聖魔伝説4≪伝説編≫ 祈り

第五章 ――アレイル襲撃――

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≪2002.07.04更新≫

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 T
「それでは、貴女は学校には行かれなかったんですか?」
「はい」
 部屋は白を基調に、ところどころにアクセントとしてパステルカラーが入れられている。明るく落ち着いた部屋だった。
 リシェーヌが倒れたのは、当初、強力な護法を使ったことによる過労と思われていたが、違った。風邪だ。もともと母親に似て、あまり体が丈夫ではないのだ。
「よほどご立派なお父君だったのでしょうね。教養も作法も申し分ありませんよ」
「ありがとうございます。でも、半年前からラーテムズさんにもいろいろと教わっていて……すごく親切な方なんです」
「ラーテムズさん?」
 コルベールが微妙に、それまでとは違う声音で尋ねる。
 彼女のことを聞きつけると、コルベールはすぐさま彼女を預かりたいと申し出た。完璧な環境を整える自信があった。子供に風邪がうつってもいけないだろうし……。
 あの生意気な平民がいろいろとうるさかったが、見たことか。所詮、彼では到底彼女につり合わないのだ。
「サリスディーン博士の助手をなさっている方です。お忙しいはずなのに、いつも笑顔で迎えて下さって……」
 リシェーヌがふと微笑する。
 思い出したのだ。
 いつかディテイルに同じようなことを言ったら、「リシェーヌ、それ、本気?」とひどく驚かれたから。
 確かに、あの人は兄やディテイルに、時に驚くほど人が悪い。けれど、それは多分あの人なりの愛情表現なのだと、リシェーヌは思う。彼女はまだ子供だから、気を遣って率直に親切に応対してくれる。
 幸せそうに話すリシェーヌを見ながら、コルベールはにわかに焦り出していた。彼女がこんな顔をして話すのは、サリディアやセルリアードや……とにかく、相当慕っている相手のことを話す時なのだ。だとしたら。
「その方は、おいくつなんですか?」
 リシェーヌがきょとんと彼を見る。
「ええと……博士の研究所に入ったのが十二年前で、その時十五歳だったそうですから――二十七歳くらいだと思います」
 内心、コルベールはほっと胸を撫で下ろしていた。今の彼女の対応、そして答えの内容。どうやら、彼女はその「ラーテムズさん」を異性としてでなく、師として慕っているらしい。
「そういえば、行かれていないんですからご存知ありませんよね。学校がどういうところなのか」
 リシェーヌが興味深げな目で頷く。経過は良好だ。この調子ならすぐにも、アレイルに戻ることになるだろう。コルベールにとって、今のこの時はこの上なく貴重だった。


 U
「どういうことだ!? あれは――なぜ、ギルファニートの妹がここにいる!」
 その日、父親が帰ってくるなりコルベールは呼び出された。
「私が預かりたいと申し出ました。いけませんか」
 彼の憎たらしいほど冷静な対応が、リーゼン伯の怒気をさらに煽る。しかし、彼とて見かけほど冷静なわけではなかった。失脚させられて以来、伯の宰相への憎悪は積もりに積もっている。しかも、これを説得しないことには彼に未来はない。
「敵の妹を家に入れるなど……おまえはどうかしているぞ、コルベール!」
「どうかなさっているのは父上です。なぜ、セルリアード様が敵なのです」
「なっ……!」
 リーゼン伯は一つ深呼吸すると、思い出したように威厳を保つべく、低く落ち着いた声で尋ねた。
「おまえが、宮廷であの狐の片腕として動いているというのは本当か?」
「……いいえ」
 コルベールはひたと伯を見据えた。
「セルリアード様は狐などではありません。誰より御立派な――我が敬愛する上官です」
「コ……」
 リーゼン伯の顔色が変わる。伯は手元の鞭をつかみ、ほとんど無意識のうちにそれで息子を打っていた。
「伯爵!」
 コルベールの護衛のマクトが青い顔で止めに入った。しかし、もはやリーゼン伯もコルベールも冷静ではありえない。
「あなたはいつでも、そうやって暴力で捩じ伏せてきたんだ! 権力という暴力で――! 私はもう、あなたの人形じゃない!」
「コルベール!」
「私はリシェーヌを愛しています! あなたがどう言おうと、今、この家を支えているのはあなたじゃない、私だ。あなたがどう言おうと、私はこれだけは譲りません。セルリアード様にお許し頂けたなら、私は必ずやあの方を妻に迎えます!」
「コルベール!!」
 再び鞭がしなった。
「伯爵!」
 マクトは必死に伯爵を押さえながら、自分の主に叫んだ。
「お部屋にお戻り下さい、コルベール様! 今は……」
 コルベールはその場で一瞬こぶしを握りしめ、それでも作法通りにその場を辞した。
 ――なぜなんです、父上――
 いつしか涙が溢れて、止まらなかった。
 ――父上――


 V
 翌朝。コルベールは再びリシェーヌの部屋を訪れていた。
「お体の具合はいかがですか?」
「お早うございます。もうだいぶいいんです。本当に、色々とご迷惑おかけしてしまって……」
「迷惑なんかじゃありません。私は――」
 言ってしまいたかった、自分の気持ち全て。けれど、彼女を厭う父の声がこだまする。
「今日は、午後から戦地レザランに行くんです。セルリアード様に何か伝えたいことはありますか?」
「戦地に……」
 リシェーヌの顔が曇る。
「大丈夫ですよ。セルリアード様が敵の元帥を討ち取ったそうですから。もう、終戦は時間の問題でしょう。本当にあの方は――」
「何でも持っていると、うらやましいと思われますか?」
 ふいに、リシェーヌが尋ねた。
「え? ええ……」
 珍しく、リシェーヌの顔が兄の話だというのに哀しげだ。
「兄は、昔から何でも持っていたんです。でも、兄の持っていたものは何一つ、兄を幸せにしてはくれませんでした……」
「え……?」
「剣も策略も演技も、兄が望んで覚えたことではないんです。昔、死にかけていた小鳥の傷を治して以来――精霊魔法に夢中になって、将来はサン・エリスンの魔道師長になると言っていました。それは、ただの子供の夢なんですけど、でも――」
「リシェーヌ……?」
 突然、彼女の頬を涙が伝った。
「お願いです、兄を――兄を守って下さい。兄が、人を殺して平気なわけがないんです。サリサだけが――サリサだけが、ずっとそれを知って兄を支えて……。お願いです、兄とサリサを……」
「泣かないで下さい、熱が……」
 ――戦争なんて、早く終わってしまえばいいのに――
 それは、祈り。
 切なる願い……。


 W
 ――コルベールめ、女狐にたぶらかされおって――
 リーゼン伯は裾の長いガウンを引きずるようにしながら、リシェーヌの部屋に向かっていた。
 ギルファニートが敬愛する上官? とんでもない。全て、あの女狐の美貌に目が眩んでの思い込みだ。親の言葉すら聞けないなら、力ずくでも――目を覚まさせてやるとも!
 リーゼン伯は緊迫した表情を装うと、リシェーヌの部屋の扉を乱暴にノックした。


「はい」
 返事を待ちきれないように扉が開かれる。そこに立っていたのは、リシェーヌの知らない初老の男だった。
 何かあったのだろうか?
 男は、ひどく緊迫した表情をしていた。
「リシェーヌ様、大変ですぞ! アレイルが敵軍に襲われ、今にも結界が破られそうだと――!」
 一気に血の気を引かせて、弾かれたようにリシェーヌが立ち上がる。
「今すぐ馬車を用意させます。表でお待ちを」


 よろめきながら少女が駆け出す。その後ろ姿を見送りながら、リーゼン伯は冷たく笑っていた。

     *

 頭がズキズキと痛んでいた。走ったせいだ。
 大通りに面した館の北門までたどり着くと、門に寄りかかるように彼女は足を止めた。
 焦って走ってきてしまったが、考えてみれば、そんなにすぐには馬車は用意できまい。
 アレイルはまだ無事なのか――
 ふいに、獣の低い唸り声が聞こえた気がした。
「きゃああぁ!」
 誰かが叫んだ。門の内側から、大きな獣がそのしなやかな姿を現していた。
「とら……」
 リシェーヌは動けなかった。その虎は異常に血走った目をしていて、口からは唾液を滴らせていた。
 大きな影が視界を隠した。とっさに前に出した腕に、鋭い痛みが走る。本来なら、そのまま腕を食いちぎられたはずだった。が、虎はためらうように一度彼女から離れた。
 リシェーヌにとって、たとえ相手が猛獣であっても、昔から動物は脅威ではなかった。彼女はそれらを恐ろしいと思わなかったし、それらが彼女を襲うこともなかったから。
 しかし、今は違った。虎はしばらく彼女を見据えて唸っていたが、彼女が身動きした瞬間、再度飛びかかってきた。
 視界が大きく動いた。仰向けに押し倒されたリシェーヌの手首を、冷たく重いものが押し付ける。
 ウゥ……。
 しかし、虎はまだ迷っていた。むしろ血走った目が、次第に穏やかになりつつあるような……。


 X
 コルベールは父親を探していた。戦地に行く前に、少し話しておきたいのだ。
 昨日は言い過ぎた。
 今はそう思うが、いざ父を前にしたら――また、昨日のようなことになってしまうのだろうか。
 会っていくのはやめようか、とも思ったけれど、コルベールは首をふった。自分も父も理知的な人間であるはずだ。必ず話し合いは成立するはず――そう、信じたかった。


「父上?」
 リーゼン伯はいつもの書斎ではなく、北門の見える空き部屋にいた。何を狙っているのか弓など持って――
「何をしておいでなのですか? あまり乗り出されると危な……」
 父親の視線を追い、コルベールは凍りついた。リシェーヌが、彼女が獣に押し倒されて!?
 そんなばかな!
 なぜ、彼女が外に出るのだ。だいたい野生の虎などがいるはずは――!?
「コ、コルベールっ!」
「父上!?」
 明らかにリーゼン伯の様子はおかしかった。
「まさか、父上――!?」
 父がけしかけた? そして、今さら怖じ気づいて虎を射殺そうと――!?
「だめです、父上! 弓程度で即死させられると本気でお考えなのですか!」
 下手に傷つければ刺激するだけだ。何か、何か――!
 早くなんとかしなければ!!
 しかし、コルベールの予測は全く外れていた。リーゼン伯の声を聞きながら、コルベールはそれを思い知った。
「見ろ! あの女、魔物だぞっ。一晩何もやっていないんだ! 飢えた虎が――薬で凶暴化してある虎が、なぜ襲わん!?」
「なっ……んですって!?」
「あの兄妹は魔物だと言うのがまだわからんか!? 先々代の王を殺した魔族の末裔だ――甘い顔に騙されるなっ!!」
 言いながら弓を引き絞る。
「おやめ下さいっ! どちらを狙っておられるのですっ」
 リーゼン伯がうるさそうに怒鳴り返す。
「魔物に決まっておろうが! 言っておくぞ、コルベール。騙して外におびき出した上は、あの女が生き残れば――わしらの命運はそれまでだと思えっ」
「おやめ下さい!!」
 リーゼン伯が矢を放ったのと、コルベールがリーゼン伯を突き飛ばしたのと――どちらが先だっただろうか?
 いずれにしろ、外を見ている余裕はなかった。
「どけ、コルベール! 虎が動かんならわしがあの女を射殺す! 助けようとして放った矢が運悪く女に当たる――問題はないっ!!」
 窓際に立ったコルベールは、しかしリシェーヌを背後に守るように両手を広げた。
「おやめ下さいっ。なぜです、なぜなんです!? 貴方は、いつからこんな――」
「どけっ!!」
「どけませんっ」
 リーゼン伯は正気とも思えない目でコルベールを見た。弓を構える。
「どけ」
「……私に、弓引かれるのですか」
 視界が歪んだ。父が弓を引き絞る姿も歪む。けれど――現実は歪みはしないのだ。
 自分が泣いているのか、あるいはまだそれだけは堪えているのか。彼にはよくわからなかった。
「どけ」
「……どけません」
 コルベールは静かに目を閉じた。
「伯爵!?」
「マク……」
 ガン、と不吉な音がした。コルベールが目を開けると、伯爵から弓を奪い取ったらしいマクトが真っ青な顔をして立ち尽くしていた。
「マクト……?」
「女中たちが、貴方様と伯爵様がと……騒いで……」
 マクトの声はこころなしか震えていた。弓を奪おうとした拍子に、伯爵を突き飛ばしてしまったのだ。伯爵は動かない。
 息はあるようだったが……。

     *

 ひゅっ
 リーゼン伯の放った矢は真っ直ぐ、風を切って進んでいた。それは本来の標的からはわずかに逸れ、虎の背に突き立った。
 ガアアァァア!
 虎が鳴いた。
 瞳に戻りつつあった正気の色は、その瞬間に消え失せた。
 リシェーヌの目が恐怖に見開かれる。初めて、獣を怖いと思った。
 初めて――死を純粋に恐れた。
 虎が牙を剥き出す様を、リシェーヌは漏らさず見つめた。目を逸らすことも、閉じることもできなかった。彼女の認識の中においては、時間は止まりかけてでもいるかのように、信じがたいほど奇妙にゆっくりと進んでいた。
 ――兄さん!!――
 虎の牙が喉元に喰らいつく、刹那。
 ぐっと、虎の顔が持ち上がった。
 誰かが虎の背に乗り上がり、その口に鞘ごとの剣を挟んで引き上げたのだ。すぐに、虎は背に乗った者をふり落とそうと暴れ出した。うまくいかないと知るや、地面を転がる。
 虎の背に乗っていた者は、虎に押し潰される前に素早くそこを逃れていた。
 それは青年だった。身を包む衣装は異国風で、背中で結わえた長めの髪は白い。おそらくは染めているのだろう。
 巨大な黄金色の獣が地を蹴り、飛び上がった。
 青年は飛びかかってきた虎の懐に滑り込むと、剣を真上に突き上げた。
 虎の、断末魔の声が響いた。


「フェルディナント様!」
 可愛らしい声がして、一人の小柄な少女が駆け寄って来た。薄茶の巻き毛が、軽やかに揺れる。大きな鳶色の瞳が愛らしい。
「カーナ」
 青年は少女からマントを受け取ると、静かに虎の遺体にかけた。
「すみませんが、レオミュールを呼んできて下さい。それから、代わりに留守番をお願いします」
「はい」
 やはり異国風の衣装に身を包んだ少女が駆け去る。青年はその後ろ姿を見送りながら、剣を静かに鞘に収め、リシェーヌに歩み寄ってきた。
「大丈夫ですか?」
「あ……」
 リシェーヌはその場に座り込んだまま、一歩も動けていなかった。いまだ虎の牙が目に焼き付いて、虎の断末魔の声が繰り返し響いて、頭はひどく混乱していた。
 青年は彼女の震えに気付くと、少しためらってからその肩を抱いた。
「大丈夫ですよ、もう……落ち着いて」
「……」
 がたがたと震えは止まりそうになかった。けれど、それでも――抱かれた肩から少しずつ、恐怖が薄れていく。
「家はこの近くですか?」
 リシェーヌは黙って首を横にふった。まだ声を出せるほどにも、この場合頷くべきだと気が付くほどにも、落ち着いてはいなかったから。家、と言われて彼女が思い描いたのはアレイルだった。しかも、いまだアレイルが襲われている、という事実にはつながらずに。
 その答えを見ると、青年は静かに彼女を抱き上げた。
「あ、あの……」
「そこで、傷の手当てだけでもしてもらいましょう。一人で帰れないようなら、レオミュールに送らせますから」
 虎はこの屋敷で飼われていたのに違いない。いくら人を助けるためとはいえ、殺してしまった以上はきちんと謝る必要があった。今は絶対、アルンの貴族たちに悪い印象を与えてはならないのだ。それなのにこんなことをしたと知ったら、レオミュールはさぞ呆れることだろう。本当に、今回のことといい姉のことといい、レオミュールには気苦労をかけ続けだ。
「あの、大丈夫です。おろして下さい、汚れますから……」
 リシェーヌはしきりに、自分の血が彼の服を汚しそうなことを気にしていた。そうでなくても、虎との闘いで大分汚させてしまったのだ。血を浴びるのだけは避けたようだったが。
「大丈夫じゃないでしょう? 血止めだけでもしないと大変ですよ」
「いえ、あの……」
 どうにも上手く話せないので、リシェーヌはそれを諦めた。代わりに傷ついた腕に手を当てて、意識を集中する。
「え……」
 みるまに傷を癒してしまった少女を、軽い驚きの目で青年は見つめた。
「あの……」
 ためらいがちな声にふと我に帰り、青年はリシェーヌをおろした。
「精霊使いでいらしたんですね」
 改めて見ると、少女は随分と美しい顔立ちをしていた。今は髪など乱れてしまっているが、これは――それこそ伝説の精霊使い、などと言われても信じてしまいそうな容貌だ。エルフと見間違えるほど華奢で儚げで、そして、それよりももっと、ずっと強い何かが惹き付ける。
「リシェーヌ!?」
 ふいに、馬の蹄の音と共に若い声が響いた。
「何でこんなとこに――いや、それより大変なんだ。アレイルが襲われて――」
 あっと叫んでリシェーヌが走り寄る。やってきたのはディテイルだった。
「剣も使えないくせに庇ったんだ。遊びに来てたニニが逃げ遅れて、ラーテムズさんが死にかけてて……」
 ディテイルの言葉は支離滅裂だったが、十分だった。真っ青な顔でリシェーヌが手を差し出す。ディテイルはそれをぐっとつかむと、馬の上に引き上げた。
「とばすから、しっかりつかまってて」
「はい」
 二つの影はあっという間に小さくなっていった。


「それでは、礼も言わずに行ってしまったんですか?」
 事情を聞くと、レオミュールは心底呆れた声で言った。
「それだけ大切な方なんでしょう。貴方は、私が死にかけていても優先してくれないんですか?」
 公子の言葉に、一見厳しそうな、レオミュールの男性的な相好が崩れる。
「違いありませんな。どんな状況であっても、貴方が最優先ですよ」
「それは困りますよ」
 公子が静かに笑った。深い緑の瞳が優しい。レオミュールとは対照的に、その主の方は随分と優しげな顔立ちをしていた。地味だが、整った容貌。その雰囲気がまた格別だ。どこか深海を思わせる。
「間に合われるといいんですが……」
 それにはレオミュールも頷いた。

     *

「それでは、リシェーヌさんは無事だったんですね!?」
 事情を聞くなり、コルベールは身を乗り出して確かめずにはいられなかった。
「ええ。ですが、虎を殺してしまったんです。お許し頂けますか?」
 公子の言葉は、しかし彼の耳には入っていかないようだった。屋敷の当主は随分と若く、二人をひどく驚かせていた。
 と、突然少年の体から力が抜ける。
「コルベール様!」
 脇に控えていた者があわてて抱き留めた。少年が微かに目を開ける。
「大丈夫だ、マクト……」
「大丈夫ではございませんでしょう、コルベール様」
 従者は客人の方に向き直ると、深々と頭を下げた。
「御無礼、お許し下さい。コルベール様はお疲れで……。後日、必ずお礼はさせて頂きますので、今日のところは」
 どうやら何かあったらしいが、詮索は無用だ。先方が怒っていないらしいことはわかったので、それで十分だった。


 Y
 非常事態が発生していた。
 リーゼン伯の狂言は奇しくも、現実と一致していた。
「ラーテムズさん、ガキたち連れて隠れ……」
 アレイルに敵兵が現れた時、留守を預かっていたのはディテイルとラーテムズだ。リシェーヌがいなくなったため、食事は近所のご婦人などが作りに来てくれる。だが。
 この際、戦力になるのはディテイルだけだ。ラーテムズをそれに数えてはいけないことを、ディテイルは良く知っていた。
「って、もう隠れてんのか……」
 数えてはいけないが、役には立つ。とりあえず真っ先に子供たちを連れて隠れたらしい。
「ディテイル、来たぞ!」
「ピート!? おまえ、闘れんのか!?」
 ピートは、裏庭に無断で小屋を建てて住み着いている青年だった。なんでも町医者の息子だったそうだが――放蕩が過ぎて勘当されたらしい。
「やれなくてもやるしかないだろって! 各個撃破されちゃおしまいだぜ。ほらほら、応援が来るまで持ち堪えるぞっと」
 言いながらピートが構えたものは――
「ばかっ。メスで闘えるかよ! 何考えてんだ」
「医者の武器はメスなんだよ! それとも何か!? 注射器でも持って来いってか!?」
「違うだろ!!」
 しかし、ピートは取り合わない。ここに来て以来ラーテムズに師事しているせいか、性格にもかなりの影響を受けている様子だった。
「ほら来てるぞ、ディテイル。闘え、闘え〜」
「踊るな!!」
 ガキン
 それでも、ディテイルはまともに闘った。しかし、背後からの野次とも応援ともつかない声が気になって気になって仕方ない。
 ここに侵入してきたのは6人ほどだった。ディテイルは敵を狭い通路で迎え撃つ。正面以外はラーテムズが封鎖しているはずだから、ここだけ防げば良い。
 カン、カン
 敵と剣を合わせながら、ディテイルはやや感動していた。一度に二人以上相手取って遅れを取らない。しかも敵は素人ではない。鍛錬のたまものだ。
「ほよ〜」
 ピートの感心したような声が聞こえた。その時だ。
 ガシャン
 奥から何か大きな音が響いた。ディテイルに一瞬隙ができる。
「くっ」
 そこに斬り込んできた敵の剣を、ディテイルは苦しい体勢で受け止めた。
 ――まずい――
 一度体勢を崩すと、相手が複数なら余計、持ち直しは非常に難しい。これは……。
「うおりゃあぁああ」
 ピートがたける。
 いつの間にか武器をモップに持ち替えたピートが、その柄を敵に向けて突っ込んだ。
「がっ!?」
 敵の意表を突いたのだろう。敵はまともにこれをくらい、前のめりにうずくまった。
 ――今の音――
 ひどく気が焦る。
 応援がやって来たのは、ちょうどディテイルが残り二人を斬り伏せた時だった。
「ここ頼みます!」
 ディテイルは大急ぎで奥に向かった。

     *

 ラーテムズが正面以外を封鎖して子供たちの様子を見ると、数が足りなかった。
「ニニとティラは?」
「んとねー、おねちゃんがお人形わすえて、といにいった!」
「部屋の外に!?」


「ニニ! ティラ!」
「あ、ラーテムズさん」
 幸い、ラーテムズはほどなく人形を抱えたニニとティラを発見することができた。
 ちなみに、初めてここに来た頃「おじさんはなしですよ」と笑顔で言い渡され、以来、ティラは怖くて忠実にそれを守っている。
「早く部屋に戻りなさい!」
「大丈夫だよ、いざとなったら俺が……」
 ガシャン
 突然、大きな音がティラの言葉を遮った。何者かが、屋根裏から侵入してきたのだ。
「逃げなさい、早く!」
 現れたのは、目以外の部分を紺の布地で覆った、黒装束の敵一人だった。わずかにわん曲した細い片刃刀を手にしている。
「宰相の妻を出せ」
 くぐもった声。
「……出したいのはやまやまなんですが、今、いないんですよ。出直して下さい」
 本当に、出してやりたい。おそらく、この程度の人数、彼女がいればあっさり片が付く。しかし、敵がその言葉を信用した様子はなかった。
「きゃっ」
 転んだらしく、ニニが声を上げた。瞬間。
 敵が動いた。
「ニニ!」
 とっさに庇いに入ったラーテムズ目がけて、容赦なく敵の剣がふり下ろされてくる。
「――っ!!」
 衝撃に、気が遠くなりかけた。今まで一度として、大きな怪我をしたことなどない。ゆえに、いったい負わされた傷がどれほどのものなのか――痛みと感覚だけでは見当もつかなかった。
「出せ」
 再び声。
「ラーテムズさん!?」
 続いて聞こえた声。こちらは知ったものだった。ディテイル――
 ほっとした途端、意識は暗転した。


「ピート、大変なんだっ。ラーテムズさんが――」
 敵はすぐに追い払えた。2、3合剣を打ち交わしたところで逃げに出た敵を、ディテイルは深追いしなかった。それどころではない。
「無理だっ。医者じゃだめだ、魔法医呼べ、魔法医」
「そんなの都合よくいるかよ! なんとかしろよ!」
 無理だと言いながらピートは止血にかかっていたが、首をふる。
「無理だって言ってんだろ!? 医者に無理なもんが医者の息子程度でどーにかなるかよ! 死ぬ気で魔法医探せ!!」
「だから魔法医なんて――」
 いない、と言いかけてふとディテイルは思い直した。
「どのくらいならもつ!?」
「知るかよっ。俺は医者じゃないっ」
「連れて来る! それまで頼む」
 ディテイルは言うなり身をひるがえした。


 Z
「ニニちゃん、おいで」
 ピートは出来る限りのことをやり尽くしてしまうと、ニニを呼んだ。彼女も少し怪我をしている。
「お兄ちゃん……ラーテムズさん、死んじゃったの!?」
「死なない死なない。この人は殺しても死なないから」
「ほんとに!?」
 こちらはティラだ。皆、青い顔でラーテムズを見ている。
「大丈夫。憎まれっ子は世にはばかるもんだ」
 言いながら、ふとピートはニニに伸ばしかけた手を引いた。危ない。そう言えば、彼女には触れると人の心が読めてしまう、などという特技があった。
 ――ちくしょー。ディテイルのやつ何やってんだ。
 正直、容態は深刻に悪い。傷は浅かったが、袈裟がけにばっさりやられているのだ。もう少し、よけるとか何とか……とにかく、出血が多すぎた。
「そーだ、ティラ。おまえにも傷の手当ての仕方教えてやるよ。ゆー通りにニニの傷の手当てしてみな」
 ――ああぁあ。だいたい、俺よかラーテムズさんとかサリサの方が断然、傷の手当てまともなのに、何で俺が――
 内心情けないことを考えつつ、ピートは呑気そうにティラに指示していった。この辺りはラーテムズ直伝だ。ピートはラーテムズという人物が好きだった。そうでもなければ、この勉強嫌いの彼が人に教えを乞うたりしない。
 しかし、つくづく情けなかった。勉強はしたくないが、とりあえず医者になりたくないわけではないのだ。それが、好きな人一人救えない。
 ――ディテイル、ディテイル、ディテイル――
 あれから三十分。そろそろ限界だが、ディテイルはまだ戻って来ない。ピートはひたすら彼の名を念じ続けていた。早く魔法医を連れて来い、と。

     *

「ラーテムズさんは!?」
 ディテイルが戻ってくると、ピートはほとんど八つ当たりで怒鳴った。
「遅いじゃないか! 知らないぞ、死んでてもっ」
 魔法医などそうそういるものではないのだ。連れて来ただけでもたいしたものだが、ピートとしては文句を言うしかなかった。5分ほど前から、ピートはこわくてラーテムズの脈を取っていないのだ。
 子供も隣の部屋に移している。
 リシェーヌは状況を見ると、悲鳴すら上げずにラーテムズに駆け寄った。例の、ピートが冗談半分に持ってきていたメスを取り、自分の左手首を傷つける。
「リシェーヌ!?」
 彼女が左手首から滴らせた血は、ラーテムズにふりかかる前に消えた。うっすらとした優しい光が、ラーテムズを包み込む。
 通常、癒しは植物の力を借りて行う。植物は優しいので、たいがい力を貸してくれるのだ。しかし、今は――植物では間に合わないかもしれない。植物からでは、一度に引き出せる力に限度があるのだ。人間の傷を癒すなら、本来は相手の回復を願う、同じ人間の血が一番良く効いた。
「トラスティア・ティテュアル・クレイミライ……」
 透き通った呪文の詠唱が続く。
「う……」
 ラーテムズが微かに目を開けた。
「生きてたんだ、ラーテムズさん!」
「縁起でもないこと言うなよ、当たり前だろ!」
 ディテイルとピートが喜び合う中、ラーテムズはふいに、青い顔のまま震える手を伸ばした。
「動くなよ、まだ途中だぞ」
 ラーテムズがつかもうとするのは、床に落ちたコントローラーだった。他の誰も気付いていないのだ。この状況に気を取られて……。
 通路の向こうに、こちらを狙っている敵の姿が見えた。4、5人はいる。狙っているのは、先程の黒装束の男だった。爆弾か何か射込んで、こちらを混乱させてから斬り込む気でいるのだ。
「動くなったら」
 ディテイルが言った。
 弓弦の音が響く。
「え……」
 ディテイルがその音にふり向いたのと、ラーテムズの指がスイッチを探り当てたのは同時だった。
 バシュッ
 瞬時に部屋の入り口に熱線が張られ、敵が射込もうとした何かを消滅させた。
「なっ……! まだいやがった!?」
 言うなり剣をつかんで、ディテイルが駆け出す。
「ラーテムズさん、これどけてくれ! 追い払ってくる」
 これ、とは熱線のことだ。向こうからだけでなく、それはこちらからの通行も妨害していた。
「その必要はありませんよ」
 ものの数分。リシェーヌは完全に回復を済ませていた。おそらく、世界中探しても彼女を上回る回復術の使い手はいまい。それくらい、彼女が『水の魔道師』として持って生まれた天賦の才はずば抜けている。
 緊張が途切れると、さすがに無茶だったのだろう。倒れかかったリシェーヌを、ラーテムズが静かに抱き留めた。
「どういうことだよ、見逃せってのか!?」
「見逃す? 冗談でしょう」
 驚いてディテイルがふり返る。ラーテムズの顔に、いつもの穏やかな笑みはなかった。
 かちっと、ラーテムズの手元で小さな音がした。
 がたん、と重い音を立てて通路の片側が塞がれた。敵が動揺する。
「え……?」
 ラーテムズがもう一つボタンを押すと、今度は熱線が張られた場所のすぐ手前を、やはり壁が塞いだ。厚手のガラスだろうか……。
「いつの間にこんな仕掛け……」
 ディテイルが呆然と呟く間にも、彼は次々とスイッチを切り換えていった。熱線を解除し、通路の天井からスプリンクラーのようなものを出現させる。
「ちょ、ちょっとどうする気……」
 ふいに恐怖にかられてディテイルが尋ねた。しかし、ラーテムズは答えない。その目が、冷たく侵入者達を見据えていた。
 ――まさか、水責めにする気なのか!?
 いくらなんでもそれは――などとディテイルが思っているうちにも、早スプリンクラーが回り出す。降り注ぐ水が侵入者たちを濡らし始めた。
「や、やめろよ! ラーテムズさ……」
 悲鳴を聞いたような気がした。ラーテムズはボタンを押し続けている。
 ――なん……!?
 ディテイルもピートも、もはや声が出せなかった。竦んでしまって動けない。今まで怒ったセルリアードほど怖いものはないと思っていたが、違った。比べ物にならない。目の前の青年は、彼とは全く別の意味の恐ろしさを持っていた。
 今度こそ、微かに悲鳴が聞こえた。おそらく侵入者たちは絶叫しているのだろう。壁に遮られてなお悲鳴が届く。逃げ場のない通路の中で、彼らはびょんびょん飛び跳ねていた。
 壁がどんどん白く曇って行く。
 ――熱湯なのか!?
 彼らのどんな想像すら越えて、酷かった。
「や……やめて下さい!!」
 リシェーヌが叫んだ。がくがく震える手で、彼女はぐっとラーテムズの服をつかんだ。
「やめて下さい、やめて下さい! お願いです! ラーテムズさんっ!!」
 やっと、ラーテムズは視線を移した。じっと侵入者たちに向けていた視線を、リシェーヌへと。
「……」
 押さえ続けていたボタンを離し、スイッチを切る。
 彼は一度目を閉じ、それから、静かにリシェーヌを見直した。
「……冗談ですよ。話を聞かなきゃいけないでしょう? その前にちょっと、反省してもらっただけです」
 ね? と、ラーテムズは首を傾げた。いつも通りの穏やかな笑みを浮かべて。


 数秒後。リシェーヌの意識は闇に落ちた。

* 第六章 ラルスよりの使者 に続く

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◆ 感想ルーム ◆
期待していた公子さんの出番/助手さんが死にそう!?/ディルアードさん、やること徹底している割には
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あとがき

こ、こわいぃぃぃ。
ラーテムズさんがこわいぃぃぃ(*ノД`*)
自分で書いといてなんですが、沙澄はかなり小心者かつ怖がりなので、この程度でもとても怖いです。
第三部の序章、ディルりんのシーンなんて二度と見たくありません(TдT)

さて、やっと上巻が完結しました。
中巻ではいよいよリシェーヌちゃん争奪戦に動きがあったり、サリディアちゃんとディルりんが直接対決してみたり、ティラ君に試練の時が訪れてみたり。
良い感じに盛り上がってきますので、乞うご期待です♪
(ケルト君の出番は……?)

それでは、引き続き次章もお楽しみ下さいv(*^-^*)

沙澄汎奈

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