聖魔伝説2≪王宮編≫ アルンに咲く花

第六章 ――過去の糸――

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≪2001.06.09更新≫

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 T
 部屋に、再び疑惑と警戒が生まれていた。
「兄さん……わからないよ。どうしてそこまでして王位を……?」
 ケルトの声の調子には、確実に非難が含まれていた。
「おまえには関係ない。それとも、やっぱりおまえも王位が欲しいか?」
「兄さん!」
 エルディックは唇を噛んでうつむくと、それきりケルトを拒むかのように黙り込んでしまった。
「王位が……王位が手に入ったからって、どうなるって言うんですか!? 兄弟を陥れてまで必要なものなんて……」
「――わかったような口をきくな!」
 とっさに叫んでしまってから、エルディックははっと口許を押さえた。しかし、一度爆発させてしまった感情は収まらない。いくら口をつぐもうとしても、込み上げてくるものはどうしようもなかった。
「おまえこそわかってないんだろう!? 王になるのとならないのと、世代が代わればどれだけ違うと思ってるんだ! 従兄弟たちがいい例じゃないか。同じ王家の血を引いていながら、これまで全く顧みられることもなくて。それが当たり前の世界で――それが当たり前の世界で、どこが悪い!? 僕のしてることのどこが悪いって言う気だ!? 王位を手に入れるために――自分にとって邪魔になる者を排斥しようとして、何が悪い!」
「そんな……」
 エルディックはそれでもまだ堪えていた。それはケルトを陥れようとしていた頃の理由でしかない。今は違う。今は――
「自分をあざむいた者を殺したいと思って、何が悪いって言うんだ――!!」
 そうだ。彼はあざむいたのだ。ケルトに何がわかると言うのか。
「兄さん……どうしてそんなこと言うんですか!? そんなの、あんまりだ」
「うるさいっ!」
 もう止まらなかった。エルディックは震える手で、握り締めていた絹地を音高く引き裂いていた。
「おまえに何がわかる! 僕はロザリーのために――彼女のためだけにこれまで生きてきたんだ。どうしてなんだ!? どうして、彼女と一緒にいたいと思うことがいけないんだ!!」
 いつの間にか、エルディックの頬を涙が伝っていた。ケルトが動揺しているのがわかる。しかし、エルディックは涙を隠そうとも思わなかった。それ以前に、自分が涙を流していることになど、気付いていなかった。
「ロザリーは――ロザリーは僕が最初に見つけたんだ。それからずっと僕が守ってきた。それを、それをどうして今さら兄さんなんかに、奪われなきゃならないんだ!?」
 エルディックが寝台の柱に打ちつけようとした右手を、ケルトはあわてて取った。兄は何か隠していたのだ。そして、今、深く傷ついている。
「兄さん、落ち着いて……! 誰なんですか、そのロザリーっていうのは」
「誰か……だって?」
 エルディックはあ然とした目をケルトに向けた。
「誰も何も、姉さんしかいないじゃないか」
 言ってしまってから、エルディックはすっと顔色を変えた。これは王宮の秘事なのだ。知っているのは父と兄と自分――そして本人だけ。決して他に漏らしてはならないことだった。
「お、おまえには関係ない! もう出て行ってくれ。話すことなど何もない!」
「兄さん!?」
 その時、微かに廊下から話し声が聞こえてきた。緊張が駆け抜ける。
「エルディック、ティティケルト、話がある」
 それは紛れもなくさらわれたはずの国王、セラン二世の声だった。
 

 U
 透き通る赤が揺らめいていた。ガラス細工の水槽に満たされた水を、小さな風車がゆっくりと巡らせる。水槽の中には城があり町があり森があり、それは夢の世界をいつまでも映し出すのだ。たとえ誰一人として顧みる者がいないとしても。


「う……」
 気付くと、サリディアは何か温かいものに抱かれていた。にも関わらず、ひどく寒い。いや、寒気がする。
「気がついてしまわれたのですね。このまま逝っておしまいになれば楽でしたのに……」
 鈴をふるような女性の声だった。
「あ……アイリーナ王女?」
 サリディアは彼女に抱かれていた。否、押さえられていた。左手がひどく冷たい。軽く押さえられているだけだというのに、動けなかった。
「ここ……は……?」
「兄上の自室です。けれど、もうどうでもいいことでしょう? もうすぐ死ぬんですもの。あなたは――」
「な……」
 ふとアイリーナが視線を逸らした。いや、元に戻したのかもしれない。
 彼女はじっとサリディアの左手を眺めていた。
 なんとか首だけ動かして、サリディアはアイリーナの視線を追った。
「綺麗だと思いません? きっともう、あと5分もかかりませんわね。だってもう、こんなに冷たいんですもの」
 そう言ってアイリーナはサリディアの喉に手をかけたが、サリディアの方はそれどころではなかった。
 アイリーナが見ていたものは彼女の左手――否、そこから流れ出す赤い血だ。左手首が深く切れ、水槽の水へとその生命を吐き出していた。
「や……」
 声がかすれる。恐ろしかった。このままでは、本当に殺されてしまう。
「やめて下さい。どうして……どうしてこんなことをなさるんです」
 アイリーナは相変わらず流れ出る血から視線を逸らさない。その瞳はどこか憂いに似た色さえ湛えて、見る者を錯覚させんばかりだった。まるでこの世のことなど見ていないような瞳だ。青い――どこまでも澄んだ海を思わせる青色の瞳――。
「どうして――? わかりませんか? あなたは昨日、お兄様が駆けつけた時にはもう、セザイール殿下に犯された後だったんですわ。お気の毒に――自ら命を絶つほど、あなたにはつらいことだったなんて。でも、同情はできませんわね。私は耐えたんですもの」
 だめ――。
 たった今取り戻したばかりの意識だったが、それは急速に遠のきつつあった。アイリーナの声も、ほとんど聞き取れない。
「おわかりになるかしら。一度に何もかも失った苦しみが――両親も兄弟も、皆同時に失いました。わかりませんわね? 大切な人に裏切られた気持ちなど……。あら?」
 アイリーナは穏やかな顔をしたままで微かに首を傾げた。サリディアはがっくりと頭を垂れ、身動き一つしない。その顔色ももはや蒼白で、生きているか死んでいるか、アイリーナには判断できなかった。
「もう聞こえていらっしゃらなかったの。残念ですわ。まだ聞いて頂きたいことはいくらでもありましたのに……。でも、もうしばらくは、ここでこうしていて差し上げますわ。まだ生きてはいらっしゃるでしょうし、一人で死んで行くのはあまりにもお寂しいでしょうから――」
 彼女がそう囁いた直後だった。突然サリディアの手を取っていた左手がつかまれ、そのまま乱暴に引かれた。
「誰!?」
 背後に視線をやって、アイリーナは愕然とした。
「セ……セルリアード様!?」
「あなたはやり過ぎた」
 それだけ言うと、セルリアードはぐったりとしたサリディアを抱き上げた。冷たい――
「あなたは賢い人だ。何をもくろんでいたのかは知らないが、おそらく計画自体は完璧だったのでしょう」
「どうして貴方がここに――!? 立太子の式典は……」
 違う――!
 彼女を見るセルリアードの瞳は、凍てついていた。アイリーナの額を、冷たい汗が伝う。
「たった一つ、あなたには誤解があった」
「あ……貴方がその娘を愛しているということ――?」
 声が震える。見られたとあっては、彼女には二つの道しか残されていない。彼の口を封じるか、それができない時には――。
 自らも滅びるか。
「それは当然でしょう、妹なのだから。貴女の誤解はもっと単純で、もっとずっと根本的なところにある。それは私が――貴女の理想の相手などではなく、『アルバレン』と呼ばれる犯罪者であることです」
「ア……ル……バレン……?」
 またか。
 また裏切られるのか。
 もうたくさん――!
「殿下!」
 辺りをはばかるかのように、老魔術師のセッグが声を上げた。そろそろ髪に白いものが混じり始めているこの魔術師の顔には、人生に疲れきったと言わんばかりの表情が張り付いている。事実、彼は疲れていた。
「セッグ!? どういうことなの!? 誰も入れるなと言ったはずだわ」
 アイリーナは次々と起こる不測の事態に、さすがに冷静ではいられなくなっていた。てっきり、セルリアードはセッグを倒した上でこの部屋に侵入したものと思っていたのだ。いや、そうでなくてはおかしい。セッグは部屋の前で人が来ないよう見張っていたはずなのだから。
「王女様……どうか、もうおやめ下さい。今ならまだ間に合います。私は、貴女様にこれ以上、苦しんで頂きたくないのです」
「なっ……。おまえにはわからないわ! やめてどうなるのよ! おとなしく死ぬのを待てとでも言うつもり!? いいえ……」
 アイリーナはそばの机の上に置かれた装飾も見事なペーパーナイフを取り上げると、それを無理やりセッグに押し付けた。
「あんな男の妻になるくらいなら、ここで死んだ方がましだわ。さあ、殺しなさいな! それができないなら、今まで通り私に従うのよ。他に選択肢はないわ。あなたが私を裏切るなら、私がどうするかわかるでしょう?」
「王女様――!」
 セッグのナイフを持つ手が震える。王女は彼の正面に立ち、その青い瞳で瞬きもせずに彼を見つめていた。セッグの首筋を冷たい汗が伝う。もし裏切ったら――王女は、彼の秘密を握っているのだ。先代の娘にして第一王位継承者だったセリュージャ。彼女の追放を実際に手引きした証拠を、王女は握っている。
「お許し下さい、私には――」
「他に選択肢はないと言ったわ。罰が恐ろしければこの場でこの私を殺せばいいのよ。状況は完璧よ? リシェーヌを助けようとしたと言ってもいいし、私の計画を暴露してもいいわ。そうすれば、お父様はあなたを罰したりなさらないから。本当は私のことなんて少しも愛していない人ですもの。兄上もエルディックもね。皆、私を支配したいだけなのよ。人形にしたいだけなの。わかる? 飽きられたらそれまでの人形よ? 私はそんなのは御免だわ。だからこの計画を立てたのに――やっと見つけたと思った愛せる人は犯罪者。兄上は婚礼も挙げる前にもう他の女に手を出そうとする。冗談じゃないわ。私は間違っていない。でも周りが皆間違っているわ。大丈夫。私が死ねば、間違っていたのは私ということになるから。そしてあなたは良心の呵責に苛まれながら、これからも生きていけるのよ。そうすればいいわ!」
 とうとう声を張り上げたアイリーナの視界を、突然何かが遮った。
「そこまでです、王女」
 セルリアードだった。彼は王女の目を覆っていた手をどけると、軽くセッグの手を捻った。ナイフはあっさりと床に落ちた。
「折角ですが、私はこれ以上ことに関与するつもりはありません。一切ね」
 アイリーナが明らかな当惑を見せる。セッグは放心の体で軽くなった自分の手元を見ていた。重かったのは無論、ナイフそのものではない。
「もう、すぐそこまで陛下がいらしている。今までに何があって貴女がどうしたいのかは知らないが――」
 セルリアードはサリディアを抱えたまま後ろに下がり、窓を開け放った。
「好きになさればいい。ただ、一つ忠告しましょう。苦しくても現実からは目を背けない方がいい。手を血に染めた後で別の道があったことを知っても――」
 窓枠に足をかける。
「元に戻すことはできない」
 彼はひらりとその身を窓の外へと翻した。アイリーナが驚いて声を上げる。ここは三階なのだ。
「大丈夫です、王女様。殿下は魔道師であらせられます。先程既に風の精霊を呼んで待たせておられました」
「魔道師……」
 アイリーナはぼんやりと呟いた。魔女の末裔と言うだけあって、兄妹そろって魔法が使えるのだなと、感銘も受けずに彼の消えた窓を見ていた。
「……セッグ……どうして彼を入れたの?」
 老魔術師は静かにアイリーナのそばに控えると、目を伏せた。
「殿下も貴女様と同じ秘密を知っておられたからです。そしてもう一つ――」
「もう一つ?」
 アイリーナはその言葉にやや驚きながら尋ねた。それを知った上で、復讐もせずに王宮を出て行くとは――あるいは、もう何らかの形で彼は復讐を果たしたのだろうか? 既に罠が仕掛けてあるとか……。
「殿下がおっしゃったからです。自分は実の父親を死なせてしまった。どうやら王女様も同じことをたくらんでいるらしい、と」
「な……」
 アイリーナは凍りついたように絶句すると、叫ぶように言った。
「余計なお世話よ!」
「王女様……」
 セッグが諦めたように首をふって水槽の水を手早く入れ替えるのを、アイリーナは苦々しげな瞳で見ていた。とりあえず最大の危機は回避されたが、何のことはない。彼とて、王に復讐したいだけではないか。ここまで知っておいて、彼女を告発しないのだから。


 セッグはセルリアードのいまひとつの言葉をかみしめていた。もしアイリーナがケルトにまで手を出すようなら、彼らを守ってやって欲しいと。セッグにはとても、彼が非情な犯罪者だとは思えない。アイリーナを見逃したのも、おそらくは彼女の苦しみを察したゆえだろう。アイリーナ王女――五年前までは、その容姿は確実に彼女の内面を反映していたのだ。あの、嵐の日までは。
 

 V
 数分後、自室に戻るなり、アイリーナは父王の訪問を受けた。もっとも、どちらかというと訪問と言うより呼び出しだ。今から重大な話があると言うのだった。


「子供たちよ、驚かないで聞いてほしい」
 セラン二世はどっしりとした玉座に腰を据えると、そう言って子供たちを順に眺めやった。セザイール、エルディック、ティティケルト。そしてアイリーナとフォニー。フォニーに目をやった時、ふいに固めていたはずの決心がぐらついた。フォニーやティティケルトには、できることならずっと隠しておきたかったことなのだ。この一点の曇りもない宝石たちだけは、そのままにしておきたい――。しかし、彼らにだけ隠しておくわけにもいかなかった。彼らのためにも、そしてここにいる全員のためにも。
 王は飲み物を持って控えていた女官の盆からグラスを取ると、それをゆっくりと飲み干した。まるで気を落ち着けようとでもするかのように。
「私の王位継承は、簒奪だったのだ」
 突然の告白に、さすがに驚いたのだろう。子供達が息を呑む気配がうかがえた。
「余は王位継承者であられた姉上を、王宮から追い出したのだよ。つまり、先日招いたあの二人こそが、本来ならば王位に就くべき者たちだったのだ」
「な……」
 セザイールがわずかに呻き、次には声をあらげて抗議した。
「ならばなぜ、あの男は父上を拉致したりしたのですか!? だいたい女性に王位継承権を持たせるなど、それこそおじい様がどうかなさっていたとしか思われません!」
「セザイール」
 王はわずかに眉根を寄せたが、いさめはしなかった。
「セルリアード殿には、もとより王になる気はなかったようだ。ここに留まる気も」
 理解しがたげに、セザイールが顔を歪める。
「父上、なぜ私たちをこの場に集められたのか、どうぞはっきりとおっしゃって下さい」
 アイリーナが促した。それを受け、王はようやく言った。
「後継者を定める」
 驚きと緊張が駆け抜けた。無論ここにいるのは王とその子供達だけだから、正式な発表は後日ということになろうが。
「第一位王位継承権を、ロザリー・エイシャ・アイレンに授ける」
 これに驚かなかった者はいなかった。フォニーには、それが誰を指すのかすらわかっていない。
「父上!? どういうことなのです! 正気なのですか!?」
 色を失ってわめき立てるセザイールを、王は一瞥をくれただけで無視した。
「よいな、アイリーナ」
 返事はなかった。アイリーナには、その問いは聞こえなかったのだ。全身が震えている。それは喜びのためではなく、混乱と恐怖のためだった。こんなことは、予想もしていなかったのだ。第一、起こり得ないことのはずなのに――。
「父上、誰のことなのですか?」
 フォニーの問いに、セラン二世は静かに語った。
「余の正妃は、故リリエーヌ・アイレンだったのだ。そしてそのただ一人の子がロザリー、つまりアイリーナなのだ」
「どういうことなのですか」
 ケルトも、リリエーヌ妃のことは覚えている。ただし、妃としての彼女をだ。正妃だという話は、ついぞ聞いたことがなかった。そして彼女は、五年前に転落死したのだ。その夜、アルンは激しい嵐に見舞われた。
「もともと余が正妃にと望んだのは彼女だったのだ。しかし、リリエーヌはたまたま宮仕えに出入りしていた庶出の娘だった。ゆえにあちらこちらから反対と非難の声が上がり、婚後二年で現正妃、マリアンヌ・エストリアに替わられた」
 今思えば、彼女はかえって肩の荷が下りてほっとしていたのかもしれない。正妃でいることは、もともと気性が優しく、身分的なコンプレックスを持っていた彼女にはつらいことだったに違いない。しかし、今思えばだ。そんなことは、あの頃は思いつきもしなかった。
「父上、だからと言って強引すぎます! 私は現正妃の生んだ最年長の王子ではありませんか!? それを差し置いて――」
「セザイール!」
 セラン二世は初めて怒鳴りつけた。
「まだわからんのか!? 私がティティケルトに王位を継がせようとしていたわけが」
「わかるわけがありません!」
 セザイールは非難する口調で言ったが、それはさらなる失望を王にもたらしただけだった。
「愚か者が……! おまえもエルディックも、王になるには視野が狭すぎるのだ。そしてセザイール……おまえは利己心が強すぎる」
 父王の言葉は、セザイールの胸に深く突き刺さった。
 怒り――? それとも悲しみだろうか。セザイールはただ、血の気の引いた顔で父王を見ていた。握り締めたこぶしが震える。
「しかし……しかし、それでは何故ティティケルトではなく私なのです!?」
 何故か蒼白な顔をしたアイリーナの問いに、王は気を静めつつ答えた。
「セザイールの言った通りだ。ティティケルトも王子ではあるが、母親の身分から見ても本人の年齢から見ても、順当ではないのだ。それを王位に据えれば、どうやってもセザイールとエルディックは立場がなくなろう。それに余は、やはりリリエーヌを愛している。おまえが嫌がらなければ、おまえを女王として立てたいのだ」
「しかし母上は父上が――!」
 怪訝な顔をしてアイリーナを見るセラン二世の顔は、奇妙に青黒かった。それに誰もが気付いた時、セラン二世は血を吐いた。
「父上!?」
「お父様!!」
 フォニーとケルトが駆け寄る。
 セラン二世はただ、自らの吐いた血を驚いたような顔で見つめていた。
「お父様! どうなさったのです!?」
 フォニーが駆け寄る間に、ケルトは方向転換して戸口に向かっていた。医師を呼ぶためだ。
「誰かっ! 誰かいないのか! 父上が血を吐かれた!」
 次第に遠くなっていくケルトの声を聞きながら、アイリーナはセルリアードの言葉を思い出していた。そして、もうひとつ決して忘れるべきではなかったことを――
 立ち尽くすセザイールの横で、エルディックはじっとうずくまっていた。
 

 W
 日は傾き始めている。夕暮れが迫っていた。空は鮮やかな茜色に染まり、雲がいやにくっきりとその影を落としている。
 嫌な色だ――普段なら綺麗だと思う夕焼けの色を、ディテイルは今はそう思えなかった。色合いといい、雲のかかり方といい、奇妙に不吉な気がした。
「ディテイル、本当に来るんでしょうね」
 甘い声でなされた美女の問いに、ディテイルは陰気に答えた。
「夕方っていう約束なんだ。それに、まだやっと夕焼けが出て来たばかりだし」
「ふうん」
 マーディラは面白くない。どうしたことか、どうも今日の少年はからかいがいがないのだ。帰ってしまおうかとも思ったのだが、少年の言う銀髪の仇とやらに興味があったので、もう少し待ってみることにした。
「あ……」
 ふいにディテイルが漏らした声に、マーディラはその視線を追った。その先には、確かに見事な銀髪の男が、ぐったりとした少女を抱えて佇んでいた。
「待たせたな」
「これ……どういうことだよ!? サリサは連れて来ない約束だろ」
 彼は適当に場所を見繕って彼女を下ろすと、言った。
「見ての通り意識がないんだ。追っ手がかかる可能性もあるのに、その辺に置いてはおけない」
「……何があったんだ?」
 セルリアードはその問いには答えず、マーディラを見た。
「ラディアじゃないな」
 そう言われると、マーディラは嬉しげに微笑んだ。
「よくわかったわね、ラディアのこと、覚えてるわけでもないんでしょうに。ねえ? セルリアード」
 彼は少なからず意表を突かれ、マーディラを見直した。
 まるで、彼がラディアに会ったことがある、と言わんばかりの口ぶりだ。あくまで高度な護法の使い手として探しているのであって、直に知っているわけではない。
 外的特徴や経歴も、人づてに聞いて知ったことに過ぎないのだ。
 ――仮にも祖母だから、物心つかない頃に会っていたのか。
「……どうして名前を?」
 マーディラはウフフと笑った。
「だって、私があなたの命名式をやってあげたんだもの。ラディアに頼まれてね。その名前の由来、知ってる?」
 セルリアードは静かに首を横にふった。名前には神聖語で意味を含ませる場合が多いのだが、セルリアード、という名前に神聖語は関係ない。単に響きでつけたものと思っていた。
「本当は発音が違うんだけど、魔族語で『真実を映す鏡』っていう意味よ。ラディアが命名したんだけどね」
「……彼女との関係は?」
 とりあえず、名前のことはいい。名を付けたのが両親でなかったことは意外だったけれど。
「姉妹。私、ラディアの妹よ。名前はマーディラ。腹違いだから、こう見えても私は純魔族なんだけど」
「妹――。ラディアの居場所を知っているか?」
 マーディラはゆったりと腕を組むと、背後の木にもたれながら言った。
「知ってるけど……。ただで教えてあげる気はないわけよ。姉さんに何の用なの? 面白ければ取り次いであげるわ」
 

 X
「父上!」
 重い頭をフォニーに預けつつ、セラン二世は呆然とアイリーナを見た。彼女の様子がおかしかったのは、まさか――。
「おまえ……なのか……?」
 アイリーナは潤んだ瞳でじっと父王を見つめていた。が、突如身をひるがえす。
「待てっ!」
 その手をセザイールがつかんだ。
「兄……」
「どうして逃げる?」
 アイリーナはその手をふりほどこうとしながら、震える声で言った。
「セッグを……セッグを呼びに行くだけだけです! 放して下さい! 父上が死んでしまう」
 しかしセザイールは放さなかった。普段冷たい機械のもののように思っていたセザイールの手は、今は悪魔のそれだった。
「放して……!」
「あの老いぼれ魔術師を呼んでどうする気だ? まさか、解毒してもらう、なんて言う気じゃあないだろうな」
 アイリーナが涙で一杯になった目をセザイールに向ける。
「放せっ」
 その時、突然小さな白刃が閃いた。
「エルディック!?」
「何!?」
 短剣はセザイールの首筋をかすめ、そこに赤い筋を残した。
「エルディック兄様!? やめて下さい!」
 フォニーが叫んだが、彼女はそこを動けない様子だった。もし今父王の元を離れたら、父王が息を引き取ってしまうような気がしているのだ。
「ロザリーに触るな! これ以上何かする気なら、何をしてでも殺してやる!」
 エルディックがアイリーナを背後に庇いながら叫んだ。瞬間、セザイールの表情が凍った。そこには、もはやひとかけらの人間らしさも見当たらない。
「ほう、それじゃあ、おまえはアイリーナが重犯罪人になるのを黙って見ている、というわけなんだな?」
「な……んだって……?」
 セザイールは見る者を不快にさせるような、勝ち誇るかのような薄笑いを浮かべて言った。
「父上に毒を盛ったのはアイリーナさ。その女は父上を殺すつもりだったんだ」
「ま、まさか――」
 セザイールはさらに唇の端を吊り上げると、とどめとばかりに猫撫で声で囁いた。
「そしてその罪は全ておまえのものだ。父殺しの汚名を着せられて、おまえは死んでいくことを強いられている――くく、愛する女に」
「――うそだっ! でたらめだ! そんなこと、僕が信じるとでも思っているのか!? 兄さん!」
 セザイールは軽く肩を竦めると、すっとエルディックに指先を向けた。
「おまえが信じたいか信じたくないかはともかく、今のおまえ自身が何よりの証拠だ。違うか、エルディック?」
 エルディックは額にじっとりと汗を浮かべて、先程からどうにも震えの止まらない腕を眺めた。どうして震えが止まらない? ひどく体が苦しいのも、毒のせいだって――?
 そこで、エルディックは愕然とセザイールを見た。
 なぜ、兄がそれを知っているのだ。
 先程の試合、セザイールが使ったものこそ毒刃だった――!?
「嘘だ……嘘だっ!!」
 それを認めることへの恐怖のために、エルディックは絶叫していた。刹那、強い痙攣のためによろめく。その手が、ほとんど無意識のうちにアイリーナの衣装の裾をつかんでいた。
「……ロザリー……嘘だろう? ロザリーが、そんなこと……」
 その彼から逃れようとでもするかのように、アイリーナが一歩、後退った。
「……ロザリー……?」
 エルディックの顔は既に死人のもののように蒼白だったが、それは毒のためとも思われなかった。エルディックはがっくりと膝を落としたまま、ともすれば潤んできそうな瞳でアイリーナを見つめた。それしかできなかった。
「どうして……どうして黙ってるんだ!? ロザリー――!」
 と、エルディックは息を詰まらせ、苦しげに肩を揺らした。握り締めるこぶしの色すら、彼に死を予感させる。
「あ……」
 ふいに、エルディックの頬を滑り落ちた涙。アイリーナは卒倒せんばかりの顔色でさらに後退りかけ、両手で顔を覆った。
「ロザリー……お願いだから、嘘だって……嘘だって……言っ……」
 エルディックは自らの涙にむせるように咳き込むと、もはや声さえ出せずにただアイリーナを見つめた。涙は止まることを知らず、彼女の顔もはっきりとは見えない。
「エルディック……」
 アイリーナは衝動を覚えていた。とてつもなく強い衝動だ。しかし、それは破滅へとつながるものなのだ。それでも――
 今こそ、彼女は自らの心を見た。
「私は――」
 ふいに優しく抱かれて、エルディックは目を上げた。胸が哀しく安らぐ。おそらく、自分はもう助からないのだ。けれど、せめても彼女の腕の中で死んでいけるなら――
 アイリーナは密かに決意を固め、穏やかな眼差しでエルディックを見た。目頭が熱い。
「兄上の言った通り、兄上に毒刃を使わせたのも、父上に毒を盛らせたのも私……私なのよ……。どうしても許せなかった。でも」
 アイリーナは力一杯エルディックを抱き締めた。一生分の思いを込めて。
「もう、いいわ。母にも、私自身にも報いることはできなかったけれど……。不思議ね。母を殺されてもまだ、あなたがこんなに好きなのよ――」
「何……」
 アイリーナの言葉の意味が理解できず、エルディックの口から微かな声が漏れる。けれど、彼女は数秒彼を抱き締めて腕をはなした。セザイールに向き直る。
「どいて下さい」
「いやだね」
 アイリーナは扉の前に立つセザイールに近付きながら、言った。
「私が本気であなたを王位に就かせるつもりだとでも、お考えだったのですか? 兄上」
 セザイールは全く動じた様子も見せず、彼女を蔑むように見据えている。アイリーナは静かに続けた。
「全ては私が玉座を手に入れるため、母の復讐のためにやったこと……。父もエルディックも倒れたというのに、身の危険を感じないのですか? 貴方らしくもない」
「何……!?」
 初めて、セザイールが顔色を変えた。
「まさか、おまえ……」
「先程の試合、エルディックにも毒刃を使わせました。心臓発作に見せかけるため、効果の遅いものを使ったから、まだ発症されないだけです。エルディックが死ねば、何の毒を使ったかを知っているのは私だけ……。そして、私は貴方を許さない」
「貴様!」
 突如襲いかかってきたセザイールを避け切れず、アイリーナはそのまま床に押し倒された。セザイールがその喉に手をかけ、護身用の短剣を抜く。
「言え! 何の毒を使った!?」
 アイリーナはなんとか逃れようとしたが、できなかった。
「言わないか!?」
 セザイールが短剣の鋭い刃先を、彼女の秀麗な額に押し付ける。血が一筋、流れた。
「お兄様! やめて下さい!」
 瞬間フォニーの存在を思い出して舌打ちしたものの、セザイールはフォニーをふり向きもしなかった。後で始末すればいい。
「このまま切り刻むぞ!」
 それが脅しではないことを、アイリーナは知っていた。けれど彼に従う気は毛頭ない。アイリーナは観念して目を瞑った。
 ヒュッ
 微かに風を切る音がした。何か生温かいものが頬に滴る。
 いつの間にかセザイールの手が外れていた。彼は右腕を押さえて、憎々しげに玉座を見据えていた。いや、フォニーを。
 彼の肩には、フォニーの投げたダーツが深々と突き立っていた。
「フォニー!?」
 起き上がって彼女を振り返ったアイリーナに、フォニーは無理な笑顔を見せた。ちなみに、ダーツはフォニーの得意技である。暇を持て余していたこの一年半、練習をしては城を抜け出し、近所の子供達と腕を競い合っていたことは秘密である。
「陛下!」
 その時、あわただしく扉が開かれた。ケルトが人を呼んで来たのだ。中の光景に、一同はしばし絶句した。
「セッグ! 父上を……父上とエルディックを助けて!」
 アイリーナの声に、セッグは弾かれたように彼女に駆け寄った。
「私じゃない……! お願い……エルディックと父上を……」
 セッグは驚いて彼女を見たが、すぐに頷いてエルディックに近付いた。国王には、既に精霊司(【ルヴェラ】国王に仕える精霊使いの長)が向かっている。精霊司に癒せないものなら、彼の出る幕ではないからだ。しかし、セッグはエルディックの顔色を見ただけで戻ってきた。
「セッグ……?」
「手遅れです、アイリーナ様……。もう、毒を抜いて助かる段階を過ぎています」
 アイリーナは瞬間目を大きく見開き、信じられないというふうに首をふった。
「だめよ。嘘をつくのはもう終わり。助かるんでしょう?」
 セッグはうつむいたまま黙っていた。アイリーナがすっかり感覚の麻痺した手で、口許を覆う。
「嘘……嘘よ――!」
 アイリーナはよろめく足で、エルディックの元へと向かった。エルディックが、すっかり生気を失った顔をわずかに動かす。
「エルディック――エルディック!」
 彼女は夢中で彼の腕を取り、そのまま抱き寄せた。
「いやよ、エルディック! お願い、死なないで――死なないで! 私がばかだったわ。気付かなかったのよ。あなたがこんなに好きだって。誰よりも、あなたが好きだって!!」
「……ロザリー――」
 エルディックは笑おうとしたようだったが、それは成功しなかった。
「あ…い……してる……」
「エルディック!!」

     *

「駄目なの?」
 かろうじて聞き取れるかどうかというほど微かなファスの問いに、ケルトは答えられなかった。精霊司に支えられた王の体は、一向に回復の兆しを見せない。まるで、もう死神に捕まっているかのように。もはや、手の施しようはないのかもしれない。
「ケルト……」
 ファスがわずかに震える手で、ケルトの服の袖をつかんだ。一つだけ、方法はあるのだ。けれどその方法は……。呪術を使えることが知られれば、即ここを追い出されることは目に見えている。追い出されるだけで済めばまだいい。
「ファス?」
 うつむいたまま、ケルトは微かに訝った。と同時に、ある可能性に思い至る。
「助けられるのか!?」
 ファスは正直に頷いた。顔色が先程より幾分青い。緊張のせいだ。
「助けられるんだね!? 頼むよ。一生恩に着る」
「うん、でも二人同時には無理なの。死んじゃった人を復活させるのも、今の私には無理だし……」
「そんな……」
 その時、もう意識がないかに見えていた王が突然目を開けた。
「ティティケルト」
「父上!?」
「エルディックを……余はいいからエルディックを助けてやってくれ。余はもういい――こうなったのも、全て余の責任なのだ。そしてエルディックはこれからだ。助けてやってくれ……」
「父上!」
 ケルトは父王の手を痛いほどに強く握っていた。なぜ、選ばねばならないのか――父も兄も、彼にとってはかけがえのない存在なのに。けれど、躊躇してはいられなかった。急がねば、二人とも手遅れになる。
「ファス……兄さんを」
 瞬間、ケルトの頬を涙が伝った。ファスは一瞬どきっとしたものの、すぐにケルトに背を向けた。これ以上、ケルトを悲しませたくない。
「ティティケルト……最後に聞いてくれ」
 必死に嗚咽を堪えて、ケルトは静かに頷いた。


「アイリーナ王女、人をさがらせて下さい。今ならまだ助かります」
 出し抜けに背後からかけられた声に、アイリーナはもちろん驚いた。
「私が助けます。人をさがらせて下さい」
「あなたが……?」
 未だぼう然としているアイリーナに代わり、すぐにセッグがそれを実行に移した。そもそも彼は気に入らなかったのだ。まるで野次馬のように集まっている、無関係な者達――。
 ほどなく魔道師と皇族以外の者が退室すると、ファスはエルディックを部屋の中央に横たえた。魔道師たちから協力の申し出はあったが、それは手短に断る。人間には、手を貸せないことなのだ。呪術――人間には使うことのできない、忌むべき邪術。ファスはそれを使うことを避けていたが、今はそれしかなかった。彼の身の時間を逆行させる。簡単なことではないが、できるはずだった。

* 第七章 影花散華 に続く

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