聖魔伝説2≪王宮編≫ アルンに咲く花

第四章 ――偽りの天使達――

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≪2001.05.19更新≫

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 夕食の後、サリディアは部屋で一人、ぼんやりとしていた。ケルトの濡れ衣を晴らすための対策を考えようとするのだが、気になるのは別のことだった。
 別のこと――アイリーナ王女のことだ。彼女はどう見ても、セルリアードに好意があるようだった。美しいアイリーナ王女。あの二人を並べると、本当に綺麗だった。優しげで、知的でもある王女。本当に非の打ち所のない……。
 そしてもう一つ。気のせいか、昼頃からずっとセルリアードに避けられている気がしてならない。そもそも、彼はいったい何のためにここに留まり続けているのか。本気で王になろうとしているとも、考えにくいのに……。
 彼が王になったら。
 それは、あまり考えたいことではなかった。
「リシェーヌ」
 次第に募ってくる不安を持て余していた時、ふいに部屋の外から声がかけられた。セルリアードではない。まずそう思った後、その声の主に思い当たって、サリディアはハっと身を硬くした。セザイールだ。
「リシェーヌ?」
 再び名を呼ばれ、ふと気が付いて彼女はあわてて返事した。リシェーヌ、というのは彼女のことだ。
「入ってもいいかい?」
「……どうぞ」
 ためらった後にそう言うと、セザイールが手に二つのグラスを持って入ってきた。ワインだろうか、鮮やかな赤紫色の飲み物がつがれている。
「何の御用でしょう」
 どこか警戒した声に、セザイールは軽く肩を竦めて答えた。
「どうも、君は私を見ると追い返したがるね。ティティケルトとは、随分打ち解けていたようだけど」
「それは……あの……」
 セザイールが言うのももっともだった。けれど、実の弟を暗殺しようとしていた人物なのだ、警戒せずにはいられない。そしてそれを抜きにしても、この王子はどこか、屈折したものを持っていた。
 ――昼間のこともある。
「まあ、いいけどね。それより、葡萄酒はどうだい? ずっと一般人に混じって生活してたんなら、こんな最高級品は初めてだろう?」
「いえ、私、お酒はあまり……」
「大丈夫だよ。そんなに強いものじゃない。それとも、せっかく持ってきたのにこのまま帰れって?」
 サリディアは仕方なくグラスを取った。グラスの中の透き通った液体が揺れる。
「綺麗――」
 葡萄酒を飲んだことはなかったが、半ばその色合いにつられるように、彼女はそれを口に含んだ。セザイールは、もう一方のグラスをゆっくりと揺らしながらそれを眺めている。
 甘い。
 彼女の口には、あまり馴染まない味だった。
「……葡萄酒って、なんだか思ってたより甘いんですね」
 そう言って彼女が顔を上げると、セザイールがまだ手をつけていない自分のグラスを静かにそばの机に乗せた。
「あなたは飲まないんですか?」
「甘いものは嫌いでね――」
 セザイールは言うと、突然サリディアの顎に手をかけた。
「え……?」
 彼がしようとしていることに気付いて、サリディアは驚いて身を引いた。その腕を、セザイールがきつくつかむ。
「な……やめ……」
 サリディアの言葉など聞かず、セザイールは強引に彼女を引き寄せた。勘違いではない。昼間感じたことは、勘違いではなかったのだ。
 次の瞬間、驚くべき速さと正確さで、サリディアはセザイールの腕をその細腕で捻じり上げていた。
「な――!?」
「帰って下さい!」
 半ば信じられない思いで、サリディアは叫んだ。これが、王子たる者のすることか。
「おまえ……」
 サリディアは彼を力一杯突き飛ばすと、もう一度言った。
「帰って下さい! もう二度と来ないで!」
 その時ふいに、軽いめまいを覚えてサリディアはよろめいた。おかしい。
「フ……」
 それまであ然としていたセザイールが、その瞬間卑劣に笑った。
「もう遅い。おまえはあれを飲んだ」
「あれ――?」
 サリディアはぞっとして、セザイールを凝視した。その笑みの意味するところは――何か、薬を混ぜて!?
「誰――……」
 あわてて叫ぼうとしたが、ふいに声が出せなくなった。声が出ない――!?
「顔色が悪いぞ? 何も、そんなに嫌がることでもあるまい? 私が王になったら、責任もって妃の一人に加えてやるさ」
 サリディアはさらにその顔から血の気を引かせた。冗談ではない。なんとかこの場を逃げなくては――
「わからない娘だな……悪いようにはしないと言っているんだ」
 サリディアは近付いてくるセザイールの横をすり抜けようと試みたが、薬とドレスのせいで体はうまく動かない。それを見逃すセザイールでもなかった。
 彼は苦もなく彼女を捕らえると、背後から抱き込もうとした。
「諦めろ」
 ――いや!!
 サリディアは夢中で動いていた。もう場所がらになど構っていられない。後でどうなろうと知ったことか。――投げ飛ばしてやる!
「なっ……」
 しかし、さすがに相手も素人ではない。すぐにそれと気付くと、セザイールは乱暴に彼女を後方に向かって投げ出した。
「――っ」
 毛足の長い、柔らかな絨毯の上に投げ出されたといえ、無理な体勢で落下したために、サリディアは息を詰めた。
「とんでもない女だな。この私にしかけようとは……」
 セザイールはサリディアの様子などおかまいなしに、額に手を当てて彼女を絨毯に押し付けた。
 ――セルリアード!!
 サリディアはほとんど無意識のうちに、出せない声で助けを求めていた。
 

 U
 ピシッ
 何かが駆け抜けたような気がして、セルリアードはふっと虚空を見た。
「――どうかなさいまして?」
 アイリーナがそれを見咎める。約束通り、彼女はセルリアードの部屋を訪ねていた。
「……いえ……――気のせいでしょう」
 セルリアードは言ったが、なぜか焦りは消えない。部屋には二人の他にもアイリーナ付きの女官たちがいて、静かに優雅な曲を奏でている。
 多分、話を聞かれまいとしてのことだなと、セルリアードは薄々察していた。
「……セルリアード様、先程のお返事を聞かせて下さい。王になって、私を妃に迎えて下さる気は、ありませんの?」
 およそ敵う者などいないと思える美貌の姫に、そこまで言われながら、彼は涼しい顔で微笑むだけだった。
「……あなたのお父上が、それを許さないのではありませんか?」
 セルリアードの答えに、アイリーナはふっと微笑した。頬が微かに紅に染まって、優雅さにすら勝って美しいことこの上ない。
「許すも許さないもありませんわ。父上は迷っていらっしゃいますもの。むしろ、何もかも運命に委ねたいとさえ思っていらっしゃるに違いありませんわ」
「運命……ね」
 わずかに自嘲的な笑みを見せた後、セルリアードはすぐにそれを作為的なものにすりかえた。
「姫君には何か良い考えがおありのようだ。あなたには現国王の実子である兄君と弟君がいらっしゃるのに、私に王になれとおっしゃるのですから」
 その言葉に、アイリーナはそれまでとはうって変わって真剣に言った。
「御前試合で――王位を、御前試合の勝者に与えるよう、説得しますわ。大丈夫。どこからも文句は出ません」
「どこからも?」
 アイリーナは真剣な表情のままに頷いた。自信はある。父王だけでなく、セザイールもエルディックも説得できる。やや不安が残るのはティティケルトだが、状況からしても彼の性格からしても、たいした文句は出ないはずだ。
「後は貴方次第ですわ。どうか、優勝して私を――私に、銀のティアラを贈って下さい」
 銀のティアラは、アルン国王の正妃に授けられるものだ。代々受け継がれてきたそれは、先代の正妃だったラディア失踪とともに失われていたが、無論現国王成婚の際に新しいものが作られていた。
「これはまた……。随分と高く買われているようだ。王位を取れるかどうか、怪しいものですが」
「取れます。兄上もエルディックも、もちろんティティケルトも貴方の剣技には敵いませんもの」
 その時、また何かが胸を射た気がした。
「……」
 アイリーナが怪訝そうに彼を見る。
「姫……そろそろ戻られた方がよろしいでしょう。時間も遅いのですから」
「ええ……でも……」
 何だろう。先程から、どうも彼の様子が落ち着かない。
 セルリアードは突如立ち上がると、前触れもなく扉を大きく開け放った。
「ティティケルト!?」
 そこに立っていたのはケルトだった。あまりにも予想外の来客に、アイリーナが一声上げたきり、絶句する。
 しかし、セルリアードはむしろ冷静だった。気配を感じたのはつい今しがただし、立ち聞きしていた様子もない。彼のことだ、アイリーナの気配にノックをためらってでもいたのだろう。
「セルリアード……ちょっと――」
 ケルトがきまり悪そうにしながらも、アイリーナをはばかる。
「何だ?」
 さらにためらった後、ケルトは開き直ったかのように言った。
「サリ……いや、えーと、その、リシェーヌの部屋の様子がおかしいんだ」
 ケルトすら驚くほど、セルリアードは表情を一変させた。
「どういうことだ!?」
「それが――」
 しかし、返事すら待たずにセルリアードは駆け出していた。嫌な予感がする。まさか――
 ぼう然とそれを見送ったケルトは、ふと不安そうにしたアイリーナが近付いて来るのに気付いた。
「ティティケルト、何があったのですか?」
「姉さん……それが、リシェーヌさんの部屋をセザイール兄さんの護衛が固めてて――」
 その途端、アイリーナはすっと顔から血の気を引かせた。
「兄……の……?」
 アイリーナはきゅっとこぶしを握り締め、すぐにセルリアードを追うように駆けて行った。
 

 V
 ――助けてっ
 サリディアは必死の抵抗を続けていた。しかし、確実に追い詰められていく。
「リシェーヌ……いい加減にしないか」
 セザイールが相当苛立った声で言った。苛立ちもする。なにしろ、薬のせいで動きの鈍った相手にてこずっているのだ。
「少し、痛い目をみないと言うことがきけないか?」
 セザイールはサリディアの左腕をつかむと、文字通り真上に捻り上げた。サリディアがわずかに苦痛に顔を歪める。
「ふん、可愛い顔をして、てこずらせて――」
 言いつつ、今度こそその唇を奪おうと、かけた手を即座に払われて。
 セザイールはカッと頭に血を昇らせた。許せない。自分をこれほどまで拒絶するなど――!
「いい加減にしろっ! この――」
 セザイールはぐっと、サリディアの左腕をつかむ手に力を込めた。こういう娘は、抵抗できなくなるまで痛めつけるべきだ。自分に歯向かうことなど、何人たりとも許さない。
「――!!」
 捻り上げられていた左腕に走った激痛に、サリディアは気が遠くなるかと思った。声が出せていたなら絶叫したに違いない。左腕を折られたのだ。
 サリディアはたまらず、その場に倒れ込んだ。セザイールが残酷な笑みを湛え、その折れた左腕に手をかける。彼は、彼女の顔が苦痛に歪むことすら、楽しんでいた。
 小刻みに震え、苦痛に喘ぐ彼女をベッドに横たえ、セザイールがその耳元に囁きかける。
「私に逆らったりするから、こういうことになるんだ。これ以上痛い目にあいたくなければ、おとなしくすることだな……。もっとも、組み敷かれた状態からで、どれほど抵抗できるものでもないが、な」
 セザイールの指がわずかに彼女の首筋に触れ、ドレスにかかる。
 ――いやっ!
 動いた途端、腕に激痛が走り、サリディアは息を詰めた。
「バカな娘だ――」
 セザイールが笑いながら、彼女に口付けようとした時だった。
 フッ
 微かに風が動くような音がした。
 かと思うと、彼は思いきり壁に叩きつけられていた。
「なっ……」
 咳き込みながら顔を上げ、セザイールはぎょっと目を見開いた。
 凍てつく蒼の瞳が彼を見ていた。
「出て行け」
「貴様、誰に向かって――!」
 セザイールの抗議を遮るように、セルリアードが繰り返す。
「出て行けと言っているんだ」
 声は静かだったが、異様な殺気があった。それに、とっさのことに今まで気付かなかったが、いったい何が彼を壁に叩きつけたのか。
「く……! 私をこんな目にあわせて、ただで済むと思うなよ!」
 捨てゼリフを残して立ち去ろうとしたセザイールに、すれ違いざま、セルリアードが低く囁いた。
「次は殺す。二度と触れるな」
 その瞬間の、冷酷なまでの殺意。ぞくっと背筋が凍り、セザイールはもつれる足で部屋を出た。そして、息を呑んだ。
 そこには、気を失って倒れた彼の護衛達がいたのだ。あの男は、一人で音すら立てずにこれを――?
「お兄様……」
 これで何度目か。セザイールはまた息を呑み、ふり向いた。
「アイリーナ……」
 彼女は黙って彼を見ていた。普段、青く優しげにけぶるその瞳が、今はなじるように彼を見ている。刺すような冷たさだった。
 突如アイリーナは身を翻し、一度だけセザイールを顧みた。セザイールが、弾かれたように追いかける。アイリーナは小走りに進みながら、その淡い唇を噛み締めていた。
 
     *
 
「サリディア……」
 抱き寄せると、よほどこわかったらしく、彼女の身がまだ震えているのを感じた。
 片腕だけで彼にしがみつき、声もなく身を震わせている。
 セルリアードは安心させるように彼女を抱きながら、ふと覚えのある香りに気付いた。サイドテーブルに置かれたワイングラスだ。彼も昔、飲まされたことがある。まず声が出せなくなり、体が軽く痺れるのが特徴だ。もっとも、極魔道師――呪文なしでも特定の魔道を操り得る者――である彼にとって、それは致命的な障害ではなかったけれど。
「こんなものを……」
 彼は静かに呪文を唱え、その手をサリディアにかざした。
「セルリアード」
 魔法による解毒の途中で、背後から遠慮がちに声がかかった。彼は術の中断はせず、目だけでふり向いた。ケルトだ。
「……何かの間違いだろ? 姉さんと結婚するって……」
 セルリアードはそのまま解毒を続け、それを終えてから、ケルトに向き直った。ケルトはかなりじれた様子だった。それでも、おとなしく返事を待っている。
「いや――。間違いじゃないな。アイリーナに聞いたのか?」
 セルリアードの声がちょうど半年前、初めて会った頃のような冷たさで響いた。
「間違いじゃないって……だって、本気じゃないんだろ!?」
「本気じゃ悪いか?」
 妙に機械的な調子のその言葉に、ケルトはしばし言葉を失った。本気で? アイリーナと?
 確かに彼女は比類なき美貌の持ち主であり、性格も優しく礼儀正しくて、聡明で。およそ非の打ち所のない女性だけれど……。
 ケルトはカっと頬を紅潮させた。
「サリサはどうすんだよ! だいたい、さっきは血相変えて飛び出したじゃないか!」
 セルリアードはわずかに眉を寄せ、やや乱れた銀の髪をかきあげた。
「サリディアには借りがある。しかし、どの道彼女を妃に迎えることなどできまい?」
「なっ……」
「用が済んだなら帰れ。何時だと思ってる」
 なおも出て行こうとしないケルトを、セルリアードは無理やり追い出しにかかった。
「やめろよっ! この……」
 半ば無意識に抵抗しながら、ケルトは混乱の極みにあった。セルリアードの考えていることがわからない。
「なんで……なんでだよ! どういうことなんだよ!」
「おまえには関係ない。近いうちに皇太子を決める御前試合がある。それまでせいぜい殺されないようにしてろ」
 最後にそれだけ言うと、セルリアードはケルトを締め出してしまった。ケルトが握り締めたこぶしを思い切り扉に叩きつけ、中に向かって叫ぶ。
「何が御前試合だ! そんなことになるわけないだろ! 何を勘違いしてるのか知らないけど、おまえなんかに絶対に王位は渡さないからな!!」


 ケルトの足音が遠ざかって行くのを確認してから、セルリアードは扉から離れた。
 サリディアは何とか声を出そうとしていたが、もう出るはずの声は出なかった。頭の中が真っ白で、どこか遠くで胸が早鐘のように打っていることだけがわかる。
「サリディア――」
 声をかけ、彼女の様子を見るなり、セルリアードは眉をひそめた。サリディアに近付き、その左腕に手を伸ばす。
「や……」
 その手を逃れようとして身動きした途端、痛みが駆け抜けた。呻いて、サリディアは左腕を押さえつつ歯を食いしばった。声が出ない。声を出したら、涙まで一緒になってこぼれてしまいそうだった。
「おまえ……腕が折れて……」
 セルリアードは声を掠らせて言うと、再び彼女の左腕に手を伸ばした。
「や……いやっ」
 一瞬驚いたような顔をしてから、しかしセルリアードは強引にサリディアの腕を取り、骨の位置を正した。
「はうっ」
 激痛に、サリディアは身を屈めた。けれどその痛みも、今はどこか遠い。逃れたい。消えてしまいたい。閑散とした、そら寒い感覚だけが、胸を占める。
 しかしセルリアードは何も言わず、すぐ癒しの魔法を使うべく、呪文の詠唱に入った。いつもと変わらない――泣きたくなるほど綺麗で、悲しい瞳で。
 ズキン
 胸がひどく痛んだ。サリディアはなんとか身を引こうとしたが、セルリアードにしっかりと押さえられていて動けない。
「はな……し……」
 しかし言葉は続かない。
 逃れようとしてもただ痛むばかりで、腕に力が入らない。
 やがて、部屋は淡く優しい光に包まれた。
 痛みは潮が引くように消えていった。セルリアードが静かに手を離す。
「すまない――」
 ぽつりと呟かれ、サリディアはその目を大きく見開いた。
 ――いや……――
 こわかった。逃げていても始まらない。それでも、その先を聞くのがこわかった。彼が言おうとしていることは――
 さながら死刑の宣告を待つ者のように、彼女の顔は蒼白だった。
「甘かった。ここなら安全だろうと思って、油断したんだ」
 しかし、彼の口からは、彼女が予想だにしていなかった言葉が出た。
「……え……?」
 セルリアードが静かに寝台の端に腰を下ろす。
「じき、ここも出る。王になる気などなかったし、どうやらここにいてもあまり意味はなさそうだからな」
 サリディアは茫然と彼を見た。それから、どうにか声を絞り出し、尋ねた。
「で……も、さっきは……」
 セルリアードが苦笑する。どこか温かい笑みだった。
「ケルトには茶番は無理だ。そうだろう? せっかくだから、どうにかしてやろうと思ってる。御前試合までには、黒幕のしっぽをつかむつもりだ。もう、誰が糸を引いているのかは、見当がついた――」
 

 W
「何も、仰ることはございませんのね」
 アイリーナが、静かに水を吹き上げる小さな噴水を見つめながら呟いた。否、その青く美しい瞳は今、翳っている。噴水など見てはいないのかもしれない。セザイールは何か言いかけたが、言わなかった。
「……」
 アイリーナは黙って水面を見た。昼間見れば、水面は澄んだ水を湛えて美しい。けれど、今はただ闇の色に染まって、彼女はそこに自らの心の深淵を見ているように感じていた。
「御前試合を――」
「……何だ?」
 セザイールは無造作に尋ねた。自分が気を遣わなければならないことに、腹を立てているのかもしれない。そう、彼は気分を害していた。そもそも、彼女に責められるいわれはない。腹違いの妹である彼女を正妃にすると、その約束をしたのはいつだったか。いずれにしろ、自分は皇太子なのだから、妻を一人に絞る必要は全くないのだ。何も、あの娘を正妃にしようと考えたわけでもないのに、アイリーナのこの態度は何か。気に入らない。
 もっとも、未だはっきりと責められたわけではないけれど……。
「御前試合の勝者に王位を与えるよう、父上を説得しようと思っていました」
「御前試合の勝者に?」
 セザイールはあからさまに眉をひそめた。剣に自信がないわけではないが、どうもあの従兄弟は危険な気がする。
「何も仰いませんのね。あなたに、より確実な王位をと思ってのことですのに――」
「……どういうことだ?」
 アイリーナは水面から視線を外さぬままに、答えた。
「ただ一度、エルディックにさえ勝っておしまいになれば……あとは、私がことを運ぶつもりでした。もちろん、誰にも悟られずに――」
「おまえが? あの従兄弟とは、闘わずして決着するということか」
 熱心に耳を傾け始めるセザイールの様子に、アイリーナは密かに嘆息した。やはりこの男は、彼女など二の次なのだ。権力の方が大切なのだ。
 そして、彼女は心を求められない、ただの美しい人形にされた。
「ええ……。あの人との試合はありません。あの人がケルトとの試合に勝とうが負けようが、決勝戦は行われません」
 セザイールは口許に楽しそうな笑みを浮かべた。エルディックになら、勝つ自信がある。それも今なら彼は病み上がりだ。試合は早ければ早いほど良い。もっとも、エルディックの方がごねるだろうが……。
「他の者は首を縦にふったのか?」
「いいえ……。まだ話していません。ですが、兄上さえよろしければ、話を進めてきます」
「もちろん、私に異存はないさ」
 セザイールは言うと、アイリーナの肩に手をかけた。その肩が硬い。彼女は水面を見つめたまま、ふり向かなかった。その様子は多少の焦りをセザイールにもたらしたが、彼は彼女の言葉をほぼ信用していた。彼を裏切ることは、彼女の身の破滅を意味するからだ。
「怒っているのか?」
「怒ってなど……怒ってなど、おりませんわ」
 それは真実だった。彼女がセザイールに対して抱いている感情は、怒り、の一言で片付くような生易しいものではない。
 セザイールは口許を覆うアイリーナの手をどけると、その柔らかな、例えようもないほど美しい唇を奪った。アイリーナがほとんど無意識のうちに、そのこぶしを握り締める。自らの爪が、その繊細な指を傷つけたこにも気付かずに……。
 夜は、今、その闇を深めようとしていた。
 

 X
  「へえ、それじゃあ、仇討ちの旅をしてるわけ」
 マーディラの言葉は多分にからかうような響きを含んでいたが、もうだいぶ酔いの回ったディテイルはそれに気付かなかった。むしろ、その声の音楽的な美しさに聞き惚れている。
「そうなんだ。相手は殺人鬼で、俺の父さんと母さんを殺したんだ。あの、銀髪野郎」
 ディテイルがグラスを持つ手に力を込める。グラスが軋んだ悲鳴を上げた。
「ふうん、銀髪ねえ……。そういえば、今日は遅いわぁ」
 ディテイルは一瞬きょとんとした顔でマーディラを見つめてから、ろれつの怪しくなった口調であわてて尋ねた。
「もしかして、もうそんなに遅いんですか? 俺、気が利かないから……。そうか、女の人はこんなに遅くまで酒場にいたりしたら危険……」
 しかし、ディテイルの言葉は唐突に終わった。マーディラが、いきなり吹き出したからだ。
「あはは、そうじゃないわよ。まあ、私にかなうやつなんてそうそういないから安心してくれていいわよ。ありがと、坊や……」
 マーディラがディテイルのあごに手をかけ、自分の方を向かせる。ディテイルは驚いたような顔をしたまま、みるみるそれを赤らめた。
「かわいい。はやく姉さんに見せたいわ」
「姉さん?」
 マーディラはいたずらっぽく微笑んだ。
「そう。腹違いの姉。あなたは今日は私のものなんだから、心を移したりしちゃだめよ」
 その言葉に、ディテイルはますます顔を赤らめた。相手はこれほどの美女だ。こんなことを言われては、他にどうしようもないではないか。
 どうやら坊やには刺激が強すぎるみたいね――マーディラは思いつつ、ますます妖艶に笑った。少年には悪いが、面白いことは事実なのだ。
 からんからん
 新しい客が入って来ると同時に、あちこちから口笛や歓声が起こった。マーディラとディテイルもふり返る。現れたのは、マーディラさえも凌ぐほどの美貌を持った女だった。
 真っ直ぐの、長い銀髪が目に染みた。いや、正確には青銀と言うべきか。
「ラディア!」
 マーディラが呼ぶと、彼女は周囲に適当に愛想をふりまきながら、しかし同時に適当にあしらいながら近付いてきた。
「あら、また一人なの? 私がこぉんなにかわいい少年用意して待ってたっていうのに」
 開口一番、マーディラが楽しそうにディテイルを紹介する。ラディアは優雅な仕種でそばの椅子に腰かけると、ディテイルをまじまじと見た。
「かわいい少年ねぇ。確かにかわいいけど、この子大丈夫なの? もしかして、お酒とか初めてなんじゃない?」
「え……」
 マーディラがそろそろとふり返る。
「初めてなの?」
 ディテイルはややうろたえつつ頷いた。マーディラが何とも言えない複雑な表情を見せてうつむき、その肩を震わせる。次の瞬間、彼女は弾けるように笑った。
「そりゃ大変じゃない。そろそろ帰らないと、一人で帰れなくなるわよ。まだまだ宵だけど、仕方ないわね」
 彼女は名残惜しそうに言って、ディテイルを立たせた。
「まあ、あなたのためよ。今日はもう帰りなさい」


 ヒュウ――
 冷たい夜風の吹く真っ暗な田舎道を、ディテイルはおぼつかない足取りで一人、歩いていた。何だか気が抜ける。まるで、夢でも見ていたようだ。
「そういえば――」
 ディテイルはふと、ケルトのことを思い出した。なかなか話しやすいやつだった。王子だと言っていたが、その割には偉ぶったところもなかった。むしろ、あれは絶対に女たちの尻に敷かれていた。しかも、彼も一時サリディアに憧れたことがあったそうだ。もし彼が王子などでなければ、子分にしてやるところなのだが。
 そこまで考えて、ディテイルは一人で笑ってしまった。立場で見れば、自分の方こそ子分だ。
 家の前に、黒い影が一つ佇んでいた。ディテイルはとっさに身構える。
「ディテイルか!?」
「兄さん!? 大丈夫なのかよ、あんな、ひどい怪我してんのにふらふら立ち歩いて……」
「馬鹿! 誰もせいだと思ってるんだ。……おまえ、酔ってるのか?」
 直後にふらついたディテイルの体を、ディセクは呆れて抱きとめた。腕が痛む。
「まったく、何をやってたんだ、おまえは……」
 ディセクが痛みに顔をしかめていることにも気付かずに、ディテイルはその腕に体を預けていた。
「うん。ごめん、兄さん……。今日は、いろんなことがあったんだ……」
 ディセクの肩を借りて家の中へと向かいながら、ディテイルはほっと、息を吐いた。安心したのだ。ここには、いつも通りの兄がいる。厳しさの中にも優しさを持った、自分の自慢の兄が。
 

 Y
 ぱたん……
 微かな物音に、眠っていたエルディックは目を覚ました。深夜とはいえ、昼間からずっと寝ていたせいで、眠りはごく浅いものだった。
「誰だ――?」
「……私ですわ」
 エルディックは跳ね起きた。近くに他に人の気配がないことを確認すると、必死に押し殺した声で問う。
「ロザリーか!?」
「ええ」
 彼女はそっと歩み寄ってくると、寝台の端に腰を下ろした。
「……ロザリー?」
 薄明かりしかないのではっきりとは見えなかったが、彼女は震えているようだった。
「エルディック……」
 彼女はエルディックにしがみつくと、その温かな胸に顔を埋めた。彼女の震えが、今度こそはっきりと伝わってくる。いやな予感を覚えながらも、エルディックは優しくその肩を抱いてやった。こんな彼女は初めてだ。
「どうしたの?」
「お願い……お願いです」
 彼女は、確かに恐れていた。その震えは半分は演技で、もう半分はそうではなかった。これは賭けだ。
「セザイールを……あの人を、殺して」
「な……」
 さすがに驚いて、エルディックは彼女を抱く腕を離しかけた。何かが――第六感とも言うべきものが、それ以上話を聞くことを拒んでいる。しかし、それは彼女への思いの前に、あえなく潰え去った。
「なぜ?」
 彼女はしばらく、じっとエルディックにしがみついて身を震わせていた。けれど、やがて絞り出すように、今までひた隠しに隠してきた事実を打ち明け始めた。あの日、母を亡くした日の、忘れられるものなら忘れてしまいたい記憶――セザイールに犯された、その残酷な事実。


 エルディックは、目の前が真っ暗になったような気がしていた。頭の芯が痺れる。何と答えていいのかわからなかった。心臓が止まりかけているのではないかと疑うほど、体の自由がきかない。
「そん……な……」
 やっと言えたのはそれだけだった。悲しみなのか怒りなのか憎しみなのか、それすらもわからない思いが胸に渦巻く。
「お願い……殺して下さい、あの男を――。もし、それでもあなたが私を愛してくれるなら……」
 彼女は震える声で言うと、透明な液体の入った小さなガラスの瓶を取り出した。
「遅効性の猛毒です」
 エルディックは、半ば無意識にその瓶を受け取った。その小さな重みと同時に、彼ははっきりと認識した。今の彼を支配するもの。それは悲しみであり、怒りであり、憎しみであるのだと。その、全てなのだ。
 エルディックは腕の中で震える彼女を、力一杯抱き締めた。彼女の震えが、その認めたくない事実を肯定して胸を抉る。
「許さない……! セザイール!!」


 エルディックに抱かれながら、ロザリーは微かな胸の痛みを訝っていた。微かな、けれど致命的な痛みなのだ。
 迷っている?
 そんなことはないわ――。
 彼女は無理やり自分自身を納得させた。今こそ、復讐を果たすべき時なのだ、と。

* 第五章 真実の傷跡 に続く

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