聖魔伝説3≪王宮編≫ アルンに咲く花

第12章 ――覚醒――

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≪2001.09.29更新≫

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 T
 サリディアが目指す魔道師協会に到着したのは、太陽が中天に差しかかろうとする時だった。ディテイルは良く眠っている。彼は今朝方まで徹夜で運転してくれたのだ。その間にサリディアは仮眠を取っておいて、今朝早く、ディテイルと交代した。
 サリディアは移動装置を建物近くの茂みに隠すように止めると、静かにそこから滑り出た。まずは、昨日の裁判の結果を聞きに行く。これは一人で十分だ。ディテイルには行動を起こす時に備えて、十分に眠っておいてほしかった。
 サリディアは早足に受け付けに向かって歩いた。どうしても、急かされるように足の運びが速くなる。やがてそれが見えた時、彼女は脇に今日の裁判予定と、ここ数日の裁判結果がまとめて張り出されているのに気が付いた。それを目で追って、サリディアは予想はしていたが、現実にはなってほしくなかった事実を知った。
 ――本日正午 火刑――
 本日正午!
 サリディアは真っ青な顔でふり返り、ぎょっとしている若い受け付けの男に早口に聞いた。
「今、何時なんですか!?」
 もし、もう終わってしまっていたら――!?
「今……? そろそろ正午で――ちょっと!」
 まだ間に合う!
 そう思った瞬間、サリディアは駆け出していた。しかし、突然の事態に驚きながらも受け付けがそれを許さない。ぎりぎりの所で彼女を捕らえ、受け付けの男がきつい口調で言った。
「勝手に入られては困ります! 身分証は!? 何の用なんです!」
 サリディアは相当混乱しながらも急いで身分証を取り出し、それを押し付けるようにしながら受け付けの手をふり払おうとした。
「入れて下さい! どうしてこんなに急ぐんですか!? あの人に、誰がいたんですか!? あの人をちゃんと知ってる、誰が――!」
 それまで身分証に気を取られていた受け付けは、瞬間、彼女の真意にほとんど直感的に気が付いた。同時に、心の表層では行かせるべきだと思いながら、より深い所でそれを妨害しなければ、と思った。せっかく危険な魔道師を――協会の役人すら、幾人も殺した魔道師を排除できるのに、邪魔させるわけにはいかない。
「誰のことです、落ち着いて下さい」
 長引く、そう悟るやいなや、サリディアは呪文の詠唱を始めていた。初めきょとんとしていた受け付けも、さすがに魔道師のはしくれだ。すぐにそれと気付いた。
「おまえ……!」
 しかし、それはわずかに遅かった。額に自由な方の手をかざされ、受け付けはすぐに気を失った。そしてそれを見届けもせず、サリディアは奥に向かって駆け出した。


 この一部始終を見ている者の存在に、彼女は気付いていなかった。彼は受け付けが眠らされたのにはさすがに驚いたが、もう正義感と好奇心でいっぱいだ。彼は少女が出てきた白い球状の物体に近付くと、急いで調べ始め、ほどなく幸せそうに眠りこけているディテイルの存在に気が付いた。開け方がわからないので、彼はそれを乱暴に揺さぶった。
 

 U
 アルンで水霊花が咲き乱れていたように、サン・エリスンでは春になると淡い薄紅色の花が人々の目を楽しませる。桜だ。
 その桜にぐるりと囲まれ、まるで中庭のような趣のある処刑場では、この期に及んでまだもめごとが起きていた。
「だから、釘で打てと言ってるんだ」
 先程から協会側のやり方に文句をつけているのは、あの、最初にセルリアードを火あぶりに、と提案した男だった。男はただ殺すだけでは気が済まないらしく、彼を束縛するに当たって縄で縛るのではなく釘で打て、と要求しているのだった。
 しかし、自首してきた上に全く無抵抗な者にそのような仕打ちをしたのでは、どう考えても夢見が悪い。そこまでしなくても、という思いが強い。当然、協会側は渋った。
「俺はなあ、血反吐を吐くような思いをして、やっとあの女と婚約までこぎつけたんだ!! 俺なんかに優しくしてくれたのは、あいつだけだったのに……なのに、こいつが台無しにしてくれた! こいつのせいで俺が一文無しになって、何もかんも一からやり直さないとならなくなって、ぐずぐずしている間に……あの女は、別の男と結婚しちまったんだ! 今さら賠償してもらったってなあ、俺の人生は狂ったまんまなんだよ!! あいつのそばでなら、あいつさえいてくれれば、違う人生が送れたはずだったのに……!」
 いくら協会側が渋っても、男は一歩も引かなかった。困り果てた顔で、役人がセルリアードを見る。彼はその視線に気付くと、穏やかに言った。
「やって下さい。それを望まれるほどのことを、私はしたんですから」
 淀みのない、澄んだ瞳でそう言われ、役人はますます実行をためらった。死刑執行人が、その任務を呪う瞬間だ。
「いい子ぶってんじゃねえ! 同情を引こうたって、そう上手くはいくもんかよ。俺は騙されねえぞ」
「いい加減にして下さい! あなたはいいでしょうよ。やるのは我々なんですから」
 その言葉を聞くと、男は暗い笑みを浮かべて挑戦的に言った。
「なら俺にやらせろ! それならいいだろう?」
 とうとう、男は最も欲していた死刑の執行権を手に入れたのだった。
 男は枷を解かれたセルリアードの腕を押さえさせると、喜色も露にその手首に長さ二十センチくらいの太い釘をあてがった。少々残念なことといえば、セルリアードが怯えを見せないことくらいか。しかし、やせ我慢に決まっている。男は心底、自分の人生を狂わせた相手が泣き叫ぶ様を見てやりたいと思っていた。すぐだ。もうすぐ、それが見られるはず――
 男が槌をふり下ろす瞬間を、正視できた者はほとんどいなかった。釘はやすやすと肉を裂き、そこに痺れるような痛みを残して突き抜けた。その男同様、それを当然の報いとして見据える者もいたが、その残酷さに眉をひそめる者の方が多かった。
 セルリアードはただ、息を詰めた。
「だめえ!」
 幼い少女の声が響いた。
 アリスンが目を覆った隙に、ニニはその手をすり抜けて処刑場に駆け込んだ。そのまま中央まで駆けて、悔しそうな顔をしている男を睨みつける。
「鬼! 悪魔! 人でなし!」
「何だと!? ガキが!」
 その手に深々と釘を突き立ててやったというのに、セルリアードが悲鳴を上げなかったことは、男を苛立たせていた。もっとも、セルリアードの方はそれを抑えてしまったために、逆にもはや声すら出ない。
「お兄ちゃんをいじめないで!」
「このガキ……ガキは引っ込んでろ!」
 言ってニニを突き飛ばそうとした男の手は、セルリアードのもう一方の手につかまれ、微動だにできなくなった。
「な……貴様……」
「相手が……違うでしょう」
 まだ無視できない痛みが残っているため、ひどく抑えた声でセルリアードが言った。完全に優位なはずなのに、男は気押された。
「……けっ」
 男は興ざめしたように、ニニは放っておいてもう一本、釘を手に取った。途端にニニがやめさせようとする。
「邪魔だ!」
 あわてて駆け寄ってくる母親めがけ、男は乱暴にも少女を蹴飛ばそうとした。
「やめろ! 負け犬がっ」
 誰もが驚いた。
 処刑を控え、釘さえ打たれた者のそれとは到底思えないほど、強い口調だった。
 それは動けない身で男の動きを止めるため、彼自身に注意を戻すために投げつけられた暴言だったが――
 狙いは違わず、男はニニのことは一瞬で忘れたが、逆上して手にした釘をふり上げた。
「何をする気ですか! もうやめて下さい、ラゼルナさん!!」
 もし協会の役人が止めに入らなければ、男は、セルリアードの目にそれを突き立てていたに違いなかった。しかし、いい加減周囲はうんざりしていたのだ。これ以上は、かえって自分たちがみじめになるだけだ。
「あなたは御立派ですよ。あの人が怒り狂うことくらい、わかっていたでしょうに……。あなたを救えなくて残念です」
 役人の言葉に、彼はわずかに微笑した。もし彼に傷つけられた人々が、そう思ってくれるなら。許してくれるなら。それ以上の救いはない。
 彼らがもう一度、なくしたものを取り戻してくれるなら――
 それ以上の救いはない。
「――後悔はしていないんですか? こんなことになって」
 セルリアードはしばらく沈黙していた。それから否定した。
「していません。これで良かったんです」
 役人は彼が自首して、弁解もせずに死罪を受け入れたことについて尋ねたのだが、そうと知っていながらセルリアードは別の意味で答えた。罪を重ねてきたことを、後悔はしていない。少なくとも、あの子リシェーヌが同じ目にあうより随分ましだ。それだけは確かだった。
「そうですか……」
 役人は残念そうにつぶやいて、そこを離れた。薪が積み上げられ、油がまかれる。
 ニニはアリスンの手でもとの場所まで引き戻されていたが、その行為は多くの人に改めて、彼を殺したくない、という事実を痛感させた。しかし、今さらどうしてやめろと言えようか。
 手遅れだった。
「ご冥福を……」
 こんな言葉がこんな場所で発せられるなど考えられなかったが、それは皮肉でも何でもない、心からの言葉だった。積み上げられた薪が四隅から点火され、炎があっという間にその表面に燃え広がった。
 銀の、哀しき罪人つみびとを天に還すために。
 

 V
 ……チッ……パチッ
 刑場の中央に燃え広がった朱色の炎は、時折薪の爆ぜる音を響かせながら、いよいよその熱と勢いとを増そうとしていた。
 炎に煽られ、銀の糸が舞い狂う。それは凄絶なものではなく、むしろ浄化の炎が燃える聖域を思わせるような光景だった。
 しかし、ここは聖域でもなければ炎は幻でもない。いく筋も伝う玉の汗が、彼の苦痛のほどを音もなく証明していた。
 ふいに吹き抜けた風が、わずかに桜を散らした、刹那。
「やめてぇ!!」
 絶叫が響き渡った。
 見れば刑場の入り口に、いつの間にか一人の少女が立っていた。肩で息をする彼女の顔は痛々しいほど蒼白で、恐怖と疲労のためその体は小刻みに震えていた。
「セルリアード!!」
 叫んで、サリディアは再び駆け出した。消火用に用意してあった水をかぶり、一直線に炎に向かって走る。
 誰にも止められなかった。
 止める暇も隙もなかった。
 彼女はためらうことなく燃え盛る炎の中へと飛び込み、炎はこんな二人などすぐにも飲み込んでしまいそうに揺れていた。


「サ……リディア……?」
 すぐには自分の目と耳が信じられず、セルリアードは茫然とつぶやいた。
 いくら濡らしてあろうと、まともに炎の中に突っ込んだのでは話にならなかった。ジュっと音を立て、水はあっという間に蒸発していく。
「ばか! どうして魔術を使わない!?」
「だめなの! この間使い過ぎて、やっと少し戻ってた分もさっき使っちゃって……」
 無慈悲な炎は、少女と言えど容赦なしだった。耐えられるはずなどないのに、サリディアは彼を解放するまで、ここを動かない気なのだ。
 ズッ
 直後、脆くなった足場が崩れた。あっと、微かな悲鳴とも吐息ともつかない声を漏らして、サリディアは均衡を失った。
「サリディア!!」
 そのまま、彼女の体は大きく後方に傾いた。炎の塊がそれを迎える――

 カッ!!

 眩しい閃光が人々の視界を照らした。突如風が起き、燃え盛る炎すら吹き消して、その周辺全てに吹きつけた。
 瞬間的な熱風に顔を背けた人々が次に見たのは、風に煽られて雪のように舞い散る桜だった。
 薄紅色の花弁が、細く静かに乱舞する。
 その中央に二人はいた。半ば薪に埋もれるようになりながら、互いをしっかりと抱き締めて。

     *

「……そつき……嘘つき!」
 セルリアードの胸に顔を埋めたまま、サリディアは涙を止めようとも思わなかった。
「そばにいてくれるって、そばにいてくれるって言ったのに……!」
 愛しさが込み上げて、抱くまいと思いながらも彼には彼女がはなせなかった。
「済まない……もう、来ないと思ったから……」
 サリディアは顔を上げ、責めるような目で彼を見た。
「来ないわけない! 私が――……あなたより大事なものなんて、何も……ないんだよ……?」
 溢れる涙が止まらない。サリディアは顔を伏せた。
「サリディア……」
 どんなに言葉を並べようと、言い尽くせない思いはある。セルリアードにはわからないのだろうか。こんなに近くにいるのに――違う。きっと彼女と同じ。多分、ただ相手の気持ちに自信がなかっただけなのだ。


 彼女が来てしまったことを――彼女を傷つけるかもしれないことを、悔やむ気持ちは消えていた。それは間違いだったのだ。彼女の瞳は強く前だけを、真実だけを見つめているから。彼女は傷つくことを厭わない。彼女にとっては痛みすら、命の大事な一かけなのかもしれない。
 大事な――
 守りたかった。妹も、手にかけた多くの夢も。
 力及ばず、身は血にまみれてしまったけれど――


 ふと、サリディアはいつの間にか焼けつく痛みが薄れているのに気が付いた。二人を、世にも優しい光が包んでいる。
 これは――。
 癒しの力だった。限りなく優しく、そして懐かしい。セルリアード本来の魔力が癒しであることを、サリディアは初めて知った。彼は呪文を唱えていない。先程のように意識を集中してもいない。ごく自然に癒しの力が使えるのだ。けれど、それは妙に納得のいく事実でもあった。彼はいつだって、誰より傷つけることを厭っていたのだから。
 ためらうように、セルリアードの腕が弱まった。思い出したのかもしれない。己の手が血に染まっていることを……。
 彼女は緩んだ彼の腕を抜け、人々の方へと向き直った。折しも役人が、呻くような声で言った。
極魔師マスター……」
 絶対に風が起こった時、誰も呪文の詠唱などしていなかった。それはあの二人のどちらか、あるいは双方が極魔道師であることを意味している。呪文なしでも多少威力が落ちるとはいえ、魔道を操れる者――それが極魔道師だ。
 数少ない魔道師の、さらに稀少な存在だった。
「……おまえは何者だ?」
 内心の動揺を極力抑え、役人が質問した。刑の執行を妨害するなら、少女と言えど捕らえねばならない。
「サリディア・メルセフォリアと言います。都合でどうしても昨日は来られませんでした。お願いです、彼を弁護させて下さい」
 刑場がどよめく。しかし、役人は首を横にふった。
「それはできない。もう裁判は終わってしまった」
「…………それなら!」
 サリディアの目に、覚悟にも似た光が差した。怒りや憎しみではなく、悲しみと痛みに満ちた目だ。一途に何かを思い、決断した瞳。
 サリディアの手が、きゅっとセルリアードの服の袖をつかんだ。
「この判決は飲めません。判決が覆らないなら、この命ある限り――罪でも、刑の執行は妨害します。……この人を……この人を、殺さないで!!」
「なっ……」
 役人が絶句した瞬間、別の魔道師が鋭く言った。
「その娘、意識操作をされている!」
 一気にその場の空気が変わった。それまで彼女の出現で、いよいよこれは何かの間違いでは、という空気が広がっていたために、裏切られたような感がある。
魔道解除クロス・マジックを!」
 一方、にわかに緊張する周囲とは裏腹に、当人たちはやや気の抜けた顔を見合わせた。心当たりはない。
 役人はその指摘に従って魔道解除の呪文に入っていたが、2人にそれを妨害する気はなかった。害のある術ではないからだ。
「あ……」
 ふいに、何か思い出したような声がセルリアードの口から漏れた。
「何……?」
 突然のセルリアードの行動に、誰より驚いたのは他ならぬサリディアだった。力ある言葉たちが、真似できないほどの速さと正確さで紡ぎ出され、魔力が集中していく。彼は突然、対抗呪文の詠唱に入ったのだ。
「何かする気だぞ! 取り押さえろ!」
 もちろん周囲もそれに気がついた。しかし、本気を出した彼を誰に止められようか。
 トッ
 妨害したのはサリディアだった。その細い指で、彼の額の中央を突く。瞬時に、まだ不完全だった魔力は拡散した。
「やめて」
 彼が何のつもりで止めに入ったのか、それはわからない。けれど、ここで何かすれば彼の立場は絶対的に悪くなるのだ。そして、彼はおそらく――
 父の心配そうな顔が、言葉が思い起こされた。瞳を不安にかげらせながら、それでも彼女は彼を妨害した。きっと、彼らは何か隠していたのだ。彼女を傷つける何かを――


魔道解除クロス・マジック!」
 翠色の炎がサリディアの体から立ち上った。それは熱は全く伴わない、サリディア自身の魔力の光。もはやかけらほども残っていないと思われた彼女の魔力は、いまだ思わぬところで消費されていたのだ。彼女自身の魔力を利用した、半永久的な記憶の封印――
 それが解かれた今、記憶は急速な復活を果たそうとしていた。その奔流が、一気に彼女に押し寄せる。
「サリディア……」
 茫然と佇む彼女に差し伸べられたセルリアードの手は、反射的な動作でふり払われた。
 彼女は徐々に目を見開き、そして――
 身を裂かれたような悲鳴がほとばしり出た。
 

 W
 サリディアは庭で一人、少年が来るのを待っていた。
 庭には咲き始めの桜をはじめ、多くの花が咲き乱れている。けれど、肝心のどうしても今ほしい花、アルンの国花である水霊花はまだ蕾さえつけてはいなかった。おそらく本場アルンでは、もう咲いているのだろうが……。ここカティラの春はアルンよりも幾分遅い。だから、間に合ってくれなかった。明日の祖父の誕生日に。
「おかしいな……」
 時間をしきりに気にしながら、サリディアは不安げに首をひねった。今まで彼が時間に遅れたことなど一度もなかった。むしろいつも、まだ彼女が寝ぼけているうちにやってきて、先に花の世話などやっておいてくれるのに。そう。一年前父にねだってこの花の苗を手に入れてもらって以来、明日のためにニ人で丹精込めて世話してきたのだ。しかしニ人とも、大事なことを知らなかった。アルンで四月初旬に咲く花なら、ここでは下旬。いくら祖父が好きな花でも、早く咲いてほしいと願ってみても、どうにもならなかった。
「もぉ……。私、一人でやっちゃうよ」
 彼女は少々口をとがらせて、少しすねた声でつぶやいた。時間がかかると言ったのは、彼の方なのだ。そろそろ始めないと間に合わないのに――。
 今日、彼女の父親たちは薬品やその他諸々の買い出しに出かけていて、いなかった。いるのは祖父と祖母と家政婦だけで、だからこそ今日を選んだ。
「ほんとに、一人でやっちゃうからね」
 彼女は立ち上がると、実験室に向かって駆け出した。


 W−@
「ありがとね、お兄ちゃん」
 サリディアがセルリアードと知り合ったのは、その一年前、彼女が8つの春だった。
 池に落ちた彼女を引き上げてくれたのが彼だった。
「一緒に池に落ちる気はなかったんだけどね」
「こら」
 服をしぼりながらそう言った彼の頭を、サニエルが小突く。
「うん、ごめんね。こわくって」
 サリディアはてへへっと笑った。セルリアードはちょっとそんな彼女を眺めていたが、ふいに珍しいものでも見るような顔で言った。
「おまえ、可愛いな」
「うん?」
 保護者たちがちょと驚いたように顔を見合わせる。しかし彼は平然としたもので、どうやら見たままの感想を言ったらしかった。
「名前は? 僕はセルリアード」
「せ……?? 私はサリディアっていうの。でもお父さん以外はみんな違うので呼ぶけど」
「違うの?」
 サリディアが不思議そうに頷く。
「おじいちゃんはサリサって呼ぶでしょ、ラーテムズさんとバルダさんはお嬢様って呼ぶし、トラバスさんは子供、とかこまかいの、とか、あと博士の孫とかって呼ぶの」
「……」
「こまかいってどういう意味なのかなぁ。ラーテムズさんも、よくお嬢様はこまかいんだからちょろちょろなさらないで下さいって。私、ちょろちょろなんてしてないのに……」
 きっとちょろちょろしてるんだろうなー、と、サリディアには悪いがセルリアードは漠然と思っていた。
「ねぇ、遊んであげようか?」
「ほんとっ!?」
 何気ない言葉だったが、とたんにぱっと少女は顔を輝かせた。ちょっと面食らいながらも、セルリアードも顔を綻ばせる。しかし、こんなに喜ばれると妙に裏切ってみたくなるもので。
「嘘」
 少女は傷ついたような、あるいはやっぱりね、とでも思っているような顔をした。ひどくがっかりした顔で、しょんぼりと黙り込む。
 ――傷つけた?
 サリディアが目に涙さえ浮かべているようだったのは、セルリアードを途惑わせた。こんなことくらいでどうして……?
「こら、セルリアード!」
 しかしサニエルに文句を言う暇は与えず、セルリアードは行動に出た。さっと手を伸ばしてサリディアの手からマリを奪い、そのまま柵をひらりと飛び越える。
「やっ! 返してっ」
「追いついたら返してやるよっ! 泣き虫毛虫には返してやんない!」
 サリディアはすぐにぐいっと涙を拭うと、その瞳を挑戦的にきらめかせた。そして服も乾き切らないうちに彼を追って走り出す。しかもさすがにこまかいと称されるだけあって、運動神経もいいようだった。器用に柵を乗り越えている。
「……子供は元気だな」
 サニエルの言葉に、サリスディーンも深々と頷いた。
「まったく。本当に、年頃になればしとやかになるものかな」
 さあ? そう言って首を傾げるサニエルも、そしてサリスディーンさえも、まだこの安定した平和があれほど脆く崩れようとは思っていなかった。
 
 
「あれ?」
 セルリアードはふと立ち止まってふり向いた。いつの間にか、追ってきていたはずのサリディアがいなくなっていた。
「ふり切っちゃったかな……」
 相手は8歳の女の子だ。それなりに、手加減して走ったつもりだったのだが。
「捕まえた!!」
「わっ!?」
 声は足元から聞こえた。
「な、何で下からわいて出るんだよ!?」
 サリディアはえへへーっと笑う。
「ここ、秘密の抜け穴なの。お父さんたちも知らないんだよ。セーちゃんにだけ、特別に教えてあげるね」
 そう言うと、彼女は再び穴の中へと飛び込んだ。
「……セーちゃんって……」
 しかし、秘密の抜け穴と聞いて喜ばない子供はいない。セルリアードもその例外ではなかった。
 穴はちょっとした、どころかかなり大規模な鍾乳洞になっていた。ひんやりとした神秘的な佇まいは、強く子供の冒険心をくすぐる。
「すごいでしょ? ここ、すっごく広いの。まだ奥までは行ってみてないんだけど」
 冒険心がくすぐられるのは事実だが、こう暗くてはそれをためらうのも当然だった。
「もったいない! 行こうよ」
 セルリアードは興奮で上気した顔をサリディアに向けた。信じられないくらい綺麗な場所だ。どこからか伝わってくる水音や、冷たく心地良い微風。
「ほんと!? 私も行ってみたかったんだ。でも、一人じゃこわかったの。待っててね、家から明かり持ってくるから」
 言って駆け出そうとしたサリディアの手を、セルリアードが即座につかむ。
「いいよ、そんなの! 僕に任せて」
 セルリアードは得意げにそう言うと、高く澄んだ声で呪文を唱え始めた。すぐに輝く光の球が出現する。
「わあ、すごい! お父さんとおんなじだぁ」
「行こう! ほら、あそこに水が流れてるから追いかけてみようよ」
「うん!!」


 鍾乳石の合間や、時には1メートルもない天井と床の隙間を縫い、小柄な体をいかして進んで行く。
 そしてだからこそ、2人はそこにたどり着けたに違いなかった。その、綺羅の空間に。

     *

 夕方、2人はそびえ立つ大木のてっぺんから赤い夕日を見つめていた。世界が赤く染まっている。もうすぐ夜が降りてくる。
「楽しかったね」
 セルリアードは夕日を眺めたまま、静かに頷いた。その横でサリディアが手の中の石をもてあそんでいる。艶やかな乳白色の石。鍾乳石だ。
「もう、帰らなくちゃ……」
「また来る?」
 セルリアードは首だけ彼女に向けて微笑みかけた。
「来てもいいよ。また、父さんにくっついて来ればいいんだから」
「じゃあ約束。絶対ね!」
 セルリアードはくすっと笑うと、ふと思い出したように尋ねた。
「そういえば今朝、何で僕が遊んでやんないって言ったくらいで泣きそうな顔したの?」
「だって……」
 サリディアはちょっとばつが悪そうに言いよどみ、それからトントンと枝を伝って下り始めた。すぐに、セルリアードがそれに続く。
「みんな、遊んでくれないの。私、学校、お父さんの送り迎えだから……放課後遊べないの。だから、私が入ると続きができないんだって」
「……」
 本当は、それは言い訳なんだろうと思っている。彼女と遊ぶと仲間外れにされるから。だから遊んでくれないのだ。けれど、どうしてそうなのかがわからない。
「それに、何か違うんだって。そんなことないのに、どうせ相手にしてもらえないんだから、こっちも相手にするなって言って……セーちゃんもやっぱり、私なんかとは遊びたくないんだなって思ったら……何か、涙、我慢できなくて……」
 実際、同級生たちから見れば、どう見たって彼女は特別だった。自分たちは歩いて通っているのに送り迎えがある。国籍も違う。しかも彼女は飛び級で3年から編入していたから、余計に友達が作りにくかった。異質だったのだ、彼女の存在は。
 さらなる面倒は、子供たちにはこんな小さな相手なのに、彼女が強そうに見えてしまったことだろう。理解できなかったと言ってもいい。大人に、それも相当思慮深くて理論的な人々に囲まれて育ったために、彼女自身もそうなっていたのだ。
 そして子供は純粋な分、残酷だ。ちょっと違うかな、と思ったのが自分だけではないとわかれば、勢いを得て徒党を組んで疎外し始める。それが自分たちの連帯感につながるゆえに。相手が傷つく可能性など考慮しないし、むしろ相手が傷つけば、それによって自分たちの優位を確認してしまうことすらある。相手が自分たちより強いと思うがゆえに、力を合わせればこちらの方が強い、それをがむしゃらにわからせようとする。
「……泣くなよ」
「うん……」
 サリディアは頷いて歯を食いしばったが、ぽろぽろと溢れる涙は止まらない。言葉にしたために、かえって傷ついているのだ。それまでただ漠然と感じていたものを、言葉によって肯定してしまった。
 セルリアードはしばし困ったような顔で彼女が泣き止むのを待っていたが、ふと何か思いついた様子で彼女の前髪をかきあげた。
「……なに?」
 軽くその手を引いて、額に優しく口付ける。
「おまじない。母さんに教えてもらったんだ」
 それは不思議な魔法だった。凍えた心に春風が舞い込むような。
「ほら、涙、止まったろ?」
「あ……」
 先に立って歩き出した彼の後を追いながら、サリディアは本当に嬉しそうに笑った。そろそろ風は冷たくなり始めているが、胸の中はほかほかと温かい。
「今度来る時は妹も連れて来るからさ。もう泣くなよ」
「うん」


 小さな2つの影は初め森の中をてくてくと地道に歩んでいたが、ふいに速度を上げると、そのまま猫のようにしなやかに駆け出した。やがて、前方に白い研究所が見えてくる、その時まで――


 W−A
 それ以来、彼は言葉通り、時には妹も連れて研究所によく遊びに来るようになった。初めは人見知りしてセルリアードの後ろに隠れるようにしていたリシェーヌも、今ではすっかり馴染んで予定の日には朝も早くから2人してサニエルをたたき起こす。学校に行っていなかったため、セルリアードにしてもリシェーヌにしてもサリディアは初めての友達だったし、そうでなくても彼らはよく気が合った。
 夏には水浴び、秋には紅葉狩りや栗拾い、冬には雪や氷が彼らを楽しませる。3人は飽きもせず森に遊びに行き、時には鍾乳洞を探検したりもした。リシェーヌがいない時には2人で計画を立ててサリディアの祖父、セティス博士の立会いのもと、実験室を借りて化学実験や魔道実験もやった。若干十歳と八歳でありながら、すでに化学式が読めたのだ。
 しかし、それゆえの悲劇だった。
 

 W−B
 カチャリ
 サリディアはそっと実験室に忍び込み、まるで初めてのように部屋の中を見回した。胸がどきどきしている。一人でやるのは初めてだ。
「一人だって、できるんだから」
 サリディアは一人つぶやくと、あらかじめ手順をまとめておいた計画表を机に広げた。
 セルリアードに会った日から、今日でちょうど一年目。彼が約束しながら来ないのは、これが初めてだった。
 彼女は必要な道具を揃えると、一つ一つ丁寧に確認していった。誰の手も借りず、いつか一人で何か成し遂げたいと思っていたのは事実だ。けれど、その機会がこんなに早く訪れようとは、思ってもみなかった。
 ボッ
 器用にも一人でバーナーに点火し、サリディアは調合した薬品をゆっくりと温めにかかった。調合は順調に進んでいる。やはり、一人でもできる。
「えーと、あとはさっき作った方の薬を60度になったら混ぜて、落ち着くまでひたすら冷やす、と」
 きっかり60度になったところでそれを実行すると、予定通り、透明な青色だった液体がどこか不透明な赤紫色に変わった。これでいい。あとはこれを冷まして、最後にちょっと手を加えてやれば完成だ。
 しかし、サリディアはふと刺激臭に気が付いた。つんとした臭いが、やけに鼻につく。
 ――どうしよう――
 こういう臭いは危険なのだ。早く原因を突き止めてなんとかしなければ――今、調合したばかりのこれだろうか?
 サリディアは日頃父親から受けている注意に従って、手で扇いで臭いをかいでみた。くらっとするような、やや不快な痺れに襲われる。
 これだ。間違いない。しかし、どうすれば――
 冷やす?
 そうすれば、多分収まる。確か、冷やせばこれは結晶になるはずだから。けれど、そうしたら調合は失敗だ。もう明日までには間に合わない。
 だめ、そんなの。
 なんとしても間に合わせたかった。別に薬品同士が反応しているわけではないのだ。単に予想以上に気化しやすい薬品ができて――
 サリディアはぽんと手を打った。それなら話は簡単だ。フタをすればいい。彼女は早速手頃なガラス板で容器にフタをすると、空気清浄機を稼動させて部屋を出た。こういう臭いの気体が充満している部屋に、長居するのは良くないと思ったからだ。
「え……?」
 実験室の扉を閉め、とにもかくにも庭で待とうと、たかだか3段ほどの階段に足をかけた途端、足がもつれた。


「きゃあぁ! お嬢様!?」
 姿の見えなくなったサリディアを探していた家政婦が彼女を見つけたのは、それからすぐのことだった。サリディアは階下に倒れたまま、動かない。
 その悲鳴に、彼女の祖父と祖母も駆けつけた。
「サリサ!? サリサ!!」
 セティス博士に抱き起こされ、サリディアは薄く目を開けた。青すぎる顔色で。
「……おじい……ちゃん? ……なんか、変なの……体が……痺れ……て……」
 彼女は懸命に起き上がろうとしたが、できなかった。息も苦しくて――
「おまえ……。まさか、勝手に薬品を!?」
「うん……ごめ……な……さい……」
 謝りながらも、彼女は博士の服を引き止めるようにつかんだ。
「サリサ、大丈夫だ。おばあちゃんがついててくれる。だから手をはなしておくれ」
「ちが……お願い……実験室に、入ら……ないで……お願い」
「サリサ?」
 サリディアは弱々しく首をふる。
「入っ……ちゃ、だめ……内緒な……の……」
 言った途端、がくっとのけぞった孫娘をサラディナーサに預け、博士は一人、実験室に続く扉をくぐった。
 

 W−C
「お嬢様! お嬢様がお気付きになりましたよ、旦那様」
 サリディアは布団の上に起き上がりはしたものの、家政婦のバルダが何を騒いでいるのかわからなかった。ただ、体が奇妙にすっきりして、楽だなと思った。
「サリディア……」
「父さん?」
 見上げた父の顔がやけに疲労していて、サリディアは何か不吉なものを見た気がした。
「どうしたの? 私……」
 ふいに、記憶がつながった。そうだ、確か一人で薬を作ろうとして、失敗して、それから……それから、倒れた彼女に祖父が何か飲ませてくれた。けれど、とにかく体がいうことをきかなくて――また、意識を失ったのだ。
「父さん……おじいちゃんは? おじいちゃん、実験室に入っちゃった? セルリアードは来た? ラーテムズさんは?」
「サリディア……」
 サリスディーンはじっと娘を見つめ、声をかすらせて言った。
「おじいちゃんは、亡くなった」
「……え……?」
 長い、長い沈黙があった。サリディアは瞬きし、もう一度瞬きした。
「なに……?」
「おじいちゃんは、亡くなったんだよ」
 また、しばらくの沈黙。サリディアはわずかに口許を震わせたが、言葉にならなかった。サリスディーンが静かに首をふる。
「……嘘!!」
 誰も答えてくれなかった。サリディアはいやいやをするように、父の服をつかんで揺すった。
「嘘だぁ!! 何で!? やだっ、そんなの!! おじいちゃん、明日誕生日なのに、何で!?」
「サリディア……」
 瞳から大粒の涙が溢れ、少女の頬を濡らしていく。
「やあぁっ!!」
 サリスディーンは泣き叫ぶ娘をぎゅっと抱き締めて、つぶやいた。
「おじいちゃんは、おまえを助けて亡くなったんだ」
「――!!」
 サリディアが最後に上げた悲鳴は、もはや声にすらなっていなかった。しゃくりあげる娘に涙を託し、サリスディーンは黙って彼女を抱き続けていた。


 解毒剤は、一人分がやっとだった。そもそも薬品がなくなりかけていたからこその買い出しだったのだ。
 

 W−D
 セルリアードは結局その日は来なかった。サリディアがその理由を知ったのは、祖父の通夜の晩だった。
 あの日、セルリアードの母親であるセリュージャが突然倒れ、博士の誕生日どころではなくなったのだ。それは本当に突然のことで、こちらに連絡する余裕もなかった。父親とサニエルがそれを話している間、サリディアは黙って聞いていた。
 そしてその日はさすがにセルリアードやリシェーヌも来ていたが、サリディアは一晩中、誰とも口をきかなかった。ただ、じっと祖父の遺体のそばに座っていた。彼女が黙っていても眠っていないことは皆知っていたし、心配してもいたが、彼女自身が心を開くまではと待っていた。

     *

 翌日。
 その日も、彼女は朝から誰とも口をきこうとしなかった。いつの間にか、姿を消していた。
 彼女は祖父の使っていた部屋で一人、じっと座っていた。何かあった時にここでこうしていれば、必ずそのうち祖父が見つけてくれて、道を示してくれたものだったのだ。
 セルリアードとけんかした時。
 木に登って枝を折ってしまった時。
 今も、心のどこかでそれを待っているのかもしれなかった。ここにこうしていれば、ひょっこり祖父が現れるのではないかと――
 厳しい人だったが、同時に優しい人だった。そして彼女にだけは、たいてい笑顔を見せていたのだ。他人にはまず見せない、幸せそうな笑顔を。


 カタン
 障子の開く音に、サリディアは跳び上がるほど驚いた。まさか、まさか――
「おじいちゃん!?」
 ふり返った彼女の瞳に、目を大きく開いてこちらを見ている知った顔、トラバス助手の顔が映った。そういえば、あれから一度もこの人とは顔を合わせていなかった。ずっと研究所にはいたはずなのに、通夜にも顔を出さなかったのだ。
「ど……うして……」
 彼は、腕に何か抱えていた。三十センチ四方ほどのやや大きな包みだ。
 もともと彼は博士が大学教授をしていた時の教え子で、博士が助手を募った時、厳しい競争率を勝ち抜いてここに来た。研究熱心なのはいいが、それ以外のことに全く興味を示さないきらいがある。そして彼女は知らなかったが、彼とサリスディーンは仲が悪かった、というよりトラバスの方で一方的にサリスディーンを目の仇にしていた。彼の基準では、サリスディーンなど不勉強も甚だしいのだ。普通の人から見れば十分と思えるほど熱心に研究をしていたにしても、いずれ博士のあとを継ぐのが自分に比べればはるかにいい加減なこの博士の息子であることは、彼を苛立たせていた。しかし、その娘については別だった。敬愛する博士がそれこそ目に入れても痛くないほど可愛がっていた孫娘だったから、彼もとりあえずは邪険に扱わないように気をつけていた。しかし、だからこそ――
「どうしてここに――!!」
 それは悲鳴に近い声だった。サリディアはただただ事態に当惑した。
 彼は自制しようと必死だった。博士は誰のために死んだ? この小娘だ。こんな小娘のために、あれほど立派な人が命を落とした。許せなかった。けれど――それでも、あの人が守りたがったもの。何より大切にしていたもの。傷つけるわけにはいかない。傷つけるわけには――ああ、けれど!!
「出て行け!! 疫病神め!」
 サリディアが息を呑む。その顔は急速に青ざめ、体も小刻みに震え出していた。しかし、もはや自制はきかない。こうなるとわかっていたからこそ、今まで博士の通夜を抜けてまで、彼女を避けていたのに――!!
 もはや彼が理性を失っていることは、その止まらない涙からも明らかだった。彼は抱えていた包みを振り上げた。
「どうしておまえの身勝手な行動のために、博士が死なねばならんのだ!? 人殺しの女! おまえが死ねば良かったんだ!! おまえが――!!」
 トラバスは手にした包みを彼女に投げつけたい衝動だけはなんとか抑え、代わりにそれを畳に叩きつけた。ガラスが割れるような、かなり派手な音が響き渡った。実際、その中身はガラスの城だった。博士が前から探していたものだ。孫娘に贈るために――それがすぐ彼女に渡されることは知っていても、博士が最も喜ぶのはその孫娘の笑顔を手に入れた時であるのも知っていたから、彼はこれを用意したのだ。トラバスのセティス博士への敬愛だけは、誰が何と言おうと本物だった。
「おまえが――おまえさえいなければ――出て行け!! 二度と私の前に顔を見せるな!!」
 サリディアは震える足で立ち上がり、そのまま部屋を駆け去った。絶対にトラバス助手からは見えない、そう自信の持てる所へ行くまで、彼女は一滴も涙をこぼさなかった。あの包みが何なのか、彼がどうするつもりだったのか、不幸にも、彼女には全てわかってしまったのだ。彼女は祖父の命を奪い、父の、祖母の、そしてトラバス助手の心の支えを失わせてしまった。だからこそ、彼らの前で泣いてはいけない――泣いては――
 今さらどうして言えよう。あの時促成剤を作って、祖父の好きな花をその誕生日に贈るつもりだったなど。――だからこそ、実験室に忍び込んでまで祖父に知られないようにことを運ぼうとしたなどと。彼女は、やはり禁を犯すべきではなかったのだ。扱い切れる力がつくまで、勝手に薬品や実験道具にさわったりしてはいけなかった。
 彼女は靴もはかずに丘の頂まで駆け上がると、そこに突っ伏して声の限りに泣いた。丘を渡る風も、小鳥のさえずりさえも、今は彼女を慰めることはできなかった――
 

 W−E
 姿の見えなくなったサリディアを探していたセルリアードは、丘にじっと座っている彼女を見つけてほっと胸を撫で下ろした。まったく、突然いなくなったりしたら皆が心配するとは思わないのだろうか。けれど、今の彼女のことを思うと、頭ごなしに叱る気にもなれないのだった。あの日、彼女が祖父を喜ばせようと気張っていたことは疑いようもない。祖父に喜んでもらおうと、一生懸命だったに違いない。それが、あんなことになって――
「サリサ……」
 彼が声をかけても彼女はふり向かず、頑なな背中だけを見せていた。
「帰ろう。みんな心配してる」
 返事はなかった。それでも、セルリアードは辛抱強く待った。
「私……もう、やめる。天才科学者になんか、なれない」
 セルリアードは驚いて彼女の小さな背中を眺めた。天才科学者になる、というのは彼女の夢なのだ。けれど、その気持ちは痛いほどわかる。そしてだからこそ、放ってはおけなかった。
「どうして? 僕は魔道都市サン・エリスンに行って最高魔道師になるって夢、諦めないよ。それなのに、サリサは諦めちゃうの?」
 サリディアはうずくまったまま、何も言わなかった。
「せっかく僕が夢を叶えても、サリサが諦めちゃったら……約束、果たせないね」
 サリディアの肩が、再び震え出していた。『大きくなって最高魔道師になったら、科学者になったサリサをきっと雇ってあげるから――だから、お互い頑張ろうね』そう、約束したのはいつだったか――雪が降っていたから、きっと、セルリアードの誕生日のことだったに違いない。
「でも――だめだもん! 科学者になんかなれない! おじいちゃんが死ぬくらいなら、私が死んじゃえば良かったのよ!!」
「サリサ!?」
 ずっとそんなことを――?
 しかし、セルリアードはすぐにその考えを否定した。違う。彼女はそんな後ろ向きな考え方をする子じゃない。
「どうしてそんなこと言うの? おじいちゃんは、サリサにまだまだ生きてほしかったから、夢を追いかけてほしかったから、なんとかして助けようとしたんだよ? サリサは、それを無駄にする気なの?」
「でも……!」
 サリディアは、初めてセルリアードにその顔を向けた。痛々しいほど赤く泣きはらした目から、涙がぽろぽろ溢れ出す。
「みんな、おじいちゃんのこと大好きだったのに! 父さんもおばあちゃんも――トラバスさんも!! それに、勝手なことして失敗したのは私なのに……!!」
 サリディアは再び膝の中に顔を埋めた。こらえきれない嗚咽が漏れる。
「サリサ……」
 セルリアードはにわかに不安になっていた。本当に、彼女は大丈夫なのだろうか。これほど傷ついていながら、本当に傷は癒されるのだろうか。
「私……私、どうしていいかわからない! 許してもらえないよ、おじいちゃんにも、トラバスさんにも……私なんか、私なんか、いなければ良かったのに――!」
 嘘だ――
 セルリアードは確信していた。これほどの傷から彼女が立ち直れるなど、絶対嘘だ。きっと放っておいたら、彼女は壊れてしまう。重すぎる。


 風が吹いていた。細く肩を震わせて泣く少女を見つめたまま、かなり長いこと少年は微動だにしなかった。
 それでも時は――風は流れる。いつまでも、そこに立ち止まってはいられない。
「サリサ……サリサは、僕のこと好き?」
 突然のことに途惑いながらも、彼女は弱く頷いた。
「うん……大好き」
「僕も――」
 サリディアは不思議そうにセルリアードを見た。その顔に隠された決意には、まるで気付かずに。
「本当はいけないのかもしれないけど、サリサがもっと大きくなって耐えられるようになるまで、忘れさせてあげる」
「……なにを?」
「目、瞑って」
 セルリアードはすっと彼女の額に手をかざすと、ゆっくりではあるが正確に呪文を紡いでいった。どの道、しばらくはここに来ることができなくなるはずだったから。母が回復するまで、彼らは父の知り合いの方に預けられることになっていたから。今日は、しばらくのお別れも兼ねてここに来ていたのだから――
 やがて完成した術が、ゆっくりと彼女の記憶に侵入し始めた。
「ね、もう目、開けていい?」
「いいよ」
 彼女は目を開けると、わずかに小首を傾げた。
「ねえ、今、すごく眠いの……変だね」
「あのさ……」
 ん? と言ってセルリアードを見上げたサリディアの目は、睡魔に襲われてかなりとろんとしたものだった。それでも、彼がやけに寂しそうな目をしていることには気付く。
「なあに?」
「……いつかまた会えたら、僕のお嫁さんになってくれる?」
「うん?」
 そう言う彼の目が、本当に寂しそうで――どうして彼がそんな目をしているのか、サリディアは不思議に思った。
「いいよ。だって私、セーちゃんのこと大好きだもん」
 セルリアードが切ないまでに儚く笑う。サリディアは急に不安になった。
「でもどうして? またすぐ会えるでしょ?」
 セルリアードは懐に手を入れると、二組の首飾りを取り出した。先端には、艶やかな雫の形をした鍾乳石。
「これ、前に拾ったの、父さんに首飾りにしてもらったんだ。持ってて」
 言って、彼はうちの一本を彼女の首にかけた。
「綺麗だね……ずっと、持ってる」
 その時、サリディアは彼の目が濡れるのを初めて見た。あるいは、気のせいだったのかもしれない。なにしろ彼女はとうとう耐え切れずにそのまま眠ってしまい、次に目覚めた時には、彼に関する一切の記憶をなくしてしまっていたのだから。


 W−F
 その日、エマルデル・ナン・トラバスは研究資料を持って失踪し、後に、彼が魔族と接触したことがわかった。
 彼は持ち出した研究資料を手がかりに、禁を犯して『神法』の研究に没頭し始めたのだ――
 

 X
 狂ったような絶叫が途切れると、サリディアは糸が切れた操り人形のようにくたっとその場にへたり込んだ。
 その両のまなじりから、涙が二筋流れ落ちて行く。
「……私の……」
 ――おまえが死ねばよかったんだ――
 サリディアは頭にいつまでも響くその声に突き動かされるように、懐の短剣に手をかけた。全て、自分のせいだった。祖父が死んだのも、トラバス助手が研究所を出たのも、彼らが――セルリアードとリシェーヌが、狂った運命を歩まざるを得なくなったのも!!
「私……!!」
「大丈夫ですか?」
 はっと、サリディアは自分がしようとしていたことに気が付いた。吐き気がするほどの自己嫌悪を覚えつつ、手にした短剣を地に投げる。役人が驚いた顔で彼女を見た。
「私が……」
 死は、今選ぶことは絶対に許されない、最も安易な選択だった。一瞬でもそれを選ぼうとした、自分の無責任さかげんと愚かさに涙が出る。情けなかった。どうしていいかわからないなんて――!
「みんな私のせいだったんです!! 何もかも――!!」
 たとえ償うことができなくとも、決着もつけずに逃げ出していいわけがなかった。他の何を犠牲にしたって、今は二人を守らなければならないのに!
「私がやらせたんです、あの人に!! 全ての元凶でありながら、善意で行動してると思っていい気になって――!! 彼が、どんな思いでこれまで――!!」
 もう、まともに言が継げなかった。最低だ。どこより綺麗で幸せだった世界を、壊したのは自分だった。トラバス助手もサニエルさんも死んでしまった。セルリアードもリシェーヌも――誰より純粋で、けがれない魂の持ち主だったのに!
「もう……もう!!」
 戻れない。やり直すことはできない。時間は二度と戻らない!
 サリディアは半狂乱で無意識に地面を掻いていた。皮膚が破れ、血が流れても、痛みは微塵も感じなかった。それが悲しくて、その指にますます力を込める。誰より不幸になればいい。自分など、この世の全ての罪を背負ってどこへなりと消えてしまえばいい!!
「あー!!」
「サリディア!!」
 彼女が狂いかけていることに、いち早く気が付いたのはセルリアードだった。あの記憶は、永遠に閉ざしておこうと思っていたのだ。なぜなら、事実が本来以上に彼女を苛みそうだったから。彼女のせいではないことまで、彼女がしょい込みそうだったから。何より、その記憶に誰が救えるわけでもなく、ただ彼女が苦しむだけとわかっていたから。
「サリディア!!」
 セルリアードはなおも地面を掻き続けようとする彼女の腕を押さえ、そのまま無理やり抱き締めた。それでも、彼女の心は戻らない。
「サリディア、おまえのせいじゃない! おまえだけのせいじゃない!!」
「やあぁ!!」
 どんなに呼んでも、もはや彼女の心には届かないかのようだった。泣き叫ぶばかりで、何も聞こえていない。
「サリディア!!」
 はっと、セルリアードは何をなすべきかに思い至った。あの子なら――!
「ニニ!!」
 目が合った瞬間、それだけでニニはセルリアードの意図を理解した。それほどの思念。触れる必要もなかったのだ。今は――
 予想外の事態に茫然としている大人たちの間をすり抜け、ニニはセルリアードのもとへと駆けつけた。彼の腕に触れた途端、ニニは驚くほど強い意志を感じたが、それは決して不快なものではなかった。彼女は必死に手を伸ばし、異様に冷たいサリディアの腕をもう一方の手でつかまえた。
 電流が走り抜けたような瞬間だった。
 少女にサリディアの狂った感情が流れ込みかけたのは一瞬で、それは逆側からのより強く揺るぎのない、澄んだ意思に押し返された。
 少女は仲介役を果たしたのだ。
「あ……」
 サリディアの体が大きく震える。狂った歯車が正常な刻みを取り戻す。けれど、それはいまだ時を止めたままだった。
「サリディア……」
 セルリアードが淡々と、諭すように言葉をかける。
「恨んでなんかいない。憎んでなんかいない。みんな、ただおまえをなくしたくなかったんだ――」
 静かに透明な涙を浮かべ、サリディアはその場に泣き崩れた。
「一体、どういうことだ……?」
 セルリアードはニニに礼を言って母親の元に帰し、いまだ困惑気味の人々の方に向き直った。
 説明しなければならない。サリディアにも、彼らにも。
 しかし、その前にサリディアが割って入った。
「説明、します……私の……責任だから……」
「サリディア……」
「お願い、私に説明させて……許してなんて、言えないけど……でも、他に何もできないから……ごめんなさい……」
 セルリアードは束の間サリディアの瞳を見つめると、静かに頷いた。彼女の傷を、あの一瞬かいま見た。少女の胸に、鋭く突き刺さったトラバス助手の言葉と激情。今は、言いたいことを言わせてやるのが先だった。
 サリディアはまだ時折声を詰まらせながら、それでも筋の通った説明をしてみせた。真実だけを語りながら、リシェーヌの存在は見事に隠して。
「……魔族が、絡んでいたのか……?」
 役人の声がかすれる。
「だけど、それとこれとは……そんなのは、あんたのせいじゃ……」
 一人の若い男が口を挟んだ。
「そう、私の罪は彼女のせいではないんです。トラバス助手のことも」
 サリディアに口を挟む隙を与えず、むしろ彼女に説明するように、セルリアードは彼女の知らなかった事実を語り始めた。
 トラバスが、あの頃には既に半ば狂っていたことを。
 トラバスはもともとサリスディーンと同期の学生だったが、その成績は秀才と言われたサリスディーンをすら上回るものだった。そのために、セティス博士の後を継ぐのがサリスディーンであることが納得できず、なんとか自分の実力を示そうとやっきになって研究していた。けれど裏腹に、彼は研究成果でどうやってもサリスディーンに追いつけなかった。かといって、自分の負けを素直に認める気にもなれず、その無理は次第に彼を追い詰め始めた。
 数年が経ち、子供たちが研究室に出入りするようになった。子供たちは驚くほど覚えが良く、頭の回転も速く、簡単な作業や計算なら大人以上の速度でこなした。そして、彼らには魔力があった――
 魔力。魔力が。魔力が!
 当時、彼は魔力だけが自分に足りないものだと信じていた。魔力がないからサリスディーンに追いつけない。指示を出して実験するのと自分の手で実験するのとでは、能率も手応えもまるで違うから。だから追いつけない。魔力さえあれば――
 信じれば信じるほど、彼は禁であった『神法』の研究にひかれていった。その過程にある、魔力添加の研究に。けれど、セティス博士の言葉が――

 トラバス、その年でないものねだりもないだろう? 息子はあと一年妻と生きられるなら、喜んで魔力だって手放した。ほしいもの全てが手に入りはせんし、だからこそ、あるものを大事にせねばならん。魔力はなくとも、おまえには夢に挑戦できるだけの、研究をこなせるだけの才能がある。努力することだけで本当にやりたいことがやれるのは、必要なものが手に入るのは、感謝すべき幸運と知れ――

 その言葉が、彼をとどまらせていた。博士を信じていたのだ。その禁を犯すなど、彼には考えられなかった。博士の生前には――
 その彼が博士の死後に豹変したのは、まだ道を見出せないうちに、師を失ったからに他ならない。自分のペースでやればいい、そう割り切る前に支えを失って――道を誤った。


「……セティス博士は、助手の危険な思い込みを知っていました。彼が自分の言葉を、正確には理解していないことも。サリスディーン博士も彼の敵意に気付いていながら何もしなかった……。実際に道を誤ったトラバス助手、彼から博士を奪った彼女、問題に気付いていながら静観していた周囲――誰のせいかと問えばきりがない。結局、彼は彼自身の手で自分の問題は解決しなければならなかった。たとえどんな理由があっても、自分の行動には自分で責任を取るしかないんです。そして、それは私にしても同じこと」
「だけど!」
 ほとんどの者がその論法で納得しかける中、サリディアは夢中で声を上げていた。確かにセルリアードの言う通りかもしれない。けれど、それでは人々の心はどうなるのだ。セティス博士を心から敬愛していたトラバス助手の心は? 妹を救いたかったセルリアードの心は? そして――
「それじゃあ、サニエルさんの願いは捨ててしまうの!? あの人は、あなたたちを助けたくて――あなたを守りたくて、命懸けで魔族を滅ぼしたのに……! 自分の過ちを清算したくて、あなたに犯させてしまった全ての罪を肩代わりしたくて、精……一杯……」
 今は、セルリアードの父の気持ちが痛いほどわかるのだった。最も愛する者を、自ら呪ってしまったその苦しみ。いったい、彼は正気を取り戻した時どんな思いで……。
「だいたい、まだあなたは十二だったのに! どうにもできないよ! あなたは同じ十二の子が罪を犯したら、その子がどんなに苦しんでも、後悔しても、その子を許さないの!? お願い……」
 やっぱり、彼女が悪いのだ。たとえ同じ事態になったとしても、もっと後のことだったら、きっとセルリアードなら何とかできた。
「許して……」
 責め苦に耐えかねるように、サリディアは膝をついた。
「サリディア、何を考えている?」
「……」
 おまえのせいではないと言った――彼は目だけでそう言った。しかし、彼女は首をふる。
「私……あなたに言いたかった。あなたが死んでも、何も取り戻せない。生きてるから、償うこともできる。生きてるから、誰かを幸せにできる。死ぬことに、意味なんかないって。殺したから殺されても、意味なんかないって。でも……!」
 大きく身を震わせて、彼女はぼろぼろ泣いた。
「意味、あった……つらい……生きてるの、つら……っ……」
 それでも生きてほしいのだと、彼女は泣いた。
 置いていかれたくないのだと、彼女は泣いた。
 セルリアードはそっと彼女の肩を抱きながら、内心で驚いていた。
 意味なんて、考えなかった。
 殺したから殺される。それが当然だと思っていた。
 償う方法も、許される方法もない。
 だから、死ぬしかないのだと――
 けれど、彼女の言う通り、死んだって償えないし、許されない。
 自分も死ぬから死んでくれと言われて、誰が頷くだろう。
 本当にないのだ。人を殺したら、償う方法も、許される方法も。
 後戻りできない。取り返しがつかない。それが死だ。
 だとしたら――
「もう、誰も殺してほしくない。お願い、あなたのこと、殺さないで――」
 サリディアが言った。
 また、驚いた。セルリアードは静かに彼女を見て、考えた。
 だとしたら。
 できるのは、殺さないで生きること……?
「セルリアード!!」
 出し抜けに、やけにいきのいい少年の声が響いたのはこの時だ。
 ディテイルだった。
 役人をふり払い、彼は一直線にセルリアードに向かって駆けてきた。そして、その胸ぐらをつかんで詰め寄った。ただし、身長差のせいで今ひとつきまっていない。
「何で俺に一言もないんだよ! 忘れたのか!? 俺だって被害者なんだぞ!」
「何だ、おまえは」
 役人に無造作に電報を押し付け、ディテイルは真っ向からセルリアードを睨みつけた。
「メルヴ・ディセク……? おまえ、それで二十一だと言う気か」
「違うよ、俺はディテイル! 兄さんは一週間前に……こいつに殺されたんだ!」
 ディテイルは言うなりセルリアードを突き飛ばした。余計なことを言うから、余計なことを思い出したではないか。
「一週間前、だと!?」
 え、とディテイルは辺りを見回した。急に険悪になったような……。
「……もう、片はついていたはずだな?」
「ええ」
 役人の問いに答えつつ、セルリアードは相当混乱していた。今まで苦しみはしたが、迷ったことはなかったのだ。それが、今は何が最善なのかわからない。
 サリディアが胸を押さえたことに、ディテイルは気付かなかった。
「聞いたか、そらみろ、殺人鬼だ!」
 それまで、どんどん面白くない方向に話が進んでいくのに苛立っていた一部の者達が、勝ったも同然、という声で叫んだ。
 その様子に、ディテイルは本能的に状況を理解した。同時に、妙に興ざめな気分だった。やはり、もういいのだ。彼にはセルリアードが憎み切れない。復讐の虚しさも、もう十分に骨身に染みたのだから。
「人の不幸がそんなに嬉しいかよ! 悔しいけど、あれは正当防衛だったさ。兄さん、俺のせいで誤解して……その子を殺そうとしたんだ!」
 ディテイルにしてみれば、それは最も認めたくない事実だった。兄にだけは、最後まで信念を貫き通してほしかった。正々堂々としていてほしかった。けれど、過ぎたことは仕方ない。彼を必死に守り育ててきた兄を、それで忘れることはない。
 ディテイルはもう一度セルリアードに向き直ると、睨みながら言った。
「俺、おまえのしたことは忘れないけど……」
 少し、悔しかった。あくまでも、セルリアードは目を逸らさない。弱みを見せようとしない。しかも照れくさくて、目を合わせていられないのは彼の方なのだ。
「おまえのこと、許してやるよ」
 それだけ言うと、ディテイルは大急ぎでそっぽを向いた。
「それが、言いたかっただけだから……じゃあな!」
 くっと、セルリアードが声を詰まらせた。くっくっくっと、妙な音が漏れる。すぐに、それは泣き声とも笑い声ともつかない音になった。あの男が泣くわけがない。だとしたら――
「わ、笑ってんじゃねえよ!」
 ディテイルはその場で肩を怒らせて怒鳴ったが、背中を向けたままでは話にならない。もう顔から火が出るようで、ふり向くにふり向けないのだ。それなのに、あいつときたらいつまでもくすくすと……。
 セルリアードはふいに静かになると、音も立てずにディテイルに歩み寄った。そして、肩越しにディテイルだけに聞こえるほどの声で言った。ありがとう、と。
「セル……」
 ディテイルがあわててふり向いた時には、セルリアードは既に人々の方に向き直っていた。心は決まったのだ。
「セルリアード!!」
 しかし、彼がそれを口にするより早く、まだ駆けつけてきた者がいた。
「ケルト!?」
 サリディアが驚いて叫ぶ。
 今度こそ刑場中がざわめいた。その服装からして、ケルトが個人としてでなく、アルン国王としてこの場に現れたのは明白だった。
「その方はアルン正統の王位継承者です。勝手に裁判を開かれては困ります」
「何っ……」
 人々の驚きをよそに、ケルトは数人の重臣を従えて刑場中央まで進み出た。セルリアードの表情は厳しい。
「どういうつもりだ。こんな所でなんてことを……」
「それはこっちのセリフだよ。皆、待ってたんだぞ。それを……」
 セルリアードが怪訝そうにしているのに気付き、ケルトは最後尾の青年を呼んだ。医者の息子のピートだ。
「彼のおかげで、おまえ、町の英雄ってことになってる」
「英雄?」
 ケルトに促され、ピートが誇らしげに事情を話し出した。
 彼とその父が、町じゅうにスィール軍を追い払い、火まで消してくれたのはアルンの王子様だとふれ回ったこと。(ただし「王子様」というのは彼らの誤解だった)
 その後礼を言おうと王宮まで出向いたものの、とうとう会えなかったこと。
 そんな折、アリスンが魔道都市サン・エリスンに行くというので護衛がてらついてきたところ、あやしい女を目撃したこと。(サリディアのことだ)
 その女の出てきた「へんなもの」を調べたところ、中で呑気に眠るディテイルを見つけたこと。
 そして彼を起こしたところでケルトたちに出くわしたこと。
「アルバレンが自首したって報告受けた時には、すごく驚いたよ。まさかってね」
 ケルトの言葉に、しかしセルリアードの顔は苦いものだった。
「どうしてこんなところにそんな格好で来た? わかっているのか、信用問題になるぞ」
「そんなものより大事なことだってあるだろう? どうして何もかも、一人で片付けようとするのさ。相談してくれたっていいじゃないか、僕だって借りは返したい」
 そうは言われても、相談することなどなかったのだから仕方ない。前から決めていたのだ。リシェーヌのことが片付いたら、自首しようと。とはいえ、それにふさわしいことがあったら相談したか、と問われればそれはそれで確かに疑問ではある。
「ところで、実際国王としても用はあるんだ」
 それは十分察しがついた。そうでなければ、わざわざ重臣たちまで連れて、こんな風に乱入したりはしないだろう。
「なら、ここをどうにかするのが先だな」
 正直、具体的にどうするべきかはまだ見えないけれど。それでもサリディアの言う通り、彼が滅びたところで誰も救われはしないなら。
 死んだ人間は生き返らない。
 ならば滅びるよりも、許されるのなら償いたい。
「あなたの勝ちですよ、もう」
 と、お手上げと言わんばかりの口調で役人が言った。
「あなたは無罪です。今までのことに関して」
 刑法第0条に『魔族が絡んだことに関しては、関係者を罪に問わないものとする』と定められているのだ。これは何をしても無罪である代わり、何をされても諦めろ、という法だ。
 もちろん、わざと魔族を呼んだら話は別だ。
「魔族が関わると、関係者が犯した罪がどこまで問われるべきなのか、判断が困難になるんです。完全に意識を乗っ取られていた場合から、軽くそそのかされた場合まで――あなたのように、ある程度自由意志は持ちながら、状況的に追い込まれる場合もある。一体、どこまでを魔族のせいとするかが決められないんです。逆にいくら本人に悪気がなくとも、実際に危害を加えてくる以上、その相手を返り討ちにしたと言って罪に問われたのではたまりませんからね。ですから関係者は罪に問いません。『魔族に喰らわれたもの』として除いてしまうことはありますが」
 除く――つまり、『罪』ではなく『害』ゆえに、捕らえたり殺したりすることだ。
 とはいえ何より、役人に「あなたの勝ち」と言わせたのはその場の雰囲気だった。もはや処刑を続行しよう、という空気はほとんどないのだ。奇跡に近い。
 否――
 これこそが人の理性であり、優しさなのかもしれない。



 話が済むと、彼はとにかく着替えることを願い出た。ススだらけだったし、何より心機一転さっぱりしたかった。サリディアも同じ状況だったので、結局一時間後に中庭で、ということで話はまとまった。
 一時間後、二人は人々の感嘆の声に迎えられた。白に天色の縫い取りの施された協会の制服が、これほど似合う人間も珍しい。しかも昨日までとは違い、今のセルリアードの瞳は真っ直ぐ光を見つめている。もとより類稀なる美貌の持ち主なのだ。今は風格すら漂うようだった。
 ケルトもしばし陶然と二人を眺めていたが、さすがにこの二人に驚かされるのには慣れている。だから、すぐ本題に入った。
「二つ、頼みがあって探してたんだ」
「国王としてのか?」
 ケルトが真剣な顔で頷く。
「まず一つ、あなたの王位継承権を、兄上、フォニーの後の第三位とすることを認めてほしい。僕の即位も」
 もちろん異存はない。そのつもりであんなふうに去ったのだ。
「そしてもう一つ。今度の戦で町を守ったギルファニート・アル・セルリアードを宰相として迎えたい」
「!」
 外野がおお、とどよめく。あの後、帰った者はほとんどいなかった。皆、何があるのかせっかくだから見ていこう、と考えたのだ。
 さすがにセルリアードも驚いた。一瞬冗談かとも思ったが、ケルトの様子があまりに真剣だ。しかも、アルンの重臣たちまで従えている。
「現宰相は?」
「先日、横領が発覚してね。自分から辞任したよ」
「……追い詰めたかな」
 セルリアードのつぶやきに、ケルトは微笑した。やることが徹底している割に、彼はあまり厳しい処分を求めない。いや、より正確には真実を見極めたいだけで、裁くことまではしたくないのかもしれない。
 宰相はそれでいい。決断するのは王だから。
 桜が細く静かに散って行く。
 彼は黙って考え込んでいた。肩に艶やかな銀髪がこぼれかかり、さらにそれを微風がなぶる。随分と絵になる光景だった。
 やがて、セルリアードは自身を納得させるように頷いて、視線をケルトに向けた。
「わかりました。お受け致しましょう、陛下」
 折しもこの季節特有の突風が巻き起こり、薄紅色の小さな花弁が一斉に空へと舞い上がった。彼が解放されたことを、華やかに祝福して。

* 終章 に続く

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◆ ご感想 ◆
焼き加減は?/置いてきぼり/交錯する思い/これからが始まりといえば始まり/学校は?/その発言は/所有権主張のこころ/何故に、自分についての記憶を封印するのか/トラバス助手/辛い罪悪感……でも、がんばって!/心の痛み/サリサちゃん、どう説明したの?/トラバス助手と博士/セーちゃんは聞いていた/伝家の宝刀? 刑法第0条/明けない夜はない/セーちゃんとサリサちゃん、何センチ差?/未成年が宰相/契約は死ぬ気だったから?
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