聖魔伝説4≪伝説編≫ 祈り

第七章 ――婚約――

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≪2002.11.29更新≫

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 T
 ピィ――
 ふいに、高い鳥の声がリシェーヌを現実に引き戻した。行く先に、小さな研究所が見えている。リシェーヌは胸のペンダントを確かめると、再び歩き出した。
 どうしようかと悩んだ末、彼女は紅葉を特殊な水の空間に封じた。一見、水晶に見える水球だ。これで、ペンダントにして持ち歩ける。
 彼女は研究所にたどり着くと、呼び鈴を鳴らした。


『絶対、朝、ラーテムズさんに会いに行っちゃだめだからな、リシェーヌ。下手したら二時間くらい待たされるんだから』
 ディテイルに幾度となく注意されていたが、それでも彼女はあえて朝から訪ねた。
 どんなに待たされても構わなかった。ただ、どうしても――
 公子と話すうちに、リシェーヌは大切なことに気が付いたのだ。
 恐れることなどなかった。
 あの状況ですら、ラーテムズには彼女の声が聞こえていたのだ。なのに、なぜ、それに気付かなかったのだろう――
 ほどなく洗ったばかりらしい顔を拭きながら、寝間着にガウンを羽織っただけの姿でラーテムズが現れた。
「おはようございます、リシェーヌさん。どうなさったんですか?」
「おはようございます、あの、すみません。こんな朝早くから……」
 どういうわけか、彼女は5分と待たされなかった。
「構いませんよ。起きたくなければ寝ていますから」
 別に、彼は朝が苦手なわけではないのだ。いつも起きても暇(なはずはないのだが)だから寝ているだけで。
「あの……」
 口ごもる彼女を客間に通し、椅子を勧めると、ラーテムズは何やら始動させた。
「自動お茶入れ機を作ってみたんです。面白いですよ。サイコロが内臓されていて、出た目を読み取ってお茶の濃さと砂糖の量を決めるんです。外れるとおいしくありませんが、飲んでみますか?」
 コポコポとお茶を注ぎながら、ラーテムズは彼女が話し出すのを気長に待っていた。彼女があまり、思い切りが良くないことは知っている。それで、別に構わない。こちらも油断していられるし、ただ、彼女を観賞しているのも悪くない。
「あの……」
 しかし、今日の彼女はいつにも増してためらいが強いようだった。どうしても話したいことがあるのに、言えない。そんな感じだ。
「どうなさったのかな。何でもおっしゃってくれて構いませんよ」
 それでも彼女は黙っていた。ラーテムズはそれ以上促さずに、黙って一口お茶を飲んだ。
 おいしい。
「今日はいいことがありそうですねえ。とてもおいしいお茶が入りました」
 リシェーヌは一度ぎゅっと組んだ手を握り締めると、視線を落としたまま、なんとか声を絞り出した。
「好き……なんです」
「え……?」
 胸の鼓動が速まったのは。一瞬でも、事態に思考が追いつけなかったのは。何年ぶりだろう。
 にわかには信じられなかった。
 聞き間違ったかとさえ思った。
「好きなんです、フェルディナント様が……そばに……いたくて……」
 ……。
 リシェーヌは鮮やかに頬を染めてうつむいた。
「こんな……こと……身の程知らずで……でも、それでも……」
 今にも泣き出しそうに、リシェーヌの声が震える。
「あの方のそばにいられるカーナさんがうらやましくて……あの方の侍女になれたら、どんなにか――」
「……確かに、侍女にはなれないでしょうね。あなたは仮にも王族の一員、まして、アルン王国宰相の妹君なんですから――王国が黙っていないでしょう」
 彼女は切なげな目をして肩の力を抜いた。
「リシェーヌさん――」
「そばに……置いて下さいと頼んだら……ご迷惑ですよね……」
「――それは、どうでしょうね」
 そのまま、ラーテムズはしばしあまりにも素直で聞き分けの良い少女を見つめた。
 自分の言葉が、この後の彼女の行動を左右する。それは知っている。
 彼女は後悔しないだろうか? 一時の感情に流されて、取り返しのつかない事態になり得る。けれど――
 彼はそれを否定した。もし彼女が後悔するような相手なら、いずれにしろ、セルリアードが黙ってはいまい。それに、彼女のそれは感情ではなくカンなのだから――
 天賦の才だ。ふさわしい相手を、本能で感じ取る。
「迷惑にはならないはずですよ。あなたが誰もいないところで、誰にも言わないという約束で、頼むんでしたらね。――ただ、誰かいるところであなたがそれを頼んだら――」
 リシェーヌはじっと、真剣にラーテムズの言葉を聞いている。
 一体、いつからだっただろう? 何の根拠もなく、彼女を手元にあって当然の存在のように感じていたのは。
 それが錯覚だったことは、思い知った。
「立場上、あの方は断れません。ですから、もしかしたら、ご迷惑になるかもしれません」
 そんなわけはないとは思う。彼女を拒む者など、まずいやしまい。
「ただね、リシェーヌさん。一つだけ断っておきますが――あの方には、結婚することでしか、あなたの願いを叶えられないはずなんです。それは、知っておいて下さい」
「結婚……」
 リシェーヌは茫然とつぶやいた。そんなこと、できるわけがない。自分があの方につり合うものか。つまり、どうやってもそばにはいられないということ……。
「もしその覚悟がおありなら――伝えてごらんなさい。大丈夫。どんな結果になっても、あなたがそれを黙っている限り、傷つくのはあなただけです。傷つくのは怖くないでしょう? あなたは、皆に愛されているんですから……」
 リシェーヌは目に涙を溜めて頷いた。彼の言葉の後半はわからなかったけれど、傷つくのが彼女だけなら――。あの方に迷惑をかけることなく、そばにいられる可能性が少しでもあるのなら。
「ありがとうございます、ラーテムズさん……」


 成長しませんね、私も――
 ラーテムズは何度も頭を下げて帰って行くリシェーヌを見送りながら、心の中で自嘲していた。
 ――何で? どうして今さらそんなこと――
 シェリアの言葉が、思い起こされる。
 ――ずっと、待ってたのに……――
 もし今、自分がリシェーヌに心を伝えたら?
 ラーテムズは一人首をふった。あの子に断れるわけがない。気を遣って、公子への気持ちを殺して自分に応えようとするのだろう。
 そんなのを望んでいるわけではない。それくらいなら、これでいい。
 彼女の姿が木の間に消えると、ラーテムズは静かに戸を閉めた。


 U
 無事に同盟を締結したことで、アルン訪問の目的の大半を果たし、公子は一度、カーナを迎えに宰相宅へと戻って来ていた。
 目的の大半――公子自身は、目的は全て果たされたと思っている。レオミュールがもう一つ、肝心な事としてある事を期待しているのは知っているが。
 しかし、ある時を境にレオミュールもそれについてしつこくは触れなくなっていた。その代わりのように、それ以来しきりに帰国を促すのだが。
「ところで、いまだ独り身ということですが――アルンで一姫、娶られる気はございませんか?」
 時々、ひどく冷たくも温かくも見える美貌の青年がそう聞いた。たった今受け取ったばかりの、真新しい盟約書。公子はそれに目を通してから、顔を上げた。
「両国の絆の象徴に?」
「ええ。無理強いをするつもりはありませんが。先方の了解を得た上で、それなりの女性を紹介したいと思っています」

     *

「あの、本当によろしいのですか? フェルディナント様」
 事情を聞くと、レオミュールがどこか信じがたげにそう言った。
「おや」
 公子が軽く首を傾げて従者を見る。
「喜んで下さらないのですか?」
「まさか……」
 しかし、そうは言っても、レオミュールはじっと公子を見据えずにはいられなかった。
 自分の主が鈍感なのか、あるいは常にとぼけているのか。長い付き合いだというのに、レオミュールにはいまだわからない。
「フェルディナント様……」
「何ですか?」
 レオミュールはどうしようかとためらってから、言った。
「もし、お嫌なんでしたら――断られても構わないんですよ」
「嫌ではないんですよ。それに……断ることなどできないでしょう。私は第二とはいえ公子なんですから、公民を守るのは私の義務です」
「しかし、セルリアード様が断られてもいいとおっしゃったのなら……」
 今まで、ずっとこの時を待っていたはずなのに――。公子は嬉しげに微笑んだ。わかっている。レオミュールも父も、彼を心配すればこそ、口をすっぱくして早く身を固めろと言うのだ。だからこそ、いざとなるとこうして怖じ気づく。
 強制してしまったのだろうか――?
 そう、懸念する。
「それは、セルリアード様の私情です。わざわざ私が使者としてやってきた以上、そのまま帰ったのでは、かえって不自然です。ご存知のはずでしょう? レオミュール」
 そう――。
 いくら言っても聞かない公子に、大公がついに痺れを切らしたのだ。娘を亡くして不安になったのだろう。このまま、孫の顔を見られなかったらどうしようかと。
 そして、こうして逃げ場のない状況に公子を追い込んだ。
 けれど、どこかで思っていなかっただろうか? 公子に限っては、それでもどうにかして逃げてしまうだろうと。
「……」
「別に、いいんですよ。本当はもっと早く結婚しても良かったんですが――」
 公子はやや、目を伏せた。
「誰かが、待っているような気がしたんです。私は姉が好きで――自分がどれほど人を愛せるか、知っていましたからね。姉に対するそれとは違う心で、それでも同じほどに深く愛せる誰かが存在するような気がして――」
 今でもそうなのだが、もう限界なのも知っている。
「……いずれにしろ、現れなかったものは仕方ありません。そろそろ、父を安心させて差し上げないとね」
「それでは、ディアナ様を亡くされて自棄になったわけではないのですね?」
 レオミュールの言葉に、公子は目をしばたたいた。
「おや、まだ疑っていたんですか? 姉は姉として愛しているだけだと、何度も言ったでしょうに」
「誰も信じませんよ、そんなこと」
 ひどく疲れた声だった。いつも人当たりの良い笑顔しか見せない公子が、唯一泣き顔や崩れた笑顔を見せていたのが姉なのだ。いくら本人が否定しても、彼が心から姉の婚礼を祝福したにしても、独身を通そうとする以上、疑ってしまう。
 しかし、過ぎたことだ。レオミュールは一つ息を吐くと、肘かけに軽く頬杖をついた。
「しかしまあ、私としてはリシェーヌ様を奥方に迎えてほしかったんですがね」
「冗談でしょう」
「何故です?」
 今度はレオミュールが驚いた。
「……何が気に入らないのですか。あれほどにお美しくて性格も優しい、年頃の女性に恋慕われて……」
 公子はすっと目を細めた。儚げで、けれどひどく印象に残った、少女の幸せそうな笑顔を思い出して。
「……錯覚でしょう」
「は?」
「彼女は幼すぎます」
 十七歳なら適齢期――そう反論しかけて、レオミュールはそれをやめた。不毛だ。
「……まあ、構いませんがね、今さら……。セルリアード様の御紹介では、断るに断れませんし。あの方ならきっと、きちんとした女性を選んで下さるでしょうし。正直なところ、やはりフェルディナント様には、無理にでも結婚して頂きたいですからな、私も」
 その時だった。ふいに戸口で気配がしたようだ。公子が立ち上がる。
「リシェーヌさん……」

     *

 リシェーヌは気持ちを伝えるつもりで、客間へと向かっていた。とはいえ、ただそれを告げに行くには、彼女は気弱すぎた。そこで、とりあえずお茶を持って、何度も引き返しかけながら進んで行った。
 そして、何とか部屋の前まではたどりついたものの、彼女はここでもやはりためらってしまったのだ。
 そうしたら、話し声が聞こえてきて――
 手が震えて、食器がカタカタ鳴った。
 聞いたばかりの言葉が、頭の中でぐるぐると回った。
 と、扉が開いた。
「あっ」
「リシェーヌさん……」
 どうしたらいい!?
 とても目を合わせられない。リシェーヌはとにかくお茶の乗った盆を差し出した。
「あの、お……茶を……」
「リシェーヌさん?」
 公子がその異常に気が付かないわけがない。彼女の顔は蒼白だったし、手も見てわかるほどに震えていたのだから。
 公子に盆を渡すと、リシェーヌは一歩後退った。
「あ……あの……」
 彼女が胸の前で組んだ手の震えは、まだ止まらない。
「あ……」
「リシェーヌさん!?」
 彼女は逃げるように身をひるがえした。公子は受け取った盆をレオミュールに回すと、すぐに彼女を追いかけにかかった。どこから聞いていたのだろう? 彼女は……。

     *

 公子がなんとか彼女をつかまえたのは、中庭の泉のほとりだった。
「あ……ご、ごめんなさいっ。ごめんなさい、兄は……、兄は決して悪気があったわけじゃ……」
「え?」
 捕らえられると、リシェーヌは観念したようにその場に崩れ、手をついた。
「兄はあなたが好きなんです。ですから絶対に、悪気は……」
 もう涙も止められずに、彼女はただただ首を横にふった。
「許して下さい……」
「待って下さい。どこから聞いていたんですか?」
「……レオミュールさんが……断るに断れないと……」
 公子はふっと、穏やかに表情を緩めた。
「兄君が、私たちに迷惑をかけたと思われたんですね」
 リシェーヌはこくりと頷いた。
 わかるのだ。兄が公子を慕っていることは。それなのに、なぜ、公子の意思を尊重できないのだろう? きっと、兄は知らなかったのだ。彼女とて、ラーテムズに聞くまで知らなかった。言葉にするだけで相手を束縛し得るなどという、驚くべきことを……。
「それでしたら、聞いて下さい。この話は私たちが望んだことなんです。セルリアード様は、それに応えて下さっただけです」
 やっと、リシェーヌは顔を上げて公子を見た。どういうことだろう?
 公子は優しく微笑んでいた。
「私も、あの方が好きですよ。ご立派なお兄様をお持ちだ、あなたは」
「本当……ですか?」
 公子が、朗らかな笑みを見せて頷く。リシェーヌもつい嬉しくなって、笑い返した。本当に嬉しい。
「ありがとうございます、フェルディナント様……。兄も喜びます」
 どうやら落ち着いたらしい彼女の、乱れたケープを公子が静かに直した。
「それでは、戻りましょうか」
 しかし、公子が束の間目を離し、再び彼女に視線を戻した時には、彼女はひどく意気消沈した顔でうつむいていた。
「リシェーヌさん?」
「……」
 立ち上がらなくては……。
 ほっとすると、彼女はもう一つ、つらいことに気付いてしまった。公子は、兄が紹介する方と結婚される……。
 公子は兄を好きだと言って下さった。それ以上を望むなど、図々しいにも程がある。程があるのに――本当に、結婚することでしか公子のそばにいられないのだろうか?
 何でもいいのに。そばにさえいられるなら、何でも……。例えば、ラルスの宮廷魔道師になるとか?
 ――どんな結果になっても、傷つくのはあなただけです――
 ラーテムズの言葉を思い出した。今、ここには彼女と公子しかいない。もうすぐ公子は帰ってしまわれる。それなら――
「……お慕い……申し上げております」
 時が凍ったような、錯覚。
「……え?」
「おそばに……置いて頂きたいと……思っています。あの、お嫌でしたら、そうおっしゃってくれて構わないんです。あの、誰にも……決して、誰にも言いません……」
「……リシェーヌさん……」
 ふと、公子は彼女の胸に揺れる不思議な首飾りに気付いた。あんなものを――。
「――それは、できません」
 彼女は黙ってうつむいていた。
「わかり……ま……し……」
 最後まで言えなかった。
 突然、涙があふれて止まらない。初めから諦めていたはずなのに、それでもしゃくり上げている自分がわからなかった。ご迷惑だ、泣いては――
 そう思って何度涙を拭っても、それは後から後からあふれ出た。
「ごめん……なさい……大丈夫ですから……先に、……も……ど……」
「リシェーヌさん」
 公子の手が、髪に優しく触れた。
「私には、あなたを結婚することでしかそばに置くことができないんです」
 リシェーヌは小さく頷いた。
「……ご存知だったんですか?」
 ひどく驚いた様子の公子に、リシェーヌは答えられなかった。なんと愚かだったのだろう。ラーテムズが言ったのに。他に方法がないと――。わかっていたはずなのに。彼女では、とうてい公子に釣り合わない。ほら、公子も呆れている……。
「お願い……です……見ないで下さい……」
 自分の呆れた愚かしさが恥ずかしくて、泣くしかできない自分が情けなくて、リシェーヌはただ懇願した。
「あなたは、どうしてそんなに――……」
 公子はリシェーヌの髪にかけていた手を引くと、首をふった。
「許して下さい。あなたは人を知らなすぎる……。あなたには、まだわからないんです。自分の気持ちが刹那的なものなのかそうでないのか――あなたが後悔されるだろうことを知っていながら、妻にすることはできません」
「……せつ……な……?」
 自分に全てを委ねて見上げる彼女を、公子はじっと見つめていた。
 初めて見た時からずっと――
 あの、すぐ側に彼女を感じた瞬間からずっと。まるで清水のように心地好く、つかみどころがなく、透明な感覚に魅せられていた。
 優しく儚く哀しく――あまたの生命を抱いた惑星のように、碧色に神秘的な瞳。
 その存在自体が奇跡のような少女。
「私には――」
「わかります」
 突然、玲瓏とした声が言った。
「だって、フェルディナント様は……」
「リシェーヌさん?」
 いったい、どんな魔法だろう? 限りなく静かで、それでいながら説得力に満ちて――。
「わかります」
 公子が彼女をのぞき込もうとしたはずみに、冷たい石にかけた指先が触れた。
「……願って下さるんですか……? 何より、私のそばにいたいと」
 碧い、碧い――あまりにも澄んだ至宝の瞳。なぜ、これほど懐かしい……?
 公子はゆっくりと、リシェーヌの顔に手をかけて自分の方を向かせた。
 静かに唇を寄せる。しかし、それが触れ合う寸前。公子は動きを止め、その代わりのように少女を引き寄せ、抱き締めた。
 公子の腕の中で、リシェーヌはそこを動けなくなっていた。
「お願いに行きましょう、お兄様に――」


 V
「なかったことに?」
 公子が静かに頷く。
「身勝手は承知しています。ですが、その上でお願いします」
 セルリアードは公子に椅子を勧めると、自分も斜向かいに腰を下ろした。
「事情をお聞かせ願えますか」
「ええ。こちらもお願いになって恐縮なのですが――」
 兄妹というだけあって、うかがうように向ける瞳が似ているなと、公子は穏やかに笑った。兄のそれは、妹のそれのように隙だらけのものではないけれど。澄んだ瞳に見える、理性と知性の光の奥深く――妹のそれと本質的に変わらない、無防備に澄んだ魂が見える。
「妹君のリシェーヌ姫に、心奪われています。お許し頂けるなら、国へ連れ帰りたいと思い、お願いにあがりました」
 セルリアードの顔に、他人には滅多に見せない表情が見えた。驚いたようだ。
「……リシェーヌを?」
 公子が静かに頷き、頭を下げる。白く染められた、背に緩く結わえた髪が、柔らかく揺れる。
 と、ふいに、戸が遠慮がちに叩かれた。姿を現したのはリシェーヌで、これにはセルリアードはもちろん、公子すら驚いた。
「リシェーヌ?」
「あの、お話は……」
 ひどくためらいがちに、リシェーヌが尋ねる。彼女には、自分でわがままを言っておきながら、ただ、待っていることができなかったのだ。
「まだです。身勝手なお願いですから」
 リシェーヌはこくりと頷くと、意を決したように、セルリアードに向き直った。
「――兄さん――」
 しかし、彼女に皆まで言わせず、セルリアードの方から公子に尋ねた。
「もしや、もう、妹の承諾は得られて?」
 公子が頷く。
「あの、私が……私がお願いしたんです」
「――おまえが?」
 心底驚かされた顔で、セルリアードが呆気に取られてリシェーヌを見る。けれど、彼は間もなくわずかに、おかしそうに小さく笑った。
 それを見て、公子がふと、何か思いついた様子で尋ねる。
「セルリアード様、どのような方をご紹介して下さるおつもりだったのですか?」
 口の端に、いまだ、小さな笑みが見える。そうですかと、公子もふっと微笑んだ。
「――リシェーヌさん……、私は、やはりお兄様のご紹介をお受けしようかと思います」
「え……」
「勝手は言わないね? リシェーヌ」
 突然のことに、リシェーヌはただ混乱した。
 どうしてなのか。
 ついさっき、約束してくれたばかりなのに。
 どんなに嬉しかったか知れないのに。
「しばらくは、婚約という形で構いませんか? 彼女はラルスを知りませんし、色々と、もめそうな事もあるので」
「ええ」
 出て行かなければ――
 彼女の返事を待たずに進められる会話が、ひどく遠かった。
 ここを出て行かなければと、それだけを思うのに、体が動かなくて――
「リシェーヌ、ちゃんと聞いているだろうね。大切な事だよ」
「え……。あの、でも……」
 途惑うリシェーヌを、セルリアードが不思議に微笑ましげにも、少し意地悪にも見える顔で、見ている。
「兄さん……?」
「どうした? お断りしたいなら、おまえの意思を尊重するけれどね」
「……え……?」
 この期に及んで、まだ、リシェーヌは気付かなかった。何の打ち合わせもなく、二人がいきなり彼女に意地悪していることに。
「どうした? おまえをご紹介しているんだよ」
 リシェーヌは大きく目を見開いて、いたずらっぽく笑う兄を見た。
 そして、穏やかに笑っている公子を。
「わ……たし……?」
「ああ。公子はおまえがいたくお気に召したようだから、おまえが望むなら、成立だな」
 ぼろぼろと、涙がこぼれた。
 自分がどうして泣いているのかは、よくわからない。わからないけれど――
 きっと、自分は今、すごく幸せなんだと。
 それだけはわかった。


 W
「まさか……そんなこと、あるものか!」
 従者のマクトが青い顔で伝えたのは、コルベールにとって、にわかには信じがたい報だった。彼はここ数日、邸内で政務をこなしていた。意識をなくしたままのリーゼン伯のそばを、離れられなかったためだ。
「セルリアード様に限って……妹を、あの方を政略結婚の道具になど――!」
「コルベール様……」
 彼はしばし呆然と立ち尽くし、次には口元に手を当てて、視線を落ち着かなげにさまよわせた。
 何が何だかわからない。一体、どういう……。
「……く」
「は?」
「アレイルに行くぞ、マクト! 行って、この目で確かめる! 確かめるんだ!」


 コルベールはすぐさま宰相宅に馬車で乗りつけると、教わっていた裏口から、断らずに乗り込んだ。
 仕方がない。
 こと、妹に関してだけは、あの兄は逃げも隠れもするのだから。抜き打ちで急襲して、何としてでも直談判――それしかない。
「……え……?」
 けれど、セルリアードの書斎に行く途中。中庭に、彼は見たくなかったものを認めてしまった。

     *

「明日、お発ちになるのですか?」
「ええ。今は、国を空けてはおけないものですから――。リシェーヌさん」
 公子がそっと、リシェーヌの前髪をかきあげた。その額に口付ける。
「……あなたを連れ帰れないことだけを、残念に思います」
「……フェルディナント様……」
 もう、行かれる。
 公子と離れ離れになるかと思うと、リシェーヌはたまらない思いにかられた。
 なぜサリディアは、兄と離れていることができるのだろう? 今までは別段、不思議とも思わなかったことなのに、今はひどく信じがたい。
「戦が終わったら……」
 公子が真っ直ぐに、けれど、どこまでも柔らかく、彼女に微笑みかける。
「必ず、あなたを迎えに来ます。ですからそれまで――どうか、待っていて下さい」
「――はい」
 引き止めるように公子の胸に顔を埋めながら、リシェーヌは、自分自身に途惑っていた。一時も離れていたくなくて、行かなければならないとわかっているのに、行かないで下さいと――連れて行って下さいと、願っていて。そんな勝手な思いが自分自身の中にあることに、彼女は途惑っていた。
 強すぎるその思いを、彼女はただ、持て余した。

     *

「あれは……」
 どこかで、見た覚えがあった。それほど遠い記憶ではない。
「あれは、あの時の!」
 コルベールは悲痛に呻いた。そう、あれは――父の罠から、彼女を救ってくれた者に違いない。遠目にも、二人の様子に、この婚約が決して政略ばかりのものではないと――そんなことは二の次なのだと、思い知らされた。
 どうにもならない敗北感と喪失感。
 彼はつと目を逸らした。動けない。
「コルベール様……」
「……帰る」
 かろうじてつぶやいた。
 従者を振り返ることすらせず、コルベールは踵を返した。

     *

「……ル…ベール!」
「父上!?」
 昏睡の続いているリーゼン伯が、寝台の中、ふいにこぶしを振り上げ、それをぶるぶると震わせた。
「あいならん……あのような娘と……ギル……ニートの……妹などと……!」
 それまでにも、似たようなことは何度かあった。
「父上……」
 コルベールは、一つ息を吐いて目を伏せた。それから、振り上げられた伯の手を取る。
「もう、結構です……もういいんです、父上」
 胸が痛い。
「私はリシェーヌさんとは……」
 助けたとか、助けられたとか、そういうことではなくて。
 違うのだ。
 少女の心を捕らえる力を、あの青年はもとより持っていたのだ。
 いや――
 むしろ、自分がそれを持っていなかった、と言うべきなのかもしれない。
「……もう、会いません……」
 コルベールは骨ばった父親の手を握ったまま、虚ろに――空を見つめていた。


「コ……ル……ベール?」
「父上……?」
 届いたのだろうか? 今の声が。
 伯爵が眩しそうに目を開けた。
 もういい――
 そんなに、自分を人形にしておきたいのなら。進むべき道を決めたいのなら。好きにすればいい。
 どうせと、コルベールは自嘲気味に、痛みに満ちた顔で微笑んだ。
 父の回復を、たいして喜んでいない自分自身が、そこにいて。
 ――それは、手痛い挫折であり、痛みだった。


 X
「なっ……」
 突然、幾多もの絶叫、破壊音、衝撃がそこを襲った。
 あまりにも突然、空から降ってきた災厄に、人々は抗する術を持たなかった。 
「アルン王国参謀――ティドルアだな?」
 直後。
 ティドルアの胸から、真っ赤に染まった何か異様なものが突き出ている。
 手――
「フ……」
 ディルアードはゆっくりと左腕をティドルアから引き抜き、微笑した。既に囲まれている。
「来い」
 人間など、何人来ようと同じこと――

     *

「今のは……皇帝じゃなかったか!?」
 ファスティーヌを救出するべく編成された一部隊。スィールの帝都までは到達したものの、なかなか思い切った行動を起こせないでいた時だった。彼らは皇帝が単身、いずこかへと飛び去るのを見た。
「好機だ……今しかない!」
 もう、準備はほぼ済ませてある。

     *

「ヴァレイン様、ディルアードが城を出ました!」
「おお」
 スィール帝国宰相ヴァレインは、部下の報告に、引きつった笑みを浮かべて立ち上がった。
「手はず通りに動け! いいか、こんな好機がいつまたあるかわからん。ぬかるなよ」
「は!」
 ディルアード暗殺の準備と、あの危険な娘の暗殺。その双方を、ヴァレインはこの隙にと画策していた。
 いかなあの皇帝でも、内側から、手段を選ばず殺しにかかれば――
 それがヴァレインの考えだ。
 あれほどの石竜を操った魔道師すら生け捕った者を、誰に打ち負かすことができようか。まともに敵に回ってはならない。味方の顔をして、寝首をかくのだ。
 そしてあの娘――どう考えても、生かしておくには危険に過ぎた。殺したとて、それを悟らせねば、人質としての価値は下がらぬものを……。ヴァレインが何度そう進言しても、皇帝はそれを許さなかった。
「見せてやるぞ、誰がこのスィール帝国の皇帝にふさわしいのかな!」
 ヴァレインは暗く卑劣な笑みを浮かべると、部下を集めて部屋を出て行った。

    *

 錠が外れる音がした。
 ――誰!?
 皇帝ではない。
 それはなぜかわかった。
「ファスティーヌ様、お助けに上がりました」
 小声で断ってから、見知らぬ男が二人、素早く部屋の中へと滑り込んできた。二人はファスの姿を確認すると、まず礼をした。
「あ……あなたたちは?」
「ティティケルト陛下の近衛を務めております」
「セッグ様の下で魔術を学ぶ者。この度は、あなた様をお救いするよう、陛下に申しつかって参りました」
「ケ……陛下に?」
「お早く。時間があまりございませぬ」
 すぐには信じがたかった。
 ――許してくれるの? ケルト……。
 いつも笑っていた。優しかった。ケルトは――変わらないのだろうか? 怒っていないのだろうか? あんなことがあったのに……。
 ファスは小さく頷くと、彼らの後に従った。今、ケルトに会っていいのかどうかはわからない。わからないけれど――。とにかく、ここにいてはいけないのだ。
 ところが、部屋を出た時だった。
 断末魔の声と、塔の螺旋階段を駆け上がってくる足音が聞こえた。
「今の声は!?」
 魔術師が仲間に問う。
「見張りがやられたのかもしれない、急いで、帰還の呪文を!」
「は!」
 しかし。
「聖域!」セイクリドリジョン
 スィール兵の到着が、早かった。
「逃亡だ!」
 現れたスィール兵は6人。加えて魔道師がいる。極魔道師マスターなのか、魔道師が呪文抜きの発動語だけでいきなり聖域――魔道を封じる結界を張り、兵たちが斬りかかってきた。
 そして、最後に遅れて現れた男が――光景に、機嫌良く笑った。
「いいタイミングで逃げ出してくれたものだ、おかげで、心おきなく殺せるというもの――おまえたち、情けは無用、容赦なく斬り殺せ!」

     *

「サリサ、大変だ! 今、ティドルアが殺されたって……!」
「ティドルア様が!?」
 参謀暗殺の報を聞き、セルリアードがそこを空けていたため、ケルトはまずサリディアにそれを知らせた。
 その時だ。
「まだそれしか報告がないか?」
 唐突に、窓から何者かの声が割り込んだ。この声は――
「ディルアード!?」
 長い黒髪を風になびかせ、ディルアードが笑う。
「将軍も殺して来たがな。おまえで最後だ」
 ケルトは息を呑み、けれど、はっとした顔で剣を抜いて構えた。
「おまえは許さない! これ以上、誰も殺させない!」
 ディルアードは薄く笑うと、窓枠に腰かけたまま、無造作に魔力球を生み出した。呪文すら唱えない、片手で弄ぶもの。それをケルト目掛けて投げ放つ。
「ケルト!」
「大丈夫だ、弾ける!」
 しかし、その球に侮りがたい力があるのをサリディアは直感した。
 極魔道師マスターの手による呪文抜きの術が、どれほど危険であるか。性質も威力も測れないのだ。
 侮れば命取りになる。
 サリディアは迷わず割って入った。
「サリサ!?」
 ギィン!
 空間が軋むような、耳障りな音が響いた。サリディアの手の中で、翠色の光が弾ける。
 光は不気味に明滅する黒色の球を包み込み、消滅させた。
「ほう」
 ディルアードが感心したような声を上げる。
「あの時の魔道師だな。ギルファニートは息災か?」
 言いながら飛び上がり、サリディア目掛けて、真っ直ぐに剣を打ち下ろしてきた。
「サリサ!」
 キン!
 ケルトの剣がディルアードのそれを弾き、青い火花を散らす。即、サリディアが魔術で攻撃するが、ディルアードは難なくそれをふり払った。
「終わりだ」
 技も型も無視した、直感で操られる剣。
 普通の人間ならば、息の切れる振り回し方。
 けれど、ディルアードはまるで息など乱さず、それどころか、片手間に呪文さえ詠唱していた。
 いや。
 ――違う!
 サリディアはあわてて結界を張った。
 ディルアードは剣ではなく、魔道で決着をつける気なのだ。剣の方が片手間だ。
 力強さと破壊力に錯覚するが、この皇帝、魔道師寄りの魔道戦士!
「Ω Πυλιτα」
 ディルアードが聞き取れない言葉を発したかと思うと、恐ろしいほど集中した魔力を宿す、幾本もの呪いの針が出現した。
「――!!」
 針は結界をたやすく縫って、二人を貫いた。

 ファアっ

 突如、清らかな白光がサリディアの身から放射され、針をかき消した。
 それは、いつぞや彼女の中で暴走した、未知の魔力。
「何っ!?」
 ディルアードはひどい不快感を覚えていた。少女の放つオーラにも似た魔力自体が、不快なのだ。この光は――
 ケルトの愛刀、アストヴェストがそれに呼応するように輝く。
「たあっ!」
 斬り付けてきた剣を、ディルアードはとっさに手の平の結界で握った。――いや、握ろうとした。
 ざっ
「!?」
 白刃取りというわけでもなく、無造作に刀を握ろうとしたディルアードの手を、アストヴェストが容赦なく両断する。その様を、ケルトは目を疑いながら見た。ディルアードが何のつもりで剣を握ろうなどとしたのか、理解できなかったのだ。
 一方、声こそ上げなかったものの、ディルアードの方こそ驚いていた。
 ――結界を破っただと!?
 ディルアードはハっと身を翻し、今度こそ残った右手でサリディアの魔術を止めた。
 懐から取り出した短剣を、彼女目がけて投げ放つ。これは避け切れなかったらしく、短剣は彼女の首と胸の中間辺りに突き立った。
「サリサ!」
 ギン!
 再び、二本の剣がぶつかった。その瞬間、アストヴェストは相手の剣を叩き折った。
「えっ!?」
 ケルトが再度、驚きに目を丸くする。しかし、ディルアードの方は驚かなかった。彼の手を、結界ごと両断するくらいだ。剣など簡単に折られて当然。
 しゅっ
 ディルアードの左手から、血と影のようなものがサリディアの傷口目がけて放たれた。
「きゃあぁああぁ!」
 サリディアの絶叫に一瞬、ケルトの攻撃が遅れる。ディルアードは難なくよけた。
 ヴン
 ディルアードが魔力球を生み出す。今度こそ、邪魔は入らない。生意気に宝剣など持っているようだが、魔術ならともかく呪術を弾けるものか。少女の妨害は的確だった。
 キィン――
「!?」
 ――苦しい――
 突如、ディルアードを異質な感覚が襲った。誰か、首を――
 銀光が閃く。ディルアードはあやうく一閃をかわした。
「出会え、敵将だ!」
 ケルトは大声で呼ばわると、すぐまた剣をふるった。ディルアードの奇妙な集中力のなさを不審に思ったが、ためらっている場合ではない。
 しかし。
 攻勢に転じようとしたケルトの目前で、ディルアードの姿は虚空に消えた。

     *

「何をしている」
 突如、背後からかけられた声にヴァレインはぞっと凍りついた。もう、後少しで息の根を止めるはずだったのに――
 ヴァレインがおそるおそる振り返り、声の主を確認した途端、その腕を紅い光線が貫いた。
「ぎゃあああ!」
 その場でのたうち回るヴァレインを後目に、ディルアードはつかつかとファスティーヌに歩み寄った。見覚えのない死体がいくつか転がっているようだが、興味はない。
「……っ」
 少女がうっすらと目を開ける。
 ――生きてはいるか――
 しかし、なぜわかった? この娘が死にかけていると――……。
 そして、なぜ助けに戻ったのだ、自分は。
「……貴様のおかげで、アルンの国王を討ち漏らしたぞ、ヴァレイン」
「ぐ……ぅあ?」
 傷口を押さえて荒い息をしながら、ヴァレインが理解しがたげにディルアードを見る。
「興醒めした。後は貴様が何とかするんだな。将軍と参謀を殺してきてやったんだ。これで負けるようなら――歴史に残る無能ぶりというところか?」
 ヴァレインを冷たく蔑み、ディルアードは毒のある笑みを見せた。
 この男には、一片の安息とて与えない。
 常に、ヴァレインを見るのは不快だった。即座に切り刻んで殺してしまいたい。何度、その衝動に駆られたかわからない。
 けれど――
 そうしてしまったら、その後、どうしたらいい? なぜ、もっと苦しめ抜いて殺さなかったのかと――後悔するに決まっている。
「ふん……まあ、いい。今回だけは見逃してやろうよ。ついでに、娘の逃亡を阻止した褒美もやろう? 玉座の間で待っていろ」
 ディルアードが言い渡すと、ヴァレインは呻きながら塔を下っていった。
「さて……」
 ――血――
 ファスの意識はまだ朦朧(もうろう)としていた。やっと窮地を脱したばかりで、鼓動も速い。
 ――血が――
 思考が回復する以前に、ディルアードの左手からしたたる血の色――それだけがやけに鮮明だった。
 ――あれは、痛い――
 そう、思った。
「……?」
 彼女は前触れもなくディルアードの手を取ると、口付けた。
「!?」
 ディルアードはまず驚いて、次にはあ然とした。
 切り落とされた部分が再生して行く。
 この感じ――
 どこかで、覚えがある気がした。
 ――どこで?
 ディルアードは封じていた記憶を掘り起こし、答えに到達すると、ぞくっと身震いした。この娘――セファーネに似ている!
 まさかと、だったらどうなのだと、己自身に腹が立つと同時に、恐ろしくなった。
 ――何を恐れる!? どうかしている、私は――
 ふと、少女が正気に戻った様子で、弾かれたように後退した。
 それを見て、ディルアードもどうやら我に帰った。そう、不思議はないのだ。そもそも、この娘はセファーネに近しい者なのだから。
 何を、血迷ったのか――
 ディルアードはとにかくファスを元の場所に閉じ込めると、それでもひどい焦燥感を持て余しながら、塔を下って行った。


 Y
 ポウっ
 光が無残に赤くただれた傷口周辺をなぞり、混入した異物を押し出す。それを布で拭き取ると、今度は痛んだ部分を癒して行く。一段落つくと、セルリアードはほっと、心底ほっとして息をついた。
 そっと、寝台に横たえたサリディアを抱き締める。
 正直、サリディアがディルアードと闘って意識不明、と聞いた時には生きた心地がしなかった。一時はどうなることかと思ったけれど――命に別状がなかったのは、幸いだ。
「セルリアード……」
 どうやら意識が戻ったらしく、サリディアが名を呼んだ。
「……ケルト……は?」
 ――ケルト?
「無事だよ」
 サリディアがほっとしたように笑う。人の気も知らないでと、少し腹が立っているのに、彼は彼女が笑っているので怒りそこなった。彼女に戦闘訓練をさせたことを、今、理性とは切り離された部分で悔いている。
 彼女自身の身だけ、守れるようになってくれれば良かったのだ。
 ところが、3人まとめて訓練した結果、彼女は思わぬ資質を伸ばしてしまった。
 味方の隙を補い、戦闘を組み立て、組んだ相手に実力以上の力を発揮させる。
 そういう方向に、類まれなる才を持っていたのだ。
 彼女は決して、誰かに頼った闘い方をするわけではない。彼女一人でも闘えるよう、彼女は必死に、彼の手ほどきについてきた。
 けれど。
 高い支援効果を持つサリディアは、実戦において、真っ先に狙われる。彼自身とて、訓練中、彼女を崩してからでないと、他二人に手が出なかった。この、最愛の少女が真っ先に狙われるという図式が、彼にとって面白かろうはずがない。
「心配した」
 彼のつぶやきに、サリディアがつと視線を上げた。彼が真っ直ぐ彼女の瞳を見ると、彼女は再び視線を下げた。
 嬉しかったのか、サリディアは遠慮がちに微笑んでいた。不謹慎なのはわかっているようで、申し訳なさそうにしている。
「ごめんね。ありがとう。でも、大丈夫だよ。いざとなったら助けてくれるから」
「誰が」
 少し冷たく言った彼に対し、サリディアはいたずらっぽく――むしろ、幸せそうに見える表情で微笑んだ。
「セルリアードっていう、ずっと、守ってきてくれた人が――」

     *

「ティドルア様とデリーバル将軍は……」
「殺された。将軍は石化されて――多分、ティドルア様の後任は私だろうな」
 淡々と答えるセルリアードを、サリディアが静かに見上げる。
 それはつまり、戦況次第では、この先いつ暗殺されるかわからなくなるということだ。
 けれど、サリディアは止めなかった。代わりに。
「どうして今なのかな。あの皇帝なら――もっと早くに動けば、ずっと有利に事が運んだよね。ケルトのことにしても、こんな風に暗殺するなら、ファスを捕まえる意味、ないしね」
 本来なら、追い詰められたからこそ最後の手段に――皇帝自ら、敵地に赴いての暗殺に出た、と見るところなのだが。皇帝を目の当たりにしたサリディアには、どうしてもそうは思えなかった。事前の調査も味方の援護もなしに、単独、強行突破で事を遂行しようとする、皇帝の姿勢。加えて、暇つぶしか何かのようだったのだ、皇帝の顔は。死すらも覚悟して、目的のために危険な敵地へ――およそ、そういった顔ではなかった。
「……不審だな。初めから、国力を無視した強気な態度で出てきていたし……。あるいは、あの皇帝は現状にすら、危機感など覚えていないのかもしれない」
 セルリアードが考え込むように、沈黙した。
「元帥に託された史書に、何か手がかりがあるか……。この戦争、ただの侵略戦争ではないかもしれない」


 Z
 玉座の間。ヴァレインは恐怖と期待の入り混じった心境で、皇帝を待っていた。
 カツ、カツ――
 奇妙に静まりかえった王城に、ディルアードの靴音が響く。
 ギイィィ――
 扉が軋んだ音を立てて開くと、ヴァレインは極限まで緊張して直立した。
 早く、座ってしまえ――
 皇帝が玉座についたなら。その瞬間、呪具が動くのだ。スィール皇家に代々伝わる凶悪な、呪具。その禍々しい宝玉は、今なお、身の内に強く不吉な呪いの力を宿している。
「どうした? ヴァレイン」
 玉座の肘かけにまで手をかけ、ふいに、ディルアードがヴァレインを見た。それこそ心臓が跳ね上がるほど驚き、怯え、それでも、ヴァレインはかろうじて答えた。
「いえ……、何でも……」
 ディルアードが冷たく、底冷えのするような瞳で嗤う。
「玉座が欲しいか?」
 自分が果たしてどんな顔色をしているのか、ヴァレインには皆目、わからなかった。
 よもや、気付かれて……?
 ヴァレインはぞっと身震いした。
 もし、座れとでも言い出されたら――!!
「褒美の件だがな」
 言いながら、ディルアードは無造作に玉座に腰かけた。
「――!?」
 その途端、仕掛けられた呪具が発動し、禍々しい光の糸が幾筋となく、ディルアードの身に絡みついた。その体内を侵すべく、糸が絡み合いながら、呪力を増して行く。
 ヴァレインはまず顔を引きつらせ、次には嗤った。
「かかったな、ディルアード!! 貴様など、物言わぬ石像と成り果てるが良いわ!!」
「――ヴァレイン、貴様――!!」
 それは、石化の呪い。
 ディルアードの瞳に、およそ人間には抱えられるはずがないほどの、ドス黒い憎悪の炎が燃え上がった。
 凶悪なまでに強い呪縛に身を侵されながら、ディルアードはただ、ヴァレインを睨めつけていた。
 彼を呪うのは、彼を極限まで追い詰めるのは、石化の呪いなどよりむしろ、彼自身の絶望と喪失と殺意と憎悪――そういったものだった。半世紀以上も前に魂に穿たれた、彼の魂を喰らい尽くし、闇に葬り去らんとざわめく、永劫の呪縛。
 スィールの先々帝がかけたのか。
 あるいは、そのずっと以前に、あの女がかけたのか――
「二度も、同じ手が通用すると思うなっ!!」
「何っ……!?」

 カっ!!

 ディルアードの瞳が強い鮮紫に輝き、何か得体の知れない、ひどく不吉な力が玉座の間を覆った。
「……ひっ!」
 一瞬、閃光のような暗黒の輝きを放った後、そこに具現したのは――悪夢だった。
 ヴァレインは一気に血の気の失せた顔で、逃げることもかなわず、その場でガクガクと身を震わせた。
「ひ……助…け……」
 悪夢の触手が、ひどくゆっくりと、けれど確実に、ヴァレインを追い詰めていた。
「ク……この姿を見た以上、ただではおけまいな……?」
「ひぃっ」
 ディルアードの手の中に、何かが呼び出されて蠢いた。
「そら、褒美をくれてやる――この女と一つになりたかったのだろう? 貴様の望み通りにな……」
 もはや、ヴァレインは恐怖のあまり声すら出なかった。そして――ヴァレインの人生は、終わりを告げる。

* 第八章 残像 に続く

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