聖魔伝説2≪王宮編≫ アルンに咲く花

第三章 ――偽りの天使達――

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≪2001.04.14更新≫

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「――それで? 今さら何の御用です」
 王宮の一角の豪奢な応接間で、セルリアードは一人の初老の男と向き合っていた。サリディアは少し離れた寝室で、今は休んでいる。ようやく闇が降りてこようかという頃合だから、休むのには少し早い。けれど、彼女はもう十分疲れていた。
「まあ、まずはおかけ下さい。貴殿のお祖母様を知っている者なら、一目でそれとわかる御容姿ですな。世に二つとなさげな……人のものとも思えぬ美貌で」
 ふうん、と、セルリアードはわずかに冷笑した。
 彼に実際、魔族の血がわずかとはいえ流れているのを知った上で、そういう言い方をするのか。腹に一物も二物もありそうな男だ。考えなしに言っているのではあるまい。
 やんわり脅迫しているつもりか、小手調べと言うところか。
 セルリアードが黙って勧められた椅子に腰を下ろすと、初老の男――宰相が苦笑した。
「そう、不機嫌な顔をされてはどう切り出したものか困ってしまいますが……。お呼び立てしたのは、貴殿にこのアルンの王位を継ぐ気がおありかどうか、直接確かめたかったからです」
「王位を?」
 セルリアードがあまり興味もなさげに聞き返す。
「何がおっしゃりたいのかわかりませんが。この国には、2、3人王子がいるはず。それを押し退けてまで、わざわざ追放した王女の息子を王位に就けようと?」
 宰相が芝居がかった驚きを見せる。セルリアードの冷めた視線など、意に介す様子はない。
「追放したなど、とんでもない。貴殿の母君は、お祖母様に連れられてこの王宮を出て行かれたのです。そして今、不信の闇に揺れる王宮を立て直せるのは、正統の王位継承者である貴殿をおいて他にはないと、私は確信しております」
 セルリアードは呆れた瞳で宰相を見た。とはいえ、出任せもここまで言えればたいしたものだ。
「先日、第二王子のエルディック様の暗殺未遂があったのです。ご本人は否認されていますが、手を下したのはほぼ確実に第三王子のティティケルト様。それに、第一王子のセザイール様が加担していた疑いがあります」
 第三王子の名に聞き覚えがあった。誰だっただろう? まあ、思い出せない以上はその程度の覚えだ。彼は特にこだわらず、聞き流した。
「なぜ、第二王子が暗殺される必要が?」
「それが……」
 宰相が辺りをはばかるように声をひそめて、王宮の事情をかいつまんで説明する。
 それをさして興味もなさげに聞いた後、セルリアードは頷いた。
「事情はわかりました。それで、どうしろと」
「貴殿は御歳も十九で、王位を継がれるのに何の支障もないのです。まだ、陛下もはっきりとは、貴殿に王位を譲ろうとは仰せになっておられませぬが――。この上王子達が争うようなら、そのお考えも変わるでしょう」
 含みのある声音と顔つきだった。
 そう仕向けてもいい、と言っている。
 望むなら、おまえをこの国の王にしてやろう、と。
 セルリアードは支配者としての教育を受けてきていない。彼の即位に力添えをしたあかつきには、実質的にアルンの支配権を握る気なのだろう。
「そうですか」
 それならそれで良かった。そちらがそういう気なら、こちらにも考えがある。セルリアードはわざとじらすように腕を組み、目を伏せた。
 彼が二つ返事で話に乗ってくると思っていた宰相は、多少の焦りを感ぜずにはいられなかった。そもそも、目の前の若者は瞳の光が強すぎる。知性の閃きが、鋭すぎる。こういう目をした者を、果たして傀儡の王となし得るのか……。
 しかし、結局彼はまだ若い。その上この世界のことなど何も知らず、わからない者なのだ。
 優位に立つことは、そう難しくもないはずだった。
「よろしい。そちらがお望みなら、王位に就くのも、ね」
 ついにセルリアードがそう言うと、宰相は満足げに頷いた。後は、王をその気にさせるのみだ。

     *

 ディテイルは、布団の中で眠り続ける兄を見るとはなしに見ながら、どうしようかとぼんやり考えていた。サリサが、アルバレンの、妹? アルバレンは両親の仇だが、妹は――関係ない。
 兄は、そんなことを認めはしないだろうが……。
 考えるうちに、ふと昼間押した彼女の胸の柔らかさなど思い出して、ディテイルはあわてて頭をふった。
 そういえば、そもそも宰相がいったい何の用だったのか。二人とも、まだ王宮にいるのだろうか。いるとしたら、何とか潜入できないだろうか……。
 ディセクが、静かに寝返りを打った。
 
 

 U

 そこは、何もない闇の中だった。何もない。光も音もなく、冷え切っている。あるとしたら、自分の意識のみか。
「誰か――」
 突然の恐怖に、彼は――セルリアードは誰かを呼ぼうとした口をつぐんだ。意識のどこかに、これから起こることを知っている自分がいる。そして、それを恐れている。
 ――どうして、呼ぶのが怖い?
 何故か、この先を知っている自分に問いかけてみる。返事はなかった。ただ、さらなる恐怖だけが募ってくる。
 …… ……
 限界だ――
 彼はどうしても震える身を押して、なんとか声を出そうと試みた。ただここにいることもまた、耐えられない恐怖なのだ。誰が耐えられるだろう。こんな、何もない闇の中で――冷たく、誰もいない空間で正気を保てるか。
「誰か――誰かっ……誰かいないのか!?」
 前方で何かが弾けた。彼が反射的に身を退くと、その背が何かに当たった。
 何だ!?
 ふり向いた彼の腕を何かがつかみ、突然周囲の光景が開けた。
「うわぁっ!?」
 彼は『それ』から顔を背けて倒れるように退いた。苦渋に満ちた、血まみれの顔――殺し屋の顔だった。初めて殺した男――十三の冬に、初めて経験した命懸けの闘い。
「くっ……」
 つかまれた左腕が突然血を吹き、激痛が全身を駆けめぐった。そうだ。あの闘いで、猛毒の塗られた短剣を左腕に突き立てられて、そのまま意識を失って……そして、一週間死線をさまよったあげく、彼は一命をとりとめてしまった。死期を逃してしまった。
 あぁ……
 いつの間にか殺し屋の幻影は消え、入れ代わるように苦しげな呻きがそこらじゅうから聞こえ始めていた。それは彼を追い詰めるかのように、辺り一面にこだまする。
 すぐに一人の若い女の姿が、目の前の空間に浮かび上がった。
「あ……」
 いつの間にか、彼はその手に刃物を持っていた。やっと馴染み始めたばかりの、鋭く軽い短剣を……。
 ――きゃあぁぁっ
 突如として、子供を背に庇った女が悲鳴を上げてのけぞった。そしてその背後の子供の血が、純白の絨毯を朱に染めて行く。
「まだ何もしてないっ! どうして……」
 ――したわ
 地の底から響いて来るような、怨みに満ちた声が聞こえた。彼が、やった? 彼が!? 彼が! 十四の、呪われた誕生日――!!
 ――返して……私の子を……私の命を……
 すがりついてくる女の腕をふり払い、彼は無我夢中で駆けた。逃げても逃げても、亡者たちは追ってくる。そしてまた新たに現れる。
 いつの間にか、手に刃物はなくなっていた。自分が何をしているのかも忘れていた。しかしその手で顔を覆った途端、彼はすぐ異常に気付いた。立ち止まって赤い光に手を透かす――
「うああぁぁっ!」
 それは、赤い光の中でなお赤く、彼の手を濡らしていた――



 
 微かな呻きに、サリディアは目を覚ました。ランプの仄かな明かりが、淡く室内を照らしている。
 ――ここは、どこだったろう?
 彼女はまだぼんやりする頭で、記憶をたどった。次第に意識もはっきりしてくる。
 ふいに、また微かに声がした。サリディアは淡い闇を透かす。
「セルリアード!?」
 彼女は驚いて飛び起きた。彼は、彼女のベットにうつ伏して眠っていた。ずっと、看ていてくれたのだろうか。しかし、彼女は同時に彼の様子がおかしいことにも気付いた。うなされている。普通ではない。
「セルリアード」
 少しためらった後、彼女はそっと彼の名を呼んで揺すった。
 
 


 あぁぁ……
 うぅ……

 どこまで行っても、彼らから逃れることはできなかった。それでも、とても立ち止まる気にもなれない。いつしか、返り血で真っ赤に染まった自分を、彼は感じていた。
 十五、十六……
 『彼ら』は、一見不規則に現れているようでいて、着実に過去をたどっていた。時を重ねるにつれ、もはや自分の存在すら意識から失われそうになっていく。耐えられなかった。いつまで、こんなことを続けていればいいのか……。
 ――……、……
 もう何度目かすらわからなかったが、また何かが腕をつかんだ。彼の名を、呼んでいるだろうか。彼の――セルリアードの名を?
「サリディア?」
 ふり向いた彼の目に映ったのは、まぎれもなく彼女だった。そう、サリディア――
 ふいに、彼女は手を離した。離したかと思うと、その体に幾筋もの赤い線が走る。
 見る間に、彼女はその顔から血の気を引かせてその場に崩れた。血も凍るような感覚とともに、セルリアードは夢中で彼女の腕をつかんだ。抱き寄せる。息をしていない? 心臓が止まって――!?
 違う――!!




「あ……」
 突然揺すっていた腕をつかまれて、サリディアは身じろぎした。


 気付くと、そこは静かな淡い闇の中だった。夢――
 澄んだ虫の声のみが、耳に届く。
「セルリアード?」
 気遣わしげな声に、セルリアードは顔を上げた。すぐに、自分がかなり強く彼女の腕をつかんでいたことに気付く。
「ああ……すまない……何でもないんだ」
 そうは言ったものの、彼は無意識のうちに手で顔を覆っていた。
 この夢を見るのは初めてではない。このところ毎夜だ。そしてそれがため、二日間ほとんど眠れていないという有り様だった。
 しかし――
 彼はぐっとこぶしを握り締める。サリディアが現れたのは初めてだった。しかも、あんな形で……。
 最悪だ。
「……いつから?」
 突然の彼女の問いに、彼は一瞬、時が止まったかのような錯覚を覚えた。
「……何のことだ?」
「今日だけじゃないよね。ずっと、顔色が悪いから」
「顔色が……」
 彼は彼女の言葉を繰り返した後、自嘲めいた声で笑った。
「おまえに気付かれるようじゃ、私もまだまだだな……。十日前からだ」
 セルリアードはつと、その右手を眺めた。すぐに夢で見た色と感覚とが、生々しく蘇ってくる。
「サリディア、頼むから帰ってくれないか」
 彼女はぎゅっと毛布を握り、しばらく沈黙していた。
「……やっぱり、迷惑だよね。足手まといになるばっかりで……」
 彼女は耐え切れず、そのまま毛布に突っ伏した。一緒にいても迷惑にしかならない。迷惑にしか――
「サリディア……」
 彼女の細い肩が震え、嗚咽が漏れる。胸が痛かった。
「泣くな。私の手は汚れている。関わらない方が身のためだ」
「関わらない方が……身の……ため……?」
 サリディアは起き上がると、震える声で言った。
「そんなふうに言わないで。私……自分のこと心配してくれてると思いたいから、だから、そんなふうに言われたら――本当はわかってるの。私が邪魔なんだって。足手まといなんだって。でも……」
 離れたくない。一緒にいたい。どうしてなのだろう? 勝手なことを言って困らせて――邪魔したくないのに、止められない。
「お願い――お願いだから邪魔なら邪魔だって、はっきり言って。そうしないと、私、帰れない……」
「サリディア……」
 そのまま、しばらくどちらも何も言わなかった。
「どうしてついてくる? いると言ったろう、誰か……」
 ややあって、セルリアードが尋ねた。彼女は沈黙の後、首をふった。
「……どっかに、いっちゃった」
「は……?」
「昔ね、約束したの。すごく優しい、澄んだ目をした子と――その子が、すごく好きだったから。本当に、本当に好きだったから。だけど……」
 思い出は、移り行く季節。優しく包み込んでくれた故郷。けれど、その中にあの子はいない。あるいは、あの子は風や森や草原だった? 失われた記憶は、もとより存在しなかった?
 確かにあの子は風や森や草原、そんなものに似ていた気がするけれど。より、彼女に近い存在では……なかったろうか?
「怒らないでね。からかってるわけじゃないの。でも、その子のこと……何にも覚えてなくて。約束の内容も。思い出そうとしても、ただ、寂しくて悲しくて仕方なくなるだけで――。おかしいよね。こんなにあやふやで……抱えてたって仕方ないのに、ずっと、大事に抱えて……待ってたなんてね」
 待っていた。けれど。
 心に残る風景は、変わらない。いつまでも。けれど彼女は――現実は立ち止まっていてはくれなかった。思い知ったのは、いや、思い知らせてくれたのは、セルリアードだったけれど。
 彼はただ沈黙している。
 彼女の言葉に、瞳に、異質な感情が湧き上がる。抑えてしまえる――以上は、抑えてしまうしかない。
「夢、なのかな……」
 サリディアがしょんぼりと呟く。
「……夢だろう」
 セルリアードは一度、目を閉じた。
「帰ってくれ」
「……」
「おまえが嫌いなわけじゃない。ただ、私の罪は……私は業が深すぎる。とっくの昔に、私の命は尽きているんだ。ここにいるのはただの屍――死体だ。おまえに、何を与えられる? 私には何も生み出せない。与えられるものといったら、いや、与えてしまうものといったら、喪失と絶望と死――それだけ……だ……」
 彼は自分自身の言葉に愕然としていた。本当に、それだけだなんて――
「違……」
「帰れ!」
 言うなり、セルリアードは剣を抜いてサリディアに突き付けた。サリディアの動きが止まる。
 彼は苦しげに首をふった。
「そんなものをおまえに与えたくない――!」
 目を見開いた、後。
 彼女は静かに突き付けられた剣先をどけると、彼の懐に滑り込んだ。胸に、そっと頭をもたせかける。
「な……」
 セルリアードは彼女を押し退けようとその肩に手をかけたが、手は思い通りに動かなかった。彼は彼女の肩をつかんだまま、どうすることもできなくなっていた。
「……いい」
「何……?」
「いいの」
 サリディアの肩をつかんだ手は、むしろ意思に逆らって動くようだった。彼女の背中へと回り込み、そのまま抱き寄せようとする。
「どうしてなんだ……? 私に関われば、不幸になるだけだと……」
「ならないよ。あなたがそう望むなら――少しくらい、あなたの思い通りになることだってあるんだよ。あなたの罪も……いつか、忘れても許される時がくる」
 そんなことはありえない。信じることは不可能――むしろ、許されない。けれど。
「……」
 彼女を胸に抱き締めたまま、解放してやることができなかった。あさましくも、救いを求める自分が他の全てを圧倒していた。
 なぜ、それでも彼女は受け入れるのだろう? 何もかも見る影もなく――汚れきってしまった自分を。
 あの頃を覚えていながら、なぜ、受け入れることが――。
 温かすぎて、優しすぎて、自分の罪が痛かった。
 

 V
「今まで伏せていたが」
 朝食の席で、現国王セラン二世は厳かに切り出した。長方形の食卓を、伏せっているファリエス――ケルトの母を除いた親族と、客のファスが囲んでいる。
「お前達には従兄弟がいるのだ。先のラディア王妃のことは知っておるな? その孫だ」
 セザイールとエルディックが、明らかに歓迎しない顔をする。
「その二人が、昨日見つかってな。今日から、共に暮らすことになる。お前達も、もう子供ではない。どのように接すべきかは、心得ておるな」
 セラン二世は、子供達の表情に小さく溜め息を吐いた。
 敵意を見せるセザイール、面倒くさいな、という様子のエルディック。
 アイリーナはどこか無表情で、ケルトは反応しなかった。晴れない暗殺未遂の嫌疑の方が気になるのだろう。
 実のところ、セラン二世には誰を信じて良いのかわからない。ケルトだけは、兄弟に刃物を向けたりしないと思っていたのだが……。状況は、彼に徹底的に不利だった。
 そんな中でただ一人、フォニーだけはその知らせを聞いて顔を輝かせていた。
「フォニーは嬉しいか?」
「はい、お父様。嬉しゅうございます。今日、お食事をご一緒するのでしょう?」
「ああ。ちょうど、来たようだ」
 セラン二世はフォニーの声に救われた思いで、給仕の者に合図した。扉が開かれ、官人に案内されて二人の人物が食堂に入ってくる。途端、いくつもの感嘆の声が上がった。
 それはよく整った造作の二人だ。特に、青年の方の美貌が際立っている。もっとも、ケルトとファスが声を上げたのは、無論そのためではなかった。
 そして入ってきた二人も、セルリアードまでが、一瞬ながら驚きの表情を見せた。
「そこの席についてくれ。私が現国王のセラン二世だ。皆にも紹介しよう。彼がギルファニート・アル・セルリアード。十九歳だ。そして彼女が同じくリシェーヌ。十七歳だ。二人とも、よく来てくれた。こちらも紹介せねばな」
 紹介と食事を終え、二人が部屋に戻ろうとすると、すぐにケルトとファス、それにフォニーが追いかけてきた。追いついたはいいが、すぐには言葉が出ない。初めに声をかけたのは、事情を知らないフォニーだった。
「セルリアードさん、リシェーヌさん、兄様がお話したいって言ってるんですけど、お時間頂けますか?」


 とりあえずケルトの部屋に入って人払いをすると、それぞれ適当に場所を見つけて身を落ち着けた。一つの部屋に5人も入っているわけだが、狭くはない。もともと、一人には広すぎる部屋なのだ。そして、今日は天気がいいので窓も開け放してある。時折微風が軽いカーテンを揺らし、小さな風鈴を鳴らして行った。
 数秒の沈黙の後、まず、セルリアードが無造作に尋ねた。
「おまえ、本当にこの国の第三王子なのか?」
「な……それはこっちのセリフだよ! そっちこそ、兄妹でもないだろうに、何のつもりなんだ?」
 二人の会話に、フォニーが目を丸くする。
「お兄様、知り合い!?」
 ケルトが曖昧な顔でフォニーに答える。知り合いと言うか、何と言うか……。
 フォニーはかなり不満そうだったが、それでも遠慮してかすぐに黙った。
「どうやら、本当に従兄弟だったらしいな……。私は間違いなく、アルン正統の王位継承者――前国王カディアスの直系だ。もっとも彼女の方は、行きがかり上妹ということにしただけだが」
「正統のって……!? 何だよ、それ」
「聞いていないのか?」
 ケルトとフォニーが不安げに顔を見合わせる。そもそも、従兄弟がいたということさえ初耳なのだ。
「そうか……」
 セルリアードはあえて自分の意見を主張することもなく、話題を変えた。
「ところでお前、本当に第二王子を刺したのか?」
「お兄様じゃないわ! お兄様はそんなことしない!」
 フォニーが驚きと怒りの入り混じった表情を見せて叫んだ。どうして、兄の知り合いにまで疑われなくてはならないのか。とはいえ、相手はあっさりと納得したようだった。むしろ、驚いているのはサリディアだ。
「何? ケルトが人を刺したって、どうして……!?」
 とりあえず事情が混乱して仕方ないので、ざっとケルトが中心になって状況を説明した。終わるやいなや、セルリアードが無表情に問いかける。
「それで、どうする気だ? お前、確実にやったと思われてるぞ。私にしても、疑われているのがお前でなければ、そんな馬鹿みたいな話は信じない」
 それまで警戒の目でセルリアードを見ていたフォニーが、ぱっと顔を輝かせる。
「信じてくれるの!?」
「……ああ。いかにもこいつのはまりそうな罠だ」
 やや素直に喜べない言い方だったが、今は王宮に少しでも味方がいるだけでありがたかった。
「どうすればいいかわからないから困ってるんじゃないか。ここにいるのは、一週間だけのつもりだったのに……」
「それなら、今すぐ出て行けばいいだろう?」
「そんなの!」
 ケルトはかなり憤慨した声で言った。こっちは真剣だというのに――
「そんなことしたら、僕がやったって認めるようなもんじゃないか! それに、母上がご病気だって言ったろ!? 心配かけられないよ」
「世話のやける……」
 あまりの言い種に、フォニーが文句を言おうとした時だった。扉が軽くノックされ、セザイールとアイリーナが入室してきた。
「……兄上、姉上? あの、何か……」
 ケルトの問いに、アイリーナが困ったように微笑した。
「用、というわけではないのですけれど……。私達も紹介して頂こうかと思いましたの。……いけませんでしたか?」
「いえ、そんなことは……あ、ちょうど話も一段落したところですから」
 ケルトはあわてて言い繕った。アイリーナが言うのももっともだ。とはいえ知り合いなのは、ややこしくなるので伏せておく。
「それは良かった。ちょっと、彼女に見せたい物があってね。借りていっていいかな」
 サリディアはとっさに、助けを求めるようにセルリアードの顔を見た。しかし、彼は黙って窓から庭を眺めているだけだ。結局、サリディアはかなり強引に部屋から連れ出されて行った。
 一方アイリーナも、はにかんだような笑みを見せてセルリアードに声をかけた。
「私も、あなたにお話したいことがありますの。よろしかったら、中庭にご一緒願えませんか?」
「姉上……ここでは駄目なのですか?」
 アイリーナの表情に不安を覚えて、ケルトが尋ねる。セルリアードは窓に向けていた視線を彼女に移しこそしたが、沈黙を守っている。
「お兄様、構わないではありませんか。お姉さま、どうぞ行ってらして下さい」
 フォニーがそう言うのとほとんど同時に、セルリアードがその場に立ち上がる。
「ありがとう、フォニー。ごめんなさいね、ティティケルト。すぐに済ませますから」
 さすがにケルトも首をふる。
「いえ、急がなくて結構です。本当に、話は済みましたので……」


 とうとう3人になってしまってから、フォニーは無神経な兄に文句を言った。
「お兄様、お姉様はどう見ても二人きりになりたがってらしたのに、あんなこと言っちゃだめじゃない」
 ケルトが困ったように唸る。
「やっぱり、フォニーにもそう見えたのか……。それが問題なんだよ」
「どうして? 別に構わないじゃない。私はちょっと遠慮したいタイプだけど、確かに素敵だと思うし」
「でも、ねえ?」
 ファスとケルトが顔を見合わせる。どうも、セルリアードは相変わらず何を考えているのかわからない。いったい、本当に何のつもりなのか……。
 

 W
 中庭を案内しながら、アイリーナはセルリアードの人となりに、微笑を浮かべずにはいられなかった。一見素っ気ないが話し方に知性が感じられるし、比類のない彼の美貌は中性的かつ神秘的で、人を魅了してやまない。
 その上スラリと背が高くて、隣を歩いているだけでもどきどきした。
 彼なら――
「あの、何とお呼びしたらよろしいですか?」
 鈴をふるような声で彼女が問うと、彼は穏やかに笑って答えた。
「セルリアードで構いません」
 突然の宮廷への招き、王女の相手に気後れすることも、奢ることもない優雅で余裕のある返答だ。
 アイリーナは羨望の眼差しで彼を見た。
「まあ、そんな……。もったいないですわ。あの、セルリアード様、恋人はいらっしゃいますの?」
「恋人? なぜ?」
 アイリーナは恥じらうように目を伏せて、細く白い指を口許に当てた。
「だって……私……」
 どうしようかと言葉を探しながら答えかけた彼女の肩を、ふいにセルリアードがつかんだ。
「セルリアード……様?」
 彼は、庭の一点を凝視したまま動かない。彼女もふり向いてみたが、そこには庭掃除の少年が一人佇むのみで、他に目を引くようなものは見当たらなかった。
「どうかなさいました?」
「…………いえ、何でも。失礼、何のお話だったかな」
 アイリーナは少々頬をふくらませた。
「もう、結構ですわ。それより――」
 ガサッ
 突然、背後で茂みが鳴った。気配が大きく動く。何――?
「きゃあぁぁ!」
 叫んだなり動けなくなってしまったアイリーナを、セルリアードは素早く背後に庇った。目の前に、手に手に剣を持った数人の男が立っている。もっとも、うちの一人はたった今武器を失ったばかりだ。抜き打ちで、利き腕をセルリアードに切り裂かれて。
「何か用か」
 相手は明らかに動揺していた。さらに宮殿の方から、何やら慌ただしい気配が伝わってくる。
「時間がないっ。やるぞ!」
 一人がそう言うと、彼らは二人同時にセルリアードに斬りかかった。その隙に、残る一人が彼の背後に回り込もうとする。どうやら、狙いはアイリーナのようだった。
「答えないなら容赦しない。覚悟は――」
 セルリアードは言いながら、牽制に鋭く剣を一振りして、横に跳んだ。回り込もうとしていた男があわてて応戦しようとするが間に合わない。鳩尾に一撃されると、男はあっさりその場に崩れた。さらに、セルリアードはそれを見届けさえせず、アイリーナを捕らえようとした別の男に斬りかかり、難なくそれを阻止した。その隙に彼に向かってふり下ろされてきた剣も、軽くかわしてしまう。
 数秒とかからず、勝敗は決した。
「あ……」
 アイリーナは言葉もなく、呆然と佇んでいた。何が起きたのか、理解できない。
「大丈夫ですか?」
 声をかけられて、彼女はハっと我に帰った。
「セ――」
「アイリーナ姫っ。セルリアード殿下っ。ご無事でしたか!?」
 ちょうど彼女の言葉は、宮殿の方から駆けつけてきた衛兵達に遮られる形になった。
「この者達は?」
 セルリアードは彼らに向き直ると、何事もなかった様子で尋ねた。むしろ、衛兵達の方が驚いている。
「申し訳ございません。この者たちは隣国の間者であったことがつい先刻発覚しまして……。あの、お怪我は?」
「ない」
 一様に驚いたり感心したりしている衛兵達の横で、アイリーナはいっそ泣きたいくらいに感極まっていた。
 こういう目にあうのは二度目だ。前にそばにいたのは上の兄だった。セザイールは、彼女を守ってはくれなかった。
 幸いすぐ近衛隊に救出され、ことなきは得たものの、あの時の恐怖と失望は――今なお忘れ得ないほど深く、彼女の心に傷を残している。
「セルリアード様……」
 アイリーナは倒れ込むように彼の胸にしがみつくと、その全身で思いを訴えた。ずっと誰かに救ってほしかった。何もかも、全てから。
「アイリーナ王女?」
 彼女が動かないので、彼は黙って彼女を抱きとめていた。どことなく、王女は妹に似ている。
 ――ああ、従姉妹だからか――
 ふとそれに思い至ると、彼はふいに怒りを覚え、唇を噛んだ。
 あんなことさえなければ、この姫の横に並べても何ら遜色のない、汚れない天使のような少女になっていたはずなのに。
 間もなく衛兵達が間者を縛り上げて引き返して行くと、アイリーナがふっと顔を上げて言った。
「セルリアード様、聞いて頂きたいことがあります。今夜、お伺いしてもよろしい?」
「今夜?」
 彼は真意を探るように王女を見、しばしの沈黙の後、頷いた。
「わかりました。空けておきましょう」


 運良く下働きとして王宮への潜入に成功したディテイルは、二人が去った後も、しばらくその場を動けずにいた。今のは、間違いなくアルバレンだった。女の方は……?
 素晴らしい美女だった。そう、女神もかくやと思わせるほどの――
「あいつ……」
 ディテイルはいつの間にかほうきを握る手に力を込めていた。が、思い出したように庭掃除を再開する。サリディアが妹なら、何の問題もないのだ。
 

 X
 サリディアはかなり強引に、セザイールの自室に連れ込まれていた。さすが第一王子というだけあって、豪奢な部屋だ。品の良い紫が基調にされていて、整然としている。
 同じ王子の部屋でも先ほどまでいたケルトの部屋は、割と散らかっていて生活感があった。
 もっとも、散らかっていたのは多分妹の物で、ケルトが散らかしたのではなさそうだった。色々な意味で遠慮なく、妹が入り浸っているのだろう。
 そういう、ほっとする温かさのある部屋だった。
 ここは違う。冷たい。
 何か、ひどく胸騒ぎがする――
「リシェーヌ、これを見せたくてね」
 そう言ってセザイールが取り出したのは、見事な造りのサークレットだった。中央に大粒のエメラルドが填めこまれ、小粒のアメジストが繊細に脇を飾っている。台は金。
 彼はつけてみろと言って、それを彼女に手渡した。
「……あの、私……」
 サリディアは困って、どうしようかとセザイールを見た。
 これだけのものは見るのも初めてだったし、つけてみたいとも思う。
 けれど、それはセルリアードがくれるなら、なのだ。
 彼が見てくれるなら……。
 ふと、サリディアは彼女自身に驚いた。どうしてそんなことを思うのだろう。
「どうした? 気に入らないか?」
 セザイールが尋ねる。
 サリディアは首を横にふり、正直に綺麗だと言った。
 すると、セザイールが無造作なくらいあっさりと、
「あげるよ」
 と言った。
 サリディアはびっくりして、次に気が付いた。彼はリシェーヌだから、従兄弟だからあげると言っているのだ。余計にもらえない。
 サリディアは意を決してセザイールを見た。
「あの、こんな高価なもの、理由もなく頂けません。お気持ちだけ、お受けします」
「ふうん?」
 高価なものね、と、セザイールがおかしそうに笑って、彼女の頭に手を置いてくる。サリディアはびっくりして、逃げるように身を引いた。
「おやおや、困った人だね。従兄弟なんだから、もう少し打ち解けてほしいな」
「あ……すみません。でも、あの……」
 従兄弟じゃないし。
 どうしよう。騙しているようでいたたまれない。
「……もう、帰ってもよろしいでしょうか」
 サリディアが言うと、セザイールがすっと目を細めた。
「――そんなに私が嫌いか?」
 え、と。サリディアはあわてて首を横にふった。
「そういうつもりじゃ……」
「じゃあ、どういうつもりだい?」
 言いながら、セザイールがくいっと彼女の顎を取ってきた。サリディアはまともに驚いて、あわてて逃げようとした。けれど、空いた左手で腕をつかまれ、止められる。
「セ、セザイール様!? はなし……!」
 セザイールは薄く笑って、逆に彼女の腕をいっそうきつくつかんできた。
「や、やめ……」
 その時、遠慮がちに戸が叩かれた。一回二回、間を置いてもう一回。セザイールは小さく舌打ちし、彼女を放した。
「誰か来たみたいだ。ちょうど帰りたがっていたようだし、お帰り」
 許されると、サリディアはすぐにそこを立ち去った。
 恐怖に、心臓がどくどく打っている。
 彼がどういうつもりだったのか、わからない。けれど、襲われるかと思ったのだ。
 そんなこと、まさかしないだろうけれど――

「どうした?」
 セザイールは戸口に控えていた女官を部屋に招じ入れると、無造作に尋ねた。
 女官が一礼し、報告する。
「アイリーナ様のことですが、先ほど……」
 女官の話を聞きながら、セザイールはみるみる顔色を悪くしていった。胸に疑惑と憎悪を膨らませ、睨むように中庭を見る。つい先刻まで、彼女がいたという場所を。
「裏切れると思うなよ、アイリーナ……」
 女官を下がらせ、セザイールは低く呟いた。


 その頃、エルディックは一人、自室で横になっていた。どうも具合が悪い。医師にでも見せてみようか。しかし、昨日怪我で診てもらったばかりだ。
 ――ロザリー
 実のところ、彼女が現れないのが何より、彼を苛立たせていた。昔はいつでもそばにいてくれたのに、今の彼女は気紛れだ。彼女が何を思い、何を望んでいるのか、それすらもよくわからない。今はただでさえ、筋書きになかった者が現れて、ことが面倒になっているというのに……。
 どうして彼女は現れないのか。
 考えてみれば不思議ですらある。
 エルディックはふと不安になって、呼び鈴を鳴らした。すぐに戸が開いて、侍従が入って来る。今は、誰かに付き添っていてほしかった。
 

 Y
 部屋に一人でいるのもいたたまれなくて、サリディアは人に聞きながら中庭に向かっていた。ファス達が今、そこで花を摘んでいるらしいのだ。
 中庭では、聞いた通りファスとフォニーが花を摘んでいた。それをケルトが持たされている。ケルトはサリディアに気付くと、すぐに手をふって合図してきた。
「私も混ざっていい?」
 声をかけると、無心に花を物色していたファスとフォニーが、初めて彼女の存在に気付いた様子で顔を上げた。
「もちろんです、どうぞ。摘んだお花は、お兄様に持たせて下さいね。後でお部屋に運んでもらいますから」
「こら、なんだよ、それは。二人とも、そういうつもりで一緒に来いって言ったのか!?」
「もちろんじゃない。はい、これもね」
 言いつつ、ファスが花を追加する。ケルトはぶつぶつ文句を言いながらも、結局ファスと妹には弱いらしい。無心に花を摘む二人を、幸せそうに眺めているのだから。
 サリディアが花園に入って行こうとした時、ふいに名前が呼ばれ、少年が一人駆け寄ってきた。
「サリサ!」
 他三名がもの珍しそうに見守る中、少年はサリディアの正面で足を止め、感嘆の声を上げて彼女を眺めた。薄紅色のドレスを纏ったサリディアが、また新鮮に綺麗だったのだ。
 いいなあと、ついつい見入ってしまう。
「ディテイル!? いったいどうやって……?」
「下働きに雇ってもらったんだ。ちょうど空きがあったから」
「リシェーヌさん、お知り合いですか?」
 花園から出てきたフォニーが興味しんしん、彼女に尋ねた。
「うん……ちょっと……」
 困った顔で言葉を濁されて、フォニーは余計気になった。それじゃあと、今度は少年の方に尋ねてみる。
「あなた、ディテイルさんっていうのね。私はフォニー。この国のお姫様よ」
「お姫様!? なんで、サリサがお姫様と一緒に……?」
「あら、だって彼女もお姫様だもの。知らなかった?」
 にこにこしながらいたずらっぽくそう言うフォニーを、ケルトが軽く小突いた。明らかに彼女が面白がっているからだ。しかし、その小突き方がまたいかにも可愛くて仕方ないというふうなので、あまり意味はなさそうだった。
 一方、ディテイルはそれどころではない。
「待てよ! それって、じゃあ、アルバレンは何なんだ!?」
 さらに叫ぼうとしたディテイルの口を、あわててケルトが押さえた。
「サリサ、どうなってるんだ!? これ、誰……」
「放せよ! おまえこそ何だよ! 俺はディテイル。アルバレンとサリサが王宮に連れてかれたから、追いかけてきたんだ。それと、気安くサリサって呼ぶなよな。俺、結婚申し込んだんだから!」
『結婚!?』
 サリディアはもう、頭を抱えてうずくまりたい心境だった。3人分の好奇の視線が痛い。
「ディテイル、今まで断りそびれてたけど……ごめんね、私――」
「何で!?」
 サリディアが答えに困って口ごもると、ファスがじれったかったのか、彼女を助けようとしてか、横から無邪気な笑顔で口を挟んだ。
「もちろん、好きな人がいるから! ね、サリサ?」
 サリディアはびっくりして、次には真っ赤になった。
「そうなのか!?」
 ディテイルが愕然として尋ねてくる。
 そうなのか。
 彼が好きかどうかなんて――
 そばにいたかったのも、少しでも助けになるなら何でもしたいと思っていたのも、好きだからだ。それは違わないと思う。
 ただ、それは恋愛感情抜きの好意だったから。
 少なくとも、彼女自身は恋愛感情として捉えていなかったから。
 突然指摘され、ひどく動揺していた。
 それでも違うと言えないのは、動揺するのは、違わないからなのか……。
 とにかく、ディテイルの好意に応えられないのは事実で、セルリアードのそばにいたいのも事実だったから、かろうじて、彼女は頷いた。
「……相手は……? まさか……」
「――僕が説明するよ」
 サリディアの様子を見かね、意外にもケルトが助け船を出した。いや、見かねたのはディテイルの様子かもしれない。
 妹とファスの攻撃が、ちょっと痛そうだ。申し訳ない。


「さて……と。まず、僕はティティケルト。この国の第三王子だ。僕のこと、召使いか何かだと思ってなかった?」
 手近の岩に腰かけながらのケルトの言葉に、まさにそう思っていたディテイルは、随分驚いた。王子だって?
「で、アルバレンは僕の従兄弟。本名はセルリアードで、結局何なのか、僕にもわからない」
「従兄弟!? 王子様の従兄弟って……何で、王族が殺し屋なんかやってるんだよ!」
 言ってしまってから、ディテイルはあわてて口を押さえた。どうもしっくりこないのだが、仮にも王子相手にこの物言いでは失礼だ。しかし、相手はさして気にした風もなく、むしろ言われたことの中身の方に何か言いたげだった。
「……別に、殺し屋ってわけでもなかったはずなんだけど」
「嘘だ! あいつ、俺の父さんと母さんを殺したんだ!」
 それはあるかもしれない。ケルト自身、セルリアードには殺されかけている。邪魔をしたか巻き込まれたか……。
「じゃあ、もしかして復讐する気でここに?」
「ああ、そうだ。このあいだは負けたけど、今度こそ……」
 ケルトは小さく唸った。これは、サリディアも困ったはずだ。
 しかし、ディテイルと話しながら、ケルトは少し気が晴れるのを感じていた。話している間は、現状も忘れられる。


 中庭の様子を、窓辺から苦々しく眺める者がいた。セザイールだ。アイリーナといい彼女といい――。
 彼のことはあれほど警戒するくせに、ケルトとは随分親しげにして、何が違うというのか。
「私にはわかっているぞ。実際に、ケルトを刺し殺そうとしたのはエルディックの方さ。あえなく返り討ちにあった、それだけだろうに……ケルトも、どうしてあんな間抜けな嘘をつくんだかな」
 そばに控えた女官にそう八つ当たりして、セザイールは部屋を出た。午後の鍛錬の時間なのだ。いくら病弱であれ、王子としての日課は欠かせない。いや、むしろ病弱ゆえに、彼はかえって熱心だった。周囲の悪印象を取り除こうと。こんなことで皇太子の地位を剥奪されるなど、まっぴらだった。
 

 Z
 ディテイルは家路につきながら、ぼんやりと今日聞いたことを考えていた。アルバレンが、妹のために動いていたとは……。そして結局、サリサはアルバレンの妹ではなかったのだ。そう、妹などでは。
 ――なんだか、やりにくくなってきたな……。
 いくら彼が親の仇と主張しても、これではまるで、嫉妬にかられての行為のようだ。それに、アルバレンというのも巷で噂されるほど悪いやつではないのかもしれない。アルバレンは二度も彼らを見逃している。
 サリディアは何と言ったか。
 アルバレンは、彼らを殺したくないのだと。
 あの時はそれどころでなく、つい聞き流してしまったけれど、思えば不思議な言葉だ。自分の命を狙う者など、返り討ちにして当然なのに。
 ――でも、あいつが父さんと母さんを殺したってことは間違いないし……。
 あの時のことは、今でも鮮明に脳裏に焼き付いて離れない。突然の爆音とともに、跡形もなく吹き飛んだ生家――中にいた者など、判別すら不可能だった。弔うことすら許されなかった父と母。一瞬で、兄以外の全てを奪った氷のような目をした男――やはり、許すことはできない。
 考えるうちにあの惨状を思い出し、ディテイルは身震いした。背中を耐えられない悪寒が駆け抜ける。真っ黒な瓦礫の山を掘っても掘っても、何一つ得られなかった。遺体はもとより、形見一つ残っていない。もし兄がいなかったら、今頃自分はどうなっていたか。泣きながらいつまでも瓦礫の山を掘り続けて、そのまま意識を失って――しかし兄は、彼と同じくらい傷ついていたはずの兄は、何も言わなかったが、彼が立ち直るまで見守っていてくれた。うなされて目を覚ますと、兄はいつもまた眠れるまでそばについていてくれた。兄さん――ディテイルは唇を噛んだ。やはり、兄も傷ついていたのだ。あの兄が、人質をとってまで復讐を果たそうとしている。自分を見失うほどの憎しみを抱いている。
 ふと、その場に立ち尽くしていたことに気付いて、ディテイルは再び歩き出した。とにかく王宮に潜入することには成功したわけだし、今は兄の回復を待つべきだ。
 と、唐突に頭上から声がした。美女を期待させる、ひどく艶やかな声。
「坊や、ちょっと付き合わない? 今、暇なのよ」
「は?」
 風が動いたかと思うと、夢にも現れないほどあでやかな美女が舞い降りた。ディテイルは思わず目を見張り、妖艶、という言葉はこういう女性のためにあるのだなと、妙に感心してしまった。サリサや昼間見たお姫様たちとは違う、成熟した女の魅力が彼女を取り巻いている。折しも辺りは夕暮れ時の薄闇だ。ディテイルは金縛りにあったように動けなかった。
「あら、かわいい。たまには少年もいいわね。一緒にお酒でも飲みに行きましょうよ。私はマーディラ。今日だけ、彼女だと思ってくれていいわ」

* 第四章 偽りの天使達・U に続く

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