水晶師【テューカ】

二年目の春

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もくじ

* 茜ちゃん奮闘記【外伝】
* 美香様の夜明け【外伝】


                     

完 2001.01.05

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「物静かなのは相変わらずですが、彼女の話をする時は、本当に幸せそうな顔をするんです。不安な影もなくなって……」
「そうですか、沙羅が……」
 一年ぶりの会堂で、3人の初老の男性が密会していた。
「これも、天邏殿と優様のおかげです。感謝の言葉もない」
「陛下、そのようなもったいないお言葉を……」
 2年前、事故で殺してしまった梓の両親に、これでやっと顔向けできる。一時はどうなることかと思ったが、伯は感無量だった。
 その時、コンと扉が叩かれた。
「優様、俺です。龍影です。ちょっと話があって……」
 絶句している優の代わりに、帝が言った。
「お入りなさい」
 龍影は耳慣れない声なのを訝りつつ、扉を開けた。開けたまま、目を大きく見開いて凍りつく。
「どうかしましたか?」
 帝が言った。
「え? あの……陛下……?」
「ええ、ですが、気遣いは無用です。何分お忍びですからね」
「……はい」
 言いつつ、龍影は深々と一礼していた。身が震えそうになる。
 ――どうして、ここに帝と伯が!?
 帝の御前というだけで、物怖じする龍影ではない。しかし、この二人がここにいる理由がわからない。帝と天邏伯、双方が関わったのは――彼が知る限り、あの一件だけだ。
 違う!!
 優様は関係ない。――そんなばかな!
「陛下……ここに、どういった御用でのお運びですか?」
「……」
「龍影君……」
 優が言った。
「優様……優様、まさか……」
 優はうつむきがちに視線を逸らし、頷いた。
「お察しの通りです」
 何かが崩れたようだった。
 しばらく、龍影は愕然として立ち尽くしていた。
 やがて、不覚にも熱いものが込み上げて。
 彼は何も言わずに踵を返し、全速力で駆け去った。
 ――ちくしょうっ!!
「龍影っ……」
 その後ろ姿を見送って、優は胸の痛みに耐えかねるように、机に手を突いた。
「優様……」
「あの子は……龍影は、もう戻ってこないかもしれません。私は――」
 沙羅も龍影も、優にとっては同じくらい愛しい存在だった。
「私は、間違っていたのかも――!」
 深く深く傷つけた。どこで間違ったのかもわからない。裏切るべきではなかった?あの子は強い。裏切った後でも、きちんと事情を話して、彼が納得するまで論争していれば――
「優様、あまりお力を落とされず……。あなたの信じた子なら、きっと戻って参りましょう」
「陛下……」
 優はただただ虚空を見つめた。
「あなたはあの子のことも救いたかった。そうでしょう?わかってくれます」
「……」


 

 完成した水晶を手に、沙羅はにっこり微笑んだ。今日で結婚してからちょうど一年目。梓は忘れているかもしれないけれど、都合良く結婚記念日だ。忘れていたら、それを理由にいじめてやろう。わくわくする。
 水晶はことのほか上出来だった。梓が余り物でいいと言うので、やや力の弱い小型の水晶だ。けれどこの魔力を秘めた透明感に、梓ならきっと夢中になる。夢中になりすぎて、彼をほったらかしてくれるかも……。
 沙羅は一人でくすくす笑った。そうはさせない。何としても構わせる。
 彼は今すぐ梓を喜ばせたくて、今すぐ梓に笑ってほしくて、爽やかな風に吹かれつつ、春の小道を進んで行った。
 確か、今日は小川に行くと言っていた。

<更新日 2000.11.17>


 

 梓は一人、川原を物色していた。いい場所を見つけたら、沙羅にも教えてあげるのだ。そうして二人で遊んだら、また地図が充実する。遊んだ後、地図に記事を書き足すのが一番楽しみだった。
「梓」
 え?
 彼女は驚いてふり向いた。この声――
「龍影!?」
「梓、遅くなってごめん、迎えに来た」
 迎え――
「あの、待って、私……」
 とっさに言うべき言葉が見つからない。言われたことも、梓は半分ほどしかわかっていなかった。何より、驚きと懐かしさで一杯で。話したいことは、聞きたいことはたくさんあるのだ。彼が許してくれるのなら。
 ただ、彼の瞳の真剣さに、梓は途惑った。
「闘おう。一年前、何があったのか――訴えるんだ。必ず勝てる。勝ってみせる。俺は――」
 一瞬だった。
 あまりに突然で、彼女は拒絶しそこねた。
 気付いた時には抱きしめられ、唇が重なっていた。
「!」
 あわてて抵抗したが、かえって強く抱かれるだけだった。口付けが終わらない。
 やっとそれが離れる頃には、彼女はがくがく震えていた。ぎゅっと瞑っていた目を、少しずつ開けていく。
 そして、梓は離れた木陰に沙羅を見た。
 ――沙……――
 ただ目を見開き、彼女は真っ白になった。息をするのも忘れていた。
「梓、愛してる。一緒に闘おう」
 ぱんっ
 龍影はびっくりして彼女を見た。叩かれた頬が、わずかに張った。
「どうして……?」
 彼女は泣いていた。
「あなたのこと大好きだったし、それは今も同じだよ。でも――!!」
 龍影は呆然と彼女を見た。
「違うでしょう!?私は、もう沙羅のものだよ!」
「構わない!過去に何があったって……構うもんか!愛してるんだ」
「龍影!お願い、ちゃんと前を見て。現実を見て。もう終わってるんだよ。あの時、私にはあなたが選べなかった……。あなたが殺されるかもって、思ったら……義父と闘う勇気が持てなかった。弱かったの。あなたを裏切ったの。だから――だから、もう二度と誰も裏切りたくない。また裏切ったら、私、二度と私自身が信じられない!」
「梓……」
 彼女は泣き濡れた目で彼を見た。真っ直ぐ、視線を逸らすことなく見つめた。
「――友達としてしか、もう会えない」
「あず……」
 彼女は彼の手をふり払い、駆け去った。
 龍影はじっと立ち尽くしていた。


 

 唇と涙を拭いつつ、梓は沙羅のいた場所まで駆けた。
 小さな水晶が落ちていた。
 沙羅――!
 拭ったばかりの涙がまた溢れた。
 彼女は手の中に収まるほど小さな水晶を拾い上げ、ただ家の方へと視線を向けた。

<更新日 2000.11.24>


 

「沙羅――」
 小さな家に駆け戻り、息を整えてから、梓は扉に手をかけた。けれど、それは固く閉ざされていた。
「沙羅!」
 彼女は何度も何度も扉を叩いた。沙羅を呼んだ。こんな――
「沙羅、開けて!お願い!」
 家は沈黙していた。梓はとうとう諦め、扉の横にうずくまった。ただ沙羅を待った。

mind of sala-3


 

 カチっ
 すっかり日も落ちた頃、鍵の開く音がした。梓はあわてて扉に取りついた。開くと、すぐそこに沙羅がいた。見たこともないほど冷たい眼差しで、彼女をじっと睨みつけている。
「沙……」
「荷物はそこだ。出てって」
 拒絶に満ちた声。
「沙羅……ごめん、ごめんなさい。でも、お願いだから聞……」
「出て行け!」
 怒り任せに怒鳴られて、梓は立ちすくんだ。何も言えなくなってしまった。
「聞こえないか!?出て行けと言ってるんだ!!」
 梓は泣きそうになるのを必死にこらえ、中に入った。荷物の方へは行かず、沙羅に数歩近付いた。
「近寄るな!さっさと出て行け!!」
「お願い、沙羅、聞……」
 ぎっと睨まれて、彼女は絶句した。恐怖にすくんでしまって――
 だめだ、ちゃんと言わな……
「きゃあっ」
 突然沙羅の腕が伸び、彼女を壁に押しつけた。首をぎりぎり締め上げる。
「沙……羅……!」
「面白かったか? バカめと毎晩笑ったか? まんまと騙されて、触れさせようともしないおまえを頭から信用して、その気になってる私を笑ったか?」
 彼女はなんとかかぶりをふろうとしたが、動けなかった。
 どうしていいのかわからない。どうやったら、沙羅にわかってもらえる!?
「私の何がほしかった。地位か、財産か、水晶か。私に何を望んでいても、そんなのはおまえの勝手だ。構いやしない。おまえが本当のところ誰を愛していようと、そんなのはおまえの勝手だ。だが――ならなぜ光を見せた!? 私がにせの希望にすがるのが、そんなに面白かったか!」
「ち……違……」
 苦しい。息が――
「おのれ!!」
 このまま、このまま手に力を込めれば終わるのに。悔しくて涙が出た。殺せない。この上彼女が愛しいなんて――!!
「おのれ!」
 梓の首を締める手ががくがく震えた。殺せない。
 彼はとうとう手を彼女の首から離し、ただ彼女を見た。
「沙……羅……」
 もういい。
 偽りでも幸せだった。欲しいなら全てくれてや――
 沙羅は束の間梓を見、彼女を壁に追い詰めたまま、口付けた。
 梓の驚いた瞳が彼を見た。
 ばかばかしい――
 どうして黙ってくれてやる?
 彼をこれだけ苦しめたのだ。愛させたのだ。それなりの報復は、あって当然だ。
 殺せない。縛れない。ならせいぜい、傷をその身に残して――
 沙羅は梓の口を右手で押さえ、静かに微笑みかけた。優しさのない笑みだった。
 滑らかな曲線を描く、いつか触れかけた首筋に、再び口付ける。梓がびくっと震えた。
 その口を覆ったまま、沙羅は梓を押し倒し、馬乗りになった。襟元から順々に、止め紐を外していく。梓は震えていた。泣いていた。けれど、抵抗しなかった。露にした素肌に、遠慮なく指を這わせて口付ける。その度に少女が身じろぎした。間もなく右手に涙を感じて、沙羅は顔を上げた。
 沙羅はじっと梓を見た。彼女も哀しい瞳で見返していた。彼は一度、梓の涙を拭き取った。けれど、彼女を放そうとはしなかった。布をどけ、その下の素肌に触れる。柔らかなふくらみに、指を食い込ませるように手を押し付ける。右手の中で、少女が悲鳴を上げた。
 ふと、彼は手を止めた。彼女の肩を見て。不可解な、けれど消えない傷。前にも一度、見て不思議に思った傷だった。
 彼は静かに傷をなぞった。少女の肩に、その傷はあまりに場違いで――
「これは?」
「……」
 梓を黙らせていた右手をどけ、静かに繰り返す。
「これは?」
「……義父に……」
「……は?」
 梓は哀しげだった。
「ここに来る前、付き合ってたんです、あの人と――でも、義父が許さなかった。あなたに嫁がされそうになって……それで、二人で逃げました。見つかって……義父が、あの人を、射殺そう……として――」
「なん……」
 沙羅は呆然と梓を見た。
「……庇って?」
 梓が小さく頷く。
「その時、別れたんです。でも、でも本当に、あれからずっと会ってなくて! 今日初めて会ったの! お願い、信じて沙羅!」
「梓……」
「それに、私、あなたが好き。初めはつらかったけど、今はあなたのそばにいたい。一緒にいたいよ。さっきは、まさか、龍影があんなことすると思ってなくて――ごめん、ごめん、ごめんね、沙羅」
「……」
 梓のひたむきな目を、今は見返すのがつらかった。沙羅は静かに梓を放し、黙って窓まで歩いた。
「沙羅……」
「梓」
 少し離れた木の影に、沙羅は人影を見た。強く、真っ直ぐなその瞳――
 見えたと言うより感じた。
 ――災厄だな、私は――
 沙羅は静かにふり返り、窓の外を指し示した。
「彼が待ってる。お行き」
「沙……」
 彼は寂しげに微笑して、また言った。
「待ってる」
「沙羅!? お願い、ここにいたいよ。あなたが好きなの」
「もういいんだ。すまなかった。――行け!」
「沙羅!」
 かっと、沙羅の目が開かれた。痛みを無理に抑えるように。
 パリーン――カラカラカラカラ……
 沙羅の右手に砕かれて、窓ガラスの破片が散った。うちの一つを拾い上げ、沙羅が言った。
「行ってくれ。おまえが行けないなら私が逝く。もう、許してくれ――」
 沙羅の言葉の意味を、梓は直感的に理解した。あのガラスの破片で、喉を掻き切る気なのだ。
「沙羅、いや、やめて!」
「じゃあ行ってくれ! もう……頼む……」
 言葉は全て消えてしまった。何も言えなくなってしまった。
 こんなつもりでは――こんなふうに、沙羅を傷つけたかったわけではないのに。
「沙羅……」
 仕方なく、梓は戸口の方へと歩いて行った。最後にふり返る。彼は黙って窓の傍に立っていた。
 ぱたん……
 扉が静かに閉じられた。
 中には、沙羅がただ一人残された。
 彼は虚ろに窓から離れた。燭台のもとまで歩き、半ば無意識に油をこぼす。
「梓……」
 カタン
 そのまま倒れた燭台に、気付いているのかいないのか――
 彼は後ろをふり返ろうともせず、二階へと上がっていった。
 階下では、油に燃え移った火が火勢を増そうとしていた。


 

 梓に初めて会ったのは、神殿だった。知らない少女が木に登っていて、沙羅は危なそうだと思って優を呼んだ。その少女を見ると、優はあわてて出て行った。思えば、あの時すでに、あの青年がいたような――

 沙羅は疲れ切った足取りで自室に戻り、寝台に腰かけた。
 なぜなのだ。
 ただ、あれは誰かと聞いただけなのに。もし、もしあんな子がそばにいてくれたら、さぞ楽しかろうと……そう思って、名前を聞いただけなのに。
 無理に自分のものにしたいなど、かけらも思わなかった。ただ、ちょっと興味を持って――それが罪?
 それからしばらく経って。帝がいつものように、縁談を持ってきた。いい加減、諦めてほしいと思いつつ、何気なく相手を確認した。天邏の梓。4つ年下だった。
 ――16? 在学中でしょう? 学校はどうする気です
 ――これ以上の在学は困難なんだ。おまえと同じ、養子でね。なまじ成績が良かったものだから、変に妬まれている。……結婚相手に養女はいやか?
 ――まさか……。ですが、私は町に住む気はないんです。前から言おうと思っていたことですが、あそこは貴族の子女にはつらすぎます。私だけしかいない生活に、どうして耐えられますか。いえ、貴族だけじゃない。普通の女性が嫁いで来たら、間違いなく発狂します
 ――ばかを言うな。誠意があればなんとかなる。人はそんなに弱くはないんだ、沙羅。確かに、貴族の令嬢では大変だろうが……彼女なら、半年前まで使用人などいない生活をしていた子だ。それに優しく聡い子だ。きっとうまくいく。何より、彼女にはおまえが必要だ。なまじな貴族に嫁いでも、出自ゆえに軽んじられるだけだ
 ――……。
 しまいに、彼は言ってしまった。
 ――……わかりました。私の傷のこと、人前に出る気はないこと。それを知った上でも彼女が望むなら……。

 そして梓が来た。恋人と引き裂かれ、何も知らぬまま!
 悔しくて悔しくて。沙羅はこぶしを寝台に叩きつけた。
 なぜ!?
 母に、義父に、梓に問いたい。なぜ!?
 望まなかったのに。母の死も、少女の不幸も。それなのに、彼の存在が何かを狂わせる。
 彼の弱さが何かを狂わせる。
 沙羅は虚ろな瞳で壁を見た。そこに飾った壁かけを。
 ――梓――
 彼は壁かけを握りしめ、その手をわずかに震わせた。
 好きだった。
 この一年、それでも幸せだった。
 彼女は彼を好きだと言った。
 抱きしめたらへーへー言っていた。
 簡単に赤くなったり青くなったりして、面白かった。
 いつも笑ってて……。
 水晶使いになるのが夢で、地図を書くのが好きで。
「……っ」
 彼は少々咳き込んだ。煙が上ってきている。彼は扉を閉め、窓を開け、もう一度壁かけを見た。
 え――?
 ふと、今まで気付かなかった刺繍に気付いた。
 白い服、青いベスト。薄茶の髪の少年と、空色の上下に身を包み、麦わら帽子をかぶった少女。これから遊びに行こうというような――
 沙羅は壁かけを握ったまま、崩れるように膝を突き、壁に額をもたせた。
 もういい。
 存在自体が罪ならば。
 この腕に彼女を抱けないならば。
 もう――

 

「沙羅!」

 

心臓が跳ね上がった。

 

「沙羅!」

 

 声はどんどん近付いてくる。
 沙羅はあわてて扉に駆け寄り、ドアノブに手をかけた。その手をとっさに引っ込める。熱かった。
 部屋自体、すでに燃え始めている。
「くっ……」
 いずれにしろ、放っておけば梓が扉を開ける。沙羅は焼けつく痛みを我慢して、扉を開けた。
「梓!」
「沙羅!」
 すぐそこに彼女がいた。
「沙羅、ひどい、ひどいよ。どうして!?」
「おまえ……」
「帰ってもらっただけだよ!どうして信じてくれないの!? どうして許してくれな……」
「梓!」
 沙羅はとっさに梓を引っ張った。廊下の天井が、ズズっと燃え落ちる。
「沙羅……」
 呆然と梓が呟いた。次いで、切なげな瞳が見上げた。
「お願い、逝かないで……」
 彼は信じられない思いで彼女を見、それから抱き寄せた。思いの全てを込めて、抱きしめた。梓の頼りなげな腕が、彼に応えるように回される。
 二人は束の間固く抱き合った。
「――逃げよう」
 沙羅の提案に、梓は泣き顔のままで微笑んだ。
「うん」


 

 窓枠に手をかけて、いざ飛び下りよう、という時だ。沙羅がふいに壁へと向かった。
「沙羅!?」
 壁から外そうとした彼の目の前で、壁かけは燃え上がった。
「熱っ……」
「沙羅、沙羅早く!床が……」
 彼はとにかく起き上がり、梓が差し伸べる手を取った。その瞬間。
 ズ……
 寝台の辺りから、床が燃え落ちた。
「沙羅!!」
 梓の悲鳴と、同時に何かの光。
 梓はどういうわけか、たいした苦もなく沙羅を支えていた。
「!?」
「梓……」
 とにかく飛び下りる。それだって骨折くらいは覚悟の上だったが、二人は淡い光に包まれて、ふわりと着地した。
「何……?これ……」
「梓、水晶持ってる?」
 沙羅の言葉に、梓は目を丸くした。
「じゃあ、これ水晶が?」
「多分。それよりもっと離れた方が……」
 言いかけ、沙羅はぞっとした。
「茶々!」
 梓は荷物すら置いて出て行った。いらないのかと思ったが、戻ってくるつもりだったなら……。
「茶……」
 うにゃあー、と、くぐもって不機嫌な茶々の声。
「え……?」
「あ、大丈夫。連れてきた。この中……」
 あろうことか、梓は一階で荷物と茶々を捕まえて、かばんに茶々を放り込んで二階へ上がった。かばんを開けると、茶々が不機嫌極まりない声でギャーギャー鳴いた。
「ごめんー。急いでたから……」
「みゃーっ。みゃーっ。みゃーっ」
 沙羅は呆れて梓を見た。


 

「……燃えちゃったね……」
「……ああ……」
 家は全焼した。
 少し疲れた気分で、二人はどちらからともなくその場にしゃがんだ。
「住むとこなくなっちゃった……。一文無し」
「いや?」
「いやって言うか……困ったね」
「何もない私のそばにはいたくない?」
 梓はきょとんと沙羅を見て、それから言った。
「うん」
「…………そう」
 沙羅が傷ついたような、がっかりしたような顔で目を逸らす。
「沙羅、どうかした?」
「……いや……」
「私ね、沙羅の笑顔が好き。声が好き。すぐびっくりするのが好き。沙羅、今だって素敵なものいっぱい持ってるよ。しばらく大変だけど、頑張ろうね」
 沙羅は驚いて梓を見、それから言った。
「……今、わざとやった?」
「うん」
「ふうん。随分強気だね、梓ちゃん」
 梓はびくっと沙羅を見た。なんか、なんか……。
 淡い月明かりの中、沙羅の綺麗な瞳が見ている。梓の頬に、沙羅の手がそっとかけられた。
「昼間のキス、随分長かったな」
「う……ん……。沙羅、どこから見てたの?」
「そこだけ。ただ、梓、私を見て助けを求めなかっただろう?愕然とした顔してたから……誤解した。私に隠れて逢い引きかって」
「……ごめん……」
 沙羅は静かに笑うと、梓に口付けた。
 ホウ、ホウ、と鳴くフクロウの声。澄んだ虫の声。それだけが夜闇に響く。
 静かな月夜。
 やっと解放されると、梓はへなへなとへたり込んだ。
「沙羅、今の長いよ〜。ひどい」
「お返し。私をからかう気なら、それなりに覚悟するんだね」
「〜」
 沙羅はくすくす笑った。
「行こう。とりあえず町に出て、今までもらってなかった分の報酬もらって、家、建て直そう?」
「ええ!?」
 沙羅はいたずらっぽく笑った。面倒だったので、お金は足りなくなるまで取りに行かない主義だった。その主義が、こんな形で役立つとは。
「ほら、夜の森が綺麗だよ。二人なら、怖くないから」
 梓の手を取って、沙羅が歩き出す。梓は胸の鼓動を隠しつつ、すぐに驚きの数々も抜け出して、楽しげに彼の隣を歩いて行った。夜が明けて、森を抜けるまで。


 

「優様」
 会堂の掃除をしていた優は、声にびっくりしてふり向いた。
「龍影君」
「梓に会ってきました」
「……」
 龍影はじっと優を見、それから言った。
「もう、何も信じられない、優様まで一枚噛んでたって梓に言ったら、彼女が言ったんです。優様の何を信じてたのかって。会堂に来た人全てに手を差し伸べるあなたの姿を、強さを、信じてたんじゃないのかって。優様」
「……何でしょう」
 胸の痛みも哀しみも、全て隠して返事する。穏やかに返事する。引き裂かなければ、彼らはそれなりに幸せになっただろうに。
「どうして、俺から梓を取り上げたんですか?俺に黙ってたんですか」
「……水晶に、モノにつられたんですよ。なにしろ、沙羅も龍影君も選べませなんだ、私には……。ただ、水晶を手に入れられれば、救える人がおりましょう?もう、ずっと以前から、私は水晶がほしかった……」
「優様……」
「君に黙っていたことは、何度か後悔しました。君を信じきれなかった、私の至らなさが君を傷つけた。神官失格ですかな」
「……」
 龍影はしばらく沈黙していた。
 ――龍影、私、あなたのこと信じてる。あなたの強さも優しさも……。本当に、今でも好きだよ。多分、この先もずっと……。だから、そのあなたの信じた人なら、あなたを裏切ったりしない。本当に人が裏切られるのは、自分自身にだけなんだよ――
 ――一緒には、来てくれないんだね?――
 ――うん……。沙羅が大切なの。誠実でありたいから……。ごめんね――
 裏切るのは自分自身。
 龍影は梓の言葉を思い、やがて顔を上げた。
「優様、俺の親衛隊の子が、何か飼ってもいいって。捨て子いる?」


 

「……沙羅って、サバイバルで生き残れないタイプだね……」
 沙羅がまとめた荷物を開きつつ、梓が言った。
 彼女が夢中になって描いていた地図。
 彼女が大事にしていた手鏡。
 茶々の餌箱、彼女の木の実のコレクション、彼女の愛蔵書。
 路銀と慰謝料のつもりか数個の水晶。
 およそ生活必需品ではない。
「でも、ありがとう。一番大事なもの、ちゃんと選んでくれたんだね」
 鏡を取って、梓がにっこり笑った。両親の形見の手鏡だ。
「代えがきかないものを詰めたんだ。なのに、随分な言いぐさだな」
「だって、壁掛けなんて持ち出そうとするし。あんなの、何度でも織れるのに」
「そんなのわからない。梓は私があげた水晶、とっさに捨てるのか?」
 梓は瞬きした。それから笑った。
「捨てない。だって、私もサバイバルで生き残れないタイプだもん」
 沙羅のくすくす笑いと、梓のほこほこ笑い。
 やがて街道に馬車が姿を現すと、二人は楽しげにそれに乗り込んだ。
 馬車は日の光にきらめく若葉の街道を、ゆっくり町の方へと進んで行った。

<終 2001.01.05>

* 

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