聖魔伝説4≪伝説編≫ 祈り

序章


◆ 聖魔伝説 ◆  ◆ 天魔伝説 ◆

※ 序章には残酷な表現が含まれます。
  気の進まない方は、第一章 からお読み下さい。

≪2001.10.25更新≫



「あ……く、う……」
 後ろ手にひねり上げられた右腕が、ミシミシと不快な悲鳴を上げていた。
「やれ」
 悪魔の声。
 これが、人間などであるものか――たとえその髪が黒かろうと、それが人間の証であろうと、そんなことを信じる馬鹿がいるものか。
 サーヴァントは心の中で毒づきながら、恐怖を忘れようとしていた。
 右腕により一層の圧力がかかり、一瞬の気が遠くなるような痛みの後――右腕が動かなくなる。骨を折られて。
「ふむ……いい加減、悲鳴を上げる気力も尽きてきたようだな……」
 悠然と玉座に腰かけ、鮮血の赤さを呈す薔薇色のワインを片手に、浅黒い肌を持った一人の男がつぶやいた。腰まで届く黒髪は、真っ直ぐで艶やかで――極上の絹糸さながらだ。
 けれど、男はそれに『からすの濡れ羽そのものだ』という感想をこそ抱かせる不吉さや冷酷さ、そんなものをわざとのように辺りにふりまいていた。
「そろそろ変化がほしい。そうだろう?」
 男はサーヴァント――スィールの第二皇子に歩み寄ると、猫なで声でそうささやいた。サーヴァントの背中をざあっと悪寒が走る。
「おのれ……殺すなら殺せっ! 何のつもりなんだ!? 私など――貴様にとっては取るに足らぬ存在、貴様が帝位を手にするための、ただの踏み台であろうが! なぜ、このようなことをする!? いたぶるのがそんなに楽しいか!」
 いたぶる――そうとしか取りようのないことを、男は延々続けていた。鞭打ち、真っ赤になるまで熱した鉄串を刺し、少しずつ力を加えて骨を折る。それほどの苦痛の中でも、意識も正気も失えなかったことが、サーヴァントの不幸だ。
「楽しい? 楽しいものか。だが――」
 男の瞳が、ふいに暗い輝きを放った。それは殺意をすら越えた、復讐の閃光。あるいは狂気。
「我が怒りと苦痛――そしてこの憎しみが、この程度であがなえるものと思うなよ」
 憎しみ――?
 サーヴァントは疲れ果て、もうろうとした意識の中で聞いた言葉を反芻した。心当たりはない。内乱で家族でも失ったのか……。
 皇子二人が始めた内乱の混乱に乗じ、いともたやすく帝位を手中にした男。それがこのディルアードだ。一体どこから現れたのか、何を思っているのか、全てが謎に包まれている。
 男はやおら座を立つと、もはや動くことすらままならない、まだ若い皇子を見下ろした。慈悲のかけらもない、鋭く突き刺すような視線。
 内乱は、初めこそ正統とされるヴァレイン側の優勢だった。だが、形勢はすぐに逆転した。スィールの重鎮達の中でも有能な者がこぞってサーヴァント側につき、二人の皇子の違いを見せつけたのだ。そこそこ賢く、認めるべきはきちんと認めるサーヴァントの方が、横暴の限りを尽くすヴァレインよりは支持されていた――その事実を。
 ところがここに、第三の男が現れる。
 男は異国の者であったが、全てにおいて他を圧し、スィールの民を虜にした。王者として申し分のない堂々とした立ち居ふる舞い、よく整った顔立ち。皇子二人とは比べるべくもない、凄まじいまでの実力とカリスマ。圧政に苦しむスィールの民が、彼に魅了されないわけがなかった。
 男はあっという間に二人の皇子を虜囚とし、スィール皇帝の座を手に入れた。
 そして、今――
 男は無言でサーヴァントの折れた腕に足をかけ、踏みにじった。もはや叫べるだけの気力も体力もなく、サーヴァントはただ微かにうめいた。
 捕らえられ、引き立てられて。ヴァレインはあっという間に屈服した。誇りも何もかも捨てて、簒奪者の犬と成り下がった。けれど――サーヴァントには、どうしてもそんなことが潔さとは思えなかった。狂気の香りが、魔物の香りがするこの男に従うくらいなら、たとえ命を奪われようとも。そう思った。
 けれど、男が彼に与えたものは死ではなく、虐待につぐ虐待だった。死すらも許さぬほどの憎しみを、男は抱いていると?
 ――やはり、こいつは魔物だ……。そしてあれも。
 裏切り者とは言え、実の異母弟であるサーヴァントに、情けのかけらもかけないヴァレイン。彼がどんなに殺してくれと願っても、ヴァレインは首を縦にふらなかった。そこには魔物に対する恐れと、今まで弟の身で彼を追い詰め、ばかにしてきた者に報復する下卑た喜びだけがあった。
「サーヴァント!」
 扉が開かれると同時に響いた悲鳴に、サーヴァントはぎょっとして目を見開いた。嫌がる体を無理やり動かし、顔を上げる。
 まさか、まさか――!?
「ディアナ!」
 連れて来られたのは、一人の美しくもなよやかな女性。サーヴァントの妃である、ディアナだった。
「きさま、何を――ディアナをどうする気だ!」
 サーヴァントの問いに、男は笑うでもなく、冷ややかに命じた。
「ヴァレイン、その女の唇を奪うがいい」
 束の間、沈黙が落ちた。ヴァレインがぎこちなく、ディアナに顔を向ける。珍しく当惑の色を浮かべながら。
「聞こえなかったか? それとも、私の命に背くか」
 とたん、ヴァレインはあわてて首をふった。
「とんでもございませんっ! 光栄でありますっ」
 ついで、足早にディアナに駆け寄る。ディアナは怯えきった顔で逃げようともがいていたが、彼女を連れてきた男に押さえられていてかなわなかった。
「やめろっ!」
 カっと頭に血を昇らせ、サーヴァントが叫んだ。しかし、立ち上がろうにも体が言うことを聞かない。
「や、いやあぁ!! やめてっ……サーヴァント!!」
 ヴァレインに引き渡され、あごに手をかけられたディアナが叫ぶ。全身で拒絶され、ヴァレインは何とも言えない腹立ちと憎しみを覚えていた。もともと、彼女は彼のものになるはずだったのだ。それが、あの日――彼女は顔合わせに来たヴァレインよりも、そこに居合わせた弟皇子に、サーヴァントに興味を持った。二人は次第に惹かれ合い、そういうことならと、皇子たちの父であるファング一世は予定を変更し、彼女をサーヴァントと結ばせてしまった。ヴァレインとて、ディアナを妃にしたいと思っていたのにだ。
「黙れっ!!」
 びくっと、ディアナが言葉を失った瞬間――ヴァレインはその唇を彼女のそれに押し付けた。ヴァレインの胸を、何とも言えぬ、屈折した快感が満たす。背後のサーヴァントの顔が、目に見えるようだった。さぞかし、敗北感に打ちひしがれていることだろう。それを思うとますます心地よくて、ヴァレインはいつまでも彼女を離さなかった。無論ディアナは必死で抵抗していたが、非力な女性にヴァレインを押しのけられるわけがなかった。
「ヴァレイン、貴様――!!」
 サーヴァントのうめくような怒声に、にやにやと蔑むような笑みを見せ、ヴァレインがやっとふり向く。サーヴァントは怒りのあまりこぶしを震わせ、憎悪を剥き出しにしてヴァレインを睨みつけていた。
「自分の立場を忘れているようだな、サーヴァント」
 ヴァレインがいやらしい声でそう言った、途端。ひゅっと唸りを上げてムチが飛び、ヴァレインの肩を叩いた。
「立場をわきまえないのは貴様だ。いつ、勝手に話していいと言った?」
「そんな……」
 ヴァレインが恨めしげな目で男を見る。しかし、男は彼のことなど、もはや意に介さないようだった。ゆっくりサーヴァントの方へと歩み寄っていく。
「随分と、彼女にご執心のようだな……ただの政略結婚というわけでもなさそうだ」
 あまりにも強く噛み締めたために、サーヴァントの唇には赤い血が滲んでいた。
 それでも、他に道はない――
「頼む……彼女には――ディアナにだけは手出ししないでくれ、頼む……。従えと言うなら従う。だから……」
 男は冷めた瞳で彼を見て、首を横にふった。
「それは無理な頼みというものだ――おまえに私の2つの望み、どちらか片方でも叶えられるなら話は別だがな。それができぬ以上――無力である上は、されるがままになるしかない。それがルールだ。そうなのだろう? 皇子よ」
 男はどこか自嘲にも似た笑みを唇の端に浮かべ、次にあまりにも残酷な言葉を吐いた。
「ヴァレイン、貴様に命ずる。その女を引き裂け」
 これにはサーヴァントのみならず、ヴァレインさえも絶句した。その場の空気が凍りつく。
「できぬか? できぬなら構わぬぞ。代わりに貴様を私自ら引き裂いてくれよう」
 一気にヴァレインの顔が極限まで青くなった。ただの脅しのようにさらりと言ってのけられた言葉であったが、間違いなく、男は本気なのだ。ヴァレインはがたがたと身を震わせた。
「さあ、どうだ。できるのか、できぬのか――」
「でっ……できます! できますっ……やって見せます!」
 真っ青な顔をしながらも、ヴァレインは迷いのかけらも見せなかった。サーヴァントが絶叫する。
「やめろっ!! 冗談じゃないっ……貴様、それでも人間か!? ディアナが何をしたっ! 引き裂くべきは私のはずだ、彼女に手を出すな!!」
「無理な頼みと言ったはずだ」
 答えたのは男だった。サーヴァントは持ち前の冷静さを失い、いつもの半分も動かない頭で、それでも必死に打開策を探していた。そして、それは突然ひらめいた。そうだ、どうしてこんな大事なことを忘れていたのか……。
「ディアナはラルス公国の公女だ! 彼女を殺せば、いかにラルスが同盟国といえ――いや、そもそもこんなことは同盟破棄以外のなにものでもないぞ! これほど疲弊したスィールに、わざわざ他国の兵を招き入れようと言うのか!」
 しかし、それは男にとって計算外のことではなかったらしい。男は冷笑すら浮かべて、蒼白な顔のサーヴァントを眺めていた。
「まだ、わからんようだな――」
 男が嗤う。
「ラルスが攻め入って来ることも、アルンが侵略して来ることも、私が危惧することではないのだ」
 サーヴァントは愕然として男を見た。アルンの侵略すらも可能性として認めていながら、それで構わないと? 狂っている――
 男が何か、暗く強い感情を裏に潜ませた声音で続ける。
「恐れるのは、失いたくないものがあるがゆえ。ありがたいことに、今の私にはそれがない」
「な……に……?」
 この時確かに、部屋中の者がある種の戦慄を覚えていた。そして確信していた。この男は魔物だと。しかし、逆らえる者は一人もいない。
「さあ、何をぐずぐずしている。やれ、ヴァレイン」
「はっ……今すぐに!」
 ヴァレインのごつごつした両手が、ディアナのあまりに細く華奢な肩にかけられた。彼女の瞳が、みるみる気が狂わんばかりの恐怖に彩られていく。
「やめろっ!! やめてくれ!! ヴァレイン、頼む、やめっ――」
 しかし、何と言われようと、やめられるわけがなかった。代わりに引き裂かれるなどまっぴらだ。
「きゃ……ああぁぁあぁ!!」
「やめろーーー!!」
 二つの絶叫が重なり、バリバリと紙を裂くような不思議な音がそれに混じった。断末魔の悲鳴がこだまする。
「ディアナ――!!」
 血と肉片が飛び散り、それにまみれて一人、ヴァレインは震えながら笑っていた。その笑い声は次第に高まり、際限がないかのように思われた。
「……ディ……」
 完全に無意識のうちにその場に立ち上がっていたサーヴァントが、がくりと膝を折る。目の前の現実が、彼の思考を焼き尽くす。
「う……うああぁあ!!」
 ビュンと鞭が鳴った。ヴァレインの哄笑が止まる。
「今日最後の命令だ、ヴァレイン。その男を殺してやれ」
 言って、男が一振りの短剣を投げ渡す。サーヴァントは頭を抱えたまま、狂ったような唸りを上げ続けていた。もう、人の声ではない。
「わ……わかりました……」
 そう言うヴァレインの声も、既に尋常なものではなかった。狂人のような目をしてサーヴァントに近付く。自由に身動きもできないほど傷め付けられたサーヴァントは、それ以上の精神的打撃に、もはや何をしようともしなかった。そして、ヴァレインが男の命を実行した瞬間――ほんの数秒、サーヴァントの意識は回復した。
「ゆ……許さん、許さんぞ――ヴァレイン……ディルアード!! きさまら……呪われるがいい、悔やむがいい! 二度と、きさまらに幸福も成功も訪れさせるものかっ……永久に呪ってくれ……る……」
 ごふりと血を吐き、サーヴァントは息絶えた。狂気と恐怖を瞳に宿し、ヴァレインだけが、いつまでも弟の遺体を見つめていた。
「愚かな……」
 ディルアードの指先に、ぽっと紅の炎が点る。それはふわりと宙を流れ、2つの遺体を紅い輝きで包んだ。何の感慨も見受けられないディルアードの二つの瞳に、ただ炎だけが揺れていた。
「呪っているのは私の方だ。王家も私も、もう何十年も前から呪われていたというのに――もう、欲しいと思うものはことごとく失われた。地獄であきれるがいい」
 しかし、おまえなどより本当にこの男は――ヴァレインは祖父にそっくりなのだぞ?
 ディルアードはカッと目を見開いたままの、もはや魂の抜け殻となったサーヴァントに声に出すことなく語りかけた。
 それを知る術は、もはやあるまいが……。
 ヴァレインはふとディルアードの視線に気付き、へこへこと逃げるように数歩後退った。
 それに強烈な悪意を潜ませた瞳を向けたまま、ディルアードは言った。
「よくやった。褒美に、おまえをスィールの宰相にしてくれよう。この国、好きにするがいい。どうしようとおまえの勝手だ。私は手出しせん」
 ヴァレインは恐怖も忘れ、ぱっと顔を輝かせた。無論、手渡されたものが猛毒を潜ませた罠であることなど、気付くべくもなかった――

*
 ◆ 第一章 封じられし存在 ◆ に続く


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