聖魔伝説4≪伝説編≫ 祈り

第五章 ――アレイル襲撃――

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≪2002.05.23更新≫

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「フェルディナント……おまえ自身が我が国ラルス最後の切り札だ。国の存亡をかけた同盟、結んできてくれるな」
 青年は大公の前に跪いたまま、しばらく黙していた。しかし、大公はそれを拒絶ゆえの事とは受け取らない。彼の事はよく知っている。大公が懸念しているのは、むしろ――
「はい、父上。必ず――」
 にわかに増した不安を、しかし大公は内側に抑え込んだ。力の及びます限り、そう答えてくると思っていた。これほど重い使命でさえなければ、彼ならそう答えただろう。
 ――死ぬな――
 大公はその言葉の代わりのように、細い白金プラチナの腕輪を取り出した。
「持って行け。ディアナの形見だ」
 初めて、青年の瞳がわずかながら驚きに見開かれた。しかし、その瞳はすぐに痛みに満ちたそれへと変わる。
「フェル――」
 大公は感極まったように、息子を抱き締めた。ディアナは、娘は惨殺された。大公に残されたのは、もはや二人の息子だけ……。
 先頭に立って侵略軍と戦っている長男。
 敵の目をかいくぐり、アルンまで赴かねばならない次男。
 生き残れるのだろうか? 息子達は……。そして、ラルス公国は。

 青年は深く一礼すると、静かに退室した。他の何にも代えがたい、白金の腕輪を握り締めて。


 T
 温かく――不快な力が流れ込んでくるのを感じていた。これは、そう、癒しの力。
 虚ろに開けた目に、豪奢なシャンデリアが映る。
 ――死に損なった――
 ディルアードはふつふつと、胸に苛立ちにも似た怒りを湧き上がらせた。それを受け、シャンデリアが悲鳴のような破裂音を立てて砕け散る。
「陛下!!」
 誰かが叫んで彼に覆い被さった。次いで、魔法医が寸でのところで落下するシャンデリアを弾き飛ばした。
「カレン――」
 彼女は泣いていた。どっと安心したような声が漏れる。
「陛下、御無事で……」
 愚かな人間ども――
 ディルアードは微笑む気にもならなかった。命を取り留めたのは自分。人に仇なす魔王だというのに。無知とは幸せなことだ。
 ふと、異質な気配に気付いた。
「……もういい、下がれ」
「陛下!?」
「下がれ」
 皆、納得行かなげだったが、二度目の命令にまで逆らえる者もいなかった。
 誰もいなくなると、ディルアードは静かに寝台の上に身を起こした。もっとも、それ以上のことは必要とも思わない。相手を見ようともせず、彼はただ声のみかけた。
「何か用か」
「あんた、楽しい? 面白いわけ? 大した力もない、人間なんかの上に君臨して――」
 声は真上から聞こえた。ひどく妖しい美声。
「面白そうに見えるか? マーディラ」
「見えないから聞いてるんじゃない」
 揶揄するように言い、彼女はひらりと天窓から舞い降りた。
「あんたのやることに、いちいち指図する気はないわ。でも、あたしの領域を侵されるのは心外なのよ」
「貴様の領域?」
 彼女はすっと目を細めた。
 ――あたしを貴様呼ばわりするなんて、偉くなったもんじゃないの。
「アルンよ」
 彼女は彼につかつかと歩み寄ると、その寝台の端に腰かけた。
「あたしの玩具に手を出すの、やめてくれない? まだ飽きてないのよ」
「……宰相のことか」
「そう」
 ひどく危険な空気が満ちる。双方緊張しても、殺気立ってもいないというのに。
「あの子はいいわ。クールを気取ってはいるけど、まだまだ子供で。あんたと違って、まるで自分の心を偽れないし」
「ふん……心を偽った覚えなどないがな。貴様に気に入られるのもごめんだが」
 その言葉に、彼女はけたたましく彼を笑った。
「あんた、馬鹿じゃないの!? じゃあ何のためにこんな事してるのよ、本当に欲しいものにはつながらないと知りながら! わかってるわよ、欲しいものは何一つ手に入れられないこと、認めるのが怖いんでしょう?」
 彼女は一瞬、理解を示すような顔をした。けれど、すぐに裏切る。
「大・笑・い」
「――黙れ」
 血も凍るような目で、ディルアードが彼女を睨む。けれど、血などもとより凍っているような彼女のことだ。マーディラはただ、冷笑していた。
「恐れなどない。手に入らぬものなど、求める気にならぬだけだ」
「あら、どうして? それでも欲しいのが、本物じゃない。せいぜい、苦しむがいいわ」
 彼女の言葉を、ディルアードは単なる茶化しとして受け取った。あざけりを込めた声音で言う。
「ごめんだな」
 マーディラはどこか満足げにも、哀しげにも見えるやり方で、口の端を引き上げた。
「忘れたフリをしても、求める気持ちを否定してもムダよ。あんた自身が『あんたが逃げている』ことを知っているもの。自分自身から逃げられるとでも思う? どんなに呪っても、否定してもムダ。あんたが一生付き合うしかないのが、あんたよ」
「……」
「逃げられないものから、臆病に、死に物狂いで逃げるさまは滑稽よ、ディルアード。いいざまだわ」
 前触れもなく、マーディラが彼の額へと伸ばしたその手を、ディルアードは強くつかんでいた。
「何のつもりだ」
 束の間睨み合うと、彼女はひどく面倒くさそうな口調で言った。
「以前、あたしがあんたにかけた呪い――解いてやろうかと思ったのよ。お放し」
 呪いを解く?
 ディルアードはギリっと彼女の腕をひねり上げた。
「冗談じゃない。そんなことをしてみろ、貴様の玩具はあの世行きだ」
「あんた!?」
 初めて、マーディラの表情に戦慄が走った。
「二度と私の前に現れるな。目障りだ」
 彼女は信じがたげに彼を見て、やがて。
 忽然と姿を消した。
 転移だ。
 ディルアードはじっと、身じろぎもせずに彼女が消えた虚空を見ていた。


 U
 枕元に、誰かの話し声が聞こえる気がした。
 目を開けると、兄とサリディアの姿が見えた。
 無事だったのだ。
 良かった――
 リシェーヌはほっと、安堵の息を吐いた。
 彼女が起き上がろうとすると、それと気付いた兄に止められた。
「リシェーヌ、いい」
 寝ていなさいと、掛け布団を直してくれようとする。心配している顔だ。彼女が2人にかけた護法の負荷で倒れたので、心配なのだ。
 けれど、ちゃんと2人を守れたことが嬉しいリシェーヌは、微笑みながら起き上がった。
「もう、大丈夫です」
 無事に帰って来てくれたのを確かめるように手を取ると、あいた方の手で、軽く抱き締めてもらえた。温かくて、それ以上の何かがあって、気持ちいい。
 いつも、兄の腕には何かの魔法がかかっていると思う。そうとしか考えられないくらい、居心地が良くて安心するのだ。
 リシェーヌはしばらくその腕の中で目を閉じて、兄を確かめていた。
 それから、こそっとサリディアを見る。
 それを待っていたかのように、サリディアが笑いかけてくれた。いつになく、嬉しそうな顔だった。
「助けてくれてありがとう。リシェーヌは命の恩人だね」
 リシェーヌはびっくりして、次には彼女もひどく嬉しくなって、花が綻ぶように笑った。
「……サリサ、あのね」
 サリディアの笑顔に後押しされるように、リシェーヌは言ってみた。
 いつか、サリディアの役に立てたら言おうと思っていたこと。
「大好きなの。サリサのことが大好き――」
 サリディアは驚いたみたいだった。
「また友達になれる? 早いかな、だめかな……」
 自信なげに、開いた手を合わせながら言った。
「……もしかして、今まで遠慮してたの?」
 きまりが悪くて、リシェーヌはうつむきがちに頷いた。と。細い腕が抱き締めた。
「サリサ……?」
 ふいに感じた。温かくて透明な――
「……サリサ、泣いてるの?」
「うん……嬉しいの。ずっと迷惑なのかなって……嫌われたのかなって、思ってたから……」
 リシェーヌはひどく途惑った。
 それから初めて、気が付いた。
 自分を取り戻してから、時間に取り残され、自信のなかったリシェーヌは、何も言わずにサリディアを避けてきた。他人行儀にしてきた。
 うまくやれなくて、がっかりされることが怖かったのだ。
 けれど、そのこと自体がサリディアを傷つけていたことに、当たり前のことだったのに、リシェーヌは今さら気が付いたのだ。
 サリディアが優しく笑ってくれる度、話しかけてくれる度、リシェーヌはいつも引いてしまった。それがサリディアにとってどんなに痛いかなんて、考えもしないで。
 どんなにか、つらかっただろう。
「ごめん……ごめんね、私、サリサがそんなふうに思ってるなんて……対等な友達になりたかったの。受け止めてもらうだけじゃなくて、受け止めてあげられるような……」
「うん」
「だから、まだ早いって、思って……」
「うん」
 もう、何も言う必要はなかった。
 それでも笑ってくれたのが、サリディアなのだ。
 今、彼女が心を開いたことを、それでも喜んでくれるのが、サリディアなのだ。
 二人は互いにひどくほっとした、安心と喜びの入り混じった顔で微笑み合うと、手を取り合って笑った。


 V
 ディルアードは一人、不機嫌極まりない顔で北塔に向かっていた。まだ傷は痛みを残していたが、激しい憤りと苛立ちに紛れ、そんなものは感じなかった。
 ――何のためにこんなことをしているか、だと? 他に何ができる!
 胸にわだかまる憎悪の炎は消えない。復讐を果たせぬまま、あの男は――のうのうと生き、あげくに死んでしまった。
(ディルアード)
 記憶の彼方に追いやったはずの、悲しげな声が響く。
(ディルアード!)
 渡り廊下に踏み出した途端、感情が爆発した。欠片すら残さず、一瞬前まで噴水だったものが消滅する。
『飽きたのよ。途端に疎んじるようになったわ。母さんをあそこまで苦しめ抜いて――結局、死なせさえした父さんは大嫌い。でもね――』
 ふと、ディルアードは足元に土くれを認めて足を止めた。
『でもね――』
 あれは、その後何と言っただろう? 不思議と思い出せなかった。
 ――ここに仕掛けておいた化け物の残骸か?
 無造作につかみ取る。それは紛れもなく、ただの土くれだった。
 よもや、こんな芸当のできる魔道師がいたとは。不浄なる存在を土に還す――それは決して容易なことではない。だとすると、宰相に護法をかけていたのもあの女か。
 そこで、ディルアードは納得した。仮にも夫だ。優先的に強力な護法をかけていてもおかしくない。
 ――あたしの玩具に手を出すな、か――
 今までで一番、期待できる材料はそろっているが……。


 W
 ザー……
 セルリアードは口許を拭うと、透き通る水流を止めた。
「セルリアード……」
 気遣わしげな声に振り返る。サリディアだった。
 微かに残る血の臭い。
「……吐いたの?」
 彼は答えなかった。
 彼女が静かに寄ってきて、その額をことんと、彼の胸に預ける。
「サリディア……離れてくれ」
 彼女は動かなかった。普段なら、彼の言うことは何でもきくのに。
「頼むから……」
 いやだと首をふり、彼女は真っ直ぐ彼を見た。彼が何に苛まれ、なぜ彼女を拒むのか、多分、わかっている。
「サリディア」
 少しきつめに言うと、彼女はぐっと、預けていた額を彼の胸に押し付けてきた。
 そうされると、だめだと思いながら、意に反して彼女を抱き締めてしまう。
 行けと言いながら、行くなと捕らえてしまう。いやになるほど愛しくて――
「サリディア……おまえを汚したくない。さらしたくないんだ、今の私の邪気に。今日、いくつの命を手にかけたと思う?」
「汚れない……汚れないよ……」
「汚れる」
 サリディアは静かに首を横にふり、彼を見上げた。
「人が、ううん、動物が生きるためには、他の生き物が必ず犠牲になる。それは仕方のないことだよね? 自分と愛する者を守るための闘いは、正当だよ。私たちには必要以上に殺さないってことしか、できない」
「……だが、それなら今回はどうだ? 無駄に何人も殺した」
 強行したスィール訪問は双方に犠牲を払わせ、にも関わらず何も与えなかった。無理やり収穫を探すなら、尋常ならざる新帝の実力を垣間見た――それだけだ。それも、こちらの手の内と引き換えに。
「……無駄だったかどうかなんてわからない。少なくとも手は尽くした。それ以上のことはできないよ。それでも、あなたが汚れたって言うなら……私だって汚れた。ね?」
 頷くとでも思っているのだろうか?
 彼女は汚れていない。罪に蝕まれていない。それでも守ろうと、前を向いている。
 彼女ばかり、なぜ光を失わないのか。
 何だか悔しくて、触れるまいと思っていたのに、彼はぐっと彼女を引き寄せ、やや手荒に唇を奪った。
 サリディアが少し苦しげに、小さく身を震わせる。彼女はあまり、触れられるのが得意でない。慣れていないせいか。手荒にすると、簡単に彼に逆らえなくなるのだ。
「……そんなこと、私が納得すると思うか?」
 彼女のペースを乱しておいて、問いかける。
 彼女はそれでも一呼吸して気を落ち着けると、どこか嬉しそうに笑った。
「うん」
「……」
 セルリアードは小さく息を吐き、かなわないな、と思った。
 彼は意地を張るのをやめて、素直に彼女を抱き寄せた。心地良い。
「何なんだろうな……あれだけ見てもまだ慣れない。血を見るのは苦手だよ」
「うん……」
 サリディアが彼の腕の中、心地良さげに身を任せてくる。
「……だから、好き……」
「……」
「少し、休んでもいい?」
「うん? ああ……」
 彼が頷くと、よほど疲れていたのか、彼女はそのまま体の力を抜いて、驚くほどあっさり眠ってしまった。
「サリディア?」
 彼の腕の中、彼女は安心しきって……いや、疲れきってか熟睡している。彼に従ってスィールに赴き、命懸けでケルトを守ってアルンに戻って。多分、もう十分疲れていたのに、なお彼の様子を見に来たのだ。彼は優しく笑うと、静かに彼女を抱き上げ、寝室に運んだ。


 X
「感じ取れたか? 魔力の流れは」
 サリディアが目を閉じたまま頷く。混乱していた魔力も一眠りすると何とか落ち着き、通常の魔術ならもう動かせるようになっていた。
「じゃあ、目を開けて。今度はそのまま、もう一度魔力に意識を集中して――」
 セルリアードの指示に従い、サリディアが精神集中に入る。
 この際、最も身近に熟練の極魔道師マスターがいたことは、彼女にとって非情に都合が良かった。通常は極魔道師としての力に目覚めても、師を探すのがまず大変なのだ。自力で学ぼうとすれば、何年もかかることがままある。
 もっとも、いくら師が良くてもやはり2、3ヵ月はみておくのが妥当だった。数日でモノにしよう、などというのは狂気の沙汰だ。それを今、彼らは基礎だけとはいえ、たった2時間足らずの空き時間で、こなそうとしていた。
「できた」
 一般的水準からすればひどく異常な発言。
「よし。じゃあ、次は手の平の上に魔力の流れを――自分の意志で、新しい流れを作る」
 これが最大の難所であり、ここさえクリアすれば、残るは配下の魔力を見極め、慣れるという地道な作業だけになる。セルリアードもさすがに今は、そこまでは望んでいなかった。とりあえず、出せるなら光球と、余裕があったら昨日発動した魔術も、くらいのつもりだ。
 ほどなく、淡く輝く球が彼女の手の平の上に出現した。色は白。
「これでいいの?」
「ああ。随分あっさりできたな」
 最初の内こそ、自分の教え方がいいんだと機嫌の良かったセルリアードも、この頃には内心面白くない気持ちがあった。彼女の方が、彼より素質がある気がして……。
 しかし、そんな子供じみた事ですねていても始まらないので、それについては極力考えないようにしていた。
「とりあえず、あの岩にぶつけて」
 魔力球を見てその本質を見抜く、などという芸当はさすがにできないので、それがどういうものかは順次試してみるしかなかった。当然ながら、最も危険なものである、という仮定から始める。
 出してしまえば通常の魔術と同じだ。サリディアは難なく彼の指示を実行した。音もなく魔力球が宙を飛び、岩に迫り――そのまま吸い込まれて消えた。
 セルリアードが岩の具合を確かめる。形状にも温度にも、特に変化は見られなかった。
「ちょっと地面に打ってみてくれ」
 今度も結果は同じ。とりあえず爆発性と転移性はないらしい。
 次にセルリアードは魔力球を宙に留めさせると、自らそこに魔力球を打ち込んだ。
 光が交錯する。
「え?」
 声を上げたのはサリディアだ。彼の打った球は彼女の球を素通りした。すなわち、彼女の魔力球はまだそこにあるのだ。また消滅するかと思ったのだが。
 セルリアードもやや首を傾げていたが、不意に尋ねてきた。
「魔力はどうだ? 疲れてないか?」
 言われて気付く。そういえば、全然魔術を使っている気がしない。疲れはまるでなかった。
「何だか無害そうだな……」
 言ったかと思うと、彼はちょっとそれを見て、無造作にそれを指で突いた。
 彼はすぐに指を引こうとしたようだったが、魔力球はそれより早く彼に吸い込まれて消えた。
「セルリアード!?」
 しばらく黙ってその指先の様子を見、彼は顔を上げた。
「大丈夫だ。ちょっと考えにくいが……回復系かもしれない」
「回復系?」
 それは本当に考えにくかった。魔術に回復の術は存在しない。例外的に半ば伝説と化した病気の治療、などという離れ技があるが、それすら病原菌のみを破壊することで治す、というしろものなのだ。
「まあ、ものは試しだな」
 セルリアードは腕に一筋傷を付けると、サリディアを促した。しかし、これも外れ。彼は自分で癒しながら、首を傾げた。
「わからないな……」
「……」
 ふと、サリディアは自分の手の平を見つめた。
「サリディア?」
「わかった」
 ――風よ――
 彼女は当たり前のように手の平の上に翠色の魔力球を生み出すと、岩に向けて放った。
 コ……
 セルリアードが目を見張る。
 瞬時に破砕された。一瞬前までそこにあった大岩が、今は粉々になって原型すら――留めていない。
 と、サリディアがよろめいた。
「サリディア!?」
 素早く抱き留め、セルリアードはほっと息を吐いた。魔力の使い過ぎによる失神。珍しいことではない。
「……」
 ――風よ――
 呪文なしで使える最大限の魔力をもって、彼は空色の魔力球を生み出した。
 ――できるか? 私にあれが……。
 放つ。
 ガッ
 魔力球がぶつかった瞬間、岩は吹き飛ばされ、転がった。同時に直撃された部位が砕けて破片が散る。
 けれど、それだけだった。
 わかってはいる。これができる魔道師がどれほどもいないことは。精霊魔法でなら、魔道都市サン・エリスンの魔道師長とすら張り合える。
 それでも――。
 内心、穏やかならざるものがないとは言い切れなかった。


 Y
 ――いやだ、来ないで……!
 逃げていた。
 何か、ひどく暗澹としたものが追ってくる。捕まったら、もし捕まってしまったら!?
 ふと気付いた。逃げている?
 違う!
 ここは、もうそれの中。もう呑み込まれているのだ、一片の光もないそれに――!!
「いやああぁぁ!!」
 突然意識が開けた。
 夢――?
 どくどくと動悸が収まらない。ファスは半ば無意識に胸を押さえていた。
 ここは――?
 記憶を手繰り始めた途端、彼女は凍りついた。スィール皇帝を撃ち抜いた光景が、凄惨に過ぎる光景が、脳裏に閃いたのだ。
 ――あの人は……あの人は死んだの!? 私が殺した――!?
 そう思った途端、頭の中が真っ白になった。
 カツ、カツ……
 ふいに響いてきた固い足音に、ファスはびくっとその身を震わせた。まさか――
 キッ
 微かな軋みを立てて扉が開く。そこにいたのは。
「皇帝……」
 あろうことか、ファスは確かにほっとしてしまった。しかし、同時に恐怖も覚える。
 ディルアードは黙って部屋に踏み入ってくると、冷笑した。
「気分はどうだ?」
「……」
 彼女の瞳に浮かぶ怯えと思慕のうち、ディルアードは怯えの方だけ理解していた。
「なに……怯えることはない。呪いをかけたのは私――あなたを責める気はない」
 ディルアードが猫撫で声で言う。
「一つ、聞きたいことがあってな。宰相が――」
 宰相?
「アルン王国宰相のギルファニート……名前は忘れたが、あの男が最も大事にしているものは?」
「な……」
「地位、名声、正義……色々あるだろう。それとも人か? 主君、恋人、肉親……」
 ――妹!
 つい、ファスは反応してしまった。それを見逃すディルアードではない。
「顔色が変わったな。知っているわけだ……なら、言ってもらおうか」
「そ……」
 優しげで儚げで、触れたら壊れてしまいそうな風情の少女の姿が思い浮かんだ。一点の汚れもない、天使のようなリシェーヌ……。
 言えなかった。彼女とはさほど親しくない。けれど、それこそか弱い天使の居場所を無慈悲な死神に教えるような真似は――
「言えないか?」
 ぞっとする猫撫で声だった。何故か、怖い。ファスはそれでも、口を噤んでいた。
「仕方ない、いい加減、甘やかし過ぎたと思っていたところだ。――少々、手荒な真似をさせてもらおうか」
「え……!?」
 いきなり、何も言えなくなった。ディルアードの手元から、何か細いものが伸びて彼女の首に巻きついたのだ。
 息ができない。
 圧迫されて――
 ファスは何とか首に巻きつくものを外そうともがいたが、無駄だった。ディルアードがさらに紐を引き、彼女の首を締め上げる。
 ――苦しい!!――
 無駄でも何でも、ファスはもがいた。
 ――苦しい!!――
 彼女が窒息する寸前、ディルアードはやっと紐を緩めた。
「宰相が大事にしているものは?」
 喘ぎながら咳き込む彼女に、ディルアードは淡々と問いかけた。
 恐怖とショックに、ファスはまだほとんど何も考えられなかった。
 ただ、なお外してもらえない、巻きついたままの紐が恐ろしくて――
「もう一度同じ目にあいたいか?」
「や、やだっ!! いや、やめ……」
 ディルアードが軽く紐を引く。
「やめてぇっ!!」
 ファスは絶叫していた。と、ディルアードの指が首に巻きつく紐にかかった。
「そら……言えば外してやるぞ? ついでに、いいことを教えてやる。おまえが言わないなら、代わりにアルンから十人ほど、人をさらってくるだけだ。その十人が知らなければもう十人。『最初に話した者だけ生かして帰してやる』条件で尋問するんだ。おまえの強情のおかげで、最低9人が犠牲になるな」
 ファスの瞳に明らかな途惑いの色が浮かんだ。
 ディルアードは何も言わず、ただ冷笑した。そんな条件で尋問すれば、とにかく助かりたい何人かが先を争って適当なことを言うに決まっている。それでは意味がないのだ。しかし、恐怖と苦痛のせいで彼女はそれに気付かない。
「サ……」
 何か言わなければ人が死ぬ。
 本当のことは言えない。
 嘘とばれたらひどい目にあわされ、また同じ選択を迫られる。
 彼女に考えられたのは、そこまでだった。
 それ以上、何も考えられなかった。
「サリサ……」
「サリサ?」
「あの人の……妻」


 Z
「状況は?」
「あんまり思わしくないよ。敵の正体がつかめないまま戦ってる」
 前線の天幕の中、ケルトの指が地図上を滑る。宣戦布告から2日。セルリアードは内政を取りまとめ、コルベールに引き継いでから、サリディアを連れて現地に入った。国王たるケルトと、デリーバル将軍率いる先発隊から遅れること、丸一日。
「ラヴィニアが落とされた。それにオードとカスト……ここも、時間の問題だと思う」
「戦力差があるのか?」
「わからない。うまく隠されてるんだ。はっきり言って、やることがすごく巧みで……」
 当初、アルン側は国境地帯・レザランで両軍の主力部隊がぶつかり合うと踏んでいた。そこさえ落とせば、格段に相手国に攻め込みやすくなる位置にあるからだ。実際、敵もそのような動きを見せていたから、誰もその予測を疑わなかった。
 ところが。
 これが囮だった。おかげで水源の一つラヴィニアが奪われ、その後もこちらの対応が追いつかない速さで、スィールの神出鬼没な波状攻撃が続いている。
 もっとも、やられてばかりいるわけではない。思いがけない地域に敵が戦力を割いていることを知ると、デリーバル将軍は大胆にもレザランに隣接するスィール領・アネモスに攻め込んだ。ラヴィニアには援軍を送らず、撤退命令と避難命令を出した。ここで敵のペースに持ち込ませては、収拾不能となるからだ。おかげで主戦地はアルンの予定通りレザランとなり、かなりの被害を出しながらも、アネモスすら占領してみせた。
「待って。これ、こっちの虚をついてるだけじゃなくて――次はワンスじゃない?」
 ふいに、サリディアが地図上の一点を指さした。
「……敵がレザランを囲もうとしてる可能性は考えてる。地図で見るだけなら、ワンスできれいに囲めるのはわかるよ。でも、地形から言ってワンスを落とすくらいなら、ロザンとか旧ラヴィニアの方が断然……」
「ワンスだな」
「セルリアード?」
 ケルトが怪訝そうな顔をする。
「敵がそのつもりなら、カストではなくランジェだろう」
「それはそうだけど……向こうから見れば他国なんだし、ランジェとカストのどっちが有利か、なんて微妙な判断は難しかったんじゃないか?」
「それならジェスタには攻め込まない。今日戦闘のあった六ヶ所――カストを除けば的確すぎる。下調べは十分と見るべきだな」
「……じゃあ、わからないのは敵の狙いか……」
 セルリアードが微笑する。主君が聡明なのは良いことだ。昨日と今日で散々、多種多様な意見が飛び交ったはずなのに、ケルトは混乱していない。おかげで今も話の運びはスムーズだ。先がかなり楽しみだった。
 もっとも、成長も良すぎるとさすがに怖い。すぐ隣にいる少女など特にそうだ。ワンス攻めも、彼女に指摘されて初めて気付いたことだった。サリディアの指が地図上を伝い、六芒星を描き出す。
「オード、カスト、ワンス、ラヴィニア。それにスィール領内のポイントを合わせて――もしレザランを中心に六芒星が描ければ、大きな魔道が使えるかもしれない」
 ケルトが息を呑む。魔道。そう、相手は三国一の文明を誇るスィールなのだ。アルンには技術的にできないことでも、あるいはスィールなら、やってのけるかもしれない。
「だけど、よく……さすがに、こっちもおとりだとは思わなかった」
 戦術は王、あるいは将軍一人の独断ではない。参謀が中心となって武人や魔道師、官僚達の意見をまとめ、王が決断するのだ。それでも気付かない時には気付かない。もっとも、今日の軍議はこれからなのだが。
「囮であって囮でない。罠はいくつも張るのが基本だからな」
 セルリアードが言った。
 と、ちょうど人が集まってきたらしく、天幕の外がざわめき始めた。

     *

「夜襲?」
「ええ」
「将軍のおかげで絞れました。アネモスを占領された以上、敵の主力は今夜、十中八九ラヴィニアです。明日一番にワンスを攻める予定で――そこに夜襲をかけたい」
 軍議のさなか。
 経験が浅いからと参謀役を断り、一官僚として参加しているセルリアードが告げた。
 本来は宰相が参謀役も兼任するのだが、彼には色々と、取りたい単独行動があるのだ。
 ちなみに、まだ宮廷魔道師見習いでしかないサリディアは、軍議には参加していない。
「その際、兵士を二十とサリディア、幻術師、それから転移の使える魔道師を8人、私につけて先行させて頂きたい。敵将を足止めします」
 誰もが驚き、半ば呆れて彼を見た。魔道師を8人、というのも随分だが、敵将の足止めなどできるなら、夜襲は大成功だ。
 アルンのデリーバル将軍。
 スィールのエヴァン元帥。
 両軍にとって、それぞれ代えのきかない将軍だ。両国とも、王ではなく将軍が軍を掌握している。
「自信のほどは?」
 デリーバル将軍が問いかけた。
 戦略を聞くと、将軍は面白そうな笑みを見せ、不敵に豪語した。元帥が最初の半時ほどでも参戦し損ねるなら、スィール軍など壊滅させてみせようと。


 [
 深夜、辺りはひっそりと静まり返っている。スィールのエヴァン元帥は、星空を静かに見上げていた。
「空だけは変わりませんな……故国も異国も」
「元帥……」
 様子を見に来た少女に、エヴァンはぽつりと言った。
 出陣は三時間後。とにかく、今はレザランを落とさないことには始まらない。
「なぜ、我々はこんな異国の地にいるのかと、思われませんか」
「それは……」
 エヴァンは答えなくていいというように首をふり、立ち上がると、自分の天幕に向かった。なぜ、彼女はこれほどまで皇帝を信頼できるのだろう。自分もそうなら良かったのだが……。どの道従うしかないならば、信頼できる方がずっといい。
「それにしても、デリーバルの奴……。一番嫌な戦術できたものだ」
「本当に……。でも、向こうもそう思っているでしょう? お互い様です」
 エヴァンは頷き、少女を顧みた。カレン・リリオブザヴァリー。確かに頭はいい。今度の戦術も、ほとんど自分と彼女とで決めたのだから。先の内乱で有能な者の多くを失い、指導者の数が足りないのは事実だ。
 しかし――。
 こんな少女を戦地に連れてくるべきではないと、彼は思う。いつ命を落とすかも知れない、地獄に。

 ドオンッ――

 突如、不吉な轟音が夜気を震わせた。

     *

「何者!」
 現場に真っ先に駆けつけた兵士達は、そこに信じられないものを見た。
「魔族――!?」
 月光と赤い炎に照らされて、岩の上に浮かび上がる人影。
 フードの隙間から幾筋か、淡く輝くような銀の糸が零れている。そして、その瞳の色は――魔族のみの持てる色、紫だった。
「我が名はシェラザード――。ここを我が領域テリトリーと知っての布陣か」
 兵士達の間に動揺が広がる。
「答えよ」
 魔族の生み出した光弾が、一人の兵の耳元を掠め、その後ろの岩を砕いた。
 ――銀髪だぞ――
 ――銀髪の魔族は、魔王と呼ばれるほど強いやつらだろう?――
 ――なんでアルンに魔族がいるんだ――
 そこで、兵士達はあっと顔を見合わせた。昼間、ラヴィニアのアルン兵はやけにあっさり撤退していった。まさか、ここで彼らと魔族を鉢合わせさせるために――!?
 魔族は闇色のケープを風にはためかせ、ただ悠然と岩に座している。
「答えぬか?」
 別の声が促した。
 岩のもっと低い位置に数人で座した、小魔らしき者の一人だ。
「うわあっ」
 その小魔の放った光弾が着弾した途端、その位置から何体もの異形の魔物達が生まれ出てきた。
「元帥に――! 元帥にお知らせしろ!」
 誰かが叫んだ。

     *

「魔族?」
 信じられないことだったが、状況を聞く限り、他に考えようもなかった。エヴァンは初め、当然ながらアルン軍の襲撃だと思った。しかし、敵は数人だと言う。しかも、張ってあった結界をものともせずに、陣の一角を全壊させたとなると――
 現場に到着すると、さすがに元帥と呼ばれるほどの者だ。すぐに状況の本質を見抜いた。炎が燃え盛り、光弾が飛び交い、魔物たちが徘徊してはいる。だが。
「落ち着け! まやかしだ、惑わされるな!」
 何より元帥の存在そのものが、その場の兵士たちを正気に戻した。
 エヴァンは慎重に馬を進めると、その威厳に満ちた声を響かせた。
「私はスィール帝国元帥、エヴァンと申す者。御身と争う気は――」
 ふいに、言葉を切る。あの赤い炎――
「いかがした?」
 魔族の声がそらぞらしく響く。エヴァンは、傍らの魔道師に何か指示した様子だった。
 シャッ!
 エヴァンの傍らから何か光が弾け、驚いたように小魔が数人、姿を消した。
 炎は消えていた。
 同時に、遠くから敵襲の鐘が鳴り響く。夜襲――
「やってくれたな、アルン宰相――ギルファニート!」
 魔族は微笑んだようだった。ひらりと岩の上から飛び降りる。
 その瞳は既に、紫ではなく蒼だった。炎の色で紫に見せていたのだ。
 その場で、彼はフードと口許を覆っていた布を外した。月から零れたような美貌が露になった。
「さすがに見抜かれますか、あなたには」
「余裕だな。逃げられるとでも思っているのか?」
「――さてね」
 言いながら、エヴァンが抜刀するのを受けて、彼もその愛刀、ティストラーゼを抜いた。
「剣は使えるはずだな?」
「――正統ではありませんが」
「後悔されるなよ!」
 銀光が閃いた。

     *

 カン、カン、カン、カン
 敵襲の鐘が鳴り響く。すぐ本営に戻る必要があったが、エヴァンは戻れなかった。アルンの要職にある者に侵入を許した上、背を向けたのでは、元帥の名に恥じる。
 まして相手は結界――スィールお家芸の魔道技術を駆使し、魔道師数名がかりで張ったもの――すらうち崩すほどの魔道の使い手なのだ。単独で乗り込んできた、この好機は逃せなかった。
 それに、おそらくは――
 キン
 エヴァンの第一閃。セルリアードが左手の小剣でエヴァンの剣の軌道だけ逸らし、右手のティストラーゼで斬りつけてくる。
 コッ
 エヴァンは腕に括りつけた小型の盾でそれを受け止め、力任せに押し返した。しかし、防がれた途端に相手は剣を引いている。
 両者は再び間合いを取った。
 やはりと、元帥は読みの正しさを知った。
 アルンの宰相は魔法戦士だと聞いている。それが、油断の出来ない戦闘において、魔法を使ってこない。
 無理な結界破りに、魔力をほぼ使い果たしているのだ。
 隙を見て、転移で逃げるつもりなのだろう。
 と、ふいにセルリアードがマントに手をかけ、肩当てごとそれを外した。彼の流儀は剣術と体術の混合だから、本気でやるならどうしても防具は邪魔になる。重さもあるし、何より自由な動きが妨げられるのだ。
 しなやかに、影が動いた。一撃を受け止められると、彼はなめらかに次の攻撃へとつなげていく。そのあまりの速さと的確さ。エヴァンには捉えきれていなかった。しかし、その速さは防御を代償としたものだ。エヴァンはとにかく剣で受け止め、鎧に当てさせ、反撃する暇を探した。わずかでも隙があれば、それで片がつく。条件は同じだった。
 ただ、恐ろしいのは相手の左手の小剣だ。長剣での攻撃に気を取られていると、いつの間にか猫の爪さながら死角に回り込み、そこから恐るべき速度で襲いかかってくる。
 むしろ、相手の剣技は暗殺技に酷似していた。
 ギンッ!
 相手の剣を思い切り弾き、エヴァンは無理やり間合いを取った。
 互いに、ある程度相手の動きを見切った頃だ。
 後は決着をつけるのみ!
 二人はほぼ同時に地を蹴った。

     *

 着地した瞬間、劣勢に見えたのはセルリアードだった。脇が見る間に赤く染まっていく。彼は真横に飛ばされて膝を突いたまま、エヴァンを見上げていた。
 剣を合わせながら、セルリアードはエヴァンの技量と性格とに、ある種の感銘を受けていた。敵でさえなければ師事してみたいくらいだ。
 おそらく今の一撃で片をつけるつもりだったのだろう。エヴァンはセルリアードの攻撃を、防ごうともしなかった。渾身の力を込めて剣を叩きつけてきた。予想はしていたから、一応小剣をあてがって飛ばさせた。しかし、それでもなお受けた傷は深い。
 ともあれ、エヴァンも利き腕を犠牲にしている。一方的な展開はまだ、ありえなかった。
「剣を引きませんか」
 セルリアードが提案した。
 ――この場での闘いだけでなく、戦争そのものをやめないか、と言うことか?――
 エヴァンの方もまた、セルリアードと似たような印象を持っていた。これほど若さと聡明さと、そして、なぜか――優しさを感じさせる瞳は初めてだ。
「私は貴方を殺したくない」
「……光栄だが、な」
 戦争も一騎打ちも、望んでしているわけではないけれど。
 ――疲れたな――
 あるいは、エヴァンはセルリアードの瞳に一縷の望みを託したのかもしれなかった。
「折角だが、できない相談だ」
 話したいことは、なくもない。しかし、会話が長引けば長引いただけ、セルリアードの方が不利になるのだ。出血はエヴァンより、セルリアードの方がひどいのだから。エヴァンはそれを潔しとしなかった。
 魔を秘めた紫などではない、澄んだ蒼の瞳。
 不利になる覚悟で、国の命運すら背負いながら、なお、停戦を望める青年。
 アルンの宰相と、スィールの元帥と、どちらも両国にとって軽くない。
 命と国家の命運を大きく左右する局面において、なお、目先の勝利に捕らわれず、見出した可能性を追求できるのだ。
 なんと、未来有望で高潔な若者だろうか。
 己が命、自国の益を守ることに終わらない。若さを裏切る視野の広さを持っている。
 元帥には、目に痛い光景、耳に痛い申し入れだった。
 間違った戦争だと、新帝が抱える狂気、憎悪すら知りながら、一族を守るために見て見ぬふりをしてきた。
 目先の惨劇を回避するために。自分の立ち回り次第で、守り切れるのだと、ごまかしてきた。
 知っている。
 大国のアルンを敵に回すのが、どれほど愚かなことか。
 わかっている。
 あの新帝が、支配も繁栄も望んでいないこと。おそらく、スィールの滅亡をこそ望んでいるのだということ。ディルアード、その呪われた名の持つ意味。
 新帝は、スィールが自滅するのを待っている。自滅しないなら、その手で滅ぼすのだろう。あれは、その力を持つ存在なのだから。
 あれは――
 伝説に詠われる聖魔か四元の魔道師でも連れてこない限り、おそらく、滅ぼせない存在なのだ。存続を望む全ての生きとし生けるものの仇。終焉の使者。
 新帝は即死かなぶり殺しか、選択肢をただ2つしか用意しなかったけれど。
 ここに、確かに自分の声を聞く者がいる。突破口を開けるかもしれない者がいる。
 アルンの宰相は、アルン半世紀ぶりの極魔道師だと聞いている。
 あるいは、この青年こそが聖魔だとしたら――?
 違うとしても、この青年なら、聖魔を連れてくるのではないかと思えた。
 ――そうそう、おまえの望み通りにはなるまいよ、ディルアード
 絶望的な状況ながら、ただ一筋の光を、見た気がした。
 セルリアードが哀しそうに目を伏せ、透き通る片刃の剣を両手で構える。
 それを待ち、エヴァンは駆け出した。相手との距離が一気に詰まる。

 それでも、彼を倒すのが自分の使命。
 その策謀で、壊滅させられようとしている自国の軍を、守り立て直すのがその責務。

 ガッ!
 2つの影が交錯した瞬間、ティストラーゼが輝いたように見えた。スィール文明の粋を結集し、エヴァンの鎧は皮の軽さと鉄の強度を誇る。
 ――それを破壊するのか!
 エヴァンは目を見張った。それは信じがたい現実であり、開かないと思った突破口が開くのを目の当たりにしたような、そんな瞬間だった。
 そして、その鎧が破壊された時が、エヴァンの最後でもあった。
 ぐっと、エヴァンは力の加減すらせずセルリアードの右腕を握り締めた。
 エヴァンの右手が懐を探り、何かセルリアードに押し付ける。
「――妖精族の……村に、手が……かりが……」
 セルリアードはエヴァンの胸を貫いたまま、動けなかった。エヴァンの左手が痛いほどきつく右腕をつかんでいる。
「スィール……を…………」
 ――すまない……守ってやれなかった――
 脳裏に浮かぶのは妻子の姿。彼を誇りにしてくれた一族の面々。
「元帥!!」
 悲痛な声がこだました。
 互いに牽制しあいながら、双方は一騎討ちを見守っていた。うちスィール兵が茫然自失の体で、あるいは怒りに任せて動き出す。小さな影が飛び出し、セルリアードの腕を背後からつかんだ。
転移テレポート!」
 それが、脱出の合図だった。


 \
 セルリアードはなんとか壁際まで歩くと、それに寄りかかって腰を下ろした。サリディアの目がもの言いたげだ。しかし、彼女は何も言わなかった。
 彼はただ、次々と魔法陣に現れる兵達の数を数えた。
「全員無事だな……」
 小さくつぶやく。
 セルリアードの傷はとりあえず精霊使いの一人がふさいだ。本人にはもうそれをするだけの魔力が残っていなかったからだが、さすがに経験も浅く魔力もさほど高くない精霊使いの治癒では、表面をふさぐだけで精一杯だ。
「ありがとう」
 精霊使いが済まなそうに頭を下げる。
 仕掛けはさほど複雑でも危険でもなかった。魔道師一人に兵二人の護衛をつけ、三人一組で小魔のふりをさせる。危険を感じたらいつでも戻っていいとも言った。混乱している時にいきなり相手が消えるのだから、それでも十分演出になる。
「禁を犯した罰かな――」
「立てる?」
 セルリアードは頷き、立ち上がった。すぐにサリディアがそれを支える。
 現場で、まず彼は『神法』エルバーニャを使った。サリディアの魔力はいまだ不完全だったから、それが敵の結界を破る唯一の方法だった。さすがに魔力はそれだけでほとんど使い果たしてしまったが、それは構わなかった。あとは幻術師の幻術で敵を惑わし、残りの魔道師たちで適当に場を盛り上げ、兵の一人に叫ばせる。「元帥にお知らせしろ」と。
 これで十分時間稼ぎになるはずだった。戦闘の初めだけ、元帥がいなければ良かったのだから。収拾不能にしてしまえばこちらのものだ。
 しかし、あまりにもあっさり正体を見破られたことが計算外だった。おかげで一騎打ちなどするはめになって――
 いまだ鮮明な、元帥の強く思慮深げな瞳。
 元帥の鎧を貫く際、彼は残った魔力もきれいに使い果たした。ティストラーゼの刃は金属ではないのだ。どのような技術によるものか、精霊を具現させて透明な刃となしてある。ゆえに、刀は精霊使いが握って初めて秘刀となり得た。
「部屋の移動くらいはできるが……アレイルに戻るのはきついか」
 サリディアが当たり前という顔で頷いた。

     *

「妖精族の村?」
 セルリアードの言葉に、サリディアが問い返す。
「じゃあ、やっぱりファスを取り戻すのが先だね……ごめんなさい」
 アーリングインからの連絡で、ファスが脱出に失敗したらしいことは知っていた。あの時、やはり無理にでも連れ出すべきだったのかもしれない。
「謝らなくていい。正解ではなくとも、おまえに取れる最善の選択だったんだろう? なら、それでいい」
 実際問題として、ファスを連れ出すべくもたもたしていたら、それはそれでどうなっていたかわからないと、セルリアードは思う。
 それに――
 優れた巫女だったという母親の血か、サリディアの第六感は時に驚異的だ。
 彼女が危険だと判断したなら、本当に危険だったのかもしれない。
 そして、彼らが知るよしもないことながら、ファスとサリディアの選択は、あの時偶然最善だった。
「……それは何?」
 ふとセルリアードの手元を見、サリディアが尋ねた。
「ああ、元帥に託されたんだが……スィールの史書らしい」
「史書?」
 頷き、セルリアードがぱらぱらとめくってみせる。
「どういう意味だと思う?」
「何か……しおりみたいなものは挟んでない?」
「ない」
 さすがに、サリディアも首をひねるしかない。
「読んではみるつもりだが、時間がかかるな」
 もちろん、読むだけなら簡単だ。けれど、元帥の言わんとしたことを読み取るまでには、手がかかりそうだということだ。
 セルリアードの体を拭き、服を替え――必要なことを済ませ、立ち上がろうとしたサリディアが、ふいによろめいた。
「サリディア?」
「あ、何でも……」
 セルリアードは黙って彼女を引き寄せると、その額に手を当てた。
「……熱があるな。どうして言わなかった?」
「……ただの、風邪みたいだったから……」
 セルリアードの目が、腹立たしいのか少し吊り上げられた。その様子に怯み、サリディアが逃げるように顔を伏せる。後ろめたいのだ。
「サリディア、その無理で、万が一重要な局面で倒れたら……どういうことになるか、わかって言ってるのか」
「……ごめんなさい……」
 疲れのせいだろうか。涙腺がひどく弱くなっていて、ぱたぱたと涙が落ちた。
 ――わかっていて、無理をしていた。
 わかりたくなかったのだ。彼のそばにいたかったから。
「泣くな」
「あ……」
 サリディアはあわてて目をこすった。
 自業自得なのに怒られて泣くなんて、最低だ。軽蔑されたかもしれない。
 泣くまいときゅっと唇を引き結び、必死に耐える彼女の様子に、セルリアードがひどく甘い顔で苦笑いする。
 公の責任を追及してみせても、本当は、彼自身がいやなだけなのだ。
 失いたくないから、可哀想でも怒らないわけにはいかない。
 ここは戦場なのだ。ほんの少しのカンの狂いが、命取りになる。
「私の言うことはきく約束だ、そばにいてやるから、休め」
 言うなり有無を言わせず抱き込むと、サリディアが驚いた顔で彼を見た。軽く口付けると、泣きそうな顔でしがみついてくる。
 その髪を軽く梳きながら、彼はつぶやくように言った。
「頼むから、もう……無理はしないでくれ。半月前、おまえが倒れてどんなに……」
 サリディアが少し驚いた顔で、心配してくれるのかと彼を見るから、そうだよと頷く。
 彼女はまた泣きそうな顔をして、それでも、こくこくと頷いた。
「……ごめんなさい……」
 もう一度だけ謝ると、彼女は素直に彼の言うことに従った。


「ねえ、手がかりって皇帝のことかな」
 しばらくして、眠れないのかサリディアが尋ねた。もっとも、眠くないのも当然だ。夜襲に備えて仮眠はとったのだから。
 夜襲に行った者たちはまだ帰ってこない。セルリアードは読みかけの史書から目を上げ、答えた。
「そうだな……」
「セルリアード?」
 なぜ、不安なのだろう。彼女はちゃんとここにいるのに……。
「……ちゃんと座ってないと、傷口が開くよ」
「――そうだな」
 合わせた唇が、温かくて甘い。彼が与えるものを少し苦しげに、わずかに身を震わせながらもおとなしく受け入れるサリディアに、逃げられないように口付けていく。捕まえていく。彼なしでは生きて行けないくらい、彼女を捕まえていると確信するのに消えない予感。失うような、予感。
 なぜ――
 嫌な予感を払拭するように、彼は腕の中の少女を確かめた。


 ]
「エヴァンが?」
 いまだ日は昇っていない。ディルアードは顔色一つ変えず、近衛に問い返した。
「はっ、つい先刻、ラヴィニアで討ち死にされたと……」
 伝える近衛の顔は青い。なぜ皇帝がこうも平然としているのか、むしろ不審に思っているようだ。
「……誰に殺された? 場所などどうでもいい、誰に殺された」
 もし、下級兵士あたりに殺されていたらどうしてくれよう。あの者がいつ歯向かってくるかと、その時ばかりを心待ちにしていたのに。
「はっ……それが、単身乗り込んできたアルンの宰相に敗れたと……」
 ……アルンの宰相?
「ふうん」
「あの……滅ぼしますか? レンティスの一族……」
 そう、確か『おまえが死んだら一族郎党皆殺し』という条件で戦わせていたような気がする。
「構わん、捨て置け。それより――」
 自分の領域を侵すな?
 確かに、彼女に免じてしばらくは見逃してやるつもりだった。
 だが。
 気に入りのモルモットを殺してくれた以上、責任もって代わりを果たしてもらわなくては。
 そして、おそらくはこれが最後の実験――漠然と、ディルアードは予感していた。

* 第五章 アレイル襲撃【後編 に続く

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◆ 感想ルーム ◆
マーディラさん、以前より?/悲しい一騎討ち/挿絵のセルリアードさん
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