Ⅰ
「やあぁ！」
「たあっ！」
空気もすがすがしい早朝、日が昇る直前から、彼らの一日は始まる。
ひゅっ
風を切る音をさせて鋭く放たれた蹴りを、ディテイルはよけたつもりだった。が、すぐにうまく誘導されただけだと気付く。つい、ケルトの前方に立ちはだかってしまった。おかげでケルトは攻撃を中断し、間合いを計り直すはめになる。そして最も被害を受けるのは、この場合サリディアなのだ。
サリディアが攻撃した直後に、セルリアードはきっちりそれを弾いて、ディテイルに攻撃にいった――はずだった。しかし、彼女は着地すると同時に横に跳ぶ。
案の定、直前まで彼女のいた空間にセルリアードの容赦ない回し蹴りがとんでいた。一対一ならもっと速かったはずで、その場合彼女はよけられない。そして、ディテイルとケルトが体勢を崩しているこの数秒――一対一となる。
回し蹴りを放った足が地についた途端、セルリアードはそこを蹴り、攻撃に移ろうとしているサリディアを追った。そして、その腕をつかんで引く。これで無論、バランスが崩れてサリディアの攻撃は失敗、かつそのまま鳩尾に蹴り込まれるのだからたまらない。
失神寸前でその場に倒れ込むサリディアをよそに、セルリアードは軽く上体だけ横にそらして背後からの攻撃をよけ、しかもその体勢から突き出されてきた腕を取った。次の瞬間、ディテイルの視界における天地が逆転した。ディテイルを、頭がぐらぐらするような衝撃が襲う。
その間に上体をひねりながらセルリアードの背後に回りこんだケルトが、間髪置かず左手で勢いをつけつつ、右肘を突き出した。以前似たような状況で回し蹴りを入れたら反撃されたので、今度は攻撃方法を変えている。
が。
その攻撃は空ぶった。セルリアードはディテイルを投げ飛ばした勢いのままに自分も転がり、既にそこにいなかったのだ。バランスを崩して転がったわけでは無論ない。
「くっ！」
とにかく今しかない。あの状況でよけてはくれたが、それでも今ならセルリアードは屈んでいる。ここを逃したら間違いなく数秒でやられる。ケルトは攻撃が失敗した次の瞬間には地を蹴り、セルリアードを追った。
ヴン
ケルトに背を向けたまま、セルリアードが右脇から左手を出す。ケルトがそれと気付いた時には、すでに魔術が発動していた。
直径二十センチほどの光球がケルトに迫る――
パンっ
それはぎりぎりのところ――とは言ってもそもそも二人が近かったので、発動してすぐではある――で弾け、ケルトを直撃することはなかった。しかし、その軽い衝撃波と、何より弾けた瞬間の光量。勝敗を決するには、それだけで十分だった。ケルトは数秒視界を失い、その間にあえなく撃墜されてしまった。
「くそー……」
その場に座り込んで荒い息をつくケルトとディテイルに、リシェーヌが小走りに近寄って行く。それを視界の隅に捕らえながら、セルリアードはセルリアードで、サリディアの肩に手をかけた。それは痛みのため、小刻みに震えていた。
「草木に息づく精霊たちよ その優しき生命の力を 我が朋友に分かち給え
治癒」
セルリアードがサリディアの鳩尾に当てた指先から、すぐに魔力があふれ出す。
そろそろ木枯らしの吹く季節の早朝、外気は身を切るほどに冷たい。それでも、今は全員の体が火照っていた。９月から、毎日続けられているこの日課――勝負は一対三。ただし、セルリアードが魔道も使うため、その妨害にリシェーヌがあたる。だから一対四と言えなくもなかった。
しばらくそうしていると、やがてサリディアがほっ、と小さく息をついた。
「大丈夫か？」
「うん……」
痛みは次第に和らぎ、もはや完全に消えていた。残っているのは、早朝の運動による軽い疲れと爽やかさだけだ。毎朝２回、一対三で、どちらかが全滅するまでこれは続けられる。
「それにしても……私、全然成長してないのかなぁ。今日は二回とも、私が最初に崩れて連敗だもんね」
セルリアードがくすっと笑う。『最初に崩される＝隙がない』という公式に、彼女は気付いていないのだ。他二人に隙が出来て初めて、残る一人にまともな攻撃がしかけられるというのに。
「なに、全員それなりに成長してるさ」
「じゃあ何で、勝率二割のままなんだよ」
ディテイルが割り込む。今日こそ蹴っ飛ばしてやろうと思っていたのに……実に不満そうな顔だ。
「悪いな。私も成長してるんだ」
「ほんとに!?」
ケルトが目を丸くして問う。
「ああ。初めのうちは殺さないよう気を遣うのが、それこそ大変だった」
優しげな顔でこわいことを言う。しかし、これは皮肉でも何でもなく、事実なのだ。本気でやればやるほど、最初に身に付けたのが殺人術であった場合、相手を殺してしまいそうになるのは間違いない。
サリディアはセルリアードの言い分を事実として理解しながら涼しげに笑っていたが、他二人は今さら、そらおそろしい気がしていた。つくづく、セルリアードを敵に回してはいけない。物理的攻撃力を別にしてもだ。
彼が宰相に就任してから、中央は随分整頓された。
彼はまず、世襲制のためできもしない仕事を任されていた者たちをいったん退かせ、有能な経験者による指導後の登用を徹底させた。
続いて着々と、行政改革を進めて行った。
とは言っても、彼の発案による改革は、今のところまだない。
彼はただ、身分が足りずに発言できなかった人々の意見を吸い上げ、代行したのだ。そのやり方ゆえに、彼の周りには身分を問わず、有能な者が集まるようになった。逆に意見を持たない者や、自分の利益ばかりを追っていた者は、居心地が悪くて離れて行った。
この『離れて行った』者たちがリーゼン伯を中心に集まり、宰相の追い落としにかかったのだが、結果は惨敗。
当たり前だ。
国王たるケルトはもちろん、宮廷内で最も人望の厚い魔道士長セッグが彼の味方についたのだから。その上、背後には賢者の名を欲しいままにするメルセフォリア家がついている。
今や、アルン国内における彼の発言力は、国王すら凌ぐと言われていた。
敵の数も。
『成り上がり者』を妬んだ保守派の貴族や、日陰に追いやられた元権力者らが、ここで暗殺に走る。
『アルバレン』としての彼を恨む者。宰相としての彼を逆恨みする者。
狙われる理由を山ほど抱えたセルリアード本人はもちろん、その被害は周囲にまで及んでいる。彼一人ではとても守りきれないために、こうしてサリディア達にも自分の身くらい、どころか昼の間は集落全体を守ってもらうべく、訓練しているのだった。
「陛下！」
珍しくそこに駆け込んできた者がいた。まだ若い。おそらく、二十歳になっていないと見受けられる。
この金髪の青年の名は、リーゼン・ルーク・コルベール。セルリアードの公的な片腕だ。サリディアとディテイルは、私的なそれである。
コルベールが公職に就いたのは、つい先月のことだった。
Ⅱ
「どういうことだ？ ここだと聞いたが――」
今をさかのぼること三ヶ月前の八月の初め、彼は単身宰相宅に乗り込んできた。
「本気なのですか？ コルベール様。かの宰相、楯突く者には容赦しないとのもっぱらの評判……時期を待たれた方がよろしいのでは」
コルベールは強い視線で護衛の男を見た。ちなみに護衛の存在は彼にとって当然のことなので、この場合やはり『単身やってきた』ことになる。
「そうして相手を付け上がらせるのか！ 宰相だからなんだ。母親が王女だったかなんだか知らないが、父親はアルンの者ですらないと聞くぞ。下賎の教育を受けてきた者が、大きな顔をしていることさえ許しがたいものを――そんな男のいいようにされてたまるか！ 汚い手管でのし上がってきたような男が好き勝手するのを黙って見ているくらいなら、私は国のために死ぬ！」
「コルベール様……」
護衛の男――マクトは心から彼に仕えてきたことを誇りに思った。二十歳にも満たないうちから、これほど正々堂々として、立派な考え方ができる者がどれほどいよう。
もっとも、セルリアードは決して極悪非道の圧政者でも、魔物でもないので、彼らの決意と覚悟は少々行き過ぎだったと言わざるをえない。
若いだけに、たいした下調べもなく行動したようだ。その行動力には素晴らしいものがあるが。
「わかりました。このマクト――国とコルベール様のためなら、恐れるものなどありませぬ。そこまでお考えなら、もはや言うこともございませぬ。どこまでもついて参ります」
「頼りにしているぞ、マクト」
コルベールは言うと、とにかく目指す建物の戸を叩いた。どうやら、ここが宰相宅だというのは間違いだったようだが。
やや、戸が開くまでに時間がかかった。ぱたぱたと軽い足音をさせて、７つか８つくらいの子供が戸を開ける。一緒に、４つくらいの少女がついていた。
「お待たせしました！ どなたですか？」
口調こそ丁寧だったが、その目にはありありと警戒の色が浮かんでいた。
「ここに、宰相が住んでいると聞いて来たんだが。誰か大人はいないか？ 他にも、ここを宰相宅と間違える者がいるはずなんだ」
少年はじっ、と睨むようにコルベールを見た。
「間違いじゃありません。ここです。だけど、今悪代官と兄ちゃんは出てて、姉ちゃんは取り込み中です」
しばし、意味のない睨み合いが続いた。正確には睨んでいたのは少年と少女の方だけで、コルベールはひたすら、今聞いた言葉を理解しようとしていた。
「……ここは、一般の民家だろう？ 宰相に子供がいるとは聞いていないし……。ああ、宰相なんて言葉、知らないのか」
少年はコルベールのつぶやきを聞き漏らさず、即座に主張した。
「知ってるよ！ オレは確かにここんちの子じゃないけど、理由があって預けられてんの！ そっちこそ、また姉ちゃんをいじめに来たんじゃないだろうな」
――だめだ、らちがあかない――
コルベールが目でそうマクトに語りかけると、マクトの方も困ったような顔をした。
「セルリアードがしたことで姉ちゃんに八つ当たりしたら、オレが許さないからなっ」
コルベールはびっくりして少年を見た。
「セルリアード、だって……!?」
「ねぇ、わたし、お姉ちゃんに知らせてくるよ？ セーちゃんに用がある人が来たら、すぐに知らせなさいって言われてるのに……。おとなしくしてるんだよ、ティラちゃん」
「なっ……。おいこらニニっ！ おまえ、オレの子分のくせに勝手なことするなっ」
彼女は奥に向かって駆け出しながら、べーっと舌を出した。
「ニニ、ティラちゃんの子分じゃないもーん」
あまりにも予想外の展開に、コルベールは夢でも見ているような気がしてきていた。
Ⅱ‐ⅰ
「お待たせしました」
二人を出迎えたのは、宰相ではなくコルベールと同齢くらいの綺麗な女性だった。彼女はサリディア・メルセフォリアと名乗った。昼の間、ここを預かっているらしい。
「だいたいのことなら私で応じられますので、よろしければご用件をお願いします」
やはり一般的な、としか言いようのない客間に通されて。
いや、趣味は悪くないし、清潔で品のある、居心地はいたって良い部屋だ。けれど、高価な調度があるわけでもなく、取り立てて広いわけでもなく――やはり、普通なのだ。およそ貴族の、というか、宰相宅の客間としては似つかわしくない。
コルベールは内心かなり動揺しながら、表面にはそれを出さずに言った。
「本日は、宰相はご在宅ではないのですか？ 休みを選んで来たつもりだったのですが」
すると、彼女はあいまいな顔で答えた。
「早ければ、そろそろ戻るはずなんですが――」
ちょうどその時だ。元気なノックがあって、返事も待たずに先程の少年が扉を開けた。
「姉ちゃん、悪代官、帰って来たからもういいよ」
「ティラ」
彼女は困ったような、愛しむような、何とも微妙な顔で席を立ち、少年に何か言った。行儀でも注意されたのか、少年がむくれる。
「何だよっ。悪代官は悪代官だろ！ 兄ちゃんなんて呼ぶもんかっ」
そう叫んだ少年の頭に、ぽんと手が置かれた。
「悪代官でいいから、ちょっとあっちに行っててくれるか？」
少年は大慌てでそこをどくと、顔を真っ赤にして怒鳴った。
「出たな、悪代官！ 気安く触んじゃねーよっ。今日こそ決着つけて……」
「ティラ」
静かな声だったが、明らかに叱責だった。少年が怯んだように硬直する。
「サリディアを困らせるやつは最低なんだろう？ だったら、決着は後だ。いいね？」
少年は肩を震わせてセルリアードを睨むと、一声叫んでバタン、と扉を閉めた。
「おまえなんか、大っ嫌いだー!!」
「……」
セルリアードが静かに腰をかけるまで、誰も何も言わなかった。何をどう言ってみたものか、さっぱりわからなかったのだ。
「あなたが、セルリアード様？」
度重なる意外な事態に加えて、二人にとっては、現れた宰相自身がまた驚きだった。宰相は、二人の想定を遥かに越えて若く、人のものとも思えぬ美貌の持ち主だった。邪魔にならないよう、無造作に束ねられた銀の髪は噂以上の美しさで、見る者を魅了してやまない。鋭い視線はそれでいながらどこか穏やかで、あまりにも整った造作の顔も、その割には確かに人間らしく『生きて』いた。
「ええ。ギルファニート・アル・セルリアード。宰相としての私にご用事ですか？」
もちろんだ。コルベールが頷く。
「では、ご用件を。できれば先に名乗って頂きたいが」
言われて、コルベールは慌てて名乗った。どうもいけない。最初から相手に呑まれてしまっている。
「――失礼しました。私はリーゼン・ルーク・コルベール。用件は……まさかお忘れではないでしょう。父のことです」
セルリアードが頷く。
「率直に申し上げます。あなたのやり方は、改革自体も、進め方も、強引に過ぎます。私の父をはじめ、反対派のことごとくを排斥し、独裁政治でも始めるおつもりか」
言い募るうち、コルベールは次第に興奮してきたらしく、その頬を微かに染めていた。雰囲気はまるで違うのに、性格がどこか誰かに似ている。セルリアードはふいに胸に湧いた不真面目な欲求を抑え、真面目に言葉を返した。
「一つ、こちらからもお伺いしたい。貴方はリーゼン伯がどういう理由で私に反対し、またどういう手段を用いて改革を潰しにかかったか、ご存知か？」
「それは……」
知らない。
「……存じません。しかし――」
しばし、コルベールは言葉に詰まった。多分、初めはまず子供と思われ、あしらわれるに違いない――そう思っていたのにいきなり相手にされて、かえって途惑っている。
それでも、彼はどうにか言葉を続けた。
「では一体、どのような所業のために、父は追い落とされたとおっしゃるのですか。そもそも父の話では、あなたは成功の確証もない改革を無理に推し進め、反対派を強引に遠ざけ、国王を傀儡にして独裁を敷こうとしていると――」
セルリアードは静かに聞いている。相手の真意を測れぬまま、コルベールはさらに言い募った。
「そうと認めるつもりはありませんが、百歩譲って、父が国に有益ではない存在だったとしましょう。――だとしてなぜ、そのような存在を完全には政府から締め出さないのです!? 貴方のおかげで父は実質的な権力を失ったというのに……なのに、おめおめと生き恥をさらしている！ 父に恥をかかせるおつもりか！」
強く、怒りを感じさせる口調で言った後、コルベールは静かに否定した。
「そうではないはずです。父が間違ってはいないからこそ、あなたは父を排斥し切れなかった――違いますか？」
セルリアードは机の上に手を組み、コルベールの瞳を静かに見据えていた。
「順を追って説明しましょうか」
しごく落ち着いた口調だった。コルベールの自信を持った問いかけを、余裕を持って受け止めているような。
「まずは、改革についてから。今変えようとしている状況は、このままで良いという確証こそがないものです。それを、リーゼン伯は成功する確証がないの一点張りだ。決して無理なものではないのに、伯はお歳を召された。変化を極端に嫌われている」
「そのような……」
セルリアードはあくまで淡々と、誠実に事実を語る。
「また、陛下を傀儡にしようとしたのは、残念ながら私ではなく伯の方――他数名の老練な方々です」
「――でたらめを！」
コルベールは夢中で叫んでいた。相手はあまりに冷静で、なおかつ誠実そうで。強く否定しなければ、その言葉が父の言葉以上に自分に浸透してしまいそうな気がした。
「とはいえ、伯の言い分にも、理が無いわけではない」
はっと、コルベールはすがるような目でセルリアードを見た。その蒼い目は、父のものより格段に澄んでいて――ますます彼を不安にさせる。
「実際、どちらが正しいかなどということは、本当のところ知りようのないことです。たとえ改革が成功しても、そのままでも何事もない可能性も否定はできない。当然、その逆も」
コルベールは、セルリアードの瞳がどこか探るような光を帯びて、彼に向けられていることに気付かなかった。
「様々な視点、意見があって構わない。いえ……むしろ、反対意見があってこそ、私も自分の意見を見直すし、勝つことで自信を得られる。また、私を負かすほどの意見に出会えた時には、それこそ私にとって有益です。ありがたく、その考え方、学ばせて頂く」
セルリアードの瞳が冴えた輝きを放つ。敵対者のどんな技術も盗んでみせる、というその自信。その才覚。
格の差、というものがあるとしたら、コルベールがまさにこの時感じたものだろう。自分より父より、この宰相は遥かに格上なのだ、おそらくは。
「リーゼン伯の敵意は知っていましたが、あえて今の地位に留まって頂いたのも、それゆえです。あの方は決して無能ではない――いや、なかったので」
コルベールは一つも反論できず、黙って相手の話を聞いていた。どう取り繕われても対応できるよう、彼とて理論武装はきっちりしてきたつもりだったのだ。
けれど、見事なまでに歯が立たない。宰相が返した答えは、コルベールが考えてもみなかったものばかりだった。
なぜ？
当たり前のように聞こえるのに、なぜ、これほど新鮮なのだ――？
「あっ……」
コルベールが漏らした声に、セルリアードは余裕の笑みさえ浮かべたまま、わずかに首を傾げた。
「貴方は……」
突然閃いた。彼の期待していた答えと実際に宰相が返した答えの微妙な――いや、根本的な違い。それは。
「貴方には、敵意がない――！」
「……そうですね」
コルベールは信じられない、という顔で主張した。
「どういうことです。貴方は、御自分の地位や名誉に執着されないのか!? ……よもや、それを良いことだとでもお思いで……!? 愚かな！ 貴方には、国や陛下をこの手で守ろうという意思はないのですか！」
ひどく腹が立った。こんな、まともに自分の意思すら持たぬ存在が、国政の頂点にいる。
「――コルベール」
セルリアードが静かに口を開く。あくまで冷静なまま。
「例え政敵でも、我々は同志です。国と民と陛下を守らんとする者相手に、敵意は必要ない」
「……!?」
コルベールは理解しがたげに眉根を寄せた。頭に血を昇らせた状態では、目新しいその発想は理解しがたかったのだ。コルベールは幼い頃からずっと、政敵を叩き潰してここまで上った父の背中を見続けてきた。政敵が同志だという考え方は、これまでどこにも存在しなかった。
「敵意を向けるに値するのは、その志をなくした者――私情に走り、たとえば私を追い落とすため、裏工作をはかって失政をもたらさんとする者」
そう言ったセルリアードの瞳に、コルベールは初めて戦慄した。
彼に向いたものではないながら、隠された鷹の爪をかいま見た――いや、見せられたのか。
「伯は、もはや臣としての誇りをなくされた。残念ですが、近々退いて頂きます」
「……え……？」
コルベールは思わず問い返し、それから耳を疑った。
「今、あなたは、父上を退かせると……父上が誇りをなくされたと、裏工作をはかられたと、そう言われたのか！」
「――そう、言いました」
コルベールはみるみる顔から血の気を引かせ、身を震わせた。やおら立ち上がる。
「き……きさ……」
「コルベール様……」
同様に顔色をなくしたマクトが、おろおろと彼を見る。
コルベールはバン、と机に手の平を叩きつけて叫んだ。
「父上はそんなことはなさらない！ 貴方はやはり、邪魔者を消したいだけなんだっ。よくも、真剣なふりをしてぺらぺらと……！ 子供だと侮ってっ」
セルリアードはなおも黙って、彼を見据え続けていた。試しているのだ。あえて追いつめている。
「あなたは国に仇なす輩だ！ 無味無臭の猛毒だっ。この場で、成敗してくれる!!」
言うなり、コルベールは懐剣を抜き、ふり上げた。セルリアードは動かない。
「覚悟っ!!」
ガッ
鈍い音に続いて、カラカラと乾いた音が室内に響いた。コルベールの手に既に武器はなく、軽い痺れだけがそこに残っていた。
「くっ……」
「私を殺して、後はどう言い逃れするつもりだった？ 金と権力で事をもみ消すか」
不自然なほど、じっとコルベールの目を見据えながら、セルリアードが問うた。
「見損なうな、そんな卑劣な真似はしない！ 事実を語り、陛下のご判断に従うまで！」
「――いい目だ」
セルリアードは好もしそうに目を細め、その口許に微かな笑みを浮かべた。次の瞬間、突如として横に跳ぶ。
後ろから彼に斬りつけたマクトの剣が、虚しく宙を切った。
セルリアードはさりげなく、コルベールの瞳にマクトの姿を映し、飛び退くタイミングを測っていたのだ。
「なっ……!?」
「素人のたった二人がかりで私を殺そうとは、調査が甘いな。それより、あくまでリーゼン伯を信じると言うなら――宮廷でこそ、伯の身の潔白を証明してみたらどうだ？」
セルリアードが提案した瞬間だった。いきなり、ドアがばたんと開いた。コルベールとマクトがぎょっとした視線をそちらに向ける。
そして少々拍子抜けした。
そこに立っていたのは、先程のティラとかいう少年だ。
「諦めんな、兄ちゃん！ 俺も加勢するぞっ」
無論、コルベールもマクトも『兄ちゃん』というのはセルリアードのことだと思った。
ところが。
少年は足元に転がっていたコルベールの短剣を拾うと、「てやーっ」とかけ声も可愛らしく、一直線にセルリアードに向かったのだ。短剣を両手で握りしめて。
二人はただ、ぼう然とそれを見ていた。
「やめなさいっ！ 刃物は危ないと――」
セルリアードの言葉半ばにして、ティラは短剣の重さによろけ、バランスを崩していきなりつまづいた。
「ティラ！」
彼の手を離れた短剣は、その前方で床に弾かれ、ティラ自身に刃を剥いた。
「危な――」
子供の体が、短剣の上に落ちかかる。「危ない」と言いかけたコルベールは、言い終えないうちに絶句した。短剣の白い刃先が、正確に子供の喉に突き立とうとしていたのだ。背筋をぞっと冷たいものが駆け抜ける。
だめだ、刺さる――！
コルベールは目を覆った。
「あ……」
吐息を漏らすような子供の声が、耳に印象的だった。それきり、静かになった。
目を覆ったまま、震える手でマクトの服をつかんだコルベールに、穏やかなマクトの声が言った。
「大丈夫です、コルベール様。あの子は無事です」
「え……？」
おそるおそる目を上げたコルベールが最初に見たのは、鮮明な赤い血の滴りだった。床に、真紅の血溜まりができている。しかし――
確かに子供は無事だった。短剣が切り裂いたのは子供の首ではなく、それを庇った腕だった。庇われたまま、子供は茫然と自分を庇った相手を見ていた。
「怪我はないな……？ ……まったく……刃物は、何かを守るためにしか使ってはだめだ、ティラ。さもなければ重さにふり回される」
傷口を押さえる指の隙間から、赤い血が次々溢れ、滴る。
「い……痛いのか？ おまえ……それ……」
さすがにティラの声は震えていた。傷が深いのは、ティラが見ても明らかだった。
しかし、セルリアードは軽く首をふった。
「いや、痛くはない。うまいこと切れたみたいだな――」
刃物の『重さ』というのは、もちろん物理的な重さだけではない。
『重さ』のことはティラにはわからなかったが、セルリアードが言わんとしたことだけは、何となくわかる気がした。
何かを守るために闘ったのはティラの義父。自慢の父親で、その勇士に憧れていた。けれど、義父がかっこ良かったのは剣をふり回していたからではなく、家族を守っていたからなのだ。そうでなければ、刃物をふり回しても、ちっともかっこ良くなどないと――
セルリアードが何事かつぶやきながら、ゆっくりと短剣を抜いていく。傷口はすぐに塞がった。精霊魔法だ。
「サリディアには内緒にしておいてやるから、何か拭くものを持っておいで。私はもう少し、話がある」
「お……」
言われた通りに走り去りかけ、しかしティラは戸口で立ち止まった。くるりとふり返る。
「おまえなんか、世界で一番大っ嫌いなんだからなー!!」
「ちょっと邪魔が入ったが」
「ちょっとって、いったい――」
いまだ状況が飲み込めない。ふざけて突きかかったとしか思えないのだが……最後の捨てゼリフは何だろう。頼りの明晰な頭が、ここでは全く使えないのだということが、コルベールにはひどく心細く感じられた。
「気にしなくていい。
家庭の事情だ」
「……」
コルベールもマクトも、もはや暗殺未遂、どころかそのつもりがあったことすら半ば忘れかけてしまっていた。しかし、セルリアードの方がそれを許さない。彼は血に濡れたコルベールの短剣を拾い上げると、ティラに拭かせた上でそれをコルベールに差し出した。
「さっきの私の提案だが、どう思う？」
――宮廷で闘えと？
コルベールはしばし、セルリアードの手の上のものを見つめていた。それから、ふっと諦めたように息をつき、吐き捨てた。
「私とて、できようものならそうしたかった！ しかし……しかし、私は若すぎるし、これまで世襲だった任官を試験にし、あまつさえ、面接まで織り込んだのは貴方だろう!? 私に必死にあがかせて……筆記に通ったあかつきには、嘲笑いながら蹴落として下さるおつもりか！」
セルリアードが楽しそうに口の端に笑みを浮かべるのを、コルベールは苦々しげに見つめていた。自分の無力がこれほどまでに悔しく、かつ呪わしく思えたことはかつてない。
「面接には通る。必要な知識さえ身に付けられれば、この秋からでも出仕可能だ」
「え……？」
コルベールはほうけたようにセルリアードを見た。
「若いと言うが、試験は十七から受けられるし、私自身まだ十九だぞ？」
「十九!?」
コルベールは心底驚いた。護衛のマクトも驚いている。外見自体はそんなものだが、実際より若く見えるタイプだと、思い込んでいたのだ。
宰相は魔物の血を引くゆえに、年を取らないという噂もあったし……。
「まだ自信がないか？」
セルリアードが問う。
コルベールはしばし沈黙し、その真意を探るように相手を見た。
「本気で……本気で、面接に通り得ると？ 今日のようなことがあって――」
「――私情を持ち込む気はない。私の一存では決められないが、貴方は仮にもリーゼン伯のご子息だ。私が承認すれば、まず問題なく通るだろう」
それはそうだ。宮廷の二大勢力のうち、彼は反宰相派の御曹司なのだから。それを宰相が承認するとしたら、およそ不当な理由で落とされることは考えられない。
――自信、だって？――
「面接にさえ通るなら、試験など……」
……ある！
「必ずや、通ってみせます。宮廷で闘うため、全力をもって！」
セルリアードは頼もしそうに微笑んだ。
この意気があれば、この秋とは言わないまでも、確かに近いうちに登用されるだろう。
試験は決して易しくないが、指導者とやる気さえあれば、十分突破できるはずのものなのだ。
何と言ってもリーゼン伯の御曹司、指導者にはこと欠くまい。素質も十分だ。
「期待している」
セルリアードの言葉に、それを受け、彼自身が覚えた感情に、コルベールは途惑った。
宣言を一笑に付されることなく受け入れられて、その期待に応えたいと、強く感じてしまったのだ。
宰相のために受かりたいとさえ――
その時、ふいに部屋の戸が叩かれた。セルリアードの返事を待って、たおやかで優しげな、世にも稀な美少女が入室して来る。
何気なく視線を向けたコルベールは、いきなりその少女から目が離せなくなってしまった。黒絹のような、長く真っ直ぐな黒髪が流れる。宝石のような碧く澄んだ瞳が、長いまつげの奥でけぶっている。
彼女は良い香りのする紅茶を出し、セルリアードに何事か告げた。とたん、彼の表情が事務的に冷たくなった。
「わかった。すぐに行く」
セルリアードは言うと、コルベールに向き直った。
「急用が出来た。失礼したいが、まだ御用がおありか？」
「え？ ……あ……」
コルベールは混乱した表情を見せ、ふいに頬を染めた。
――おや？
セルリアードは興味深げに彼を見て、それから微笑んだ。
「リシェーヌ、後を頼む。わからないことは聞いておいて、後で私かサリディアに」
「はい」
あわてたのはコルベールだ。
「待って下さい！ そんな……」
「お伺いします」
鈴を転がすような声で、リシェーヌが割り込んだ。
コルベールは途端に彼女に魅入られ、言うべき言葉を失った。
「コルベール様？」
護衛のマクトが怪訝そうな顔をする。マクトは仕事の面では有能なのだが、この手のことには疎いらしい。
「あ、いや……」
コルベールは多少なりとも取り乱したのに気付き、それを恥じるように口許へと手をやった。胸が動悸しているのがわかる。こんな感じは初めてだ。
「……ああ……そう、少しお伺いしたいことがあるんだ。マクト、おまえは先に出ていてくれるか？ すぐ済む」
「はあ……」
マクトは怪訝そうな顔のまま、それでも主の言葉に従い、先にその場を辞した。
Ⅱ‐ⅱ
「最低だぜ、あいつ！」
ディテイルが不愉快そうに居間の戸をバタンと閉める。セルリアードがコルベールに応対している間に、もう一人客があったのだ。セルリアードが宰相となったほぼ直後からの支持者、メルディン候だ。
もっとも、メルディン候の『支持』というのは、あまりいいものではない。隙あらば傀儡政治を敷こうとちらちらこちらを窺う一方、隙がないと見れば逆に面倒ごとを回してくる。嫌がらせとしか見えないのだが、決してそうではないのだ。候はむしろ、見目が良いのでセルリアードのことは気に入っている。ただ、誠実さと責任感に欠け、軽率な好奇心と怠慢さに優れてしまうがゆえに、こうなのだ。
セルリアードが応対に出てからの態度は普通のものだったが、ディテイルのこの機嫌の悪さからして、サリディアとディテイルだけで応対していた間に何かあったらしい。
「あの野郎、絶対におまえにはまだ自分の存在が必要だって思ってるんだぜ！ ちょっと下手に出てたら付け上がりやがって……」
「どうかしたのか？」
どうしたもこうしたも、と、ディテイルが心底不愉快そうに言う。
「あのスケベじじい、隙あらばサリサに触ろうとしやがって、胸くそ悪いったら！」
セルリアードの眉が微かに上がる。
「まあ、触らせやしなかったけどさ。とにかく！ 不正の証拠は出た、有能でも忠義でもない、おまけにスケベじじい！ 当然叩くよな!?」
セルリアードが笑みを見せたので、ディテイルは見逃す気かと思った。しかし。
「サリディア、叩けるか？」
ディテイルの顔がぱっと輝く。
「うん。――早い方がいいよね？ 脱税の仕方も、領地の管理の仕方もかなりタチが悪いから……あなたの告発が、決して政敵を陥れるためのものじゃないってことも、この機会に示せるし」
はい、と、サリディアが資料を手渡す。ディテイルが息巻いている間に、黙々と整備していたものだ。この手際の良さと冷静さは、おいそれと真似のできるものではない。末恐ろしい。
「よっしゃ！ そうこなくっちゃな。そうと決まれば話は……」
がぜん張り切っているディテイルに、セルリアードが思い出したように言った。
「そういえば、リシェーヌにリーゼン伯のご子息を任せておいたんだが」
ディテイルの動きがぴたりと止まる。
「何……？」
セルリアードは同じセリフをもう一度繰り返した。みるみるディテイルの顔色が変わっていく。
「何だよ、それ!? 冗談じゃ……」
「失礼のないようにな。間違ってもけんかはするなよ」
果たして、その言葉がディテイルに聞こえていたかどうか。ディテイルは後も見ずに部屋を飛び出して行った。
「初めてだね。あなたの目にかなったの」
部屋を片付けながらのサリディアの言葉に、セルリアードは穏やかに笑った。彼が宰相に就任してからの四ヶ月、リシェーヌに言い寄る者は山ほどいた。美貌に引かれて、家柄に引かれて、宰相との縁を求めて……彼自身にも縁談は山ほどあったが、こちらはサリディアとの婚約を発表して以来、とりあえず表面的には落ち着いていた。しかし、水面下ではひどいもので、中にはサリディアを暗殺しようとする者までいる。さらには今から第二夫人に、という申し出まである始末だった。
とはいえ、こちらはまだいい。
リシェーヌの無防備さ、隙の多さときたら……。
精神的に幼いこともあり、その危うさは他に類を見ないほどだった。セルリアードが過保護になるのも無理はない。
そのおかげかどうか、ディテイルの協力もあり、これまでの所はどうにかことなきを得ていた。
「まあ、そろそろ慣らさないといけないだろう？ ディテイルしか知らないというのもなんだし」
その言葉に、サリディアがまるで悪戯好きな子猫のように笑う。
「でも、最近は随分ラーテムズさんとも打ち解けてるんだよ？ よく、楽しそうに話してるし」
セルリアードが黙る。ちょっと嫌そうな顔をしているかな、と見えるのは、おそらくサリディアの気のせいだろう。ラーテムズがたとえ、実に稀少なセルリアードを丸め込める人物だとしても。
「……さっき、とうとうティラに世界一嫌いだと言われたよ」
わざとか無意識か、サリディアに答えないまま、セルリアードが話題を変えた。
あの沈黙が答えだったということで。
「どうあがいても、私があれの義父にしたことは変わらない……わかっているのに、それなのに刺のある言葉がつらいのは――受け入れてほしいと思うのは、どうしてなんだろうな……」
いつもと同じ声音でも、サリディアだけは、そこに潜む彼の痛みを感じ取る。
「……それは、あなたが正常だからでしょう？」
目を上げると、真っ直ぐな彼女の瞳が、見える。
セルリアードは立ち上がって彼女の背後に回ると、そこから軽く抱きしめた。腕の中の確かな手応え。それだけが、彼をこの場所につなぎ止めてくれる。背後に回ったのは、心のどこかで恐れたゆえだろう。その真っ直ぐな瞳を直視することを。
サリディアはおとなしく彼の腕に抱かれていた。
「時々思う……同情でもいいから許してほしいと。虫のいいことなんだろう。だが、それならこの状況は本当に正しいのかと」
「……何かあったの？」
「私があの子たちを引き取るのは、誤りなんじゃないか？ ……親の仇のもとで、どうして真っ直ぐ育てる。私が浅はかだったのかもしれない」
また、思い出してる――サリディアは愛しげに彼の腕に手を回した。彼は時々思い出すのだ。血に染まった自分の身を――そして、逃れることもできず、幸せであればあるほどそれに苛まれる。自分が壊したものの重さに……。
そんな時、彼はつかまえておかなければ消えてしまいそうに儚い。
「育ってるよ」
サリディアは少し力を込めてセルリアードの腕を抜けると、軽快な動きで反転し、彼に向き直った。
「大丈夫。みんな、真っ直ぐに育ってるよ。ティラの心だって、あなたはもうつかんでるじゃない」
サリディアは優しく慰めるよりは、むしろなにげない言葉で、そぶりで空気を動かす。まるで深刻ではない顔で、実に楽しげに魔法の言葉を綴る。それがかえって相手の心を軽くすることを、経験上知っているのだ。
「あの子が世界一嫌いだって言ったんだよね？ それって、誰よりも好きってことだよ。世界一嫌わないと嫌えないんだもの」
そう、彼はなんとしてもセルリアードを嫌わなければならないのだ。相手は『悪代官』なのだから。
「……じゃあ、好きだと言ったら？」
それは、もはや言葉遊び以外の何者でもない。サリディアはあっさり言った。
「もちろん、好きなんじゃない？ 嫌いな相手に好きなんて言う子、育てた覚えないもん」
それはそれは。セルリアードがにやりと笑う。
「つまり、逆はあるわけだな？」
「そう、あるの」
とたん、軽く弾けるような二人分の笑いが、さして広くもない客間に転がった。
Ⅱ‐ⅲ
「あなたは、どういったご関係で宰相宅に？」
マクトが出て行くと、コルベールは妙な高揚感を持て余しつつ、どうにか平静を装って彼女に尋ねた。
夏の強い日差しを縫って、涼風が時折吹き込んでくる小部屋に二人。
「私はリシェーヌ・ギルファニートと言います。宰相は私の兄です」
「兄……」
コルベールは我ながら、愚かなことを尋ねたものだと思った。言われてみれば、この兄妹は実に良く似た面差しをしている。どちらも、世に二つとなさそうな繊細かつ優美な顔立ちで、しかも真っ直ぐにこちらを見つめてくる所など、共通点は外見ばかりではない。
「……？」
黙ってしまったコルベールに、リシェーヌが気持ち、小首を傾げて見せた。自覚があるのかないのか、罪作りなほどの愛らしさだ。
コルベールはこくっと喉を鳴らすと、気を取り直して尋ねた。
「――ぶしつけながら、お伺いします。妹のあなたから見て、あの方はどのような方ですか？ 私には――わからない」
冷酷かと思うと、妙なところで手を差し伸べる。またそうかと思うと、手の平を返すような態度も取る。単なる気紛れとも思われない。
リシェーヌは静かに微笑むと、嬉しそうに言った。
「兄は、世界の誰より純粋な――聡明で、それでいてどこまでも優しい人です」
「……」
「信じていらっしゃいませんね」
「いえ、そんなことは……」
確かに信じがたいのも事実だったが、彼が沈黙したのは、彼女の答えに胸がわずかにうずいたからだった。何やらチリチリする。
「私のことも、兄は本当に大事にしてくれるんです。時に、罪深いほど――」
彼女のために、セルリアードがどれほど傷ついたか。それを思うと胸が痛い。
一方、コルベールは胸のうずきを増してしまっていた。
「うらやましいですね、私は一人っ子ですから……。ですが、あなたのためなら、兄上でなくとも何でもできる者はおりますよ」
少なくとも私なら――
コルベールはそこまで考えながら、まだ、自分の思いには気付いていなかった。
ただ、この少女のためなら、その笑顔のためなら何でもできる。そう感じる。
リシェーヌはどこかもの悲しく、微笑んだ。
過去、文字通り兄を自らの犠牲にし、二度と繰り返したくはないと、二度と他人を自分の犠牲にしたくはないと、そう切に願う彼女にとって、その言葉がどれほど痛いか。
しかし、事情を知らないコルベールが、それに気付くべくもなかった。
――これは、もしかすると嫉妬なんだろうか？
コルベールがそんなことをちらりと思った時だ。
「リシェーヌ！」
いきなり扉がバタンと開いて、一人の少年が威勢よく駆け込んで来た。
「何だ、君は？ 失礼な……」
少年はコルベールの文句など聞こうともせず、さっと、彼とリシェーヌの間に割って入った。
「リシェーヌ、大丈夫か？ 何にもされてない？」
「はい。でも大丈夫ですよ、ディテイルさん。兄が私に任せたんですから」
「大丈夫なわけないっ！ ったく、あいつも――何考えてるんだか」
「それは君だろう、無礼な。その手を離したまえ」
無論、コルベールだ。彼はぴしゃりと言い放つと、ぱしっとリシェーヌの肩にかけたディテイルの手を払った。不愉快さを隠そうともしない。
「何しやがるっ！」
「それはこちらのセリフだ。どう見ても、彼女に触れられるような身分とは思えないが」
「……は？」
コルベールは汚いものにでも触れたかのように、これみよがしに手をハンカチで拭きながら、呆れた声で言った。
「由緒正しきアルン王家の血を引く彼女に、下賎の者が気安く触れていいとでも思っているのか？ とんだ思い違いだ。セルリアード様も、よくおまえのような者を……」
「なっ……！」
「思い違いをなさらないで下さい」
突然、部屋に凛とした少女の声が響いた。すっかり頭に血を昇らせて、今にもケンカしそうに睨みあっていた二人が、驚いて黙る。
「私と兄が必要としているのは、サリディアさんやディテイルさんのような方です。身分に、私たちの何が救えますか」
二人があ然として見つめる中、リシェーヌが珍しく強い目をして進み出た。
「リ……」
「ディテイルさんもです」
俺？ とばかりにディテイルの顔が緊張する。
「いくらなんでも失礼だと思います。……それに、兄が私に任せたのは、コルベールさんなら信用できると、そう判断したからでしょう？ 兄を信じて下さらないのですか」
二人とも、しばらく言葉もなかった。虫の好かない相手に対するそれみたことか、という思い。逆に、おそらくはリシェーヌその人に言われたゆえの、過度なほどの情けなさ。そして、何より――それらをすら押し退けて、胸に湧き上がるある種の感動……。
――俺が、必要……？
――信用できる……。
どちらからともなく、二人は顔を見合わせた。しかし次の瞬間、はっと我に帰る。二人はたった今合わせたばかりの顔を、ふん！ とばかり半ばムキになって背けた。
リシェーヌが何で？ とでも言いたげな、途惑った表情を見せる。
それに伴って揺れる長い黒髪が美しい。
結局、コルベールは
ディテイルだけは除く 面会者全員に丁寧な挨拶を送り、その日はおとなしく帰って行った。
Ⅱ‐ⅳ
「コルベール！」
家に到着するなり、怒声とも歓声ともつかない、父親の大きな声が彼を出迎えた。
「父上!?」
しかし、驚いている暇はなかった。今度は明確な怒声が飛んでくる。
「ばか者がっ！ なんて無茶をするんだ、おまえは……！」
次の瞬間、彼はリーゼン伯にきつく抱き締められていた。
言葉が出ない。
「ばか息子が……！ おまえが宰相に会いに行ったと聞いた時には、生きた心地がしなかったんだぞ!? 妻など、伏せってしまって……」
「母上が――!?」
何だか、信じられなかった。自分がこれほどまで、両親に大切にされているなどと、彼はこれまで考えたことすらなかったのだから。
「父上、そのように心配されずとも大丈夫です。何もされてはいません。それより、あの方は……セルリアード様は、本当に危険な方なのですか？」
「何……？」
コルベールはややためらいがちに、けれどはっきり告げた。
「セルリアード様は私に、父上の正義を主張したいなら、宮廷で正々堂々とすれば良いと――そう、おっしゃいました。それに……」
コルベールはふっと目を逸らした。宰相暗殺未遂を報告するには、さすがに勇気がいる。そしてそこでためらっているうちに、彼はそれをする機会を逸してしまった。
「狐が……おまえが宮廷に入ることなどできはせん。体よくあしらわれただけだ、コルベール。知っていようが、宮廷に入るためには試験を受けねばならん。あの狐は、いざとなれば面接で、何とでも口実をつけて、おまえを落とすことができるんだからな」
「そんな方では――」
否定しかけて、コルベールは奇妙な父の視線に気が付いた。
「しかし、案ずることはないぞ。じき――そう、じきだ。じきに、あのような魔物の落とし胤――我等が聖地たる王宮から締め出してくれるわ」
「父上!?」
伯爵はしてやったり、と言わんばかりの笑みを口の端に浮かべた。
「あの男の強力な後ろ盾、メルディン候を我々の側に引き込んだ。次の会議は見物だぞ。あの男が顔色を変えたところなど見たこともないが、今度ばかりはそうもいくまいて。もっとも、おかげで今回余計におまえを心配してしまったがな」
コルベールが黙り込む。彼は胸にわだかまる何かを、ひどく持て余していた。父のそれより宰相の瞳の方が――どうしても澄んでいるように思える。
「……とにかく、私は試験を受けます」
「コルベール？」
伯の不思議そうな視線を、コルベールはどこかぎこちなくかわした。
「いずれにしろ、筆記にさえ合格すれば、父上に不利なことにはならないでしょう？ たとえ面接で落とされても、その時こそが、あの方を非難する絶好の機会になるはずです。ですから、私は試験を受けます」
「……なるほど。まあ良かろう。それまで、試験制度が続いているかはわからんが」
それは宰相を失脚させてみせる、という自信の反映たる言葉だった。しかし、コルベールにはどうしても、父の思惑通りにことが運ぶとは思えない。
――どうやら、あのひとの話はできそうにないな……。
コルベールはそれからしばらく、忙しいながらも妙に気がたかぶって、眠れない日々を過ごすことになるのだった。
Ⅱ‐ⅴ
次の会議で、メルディン候は翻意を表明する間もなく、突然の宰相からの告発により、失脚をよぎなくされる。さらにその次の会議、失意のリーゼン伯は自ら辞職を申し出る。そして二ヶ月後――その息子、リーゼン・ルーク・コルベールが十八歳の若さにして見事、試験に最年少合格を果たすのだった。
また、コルベールの合格を許して周囲を驚かせた当の宰相は、その三日後、婚約していたとはいえ身分差ゆえにまさかと言われていた少女との挙式により、またも周囲を驚かせる。それが、今からちょうど一月前のことだった。
Ⅲ
「ファスティーヌ様が……」
馬車から走ってきたらしいコルベールが、息を切らしながら言った。その言葉に、ケルトが跳び上がる。
「ファスが見つかったのか!? 無事なのか!? 今、どこに……」
５日前、彼女は突然「仲間が殺されてる！」とだけ言って姿を消した。そしてそれきり、今日まで何の音沙汰もなかったのだ。
「まったく、ファスくらい人を心配させるのがうまい娘もいないよ。危険な場所に向かったらしいってことだけ知らせておいて……」
コルベールはケルトに一通の封書を差し出した。
「先程スィールからの使者が現れ、ファスティーヌ様をお預かりしている、急いでこの封書を陛下に渡されるがよろしかろう、と……」
「!?」
ケルトは困惑と不安に顔を曇らせ、セルリアードを顧みた。彼は静かにケルトを見守っていた。ケルトは一つ深呼吸すると、震える手で封書を取り、その封を切った。
ファスに何があったのか。ファスはどこに行って、どうしてスィールの虜となったりしたのか。それとも、たまたまスィールに保護されただけなのか……。
残念ながら、後者である可能性は低いように思われた。今、スィールは混乱の真っ只中だ。二人の皇子が帝位を争い、内乱となっている。この際、むしろ重要なのは、彼女が誰の手に落ちたのか、ということだろう。まだしも話のわかるサーヴァント側ならは――彼に手を貸し、スィールの混乱を収束させる、という検討中の案を実行に移すだけで済むだろう。問題は、ヴァレイン側の捕虜になっている場合だ。
ケルトはとにかくそれを確かめようと、まず最初に、末尾の署名を確認した。
「アスターグ・ログ・ディルアード？」
誰だろう、これは……。
「ディルアード？」
セルリアードが反応した。
「知ってるのか？」
「５日前、打倒王宮を叫んだ男だ」
「第三勢力なのか？」
「いや……。後ろ盾も何もない、全く無名の男だ。その後どうなったのか、報告されていない」
確かに、大きな動きがあればケルトの耳にも届いたはずだ。それがない以上、『勢力』と呼べる規模ではないということか――。
それはさておき、ケルトは急いで書面に目を通した。
「……これ……」
ケルトは表情を厳しくすると、文書をセルリアードへと回した。
「読み上げてくれ」
一つ頷いて、セルリアードが書面通りに文書を読み上げる。
「『サーヴァントの首級を上げ、ヴァレインを従属させ、この度めでたく帝位に就いた――ついては祝辞を頂きたい。明後日、八日の正午に来られたし。もてなしの準備は整っている。なお、命が惜しくば、選り抜きの従者を伴うよう。――追記・引き取り手のない場合、娘の身の保証はしない』」
聞いていた面々が、一様に息を呑んだ。
しばしの沈黙。
「それは、脅迫状では……」
コルベールの言葉に、ケルトが頷く。
「そうみたいだ」
「行くか？」
セルリアードが短く尋ねた。
ケルトはキっと眉を上げると、はっきりと言った。
「行く」
王者らしからぬ、危険な選択ではあった。若さゆえの過ちかもしれない。けれど、愛する人すら救いに行けない王位なら――自由を奪うような王位なら、欲しくはないのだ。この選択を、
彼の民なら支持してくれると信じている。
「――わかった、協力しよう」
セルリアードが言った。その協力宣言に、ケルトは少なからずほっとした。この宰相に反対されたら、それが何よりつらい。彼はケルトが最も頼りにしている後ろ盾なのだ。
「ありがとう」
「ただし」
「ただし？」
「スィールに派遣していた者から、５日前を最後に連絡がない。事実確認を急ぐのはもちろん、私を従者の一人に加えてもらいたい。そして万が一の時には、おまえの命が最優先だ。いいな？」
「――ああ」
ケルトは複雑な表情で頷いた。
Ⅳ
美しい牢獄の中で、ファスは一人うなだれていた。頭が混乱して、何も考えられない。
「リュース……ティマー先生……」
幾何学模様の刺繍された、豪奢なカーテンが風に揺れる。けれど、外へ出ることはできないのだ。腕に填められた魔力を封じる枷が、彼女をこの部屋に束縛している。
――いったい、何人の仲間が殺されたの……？
あの日――５日前の記憶が蘇る。残酷なほど鮮明な記憶が。
Ⅳ‐ⅰ
「おじいちゃん！」
「な……ファスティーヌ!?」
仲間の命が弾けた
波動に、彼女はあわてて故郷に戻った。そして、そこがあの平和な森とはとても信じられない――凄惨な場面に遭遇したのだ。
空には雷雲が立ち込め、木々が、精霊が、絶え間なく悲鳴を上げていた。
そしてその雷雲すら、召喚されたものだったのだ。
闘いはまさにその時、森の中央で行われていた。
「どうなってるの!? これは……」
ファスはとにかく、夢中で長老でもある曽祖父のもとへと向かった。
「おじいちゃん！」
ファスの声を聞き、その姿を確認し、長老は悲鳴に近い声を上げた。
「なんて時に――！ なぜ戻って来た！」
「なぜって……」
当たり前よ、と言おうとしたファスは、しかし長老のただならぬ気配に言葉を失った。
「おまえも知っておろう、森の中央の封印と、そこに眠る悪魔のことは――そやつが、目を覚ましおった」
「――!!」
長老は深い皺の刻まれた手で、苦悩の瞳で彼女を抱き寄せた。
「さあ、おまえは逃げてくれ――おまえだけは捕まってはならぬのだ。今、闘っておるのはわしの言葉に耳を貸さぬ者たちだ……。酷なことだが、我々がどうあがこうとあやつに敵いはせん。殺されるばかりだ。もはや一刻の猶予もない、早く――」
「そんな、そんなの――」
「ファスティーヌ！」
長老が叱咤したその時だ。外に、異様な気配が生まれた。
「しまった、隠れろ！」
「いやよ、そんな――おじいちゃんだけ危険にさらすなんてできない！」
長老は焦り、苛立った声で再度促した。
「わしに危険などはない！ 早く隠れ――」
びゅうっ
扉が開き、雨滴混じりの冷たい風が吹き込んできた。
扉を開けたのは、闇から生まれたような男だった。
暗い輝きを放つ濃紫の瞳。その男は、この世の全ての禍すら、その身に纏っているかのようだった。
「久方ぶりだな、長老――」
「ディルアード……！」
呻くように、長老が男の名を呼んだ。男はにこりともせず、ただ長老に冷たい視線を向けていた。
「あれから、どれだけの時が経った――？ あの男は、生きておろうな」
長老の額に、手に、脂汗が滲む。
「……答えろ」
「十……五年だ。あの人間の王は……７年前、病没した」
男の瞳に、他の全てを震え上がらせるほどの、強烈で憎悪に満ちた怒りが漲った。
「病没……？ 笑わせるわ！」
突風が吹き付け、長老を壁に叩きつけた。ファスが悲鳴を上げる。長老の枯れ木のような細い体など、簡単に折れてしまうかと思われたが、長老はどうにか無事だった。
長老は、それからしばらく咳き込んでいた。
「貴様も――殺してやっても良いが、愚かな死に損ないでもフィルニーの父親は父親だ。今度だけは見逃してやる」
「あ……あなたは何者なの!? どうして、私の仲間を殺すの！」
「馬鹿っ……！」
しかし、長老が止めた時には遅かった。剣呑な男の目は、既にファスティーヌに向いていた。
「なぜ……？ それはこちらのセリフだ。なぜ、おまえたちは私の邪魔をする」
男はつかつかと彼女に歩み寄ると、ガっと彼女の腕を取った。
「おまえこそ、何者だ……？ 紫の瞳は妖精族のものではなかろう」
「いやっ……は……放してっ！ おじいちゃん！」
「やめろっ、ディルアード！ その娘はわしの孫だ」
「孫……？」
男の目に、皮肉な色が浮かぶ。彼は鼻を鳴らすと、嘲るような口調で言った。
「フィルニーは一人娘なんじゃなかったのか？ あんなことになったのも、貴様の一人娘への執着のためだろうが！」
「ち……違う。本当は……あれは次女だ。だが、上の娘も……フィルニー同様、魔族を愛して駆け落ちしおった。だから……わしは、もう二度と娘を失いたくなかったのだ……」
ディルアードは彼女の腕をひねり上げながら、再び鼻を鳴らした。
「それはまた愚かなことだな。失いたくなかった娘は、貴様と私のせいで世にも不幸な死に様だ！ そして、あれも……」
際限のない憎悪に、ファスは恐慌寸前だった。なんとか逃れようともがく。
その時、ふと男が彼女の指輪に目を止めた。
「……これはまた……アルン王国の紋章か？」
ファスはハっとしたように目を見開き、叫んだ。
「そうよっ！ 私は、アルン王国の王妃ともなる身よ！ 私に何かしたら、ケルトが黙っちゃいないんだから……！ 無礼者、放しなさいっ！」
「ほう」
男は口の端に笑みを浮かべ、彼女を引き寄せた。そしてそのまま、抱き締めるように押さえ込む。
「それは丁度良い。共に来てもらおうか」
「なっ……やめ……」
男はそのまま数歩下がると、宙に浮いた。そして、一気に飛翔する。
「いやあっ!!」
ファスの叫びも、もはや夜闇に虚しく響き渡るだけだった。そして全ては、吹きすさぶ風雨の中に消えたのだ。最後に、血にまみれた数人の仲間の屍だけを、彼女の脳裏に焼き付けて――
Ⅳ‐ⅱ
カツ、カツ……
扉の向こうから、大理石張りの廊下を歩く硬い靴音が響いてくる。ファスはハっと身を硬くした。
カツ――
足音が止まった。扉のすぐ前だ。
キィ
扉が開いた。
部屋を訪れたのは、案の定皇帝だった。凛々しくも威厳に満ちた、美形と呼んで差し支えないその面差し。これほど容姿の整った男を、ファスはセルリアードくらいしか他には知らない。もっとも、皇帝のそれは彼のそれとは明らかに違うものだった。一見して性別不詳な、中性的かつ神秘的な美貌を誇るセルリアードに対し、皇帝のそれは明らかに男性的な、堂々として精悍なものだ。
とはいえ、今さらどうしてそれを賞賛できようか。
あの残虐さ、冷酷さ、背筋がぞっとするほどの暗さ。そんなものを裏に潜ませていると知っていながら、どうしてただその上辺に陶酔できよう。
それくらい強烈だった。あの時の悪意は――
「御気分はどうかな、姫君――」
ファスは黙って目を逸らした。白々しい。その瞳の色を呪術でごまかし、その悪意と憎悪を心の奥底深くに隠し、いったい何を望むのか。
「あなたの国王は、果たして来るかな――？ 来るとしても、殺されに来るだけだが」
「え!?」
ファスは一瞬耳を疑い、それからぞっとした。
ケルトを呼びつけた!?
彼女を囮にして、ケルトを呼びつけたと――！
皇帝は冷たく笑っている。
「まだ若い、少年王らしいな。無能な王に用はない。もっとも、差し向ける刺客のことごとくから、王を護り切るほど有能な従者がいるのなら――今回は見逃してやってもよい。いないなら、明日でアルン国王は崩御、王国自体も半月以内に滅亡だ」
「ケルトは無能じゃないわ！」
皇帝は冷笑を収め、ゆっくりと彼女に近付いた。
「本当にそう思うなら、案ずることはない。その時も、今回は見逃してやる」
「ちょっと……来ないでよっ。近付かないで！」
逃げようとしたファスにそれを許さず、ディルアードは左手で彼女の腕をつかみ、右手でそのあごを引いた。
「なっ……何をするの!?」
「ただ返すだけでは芸がなかろう？ 長老の話では、一連の悲劇におまえの母親も一役かっていたようだしな。ならばおまえも、一つくらいは心に傷を負っておくのが筋というものだ」
彼女はぞっと身震いした。どうすればいい!? どうすれば――せめて、魔法さえ封じられていなければ！
「や、やめて！ いやっ……!!」
――ケルト!!――
唇と唇が重なり、ケルトのそれなど比べ物にならないくらい力強い腕が、ファスを抱き締めた。
――呑まれる……!! 助けて!!――
相手がどれほど悪意に満ちた、邪悪な魔物であるかわかっているのに。
唇を覆う感触に、彼女を支配しようとする彼そのものに、胸が高鳴り、抵抗する気力が萎えた。
体の芯が痺れる。
何もかも、忘れてしまいそうだった。
――ああっ――
同じものになんか、なりたくないのに……！
心の慟哭も、もはや涙にしかならない。体がいうことをきかず、抗えない。
ディルアードが腕を緩めると、彼女はくたりとその場に泣き崩れた。
「……」
部屋に、奇妙な沈黙が降りた。
ディルアードはしばらく彼女を見ていたが、やがてくるりと踵を返した。後ろ手に扉を閉める。そうしながら、彼はわずかに首を傾げた。この程度で許しておくつもりはなかった。なかったというのに、妙に――。涙を見たせいではない。何か、とにかく妙な感じがしたのだ。
「まあ、いいか――」
ディルアードはあまり彼らしくないつぶやきを漏らして、そこを後にした。
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