水晶師【テューカ】

二年目の秋

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もくじ

   数日前  当日の朝  夕刻        記憶      

完 2000.10.20

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 梓は一人、森の沼地に来ていた。沙羅が一番好きな可愛い花が、ここに生えていると聞いたから。
「あ」
 梓は思わず微笑した。見つけた。きっとこの花だ。
 白い花。花びらは一枚一枚青で縁取られていて、聞いた通り綺麗な花だった。葉は緑の糸状で、全体を繊細に演出している。
 ――たくさん咲いてるし、一株くらい、持って帰ってもいいよね♪
 梓は足場を確かめながら、慎重に花に近付いていった。
「……」
 花は沼の表面に生えていて、汚れずには取れなそうだった。下手に汚れまいとして、バランスを崩して沼に落ちるのも危険だし。
 梓は足元くらいは汚れる覚悟で沼に踏み込んだ。
 ズブっと、足が泥に――
 ――え!?――
「きゃああっ」
 段々に深くなってると思いきや、いきなり深かった。予想以上の深さに、彼女は沼にはまってしまった。転んだような感じで、一気に胸まで泥まみれになった。
「や……」
 立て直そうとして、彼女はぞっとした。
 足がつかない。
 深い。
「あ……」
 梓は夢中で頭上の蔦につかまった。なんとか沼から出ようともがいたが、一向に上がれない。
 ぎしっと、蔦の絡まっている木が軋んだ。梓は再びぞっとして、動くのをやめた。下手に動いたら、枝か蔦がどうにかなりそうだった。枝が折れても、蔦が切れても沈んでしまう。
 ――どうしよう!?――
 あるのは冷たい泥と、綺麗で小さな花と、蔦。
 どんなに考えても、陸への道は見つからなかった。すぐそこなのに。
 沙羅――!
 怖くてたまらなかった。人が通るとは思えない。沙羅が心配して探しに来てくれない限り、きっと助からない。
 いつ探しに来てくれる?
 夜?
 それとも明日?
 ここが沙羅にわかる!?
 このままじゃ、このままじゃ死んじゃうのに――!!
 それに、もしかしたら、沙羅は誤解するかもしれない。彼女が帰らないのを、町に戻ったためだと思うかも――
 考えれば考えるほど、どんどん怖くなった。梓はもう考えまいとした。待とう。他に何もできない以上、何も考えずに待つのが一番いい。
「……」
 日はなかなか傾かなかった。

<更新日 2000.09.08>


 数日前

「沙羅……」
「悪いけど、仕事があるから」
 一度誘いに応じてくれたきり、沙羅は一緒にいてくれようとはしなかった。それでも食事の時など、今の沙羅は笑ってくれる。梓を拒まない。それがどんなに救いであるか。
 けれど、余計に不可解だった。どうして彼女を避ける?
 一度だけ、沙羅と二人で森に分け入った。あの日、梓は半年ぶりに幸せだった。半年ぶりに楽しんだ。動物にはすぐ馴染むくせ、沙羅は繁みがガサっと鳴ったり、鳥がいきなりバサっと飛び立ったりすると、結構驚くのだ。ひどく神妙な顔で音のした方を観察する。
 なんだか、それが見ていて妙におかしくて。
 沙羅だって、楽しそうに見えたのに――
 帰りがけ、軽く抱き寄せられて驚いた。心底びっくりして、それ以上に緊張して、一歩も動けなかった。そんな彼女に、沙羅は優しく笑ってくれたのに――
 あの一日で、梓はますます沙羅に魅せられた。ずっと好きになった。今や、できるだけ一緒にいたいと思うのに。できればもっともっと沙羅を知ってみたい。沙羅に知ってほしい。
 だけれど、その後何度誘っても、彼には応じてもらえなかった。この時期、仕事が忙しいのだろうか……。
 あるいは、考えたくはないけれど、沙羅はやっぱり彼女が気に入らないのかも……。


 当日の朝

「沙羅、何の花が好き?」
 いつもと同じ食卓で。何気なく梓が話題をふった。
「おまえは?」
「私ね、すみれが好き。群生してる淡いすみれじゃなくて、1輪で咲いてる濃い紫の」
「ああ……私も好きだ」
「沙羅は?」
 尋ねると、沙羅は得意げに微笑した。
「雪娘」
「雪娘?」
「湿地に咲く花だ。多分今ごろ咲いてる」
「どんな花?」
「真冬の雪みたいに白い花びらに、真夏の空がにじんだような、濃い青色の縁取りのある秋の花。綺麗だよ」
 沙羅に描写させると本当に綺麗に聞こえる。ぜひ見てみたい。
「それ、沼に行けば見られるの?」
「ああ。ただ、沼の辺りは足場が悪いから、あんまり近付かないこと。気をつけて」
「はい」
 気持ち良く返事をすると、沙羅がにっこり笑った。それが嬉しくて、梓も微笑み返す。
「沙羅、今日も仕事?」
「……悪いけど」
「ううん、仕方ないよ。だって、大切な仕事だもん。水晶は救いだって、父さんが言ってた」
「救い?」
「うん。人に起こせる最大の奇跡だって。ただ、あんまり無理しないでね?最近、つらそうだから」
「平気」
「ん……」
 心配されると、嬉しいより不安になる。
「顔色悪いの……見ていて気持ち悪い?」
「ううん。心配だけど、気持ち悪くはないよ」
「そう」
 沙羅はどこかでほっとしつつ、まるで注意は聞いていなかった。心配される側というものは、案外相手の言葉を聞かないものだ。そして、それは梓も同じことだった。


 夕刻

 沙羅は丸まる茶々をいじりつつ、何となく梓を待っていた。仕事には昼頃失敗した。ふいに何か、胸を突かれたような感じがして、集中が解けてしまったのだ。
「遅いな……」
 間もなく日が落ちる。そろそろ、茶々のご飯の時間のはずなのに。
「……」
 まさかとは思うけれど、獣に襲われたとか……。
 それとも、まさか逃げ出した?
 沙羅はすぐさま否定した。茶々がここにいる。梓のことだ。茶々を置いては行かないはずだ。
 余計に不安になった。彼の知る限り、彼女は夕方までには戻ってきていた。何でも、夜になると景色が一変して、道がわからなくなるとかなんとか……。
 沙羅は落ち着かなげに立ち上がり、外套を着た。
 明かりを持って表に出、辺りを見回す。梓の姿は見当たらなかった。
 どこに遊びに行ったのか……。
 ふと、沙羅は朝の会話を思った。まさか――
 他に心当たりもなくて、沙羅はとにかく沼へと向かった。

<更新日 2000.09.15>


 

「梓!」
 完全に日が落ちて、すっかり暗くなってしまっていた。とにかく沼まで行って、沙羅は梓を呼んだ。
「梓!」
 何度か呼んだが、返事は聞こえなかった。
 いないか――
 少し気になって、明かりで沼の方を照らして見る。一面に雪娘の蕾。梓の姿は見当たらない。
 疲れた気分で、沙羅はきびすを返した。
 ホウ、ホウ、とふくろうの声。たくさんの虫の声。
 と、か細い声が聞こえた気がした。
「梓!?」
「沙羅ぁっ」
 今度ははっきり聞こえた。泣きそうな、絞り出すような声。
「梓!」
 途切れがちの声をたどって行くと、やがて沼の中に梓がいた。胸まで沼の中。
「……何してる?」
「助けて……」
 梓は弱い声で懇願した。
 気が遠くなりそうだった。冷たくて、暗くてこわくて――
 沙羅の声を聞いた時、梓は半ば眠っていた。おかげでやや反応が遅れてしまった。
「沙羅!?」
 助けを求めた途端、彼は木立の中へと消えてしまった。
「さ……」
 涙が出た。
 そんな――!
 もう、蔦にしがみつく気力もなくなりかけた時。
 沙羅が戻った。
 何か蔓のようなもので明かりを木に吊るし、彼女に近付いてくる。
「つかまって」
 沙羅が差し伸べた手に、梓は夢中でつかまった。
「左手」
「はい……」
 ぎこちなく、梓が反対側の手も彼へと伸ばす。
 沙羅は彼女をどうにか岸まで引っ張ると、脇をつかんで泥から引き抜いた。ここまでで、彼自身もすっかり泥まみれになっている。
 何とか上陸すると、梓はふいに身を震わせ、火が点いたように泣き出した。
「沙羅、沙羅、沙羅ぁっ!!」
 すぐそばにあった沙羅の胸に、彼女は夢中でしがみついていた。
「ひ、あ、沙羅っ」
「大丈夫だ、落ち着いて」
 沙羅は反射的に彼女の背に手を回し、彼女を抱きしめた。
「うっ……うっ……」
「大丈夫。もうこわくない」
「う……ん……」
「いつ頃から待ってたの?」
「おひ……る……頃……」
 ふいに、梓の声が弱まった。かと思うと、そのまま消えてしまった。
「梓?」
 ひどく弱々しく、小刻みに震える彼女の手に触れた。
「梓……」
 彼女は気を失っていた。冷え切った、死体のような体が胸にある。
 まずい――
 沙羅はあわてて梓を抱き上げ、明かりを取り上げた。
 彼女は冷えすぎていた。
 服を替えさせたいのはやまやまだったが、あいにく着替えなんて持っていない。彼自身の服も、既に濡れている。
 せめてこれ以上冷えないよう、彼は梓をしっかり胸に抱き、家路を急いだ。
 そう遠くもないから、急げば三十分ほどで帰れるはずだ。早く――


 

「痛……」
 どうにか家に帰り着き、梓を下ろそうとした途端、腕が激しく痛んだ。初めのうちこそ平気だったものの、だんだん梓が重く感じられてきて。だんだん腕が痛くなってきて。それでも休めない。無理に帰ってきたら、今度は下ろそうとした腕が動かなかった。すっかり固まってしまっている。普段、水晶より重いものなんて持たないから――
 沙羅は痛みを堪えて風呂場の浴槽に梓を横たえ、水道の蛇口をひねった。湯になるまでしばらくかかる。彼はその間に自分の手足を簡単に洗った。冷たい外から帰ってきたため、水の冷たさはあまり感じなかった。変に熱く感じる。
 やがて湯になると、沙羅はすぐに梓を洗いにかかった。


 

 ふう、と息をつき、沙羅は梓をぼんやり眺めた。寝台の中で、今は静かな寝息を立てている。沙羅は仕上げにタオルを絞り、梓の額に乗せた。
 とりあえず毛布と椅子を持ってきて、梓のそばに座り込む。どっと疲れが出た。こんなに疲れたのは、いつ以来のことか。
「……羅……」
 ――え?
「……沙羅……」
 彼はまじまじと梓を見た。寝ている。起きてはいない。
 何だか、不思議に胸が温かかった。

<更新日 2000.09.22>


 記憶(十年前)

「……羅……沙羅……」
「お母さん!?」
 父が病に倒れて二月。沙羅は日増しに不安になっていた。夜中、激しく咳込む音に目が覚めて。父ではなく、母だった時の恐ろしさ。母が無理しているのは、子供の沙羅の目にも明らかだった。もう限界だったのだ。もともと貧しい家で、働き手が病に倒れれば――
「沙羅」
 母は彼をぎゅっと抱きしめて、言った。
「沙羅、お父さんね、お医者さまに診せれば助かるの。町の、水晶使いのお医者さま」
「診せよう!?早く診てもらおうよ。お父さん死んじゃう。お母さんも病気になっちゃう」
 母は弱くかぶりをふった。
「お金がないの」
「そんな……」
 母はぐっと、沙羅を抱く腕に強く力を込めた。
「沙羅、一つだけ、お父さんを助ける方法があるの」
「どうするの!?」
「あなたが……」
「お母さん?」
 なぜ母が震えるのか、沙羅は訝った。
「あなたが水晶師になれば助かるの。あなたが作った水晶で、お父さんや、他のたくさんの人達を助けてあげられる」
「本当!?なる、僕水晶師になるよ。どうやったら水晶師になれるの?」
「大神殿で、洗礼を受ければ水晶師になれる。お母さんと一緒に、神殿まで来てくれるだけでいいの」
「それだけ?」
 沙羅は当然不思議に思った。
「でも、それならどうしてみんなは水晶師にならないの?そんなに簡単なのに」
「……洗礼はね、子供にしか受けられないの。そして、心から水晶師になりたいって思っていないと、命を落としてしまうの」
「死んじゃう……?」
 母はつらそうに頷いた。
「沙羅、でもね、あなたが本当に、心からお父さんを助けたいって思っていれば――みんな助かるの。お父さんも、あなたも、誰も死んだりしない。本当よ」
「絶対?お父さんのこと、助けたいって思ってれば大丈夫?」
「大丈夫。お母さんが約束する」
 沙羅はしばらく考えていた。
「あの、お母さんじゃだめ?お母さんのこと、幸せにしてあげたいって……それじゃだめ?」
 母は目を見開いて沙羅を見た。それから泣いた。
「いい、それでもいいのよ、沙……」
「お母さん?」
 母はとうとう、しゃくり上げて泣いた。
「ごめん……ごめん、許して……お母さん、どうしても助けてあげられないの……ごめん……ごめんね……沙羅……」
「お母さん……?でも、大丈夫なんでしょう?僕、本当にお父さんにもお母さんにも元気になってほしいから」
「うん……そうね。それなら大丈夫。みんな元気になれる。幸せになれるわ……」

<更新日 2000.09.29>


「沙羅!!」
 土壇場の大神殿で、母が絶叫した。
 中央に燃え盛る、青色の炎が美しい。
 その瞬間まで、沙羅は怖いと思っていなかった。母が言ったから。みんな幸せになれると、母が言ったから。彼はその言葉を信じていたから、炎を目の前にしても恐れなかった。
「沙羅!!沙羅!!お願い、やめさせて!!やめさせてぇっ!!」
 ――お母さん!?――
 目を見開く彼をよそに、母は数人の係員の手で取り押さえられ、何か薬を飲まされた。
「お母さん!?」
「大丈夫だ。ただの眠り薬だよ」
 手を引く知らない大人がそう言った。
「お母さんは、ちょっと怖くなったんだ。大人はね、炎は熱いものだって思い込んでいるからだ。でも、君は怖がっていなかっただろう?大丈夫、心を落ち着けて。これは君の思い通りになる炎なんだ。君が熱いと思えば熱くなる。でも熱いと思わなければ、決して君を傷つけない。お母さんは不安になったんだ。君が熱いと思うかもしれないって。でも、そんなことはないだろう?君は大切なことだけ思っていれば水晶師になれる。大丈夫だよ。さあ、中へ」
 沙羅はやや不安げに、右手から炎の中へと差し入れた。
「ふあっ」
「なっ……」
 神官があわてて沙羅を突き飛ばす。けれどその一瞬で、彼の右半面は燃え上がっていた。
「疑うな、信じなさい!炎は君を傷つけない!水晶師になるんだろう!?」
「あ……わ……」
 神官は焼け跡を見せまいと沙羅を取り押さえ、やや優しい口調で聞いた。
「どうして水晶師になるの?」
「お……父さんが病気で……」
「助けたい?」
 沙羅は小さく頷いた。
「大丈夫だ、信じなさい。もし水晶師になれたら、君は同じように苦しむ人々を、何人も救ってあげられる。すごいだろう?みんなを幸せにしてあげられるんだ。それに、君は何を信じてここまで来たの?」
「……お母さん」
「そう。それはとても大切で、とても価値のあることだよ。君のお母さんは、君を本当に大事に思ってる。そのお母さんが、君をここまで連れて来た。どうしてだと思う?」
「……」
「君を信じていたから。君なら水晶師になれると信じていたから。そうでなければ、とても可愛い我が子を炎になんて投げ込めない。だけど、君が大切すぎて、あんまり可愛くて、ほんの少しの不安が我慢できなくなったんだ。君だって今、ちょっと疑っただろう?大丈夫。お母さんはここまで君を連れてきた。信じていいんだ」
「……」
 沙羅は静かに立ち上がり、一歩一歩炎の方へと歩いていった。
 生還率が、一割にも満たないことなど知らぬまま――


 

 気が付くと、梓はあたたかい寝台の中だった。部屋は明るい。朝だった。
 すぐに、梓は沙羅の姿を見つけて驚いた。それから昨日のことを思い出し、胸が一杯になった。
 ――沙羅――
 見つめる梓の視線に気付いたものか、すぐに沙羅も目を開けた。
「起きてたの?」
「ううん。今起きたとこ。おはよう。昨日、ありがとう。たくさんお礼言わなくちゃ」
「もう平気?」
「うん……ごめんね、なんか、たくさん迷惑かけちゃって……」
 彼は何気なく梓に手を伸ばそうとして、顔をしかめた。
「沙羅?」
「……いや、何でもない。ちょっと筋肉痛で……」
 梓はあわてて聞いた。
「私のせい?」
 沙羅は笑って言った。
「いい。そのうち治るし」
「でも……でもごめん、ごめんね」
「梓……」
 沙羅はそっと梓の頬まで手を伸ばし、彼女を見つめた。
「……沙羅……?」
 どこかで怯えながらも、梓も沙羅の目から目が離せなかった。沙羅の、綺麗な茶色の瞳――
 沙羅がくるまって寝ていた毛布が、椅子の上にパサリと落ちた。
「沙……」
 そっと、重なった唇が離された。
 梓は閉じていたまぶたを開き、しばらく茫然とした。
「茶々に、何かあげないとな」
 沙羅が言った。
「梓は何がいい?」
「え?あ、私が……」
 あわてて起き出そうとして、彼女はよろめいた。
「休んでて。夜は高熱だったんだ」
「……」
 でも、沙羅に面倒をかけるくらいなら、無理してでも自分で動いていたいのに……。
「沙羅……あの、平気だから、やらせて?」
「だめ」
「……」
 沙羅はしばらく梓を見ていたが、やがて部屋を出て行った。

<更新日 2000.10.06>


 

「梓」
 簡単な食事を終えると、ふいに沙羅が声をかけた。けれどそれっきり、しばらく彼は沈黙していた。
「どうすれば水晶師になれるか、梓は知ってる?」
 やがてそう聞かれ、梓はふるふるとかぶりをふった。
「じゃあ、これも……何だか知らないね?」
 自分の傷痕を見せて沙羅が聞いた。
 梓はこくんと頷いた。
「気にならない?」
「……なる」
 沙羅は小さく頷き、淡々と語った。
「『水晶師』には誰でもなれるんだ。十二歳になる前に、洗礼を受ければいい」
「洗礼?」
「神殿で『神炎』と呼ばれる青い大きな炎に飛び込んで、その力を得ること」
「じゃあ、それ……」
 沙羅は小さく頷いた。
「その時の傷痕だよ。心の弱さの証――『神炎』は心弱き者には力を与えない。得た力で身を滅ぼすような人間には、もとより力を与えないんだ。そればかりか、命すら奪う」
「……どうして……」
 沙羅はふいっと目を逸らし、どこか遠くを見ながら続けた。
「父が病気になって、一家三人追い詰められた。水晶師になるための洗礼は……成否に関わらず、受けるだけでお金がもらえる。私は知らなかったけど……。父を医者に見せるため、どうしてもお金が必要で。母は十歳だった私に洗礼を受けさせた。そして、この傷痕だけが残った……。父は、結局助からなかったんだ」
「……」
「梓」
 沙羅は逸らしていた目を梓に向け、苦しそうな顔をした。
「私は、おまえが知っているよりずっと弱くて浅はかな――卑怯者なんだ。どうして、今までおまえを避けて……一緒にいるのを極力避けてきたと思う?知られたくなかったんだ。自分がどんなに弱いか。誰かに、間違いでも好かれていたくて――」
「沙羅……」
「最低だな」
 梓は静かにかぶりをふった。
「最低じゃないよ。今、教えてくれたもん。沙羅って、私と一緒にいるのヤなのかなって、ずっと不安だったから……違って嬉しい」
「……知ってた」
 彼女の不安を知ってなお、誘いを断り続けてきたのだ。そうまでして自分を庇った。
「そっか……でも、誰だって、弱いことも卑怯なこともあると思う。そればっかりじゃ困るけど、沙羅は違うよ。沙羅がどんな自分を隠してたって、私が見てきた沙羅も本物だから。もう嫌いになんてなれないよ。それに『好かれていたかった』って、すごく嬉しい。沙羅のこと、もっと好きになった」
「梓……?」
 彼女は真っ直ぐ沙羅を見た。
「沙羅のこと、大好きだよ」
「……」
 彼は眉をしかめて目を逸らした。
「違う、おまえは知らないんだ。私が――」
「沙羅?」
「父が死に、無残な傷痕だけが残って……。私はもう、何が何だかわからなかった。誰が一番つらいのか、考えようともしなかった」
 梓は不吉な予感を覚えて沙羅を見た。
「もちろん、一番つらかったのは私じゃない。母だよ。最愛の夫を亡くして、息子の顔に一生消せない傷が残って……。何もかも自分のせいだと、母は自分を呪ってた。誰のせいでもなかったろうに。どちらにしろ、私が水晶師になれていなければ、二人で路頭に迷って飢え死にしたんだ。それなら間違いなんかじゃなかったろうに……。だけど、当時の私は気付かなかった。私が何をしたと思う?母は3ヵ月、父を看病しながら私に食べさせて……報われないまま、今度は息子の傷をなんとか消そうと奔走して。疲れ切ってた。どこまでやっても報われなかった。まるで報われなかった。せめて、私がいたわりを持って接していれば――」
 沙羅の声がはっきり上擦った。
「間違いなく救いだったんだ、あの人にとって。だけど、私は自分のことしか考えていなかった。自分の不幸しか、見えていなかった。梓、私は救うべきだった母を」
 低く虚ろな声で、沙羅が呟いた。
「なじった」
 梓はただ、目を大きく開いて沙羅を見た。彼の傷を、その焼けあと以上の傷を見て。何一つ、かけるべき言葉も浮かばない。
「なじったよ。かけらの思いやりも、容赦もなく!母は――」
 ――嘘つき!嘘つき!大嫌いだ、お母さんなんて!僕が水晶師になったら、お父さん助かるって言ったのに!!――
 ――沙羅、許して、許して――
 ――返してよ!いやだ、こんな顔!もとの僕に戻してよ!水晶師になんて、役立たずの水晶師になんてなりたくない!こんな力いらない!だから戻してよ!!いやだ!!こんなのいやだ!!――
 ――沙羅……――
「母は、暖炉で自分の顔を焼いた。泣いて許しを請う母を、私が許さなかったから……。そんなこと、もちろん私は望まなかった。私のせいで、母は発狂したんだ。私は母の狂気がただ怖くて、変わり果てた母の顔を見て、ただ悲鳴を上げた。母は――」
 一歩、二歩。彼の悲鳴に怯えるように。
 また間違った苦痛に苛まれるように。
 窓際へと下がっていった。
 沙羅は梓にわずかに微笑みかけた。
「死んだよ、窓から飛び下りて。私が殺した。私が追い詰めた。そうだろう!?」
 誰より息子を愛して、醜く変わり果てた後ですら、何一つ変わらなかった母を。彼は永遠に失った。ばかだった。
「沙羅!」
 彼が虚ろな瞳でペーパーナイフを取り上げるのを、梓はぞっとしながら見た。
「やめて!いや、やめて、沙羅!!」
 彼が普通でないのは、もう疑う余地もなかった。梓はあわててナイフを取り上げようと、沙羅に取りついた。
「聞いて!やめて!沙……」
 ぱっと鮮血が散った。
「きゃあっ……ぐっ……」
 梓は右腕を押さえてうずくまった。
「――梓!?」
 正気を取り戻した、けれど愕然とした沙羅の声。
「へ……平気……沙羅……」
「すまない。すまない、こんな――」
「大丈夫、聞いて?沙羅のお母さん、あなたに許してほしかっただけだよ。あなたもお母さんも、お互い、許してほしかったの。だから――」
 痛そうに顔を歪める梓の右腕から、血がぼたぼた滴っていた。
「許してあげて。お互い、怒ってなんていないから。だから許すことにも気がつかないの。それだけなんだよ。お母さん、きっと怒ってない。あなたと一緒」
 自分が何か間違っていたのを、沙羅は梓の傷を見ながら感じた。彼女が必死に押さえる傷口から、流れ出る血が止まらない。
 母が死んだ時、母の何が一番憎かった?
 彼を残して死んだこと。それが一番憎かったのに……。
「お母さんは許してくれる。だから、あなたも許してあげて」
「梓……」
 同じだ。彼も同じ間違いを犯そうとした。残される方の痛みを、考えようともしなかった。いや――誰かが彼の死によって傷つくなんて、思いもしなかった。
 まして、母と自分の望みが同じだなんて――

<更新日 2000.10.13>


 

「ひゃあああ」
 派手に悲鳴を上げてしまって、梓は上目遣いに沙羅を見た。怒られそうだ。でも、消毒液がしみてしみて……。
「ごめん……困ったな。我慢できない?」
「う、ううん!へ、平気だから……き、気にしないでぱぱぱっとやっちゃって。痛くてもいいからさっさと終わらそ。痛いの長いのやだ」
「……じゃあ」
「うくっ」
 痛くて悲鳴が出るのだが、そのたびに沙羅がびくっとするのが面白かった。いやいや、面白がってはいけない。いけないんだけど……。
 最後にぎゅっと包帯を引っ張られ、梓はまた情けない声を上げた。
 沙羅がすっかり困っている。梓は恐縮して言った。
「ごめんね、私、堪え性ないから……うちでもこんなだから、気にしないで」
「……そう……?」
「うん。沙羅、手当て上手だよ。びっくりしちゃった」
「……自分の手当ては、よくやってたから……」
 えーと。
 どう返せばいいんだろう……。
 しばらく梓は黙って休んでいた。沙羅も話しかけるでもなく、静かに手当ての道具をしまっている。
「でもやっぱり、沙羅って弱くないんじゃない?水晶師になれたんだもん。洗礼って、難しいんでしょ?」
 やがて梓が言った。
「……成功率は一割ない。だけど、本当はきっと違うんだ。わざわざ失敗しそうな子ばかり集めてこられるから。金目当てか、死を望まれてか洗礼を受けさせられるんだ。必要とされずに育った子は、やっぱり弱いだろう」
「……」
「本当は、炎に投げ込む側もつらいんだ。梓は、神官の優様って知ってる?」
「……うん……」
 梓は歯切れ悪く答えた。神殿には、いつも龍影と一緒に行ったから。どうしても思い出してしまう。
「あの人は――5人殺してしまって、一時期相当危険な精神状態だったって……。洗礼を成功させると、優先的に水晶がもらえるらしくてね。優様、当時奥方様がご病気で、もちろん医者にはみせたけど、だめだったって……。それでも、自分が水晶を使えば治せるって信じて、どうにか手に入れようと駆け回って……。でも結局、優様は最近まで水晶をもらえなかった。今さらいらないだろうと思ってたのに、優しい方なんだ。自分の最愛の人は亡くしても、他の誰かが、見ず知らずの他人が愛する人を亡くさないよう、心から祈れる強い方なんだ」
「……沙羅は、優様が好きなんだね」
 沙羅はちょっとびっくりした顔で梓を見た。それから頷いた。
「……」
「梓?」
「頭、痛い……」
 沙羅は呆れて、その次に苦笑した。
 痛くて当然だ。昨日死にかけたのだから。あの寒い中、ひたすら沼の中だった。
「ゆっくり休んで。元気になったら遊んであげる」

<更新日 2000.10.20>

mind of sala-2

*  に続く

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