聖魔伝説5≪伝説編≫ 祈り

第八章 ――残像――

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* 今後に期待の展開は?【結果発表】

≪2003.01.23更新≫

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 夢を見ていた。
 幸せなはずなのに、哀しい夢。
「フェル――」
 一面のすすきの中で、ディアナが楽しそうに名を呼ぶ。
「待って下さい、姉上――」
 一生懸命追いかけた。けれど、なぜか追いつくのは怖い。
 ――ああ、そうか――
 追いついたら。捕まえたら。目が覚めてしまいそうだから――


 T
「なあ、おっちゃん。リシェーヌがケッコンするってホント?」
 そろそろ寝ようかと廊下を歩いていたところを、レオミュールは駆け寄ってきた子供たち3人につかまった。ちなみに、真っ先に口を開いたのはティラだ。
「うん? ああ、本当だよ。耳が早いな」
 いったい、どこから聞きつけてくるものやら。意味がわかっているかもあやしいことを、聞いて、答えをもらってきゃっきゃと喜んでいる。子供たちなりに、祝福してくれているのかもしれない。
「どーでもいいけどおっちゃん、耳は走んないんだぞ。武芸ばっかりやってて、勉強してないんだろ。はやいって言葉は、耳には使わないの!」
 ティラの指摘に、レオミュールは目を丸くして彼を見て、豪快に笑った。ぐしゃぐしゃとティラの頭をなでる。
「なんだよ、やめろよ」
「あー、ポリアもやってーっ」
「エルシアもっ」
 気前良くぐしゃぐしゃやってあげながら、レオミュールはふと、目を大きく開いて彼を見る、覚えのある少年に気付いた。
「あの、今なんて……?」
「は?」
「リシェーヌが……」


 U
「ディテイルさん?」
 カーナが行き合った彼は真っ青な顔で、ひどく静かに歩いていた。彼女に気付かなかったものか、返事すらなかった。
 不安になって、カーナは思わず後をついていってしまった。
 ――どうしたんだろう?
 あまり尾行している、という自覚はなかった。ちょっと考えられないほど静かなディテイルの背中を追いながら、カーナはカーナなりに色々と考える。
 戦況の悪化が予想以上だったのかしら?
 夕刻、王宮で大変な事が起こったようだったのを、カーナは思い出していた。あれが本当に、大変な事だったのかもしれない。
 バタン
 ディテイルは戸外に出た途端、駆け出した。
「あ」
 あわてて追いかけたが、カーナにはどこに向かっているのか見当もつかなかった。けれど、考える前に――とにかくカーナは追いかけた。


 ――ちくしょう――
 胸がむかむかする。悔しくて悔しくて――
 ディテイルは全速力で泉まで駆けた。荒い息をつきながら、暗い水面を見やる。
 ――ちくしょう!!――
 ディテイルはがばっと、頭から泉に突っ込んだ。
「ディテイルさん!?」
 いきなり、引っ張られた。
「わっ!?」
「やめて下さい! じ、自殺なんて――!!」
「カーナっ!? て、自殺!? 誰がっ!?」
 ディテイルは驚いてきょろきょろと辺りを見回した。どこに自殺なんてしようとしてるやつが――!?
「え、て、あれ? もしかして俺のこと?」
 しばしの沈黙。
「あの……?」
 ふうっとため息一つ。ディテイルはやれやれとその場に座った。
「おまえ、結構早とちりだよな。お皿のこともさ。……でも、心配かけたんだな、ごめんな。ちょっと、頭冷やそうと思っただけだから。まあ、俺は間違っても自殺なんてしないからさ」
「……あ……そう……なんですか」
「そうそう」
 ディテイルはもう一度息をつくと、再び水面を見やった。
「やっぱ……カーナもなれるんだったら、フェルディナント公子の妻に……とかって思うのかな」
「え……?」
 ディテイルは岸辺の小石をつかむと、ひゅっと水面に向かって投げつけた。小石が2、3度水面を跳ねた音が聞こえ、それきりまた、静かになった。
「なんか……今、すっごく自分が情けないんだ。なんか、ほんとに……」
「あの……あの、じゃあディテイルさんはリシェーヌ様のこと……あ……愛してらしたんですか?」
「……まーね」
 ディテイルはもう一度、小石を投げた。
「全然、わかってもらえてないみたいだとは思ってたよ。だけど、それでいいって思ってた。急ぐ必要ないって」
 カーナは驚くと同時に感心した。すごい人だ。聖女様に思いを寄せていたなんて、やっぱり、この人はすごい人なんだ。
 ――え……?
「あの……あの、ディテイルさんて、それじゃあ聖人様なんですか……?」
「は?」
「だって、リシェーヌ様は聖女様で――だとしたら――」
「いや、ちょっと待って。聖女とか聖人とかって?」
「だって、現人神たる大公様のご子息、フェルディナント様とご結婚なさるってことは、リシェーヌ様は人間じゃないんですよね?」
 再び、ディテイルは面食らった。
「カーナ!?」
「はい?」
「何言ってんだよ。リシェーヌもフェルディナント公子も人間だろ」
 彼女は驚いたらしかった。
「あの……そうなんですか?」
 ふいに、ディテイルは不安になった。どういう国だ? ラルスというのは……。
 ――故国はラルスなんですけどね――
 そういえば、いつだったかラーテムズにそう言われて、ラルスは怪しいと思ったような……。大丈夫か? そんな国??
「ディテイルさん……?」
「え? 何?」
 カーナが少し不安そうに彼を見つめていた。
「フェルディナント様のこと、お恨みですか?」
「何で?」
「何でって……」
「だって、あの人は関係ないだろ。俺、今までずっとリシェーヌのそばにいたんだぜ。それでも選んでもらえなかったんだ。てことは、あの人がどうこうより俺が情けないってことじゃんか」
「……」
「でも、まだ諦めないけどね。最後まで、俺は諦めない」
「ディテイルさん……」
 ふいに、カーナにはディテイルの強さが眩しく感じられた。
 彼女は初めて人を、リシェーヌをうらやましいと思っていた。
 この勇気を、自分に真似できるだろうか? 選んでもらえない自分が情けないと――今の自分を変えていけばいいと、そう信じる勇気があるだろうか。
 ――私は、なれるんだったらディテイルさんの恋人になりたいです――
 臆病な自分には、きっと、それは分不相応な望みなのだけれど。

 突然、異様な悲鳴が夜気を切り裂いた。


 V
「フェルディナント様!!」
 事態を真っ先に把握して駆けつけたのはレオミュールだった。部屋は真っ暗だったが、誰かが中でうずくまっていることくらいは廊下から差し込む光でわかった。
「あああぁぁああぁーー!!」
「フェルディナント様!!」
 狂ったような絶叫を上げ、今まさに壁に体当たりをかけようとした公子を、レオミュールはぎりぎりのところで取り押さえた。けれど、公子は抵抗する。普段からは考えられないほどの力で。
 すぐに、リシェーヌや子供たちもやってきた。
「これは、――リシェーヌ様、子供たちを、中に入れんで下さい! 何でもありません、すぐに、収めますから……」
 まるで説得力のない言葉だったが、子供を入れるな、というのは彼女にもわかった。
 どうしよう……。
 リシェーヌはちらと子供たちを見、心を決めた。可哀相だけれど、魔法で眠ってもらうことにする。説得して部屋へ帰している場合ではないと思えた。
「いったい……!」
 部屋に入った途端、リシェーヌは総毛だった。脳裏を恐ろしい幻影がよぎる。
 赤い――??
 散乱した、桃色の肉片。
 人――!?
「ふ、あああぁあぁあ、あ、ああぁ!」
 公子が再度発した絶叫が、リシェーヌを現実に引き戻した。
「フェルディナントさまっ」
 瞬間、公子の動きが止まった。公子がひどく静かに振り返り、リシェーヌの姿を瞳に映す。公子が二度、三度、首を横にふった。
 レオミュールの小さな隙をつき、公子は駆け寄ってきたリシェーヌを捕らえ、抱き締めた。
「……!!」
 いったい、どういうことなのだろう??
 信じられないほど深く、爆発的な悲しみだった。
 あらん限りの力で、手加減すらなしに抱き締められて、それでもリシェーヌは苦しいとも思わなかった。苦しいのは悲しみだ。胸を押し潰してしまいそうなのは悲しみだ。
「姉上……姉上!!」
 胸が、潰れてしまう――
 リシェーヌは静かに公子をかき抱いた。
 どれくらいの時間そうしていたのか。公子の口からは「姉上」という言葉しか出なかったが、リシェーヌにはずっと聞こえていた。彼女に助けを求める公子の声が。
 何もかもわからなくなる一歩手前で、公子はかろうじて彼女の存在に気付いてくれたのだ。けれど。
 これほどの悲しみをどう処理すればいいのか、リシェーヌにはまるで、わからなかった。
 わかるのは、公子がただ、何かを拒んでいるということだった。今手を離したら、きっと、公子はもう二度と戻ってこないということ――
 それでも抱き締める腕は少しずつ、正気を取り戻してきてはいるのだった。心にふたをして――
「フェルディナントさま……」
 やがて、ばたばたと足音が聞こえてきた。ディテイルとカーナが駆け込んでくる。
「こ……れは――!?」
 ディテイルの問いに、レオミュールが苦しげに答えた。
「ご錯乱なさったのです、フェルディナント様は……」
「錯乱!?」
「公女様の惨殺体をご覧になられて……」
 誰なのか、判別すらできかねる亡骸なきがらだった。にも関わらず、公子はそれを姉と認めてしまった。ちょうど、今のように――錯乱した。自虐的に暴れ出し、収拾がつかなくなった。
『悪い夢から覚めようとなさったのでしょう』
 公家付きの魔道師が、公子の記憶を封じた後にそう言った。その魔道師も、往路で落命してしまい、そのために封印が緩んでいたのだ。
「……」
 ディテイルはわずかに眉をひそめ、無言で公子に近付いた。
「ディテイル殿……?」
 こぶしが真っ直ぐ公子めがけて突き出される。
「!!」
 リシェーヌのものかカーナのものか、悲鳴が上がった。
「馬鹿野郎!!」
 何とか片手をついて起き上がった公子に、ディテイルが色を失くすほどこぶしを握り締め、怒鳴りつけた。
「おまえ――おまえ、受け止めてたじゃないか! 姉さんが死んだって、ちゃんと……なのに、何で……何でだよ!!」
 許せなかった。何が許せないのかもわからないのに、許せなかった。
「大切なのは、もう二度と笑いかけてはくれないって……そばにいてはくれないって、そういうことなんじゃないのか!? どんな風に死んだとか、誰に殺されたとか、そんなことの方が大事なのかよ!!」
 兄を殺したのは――目の前で兄を殺したのは、セルリアードだった。けれど、それは――兄を亡くした悲しみは、憎しみですりかえがきくほど軽かった?
 そんなの、ばかげてる!!
「……あ……」
 いつの間に涙が出たのだろう。止まらない。
「勝手にしろ!!」
 ディテイルはだっ、と駆け出した。自分の部屋まで駆け戻り、乱暴に扉を閉める。
 ――兄さん――
 溢れ出した涙は、なかなか止まらなかった。


 W
 翌朝。
 昨夜の騒動も、フォラギリアを揺るがす戦争も、忘れたかのような穏やかな朝だった。
 公子はまず、ディテイルの部屋に足を運んだが、彼はまだ眠っているようだった。代わりに、リシェーヌの部屋を訪れる。彼女は起きていた。


「――解消しましょう」
「え……?」
 公子はリシェーヌを中庭に面した渡り廊下へと連れ出すと、告げた。
「婚約を解消しましょう、リシェーヌさん」
 昨夜の今朝だ。
 彼女にとって、それは唐突で、認めがたい、耳を疑うような申し出だった。
「そんな……あの……あの、どうして……なんですか?」
 いけない。
 震えそうになる声を、リシェーヌは必死に励ました。どうしよう。どんなに心を落ち着けようと努めても、上手くいかなかった。
 公子はただ静かに、中庭の噴水を眺めている。
「――呆れたでしょう? あの様では」
「そんな……わかりません。あきれていません」
 公子がわずかに目を見張り、あまり表さない感情を、珍しく表に出した。驚いている。
「まさか……。気を遣って頂かなくていいんです。本当のことを知らせておかなかった、こちらに非があるのですから。貴女の方から頼んだことだと、遠慮なさる必要は、ないんですよ」
「わかりません……あの……」
 どうして、公子はこんなことを言うのだろう。
 あの時、婚約をお願いに行きましょうと言われた時、どんなに嬉しかったかわからない。なのに――
「……私が……私が、いけませんか……? ……ご迷惑でしょうか――」
 こうして指摘されるまで、この先もずっと一緒なのだと、疑いもしなかった。
 つないだ手は、はなさなくていいものなのだと思っていたから。
 昨夜など何もできなかったのに、そのことにすら、何の疑問も抱かなかったのだ。
 それが、おかしかったのかもしれない。
 胸が塞いでしまって、リシェーヌは下を向いて黙り込んだ。じっと、眼下の落ち葉を眺めやる。
 その様子を見ながら、公子はふと、自分の間違いを認める気になっていた。
「……迷惑ではありません。――どうかしていました、あんな姿をさらして――」
「フェルディナント……さま……?」
 公子は真っ直ぐリシェーヌを見て、その碧の瞳を見つめて、微笑んだ。
 この優しく清らな瞳を、いったい、誰に手放すことなどできるだろう。
「あなたに、どうやって信じてもらえばいいのかわからなかったんです。私が――」
 姉の身代わりでも、心のよすがでもなく、ただ、惹かれたのだと。
 今や失うことなど考えられないくらい、大切な――たった一人の少女になっているのだと。
 彼女にそれを伝えるのに、言葉という形が必ずしも重要ではないことを、忘れていた。
 触れ合うだけでそれを理解し、何の疑いもなく信じることのできる少女。不思議で神秘的な少女。彼の手を取ったのは、そういう少女だった。
 彼の方こそ、最初からそれと気付いていたのに、失念していた。
「でも……、でも、私には何もできませんでした。私には……」
「どうして、そう思われるのですか? あなたは、レオミュールでさえ持て余した私を救って下さった」
「私……が?」
 リシェーヌがつと目を上げる。公子の優しい深緑の瞳が、見えた。
「あなたは賢い人です。最終的に、私を救ったのはディテイルさんだと思っていらっしゃるのでしょう? それは間違いではないんです。でもね、あなたがいなければ私には――きっと、誰の声も届きはしなかったんです」
 どんな真理も、絶望や狂気の前には無力だ。そこにはまず光が、正気がなくてはならない。
「あなたは私を救って下さった」
 碧く澄んだ瞳を、それだけをあの時感じることができた。酷すぎる赤を――こびり付いた血の色を、消してくれた最初の色。

     *

 その日から、待ち構えていたかのように、スィール軍が攻勢に出た。元帥を失くして以来、守勢にまわりがちだった弱気を微塵も感じさせない、鮮やかな手際だった。将軍と参謀を一度に失くしたアルン軍を立ち直らせず、一気に突き崩そうという腹だ。
 そして、同盟のおかげで可能になるはずだったアルン側の挟撃は、魔道師の不足で実現が難しくなっていた。もとより魔道技術で遅れをとる上、魔道師の数も不足しているのが、アルン軍の現状だ。
 前線で通用する魔道師は、魔道師長のセッグ、精霊司ルヴェラのエメリーダ、それにサリディアとセルリアードを加えても、十指に満たないという有り様だった。とても援軍になど回す余裕はなく、挟撃どころか、公子の帰国自体が危ぶまれた。
 ――だが。
 援軍は出された。
 公子が魔道師を欠いた状況下、危険を冒して帰国すると知ったリシェーヌが、同伴を強く願い出たのだ。
 アルンでも屈指の結果師であるリシェーヌのこと、その動向についてはそれなりに揉めたが、セルリアードがもともと、彼女を前線に出すことを拒んでいたこと。にも関わらず、本人の強い希望に彼が折れたことで、その希望が通る形になった。
 ただし、彼女は『水の魔道師』だ。
 これを知る者は少ないが、ファスが『炎の魔道師』としての力を利用された時に、止め得るのは彼女だけだったから。
 いざという時には、強制的にアルンに召還――それが、条件とされた。
 そのための魔道契約が、約半日がかりで執り行われ、その上で、彼女はラルスへと送り出された。
 晩秋のことだった。


 X
 風がかなり強く吹いていた。紅葉が空を舞っている。
 援軍を出す関係で王都に戻り、セルリアードはその足で、サリディアを家まで送った。
 サリディアには今後、アレイルと王都の守りを任せることになっていた。


「じゃあ行く」
「うん」
 セルリアードは現在、前線であるレザランと契約しているので、そこへは転移で行ける。
 呪文が紡がれ、完成した術がセルリアードを運び去ろうとする、刹那。
「サリディア?」
 彼女自身にも、何を思ってそうしたのかよくわからなかった。とにかく、彼女は彼の服の袖をつかんで引き止めてしまった。
「どうした?」
「……」
 わからないのだから、答えようがない。サリディアは困って、それでも彼を引き止めた手は離せずに、うつむいた。
 微笑んで、セルリアードが手を伸ばしてくる。彼は彼女の腕をつかんで引き寄せると、それ以上は何も聞かずに彼女を抱き締めた。
 万が一の時には、もう会えないから。
 彼女が何を恐れているのか、何を望んでいるのか、たとえ言葉にならなくても、引き止めるその手が全てだった。行かないでと、訴えている。わがままの言い方を知らないサリディアだから、途惑うのだ。
 ひとしきり、彼女が苦しがるくらいに抱き締めて、それから、彼は腕を緩めた。
「気は済んだ?」
「……ん……」
 サリディアにも、彼女自身が何を願っていたのかわかったようだ。
「あんまり、元気にならないな」
「……」
 サリディアは目を上げ、やや寂しげに、それでも笑顔でかぶりをふった。
 最初から、笑顔で送りたかったのに。
 なぜだか不安で――
 と、彼がスっと彼女の頬に手をかけた。セルリアードはやや目を伏せ、手を彼女の後頭部へとずらしながら、もう一方の手でサリディアの手の平を捕まえた。唇を重ねる。一瞬、重ねた彼女の手が怯えるように動いた。
「……」
 その手の平を重ねたまま、セルリアードは彼女お気に入りの仕草で微笑みかけると、諭すような口調で告げた。
「――ちゃんと、戻ってくる」
「……うん、ごめんなさい。――ありがとう」
 サリディアもにこりと微笑み返した。
「行ってらっしゃい」
 たまには、素直に行って来ますとでも言おうか? 今日のサリディアは妙にしおらしいし……。
 そうも思ったけれど。
「今日は私の勝ちだな。おまえの方がずっと寂しがってる」
 あえて憎まれ口を叩いた。
「うん――」
 サリディアがやはり寂しげに、名残を惜しむように彼の胸に額をもたせた。
「可哀相だから、いなくならないでね? 早く帰ってきてね」
 ――可哀相だから、って……。
「誰が?」
「私」
 セルリアードはつい、おかしそうにくすくすと笑った。彼女も笑った。
「ああ、わかった。行ってくる。いなくならないから、おとなしくしていること」
「はい」
 紅葉が空を舞い狂う。


 Y
「東の砦が落ちただと――!?」
「いえ、ヴァレイン様、しばしお待ちを――」
 あわてて釈明しようとした老将を、ヴァレインは無造作に突き飛ばした。三日前、アルンは将軍と参謀を失ったばかりだ。それなのに、東の重要拠点を奪われたなど――!
「カレンを呼べ! あの小娘が、今度の作戦の責任者だったはずだ!」

     *

 カレンは次の戦略について、こちらも着任したばかりの将軍と打ち合わせをしているところだった。今は何と言っても時間が勝負だ。アルンが持ち直す前に、一気に突き崩す!
 それをして始めて、勝機も見えてくるはずだった。
 今のところ経過は良好だ。わざと明け渡した砦に、アルン軍は素直になだれ込んでくれた。あの砦には一つしか水源がないから、入ったところで取り囲んで水源を断てば――入った分だけ潰せる。あそこは場所がいいから、うまくすればアルン本隊が入ってくれるかもしれない。
 そこまで考えて、カレンは冷静に自分自身をたしなめた。
 それは望み過ぎというものだ。
 状況を見る限り、どうやら参謀の代わりはいるらしいのだ。罠を警戒して突入を見合わせる指令は出たらしい。にも関わらず、それは無視された――すなわち、現在アルンの指揮系統はガタガタだということだ。参謀の代わりはいても、将軍の代わりはいなかった、というところか。
「カレン様、ヴァレイン様が……」
「……わかりました。すぐに参りますとお伝えなさい」
 取次の者を行かせると、カレンはうんざりした顔で息を吐いた。実際に、うんざりしていた。あの宰相は一から説明しないとわからないくせに、執拗に承認を取らせたがるのだから、手に負えない。宰相さえいなければ、きっと、ことはずっと迅速に進むのに――
 なかなかヴァレインを退けないことに関してのみ、カレンは皇帝を恨んでいた。


 Z
「ヴァレイン様、お呼びとか」
 カレンを認めると、ヴァレインは憤りに任せて怒鳴りつけた。
「よくものこのこと顔を出せたな!? 小娘がっ」
「顔を出せない理由はありませんが」
 言ってしまってから、カレンは内心しまったと思った。宰相を相手にする場合、言葉は可能な限り慎重に選ばねばならないのだ。今は気にかかることが――幸いそれらは良い方向にであるが――いろいろとあって、つい注意を怠ってしまった。
「何だと!? きさま、ふてぶてしいにも程があるぞ! みすみす東の砦を奪われおって……!」
 ヴァレインが激昂した。
「お言葉ですがヴァレイン様、あの砦に関する戦略、ご報告申し上げたはずですが。問題はないと存じます」
「きさま、世の責にする気か!? この非常時に、誰があのような報告書をいちいち――!」
 それが、ヴァレインの限界だった。もう我慢ならない。
 ヴァレインは既に、その暴力を抑える気をなくしていた。これだけ言ってわからぬ者に、これ以上、どれだけ言おうと同じなのだ。
「まさか、目を通されておられないのですか!?」
 カレンもさすがに顔色を失って、今にも暴発しそうな目の前の暴君を見た。あれだけしつこく報告書を要求しておきながら、目を通していない!? つまり、東の砦を奪われたものと思って――!?
「お待ち下さい! ヴァレ――」
「うるさい! この、無能なあばずれがっ!」
 何か、頭に強い衝撃があった――……。
「カレン様っ」
 はらはらと事態を見守っていた老将が、愕然とした声を上げる。頭を強かに殴打され、カレンは動かなくなった。
「何ということを――! ヴァレイン様、どうなさるおつもりです! 数々の戦略の詳細、カレン様のみがご存知だったものを――!!」
 彼女は概略しか周囲に知らせていなかった。それすらも、ヴァレインゆえなのだ。報告するとしたら、どうしても宰相を無視することはできない。ところが、ヴァレインときたら平気で最高機密を遊女に漏らす。どうして報告などできようか。
「カレン様っ! カレン様っ!」
 老将がいくら呼びかけても、もはや、カレンは目を開けようとしなかった。
「何をうろたえておる? そのような小娘の作戦、たかが知れておるではないか。今まで、その小娘がどんな戦果を上げたか考えてみるがよい。全て敵に見抜かれおって――!」
「これまでの話です。今は状況が違うではありませんか! そもそも、今まで敵の戦略を見破ってこられたのもカレン様です!」
 主張しながらも、老将は絶望していた。なんたることか。この好機に、戦略の最も多くを握る者が意識不明だなど――今はどんな戦略であるか、はあまり問題ではない。どんな戦略でも、張れば当たる時なのだ。とにかく数多く罠を張る――そういう器用なことこそ、少女は得意としていたのに。
「老将、その頭についているものは何だ? 飾りか?」
 愚か者めと、ヴァレインが侮蔑を込めた声音で言う。
「陛下にご報告申し上げる!」
 初めて、ヴァレインの表情に侮蔑と憤り以外のものが浮き上がった。
「ほう……。確かに、いくら無能でも娘は皇帝の気に入り。殴り倒したのは良くないぞ、老将」
「な……!?」
「成敗せねばな」
 ヴァレインのこぶしが振り上がる。


 とうとう、部屋に文句を言う者はいなくなった。ヴァレインは、倒れた二人を満足げに見下ろしていた。
 将軍と参謀を失った? ならば、それこそ力押しの好機ではないか。指導者を欠いてガタガタの軍など、正面から叩き潰せば良いのだ。今、それに勝るどんな戦略もあるものか。
 ヴァレインは愚者達を哀れむように、一人、冷たく笑った。

     *

 キキッ
「総攻撃?」
 ヴァレインにつけていた使い魔からの報告に、ディルアードは一人呟いた。
「たいした才能だな……この状況下で、よくも最良の策を見つけるものよ――」
 皮肉に笑い、手元のワイングラスに手をかける。
 このまま滅ぼすのも一興だ。しかし、まだ弄ぶのも、一興だ。

“ あたしの玩具に手を出すの、やめてくれない? ”

 ディルアードは感情の見えない瞳で虚空を睨み、やがて、冷笑した。
「……面白いことになるかもしれんな。少し、手伝ってやろうか――」


 [
「総攻撃?」
 スィールの出方は、アルン陣営にも少なからず動揺をもたらした。
 何かの罠では?
 あまりの愚策に誰もがそう考え、警戒したが、罠らしい罠はいっこうに見当たらなかった。
 前線レザランの会議室。
 罠の可能性も残したまま、アルン陣営は全員一致で『将軍を失ったアルン側の指揮系統の乱れにうかれた、スィールの暴走である』と判断した。
 暴走だ。スィールとて元帥を亡くしている。条件は初頭で互角、各地から軍勢を終結させれば、まずアルンの劣勢はありえない。なぜなら、全軍を掌握していたデリーバル将軍を失い、末端にこそ命令の届かないアルン軍ながら、中央は別だからだ。国王たるケルトの人望と、その補佐を務めるセルリアードの人望が、若さにそぐわず極めて高いのだ。
 確実に、先のスィール皇帝を討ち取ったことで、ケルトの名声は上がっていた。
「陛下に軍を率いて頂き、正面から敵を迎え討ちます。陛下の護衛は私と近衛隊が、右翼と左翼は……」
 戦略を取りまとめるセルリアードの声が、議場に響く。
 ケルトだけは失ってはならない。今、軍を問題なく率い得るのは彼だけであるから。
 魔道師長セッグ、精霊司エメリーダ、王兄セザイール、故デリーバル将軍。
 有力者の全てがケルトに信頼を寄せ、彼を中心にまとまっていた。
 将軍を欠いた今、ケルトを失えば、本当に指揮系統が失われると、誰もが理解していた。

     *

「うーん、わかった!」
 居間で、状況報告は読めないから、地図だけ見ながら考えていたティラがはしゃいだ。
 セルリアードと分かれて4日。総力戦が始まったということで、サリディアの元にも報告書は届いていた。一応、見て意見が欲しいということで。
「なあに?」
 サリディアが聞いてあげると、ティラはさも嬉しそうに力説した。
「ほら、ここ、山だろ? 俺たちがここまで攻め込んだら、こっから岩を転がすつもりなんだ!」
「ああ……そうだね、面白いね。――でも、この山は岩が転がるほど急勾配じゃないかな。ほら、等高線の幅が広いでしょ? こういうのは、なだらかなんだよ」
 うーん、と唸ってから、ティラは自説を訂正した。
「ええと、じゃあ、魔法で坂にしてから転がす!」
 どうしても岩を転がしたいらしい。サリディアが思わずくすっと笑うと、ティラがまるで鬼の首でも取ったかのような顔で聞いた。
「当たり!?」
「ううん? じゃあ、検討してみようか」
 とりあえず、特に気になるところはなかった。むしろ、ないのが不安と言うべきだ。スィールらしくない。同じ思いで、セルリアードもこれを届けたのだろう。
 ティラに付き合いながら、サリディアがそろそろ昼食の支度をしようか、と思った時だった。
 コオォォォ――
 不可思議な音が響いた。
「姉ちゃん、今の何!?」
 サリディアは弾かれたように立ち上がった。この音は――
「ティラ、ラーテムズさんの所へ! 絶対に部屋から出ないで、隠れて!」
 ポリアとエルシアは、ピートと一緒のはずだ。今の音は、間違いなく結界が魔道を弾いた音――! すなわち、何者かの襲撃!
 表に出、上空を見上げて、サリディアは愕然とした。
 ――皇帝!?
「サリサ、今の音は――!?」
「ディテイル、お願い、ラーテムズさんに頼んでセルリアードを――」
 カッ!
 視界が真っ白に輝いた。再度、ディルアードが何か大きな術をかけたのだ。しかし、これもリシェーヌが張っていった結界に阻まれる。
「誰なんだ!?」
「敵の皇帝! お願い、早く行って! 接近戦になったら手に負えない!」
「待っ……」
 サリディアは問答無用でディテイルを中に突き飛ばすと、即、呪文の詠唱に入った。
 とにかく、距離があるうちに、手を打たなければならない。将軍と参謀を造作もなく殺した男だ。ケルトとて、あの時、皇帝がなぜか退かなければ守り切れなかった。
 セルリアードが来るまで時間を稼ぐ?
 無理だ。
 前線からここまで、どんなに急いでも、半刻以上はかかる。
 話し合いの余地は?
 ない。
 たった今かけられたのが、発動すれば周辺一帯を壊滅させるほどの、殺戮術だ。
 中央を預かる魔道師として、彼女自身が闘うしかなかった。
「――四元結界フロウ・カミラ
 サリディアはまず、彼女自身を守る結界を張った。
 次は――
 今なら奇襲できる。なら、使える中で最も強力な術を、気付かれないようアレンジしてかける――それが、最善だろう。
 ためらっている暇はなかった。
 ディテイルの腕で鉄剣では、ディルアードとの接近戦には無理がある。ディルアードが突っ込んでくるなら、その前に片をつけなければならない。
 まして、確実に狙えるのは、上空に留まっている今しかないのだ。
 サリディアははるか上空のディルアードの姿を捕らえると、魔道師長セッグに教わった、アルン秘術で仕掛けた。
炎幕閃アミラゼータ連撃カラミティ!」

     *

 大技を立て続けに弾かれ、ディルアードは少々思案していた。
 手間取るが、端から皆殺しにするか。あるいは、宗旨替えして王宮を落とすか、と――
 人を食ったようなマーディラの笑みが、脳裏に潜在し、不快だった。
 下らない。たかだか数十件の集落、片端から殺し回ってくれようと、そう結論しかけた時だった。
 ディルアードは直感的に利き腕を前に出し、解呪を口にした。
レダ!」

     *

 パンっ!
 幻術が解け、閃光がいまやはっきりと、その姿を露呈していた。
 しかし、避けられない距離だ。対抗呪文も間に合わない。
 秘術の制御に、サリディアはいよいよ意識を集中した。
 ディルアードが掌を突き出す。先日の戦闘での様子といい、おそらく、そこに結界があるのだ。
覇乱クロア!」
 一条だった炎幕閃の閃光が、八条ほどの光を生み出し、弧を描いてディルアードに襲いかかった。
 炎幕閃アミラゼータは『マリア』と呼ばれる主弾と『クロア』と呼ばれる散弾から成るのだ。『マリア』の破壊力は絶大で、鋼鉄の盾、魔獣の装甲さえ貫く。通常の魔道結界では、まず止めきれない。かといってこれを止めるほどの盾形結界を持つ場合、『クロア』に対して無防備となり、その直撃を受ける。散弾とはいえ『クロア』の一条でも、当たれば致命傷となる威力を持つのだ。
 魔獣さえ一撃で滅ぼす――むしろ、そのために編み出された秘術だ。これが効かないとしたら、アルンの魔道師に、ディルアードを屠れる者はいない。
 ドンっ!
 マリアが文字通り、ディルアードを弾き飛ばした。否、正確にはマリアが弾かれたのだが、その衝撃で、ディルアード自身も弾き飛ばされた。
 カッ!
 ディルアードが二条、クロアを被弾した。
 ――捕らえた!
 致命傷のはずだが、まだ、即死まではしていなかった。止めを刺さなければならない。
 連弾分――二弾目の炎幕閃が、体勢を崩したままのディルアードに襲い掛かった。
 

―― カッ! ――


 黒い、日食と錯覚するような衝撃派が放たれた。
 サリディアはぞくっと背筋を凍らせた。
 そこにいたのは、人ならぬ存在だった。
 闇色の、蝙蝠コウモリのような羽根。高魔族のような螺旋の角。災禍の塊のような、暗黒の気配――
 ――天魔……!?
 炎幕閃の直撃を受け、焼かれながらも、ディルアードが彼女を認め、ニヤリと笑った気がした。

     *

 ラーテムズは自室の霊玉を見た瞬間、まず、我が目を疑った。信じられない。霊玉は周辺にみなぎった魔力を感知し、黒から赤、黄、白、青と変化する。とはいえ、以前サリディアに最大まで魔力を使ってもらってなお、玉は黄金の輝きを放つにとどまった。それが当たり前なのだ。黄金どころか、宮廷魔道師の採用基準は朱色だ。並の魔道師では、わずかに赤みがかる程度で、黒を完全に消すことすらできない。この霊玉が白ともなるのは、優れた魔道師数人がかり、数日がかりで儀式を行う時くらい――
 その霊玉が今、冷たい、白金プラチナの光を放っている。
 一つ色が違えば、魔力は約十倍違うと言われる霊玉だ。白金の輝きなど――アレイルどころか、小さなものなら国ごと滅ぼせるレベルじゃないか!?
 ――冗談じゃない……!!――
 リシェーヌが、水の魔道師が張った結界だからこそ、もちもした。けれど、残された彼らに何ができるというのだ。こんな化け物相手に――!!
 ピーッ
 通信機を鳴らしながら、ラーテムズは外の映像をモニターに映し出した。折しも、何か魔術のようなものがサリディアを掠めたところだった。
「姉ちゃん!」
 ティラが叫ぶ。
 とにかく、たとえ無駄でもできる限り渡りをつけて、対抗手段を練らねばならない。
「ラーテムズさんっ」
 ディテイルが駆け込んできたのはその時だった。息を切らしながら伝える。
「サリサがっ。セルリアード、呼んで、くれって……」
 その時、ティラが音もなく部屋を出て行ったことに。不幸にも、誰一人気付かなかった。

     *

 ピーッ
 通信機が鳴ったのは、午後の作戦会議のさなかのことだった。
 会議中は切っているものが、緊急回線でつながっていた。
 短かく断って外に出ると、セルリアードはすぐに応答した。
「はい」
 途端、初めて聞く、切羽詰まったラーテムズの声が届いた。
「セルリアードだな!? 何とかしてくれ、皇帝が来てる! 今はお嬢様が闘ってるが――このままじゃ、このままじゃ集落ごと全滅だ!」
「なにっ!」
 心臓が止まるかと思った。なぜ、皇帝がアレイルを――!? 彼を狙って!?
「セルリアード! どうしたんだ」
 様子を見に来たケルトに、セルリアードは夢中で言った。
「午後の戦闘、おまえは出るな! 士気が下がるようなら防戦しろ!!」
「な、ちょっと、セ……」
 ケルトの横をすり抜けて窓まで駆けると、セルリアードはすぐさま風を呼び、舞い上がった。彼は死に物狂いで空を翔けた。


 \
 効いたには、違いない。
 それでも、ディルアードが天魔の形態を取った途端に炎幕閃アミラゼータの炎は消え去り、次には、ディルアードの周囲をほのかな赤紫の光が包んだ。
 喰魔結界ハウル・カミラ――サリディアが張った四元結界フロウ・カミラに匹敵する、極めて強力な結界だ。いや、結界としての力なら、喰魔結界は四元結界をはるかに凌ぐ。魔道還元系の結界で、通常の結界と違い、防ぎ切らずとも魔術の威力を大きく削いでしまうのだ。唯一の欠点は、術者の術まで妨害すること――しかし、ディルアードにとってそんなことは、欠点でも何でもないようだった。ケルトを殺しに来た時の、あの動きがあるのだから。


 止められない――
 サリディアは半ば、覚悟していた。セルリアードを待つことはできない。通用する術は、もはや、ただ一つしかあり得ないから。
 一つだけ。そう、一つだけ、ディルアードを打ち倒す可能性があった。あの、使えるようになったばかりの風の術。けれど、まだ制御の不完全な術だ。放った直後、また意識を失う可能性が高い。
 外したらそれまで――
 至近距離で、かわせないほど引きつけてから打つ。それしかない。
「姉ちゃん!」
 ふいに、背後からかかった知った声。
「ティラ!? 戻って!!」
「いやだっ」
 小刀を握り締め、叫んだティラに向かって、ディルアードがすっと掌をかざした。その顔には、余興を楽しむような、残酷で悪辣な笑み。
「こんにゃろー、下りてきやがれっ!」
「ティラ!!」
 ディルアードの手にぽうっと光が灯る。子供一人を殺すなど、いくら結界に阻まれると言っても簡単だった。
「ティラ!!!」


 ――なぜ、時は。
 こんな時ばかり、信じがたいほど速度をなくし、進むことを忘れたかのように流れるのだろう?
 本来通りに流れてくれたら――文字通り、一瞬だったなら。そうしたら、間違えないのに――!!
 分かっていたはずだった。ここで彼女が倒れれば、彼女だけでは済まないのだと。
 情に流されれば、ティラはおろか他全員まで、巻き添えになる。
 それでも、勝手に動こうとする体を、彼女には制し切れなかった。

 ――ザウっ!!

 恐るべき風と真空の刃がディルアードを切り裂いた。避け切れなかった右肩から先を、ごっそり、粉々にして奪い去る。
 サリディアはかろうじて意識を保っていた。ほとんど奇跡だ。以前放ったものより、数段威力の高い風刃だったのだから。けれど、もう……。
 やはり、まだ遠すぎた。
 避けられてしまった。
 ――どうしよう!?――
 しばらく呆然とディルアードは傷口を眺めていた。やがて、半ば絶望的な怒りと嘲りを覚えたような表情で、彼は顔を歪めて笑った。全てをあざ笑った。
「ふり絞ったにしても、たいした魔力だな。だが――」
 再び、今度はその左の掌に光が灯る。怒りのせいか、それは先ほどより数段集中した魔力を宿していた。
「どの道、その子供は死ぬしかないのがわからぬか――? 教えてやる」
 カっ!
 その掌が輝き、閃光が走る。
「ティラ!!」
「姉……」
 サリディアは、間一髪ティラを突き飛ばした。代わりに光は。容赦なく軌道に入ってきた彼女を撃ち抜いた。喰魔結界と四元結界の二段抜きで。気が遠くなる。
「……っ」
 そばに人の降り立つ気配があった。
 ディルアードは無造作に彼女を抱え上げ、ティラに向かって嗤いかけた。
「礼を言わねばならんな? おまえのおかげで死に損ねた――わかるか?」
 わけもわからず、ティラは手探りで小刀を探していた。わからない。何もかも、真っ白で――
「おまえのおかげで、娘は術を急いで仕損じたのだ。いくら私でも、あんなものを喰らえばひとたまりもなかったのにな――残念だ」
 何……?
 ティラは目をいっぱいに見開いてディルアードを見た。
「協力してくれた礼だ」
 三度、ディルアードがティラを殺そうとするのを。
 ――またしても、サリディアが妨害した。
 魔力が集い、熱と力を持った空間を、素手で払ったのだ。無論、魔術は結界内で暴発し、サリディアとディルアードの双方に苦痛をもたらした。
 ――ごめん――
 限界だった。意識は急速に遠ざかり、そこに留まってくれようとはしなかった。
 ――ごめんなさい……――
 頬を伝う涙の感触を最後に、彼女の意識は途切れた。
「サリディア!」
 声に、何者かとディルアードがふり向く。
 同じく異変に気付き、駆けつけたサリスディーン博士が見たのは、もはや生きているとも思われない、血まみれの愛娘の姿だった。
「おのれっ!!」
 絶望と憎悪に目が眩む。早口に、狂ったように紡がれる呪文が、魔力を場に呼び込む。
 ディルアードはわずかに眉をしかめた。結界を生成する両手が、今は両手とも、使い物にならないのだ。わずらわしい。彼は博士を無視して帰還の呪文にかかった。
 術の完成は、博士の方が先だった。
 ディルアードは顔色一つ変えず、ただ、襟首をつかんだ少女を盾にした。
 娘を巻き込んで術を放ってみるか――? とでも問いたげに。
(この、外道――!!)
 これ以上ない怒りと憎悪に身を震わせて、博士はわずかにのけ反った。
流炎滅空アリダ・リード!」
 鋼鉄をも溶かす業火が焼き尽くす。
 しかし、その直前、ディルアードとサリディアの姿は消えていた。
 ほんの数秒、時間を稼ぐためだったのだと。
 自分がまんまと敵を取り逃がしたことを、博士は思い知った。
 ポツ――
 冷たい水滴がはねる。いつの間にか、雨が降り出していた。

* 第九章 悪夢の声 に続く

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