聖魔伝説3≪王宮編≫ アルンに咲く花

第八章 ――侵入者――

---

* 第七章に戻る
* T  U  V  W  X  Y

≪2001.07.31更新≫

---

 T
 サリディアが呪文を詠唱する声だけが、薄闇の空き地に響いていた。やがて、ディセクの体に順々に火が灯る。
 この世界では火葬が一般的だった。それも、完全な灰になるまで徹底的に燃やすのだ。それには理由がある。土葬にしたり骨を残したりすると、戦時に利用されることがあるのだ。それゆえ他の方法は厭われた。
 ディテイルはただ見つめていた。次第に燃え落ちて行くディセクの屍を――火葬は、魔道師に頼むか薪を積み上げて燃すかが大半だった。そして、できることなら魔道がいいとされている。灰を拾う関係だ。
「何だか、実感ないな……」
 ディテイルのつぶやきはサリディアにも届いたが、彼女は呪文の詠唱を続けた。何も、言うべきことを思いつかなかったからだ。
「俺、なんだかんだ言って、本当は現状に満足してたみたいでさ……」
 ディテイルがつと炎に照らされた地面に視線を落とす。
「大変だったけど、楽しかった……。二人であっちこっち旅して……」
 やっと止まったばかりの涙がまた溢れそうになって、ディテイルは黙った。
 炎は次第に途切れがちになり、やがて消えた。
「これ、兄さんなんだもんな――」
 ディテイルが一つかみ灰を取りながら、つぶやく。サリディアにはやはり、何を言っていいのかわからなかった。
 ディテイルはつかみ取った灰を小袋に入れると、立ち上がった。
「ありがとう、サリサ。俺、今金ないしお礼はできないんだけど――」
 サリディアがあわてて首をふる。
「お礼なんていいの。謝らなきゃいけないのは、謝ったくらいじゃ済まないのは、こっちの方なんだから……。ごめんなさい」
「サリサのせいじゃないよ」
 静かに、けれどきっぱりとディテイルが言った。
「あれは……何て言っていいのかよくわかんないけど、結局、兄さんは『アルバレン』にとり殺されたんだ。それが過去の残像だって、もう存在しないんだって、最後まで気付かなかった……気付けなかった。失ったものが大きすぎて」
「ディテイル……」
 ふと、思い出したようにディテイルが顔を上げた。
「ところで、アルバレンが……じゃなくてセルリアードって言ったっけ? とにかく、追手がかかるかもしれないって言ってたけど、どういうことなんだ?」
「それが……」
 答えかけ、サリディアはハっと言葉を切った。誰か近付いて来る。こんな場所、こんな時間に?
 しかし、相手にとってもこちらの存在は予想外だったらしい。
「誰かいるのか!?」
 若い男の声が言った。どこかで聞いたような……。
「いちゃ悪いかよ」
 彼らは薄闇の中で互いに相手を確認した。現れたのは二人連れの男女――エルディックとアイリーナだった。
「リシェーヌ!」
 叫ぶように言うと、エルディックはいきなりディテイルに打ちかかった。が、ディテイルに間一髪かわされ、エルディックはあわてて飛び退いた。峰打ちにしようとしただけなのだが、かわされるとは思わなかったのだ。相手はまだ十六、七の少年ではないか。
「何するんだ!?」
 驚きを露にしたディテイルが、怒りの声を上げる。
 エルディックはとっさに言葉に詰まった。通報されては困るのだ。とりあえず、気絶してもらうつもりだったのだが……。
「すまない……悪気があったわけじゃないんだ。ちょっと……焦って……」
 アイリーナが続く。
「お願いです。私たちを見たことは、忘れて下さい」
「忘れて……?」
「待って!」
 遮ったのはサリディアだった。まだ誰か来る。それも大勢。
 目当ては誰か。
「追手が……」
「どういうことなんだ!?」
 ディテイルの問いに、むしろサリディアに説明する口調でアイリーナが答えた。
「私が父王を殺したんです。兄と謀って。兄は、邪魔者を許しません。皆、殺してしまうつもりです。私もエルディックも、そして多分あなたも」
 その説明に、サリディアとディテイルが絶句する。その間にも、アイリーナはさっさとエルディックの手を引いて林に分け入って行った。隠れるのだ。すれ違いざま、彼女はそっとサリディアにささやきかけた。
「先程のこと、どうかお許し下さい。私には、何も見えていなかったのです」
「え……」
 まだ茫然としているサリディアを、アイリーナがじれたように促す。
「あなたも早く隠れて。兄は、兄は恐ろしい人です」
「こっち」
 とにかく隠れた方がいいらしいと判断したディテイルが、サリディアを木の陰に引き込む。
 彼はサリディアの手を引きながら、その冷たさに不安を募らせていた。
 

 U
「兄さんがもう出たって!?」
「さようです」
 答えるセッグの顔も、心なしか青い。まさか、ケルトがファスを連れて戻ってくるとは思わなかったのだ。二人だけで、どこまで逃げきれるか――セザイールは、ちょっと前に近衛隊を率いてアイリーナの追跡に向かってしまった。
 ケルト、ファス、フォニー、セッグの4人がいるのは、ケルトの私室だ。彼らの処遇については、会議なり裁判なり開かねばならないのだが、いかんせん肝心のセザイールがいない。ゆえに、彼らは軟禁されているのだった。扉の向こうには監視もいる。セッグとファスは、それぞれ魔道を封じられている。
「まったくもう、抜けてんだから。何で戻って来ちゃうのよ」
「そんなこと言ったって……まさか、セザイール兄さんが城を出てるなんて思わないから……。だいたい、何であの状況で生きてるって思うんだよ」
 あの状況、というのは魔道の攻撃にさらされた時のことだ。派手な脱出を試みたわけではない。魔法も封じられていたのだから、死んだと思うのが妥当ではないか。
「知らないわよ! そんなことよりどうするの? みんな捕まっちゃってえ。身動き取れないじゃないの。ほんと、お兄様ってこれだから困っちゃうわ」
 フォニーは憎まれ口こそ叩いているものの、嬉しいには違いなかった。このままケルトたちが戻って来なかったら――そう、ついさっきまでセッグに泣きついていたのも、他ならぬフォニーなのだ。
「じゃあどうする? 今から抜け出す?」
 ファスの妙にこともなげな言葉に、フォニーが「え?」と彼女を見る。
「抜け出そうと思えば抜け出せるって。それより、その後どうするか考えないと」
「抜け出すったって……どうやって??」
 その時、ふいに廊下で何やら慌ただしく言葉が交わされる気配がして、扉が叩かれた。
 戸口に立っていたのは廷臣の一人だ。
「ティティケルト殿下、セッグ殿、緊急事態により閣議に出席して頂きたく、参りました」
 
     *

 既に主だった重臣達の集まったその部屋は、今、ただならぬ緊張に包まれていた。
「何があったのですか、宰相」
 入室するやいなやケルトが尋ねる。
「はっ、それが実は――隣国のスィールが、既に国境まで攻め上っているとの報告が入ったのです」
「何だって!? 大事じゃないか! ――おまえたち、何で抗戦の準備もせずに静かに座ってるんだ!」
 何も騒げと言うわけではない。ただ、この緊急事態の中にあって、信じがたいほど動きがないのに納得行かないのだ。やることはいくらでもあるはずなのに、重臣達は沈痛な表情で椅子にかけているだけだ。
「殿下、今、我が国は混乱の極みにあります。抗戦するよりは降伏すべしとの声も、かなり多いのです」
「ばかな――」
 しかし、重臣達の反応は鈍い。
「殿下、次期国王さえ決定しない今、戦えるとお思いですか」
 発言したのは大臣の一人だ。アルン王国では、戦時には王が先頭に立って軍を進めるのだ。ゆえに、王子は幼い頃から厳しく剣術と馬術を叩き込まれる。
「兄上に連絡はつかないのか?」
「つきませぬ」
 ケルトはぎゅっとこぶしを握った。一呼吸置いてから、彼は真っ直ぐ臣下達を見据えて言った。
「兄上が戻るまで、僕が指揮を取る。不満のある者は申し出よ」
 もとより、ケルトには指導者としての資質がある。こういう事態に、気後れすることがないのだ。
 にわかに場内にざわめきが広がった。しかし、不満を述べる者はいない。そもそもセザイールでは、王として心許ないと思う者は多いのだ。特に今回のような場合には。
「直ちに軍を編成して国境に向かう。敵の進軍ルートを特定し、報告するように。それから――」
 ケルトはてきぱきと各所に指示を出し、それを終えると、もう一つ別の指示を出すため退室した。フォニーを、あのじゃじゃ馬を、きっちりなだめておかなくてはならない。


 V
「うっ」
 痛みに目が覚めた。ここは?
 家の中だった。木造らしく、あちらこちらに綺麗な木目がのぞいている。落ち着いた、小さな部屋だった。品も良い。外からは水音が聞こえてくる。窓にはカーテンがかかっていたが、夜だとすぐにわかった。
 かたわらに、流れる青銀の髪を持った、美しい女がいた。ラディアだ。
「いったい……」
「聞きたいのはこっちよ。さっきのはどういうことなのかしら? マーディラからあなたが女装するって聞いて、ばかなことはやめさせようと思って行ってみれば……。あんな、子供みたいな相手に殺されかけて」
「っ……」
 絶え間ない痛みの原因を、やっとセルリアードは確認した。ラディアが、あろうことかディテイルに貫かれた傷口に、その右手を差し入れているのだ。
「何を――」
「何をじゃないわよ。あなた、内臓まで傷ついてるのよ」
 ラディアは不服そうに言って、何やら呪文を唱えた。その右手がぼうっと光り、痛みがやや和らぐ。
「あー、面倒くさいったら。で? まだ説明聞いてないわよ」
 彼は反射的に彼女から視線を逸らしたが、すぐにあの時の状況を思い出してはっとした。
「サリディアは……サリディアとディテイルは? あそこにいた二人は?」
「知ったことじゃないわ。そこまで面倒見る気ないわよ。自分の因縁は、自分で片付けなさいな」
 彼女は不愉快そうに目元を険しくしていたが、セルリアードはとりあえずほっとした。
 無事だったなら、いい。
「敵じゃない」
「……あ、そ。まあ、そんなことだろうと思ったわ。人間なんて信用に足りないって、これに懲りて肝に銘じておくのね」
「今のところ足りてる」
 セルリアードの言葉に、ラディアは軽く肩を竦めただけだった。そんな彼女の姿を、セルリアードは無意識のうちに追いかける。母の面影が重なるのだ。顔立ちだけは良く似ていた。性格は母娘とは思えないほど違っているが。
「どうして突然王宮を?」
 ラディアは唐突な言葉に瞬きし、それからカッと顔を赤らめてセルリアードを睨んだ。彼は怯まない。
「裏切られたからよ!」
 ラディアは吐き捨てるように言った。
「あの人は言ったわ。『愛してる。あなたがいれば何もいらない。永遠に私の心はあなたのものだ』って。それなのに――。あの人は、たった5年で次の妃を娶ったわ。私が跡取りを生まない、それが理由よ! じゃあ、セリュージャは何なのよ!? あの人の誓いは、何もかも嘘だったわ!」
「うあっ」
 つい力が入ったらしく、次の瞬間激痛がきた。その痛みたるや尋常ではない。セルリアードもさすがに、これを平然と無視することはできなかった。
 ラディアは愛憎の入り混じった瞳でセルリアードを見た。本当は、わからない。カディアスの最後の言葉は――彼女に刺し殺された王の最後の言葉は、『愛している』だったのだ。
 何が真実で、何が嘘だったのか、今でもわからない。
「男ならちょっと痛いのくらい我慢しなさい!!」
 苛立ちに任せ、ラディアは理不尽極まることを言ったが、セルリアードは反論しなかった。むしろ、声を上げてしまったことが悔やまれる。
「あ……あら? でも、ちょっと痛かったかしら……」
 手元を確認して、急にラディアは弱気になり、改めて呪文を唱え直した。何だか知らないが握り潰してしまったことは、どちらのためにも伏せておいた方がいいだろう。


「はい、終わり」
 ようやく彼女が回復を終えた時、セルリアードは思わず溜め息を吐いた。延々と麻酔もなしで体内をいじられていたのだ。ほっとしないわけがなかった。
「……あなたは、どうなのかしらね」
「何が?」
 ラディアはしばらくセルリアードを見つめていた。
「一つ、覚えておいて」
 セルリアードは黙って聞いている。
「女は相手が自分を愛してくれて、お互いの幸せのために努力してくれたら――。自分だけを見つめて、そばにいてくれたら、本当は結果なんてどうでもいいの。それで幸せなのよ」
「……」
「恋愛のことだけじゃないわ。たいがいは、信じて、愛してたものを失ったり裏切られたりすることが、何より人を傷つけるの。重ねた時が全て偽りだったと知らされるほど、つらいことはないわ」
 それから、ふと笑って付け加える。
「でも、一番ひどいのは何も愛せないことかもね? 今の私みたいに」
 

 W
「この辺りにいるはずだ。探せ」
 どういうわけか、セザイールはかなり正確に逃亡者の居場所をつかんでいるようだった。
「しかし殿下、アイリーナ姫が、既に短剣を手放しているということはありませんか」
 そう言ったのは近衛隊長のカスタムだ。セザイールが追いかけているのはそれなのだ。以前、彼女の短剣に探索の効く魔術をかけさせたことがあって、それがいまだ生きていたために、彼はアイリーナがまだ逃げていると踏んだのだ。しかし、いずれにしろカスタムには、なぜセザイールがこれほどまでアイリーナとエルディックに執着するのかがわからない。
「それならそれで確認するだけだ」
 セザイールの答えはそっけない。カスタムも、それ以上は何も言わなかった。セザイールがあからさまに不機嫌だからだ。
「しかし、何の臭いでしょうな……」
 微かに漂う異臭の原因に、カスタムは間もなく気付いた。大木の側に、何か燃したような形跡がある。
「これは――セザイール殿下! まだ熱が残っております。つい先程まで人がいたものと思われます」
「ほう?」
 セザイールは何気なく足でその灰をかき回した。もしや、気付いたアイリーナがあの短剣を燃やしでもしたかと思ったからだ。
「何しやがる!」
 途端、闇の向こうから怒声が聞こえた。いや、いつの間にか一人の少年が姿を現していた。
「何だ、おまえは」
「そこに!」
 別の気配に気付いた魔術師が、魔術の明かりを木立へと向けた。
「おまえは……リシェーヌ!?」
 木立に隠れていた少女に、セザイールは驚きを隠せなかった。しかし、すぐ兵に指示して二人を捕らえさせる。ディテイルはかなり彼らの手を焼かせたが、サリディアは抵抗らしい抵抗もしなかった。今のままなら、それほどには彼女の立場は悪くないからだ。つまり、彼女とディテイルだけなら、後からどうとでも言い逃れできるはずだった。――多分。
 それなら、むやみに抵抗して立場を悪化させるよりは、囮になってアイリーナとエルディックに時間を――そう思った。
「これは意外な場所でお目にかかる。アイリーナを見かけませんでしたか?」
 言葉遣いこそ丁寧だったが、セザイールの目は残酷に光っていた。
「あの方をどうなさるのですか? どうして、ここまでして追われるのですか。追い詰められるのですか」
 兄弟なのだから、見逃してもいいと思うのだ。
 しかしその問いは、セザイールには届かないようだった。声は届いていても、それだけだ。
「素直におっしゃれば、先日のことは忘れて差し上げようと言うのです。さあ」
 その言いように、サリディアはキっと彼を睨みつけ、きっぱりと言った。
「忘れて頂かないとならないことなどありません。ご自分に問うべきでしょう、どうして彼らが逃げるのか、自分は一人なのかと!」
 その言葉に、セザイールは激しすぎるほどの反応を見せた。いきなり彼女の左肩をつかみ、力任せに突き飛ばしたのだ。
「わかったような口をきくな! どうして一人だ!? 私がいつ一人になってる! 無礼者め!」
 その握り締めたこぶしを震わせ、彼はこれ以上ないくらいの形相でサリディアを睨みつけていた。怒っていたのはサリディアも同じだったのだが、意外さに気勢を削がれてしまった。セザイールは何を怒っているのだろう? 今の言葉に、何か彼を直撃し得る要素が含まれていたのだろうか。だとしたらそれは――
「あなたは……あなたは、本当に、今までずっと一人で……?」
 言葉にして初めて、サリディアの中でそうだったのかもしれないと、色々なことが符号した。それで納得できる。まるで人間らしい優しさを持たないようなセザイール。それは逆に、彼が周囲に人間として見てもらえなかったからではないのか。周囲に人間を見出せなかったからではないのか。
「黙れっ!! 黙れ、黙れ! 私は第一王子だ! 家臣ともある程度の距離を置くのは当然だ!!」
 血を分けた肉親とも、距離のある王子だ。
 そのことを指摘すれば、その事実は深く彼を傷つけそうだった。しかも、その傷を癒すべき要素が何もない。それがわかってしまったために、サリディアはそれをためらった。
 ピルルルルー!!
 突如、高い笛の音が夜気を切り裂いた。
「何だ!?」
 セザイールが言ったか言わないか。次々に魔術の明かりが飛来して、辺りを照らし出した。
 ヒュッ
 風を切る音に、サリディアはとっさに反応していた。
「何っ――!?」
 突然体当たりをかけられて、セザイールはすぐには事態が飲み込めないようだった。紙一重のところを、矢が通り過ぎて行く。
 急に動いたせいか、サリディアは軽いめまいを覚えて額に手をやった。たいしたことはない。今はそう思うしかなかった。
「おまえ……」
 セザイールの視線に気付くと、彼女は微笑んで言った。
「御無礼いたしました。お怪我はございませんか?」
「私は……いや、私は大丈夫だ。それよりおまえこそ大丈夫だったのか? 矢がかすめたように見えたが」
 彼の態度の変わりように、サリディアはやや途惑った。正直意外でさえあった。守られることに慣れた者は、時にそれが無償のものではないことを忘れがちになる。
「大丈夫です。それより、あの人は集団戦向きの術は使えますか?」
 サリディアがあの人、と言ったのはセザイールが連れてきていた魔術師だ。
「いや」
 それを聞くやいなや彼女は呪文の詠唱に入ったが、セザイールがそれを妨害することはなかった。遅まきながら、近衛隊が駆けつけてくる。
 彼らはすぐにセザイールを守るべく円陣を組んだ。襲撃者が何者かはわからない。その数ざっと数十人。揃いのものを身に付けているようだったが、見慣れぬ出で立ちだった。賊か、異国の者か。後者である確率が高そうだった。なにしろ魔道師がいるのだ。大陸中の魔道師は国籍を問わず魔道師協会に加盟しており、犯罪に走る者や町中で予告なしに破壊の術を使った者には、協会から追っ手が差し向けられる。それがため、そういった魔道師は少なかった。現在の協会のブラックリストの筆頭は、アルバレンに違いない。
「何者だ」
 セザイールの問いに、敵は答えなかった。ただ、無言で包囲の輪を狭めてくる。
「私を皇太子と知ってのことか!」
「ほう?」
 と、中の一人が進み出てきて、その被り物を払った。装飾も見事な、紋章入りの金のサークレットが額に見えた。隣国スィールの紋章だった。
「な……」
「驚いたな。まさかこんなところで、忍びの皇太子様ご一行に遭遇するとはな。皇太子と言うなら名乗ろう。我こそはスィール・チェル・テリアス・ジェイ・サーヴァント。スィール帝国の第二皇子だ」
「何だと!?」
 セザイールが愕然とサーヴァントを見る。
「運は我らにあり! 生け捕りにしろ! 抵抗するなら殺しても構わん!」
 サーヴァントが声高らかに号令をかけた。すぐに、剣戟の音が響き出す。
 いくらセザイールが率いているのが手練れの近衛隊士たちとはいえ、数が違いすぎる。ざっと見で敵は5倍はいるのだ。しかも魔道師すら、最低でも一人はいる。絶望的な状況だった。
「ちくしょう! どうなってやがんだ」
 ディテイルはサリディアを庇って応戦しながら、文句を言わずにはいられなかった。このゴタゴタで、とりあえずは自由になった。しかし、殺意もあらわな敵の包囲の中では、さっきまでの方がまだましだったというものだ。いくら関係ないと言ったところで、そもそも彼らはこちらが皇太子一行と知って襲ってきたわけではない。見逃してもらえるとは思えなかった。
 ディテイルが何度目かの攻撃を受け止めた時、新手の敵がサリディアに斬りかかってきた。
 ――間に合わない!
 別の一人の剣を受け止めたところで、とてもそちらにまで手が回らなかった。サリディアはなんとかかわしたが、さすがにかわしきるには及ばず、剣の切っ先が彼女の右肩を掠めた。
「やめろっ! このやろ、女にまで剣向けやがって!」
 もう少し――あと少しで、術が完成するのだ。サリディアは休まず呪文を唱え続けた。魔術は全体的には呪文が短いものが多いのだが、彼女が使おうとしているのはかなりの大技だった。それも、相当な技術を要する類の。しかし、他に手はない。ほとんど乱戦状態なのだ。直に魔術で攻撃するわけにはいかなかった。
 サリディアの傷に注意が向いた一瞬、ディテイルに隙ができた。敵がすかさずそこに攻撃してくる。なんとか受け止めはしたものの、彼は完全に体勢を崩してしまった。
 剣が振り上げられる。
 ディテイルが覚悟したのと、サリディアが呪文を唱え終えたのは同時だった。突如、全ての音がやむ。いや、風の音と虫の音だけは聞こえていた。皆、唐突に動けなくなったのだ。
 サリディアは次に急いで術を解きにかかった。時間がなかったので、相手を問わず周辺全てに向けて術を放ったのだ。味方にかけてしまった分は、解かなくてはならない。
 しかし。
 彼女はその半ばに崩れた。心臓を締め付けられるような痛みが走り、体中の力が一瞬抜けたのだ。危うく崩れそうになった精神集中だけはなんとか維持したが、それはさらなる負担だった。サリディアはすぐに中断してしまった呪文の詠唱に戻ったが、それが完成する前に、二度目の痛みがきた。彼女はその場にうずくまり、術もわずかに緩んだ。
「サリサ!」
 声は出せるようになったものの、体は相変わらず動かない。今のディテイルにとって、それはあまりにもどかしかった。彼女は明らかに無理をしているのだ。
「愚かな! 娘、死ぬ気か!?」
 声を張り上げた者がいる。暗い上に誰も動かないのだ。誰かはわからなかったが、どうやら敵だ。
「分不相応の術は身を滅ぼす。魔術の基本であろうが」
 声を上げたのは敵方の魔術師だった。彼は、彼女が力量以上の術を使ったと踏んだのだ。これほどの術を使える魔術師は、国中探しても滅多にいない。むしろ使えただけでも賞賛に値するほどだ。
 しかし、彼の推測は半ば間違っていた。本来なら、彼女にとってこの程度の術は命を削るようなものではないのだ。これほどに衰弱している今でさえなければ。
「どういうことだ」
 そのすぐ隣にいたサーヴァントが問う。
「己の力量を超えた術は、術者の命を削るのでございます。あの娘、このまま続ければ、長くは持ちますまい」
 それを聞いて、サーヴァントはにやりと笑った。
「娘! 今すぐ術を解いて我らに与せばそなたの命は助けようぞ。悪い話ではあるまい。いずれ、近いうちにこの国は滅ぶのだ」
「勝手なことを言うな! 我が国が滅ぶものか!」
 セザイールだった。闇の中で幸いだ。彼は動揺を隠せていなかった。彼女が裏切らないという自信はない。いや、そもそも彼女は逃げるためにこそ術をかけたのではないか。もとより味方ではないのだ。それに気付いた時、セザイールの体を冷たい汗が伝った。そうだ。味方であるわけがない。命を危険にさらしてまで、彼女が彼らを助ける理由はどこにもなかった。報酬なら、スィールにもらえば良いのだ。
「あぐっ……」
 サリディアは胸を押さえてうずくまったまま、それでも術を解こうとしていた。ディテイルにかけたものと、近衛隊にかけたものと――みすみす侵略者に目の前で人を殺させることなど、彼女にはできない。
「娘、どうした!? 術を解かぬか!」
 大分焦った声でサーヴァントが促した。もしこれで彼女の術が成功し、彼女が倒れる前に敵が動き出そうものなら、彼らが危ないからだ。
「マテア、何とかならぬのか」
 マテアと呼ばれた魔術師は、サーヴァント以上に焦っていた。彼女がしようとしていることも、それがあとどの程度で完成するかということも、わかっているからだ。
「この状況では……」
 サーヴァントは血の気を引かせて叫んだ。
「娘、術を解け! 宮廷魔術師として迎えてやる! 王妃に推薦してやっても良い! 術を解かぬか!?」
 サリディアは呪文の詠唱をやめない。
 スィール側の焦りが頂点に達し、術が成功するかと思えた時だった。
 彼らを喜ばせる事態が起こった。
 とうとう、サリディアが血を吐いて呪文を中断したのだ。
「サリサ!?」
「う……」
 もはや、限界だった。目がかすんで、もともとの闇とあいまってほとんど何も見えない。このまま術を維持すれば、死は確実だった。けれど、解けば皆殺される。
 ――助けて
 どうしていいかわからなかった。どうしても、あと少しなのに味方にかけた術が解けない。
「もう、いいよ! やめてくれよ! サリサ!!」
 ほとんど感覚の麻痺した手に、ディテイルの涙の温かさだけ、まだ感じた。
 だめだ。
 解けない。やはり解けない。けれど、このままではいずれ術は解ける。せめて、味方の命だけでも保証してもらいたかったのに――!
 ――助けて
 どうしようもない思いが込み上げた。自分の無力さより、何より、悲しかった。彼が――。セルリアードがここにいない。それだけのことが、どれほど心細いか。どんな状況でも、彼ならなんとかしてくれる。何とかなる。それなのに――!
 それなのに、彼がここにいない!
「セルリアードォ!!」
 サリディアの絶叫がこだました。
 

 X
 ザアアァァ――
 彼女の叫びに応えるように、木々が鳴った。突如巻き起こる風の中、サーヴァントは勝利を確信していた。もう、あの娘は限界だ。数秒のうちにも、術は解けるだろう。
 ざっ
 風が収まった時、サーヴァントは何か違和感を覚えた。何か――
「何者だ!?」
 セザイールが彼らに放ったものと全く同じ問いを、その時サーヴァントは放った。そこに、まるで風が収束したかのように、いつの間にか人が佇んでいたのだ。月光を反射して、その銀の髪が淡く輝いている。性別不祥の美貌だ。
 優しく抱き上げられた気がして、サリディアはか細い声で囁いた。
「セルリ……アー……ド?」
 これが果たして現実なのか。それとも幻なのか。こんなことが、あり得るのだろうか。わからない。ただ、果てしないほどの安らぎがあることだけは確かだった。
「待たせたな、もう大丈夫だ。おまえも、おまえの大事なものも私が守る」
「あ……」
 かすかな吐息を漏らして、サリディアは気を失った。そして、時は動き出した。
「くっ……笑わせてくれるな。何者か知らぬが、今さらおまえ一人増えたところでどうにかなると思うのか?」
 自由を取り戻した今、多少の疑問こそあれ、それを補って余りある自信をサーヴァントは持っていた。そして、セザイールにとっても状況は変わっていなかった。いや、むしろ悪くなった気さえする。どちらが勝ってくれても困るのだ。王が倒れ、ケルトの存在がないも同じになった今、セルリアードは最大の政敵だ。その上――。
 あの時の、彼女に手を出そうとした時の、彼の世にも冷酷な瞳を覚えている。
 自分を見殺しにすることに、彼はどんな抵抗も覚えまい。
「と――」
 さすがに状況を読み切れない様子で、セルリアードが軽く、ディテイルをかえりみた。
 サーヴァントは面白くなかった。この男の、やけに余裕のある態度が気に入らない。
「説明はないのか?」
 ディテイルがあわてて涙を拭う。
「俺にも、よくわかんないんだ……。ただ、サリサはあいつらに俺たちを殺させたくなかったみたいだけど」
「そこの王子様もか?」
 ディテイルが頷く。
「わかった。サリディアを頼む」
 セルリアードはサリディアをディテイルに預けて進み出ると、透き通る声で名乗りを上げた。
「我が名はギルファニート・アル・セルリアード。アルン王国正統の王位継承者だ。命のいらぬ者はかかって来い」
 それを聞くや、サーヴァントが不審げに問うた。
「どういうことだ? その者が皇太子なのではないのか」
「先王が簒奪者でな。私が正統だ」
 王になる気はないけれど。
 事実だ。
 一方、サーヴァントはくっと皮肉げな笑みを漏らした。彼と同じだと思ったのだ。彼の兄は妾の子であったが、子を産めないと思い込んだ母が自分の子に仕立て上げてしまった。ところが、後になってサーヴァントが生まれ――そう、本来なら彼こそが正統の皇太子だったのだ。ならば、どんな手を使っても、いずれ必ずや兄を除いてみせよう。そして、晴れてスィールの皇帝となるのだ。
 危険な敵状視察に乗り込んできたのも、実はそのためだった。
「良かろう、面倒だ。ここで果てるが良い」
 すぐに、戦いは再開された。近衛たちはとにかく必死にセザイールを守った。あるいは、彼ら自身の命を守るべく戦った。しかし、それは長い間のことではなかった。ただ一人、セルリアード一人のために、戦況が急変したのだ。
「何をしている!? 奴は一人だぞ!!」
 サーヴァントはついに動揺を見せた。ギルファニートと名乗る男が、単身、切り込んで来ているのだ。初めのうちこそばかなやつだと思っていられたが、間もなく事態の深刻さが発覚した。たった一人を、誰も討ち取れないのだ。
 戦闘が始まると、セルリアードは剣を右手に疾風のごとく駆け出した。狙いはサーヴァントただ一人。さすがに、これだけの人数をまともに相手取る気はない。
 セルリアードは最初の敵に向かって、上段から真っ直ぐに剣を打ち下ろした。あまりにも当然の攻撃なので、これはさすがに受け止められる。しかし、それこそ計算済みだった。セルリアードはそのまま、反動を利用して兵の頭上を飛び越え、意表を突かれた二番目の敵をあっさりと切り捨てた。
「強い!」
 誰かが叫んだ。しかし、その時には既に次の犠牲者が倒れている。しかも、彼はただ剣を操っているだけではなかった。5人目を斬りながら、同時に完成した魔法を敵の魔道師に向けて放つ。
「ぎゃう!」
 悲鳴が上がった。かまいたちに喉と腕を浅く、そして右足をかなり深く切られたためだ。もちろん、そこで唱えていた呪文も中断だ。
「駄目です! 強すぎます! このままでは……」
 もはやサーヴァントとセルリアードの間に、距離も兵もほとんどなかった。サーヴァントはぎりっと歯を鳴らすと、怒鳴った。
「退け! 今日は偵察だ! 余計な被害は避けろ!」
 しかし、まさに踵をかえした彼の目の前に、敵が舞い降りた。
「何の偵察だ。相手を殺すために包囲しておいて――」
 サーヴァントが気付いた時には、既にぴたりと喉元に剣が押し付けられていた。剣の刃先の鋭さ、残忍さを、これほど強く感じたのは初めてだ。
「セルリアード!!」
 サーヴァントが何とか命乞いをしようと思ったその時、敵陣からただごとではない様子で誰かが叫んだ。少年の声だった。しかし、サーヴァントにとってそんなことはどうでもよい。重要なのは、一瞬生まれた敵の隙を、どれだけ有効に活用するかということだ!
 ガッ
 セルリアードの剣は後方に弾かれ、それでも同時に彼は動いていた。剣が地に突き立った一瞬後には、セルリアードはその場所まで跳んでいる。無論、ここで剣を拾わないわけはない。サーヴァントはとにかく体勢の立て直しに専念しようとした。
「何だと!?」
 セルリアードは剣を拾わなかった。跳び退った反動のままに、再度サーヴァントの目前に迫り、さらにその直前で手を突いて回し蹴りに切り換える。フェイントだった。
 手刀で来ると思っていたサーヴァントは完全に虚を突かれ、見事に転倒した。
「動くな!」
 セルリアードは転倒したサーヴァントに馬乗りになると、短剣を抜いて彼の首筋に押し当てた。
「運が良かったな。時間がない。今すぐここを立ち去るなら、今回だけは見逃してやる」
「たっ……」
 サーヴァントは無我夢中で叫んでいた。転倒した際に肩を強く打ったようだが、それすら今は気にならない。
「立ち去るっ! 立ち去るから殺さないでくれ!」
 セルリアードは彼を突き放すように解放し、言った。
「今回だけだ。次にこの地を侵したら、その時は命はないと思え」
 それが本気の発言であることを、サーヴァントは疑う気にもならなかった。
 

 Y
 偶然の衝突は、これでおしまいのはずだった。ところが。
禁呪!コンファイン
 去り際に、敵の魔道師がセルリアードの魔道を封じるべく術をかけた。彼を精霊使いと踏んで、少女の回復を妨害しようとしたのだ。偵察が失敗したからといって、戦争はまず延期にはならない。となれば、敵国の魔道師は減らせる時に減らしておくに限る。
 術が成功したのを、彼は自らの命を代償に知った。
 シュッ
 セルリアードは魔道を封じられた途端、術者に向けて短剣を放った。狙いは違わず、それは正確にその首筋を切り裂く。しかし――
 セルリアードはくずおれる敵の魔道師の姿を、唇を強く噛んで見つめていた。術は解けない。時間効果のものか――
「サリサが……」
 駆け戻ってきたセルリアードに、ディテイルはサリディアの状態を説明しようとして、言葉に詰まった。どう説明すれば良いのだ。彼女の顔は血の気を引かせたディテイル以上に生気がなく、その呼吸もどんどん弱くなっているのだ。このままでは、まずい。
「変なんだ。どんどん脈が弱くなって……なんとかしてくれよ!」
「サリディア――」
 セルリアードは静かに彼女の手を取ったが、どうにもできなかった。どうしていいのかわからない。確実に、彼女に死が迫っているというのに――!
「どうした。妹だろう、なんとかしろ」
 そう言ったのはセザイールだ。彼の顔も、こころなしか青い。
「何が……何ができる!」
 セルリアードは吐き捨てるように言って、目を覆った。人を殺すことはこんなにも簡単にできてしまうのに、その逆は――いつもそうだった。これまでに、どれだけの者を殺めてきたかわからない。逆に、救えた者はいるのだろうか?
「魔法で何とかならんのか」
 言ってから、セザイールはふと抱えの魔道師をかえりみた。
「ラーダ、何とかできないか」
「私めには……。それより、ギルファニート殿下の方が、先程精霊魔法を使われていたとお見受けしましたが」
 セルリアードはサリディアを抱き締めたまま、つぶやいた。
「封じられた」
 セザイールがラーダの顔を見る。その視線にラーダが小さく頷いた。
「解いてやろうか」
「!」
 とっさに、セルリアードは言葉を返し損ねた。けれど、セザイールにはその表情だけで十分だった。
「一つ条件がある。なに、たいしたことではないが」
「何だ、言え」
「秘刀ティストラーゼを返してもらおう。それはおまえの祖母が、城から王を殺して盗み出したものだ。本来、おまえが持つべきものではない」
 セルリアードの表情の動きを、セザイールは見逃さなかった。さすがに惜しいと見える。三十年前、王妃であった魔女ラディアが持ち去った秘刀。アルン王家正統の王にのみ、帯刀の許された名刀だ。
 いざとなれば、これが王位継承問題の切り札となり得るのだ。
「わかった。急いでくれ」
 未練がありそうなのにためらわない彼を見て、セザイールもさすがに時間がないのを理解した。刀を受け取る前に、ラーダに術を解くよう命じる。
 それを受け、セルリアードが大人しく刀を差し出すのを、ディテイルが誰より腹を立てて見ていた。
 なんなんだ、あの王子はと思う。
 なりゆきとはいえ、サリディアとセルリアードに助けられたのに、恩に着るどころか逆に弱みに付け込むなんて、男の風上にもおけない。王子だかなんだか知らないが、一発ぶん殴ってやりたい。
「ふん。王位には興味のない顔をして、随分と未練があるようだな」
 セザイールの皮肉げな言葉に、やや寂しげにセルリアードが答えた。
「母の形見だ」
 ――形見?
「…………そんなもの、他にもあるだろうが」
 残念ながらと、セルリアードはどこか遠い目をして笑った。
「生家はもうない。父も死んだ。託されたのは、妹とその剣だけだ」
 けれど、別にいいのだと、彼は言った。妹がいる。剣などただの物だから、と。
 セザイールは決まり悪げに彼を見て、剣を見た。そんな、口から出任せを――そんなことはたてまえだ――いくらでも皮肉な言葉は浮かぶのに。
 ひどく下らない理由で、他人の大切なものを取り上げようとしている気がした。
 ――いや。
 下らなくなどない。
 下らなくなどないと、セザイールはかぶりをふった。


「サリサ!」
 セルリアードの魔法が効き始め、彼女に体温と呼吸が戻ってくると、ディテイルは嬉しくてたまらずに彼女の名を呼んだ。返事はなかったけれど、その命がもはや危うくないのは明らかだ。
 それを確認した後で、ディテイルは一つ気付いたことがある。セルリアードの顔に、まともに表情があったのだ。ひどくほっとした、嬉しそうな顔をしていた。
 ――なんだよ。
 綺麗だった。
 いつも無表情なくせに、笑うと随分――
 ディテイルはちぇっと足元の石を蹴飛ばした。
 こいつ、彼女にだけは表情を見せているのだろうか。だから、サリディアは彼が好きなのだろうか。
 だとしたら――
 敵わないかもしれないな、と、思った。

* 第九章 転機 に続く

---