サリディア、セルリアード、ディテイルの三人はノーザンシティへと戻って来ていた。
ⅰ
「セルリアード、あの……話があるの」
昨日から色々あって疲れてはいたのだが、どこか落ち着かずに夕方頃、声をかけたのはサリディアだ。
セルリアードは居間のソファに腰かけて物思いにふけっていたが、静かに頷いて立ち上がった。
そのまま姿を消す二人を、ディテイルがぼんやりと見送っている。
「博士……」
「何だ？」
ディテイルは自分で声をかけておきながら、しばらく沈黙していた。それから尋ねる。
「博士は、このままサリサとセルリアードがくっついちゃってもいいんですか？」
「？ 別に構わんが」
横で、ラーテムズが面白そうに２人の会話に聞き耳を立てている。
「まあ、サリディアも頭は回るがあれで結構無茶だからな。抑えがほしいとは思っていたし」
「……セルリアードが抑えになるんですか？」
「代わりにやってくれるだろ」
と、これはラーテムズ。博士は肯定するでも否定するでもなく、そらとぼけていた。否定はしていない。
「……」
ディテイルは少しだけ、博士がわからなくなったような気がしていた。科学者って、不思議だ……。
居間でそんな会話が交わされているとは露知らず、サリディアの方はどう切り出したものかとずっと黙ったままだった。
セルリアードも自分からは何も言わず、彼女が何か言うのを待っているような感がある。
「あの、私……」
サリディアは覚悟を決めると、いきなり頭を下げて一息に言った。
「ごめんなさい、許して下さい！ むしがいいのはわかってるんです。でも……」
膝や声が震えてしまいそうになるのを、彼女は必死にこらえた。
「このまんまはいやなんです！ お願い……」
あれから、必要最低限しか口をきいていなかった。もはや無効であろう約束と、確実に有効な彼への罪悪感。それらが彼女を阻むのだ。彼に声をかけたい彼女を阻み、さらには苛む。
「……ふうん」
冷たく、皮肉げに彼が言った。
それはズシンと重く彼女の心にのしかかり、彼女は顔すら上げられなくなった。ただひたすらに涙をこらえる。
彼が優しかったから？
だから、取り戻せるわけがないのに取り戻せると――
「自分に都合のいいことしか、思い出さないんだな」
目の前が真っ暗になったような気がした。頭が麻痺して、体の自由がきかない。
「サリディア!?」
真っ青な顔をして卒倒しかけた彼女を、セルリアードがあわてて抱き留める。軽い後悔がその顔に見て取れた。ついやり過ぎた。冷たくしたら、もしかしたら泣くかと思って――
忘れられていたお返しに、理不尽とは知りつついじめてしまった。
「ばか。許すも許さないもないだろう？ だいたいあの実験手順を指示したのも、おまえの記憶を消したのも、私だったんだから」
サリディアが泣きそうな顔でセルリアードを見返す。
「首飾りは、持ってる？」
頷きかけて、サリディアははっと目を見開いた。
「あの後、会わなかった……？」
彼女は、実は首飾りを２本とも持っているのだ。１本は、確か随分前に森で男の子に……。
「会ったよ」
セルリアードはあっさり肯定した。正確には会ったのではなく、会いに行ったのだ。母が死んだ日に。
あの頃、サニエルは既におかしくなっていて、子供たちはただただ母を亡くして途方に暮れた。慰めも、悲しみの乗り越え方も知らぬまま。
セルリアードは半ば無意識に外に出た。昔よく歩いた道を、途切れかけた記憶を頼りに追っていく。もうどのくらい歩いたかもわからなくなって――森で遊んでいる彼女を見つけた。
けれど、そこまでだった。
今彼女の前に姿を現しても、彼女は彼を覚えていない。
――何やってんだろ、こんなとこまで来て――
どうしようもなくて、彼は木の陰で声を殺して泣いていた。
「誰かいるの？」
ふいに、彼女の方から声をかけてきた。泣き顔なんて見せたくない。彼はあわてて顔を隠した。
「来るなっ！ おまえなんかきらいだ！」
少女が怯えたように歩みを止める。彼女の記憶を閉ざしたのが彼自身であるとは知りながら、彼には許せなかった。彼女が彼を覚えていないことが。
「どっか行けよ！ おまえなんか、おまえなんか大っ嫌いだ!!」
立ち止まったまま動かないサリディアに、セルリアードは刺のありすぎる言葉を投げつける。
大好きだって言ったくせに！ それも覚えてないなんて――！
「ごめ……ごめん……」
ぐしゃぐしゃになって泣きながら、サリディアが謝った。
許すもんか。思い出すまで、僕の名を呼ぶまで、許してなんてやらないんだ――
それは、むしろ亡き母への怒りだった。
『あなたたち２人は、母さんの宝物。だから誰より、幸せになって――』
その言葉を最後に、もう二度と目を開けることのなかった母。宝物だから、愛しているから何だというのだ。本当に愛しているなら、どうして一緒にいてくれない？
リシェーヌは泣き疲れて眠ってしまった。父と２人でいるのは、なぜか怖かった。
けれど、結局ここでも自分は独りなのだ――
「ごめんね、あっち、行くから……」
彼は反射的に顔を上げた。あっちに、行く？ それは……いやだ。――独りはいやだ!!
「行かないで！」
サリディアが驚いて歩みを止める。
「あ……」
呼び止めてはしまったものの、次に出す言葉が見つからない。
「そこに……そこにいて！ おまえ、きらいだからそれ以上近付いちゃだめだけど……そこまでなら許してやる！」
サリディアはしばらくそこに立って木の向こう、声のする方を眺めていた。
寂しい？
彼女はそっと、ひんやりした太い木の幹に手を触れた。
一緒に……誰でもいいから、ただ、一緒にいてほしいんだね……。
サリディアはくるりと反転し、太い木の幹に背中を預けた。寂しいなら、独りがいやなら、気が済むまで一緒にいてあげたい。一緒にいてあげる。前に、誰かそうしてくれたから。それが、言葉にできないほど嬉しかったから。
どのくらいの間そうしていたのか。セルリアードは静かに立ち上がった。胸の、艶やかな鍾乳石を握りしめて。
サリディアは眠っていた。あどけない少女の寝顔に、彼の決心はひどくぐらつく。
だけど、僕は立派な魔道師になるんだから――
この石を持っている限り、彼は彼女がもう彼のものではないと、もう彼を覚えていないと認める気になれない。そんなことではだめなのだ。もっともっと強くなって、そしていつか――
そのためには、こんなことを繰り返してはいられない。
セルリアードは静かに、サリディアにその涙型の鍾乳石を握らせた。う、ん、と唸ってサリディアが薄く目を開ける。
「……セーちゃん……？」
ドクン――
心臓が大きく跳ねた。
金縛りにあったように動けなかった。
そんな彼に、彼女の無邪気な寝ぼけまなこが向けられる。しばらくして、彼女はわずかに小首を傾げた。
「だれ……？」
その瞬間、彼の金縛りは解けた。
「前に、会ったことあるよね。もう、寂しくない？」
「それ――前に会った時にもらったの、返すよ」
言われて初めて、サリディアは手の中の石に気が付いた。ちょっとそれを眺めてから、もう一度興味深げに彼を見る。
「私、同じの持ってるよ。ねえ、だれだっけ」
セルリアードは目の端にわずかに涙を浮かべ、笑った。
「もう、いらないんだ。僕は――きっともう会わないよ。さよなら」
最後の方はひどく早口だった。彼はくるりと踵を返すと、タっと駆け出した。
「あ……行っちゃだめ！ だめだったら、行かないでっ……そっち……」
セルリアードは無我夢中で駆けていた。ふり向いちゃだめだ。ふり向いたら、きっと――
いつまでも、あんなもので彼女を縛ることなどできない。いつか、その効力は失われるのだから。ならば、今返してしまう方がずっといい。形あるものなんていらない。僕は、あの子を忘れない。
そして、またいつか出会えた時に、もし心の片隅にでも、彼女が彼の記憶を残していてくれたら。その時は――
後でだが、この時の彼女のセリフは、その後の彼の運命を予感してのものだったのかもしれないと、思った。
＊
セルリアードはしばらく、どこかこの世ならぬ世界でも見ているような不思議な瞳をしていた。
「……夢は、叶いそうか？」
突然話がとんで、サリディアは瞬きした。
「うん。天才かどうかはわからないけど……」
ふと、サリディアは気が付いた。あの頃の空気が戻っている。なんだか嬉しくて、自然に笑みがこぼれる。
「父さんが今、今後アルンの援助で研究できるように手続きしてくれてるの。雇ってくれる？ 最高魔道師になり損ねちゃったアルンの宰相様」
セルリアードがくすっと笑う。
「それじゃあ、魔道都市サン・エリスン征服にでも乗り出してみようか？ 幸い、それにふさわしい手駒もそろってることだし」
戸口の方へと歩きつつ、彼はそう言った。どうする？ とでも問いたげな瞳を肩越しに彼女に向ける。
それが妙に誘惑的な仕種であることに、本人は気付いているのだろうか。
「先に謝りたいな。父さんとおばあちゃんと、それから、亡くなってしまった人たちに――」
それには彼も頷いた。彼女はそれでいい。セティス博士と彼を愛していた人達にだけ、済まなく思っていればいいのだ。
「サリディア……」
セルリアードはそのまま戸口まで歩くと、くるりと反転してサリディアの方に向き直った。
すっと左手を胸に当て、右腕を広げる。
「お姫様、約束通り魔法の国からお迎えにあがりました。約束は覚えておいでですか？」
サリディアの瞳が驚きに丸くなる。胸の鼓動が速くなる。
「途中道が崩れ、たやすく戻ることはかないませんが――」
セルリアードの手が差し伸べられる。
「きっとお連れします、私の国へ――ついてきて頂けますね？」
信じられなかった。
彼の手が取れない。これは夢で、その手を取ったとたん夢は覚めてしまう、そんな気がして――
セルリアードの指先が促す。おいでおいでと彼女を誘う。
「返事は？」
顔が上げられなかった。顔を上げたら、その瞳を見たら、彼の魔法に捕まってしまう。それとも、もう捕まっているのだろうか？
「返事は？ サリディア」
サリディアは、ふと目を上げた。穏やかに彼女を見つめる、一人の少年と目が合った。とたん、震える手は、まるで彼女のものではないかのように勝手に動いた。
彼女が手を乗せると、彼はしっかりとそれを取った。
「木の葉の最初の一枚が紅く染まったら――あなたを連れに来て、構いませんね？」
「はい」
サリディアはそのまま左手で顔を覆った。泣いている理由など聞かれても、絶対に答えられやしないから――
ⅱ
「ただ飯食らい、夕飯だから呼んできてくれ。お嬢様とセルリアード」
自分こそ２人を呼びに行ったはずのラーテムズがそう言いながら戻ってきたのは、ディテイルがやっと荷物の整理をつけた頃だった。
「あれ、ラーテムズさん、あの２人呼びに行ったんじゃなかったんですか？」
「お前もいつもいつもセルリアードに手玉に取られていてはたまらないだろうという、この心遣いがわからないかな」
「はぁ？」
ラーテムズはこともなげに告げた。
「仲良く寝てるよ。立て続けに色々あったし、疲れてたんだろう。今なら私にでもセルリアードのやつ、殺せるかもしれないな」
しばしの間があいた。
「はあ!?」
ラーテムズはそんな彼を完全に無視して、さっさと手を洗いに部屋を出て行こうとする。
「じょ、冗談じゃないっ！ そんな、仲良く寝てるって……何でそんなに冷静なんですか！」
顔を真っ赤にしてディテイルが非難する。いくら変わり者の科学者であるとはいえ、そんな、こんなことでいいわけが――
「ほら、さっさと呼んでこいって」
そう言い残して、彼はさっさと行ってしまった。
もはやパニックだ。確かに、あの２人にはうまくいってほしいと思っていたけれど……しかし、それとこれとは話が別だ。あの２人に限って、そんな、早まったことはしないと――
珍しくさんざんためらった末に部屋の戸を開けたディテイルは、自分がていよくからかわれたことを知った。
「な……んだ……」
緊張していた分、脱力感もひとしおだ。
まあ、確かにラーテムズは嘘はひとつも言わなかった。確かに２人は、仲良く眠っている。仲良く。まるで２羽の天使のような、あどけなくも幸せそうな寝顔で。
しかし……。
茫然とそれを眺めているうちに、ディテイルは何だかおかしくなってきて、どうにもならなくなってしまった。妙にかわいくて。これは、やはりラーテムズに感謝すべきかもしれない。
ディテイルは大きく息を吸い込むと、叫んだ。
「起きろー！」
「俺、あれやめるよ」
「あれ？」
夕食の席で、ディテイルが妙に神妙な口調で言い出した。
「美人で優しくて魔法の使える女の子なら誰でもいいってやつ。やっぱり、そういうの良くないと思ってさ」
「そうか」
別に、サリディアに幻滅したというわけではない。むしろ、セルリアードさえいなければ、手に入れたいと思う気持ちは初めて会った頃より強いくらいだ。けれど――。
さっき２人の姿を見た時、急に自分が虚しくなってきたのだ。こんなにも自然で温かな結びつきを、そんな方法で手に入れることができるものか、と。
ⅲ
翌日の早朝、彼らは近くの湖のほとりに集まっていた。いよいよ、リシェーヌの復活を試みるのだ。
湖の東側――そこはちょっとした空き地になっていて、朝の涼風に丈の低い草が揺れている。リシェーヌはここまで、セルリアードが手を引いて連れてきた。
「ぬかるなよ」
言って、ラーテムズがセルリアードの肩を叩く。
「ええ。そっちこそ、術に巻き込まれても責任は持てませんから」
珍しく、ラーテムズがきょとんとした顔をした。
「知ってると思ってたんだが……私には、魔力はないぞ」
「知ってますよ」
リシェーヌの復活は、彼女に宿った魔性を封じ込めることで行う。それをそっくり排除した場合、もともとわずかとはいえ魔族の血が流れているため、精神に影響が出るのだ。最悪気が狂う。
ともあれそういうわけで、術に巻き込まれて何かあるのは魔族の血を引く者のみだ。ただの人間なら、何ら影響はないはずだった。
「ただ、上手に隠してはいるようですけど――ほら、そこに黒いしっぽが」
「ほ……よくわかったな」
「漫才はいいからさっさとやれよ！」
ディテイルの言葉に、２人はケタケタと笑い出した。こいつら、絶対同じ性格してやがる――この時、ディテイルは確信した。
セルリアードはリシェーヌを除いた全員を下がらせると、その場で足を踏ん張った。胸の前で印を結び、精神を集中させる。
「
クラティ」
リシェーヌの首にかけた紫色のペンダントが光った。ペンダントは向けられた魔力を吸収し、定められた呪力へと変換する力を持っている。
ガーッ！
突如魔獣が牙を剥き、苦しげにのたうった。時折濃紫の光が爆ぜる。
バチバチバチッ
紫色の、稲光のような閃光が立ち上がった。セルリアードの表情に、わずかながら険しいものが加わる。予想以上の抵抗だ。
バヅッ！
一瞬の衝撃波。標的に拒まれ、魔獣を覆うべき呪力は行き場を失った。今しも術者の制御を離れんと、その勢いだけが増していく。
――失敗する！
サリディアは直感的にそれを悟り、夢中で魔獣――リシェーヌに駆け寄った。
「リシェーヌ！」
ブン！ と勢い良く魔獣の腕がサリディアに襲いかかる。彼女は紙一重の所でそれをかわし、逆に抱え込んだ。
「一つの体に幾つもの意識が共存するのは無理だよ！ 魔族が抵抗するに任せないで！」
びゅんっ
唸りを上げて振られる尻尾を、サリディアは至近距離で無理やりかわした。
「サリディア！ 無茶だ、戻れ！」
博士が呼ぶが、サリディアは魔獣の腕をつかんだまま放さない。
「お願いだから協力して！ もし抵抗されたら、術は術者にかえるのよ!? セルリアードに、術がかえっちゃうんだよ!?」
わずかに魔獣の動きが鈍った。リシェーヌは優しすぎるのだ。彼女自身が魔獣の意識を封じようとしなければどうにもならないのに、それができない。封じられる意識がかわいそうで……。
ガウッ！
魔獣の牙が、サリディアの肩に食い込んだ。尻尾と腕に気を取られていて、さすがによけそこなった。
「ウゥ……」
しかし、次の攻撃は来なかった。彼女の肩に食らいついたまま、魔獣は動きを止めた。
「リシェーヌ、お願い……戻ろう、３人で」
サリディアは、魔獣になっても澄んだリシェーヌの碧い瞳を見つめた。
「知ってるよね。セルリアードがどんなに優しいか。あなたや私のために、どんなに――」
魔獣はただ、サリディアの肩が赤く染まっていくのを見つめていた。
「魔族と人間は相容れない。いくら共存を望んでも、どうにもならないことだってあるよ。リシェーヌは今幸せ？ 魔族は？ 無理な共存は、お互いを苦しめるだけだよ！」
いつの間にか、魔獣の瞳が濡れていた。それが魔族の流した涙が、リシェーヌのそれかはわからない。わからないけれど――
その牙はサリディアの肩から外れ、唸りも間もなく消えた。
魔獣の体は碧と紫の光に包まれ、その光も、やがて消えた。
あとには、一人の少女だけが残された。
その場の全員が息を呑む。そこにいたのは、艶やかな絹糸のような黒髪と、碧の瞳を持った、世にも稀なる美少女だったのだから。
つと、リシェーヌはその指先をサリディアの肩へと伸ばした。碧くきらめく光がほとばしる。
「え……？」
光はきらめきながら弾け、それが収まった時には、サリディアの肩の傷は跡形もなく消えていた。
「リシェーヌ……」
それ以上は言葉にならなかった。瞳が潤んで、リシェーヌの影も歪んだ。
「……良かった……」
サリディアがやっと声を絞り出すと、リシェーヌはふわりと微笑んだ。
「ありがとう。それからごめんね、サリサ……」
サリディアはどうにも思いを言葉にできず、ただ首をふった。代わりに、用意してきたローブで彼女の体を包む。
「兄さん」
リシェーヌはゆっくりと、立ち尽くす兄の方へと歩いていった。その直前まで来ると、彼女は無言で兄の背に手を回し、その胸に顔を埋めた。
「兄さん……覚えてる。兄さんが言ってくれたこと」
「……リシェーヌ？」
セルリアードの声には、いまだこれは夢なのでは、と疑っているような響きがあった。おそるおそる、リシェーヌの華奢な体に手を回し、抱き締める。
「何を犠牲にしてもおまえの手だけは汚させない、守ってみせるって――だめだよ、兄さん。私の代わりに自分が犠牲になることなんてなかったのに――私なんか放って、行方をくらましてくれて良かったのに――」
セルリアードは何も言わなかった。言う必要などなかった。全てが、今、この手の中に――
「大好き、兄さん」
戻ってきた３人を、ラーテムズの拍手が迎えた。
ディテイルはやっと目隠しを解かれて、呆然とリシェーヌに見入っている。
「成功だな、ただし」
ラーテムズはぴっとサリディアを指さした。
「お嬢様は70点。その服、繕っても縫い目が目立ちますよ」
「……ごめんなさい」
サリディアは残念そうに謝った。怒られてしまった。
「違うでしょう」
セルリアードが割り込んだ。
「怪我をしたから70点。あんなふうに無茶されて、あげくに怪我されたんじゃ、見てる方がたまらない。サリディアは真に受けるんだから、遠回しな言い方しないで下さい」
ラーテムズはニっと笑った。
「残念。付き合いの長さに負けたな。お嬢様が５つの時から育ててるんだ、そのくらいも、それ以上も知ってるさ。真に受けてるようで、案外あなどれないんだぞ、お嬢様は」
「は？」
セルリアードの訝しげな視線と、ラーテムズの悪戯っぽい視線が彼女に注がれる。サリディアはこの２人、気が合うんだなあと思いつつ、
「同じですよね？ 怪我しないようにすれば、服も破れないし」
「ほら」
すかさずラーテムズが言った。
「私の勝ちだ」
セルリアードは見るからに文句ありげな視線でラーテムズを見た。今のは引き分けでしょう、と言いたいが、後から言うと言い訳めいてしまう。先に言い損ねたのが敗因だ。
しかし――
彼はひとり、ほくそ笑んだ。
奥の手がある。
「きゃ」
サリディアがびっくりして声を上げる。いきなり抱き寄せられたのだ。
「どっちの勝ち？」
どんどん腕の力を強めつつ、彼は面白そうに彼女に聞いた。
「え……わ……」
サリディアはもう大混乱で、しかもどんどん束縛が強くなるものだから、逃げたくてたまらない。
「セ、セルリアードの勝ち！」
途端、彼はふっと笑って彼女を放した。ラーテムズが呆れた顔で一言。
「おまえ、卑怯だな」
セルリアードも一言。楽しくてたまらなそうな顔つきだ。
「おかげさまで」
ⅳ
「水の魔道師？」
「おそらく。炎の魔道師を見つけてから、少々調べてみたんだが……」
リシェーヌが水の魔道師かもしれない、という博士の意見に、誰も動揺した様子は見せなかった。ラーテムズなど内心、少々呆れている。
『神法』のことにしろ、もっとこう、巨大な力を持つことへの恐れとか、使命感とかに潰されそうになる、というドラマティックな展開があっても良さそうなものなのに。彼が育てたせいか、セルリアードもサリディアも、妙なところで器が大きくなってしまった。ことの重大さを承知でけろっとしているところがある。
もっとも、ディテイルとリシェーヌ本人にいたっては、『伝説になるほど大きな力を持つ』というのがどういうことか、そもそもわかっていないに違いない。
「四元の魔道師の外見的特長および能力について触れた記述を見つけてな。『聖魔伝説』が動くのは、これで４度目らしい。炎の魔道師は、魔族、人間、妖精族の混血なのが特徴だ。使うのは最強の精霊魔法『神法』。その対が水になる。炎と同じ星巡りのもとに生を受け、碧の瞳と同じく碧の癒しの魔力、および結界術を持つ。彼女は、瞳と魔力の色が碧だろう。その上
極魔道師だ。どことなく炎の娘に似ているし、まず間違いないだろう」
セルリアードに曲がりなりにも神法が使えるのも、その影響だろうと博士は言った。
極魔道師、というのは呪文の詠唱なしで特定の魔道を操り得る者だ。セルリアードも一部の精霊なら呪文なしで動かせるので、やはり極魔道師と呼ばれる。これは大変稀な存在で、博士の知る限り、現在は魔道師協会、及び各国の宮廷魔道師クラスに数名確認されているだけだ。
「風の魔道師は翠の髪と翠の魔力を、地の魔道師は茶色の髪と白の魔力を持つそうだ。もっとも、いずれも過去３回がそうだったというだけで、必ずそうなのかはわかっていないが」
「茶色の髪……」
セルリアードはちらりと隣の少女を見た。
「何色だ？ おまえの魔力」
「翠」
彼が何を思ったのかは、想像に難くない。サリディアはちょっと申し訳なさそうに笑った。
「地の魔道師は、純白の魔力で全ての呪いと歪みを浄化する、『解放者』なんだって。炎と水が『守護者』、風と地が『解放者』って呼ばれるの。不思議だね。炎も水も、風と地も、力は反対なのに――炎と水、やり方は違っても、『攻撃を止める』のは同じなんだよね」
ちょっと考えて、セルリアードが頷きながら言う。
「受け止める水と、滅ぼして攻撃させない炎か」
「そう。風と地も、風は本来在るべき束縛から、地は本来在ってはならない束縛から、世界を解放するんだって」
「束縛から――」
一瞬不吉なことを考えて、セルリアードはあわてて否定した。いくら魔力があって茶色の髪でも、マーディラが地の魔道師なのはいやだ。いくら『束縛』という２文字がかけらも似合わない存在であっても、彼女が地の魔道師なのはいやだ。
いや、何となく……。
と。
「守らせて下さい！」
いきなりセルリアードからリシェーヌの手をひったくって、ディテイルが言った。
「……」
リシェーヌは首を傾げ、助けを求めるようにセルリアードを見た。
「兄さん、あの……」
「……おまえ、それ、やめるんじゃなかったのか」
セルリアードの問いに、ディテイルは耳まで赤くして反論した。
「守らせて下さいって言っただけだろ！ 邪魔するなよ！」
周囲が呆れているのがよくわかる。だけれど、腹も立った。こんなに綺麗で頼りない、優しげな
魔法使いの女の子 が目の前にいるのに、何で指をくわえて見ていなければいけないのだ。ずっと夢だった。こんな子を、かっこ良く守っていきたいと。
夢に手が届くかもしれないという時に、自分を抑えられるほど冷静でありたいとは、かけらも思わない。
「邪魔する気はないが……まあ、それなら自己紹介くらい、自分でするんだな」
「するよ！」
ディテイルはどこか不思議そうな目を彼に向けるリシェーヌに向き直り、気持ちのいい口調で言った。
「俺、ディテイルって言うんだ。十七で……今は色々あってサリサの実家に居候させてもらってるけど、そいつが危なっかしくて見てられないから、俺が面倒みてやってる」
セルリアードが吹き出しかけて小さくむせた。ディテイルは一瞬、その様子に何だよ！ という顔をセルリアードに向けたが、
「……ええと、兄さんの面倒見てくれて、私のこと守って下さるんですか……」
リシェーヌの言葉に、すぐ彼女に向き直って力一杯頷いた。リシェーヌが素直に頭を下げる。
「ありがとうございます、ディテイルさん」
彼女が何か誤解していることを、責めてはいけないのだ。彼女は十二の時から５年間、心の成長を止められていたのだから。
しかし、ディテイルは全く動じなかった。むしろ、その答えに十分満足している様子だ。
「俺のことは、ディテイルでいいから。何かあったら何でも言ってくれよな！」
＊
後でよくあんなことが言えるな、とラーテムズに小突かれたりもしたディテイルだったが、とにかく、彼は一生懸命だった。
セルリアードの方は嫉妬でもしているのか、時に他愛ない意地悪をしたりもするが、基本的に彼の邪魔をすることはなかった。むしろ、ただ、からかいたいだけなのかもしれない。
全てが順調に動き出していた。
もうすぐ、ノーザンシティでも水霊花が花を咲かせる。庭の水霊花が花を咲かせたら、それを持って祖父の墓参りに行くのだ。
そして、秋には――森の木の葉の最初の一枚が赤く染まった日には、きっと――
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