聖魔伝説1≪邂逅編≫ 逢魔が時

第三章 ――聖魔伝説――

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≪2000.08.12更新≫

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 一行は昼前に研究所に到着した。
「んまあっ! ギルファニートのサニエルさんの息子さん!? こんなに立派になって。さあさあ、こちらへどうぞ。お嬢様もトルディナースさん、でしたっけ? とにかどうぞ」
 家政婦のバルダが興奮した声で一行を出迎える。彼女はサリディアが生まれた時からここにいたから、そろそろ四十代にさしかかろうとしているはずだ。しかし、まだまだ元気一杯だった。そのバルダの歓迎の言葉に、セルリアードがあからさまに苦い顔をする。
「彼のこと知ってるの?」
 サリディアが驚いて尋ねた。
「知ってますとも。昔はよくここにもいらっしゃったんですよ。最後にいらしたのはいつでしたかねえ……。確かお嬢様がまだ八つか九つの時でしたねえ」
「そうなの!? 私全然覚えてない……」
 狐につままれたような顔をするサリディアに、バルダの怪訝そうな顔が向けられる。しかし、ふいに何か思い出した様子で、バルダは取り繕った。
「ああ、そういえばお嬢様は会ってらっしゃいませんもの。なにしろ遊びに来てたわけじゃなくって、お父様同士の研究の交換でしたからね。サニエルさんとサリスディーン博士は、昔馴染みでいらっしゃるんですよ」
「ふうん……」
「それより、その博士はどこだ?」
 それ以上の思い出話をさけるかのように、セルリアードが遮った。
「あら」
 不機嫌そうな彼の様子に、バルダは「あらあら大変」などと怯んだ様子で呟いて、おしゃべりをやめた。
「じゃあ、お嬢様とお友達の方々はここでお待ちになって下さいな。博士はこちらです」
 セルリアードの姿が見えなくなると、サリディアはすとんと椅子に腰を下ろした。
「……サリサ、博士でも、ファスを元に戻すのは無理かなあ」
 ふと、それまでずっと考え込んでいたケルトが聞いた。
「うん……。ファスにかけられてるのが呪術だとしたら、無理だと思う。でも、相談してみるだけはしてみるから」
 ケルトは弱く笑ってお礼を言うと、それきり沈黙した。いや、ため息を一つ吐いた。
「……サリサ、すぐ戻るからファスみてて」
「どこに行くの?」
「荷物取ってくる。昨日、借りた宿に置いたままなんだ」


「どうぞ、こちらです」
 バルダが奥の部屋の扉を開ける。中には男が一人、入り口に背を向けて座っていた。
 セルリアードは何も言わずに部屋に入ると、そのまま机を挟んだ向かい側まで歩いた。
「久しぶりだな、セルリアード」
「ええ」
 短く答えた後、セルリアードは静かに向かいの男を――サリスディーン博士を眺めた。深い知性と強い信念を宿した、サリディアと同じ色の瞳。地味ながら、均整の取れた顔立ち。八年前とほとんど変わらない。
 博士があまりに変わらないので、彼はかえって痛感した。その父親の変貌を。父親だけではない。彼自身も妹も、何もかも、彼を取り巻く全ては変わってしまった。もはや、見る影もない。
「……時の流れの中で、誰しも変わって行くが――おまえが一番変わったな。もう、わしが無償でおまえを助けるとは、考えられなかったのか。それとも、ただでは譲れないほど危険なものが欲しいのか?」
 ――一番変わった?
 セルリアードは無意識に、皮肉な笑みを見せていた。
 一番変わったのが彼だったなら、どれほど良かっただろう。
 彼以上に変わってしまったものを、存在すら歪んでしまったものを、彼は知っている。
「私からすれば、あなたと彼女が変わらないことの方が、よほど奇跡のようですが――言われた通りです。ここまで堕ちて、なお誰かに助けてもらえるなどと、とても考えられません。その上、私はあなたがまず譲らないほど危険なものを求めている」
 博士はじっと、その真意を探るように彼を見た。
「――それは、是が非でも必要なのか?」
 セルリアードが頷く。
「ええ。たとえ彼女に刃を向けてでも」
 その答えに、博士は静かに目元を厳しくした。どこまで信じるか。
 己のためなら何の罪もない若い娘すら殺すと言ってのけているが、それが真実なら、どうして彼女を解放した?彼自身の本意に気付いていないと見るべきだろう。
「――わかった。要求を呑むかはともかく、まずは話を聞こう。座れ」

     *

 腰を据えると、セルリアードはまず問いかけた。
「トラバスは、なぜ合成の研究など?『力』のことを諦めたとも思えないのに……。見当はつきますか?」
「合成の研究?」
「父を使って、人間と異種族とを合成する研究をしています」
 それを聞くと、博士は露骨にまゆをひそめた。
「愚かなことを……トラバスめ、結局何もわかっていなかったらしいな」
 博士は吐き捨てるように呟き、続けた。
「聖魔伝説は知っているな?」
「ええ」
 聖魔伝説。
 子供でも知っているほど有名で、起源がわからないほど古い伝説だ。
 有名ではあったが、博士とて天体観測に成功するまで、そんなものはただの伝説だと、絵空事だと考えていた。
 伝説はこう詠う。


 遥か未来に――
 暗黒の宇宙の彼方より
 全てを飲み込む闇が来たらん
 其は虚無と性質を同じくし
 されど全ての創始である

 生は滅びを避けんとし
 闇の消滅を希う
 時の存続を希う

 やがてこの地に現れん
 虹の風切り 雪の翼を持つ聖魔
 其は聞かん 希望の歌を
 ゆえに応えて
 四元の魔道師を導かん

 炎 闇を四散させ
 水 大地を回復せん
 風 闇のかけらを運び去り
 地 生命に希望を与えん

 かくて 定めの輪は回る


 ところが、天体観測の結果、伝説に詠われている『闇』としか思えないものが、確かに近付いていたのだ。博士は驚き、聖魔伝説に関わるありとあらゆる知識を集めた。その中の一つが、セルリアードの言う『力』。闇すら破るほどの力を持った、強力な法術だ。
「『力』とは、伝説にある四元の魔道師の一人、炎の魔道師が扱う『神法』(エルバーニャ)のことだ。これを使いこなすためには、妖精族の魔法力と魔族の魔力許容量、そしてその融合を可能にする、人間の雑種性が必要だ。この世にも稀な存在を、トラバスは合成によって造り出そうとしているのだろう」
「雑種性?」
「そういう言葉はないがな。魔族と妖精族のハーフは、完全な魔族であって魔法力を持たん。つまり、種族的に見ると混血たりえんのだ。だが、人間の遺伝子は魔族のそれにも妖精族のそれにも吸収されず、なおかつ吸収もしない。立派に混血するというわけだ」
 なるほど。
 セルリアードは納得した。
「わかりました」
「――ただ」
「……ただ?」
「わしも調べたが、神法を扱うための資質というのは、決してそろわんものだ。魔力許容量が一定値を超えると、強すぎる魔族の遺伝子に、妖精族のそれが喰われて魔法力が失われる。だから、わしは別の要因で――『聖魔』と呼ばれる者の何らかの助力によって、神法を扱うことが可能になると考えている」
「……つまり、無駄な研究だということですか」
「そういうことだ」
 セルリアードはひどく苦々しげな顔をしていた。トラバスを文字通り敵とみなしているなら、その研究が無駄であっても何の支障もないはずなのにだ。
 博士は彼の言葉を鵜呑みにしているわけではなかった。彼がトラバスはともかく、実の父親と敵対できるか――
 可能性は五分五分と見ている。
 どうやって確かめるか。
「こちらからも一つ、質問していいかな」
「何です?」
「なぜ簡単に娘を返す気になった?」
「――また、答えにくいことを……」
 セルリアードは苦々しげに言うと、首をふった。
「自分でも、どうかしてると思いますよ。こんな甘いことをして――」
 それほどでもと思ったが、博士は何も言わなかった。
 つまり、それは彼自身が認めたくない理由によるのだ。
「はて、うちの娘にほれでもしたか?」
 幾分警戒を解いて博士が言った。軽く受け流すかと思いきや、セルリアードはしばし沈黙し、まさか、とだけ言った。
「うかがいたかったのはそれだけです。用件はもう一つ――」
 無造作な言い方だったが、それだけ話を変えたいのだろう。博士はあえて邪魔しなかった。
「私に神法を。魔力許容量が足らず、元来の威力の半分ほども引き出せないのは知っています。それでも、私になら曲がりなりにも扱えるはず」
「おまえ――」
 博士は目を見張った。
「なぜそれを!? いや、それ以前に神法を習得しようなど……あれは、元来人の手には余る力だ。身を滅ぼすぞ」
 しかし、博士の警告を、彼が意に介した様子はなかった。
「たとえこの身が滅ぼうとも、あの研究所を跡形もなく破壊できるなら本望です。――命などいらない」
「――!」
 そこまで――
 アルバレンの名を聞いた時から、何か余程のことがあったらしいとは感じていた。
 けれど、可愛がっていただけに、今の彼は哀しかった。
「……なぜだ? 何のためだ。あそこを破壊してどうなる」
「理由を言えば譲っていただけますか?」
 博士はしばし沈黙し、首を横にふった。
「だめだ。いかなおまえの頼みといえど、これだけは譲れん」
 彼は黙って席を立つと、スラリと腰の剣を引き抜いた。
「あなたと彼女を殺して奪えと言うなら、そうします。私はすでに、あなたの懐の中に入ってしまっている――」
「――! ……本気なのか……」
 彼はすっと目を細めた。冷たい瞳。
「ええ」
 博士は深く嘆息した。
「落ちたな」
「……ええ」
 その時だ。
「大変です!」
 突然扉が開いて、家政婦のバルダが血相を変えて飛び込んできた。
「お嬢様が! お嬢様が、連れの方に襲われて……」


「ファス?」
 ファスはゆっくりとサリディアの方を向いた。
「ファス! もとに戻ったの!? 私だよ、サリサ。わかる?」
「サリ……サ?」
「そうだよ。ケルトはちょっと出てるんだけど、すぐに戻ってくるから」
 ファスの瞳に急速に光が戻り始めた。けれど、それはサリディアの知っているファスの瞳の色を通り越し、深すぎる濃紫の光を放つ。
「ファス!?」
 次の瞬間、ファスとサリディアの間で、何か冷たいものが閃いた。短剣だ。サリディアは反射的に身をかわしたが、さすがにかわし切れなかった。右腕に細く赤い筋が浮く。
 サリディアはしばし呆然と、ファスを凝視した。その間にも、ファスが呪文を唱えながら、短剣で襲いかかってくる。サリディアはあわてて自分も短剣を抜くと、ファスのそれを受け止めた。
「バルダ!」
 サリディアの声に、バルダがそそくさと奥から姿を現し、その場の光景に仰天する。
「お嬢様!?」
「父かセルリアードを呼んでっ!」
 バルダはあわてて奥に走った。
 キン、キン!
 手を休めることなく攻撃してくるファスの短剣を、サリディアは必死の思いで彼女に呼びかけながら、からくも受け止めていた。長くはもちそうにない。
 と、ふいにファスが手にした短剣を投げつけてきた。サリディアがそれをかわすと、短剣は勢いよく窓に当たってそれを砕いた。澄んだ高い音を立ててガラスが割れて、風が室内に流れ込んでくる。
 しまった!
 風の魔法を使う気なのだ。サリディアは呪文を唱えつつ奥に駆け込もうとしたが、既にファスの魔法は完成していた。体が風に吹き上げられる。そのまま、サリディアは外に連れ出された。
 ――ごめん、ファス――
「電撃!」
 サリディアの魔術が直撃し、ファスが甲高い悲鳴を上げた。命に別状があるほどの威力は出していない。サリディアの狙い通り、ファスは精神集中を乱して風の制御を失った。
「――っ!」
 サリディアの体はその勢いのままに庭に投げ出された。3、4メートルの高さとはいえ落下の衝撃は大きく、彼女はしばらく息ができないでいた。
 ファスは奥からの気配に失敗したことを悟ると、再び呪文を唱えながら窓に駆け寄った。真っ先にセルリアードが駆け込んできたが、その時には魔法を完成させて、ファスは風に乗って今しも去ろうとしていた。セルリアードが何か魔法を使ったが、あっさりと弾き返される。遅れて博士が駆けつけた。
「大丈夫か?」
 苦々しげにファスの姿を見送りながら、セルリアードがひらりと窓枠を飛び越え、サリディアに手を差し伸べてきた。
「なんとか……ファス、どこに向かったのかな……」
 一瞬ためらい、サリディアはそれでも彼の手を取って立ち上がった。
「トラバスの研究所じゃないか」
 ふと、サリディアはセルリアードの肩越しに、驚愕の表情をした父の姿を見出した。
「父さん?」
「サリサ、今のは……今のは一体何者だ?」
 博士の問いに、サリディアは唇を噛んだ。
「一年前に知り合った子で、ファスっていって……でも、今のは彼女の意思じゃないの! ここに来る途中で何かあったみたいで、正気じゃなくなってて……」
「いや、そういう意味ではないんだ。――つまり、あれは人間か? いや……違う……」
 博士はそう言ったきり考え込んだ。何か思い至った様子で、セルリアードの顔色が変わる。
「父さん? ――生い立ちのことは、彼女もわからないって」
 サリディアが事情を飲み込めない顔で言うと、セルリアードが続けて聞いた。
「まさか、あの娘には神法を操る全ての条件が揃っているとでも――!?」
「その可能性はある……」
 決してありえないはずの、魔族の特徴である紫の目と、妖精族の特徴である尖った耳が共存した姿。まるで、伝説の『炎の魔道師』そのもののような――
 その後、戻ってきたケルトを交えて博士から事情が説明された。彼女になら、あるいは神法が使いこなせるかもしれないこと。そして、彼女が現在トラバスの手中にあるようだということ――

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「今すぐ助けに行く! そんな、わけのわかんない連中の所にいたら、何をされるか……」
 事情を聞くやいなや、ケルトが断固主張した。
「あそこにいたら何をされるかわからない、というのには同感だが――どうやってやつらの結界を突破する気だ? 捕虜が増えるのがオチだな」
 セルリアードが辛辣に言い、にべもなく彼の案を却下した。
「それでも助けるんだ! 僕にはおまえと違って、ちゃんと人の血が流れてる。見捨てるなんて、絶対にするもんか!」
「待って、ケルト。気持ちはわかるけど、セルリアードの言う通りだよ。本当のこと言うとね、ファスが特別なのは、私が見てさえ一目でわかったの。ましてそういう研究をしている人達が、それに気付かないわけがないから……。多分、もう、ファスはそう簡単には外に出してもらえないと思う。だから、何か侵入法を考えないと」
 サリディアの言葉に、ケルトは悔しそうに唇を噛んで黙った。
 すると、それを待っていたように、セルリアードが静かに博士に言った。
「私に神法を」
 他にやりようがおありで? と、その瞳が皮肉に問いかけている。
 博士は深く嘆息した。
 全く、誰も彼も短絡的だ。なぜもっと可能性を追求できないのか。トラバスもサニエルも――仮にも研究者、それも優れた才を持った研究者なのだから、もっと手段を選んで目的を達成してほしい。
 セルリアードにしても……。
「そんなものに頼らずとも、結界の解きようなどいくらもある。――が」
 博士はその目で来いと促した。
 時間がないのも確かだ。
 それに万が一、あの娘にトラバスたちが神法を使わせて、それを見よう見真似でセルリアードが覚えようものなら――
 半端なものを覚えて暴走されてはたまらない。それくらいなら、基本から心構えから、この機にきちんと教えた方がましだ。
 博士は苦々しげに立ち上がると、サリディアに向かって言った。
「おまえは、そう……。神経性のものを中心に、適当に見繕っておいてくれ。何が出てきてもいいように」
「父さん? あの……」
 神法の名を聞きとがめたらしい。セルリアードと博士を交互に見比べながら、サリディアが引き止める。
 博士は静かに彼女を見ると、淡々と言った。
「神法で手っ取り早く結界を破る気らしい。彼には不完全ながら扱えるのでな」
「……」
 そのまま、二人は部屋を出て行ってしまった。
「サリサ、今のって――結局、助けに行けるってこと?」
「ええ」
 彼女は頷いたが、どこか不安げだった。
「どうかした?」
「……不完全にしか扱えない身で神法なんて使って、術者は大丈夫なのかなって……思って……」
「えっ……?」
 はっとしたように、サリディアは頭をふった。
「あ、ううん。ごめんね、なんでもない。そんなことより、やれることはやっとかないとね。ケルト、手伝ってくれる?」
「あ、ああ、もちろん」
 聞いておきながら返事も待たずに部屋を出て行こうとする彼女の後を、ケルトは困惑気味に追いかけていった。あんなやつなのに、心配なんだろうか……。

「サリサ、今すぐ立てるか?」
「今すぐ?」
 博士が資材室に現れたのはそれからすぐ、小一時間ほど後のことだった。
「侵入できそうなんですか!」
「わからん。だが、セルリアードはやると言ってる。いきなりじゃあ無理だろうと言ったんだが、敵に時間をやりたくないらしくてな。まあ、それもそうだし、今日は近くまで行くだけだと言うから承知した。おまえ達の方は大丈夫か?」
「もちろんです!」
「私も……大丈夫」
 どこか歯切れの悪いサリディアの返事に、博士が首をかしげる。
「どうした、サリサ。具合でも悪いのか?」
「……父さん、もし、神法の制御に失敗したら……術者はどうなるの?」
 博士は一瞬厳しい表情を見せたが、彼女をじっと見つめると、優しく言った。
「大丈夫、失敗しやせんさ」
 博士の言葉は、失敗した時の危険を否定してはいなかった。彼女はまだ何か言いたそうな様子を見せたが、小さく頷くと、荷物をまとめるため部屋の奥へと戻っていった。
「それじゃあ博士、もう、出発するんですね?」
「ああ、ちょっとここを頼んでくるから、中庭で待っていてくれ」

 V
 4人は中庭にいた。今しがたセルリアードが呪文の詠唱に入ったばかりだ。4人の周りに、風が集まりつつあった。
「ねえ、何か気配がしない?」
 サリディアが何事か考え込んでいたケルトをつつく。
「気配?」
 はじめて辺りに気を向け、ケルトは顔色を変えた。
「まずいっ、囲まれてる!」
 その声に呼応するかのように、辺りからわらわらと十数人の異様な人間が、いや、魔物が姿を現した。前にケルトが闘った、あの再生してしまうやつだ。見送りの助手が驚いて飛び退く。
 一方、セルリアードは構わず呪文を唱え続けていた。このままふり切ってしまうつもりなのだ。
「なっ……。トラバスめ、短気を起こしおって!」
 博士はすっと風の結界を抜けると、助手のラーテムズに目配せした。たった二人でなんとかする気なのだ。
「父さん!」
 サリディアが悲鳴に近い声を上げる。博士は強力な魔術の電撃で、辺りの魔物を牽制しながら言った。
「サリサっ、3人で先に行け! 私はここを守る!」
「でも!」
「行けっ」
 まさにその時だった。セルリアードの魔法が完成し、3人を風が舞い上がらせた。いくつか投げつけられた武器も、全て風に吹き飛ばされた。
「必ず追う! 心配するなっ」
 博士は声の限りに叫ぶと、何かを魔物たちに向かって投げつけた。催涙弾のようだったが、あとはもうどうなったものか、サリディアにはわからなかった。

「父さん……」
 サリディアは蒼白な顔で呟いた。いかなフォラギリア屈指の魔道師といえど、あの距離から闘いが始まるのでは……。魔道師に接近戦は不利だ。しかも敵は得体が知れない。
 不安げな様子の彼女に、ケルトが気遣うように言葉をかけた。
「サリサ、大丈夫だよ。サリサは身近すぎてピンとこないかもしれないけど、サリスディーン博士といえば、知識や魔術はもちろん、その慎重な性格でも名高い、すごい人なんだよ。だいたい、あそこは博士の要塞だろ。滅多なことがあるもんか」
「――うん。ありがとう、ケル……」
 突然、背後で爆音が轟いた。サリディアが今度こそ悲鳴を上げてふり向く。研究所の辺りから、真っ黒な煙が立ち昇っていた。
「父さん!! 下ろして、セルリアード! お願い、下ろして! 父さんが……」
 我を忘れたサリディアは、自分が魔法の制御から離れかけているのにも気付かない。
「サリサ、落ち着いて! 博士がやったのかもしれないだろっ」
「父さんが自分の研究所を爆破するわけないっ。放して!」
「サリサ、だめだったら! 落ちたら――!」
 ケルトはふり払われまいと必死だ。サリディアは抵抗をやめない。ふいに高度が落ち始め、地上すれすれまで迫った。
「戻ってどうする気だ!? 何のためにサリスディーンは自分だけ残った!」
 それまでひたすら制御に集中していたセルリアードが、初めて怒鳴った。迫力に気押され、一瞬サリディアも黙る。
「今おまえが戻っても、サリスディーンのしたことが無駄になるだけだ。違うか!?」
 サリディアは黙って唇を噛みしめた。ケルトがそっと手を放す。
「サリサ、博士は後から追いかけるって言ったじゃないか。嘘をつく人じゃないだろ? きっと、何か勝算があったんだよ」
 サリディアはうなだれたまま、力なく頷いた。セルリアードの言うことも、ケルトが励ましてくれていることもわかる。けれど不安は拭い切れず、何か大切なものを失ってしまうような予感が、胸を侵食してやまないのだ。サリディアは黒い予感を追い払うように頭をふった。

 風は3人を郊外から田園地帯に、そして森の中へと運んでいった。あれから随分経ったような気がするが、日はまだ高かった。それは時間がさほど経っていない証拠だ。
 やがて森の奥深くにぽっかりと開けた場所があった。奇妙な形の建物が、一つだけぽつんと立っている。材質はわからなかったが表面は金属的な光を反射し、凹凸がほとんどなかった。窓も少ない。そして半径百メートルほどの半球状の赤い光が、そこをうっすらと包み込んでいた。
「ここだ」
 セルリアードが風を解放する。3人はその近くの、森の切れ目に降り立った。
「あれが結界?」
「そうだ」
「あれって、地面掘って侵入できないのか?」
 ケルトの問いを、サリディアは初め冗談かと思った。結界が球状に張られるものだということは、その道の基本だからだ。隠れているだけで、地中にも結界はある。
 しかし、ケルトは極めて本気だった。結界の何たるかすら、彼はよく知らない。
「試してみるんだな。止めはしない」
 セルリアードが言った。明らかにできないことを知った上で言っている。ケルトは憮然とした。
「聞いてみただけだろ!」
「私も答えてみただけだ」
「〜」
 からかわれた気分で、ケルトは顔を赤くして彼を睨んだ。サリディアが一人はらはらしている。彼女には案外優しいのに、ケルトに対すると、途端に彼の意地が悪くなると思うのは……彼女の気のせいだろうか?
 しかし、それ以上ケルトに構うつもりもないらしく、セルリアードはさっさと研究所の方に向き直った。
「今から結界を破る。どうなるかわからない。伏せるなりして気をつけてくれ」
 まだいろいろ言いたいことはあったが、ここはファスのためと、ケルトはぐっとこらえた。しかし、驚いたサリディアが聞き返す。
「今から!?」
 彼は今、精霊魔法で長距離飛行を行ったばかりだ。はっきり言って、下手な精霊使いなら、これだけで魔力を使い果たす。彼が自分以上と認めたファスでさえ、ヴォニムまで飛んできた時にはかなり疲れていたのだ。その半分くらいの距離とはいえ、かなりの負担がかかったはずだ。
「何を驚く? 急いだ方がいいだろう。ついでに言わせてもらえば、私は疲れてなどいない。体力は完全に回復したし、この程度の魔法は使ったうちに入らないな」
「え!? だって、ファスはすごく疲れて……」
「ああ、あれはまだ駆け出しだろう。魔力はあっても技術がない」
 セルリアードはこともなげに言うと、すぐに目を閉じた。大がかりな魔道を使うための、精神集中に入ったのだ。
 間もなく彼の周りの空間が震え、歪み出した。魔力が集まり始めているのだ。彼はその額から幾筋もの汗を滴らせながら、セーブもせずに魔力を呼んでいた。博士にはセーブしろと言われたが、術を不完全にしか扱えない彼が、さらにセーブして、結界が破れるものか。彼は全力を注ぎ込んでいた。
「サリサ、誰か来る!」
 そのなかばに、ケルトが緊迫した声を上げた。
 見れば、研究所の方からいくつかの影が、真っ直ぐこちらを目指して近付いてきていた。サリディアとケルトは頷き合うと、セルリアードを庇うように前に出た。
「ケルト、剣を」
「?」
 ケルトが剣を差し出すと、彼女は素早くそれに魔術をかけた。剣が命を得たかのように淡い光をふりまき始める。
「これは?」
「封魔の術。魔族が相手でも、多分闘えると思う。頑張らなきゃね」
「わかった」
 ケルトは信じられないくらい落ち着いた声で言うと、敵に向き直った。


「ファスをどうした!」
 たどりついたばかりの白衣の男に、ケルトが剣を油断なく構えながら、大声で聞いた。
「ほう、『神法』かな? やはり扱えたか。裏切ると思えばこそ、教えなかったものを」
 ケルトの問いを完全に無視して、白衣が言った。その瞳が真っ直ぐセルリアードを見据えている。
「答えろ!」
 一声上げて、ケルトは白衣に切りつけた。白衣が驚いた顔でそこから飛び退く。
「やるな! だが剣は我が望むところではない。彼らに遊んでもらえ」
 言うが早いか、白衣は追いついてきた者たちの後ろに隠れてしまった。やってきたのは白衣も入れて8人。そのうちの5人までは、少なくとも見た目は人間だった。
 先手必勝!
 ケルトが先頭の男にいきなり体当たりをかけると、ふいを突かれたらしく、男は背後の仲間を巻き込み、もんどりうって倒れた。その直後に別の一人から突き出されてきた剣を、ケルトは綺麗にさばいて反転、回り込もうとしていた別の男に切りつけた。さらに気合いの声を上げ、次の敵に向かって行く。
 はっきり言って、サリディアは驚いていた。
 ケルトの腕がこれほどとは。
 今までとはまるで気迫が違った。別人のようだ。
「小僧がっ!」
「ファスを返せっ」
 白衣はいまいましげに舌打ちすると、その手で印を組み、呪文を唱え始めた。魔術!
 先に呪文を完成させたサリディアが、迷わず白衣に向けて術を放つ。
「雹雷駆!」
 白衣の傍らにいた二人の男が悲鳴を上げた。しかし、白衣は呪文こそ中断したものの、間一髪逃れて既に体勢を立て直している。一方、ケルトはいつの間にか例の魔族二人を相手取って闘っていた。さすがに苦労している。しかし、その攻防の激しさに、他の者はかえって手を出せないようだった。代わりに標的をサリディアに変えて、駆け寄ってくる。
 その数3人。
 サリディアには正直苦しい。
 彼女は逃げるようなそぶりを見せたが、フェイントだった。何やら取り出して投げつける。
「うわっ」
 瞬時にして局所的な白い霧が彼らを包み、彼らはあっさりその場に崩れた。眠らせたのだ。そしてその様子を見ながら、彼女は改めてセルリアードの精神力に感嘆した。彼が受けたものより幾分弱い効果のものなのに、傭兵達には十分、面白いほど効いている。
「どいつもこいつも役立たずが!」
 白衣が怒鳴った。
 見れば、例の魔族も既に片割れが倒され、最後の一人がケルトと剣を合わせていた。しかも、明らかにケルトが優勢だ。
 ――その時。
 カッ!!
 突然、目が眩むほどの光が襲い、その場の全員の視界を閉ざした。
 ズガッ!!
 直後に突き上げたのは、もはや音と呼べる代物ではなく、重い衝撃波とでも言うべきもの。何か凄まじいまでのエネルギーが目標物に衝突し、弾けたような空気の振動だった。
 ッダウンッ!!
「きゃあああっ」
「うわっ」
 凄まじい突風に、離れていたにも関わらず、彼らは数メートルは吹っ飛ばされた。ざざざっと冗談のように体が地面を滑る。
「サリサっ!」
 あやうく木に激突しそうになった彼女を、ケルトが寸でのところで受け止めた。危なかった。
 と、にわかに風が向きを変え、無理な膨張をした空間を元に戻しにかかった。二人は勢い余って地面を転がった。
 そして。
 全てが収まった時、結界は跡形もなく消失していた。いや、それに守られていた研究所にさえ、神法は深刻な打撃を与えていた。
 サリディアは見た。
 セルリアードががくりと膝を落としながらも、歓喜の表情を浮かべるのを。
 それから聞いた。
 低い呪文の詠唱を。
 ――しまった!
 サリディアは油断したことを激しく後悔した。呪文を唱えているのは白衣。そして、この術は――強力な割に効果範囲の広い、精神にショックを与える術だ。一つ間違えば失神しかねない、強力な魔術。今からでは阻止できない!
 その時、視界の隅に飛び込んできた影が一つ。ケルトだった。いつの間に体勢を立て直したのか、剣を構えて真っ直ぐ白衣に突っ込んで行く。
 白衣が緊迫した表情を見せる。術の完成とどちらが速いか――
「たあっ!」
 ケルトが斬りつけたのと、白衣の術が完成したのとは、同時だった。目の前が真っ白になるような衝撃。次には、全身を奇妙な脱力感が襲った。
 しばらくして視界を取り戻すと、サリディアはまず、腕から血を流し、肩を押さえてうずくまる白衣の姿を見出した。そして、その脇に立ち尽くすケルトの姿を。
「きさま……貴様、よくも!」
 怒りと苦痛に顔を歪めて、白衣が吐き捨てるように言った。
 白衣はとっさに腕で頭部を庇っていた。しかし、ケルトの剣はその上からですら、敵の肩口を深く切り裂いたのだ。頭部を庇っていなければ、首を斬り落とされていたに違いない。
「許さん、許さんぞ……覚えていろ! 地獄の苦しみを味わわせてやる!」
「止めを刺せっ!」
 セルリアードが叫んだ。しかし、ケルトは動かなかった。動けなかったのだ。彼は魔術の直撃を受けたのだから。次の瞬間白衣の瞳が、確かに蒼かった瞳が、深い紫の光を放った。そして、白衣の姿は掻き消えた。
「何……今の……」
 サリディアが何とか立ち上がりながらつぶやく。
「瞬間移動だろう。魔界に行くとは思えないから、トラバスにでも呼ばれたな」
 どうやらセルリアードは白衣の瞳が紫色に光ったのを見なかったようだ。それとも、ただの目の錯覚だったのだろうか?いずれにしろ、研究所に戻ったには違いない。
 瞬間移動は別の魔術師の協力がない限り、ごく限られた場所にしか飛べないのだ。
「場所を変えないと……」
「そうだな……今日はこれ以上は無理か」
 セルリアードは悔しそうに言い、立ち上がった。失敗した。正直、予想以上の威力だった。博士の言う通り、セーブするのが正解だった……。
 心身への負担も半端なものではなく、立ち上がるなり彼はくらっとして、そばの木に寄りかかった。寿命が3年くらいは縮んだ感じだ。身体がガタガタする。
「少し休もうよ。何も今すぐ動かなくてもいいだろ」
 ケルトが疲れきった声で言った。一人で何人もの敵を相手にしたあげく、白衣の魔術をくらい、彼の方も冗談抜きに疲れ切っていた。しかし、セルリアードは極めて冷ややかだ。
「ならここにいるんだな。間違いなく、永遠に休ませてもらえるぞ。私は遠慮するが」
「そんな言い方しなくてもいいだろ!」
 むきになって言い返すケルトの顔は、既にいつも通りの少年のものだった。先ほどまでの戦士の面影はまるでない。と、セルリアードが微かに笑った。冷笑にも苦笑にも見えない。サリディアが思わず目を疑うほど、邪気のない、温かい笑みだった。
 もっとも、彼が微笑んだのはほんの束の間で、すぐにいつもの何の感情も読み取れない顔に戻ってしまったけれど。

 結局、3人はこの辺りに詳しいセルリアードの案内で泉のそばまで行き、そこで一晩過ごすことになった。もっと見つからなそうな場所まで移動したかったのだが、いかんせん肝心のセルリアードが倒れてしまったのだ。力を使い果たしたところに、白衣の術を受けたのが応えたのだろう。それにぶつぶつ文句を言っていたケルトも、食事をして静かになったと思ったら、いつの間にか熟睡していた。

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 うとうととまどろんでいたサリディアは、誰かが起きる気配で目を覚ました。寝込みを襲われないよう見張っていたのだが、昼間の疲れが出てしまったらしい。
「……私はどのくらい眠っていた?」
 闇の向こうからセルリアードの声がした。
「半日」
 眠い目を擦りながら答えて、サリディアは大きく伸びをした。ひんやりとした空気のおかげで、適度に眠気がとぶ。ケルトはよく眠っているらしく、規則正しい寝息が聞こえていた。
「そうか……。起きなくていい。見張りはやっておく」
「うん。でもその前に聞いておきたいことがあるの」

 満天の星たちが瞬いていた。どこからか泉の湧き出す音が聞こえてくる。サリディアは泉のほとりの草の上に腰を下ろすと、そっと手を水に浸した。冷たい。
 真っ暗でほとんど何も見えなかったが、誰か潜んでいればすぐにわかるはずだった。なにしろ、時折梟の声や風の音がする他は、辺りは静寂に包まれているのだから。
 ぱしゃぱしゃと水音が聞こえた。セルリアードが泉に行きたいと言うのでついてきたのだが、何のことはない。単に、水を飲みに来ただけだった。
「サリディア・メルセフォリア」
 彼女は驚いて彼を見た。暗いので、影しか見ることはできない。静寂を破った彼の言葉、サリディア・メルセフォリアは彼女のフルネームだ。
 ちなみに、フォラギリアでは男性は姓が、女性は名前が先に来る。
 それにしても、どうして……。
「9年前、父の研究報告についていった時に聞いた。まったく、我ながらたいした記憶力だと思うがな」
 それから、彼は妙に楽しそうな口調で言った。
「おまえ、覚えてないだろう」
「え?」
 そう、すごく余計なことを覚えている。
「その時、見学してこいと言われて廊下から中庭を見た。8歳くらいの女の子が、何のつもりか梯子をかけて木に登っていた」
 サリディアはさすがに面食らってセルリアードを見た。それはつまり、彼女のことなのだろうが。
「それから、今度は枝に跨って一生懸命手を伸ばして、何か木の枝にひっかけた途端、自分はそこからまっさかさま」
 サリディアは思わず声を上げそうになった。その時のことは、彼女もうろ覚えながら覚えている。うっかり毬をぶつけて落とした鳥の巣を、元に戻そうとしたのだ。後で叱られたのは言うまでもない。しかし、よもやそれを見られていたとは……。
「下が池だったから良かったものの、そうじゃなかったらどうするつもりだったんだろうな? まあ、小さな子供のことだから、仕方ないか」
 いじわるだ。サリディアは少々頬を赤くして、口答えした。
「下が池だったから登ったんだもん。濡れるくらい別に……」
 本当のところ、そう思っていたと覚えているわけではない。何しろ残っているのは『とにかく怖かった』という印象ばかりで。
 しかし、意外な反応があった。セルリアードが短いながら、声を立てて笑ったのだ。
「本当か? 今そう思っただけだろう? おまえ、溺れたんだぞ」
「え……!? ……でも、じゃあどうして助かったの……?」
「忘れた」
 彼女は心底、うかつに口答えしたことを後悔していた。夜闇で顔が見られないのがありがたい。とにもかくにも顔が火照って仕方がないので、泉の水で顔を洗う。冷たい水が心地良かった。
 セルリアードは何を思っているのか、それきり沈黙している。
 ――どうして無事だったのか――本当はそれも覚えていた。彼が助けたのだ。一度やはり溺れてしまった妹を助けたことがあったので、大人を呼ぶ必要もないと思った。彼は長い棒を見つけてきて彼女をそれに捕まらせると、後は引っ張るだけと油断していた。ところが、物事いつもうまくいくとは限らないもので。彼女が沈むまいとして暴れた拍子に、彼まで池に落ちてしまったのだ。もちろん溺れはしなかったが、おかげでずぶ濡れになり、父親に随分笑われた。
 そう、あの頃はまだ、父親の愛情を感じていた――
「セルリアード?」
「ああ、何だ?」
 声にいつもと微妙に違う響きを感じて、サリディアはとっさに何でもないと言いそうになってしまった。
 しかし、なんとか気を取り直して尋ねる。
「向こうの人数はどのくらい? 3人で、大丈夫かな」
「人数か……。たいしたことはない。傭兵が十数人、今まで襲ってきたタイプの魔物が多くて十五……いや、十三匹というところだ」
 それはたいしたことはある。しかし、彼女がそう言う前にセルリアードが付け加えた。
「それより用心するのは4人、と言うのも正確じゃないが――とにかく4人だ。まず魔術、あるいはそれを付与した道具を使うトラバスとサニエル。それから魔族であるニーズル」
「サニエルって?」
「昼間、白衣を着たのがいただろう? あいつだ。フルネームはギルファニート・アル・サニエル。私の父親らしいな」
「…………4人目は?」
 セルリアードはしばらく沈黙していた。表情すら、夜闇に紛れてうかがえない。
「私がやる。手出しはするな」
 いつになく突き放した口調で言うと、彼はそれきり黙り込んでしまった。
 何とも居心地が悪い。
 サリディアは困って、ちょっと話題を変えてみた。
「カードに入れてあったイメージリングのことなんだけど」
「見たのか?」
 怒ってはいない口調だったが、さすがに歓迎したものでもなかった。
「――うん」
「……あれは妹だ。もうどこにもいない」
 それは微妙な表現であり、声色だった。サリディアは何か引っかかりを覚え、意識する前に聞いていた。
「……亡くなった……の?」
 聞いてはいけなかっただろうかと、口にしてから思った。しかし、今さらだ。
 彼はしばらく沈黙していた。
「妹は、幸せになれるはずだった。少なくとも人並みには――それを、あの男が台無しにした。実の父親でありながら、彼女を生贄に――研究の生贄にしたんだ」
 ――研究の生贄?
 それはどういう……。
 サリディアは喉元まで出かかった疑問を飲み込んだ。なぜか、聞くのが怖いような気がして。
 泉の水音だけが、耳に届く。
「まあ、おまえには関係のないことだ……。もう寝ろ。疲れていては生き残れないぞ」
 いつになく寂しげな声に、サリディアは理由のわからない胸の痛みを覚えていた。予感とも、もっと別の何かともつかない痛みを――


 サリディアが去ってしばらくの間、セルリアードは泉のほとりに生えた木に寄りかかって、闇に沈む水面を見つめていた。何もかも呑み込んでしまいそうに、また彼の未来を暗示するかのように、静かに闇の色を湛える水面を……。

* 第四章 紫の魔獣 に続く

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