聖魔伝説1≪邂逅編≫ 逢魔が時

第一章 ――死を贈る者――

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≪2000.03.25更新≫

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 もうすぐ、サリディアは十七になる。彼女がノーザンシティにやってきてから、そろそろ一年が経とうとしていた。
 サリディアの母親は出産の際に亡くなった。難産だったのだ。だから、彼女は母親の顔すら知らない。ただ――美しい、本当に美しい人だったと。父はいつも、彼女を思い出す度そう言った。おそらく、それは容姿に限ったことではないのだろう。
 サリディアは祖母に、魔術の基礎と応用の仕方を学んでいる。彼女の魔力は父親ゆずりだ。彼女の父はサリスディーン博士といって、魔力付与――物体に魔力を付与し、意のままに動かす技術――の第一人者である。とはいえ、博士は多方面に造詣が深く、研究の幅も極めて広い。その多くの研究のうちの一つに、聖魔伝説の検証があった。そしてそれこそが、サリディアを博士のそばにいられなくした原因だ。
 世界の存亡に関わるという聖魔伝説を調べていくうちに、博士は『神法<エルバーニャ>』という極めて強力な魔法を見つけてしまった。
 博士はすぐにそれを封印しようとしたが、助手のトラバスが止めた。『神法』が、世界を滅ぼすという『無』に唯一対抗し得る手段とされていたからだ。
 伝説が真実なら、『神法』の放棄は世界の崩壊を意味する。迷っている場合ではない――そう言っていたようにも思う。けれど何にしろ、トラバスはある時裏切り、その研究資料を持って姿を消した。
 数年後。未完成だったその研究に行き詰まったらしいトラバスは、さらにその先の知識も得ようと、博士本人はおろか、その一人娘であるサリディアまでもを狙い始めた。そのため、彼女は家を出たのだ。
 ここは安全だ。博士の母親、つまりサリディアの祖母は強い魔力を持った魔術師で、しかも彼女には多忙な博士とは違い、サリディアに構う余裕があった。そうして、一年が過ぎた――

 T
 サリディアは吹き抜けの広い瞑想室で一人、魔術の練習をしていた。もうすぐ帰ってくるはずだが、祖母のサラディナーサは町へ買い出しに出かけている。明日はサリディアの誕生日なのだ。

「誰!」
 何者かの気配に、サリディアは鋭く叫んだ。最初は祖母が帰ってきたものと思った。しかし、それにしては挨拶もなく、気配に違和感がある。
「――気が付いたようだな、サリディア嬢」
 声は真後ろから聞こえた。人のものとは思えないほど、冷たく冴えすぎた声。
「なっ……いつの間に!?」
 彼女は驚愕の声を上げ、飛び退いた。
「なに、たった今だ。手遅れとはいえ私の気配に気付くとは、カンがいいな」
 声の主は、見事な銀髪を持った若い男だった。黒い服に黒いマントをはおっている。そしてその男の冷たく澄んだ、蒼の瞳――彼は類稀なる美貌を誇っていたが、それに気付く者はあまりいない。それというのも、その目の印象が強すぎるのだ。ほとんどの者は見た瞬間に彼の瞳に射竦められ、恐怖以外のものを覚えられなくなってしまう。サリディアとて、その例外ではなかった。
 ――いや。恐怖は覚えたけれど、竦みはしなかった。
 そして、彼女は同時に不思議な痛みを覚えていた。胸がなぜか哀しく痛む。
「何者なの!? 名を……名を名乗りなさい!」
 サリディアは気丈に言い放ったが、声が震えていた。怖いのだ。人をこれほど恐れたことは、かつてない。
「名か……いいだろう。ギルファニート・アル・セルリアードが本名だ。もっとも、この名を知る者はほとんどいないがな……。『アルバレン』で通っている」
 アルバレン、とは古い言葉で死を贈る者、という意味だ。
「死を贈る者――!?」
 相手が誰であろうと邪魔する者には容赦せず、巻き添えさえも意に介さない――と噂され、恐れられる悪魔の名だった。あるいは『人の姿をした死神』と言った者もいたかもしれない。しかし、彼がそう呼ばれる本当の理由は、行為よりもむしろその実力にあるという。凄まじいまでの剣技と、魔族と比肩し得るほどの魔力――神出鬼没で、その真の目的は、誰も知らないと言う――。
「知っているか。それなら、諦めておとなしくしてもらえるか?」
「……どう……しろと?」
「わかっているはずだ。おまえが欲しい。――大事な人質だ」
「……」
 静かに、けれど素早く、サリディアは力ある言葉たちを綴り始めていた。
「魔術か……生半可な術は通用しないぞ。それとも、必殺技でもあるか?」
 全く動じた気配もなく、彼は猫のごときしなやかさで床を蹴った。
「ゲイル・シェル!」
 アルバレンの真上に風が収束し、爆風となって室内を荒れ狂った。そのまま、轟音とともに天井を吹き飛ばす。
 ぱらぱらと残骸が散った。
「残念だったな。なかなかの術だが、当たらなくては仕方ない。もっとも、相手が悪いが……」
 未だ降りやまない屋根の残骸を気にするでもなく、彼は再びサリディアを追った。
 呪文を唱えつつ扉に向かっていた彼女は、しかし部屋を出ることは断念せざるを得なかった。
 アルバレンがすぐ後ろに迫ってきている。扉を開けている暇はない。
「イリュージョン!」
 瞬時に部屋中が彼女の幻影であふれた。しかしアルバレンは冷たく笑っただけで、解除の呪文を唱える。
「リターン!」
 サリディアが次の呪文を唱え終えるより速く、アルバレンの魔術が彼女の幻影を一掃した。その直後、彼女の魔術が完成する。
「アイス・グレイン!」
 解き放たれた矢の勢いで、無数の氷塊がアルバレンを襲った。しかし、彼はそれを悉く剣で弾くか、あるいはかわしてサリディアに迫る。
 ぱっと、鮮血が散った。弾かれた氷塊の一つが、逆にサリディアを傷つけたのだ。
「う……」
 傷口を押さえる、その指の隙間から血が滴る。
 ――もう少し――
 彼女は諦めていなかった。それどころか、怯んだのはむしろ、どういうわけかアルバレンの方だった。苛立った声が響く。
「何のつもりだ!? そんなものが、私に通用するとでも……。さては、さっきのは屋根を吹き飛ばすのが狙いか!」
 その通りだった。ゲイル・シェルで屋根を吹き飛ばせば、祖母は必ず異変に気付く。そのために、あえて派手な音が立つゲイル・シェルを使ったのだ。
 だが、あれからまだ5分と経っていないのでは――まだまだ、祖母の助けは期待できない。
「悪いが、もう終わりだ!」
「きゃあっ!」
 アルバレンはぐっと傷口をつかんで彼女を引き寄せると、その額にすかさず手を翳した。
 瞬時に魔力がそこからあふれ、彼女の意識を闇にさらった。

 U
「なに!? 今のっ」
 爆風が屋根を吹き飛ばした時、最も近くにいたのはサラディナーサではなく、二人連れの若い旅人だった。一人はなかなかに整った顔立ちで、薄茶の髪と琥珀の瞳を持った、戦士風の少年。そして今声を上げたもう一人の方は、神秘的な美貌を持った、可憐な少女だ。
 二人は折しもサリディアに会うべく、ここまで来ていたのだ。
「魔術か!? 何かあったのかもしれない!」
「つかまって! 一気に翔ぶ!」
 少女は言うと、即座に呪文を唱え始めた。風の精霊を呼んでいるのだ。
 ヒュウっ
 風は二人を乗せて上空へと吹き上がった。
「見て、屋根が……」
「ファス、あれ、サリサじゃないか!?」
 そのまま、二人は吹き飛んだ屋根から屋敷に侵入した。

「サリサ!」
 彼女は返事をしなかった。サリディアを抱き留めたスラリとした長身の男が、静かに顔を上げる。その瞳の冴え。殺気、とは微妙に違う何か、それでもとてつもなく危険な光が、その透き通る蒼い双眸に宿っていた。
 彼がサリディアの腕に当てていた手の平から、すっと光が消える。
「サリサに何をした!?」
「眠らせただけだ。とりあえず危害を加えるつもりはない。誰だか知らないが、命が惜しければ邪魔をするな」
「何だと!? 貴様、何者だ!サリサを放せ!」
 ケルトが剣を抜き放つ。
「もう一度言う。命が惜しければ邪魔をするな」
 冷たい声で言い渡し、彼は呪文を唱え始めた。
「風の魔法! 逃げる気よ!」
「させるかっ」
 ケルトが斬りかかるのとほぼ同時に、ファスが風の精霊を呼んだ。こういう場合、精霊はより魔力の強い者の命に従う。
「むっ」
 アルバレンは軽く舌打ちすると、サリディアを脇に抱えて跳び、ケルトの攻撃をかわした。
 彼女を抱えているとは思えない速さだ。
「最後だ! これ以上邪魔するなら、子供と言えど容赦しないっ」
「ル・ロンジュン」
 彼の警告を無視して、ファスが魔法を打ち出した。アルバレンに向けた手の平から、無数の小さなかまいたちが飛ぶ。さらに、彼女は軽く右手をふった。
 アルバレンはケルトに牽制を加えつつ、それをマントでふり払った。精霊魔法は数多くの力の弱い精霊を使役するものなので、ものによっては簡単な結界でも防げる。しかし、ファスのこの攻撃はフェイントだった。
「サリサ!」
 ケルトが顔色を変えて叫ぶ。彼女がほんのりと青白く光る、薄い光の幕に覆われたからだ。
 
 意識が、失われた時と同様、急速に戻って来ていた。目の前に誰かいる。どこかで見たような……。
「ケルト!?」
「なっ!」
 アルバレンが初めて、怒りを込めた目でファスを睨んだ。
「命はいらないらしいな!」
 すっと腕を引いて、一言、言葉を発する。とたん、アルバレンが指にはめた不思議な色の指輪が、炎色の光を放って砕け散った。
「それはこっちのセリフだ! サリサを放せ!」
「来ちゃだめっ」
 サリディアの制止も聞かず、ケルトは再び斬りかかっていった。が、アルバレンに近づいた途端、何かに弾かれたように後方に吹き飛ぶ。
「がっ……!」
 彼はそのまま、壁に叩きつけられた。
「ケルト!」
 サリディアとファスが同時に叫ぶ。ケルトは咳き込みながらも、なんとか立ち上がった。
「何だ……一体……」
「結界よ! 今破るから待って!」
 ファスが呪文を唱え始める。
 逃げようとするサリディアの腕をつかんだまま、アルバレンもまた次の呪文の詠唱に入っていた。
 ――眠れる力  混沌の力よ――
 背筋が寒くなる、という言葉の何たるかを、サリディアは初めて知ったように思った。彼が使おうとしているのは、ルーインアンジュレイション――広範囲を無差別に殺戮する、高度な破壊の魔術だった。いくら郊外で民家がまばらであるとはいえ、そんなものを使えば。こんな集落など、間違いなく全滅だ。
 ――我が魔力して  目覚めよ――
「やめてっ!」
 彼女は無我夢中で右腕をつかまれたまま、アルバレンに体当たりをかけていた。だが。彼は難なく彼女を受け止め、その動きを封じるように、彼女の両腕を強くつかんだ。
「……あ……」
 完全に動きを封じられ、サリディアが絶望の声を漏らす。
 ――汝が力を  あらはし――
「お願い、やめて! おとなしくする! 言う通りにするから!!」
 もう、彼女の声はほとんど悲鳴だった。
 流れるような呪文の詠唱がふっと止まる。
 アルバレンの蒼い目が、静かにサリディアを見た。彼女の顔は蒼白で、つかんだ腕からも、その震えが伝わってきている。
 彼女が抵抗しないと言うなら、魔術による瞬間移動で済ませても良い。
 無抵抗の意思を証明するかのように、サリディアがその体から力を抜く。
 それを確かめ、彼が呪文を中断しかけた瞬間だった。ファスの魔法が完成したのは。
「ヴォ・モテーニ!」
 結界が軋んだ。もう、結界が破れるのに、ほんの数秒とかかるまい――。
 サリディアの腕をつかむ彼の手が、すっと冷えた。
 ――やるの!?――
 サリディアは気が遠くなりかけた。このままでは、彼女ひとりのためにサラディナーサが、ケルトが、ファスが。今まで親しくしてくれた人々が皆、殺されてしまう。
 ――其を  万人に知らしめんがために――
 だめっ!!
 最後の一言を発しようとしたアルバレンの唇に、サリディアはその震える唇を重ねた。

 V
 澄んだ音を立てて結界が崩れた。サリディアが静かに、その重ねた唇を離す。
 誰も動かなかった。動けなかった。
 それは一瞬のことでしかなかったが、随分と長い時間のことに思われた。
 まず、サリディアが動いた。アルバレンの手をふり払い、ケルトとファスの方へと駆け寄る。
「サリサ……」
 ケルトが声を絞り出して、やっとそれだけ言った。その時、ふいに玄関の方から何やらばたばたと人の気配が伝わってきた。誰かが大声を張り上げる。
「サリディア! どこ!? 返事をしなさいっ」
 彼女は返事をしようと口を開いた。けれど、言葉にならない。
「サリディア!」
「こっちです! 速くっ」
 代わりにファスが叫んだ。と同時にアルバレンは身をひるがえし、そのまま宙にかき消えた。
「サリディア!」
「おばあ……ちゃ……ん……」
 サリディアが抱きつく。しかし、その後が続かない。サラディナーサは厳しい目で部屋を見回し、言った。
「あなた達は何者です!」

 結局、アルバレンはものの十五分とここにはいなかった。それくらいあっという間の出来事だったのだ。ケルトたちはその後簡単に事情を説明して誤解を解き、とりあえずはサリディアが落ち着くのを待つ、ということで話はまとまった。

「お茶が入ったから少し休憩なさって」
 サラディナーサが瞑想室の屋根を直していたケルトとファスに声をかけた。
「あっ、ありがとうございます。今降ります」
 ファスが明るく答えて身軽に飛び降りる。その後に、不機嫌な顔をしたケルトが続いた。
「ごめんなさいね。孫を助けて頂いた上に屋根まで」
「そんな、こっちこそ勝手にお邪魔しちゃって」
 ファスはすぐに打ち解けてサラディナーサと気楽に話していたが、ケルトはあれからほとんど口をきいていなかった。
「そういえば、さっきサリディアって呼んでましたよね。私たちサリサって聞いてたんですけど、どっちが本名なんですか?」
 思い出したようにファスが尋ねた。サラディナーサが笑って答える。
「本名はサリディアの方ですよ。ただ、夫が……あの子の祖父が、昔好んでサリサと呼んでいたものですから。あの子はよくあの人になついていたから、その名前で呼ばれた方が、きっと今でもほっとするんでしょうねえ」
「おばあちゃん」
 ふり返ると、戸口にサリディアが立っていた。
「ちょっと、3人だけで話がしたいんだけど、いいかな」
「おやおや、まったく若い者はすぅぐ年寄りを邪魔者扱いするんだから。ま、いいでしょう」
 サラディナーサは言うと、すれ違い様にぽんと彼女の肩を叩いて出て行った。元気を出しなさいよ、と。

 ケルトはぼんやりと、それでもつくづくと一年ぶりに会えたサリディアを眺めていた。以前より、もっと綺麗になった気がする。髪にも艶が増して、相変わらず肩の所で切り揃えているのが、それこそもったいないくらいだと思った。
「あの、さっきはどうもありがとう。ケルトとファスが来てくれなかったら、きっと連れて行かれてた――それでね」
 サリディアはしばしためらう。
「一つ、聞きたいの。どうしてこの近くにいたの?」
「うん。あのね、実は……」
 言いかけて、ファスは不満そうに言葉を切った。それから、口を尖らせて文句を言う。
「ねえ、ケルトったらどうしたの?久しぶりなんだからそんな不機嫌な顔してないでよ。楽しく話そ?さっきから変だよお」
 ケルトはますます不機嫌な顔になった。それを見て、ファスが駄々っ子のように頬をふくらませる。こういう仕種をすると神秘的な美女の面影はどこへやら、少女のあどけなさが出てきて可愛らしいことこの上ない。サリディアもやっと頬をくずした。
「あーあ。もう、いいよっ。あ、話が逸れちゃったけど、サリサのお父さんってあのサリスディーン博士でしょ?それで、博士なら私のことも何か知ってるかもしれないって言われたの。どうせなら、サリサに紹介してもらいたいなあと思って来たんだけど」
「ああ、そっか……。うん、確かに父さんなら何かわかるかもしれない。……うん」
「サリサ?」
 彼女は妙に嬉しそうな顔をしていた。
「あ、ごめん。なんか、一度会ったきりなのに覚えててくれたんだなって思って――」
「サリサは覚えてた?」
 ファスがつられて嬉しそうに尋ねる。
 すると、サリディアはその顔にいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「それが、実は誰だか思い出せなくて、さっきから困ってるの。誰だったかな……?」
「ええ!覚えてないの!?」
 と、ケルトが突然、おおぼけなことを言ってサリディアをまじまじと見つめた。サリディアとファスは一瞬あ然とし、次の瞬間、お腹を抱えて笑い出した。
「じょ、冗談、冗談だよ。ごめんね。なんだか、こんなに楽しいの久しぶり」
 ファスの方はまだ笑っている。ケルトは一人、憮然とした顔でそっぽを向いた。
「ねえ、本当にごめん。謝るから許して。そんな顔されると、言い出し難くなっちゃう」
「何を」
 ケルトがぶっきらぼうに尋ねる。サリディアは苦笑しながら言った。
「一緒に行かせてほしいって」
「ほんとに!?」
「うん。足手まといにはならないように頑張る。ただ……」
「ただ何?いいよ、一緒に来てよ」
 にわかに機嫌を良くしたケルトが言う。それに、ファスが続いた。
「一緒に来てって頼んだの、こっちが先なんだよ。いいに決まってるじゃない」
「ありがとう。ただ、私父さんの研究を盗もうとしてる人たちに狙われてるの。さっきのも多分そう。だから、巻き込んじゃうかもしれなくて……」
「何言ってるのさ。それじゃますますほっとけないよ。そんなやつらに遅れは取らないからさ、行こうよ!」
 ふと、ファスの中で何かがひっかかった。ケルトの盛り上がり方に何か……。気のせいだろうか?
「ファスもいい?」
 サリディアの声で、ファスは我に帰った。
「あっ、うん、もちろんいいよ。いつ発つの?」
「うーん、早い方がいいんだけど……ちょっとおばあちゃんに話してくる」
 言って、サリディアは足早に部屋を出た。

 W
 翌日の午後。3人はサラディナーサ家を後にした。
 サラディナーサは朝からパーティの準備に追われていた。サリディアの誕生日祝い兼送別会だ。サリディアはこの午後、昨日やって来た二人の若者たちと共に、一年ぶりに父親のいるカティラシティに戻ることになった。サリディアがそう告げた時、さすがにサラディナーサも驚いた。けれど、前々からいつかはそう言い出すのではないかと――予感はしていたのだ。それに、昨日のことがある。ここも安全とは言い切れない。
 来るべき日が来たのかもしれない――3人ともまだまだ子供で心配ではあるが、とりあえずは快く送り出してやろうと、彼女はそれを許した。

「サリサ、ほんとによかった?」
 街道をサリディアと並んで歩きながら、ファスが遠慮がちに尋ねた。サリディアはひどく沈んでいた。おそらく、随分と後ろ髪引かれる思いなのだろう。
「いいの。もう、あそこにはいられない……。皆を危険にはさらせないもの」
 昨日の恐怖が蘇る。あの時、あれで彼の魔術を止められる、という保証はどこにもなかった。魔道は精神集中さえ解かなければ、いくら間が空いても唱えた呪文は無効にならない。発動させてしまえば、取り消せない。そして、もし彼が噂通りの人物だったら――?むしろ、あれで動揺してくれたことの方が不思議だった。
 あのまま魔術が発動していたらと、想像するだけでもぞっと背筋が凍る。
「……というと、私達は危険にさらしていいって言うのお!?」
「そういうわけじゃ……ないんだけど……」
 サリディアが困り果てた顔で立ち止まる。
「やだ、冗談だってば。本気にしないで!サリサが元気ないから言ってみただけっ。それに、この間も言ったけど、サリサが一緒に来てくれないとこっちが困るんだよ〜」
 言いながら、ファスはぐいっとサリディアの手を引っ張った。
「……そう……だったんだ。良かった……。ありがとう、ファス」
 サリディアは心底ほっとした顔で微笑んだ。
「それはそうと、サリサはカティラシティに着いたらその後は?」
 それまで黙って先を歩いていたケルトが、思いついたように尋ねてきた。
「それなんだけど……。私、父さんの研究資料を取り返したいの。父さんの研究が、悪用されたり暴走させられたりするのが嫌だから――。でも、そのためには向こうの研究所に忍び込まなきゃいけないんだよね」
「じゃあ、昨日の人も、その手先かなんかなの?」
 横からファスが聞いた。
「多分。盗まれた研究、まだ途中だったから。自力では進められなかったみたいで……。続きを欲しがってるの。研究のほとんどは父さんの頭の中だから、私を誘拐して、私の身柄と交換しようとしてるんだろうって」
 博士の助手から聞いた話だが、信憑性はかなり高い。とぼけた人ながら、助手はいい加減なことはまず言わないのだ。
「何だって!? そんなのほっとけないよ、僕も手伝う! 一人じゃ大変だろ? 特に今すぐしなくちゃならないこともないし」
「ええ!?」
 驚いたのはファスだ。
「ちょっとケルト、私のことは!?私の手伝いしてくれるって言ったじゃない!」
 断然不満だ。力いっぱい抗議する。
「それは……」
 ケルトはしばし口ごもった。
「とりあえず手がかりもないんだし、ファスも一緒に手伝ってやればいいじゃないか」
「その手がかりを探しにサリスディーン博士に会いに行くんじゃないの!」
 ファスがすっかり腹を立てて、かなりの剣幕で言う。まだ「手伝って」とも言っていないのに話が進むので、サリディアはもちろんあわてた。
「ちょ、ちょっと待って。何はともあれ、ファスのことを父さんに聞いてからにしよう。それから。ね?」
 しかし、サリディアの仲裁も虚しく。
「ふーんだ。ケルトのいーかげん!」
「何だよ!ファスのわからずや!」
 二人はぷいっとそっぽを向くと、そのままずんずん歩き出した。
 けんかするほど仲が良いとは言うけど……。
 サリディアは仕方なく、そのままファスの隣を歩いて行った。
 手持ち無沙汰に辺りの景色に目をやると、まだやっと寒さが和らいできた頃ながら、新しい命の芽吹きがそこかしこに見受けられた。雪解け水の流れる音や、時折の微風が心地良い。天気もいい。こんな日に、外でゆっくり食事ができたら最高なのに……。
 けんかしていてはつまらない。
 サリディアは一人頷くと、吹っ切るような笑顔で言った。
「ねえ、明日は泉のそばでお昼にしない? 私、いい所知ってるんだ」

 X
 翌日もまた快晴だった。といってもこの季節、この辺りはあまり曇らない。
「ケルト、何かの気配がする」
 サリディアと話しながら歩いていたファスが、ふと足を止めて言った。ファスはさすがに妖精族らしく、かなり感覚が鋭い。
 とはいえ、どうも気配の質までは判断できないようなので、危険かどうかはもっぱらケルトが判断していた。
「待ち伏せみたいだ」
 押し殺した声でケルトが言った。すぐに、サリディアとファスが呪文を唱え出す。
 立ち止まったものだから、相手もそれと気付いたらしく、ガサガサと繁みの中から姿を現してきた。
 尋常ではない風体をした男が8人。目元のみを出した覆面姿がいかがわしい。
「何か用でも?」
 ケルトが静かに声をかけると、中の一人が肩を竦めてみせた。
「あんたらに用はない。用があるのはそこのお嬢ちゃんだけだ」
「トラバスの手の者?」
 サリディアが問う。
「そういうことだ。そこの二人、怪我したくなかったら消えな」
「それはこっちのセリフだ」
 言って、ケルトが剣を抜き放つ。
「おお、こええ」
 ケルトをからかうように一人が言った。他の覆面たちも笑ったようだ。完全に甘く見ている。もっとも、相手は3人で、しかも3人ともまだ子供とくれば普通は油断する。
「悪いが、俺たちも金が欲しいんでね」
 その言葉を合図にするように、戦闘が始まった。一斉に覆面たちが剣を抜き、駆け寄ってくる。――と見えたが、一人後方に残っているようだ。
「たあっ!」
 ケルトの剣が一閃し、先頭の男の剣を弾き飛ばした。相手が油断していたとはいえ、それなりに洗練された技術と速さあってのことだ。
 ケルトは無理をせず、攻撃よりも守りに重きを置いて、覆面たちを凌いでいた。相手の数が多い場合には、まずケルトが足止め、ついでファスの魔法で撃墜――これが最も効果的で危険も少ない。とはいえここまで大人数だと、早めの援護がなければ突破されてしまうが。
「エレクトロン!」
 敵がかたまった所を狙って、まずサリディアの魔術が放たれた。一瞬の電撃が、4、5人の動きを止める。致命傷を与えるような術ではないが、今はこれで十分だ。
「アース・ドロップ!」
 ファスの声と同時に、覆面たちの足元の地面が瞬時にして底無し沼と化した。覆面たちが、あわててそこから抜け出そうともがく。彼らが胸ぐらいまで沈んでやっと、ファスは魔法を解いた。地面が覆面たちを胸まで埋めたまま、元に戻る。
「まだやる?」
 ファスがいやみっぽく聞いた。もはや残っているのはずっと後ろの方に突っ立ったままの一人、痺れてあまり動けない二人、そして、初めにケルトに剣を弾かれた一人の計四人。最後の一人は剣を拾いに行っていたため、魔法に巻き込まれずに済んだのだ。
「確かにおまえまで魔法が使えるとは、計算外だったがな。おまけにそこの坊主もなかなか使えるようだ。が!」
 まともに動ける一人が、一歩前に進み出て言う。
「今度は油断したのはそっちのようだぜ」
「何ですって!?」
 と、それまでただ傍観していたかに見えた後方の覆面が、その手を高々と差し上げた。
「セイクリドリジョン!」
「!!」
 サリディアとファスがあわてる。ケルトは一人、訝しげな顔をした。
「何だ?」
「フフフフフ……これで魔道は使えまい。これでも勝てるかな?」
 使われたのは一定時間、術者の力量に応じた範囲で魔道を無効化する術だった。
 ただし、効果は術を使った本人にも及ぶ。
「なんだ、僕が残りの4人倒せばいいんだ。となれば今のうちだな」
 言うなり、ケルトは覆面に斬りかかった。
「ふん、おまえに俺は倒せん!」
 高らかに宣言して、覆面がケルトを迎え撃つ。二人の剣技はほぼ互角だった。いや、わずかにケルトの方が上だったか。その差が次第に覆面を追い詰め始める。と、覆面がバランスを崩した。すかさず、ケルトが相手の右腕めがけて斬りつける。
 シュウウウッ!
 覆面の切り落とされた腕が、音を立てて消えた。そして、見る間にその傷口から新たな腕が生えてきた!
 ケルトはもちろん目を疑った。
「残念だったな。腕は立つようだが、ばらばらに切り刻みでもしない限り、剣じゃあ俺は倒せないぜ」
 ケルトの顔にはっきりと焦りの色が浮かぶ。一瞬の隙をついて覆面は剣を拾い、ケルトに斬りつけた。それでもなんとか受け流すケルトに、痺れていた一人がシュっと石を投げつける。
「もらった!」
 覆面の剣がケルトの肩を深くとらえた。
「うっ……」
「ケルト!」
 ファスが叫んで駆け寄ろうとする。
「待って、ファス!ケルト、伏せて!」
 サリディアは決して、魔道が使えなくなったからといって、傍観を決め込んでいたわけではなかった。彼女は荷物の中から小型の爆弾を取り出し、投げ込む隙を窺っていたのだ。しかし、なかなか投げ込む気にはなれなかった。魔術と違い、爆弾は威力をセーブすることができない。殺気も技術も必要とせず、無造作に、一瞬で敵の命を奪ってしまう。けれど、もはやそんなことを言っている場合ではなくなっていた。サリディアは安全装置を外すと、その動作のうちに気を鎮め、狙いを定めてそれを覆面に投げつけた。
 ドガッ
 一瞬、辺りが真っ白になった。
「ケルト!」
 今度こそファスが駆け寄る。今やまともに立っているのは、サリディアとファスだけだった。ケルトに斬りつけた覆面と痺れていた覆面は消し飛び、魔術を使った覆面が一人、よろよろとこの場を逃げ出そうとしていた。
「サリサ、どうしよう、ケルトが……」
 泣きそうな顔でファスが言う。ケルトは気を失ってファスの腕の中にいた。見るからにぐったりしている。とっさに伏せたとはいえ、今の爆発で吹き飛ばされた時に、剣が抜けて傷が開いたのだ。
「……ファス、水筒を。何とかしてみる……」
 ファスは真っ青になりながらも、大急ぎで水筒を取り出した。まだ魔道無効化は解除されていない。ファスの精霊魔法で癒せば簡単なのだが、この状態では、下手にケルトを動かせない。
 サリディアは手早く止血すると、水筒の水で傷口を洗った。それから簡単に、肩を固定する。
「これで……術が解けるの、待つくらいはできると思う。術さえ解けたら、ファスが魔法で何とかできるよね?」
「うん」
 まだ震えが止まらないらしく、声を上擦らせながらファスが頷いた。
「――それじゃあ、とりあえず術が解けるまで休憩しとこうか。そんなにはかからないと思うんだけど」
「うん」
「一段落ついたか」
 すぐそばの木陰から、覚えのある声がした。背筋に冷たいものが生まれて消えた。
「――アルバレン」
 つぶやくように言って、サリディアは目を伏せた。打つ手はない。
 彼女は静かに目を開けると、悲壮な覚悟を決めて彼を見た。

* 第二章 魔族の影 に続く

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