセルリアードの表情に、わずかながら、怒りに近い険しさが見えた。
 何も言わずとも、セッグの目には、ことの発端になったファスティーヌの勝手が腹立たしいかなと、見えた。
 最初から、彼女が全ての鍵だったのだ。若いだけに、彼女さえ勝手をしなければという思いが強いのかもしれない。彼女は子供なだけで、誰しも最初は子供なのだから、そのことに腹を立てても仕方がないのだけれど。
「――行きましょう」
 彼が怒りを見せたのは、一瞬だった。振り向くまでには、その怒りと痛みを隠して見せた青年に、セッグは思い直した。
 ただ、やり切れないのかと。
 彼が、本当のところ命に代えても救い出したかったのは、彼自身の伴侶に他なるまい。それを思えば、彼はよく、耐えすぎるほどに耐えているのだなと、思い出した。
 だいぶ――
 気付かないうちに、何もかもこの青年に負わせていたのだなと、思う。出来た青年だけれど、明らかに、過負荷なのだ。彼は背負い込み過ぎる。
 今まで、彼が負いすぎないよう、負わざるを得ない時には潰れないよう、どんな時もそばで支えていた少女が、いない。
 それは思った以上に深刻なことなのかもしれないと、彼女がいなくなって初めて、セッグも気付いた。

     *

「ええ、そう――それでは、故郷の森のことは覚えていらっしゃるんですね?」
 ファスティーヌの魔力は、封じられていなかった。奪われたのは、魔道に関する一切の記憶の方で、彼女は何の呪文も思い出せない状態だった。
「覚えてるわ――覚えて――」
「何か、ディルアードについてご存知のことはありませんか」
 真っ青な顔をして頭を抱え、異常に浅く速い呼吸をするファスに、セルリアードは何の容赦も与えようとしなかった。冷酷なまでに淡々と、続けて問う。
「……あ……あの人は……」
 彼女は震える手でケルトにしがみつき、首を振った。
「……待ってくれ、セルリアード」
 ケルトがたまりかねたように、割り込んだ。
「大丈夫だ」
「そんな、大丈夫って!」
 驚いて抗議しようとしたケルトを、言えると、ファスが掠れる声で押しとどめた。
「魔族よ、あの人は……ずっと、私が生まれた頃から森に封じられていた……」
 ざわっと、場が動揺した。魔族だと、それだけでも脅威となるところ、エルフに封じられていたというのだ。事実であれば、戦争の意味そのものさえ塗り替えかねない、由々しき事態だ。
「封印にいたるまでの経緯は?」
 顔色一つ変えず、淡々と問うセルリアードに、ファスが居心地悪げに身じろぎした。
「知らない、何も――森にいた頃には近寄るなとだけ言われたし、あの日、森に戻った時には、もう封印が解けた後で……大勢、仲間が殺され……て……」
 いよいよ血の気を引かせ、ファスが顔を覆う。その惨劇を思い出したようだった。
 エルフをまとめて相手取り、全滅の危機にまで追い詰めたなど、高魔族であっても尋常ではない。それはもう、魔王であるとか、伝説に残ってもおかしくないクラスの実力だ。
 セルリアードは一つ息をつくと、ケルトが彼女を落ち着かせるのを待って、例の史書を取り出した。
「この件について、何かご存知のことがあればお話し願いたいのですが」
 差し出された史書を、ファスが緊張した面持ちで、受け取る。


『大陸暦二七四年
 皇帝アルゴン三世の手により、東方の森に住まうエルフの娘が、魔族の手から救い出され、保護された。この魔族が城を急襲し、大虐殺を行ったものを、月の名にちなんで“水無月マウリの大虐殺”と呼ぶ。
 この魔族“呪いの鏡ダリ・アルド”の力は絶大であったが、救い出されたエルフの娘“フイルニ”の力を借りた皇帝の手により、遂には石化され、倒された。
 その後、皇帝はエルフを側室とし、魔族をレザン島の南の洞窟に封印した。』

『大陸暦二九〇年
 アルゴン三世の側室フイルニの死と同時に、その皇女が失踪。皇女はアルゴン三世の娘として養育されていたが、実際にはフイルニと魔族との娘であり、彼女は五年後、魔族の封印を解いて舞い戻った。皇帝はすぐに討伐軍を編成し、魔族に挑むが、これは、犠牲を払っての辛勝となった。魔族は追放されたが、きたる日の報復に備え、帝国ではこの後、盛んに魔道の研究などが奨励された。』


「……フイルニ……」
 どこかで聞いた気がして、ファスは眉をひそめた。
 人間に助けられた仲間の話など、聞き覚えがない。そもそも、魔族にさらわれたエルフ自体、いただろうか――?
 そこまで考えて、彼女はハっと思い至った。
「……おじいちゃんの……」
「ファス?」
 ケルトに、ファスはいっぱいに目を見開いて、答えた。
「フイルニって、きっと、フィルニーさん……おじいちゃんの、亡くなった娘さんだと思うわ!」

     *

「どう思われますか?」
 残念ながら、ファスの話はあまり要領を得なかった。フイルニ、というのが恐らくフィルニーという、長老の娘に当たるエルフだろうとはわかったものの、そこまでだった。史書の記述の真偽、ディルアードの素性、封印の経緯、それらのいずれも彼女にはわからず、不明のままに残った。
 結局のところ、確かめることができたのは、敵皇帝が魔族だという点だけだった。それも、エルフが総力をかけて封じるほど、強力な。
「ダリ・アルドはおそらくスィール読みだろう。魔族語ディム・フィリンで、鏡は『アード』だ。別の魔族が名を借りていると考えるより、エルフの森に封じられていたなら、本人だと考えるのが妥当だろうな」
 コルベールが少し驚いた顔で、セルリアードを見た。
 セルリアードの祖母、先々代王妃が半魔だったという噂は、コルベールも聞き知っている。だからこそ、驚くのだ。――まさかと。
 セルリアードは少し笑っただけで、それでも、その笑みが肯定していた。彼の名もまた、魔族語ディム・フィリンなのだと。
「コルベール、過去、スィールの皇帝がエルフの力を借りて、魔族を封印したというくだり――どの程度、真実だと思う?」
 試されているのかと、コルベールはやや緊張して答えた。
「……皇帝本人によるかはわかりません。ですが、たとえ別の英雄の手によってでも、史書に書かれている以上、エルフの助力はあったものと思います。あのような魔族の封印、人間の力だけでは手に余るでしょうから」
 コルベールが指摘したのは、皇室の名誉のために、手柄が取り替えてある可能性だ。
 セルリアードは束の間コルベールを見て、それから、頷いた。
「――そうだな。真偽のほどを確かめ、助力を仰ぐためにも、スィールの東方に住まうエルフには、至急、使者を出したい。手配は任せる」
「はい」
 ――奇妙な、手応えだった。期待と違う答えだったようなのに、何も言わない。そんな手応え。
「セルリアード様?」
 違う。
 セルリアードは何か違うことを考えていると、コルベールは思った。
「お聞かせ下さい、セルリアード様ご自身は、どう思われるのですか?」
 すぐの答えはなく、セルリアードはただ、コルベールを見た。
「――憶測でも聞きたいか? あまり、いい話でも、有益な話でもないんだ」
 聞きたいに決まっている。コルベールが頷くと、セルリアードは小さく息をつき、それでも、話してくれた。
「――エルフの助力で片がつくなら、そのエルフが束になっても敵わなかった、惨劇の理由が気にかかる。エルフは二度、魔族の封印に成功しているようだが、三度目がならなかったのは、なぜか――」
 可能性は多くある。
 たとえば史書にもある通り、人間の助力も必要だった場合。
 あるいは、封印に使われたのが特殊な術式で、今現在、扱えるエルフが存在しない場合。
 魔族が、既に対抗のすべを得てしまっている場合。
 セルリアードは淡々と並べていき、いずれにしろ、エルフに直に確かめるのが早いことだからと、今は論じるだけ無駄だろうと、付け加えた。
 ――だから、言及を厭ったらしい。
「……そんな……、そ、待って下さい! それは、由々しき事態だ!」
 助けになると思っていた。
 この史書の内容が、必ず、敵皇帝を打倒する手がかりになると。
 しかし、セルリアードが指摘した二つは、コルベールの甘くさえあるその考えを、根底から打ち砕くものだった。コルベールには、最悪のシナリオに思えた。二度目、魔族は人間がいようはずもない、エルフの森に封じられたのだ。その魔族が封印を破り、あまつさえ、エルフたちを殲滅する勢いで、退け得たのはなぜなのか。封印術の術者が死んだか、それを破るすべを得たか、どちらかではないのか。
「もし、そうだとしたら――」
 小刻みに身を震わせて、コルベールはぎゅっと自身を抱いた。たやすくスィールを手中に収め、妖精族を壊滅させ、敵国の真っ只中で将軍を暗殺した、敵皇帝。そんな魔族を、誰に、どうやって討ち滅ぼすことができるのか。
 私情ではなかったのだ。セルリアードが強行に、ファスティーヌの奪還を主張したのは、本当に、彼女の力が必要だったからなのだ。
 ――しかしながら、アルン一国の命運をかけるには、あの少女はあまりに危うい。
「コルベール」
 結論を早まるなよと、セルリアードが警告した。
「絶望したなら、そこから探さなければならないものがある。普段は見えない、どんな小さな光さえ、闇の中でなら探せる。――気を抜くな」
「…………」
 沈黙の後、コルベールは徐々に、目を見開いた。
 目の前が真っ暗になった。で、終わるなと。真っ暗になったから、明るい時には見えなかった光が見えるはずで、目を凝らしてそれを探せと、言ったのか。
「……もし、希望が見えなかったなら……? セルリアード様は、希望が見つからないかもしれないとは、それを恐れ、不安になったりは、しないのですか……?」
 口に出してから、コルベールは馬鹿なことを聞いたなと思った。仮にも『死を贈る者アルバレン』とまで呼ばれた者だ。絶望や死など、恐れるべくもないのだろう。
 けれど、一笑に付されるかと思ったその問いに、返されたのは、長く深い沈黙だった。

     *

 光が見つからなかったら……?
 答えようとした声が、ふいに、ままならなくなっていた。
 ――大丈夫だよ――
 思い出したくない声が、響く。
 永く、闇を彷徨っていた。絶望の中にいた。光の見えない絶望ではなく、光に近づけない、絶望だった。近づけば、どの光も闇に落ちたから。
 闇の中、光がどこにあるかは知っていた。ずっと。
 けれど、彼の世界を照らした光は、全て闇に落ちたから。
 同じように闇に落とすことを恐れて、近づくことができなかった。
 永遠に彼の世界を照らさない光でも、在るだけでいい、在り続けて欲しいと願い、見つけた全ての光から、遠ざかり、闇を選んで彷徨った。
 ――大丈夫だよ――
 なくなる。
 手を伸ばせば、必ず届くところにあったのに。
 望めば必ずついてきた。望まなくても、拒絶しなければついてきた。知っている。初めて会った幼い日から、彼女は彼になついて、他の動物たちと同じように、どこまでも、彼の後を追いたがったから。構われたがった。
 彼が変わり、闇に落ち、全てに見放された時でさえ、変わらずに――
 何も与えられないと思った彼から、たやすく欲しいものを引き出して、いつも、幸せそうに笑っていた。
「セルリアード様……?」
 恐怖、なら……。
 胸に重くのしかかる。
 風にあおられ、消えようとしている灯に、届かない。
 彼の、彼だけの、かけがえのないものが、――潰える。
「……見つからないことより、断たれることに、恐怖は覚える。――だが、言っても始まらないしな――」
「……」
 セルリアードは静かに戦略図に目を落とすと、ファスティーヌをどこにやるべきか、その策定に思考を戻した。
 急務は、彼女を精霊使いとして復帰させること。身の安全を確保させること。
 その先に、サリディアの奪還があるのだから。


 U
「コルベール殿、話がある」
 退室の遅れたコルベールを、一人になるのを見計らい、セッグが呼び止めた。
「セルリアード様のことだ」
 人払いをした個室へといざなうと、セッグは一通の書状を、コルベールに手渡した。
 促されるまま、書面に目を落とし、コルベールは息を呑んだ。愕然と目を見開いて、セッグを見た。

     *

 ――なんで、いつも一人で背負い込むんだよ――
 ケルトは可能な限り気配を殺し、セルリアードの後を追っていた。
 出会ってから約半年。一度も、セルリアードはケルトに頼らない。いい加減、腹立たしくさえあった。
 彼にはわからないと思うなら、何もかも、一人で抱え込めると思うなら、思い上がりだ。
 本気になれば、ケルトはほぼ完全に気配を断つことができた。いかなセルリアードといえど、慣れすぎたわずかな気配には、気付かないようだった。
 ――え……?
 セルリアードが向かったのは魔道師塔の最上階、セッグの部屋のある階だった。セルリアードの視界を避けて尾行していたケルトは、その階で、扉が開いて閉まる音を聞いた。

     *

「宰相が、セルリアード様が陛下の暗殺など、……馬鹿な、私は知らない!」
 書状には、宰相の敵国からの無事な帰還の真相として、国王暗殺が契約されたようであると、記してあった。証言者がいること、『アルバレン』としての前科、そして、動かぬ証拠として、その妻メルセフォリアが現在敵国にあり、その事実がアルン側に知らされていないこと――
 奇跡の生還。
 あれは確かに、人々にそう呼ばしめた、裏を返せば、信じがたい生還だった。書状に書かれた推測の方が、事実よりはるかに説得力がある。
「こんな……」
 書状は、リーゼン伯の署名・捺印だった。確かな筋の、説得力ある情報として、これから食い合いになるのか。
 コルベールは強く書状を握りしめたこぶしを、柱に打ちつけた。
 この非常時にまで、父は、政敵を陥れようとするのか。
 セルリアードに限って、国王暗殺など、請け負うはずがない。
 それなのに、こんな馬鹿げたこと――!!
「……コルベール殿は、父君がセルリアード様を陥れようとしていると、思われるか?」
「――それ以外、考えられません」
 コルベールは苦く頷いた。父ならやりかねない。セルリアードの国王暗殺に比べたら、両者を最も知る者として、何が真相かなど、一目瞭然だ。
「コルベール殿、リーゼン伯は確かにやり手であられたし、セルリアード様も、間違っても国王暗殺など、請け負われる方ではないだろう。だが、セルリアード様が断罪されて、あるいは、アルンの大物が潰しあって、今、最も利を得るのは誰かと、基本に忠実に考えてみてはどうだろう」
 コルベールはまじまじとセッグを見、それから、はっとした顔で、目を見開いた。
「スィールが――?」
「そうだ。リーゼン伯は、私怨を利用されたのではあるまいか。少なくとも、セルリアード様の方は、窮状を利用されている。奥方がスィールに囚われておいでになるのは、事実だ。だが、これはご自身がスィールに囚われるより、さらに以前からのことになる。それも、あの方がひた隠しにされてきたこと、今この時に明らかとなるのは、スィールが故意に漏らしたのでなければ、都合が良すぎるようだ」
 まさに、だ。コルベールなど、聞いても信じられない。最後に彼女を見た日から、いつだろうと、記憶をたぐってしまう。それでもわからないのに。
「セルリアード様を取り逃がしたスィール側の策略として、そのつもりで眺めてみれば、多くのことに説明がつく。そして、もしそうだとしたら、この情報を公にして潰し合うこと、それが何より愚かなことだ――スィールにしてみれば、セルリアード様が疑われ、陛下の側から追われるだけでも上出来だろう。将軍も参謀も失われ、アルンは今、陛下だけでもっている。その陛下をお守りしているのが、他ならぬセルリアード様なのだから」
「ええ」
 コルベールは真剣な目をして頷いた。あらゆる意味で、セルリアードが守っているのだ。そのセルリアードを補佐していることを、彼自身、誇りにしている。
「コルベール殿、貴方は同志となってくれるだろうか。私はどのような裁定が下るにしろ、事が表沙汰になり、アルンに不信と疑惑が蔓延すること、それ自体を阻止したい。一連がスィールの策謀であり、セルリアード様とリーゼン伯、いずれを断罪するも、敵の思うつぼだと訴えるつもりだ。残念ながら、私のように考える者は少なく、セルリアード様を断罪しようという動きが、広がりつつあるが――」
「そんな、馬鹿な!」
 強く否定した後、コルベールは仕方ないのだと、かぶりをふった。冷静に見て、伯に分がある。
「セッグ様、私でお役に立てますか――?」
 役立ってもらうつもりで話したのだよとセッグが頷き、早速だが段取りをと、白紙の書簡箋を広げた。


 V
「メルセフォリア、聞こえているか?」
 底冷えする地下牢の中、少女は死んだように動かなかった。管理班からの報告で、死んではいないと聞いている。
 熾天使(セラフィム)を投与してから五時間。薬の効果は切れた時間だが、劇薬は弱った体に相当、効いたようだった。死体も同然だなと、ディルアードは嘲笑に近い薄笑みを浮かべると、意識があるのかないのか、判別できない少女に語りかけた。少女はもう、生への執着すら、感じさせない。過度の痛みは、それを確実に奪い去る。
「吉報だぞ。あの男、おまえだけ残して、自分は無事、アルンに逃げおおせた」
 少女に反応はない。ディルアードは構わず、先を続けた。
「正直、失望させられたがな――おまえに熾天使(セラフィム)を投与したことも知らせてやったが、動く気配はない。――おまえより、民や己の命が大切なようだな」
 断続的に、サリディアは何者かの声を聞いていた。もう衰弱しすぎて連続した思考が保てないので、なかなか、聞いた言葉がつながらない。
「何か言ってやることはないのか? 何なり訴えて、助けに来させてみたらどうだ」
 ――逃げた?
 やっと、それだけ理解した。
 セルリアードが――
 鉛のように重い身はまるで動かせないまま、口元だけに、彼女は微かな笑みを浮かべた。
 ――良かった……。
 何を思うより、ほっとした。無事に逃げてくれたなら、いい。
 ディルアードはしばらく壁に背をもたせて少女を眺め、やがて、無駄と思ったのか、固い靴音を響かせて立ち去った。
 サリディアは茫然と、青白い薄明かりに照らされた壁を見つめた。頭の芯が、割れるように痛む。それよりも、耳鳴りが――止まらなくて――
 それでも、だいぶましになったと意識の彼方に思った。ついさっきまでか、ずっとずっと前か――、気の狂うような痛みが、胸部にあった。
 今は、ない。
 朦朧とした頭で、打ち捨てられたような時の中、考えた。
 なぜ、こんな所にいるんだっただろう……?
 寒いのに――
 鎖だ。鎖でつながれていて、逃げられないから。
 彼女は一つ一つ、記憶を手繰った。それから、震えの止まらない手で、ケープをかき寄せた。
 ――セルリアード――
 会いたくて、涙が一筋流れ、ほんの一瞬目元を温めた後、冷たくなった。
 凍てついたその場所に、サリディアは命を守るように身を丸めた。
 セルリアードは、間違えない。優先すべきものの順番を。
 きちんと皆や、彼自身の命を優先してくれる。
 間違えない人だから、彼女はここにこうして、生きて待っていられるのだ。さもなくば、彼女は自害しなければならなかった。彼に、彼女を優先させないために。
 ――冷たい――
 柔らかく、温かな厚手のケープも、石牢の冷気と固さの遮断には、不十分だった。


 W
 セルリアードは伏し目がちに、法陣上の中空、浮遊した紙にあぶり出される文字を、待っていた。
 挑発が神経に障るだけと、知っている。確かめる必要など、あるのか、頭の片隅で自問した。
 サリディアを生きて取り戻せると、今はもう、考えていない。
 劇薬の投与という形で間近に突きつけられた少女の死。その報せすら、黙って目を通すしかなかった。もう、死んだのかもしれない。
 確かめる気になどなれないまま、紙片を手にした。
「……!?」
 その利き腕をつかまれ、息を呑んで、相手を見た。ケルトだった。驚きを隠せない。
 油断していたつもりはないのに、ここにいたるまで、気付かせなかったのか。
「それは?」
「……私信です」
 真実だったために、不適当なことを言った。言ってしまってから、しまったなと思う。けれど、苛立って、相手がケルトということもあり、対処する気持ちが失せた。
「セッグの部屋だぞ、おまえ、何言って――」
 黙れと目で拒み、ケルトの手を払った。素直なようで、存外、ごまかせないのがケルトだ。普段は好ましく思うその心根も、賢明さも、今は、うっとうしいだけだった。
「私信だ。疑うならセッグ魔道師長に直接聞け。戦時だ、法陣を悪用されないよう、管理と監視を魔道師長に頼んだ」
 突き放した言い方に、ケルトも多少なり、怒りを覚えたようだった。
「ふざけるな、おまえ、その私信でどれだけ自分の立場を悪くしてるかわかってるのか! スィールと通じてると密告があった!」
「!」
 短い沈黙が落ちた。
 ケルトが真剣な、彼を気遣う瞳をして、見据えてくる。
「おまえが、人質に取られたサリサのために、スィールに寝返っていないと誰が証明するんだ……?」
 苦虫を噛み潰したような顔をした後、セルリアードは薄く笑って、次には、抑え切れない怒りのままに、言い捨てた。
「おまえが証明する! 失せろ」
 息を呑んだケルトと、平常ならぬセルリアードの視線がぶつかった。
 セルリアードの様子が明らかにおかしいこと、わかっても、ケルトとて、苛立ちを隠せなかった。彼がセルリアードを疑わないこと、セルリアードは自ら指摘するほど知っているのに、なぜ拒むのか。信じないのか。
 ケルトはキリっと唇を噛み、やがて、一つ深呼吸して、セルリアードを睨み据えた。感情を抑え、有無を言わせない口調で命じた。
「王命だ、見せろ」
 セルリアードが微かな迷いを見せ、確かめていなかったのか、手にした紙片に目をやった。その小さな隙をつき、ケルトはすかさず紙片を奪い取った。
「――っ!」
 セルリアードの蒼い瞳に、冷たく危険な怒りが揺れた。
 ぞくりとしたものの、ケルトには、紙片に記された情報の方が衝撃だった。サリディアが間もなく死ぬこと、その予定時刻と、ここから攻めてみろという、スィールの内部事情の密告とが記してあった。
「何だよ、これ……」
 セルリアードは忌々しげにケルトを睨み、ものも言わずに踵を返すと、部屋を出た。
「セルリアード!」
 振り向きもせず、怒りをまとって塔を下りて行くセルリアードを、ケルトはとにかく追った。
「おまえ……た、助けに行かないのか!? このままじゃ……」
 一瞥いちべつと、冷然とした諫言かんげんだけが返された。
「騒ぐな。味方が動揺する」
「ま……待てよっ」
 歩調を緩める気のないセルリアードを追いながら、ケルトは混乱する思考を懸命にまとめようとした。
「何で、助けようとしないんだ!? こんな、サリサのこと見捨てる気でいるのか!」
「――戯れ言もたいがいにしろ。国を守るのがおまえと私の義務だ」
 ケルトはカっと、頭に血を上らせた。
 半ば無意識に、セルリアードの胸倉をつかんで怒鳴りつけた。
「大切な人一人守れないで、国が守れるもんか!!」
 他の誰を騙せても、彼は騙されない。セルリアードに、サリディアより大切なもの、守りたいものなんて、あるわけがないのだ。義務に、誇りに、一体どれほどの価値がある!?
「間違えるな!」
 ギリ、と、その腕を強くセルリアードがつかんだ。
「国を守るつもりならまず、大切な一人くらい守れるようになれという言葉だ。国と、大切な一人と、最終的にどちらを守るための言葉だ? 国を……大勢を危険にさらしてまで、ありもしない可能性に賭けたいのは私だけだ!!」
 驚いて、ケルトは絶句した。
 何だって――?
 セルリアードが、昂った感情を懸命に抑えようとするかのように、こぶしを握り締める。けれど、それはなかなか静まらないようだった。ついには、彼はケルトを突き飛ばしさえした。
「セルリアード!」
「うるさいっ!!」
 セルリアードは塔の空き部屋に駆け込み、荒れた勢いで扉を閉めた。
 震えが止まらない。死ぬ、死んでしまう、サリディアが――!
 扉の向こうから、ケルトの声が聞こえる。
「うぬぼれるな! おまえ一人いなくなったって、アルンが滅びるもんか!」
「いなくなるだけじゃない! 私を殺しても、公表しなければ名前が有効だ。今私が裏切って、アルンが混乱しないと思うのか!」
 なぜ――
 ケルトは信じがたい思いで、閉ざされた扉を見つめた。
 なぜ、こんな時にまで彼は冷静なのだ。なぜ、そんな余計なことにまで気付いてしまうのだ。ケルトはふいに、いざという時には冷静さを失うことすら、人間の防衛本能なのだと、感じた。こんなでは、自身が守れないのに――!
「――セルリアード!!」

     *

 ケルトの声が聞こえる。扉にもたれたまま、セルリアードは耳を覆っていた。
 弾劾の声が、真実を暴く声が聞こえる。
 わかっていた。全て、元凶は彼自身――いずれこうなると知っていながら、なぜ、サリディアを近付けた?
 手を血に染めた時から、わかっていたのに。もう、手にしてはいけなかったのに。
 彼女が、ただ、――……愛しくて……。
「……」
 部屋には、先客があった。
 あるいは、今まさに転移してきたのか。
 いずれにしても、招かれざる客だった。
「何の用だ!!」
 抑えが利かず、ほとんど殺意と変わらないほどの憎悪を込めて、怒鳴りつけた。
「ご挨拶ね」
 平然と言って、マーディラが真っ向から、彼の視線を受け止める。どこかディルアードのものと重なる、濃紫の瞳。
「聞きたいことがあったのよ。あんた……サリディアに会いたい?」
 セルリアードは何も言わず、鮮烈な蒼の瞳でマーディラを睨んだ。
「――そう、会いたいみたいね。あたしに頼んででも、会いたい?」
「!」
 聞いた瞬間、彼は耳を疑った。正直なところ、驚かされて。
「あんたの意識だけなら、ディルアードが張ってる結界の隙間を縫って、送ってあげられるわ。あんた自身となると、さすがに、先にディルアードを始末しないと無理としてもね」
 マーディラはしばらく、猫のような瞳で、セルリアードの様子をうかがっていた。やがて、誘惑するような流し目をくれた。
真実を映す鏡(ツェル・リ・アード)
 魔族にしか発音できない呪による呼びかけに応え、中空に、一枚の透き通る水鏡が出現した。姿見の半分ほどの、楕円形の水鏡――のようなもの。
「いらっしゃい。通り抜ければ、あなたの望む場所に意識を送れるわ。ただし、意識体の状態では、嘘をつけないからそのつもりでね」
 セルリアードは魅せられたように鏡の前に立ち、流れ落ちる水流に触れた。冷たいはずなのに、心地好い。
 ――サリディア――


 X
 懐かしい声に呼ばれた気がして、サリディアは目を開けた。
 ――セルリアード?――
 ほのかな光に包まれ、透明な人が浮かんでいる。
 知らないうちに、涙がこぼれていた。
 綺麗で、幸せな夢。サリディアはじっと、美しい幻影を見つめた。
『サリディア』
 ――聞こえた。
『サリディア』
 ふと、牢の中だし寒さも感じることに気付いた。
 彼女は夢中で起き上がった。
「……セルリアード……?」
 すっと、手が差し伸べられた。取れないかと重ねてみたけれど、温かさも手応えもなく、すり抜けた。
「セ……」
 声を詰まらせて、彼女は彼を見た。彼も、じっと彼女を見つめていた。
 ――触れたい――
 強く願う。けれど、叶えることは、できなかった。
 冷えきった石牢の中で、それでも、自分がまだ生きていること、その意味があったことに、気付いた。
 死んでしまっていたら、伝えることも、呼び声を聞くことも、できなかった。
『サリディア――』
 セルリアードが目を伏せる。
『おまえまで……死なせてしまうな……――』
 サリディアは静かに彼を見て、やがて、視線を落とした。尋ねなければならないことが、あった。
「……アレイルは……」
 おまえまで。
 皆、死んでしまったのかと、声が震えた。
 意識を失って連れ去られたため、皇帝がアレイルをどうしたのか、確かめることができなかった。
『――無事だよ』
「……!」
 顔を上げ、彼が微笑むのを見て、本当なんだと、彼女は涙に顔を歪めて微笑った。
「……良かった……」
 張り詰めていたものが解け、ほっとすると、堪えに堪えていたものが、溢れた。
 皇帝を葬る機会を逸した。
 ただ一つの命を庇い、任された全て、皆殺しにし、破壊し尽くす意思と力のある存在を、討ち漏らした。凄惨な未来、見えていて――
 セルリアードは聞くだけ聞くと、目を閉じた。
『サリディア、もういい。おまえが一人で負わなくて、いい。おまえが自分を責めたら、ティラも、自分を責める。私も、皇帝がアレイルを急襲することも、おまえに皇帝と渡り合える魔力があることも、読めなかった自分を責める。背後に庇ったつもりが、おまえ一人に任せることになって、――済まなかった』
「――……」
『重かったな』
 ――重かった……?
 聞いた言葉を、ぎこちなく、サリディアは自分自身の中に受け止めた。
 重、かった。
 サリディアはこくと、頷いた。
 重かった。見つけてくれた。
 押し潰されそうだった彼女を。
 解放されたかった、彼女を。
“ おまえが自分を責めたら ”
 気持ちが落ち着くと、かけられた言葉が、何か、大切な響きを持っていた気がした。
「あ……」
 顔を上げて、セルリアードを見た。
『わかった?』
「――ん」
 彼がふっと微笑ってくれて、ほっとした。
 懸命に、最善を尽くしてきた。なら、誰を責める必要も、なかった。自分自身を責めること、他人を責めること、突き詰めれば、同じことなのだと、知らなかった。
 もう、いい。
 今、何ができるのか。
 わずかでも、まだある命で、何ができるのか。
 それだけを、大切にしたい。
『サリディア』
 呼びかけに顔を上げた、彼女の真っ直ぐな視線から、セルリアードがふと、目を逸らした。
 言おうかどうか、迷うように視線がさまよった。
「――なに?」
『……』
 難しい顔で、決断がつかない様子で、何か言いかけては、やめる。
 何だろうと、思った。彼には珍しい。
『――いや……、』
 いい、と言いかけた。
『……私が、おまえを何だと思っていたか、聞きたい……か……?』
 視線を合わせられない様子で、問われた。
 熱のために赤かった顔が、さらに赤くなった気がした。
「……聞……きたい……」
 鼓動が速い。
 彼の気が変わらないようにと、彼女は慎重に、言葉を選んだ。
 余計なことを言わず、言葉が足りなくもない、返事をこころがけた。
『……』
 指で顔を覆うようにして、セルリアードが沈黙する。闇に、柔らかな光を纏う銀の髪が流れて、指先が優美な曲線を描いて、その隙間から見え隠れする、伏せた横顔が、翳る――
 息を詰めて、待った。
 やがて。
『かけがえのない、失くしたら、生きていける気のしない、たった一人』
 ――雫が、伝い落ちた。
 音のない、静かな、ひとしずく。
 彼も、泣く彼女を静かに見つめていた。
 不思議だなと、セルリアードが囁きを落とす。
『愛しいもの、失いたくないと思うもの、いくらでもあった。夢も望みも――闇に落ちて、その後は、……諦めた。同じ闇に落とすより、私だけ、消えればいいと思った』
 もう何も、手に入れまいと、死を、終焉だけを待って存在したのだ、と。
『それなのに、おまえだけ――サリディア、私は――会いに行った。さらいたくて、攫った。手に入れたいと思った――何と言うんだろうな――愛なんて、呼ぶ代物じゃない。愛していたら、そばに置けなかった。そばに置いたら、危険にさらすと知って――いて――そばに、置きたいと――断ち、切れなかった』
 セルリアードの影が、揺らいだ。
 葛藤を、その揺らぎが、知らしめる。
「……嬉しい」
『サリディア……?』
 いつも、彼女が彼を追いかけた。ついて回って、その彼女が追いつくのを、彼が微笑って待っていてくれたこと。大切なことで、どうしてそうしてくれるのか、本当は、知りたかった。けれど、優しさでも、そうし続けて欲しかったから。いつだったろう、聞いて、答えが返らなかったきり、聞けなかった。
 無理に聞いて、そうしてもらえなくなったら、取り返しがつかない。
 彼女が彼に何を期待しているか、彼は知っていると、思っていた。
 答えてくれないのは、彼が、彼女をそばに置く理由が、彼女の期待と違うからかと、心配した。
 杞憂だった。
「私、それがいいな。私……」
 無私の、相手を最優先する愛でリシェーヌを愛してきた彼だから。
 それと違う、彼女への想いを、何と呼ぶか知らないのだと、思う。どう、伝えたらいいだろう……。
「不思議じゃない。私、そばにいたかった。今もいたい」
 何も、こわくない。セルリアードがいてくれるなら、闇も死も、こわくない。ただ、そばにい続けたいから、それらを厭いはする。厭うのは、彼のそばにいるため。彼と引き換えてまで、厭うものを遠ざけること、願いはしないのに。
 無私の愛など望まない。
 彼自身と彼女と、等価に尊重されたい。片翼では飛べないから。どちらの翼が欠けても。
「私が危険な場所に……今、危険な場所にいるから……あなたが、危険を冒して助けに来ないように、自害した方がいい……?」
『……? 馬鹿なことを言うな。駄目だ』
 彼女らしからぬ言葉に眉を顰めて、それでも、本気で怒るセルリアードに、サリディアがくすと微笑む。
「でも、セルリアードはきっとそうするよね。リシェーヌが、危険を冒してあなたを助けようとしたら、その前に、すると思う」
『……』
「リシェーヌは行かせない。代わりに私が助けに行くから、しないでね。私も、しないよ」
『……』
「まだ、生きてるから……諦めないで、待ってる……」
 触れようとしたのか、セルリアードが手を伸ばした。
 もしそこにいたら、抱き締めてくれるのだと、わかった。せっかく、抱き締めてくれるのにと、思った。
「いつか、どこかでまた見つけたら、また、攫ってね……セルリアード、いなくて、寂しかった……会いに来てくれて……ありがとう」
 セルリアードが、小さくでも、確かに、頷いてくれるのが見えたから。
 嬉しくて、一片の後悔もない、幸せな気持ちで微笑んだ。

     *

「――!」
 術が解け、サリディアの気配が消えると、セルリアードは強く、石の円卓にこぶしを打ちつけた。
 こらえ切れない涙が、頬を伝った。
「……」
 ――綺麗に泣いちゃって――
 無防備ねと、口の端だけで笑い、マーディラは黙って、甥の様子を鑑賞していた。
 彼女がいること、忘れているらしい。賭けてもいい。覚えていたら、彼女の前で涙を見せるようなこと、この甥は絶対にしないから。
「ねえ」
 声をかけると、案の定、びくりとした様子で、固まった。
 もとより、やや離れた位置から横顔を見ていただけだけれど、涙が伝うのは見たし、それを抜きにしても鑑賞しがいのある、鮮烈で印象的な立ち姿だった。
「取り戻してきてあげましょうか? あたしに魂売り渡すなら、ありよ」
 彼女の提案に、魔物でも見る顔をして、いよいよ凝固する。
「ちょっと、あたし魔族の中の魔族なんだから、今さら、思い出した顔しないでくれる? だいたい、あんただって眷属じゃないの。ディルアードの始末、」
 ごく自然な動作で、長身の彼の肩に手をかけて、迫った。
 『魂を売り渡す』の意味を、言葉通りに取って固まった、その隙を突く。
 口付けを交わして、離れた。
「……っ」
 常はすました蒼の瞳が、見張られる。
 何から口にすべきなのか、混乱しきった色が、彼女を見た。
 マーディラはくすくす笑った。
「ディルアードの始末、つけてあげるわ。ふふっ……あたしは、前払いの仕事しかしないのよ? このあたしがキス一つで命賭けてあげるなんて、我ながら、冗談としか思えないわ。でも、これが母親の愛ってものよね〜。可愛い子ってお得ね♪」
「……なに……」
 黙ってと、人差し指を一本立てた。
「行ってくるわ。そうね、悪いけど、成功率は五分――んー、七分くらいだから。帰ってこなくても、うらまないのよ」
「!」
 楽しげにして、マーディラは彼から離れた。
“ あたしが死んだ時にも、少しは泣いてね ”
 似合わない、哀切で甘い囁きを、残して。
 上機嫌のまま、彼女はその姿を虚空に消した。

     *

 木枯らしが吹き付けていた。紅葉を通り越し、もはや灰色がかった枯葉が舞う、森の奥。
 控えめな湖のほとりに、ディルアードの姿があった。独り、冷たい岩にかけて凍える湖面を見つめている。
 それは誰かを待つ姿にも、ただ、そこに在る姿にも、見えた。
 彼は長く、動こうとしなかった。まるで、彫像かのように。
 かさ……
 枯葉を踏み分けて近付く気配に、そのディルアードがやっと、やや驚いた表情を見せて振り向いた。けれど、驚きはすぐ、落胆に変わった。彼は何も言わず、視線を湖面に戻した。
「何を見ているのかしら? こんなところで、暇ね」
 ディルアードは答えない。
「答えたくないのなら、構わないわよ。見ているものなんて。けど、次の質問には、答えてもらうわ。あたしの玩具(オモチャ)に触るな。言ったはずよ。どういう了見で手出しするのかしらね――?」
 まだ、彼は答えない。
「手を引くのか、引かないのか、答えてもらいましょうか。引く気がないなら」
「なら?」
 場違いに艶やかな笑みを見せ、無駄話かの平静さで、
「排除する」
 亜麻色の髪の魔族が、宣告した。
「フ――」
 ディルアードが顔を上げ、人間のふりをやめた、濃紫の瞳でマーディラを見た。
「ごめんだな。――引きはしない」
 スっと、マーディラが伸ばした手から、ディルアードが即座に身を退ける。そのまま中空に浮き、挑発的に笑んで、彼女を見下ろした。
 直前まで彼がいた場所では、座していた岩が、原型を留めず沸騰していた。
北の魔王(シェラザード)()った手か――」
「一番、面倒がないわ。避けるんじゃないわよ」
 理不尽を言い、マーディラの方も、中空にスイっと身を浮かせた。
 失敗した――
 今、さすがに、育て方を誤ったと思う。
 笑みは、何のことはない。構われて喜ぶ子供のものが、屈折した形。
 覚えのある感情だ。他者の運命を弄び、はしゃいだ。
 己に愛を与えなかった世界への、復讐。
 そんな、大層な意識を持ちはしないけれど、フタを開けてしまえば、それだけのこと。
 ――生かしておかず、幼生のうちに、始末するべきだったかしらね――
 水も光も、与えてやる気など、毛頭なかったのだから。愛も、幸いも――
「色仕掛けで取り入るのは、面倒ではないのか……? 懐に入って――ああ――無抵抗の相手を殺るのは、確かに早いな――」
 カっと、マーディラの瞳が衝撃波に近い光を放ち、高温の魔界の蒼炎()が、彼女を取り巻いた。

あ れ が ?

 ――銀の、波が――
 フラッシュバックする、残酷な光景。記憶。――狂気。


「死ねえぇっ!!」


 湖が一瞬で、灼熱の、蒼炎()の海と化した。

* 第10章 聖魔の鼓動【後編 に続く

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