水晶師【テューカ】

二年目の夏

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もくじ

       

完 2000.09.01

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mind of sala-1

 

 梓は一人、小川に足を浸して涼を取っていた。
 少し寂しい。
「茶々ー」
 ごろごろと転がる茶々を、梓はぐいぐいといじくった。
 茶々はかわいい。森は涼しい。
 だからといって、毎日ただ遊んでいても――
 家事はしているし、織機を買ってもらって織物なんかも少々やっている。
 だけど――
 沙羅は迷惑そうだ。彼は彼女が好きではないらしい。
 それも当然だ。
 梓は小さく息をついた。まだ怖いのだ。
 彼の風貌ではなく、彼本人が。風貌には慣れたというのに――
 沙羅が近くに来ると、体の自由がきかなくなる。睨まれると泣きたくなる。
 彼は笑ってくれない。
 食事の時など、梓は一生懸命話題をふる。森に遊びに行こうと誘ったり、水晶を見たいと頼んだり。花がきれい、うさぎを見た、枝と間違えて蛇をつかんでしまって、すごく気持ち悪かった。
 何を話しても、沙羅はつまらなそうだった。黙って聞くだけだ。聞いてはくれる。
 鳥のエサやりも仕事の見学も、一生懸命頼めば応じてくれた。
「茶々ぁ」
 ぐいっ、ぐいっとこねると、茶々にかぷかぷ噛まれた。じゃれあいだ。痛くはない。
 意地悪だ。もっと痛くていいのに。
 そうすれば、少しはごまかせる。寂しさを。
 梓は茶々を抱き上げ、ぎゅっと抱きしめた。
 いい。茶々がいるから。
 沙羅が一緒にいてくれなくたって、笑ってくれなくたって、寂しくない。
 誘いに応じてくれなくたって、話しかけてもくれなくたって、寂しくない。
 だけど嫌われてる。迷惑がられてる。
 沙羅にまで、不快な思いをさせて――
「うにゃあ」
 茶々が迷惑そうに鳴いた。しまった。梓はあわてて茶々を解放した。
 この時期、抱かれる方はたまらない。暑い。
「ごめん、怒んないで」
 茶々はぐてーっと木陰に伸びた。


 

「どうして私に合わせる?」
 夕食時、沙羅が突然聞いた。梓はきょとんとして言った。
「合わせてる?ええと、何?」
 合わせるも何も、全然一緒にいないし。むしろこんなに遊び暮らしてて、勝手にすごしてて、うしろめたくさえ思う。彼はほとんど毎日仕事をしてるのに。
「合わせてるだろう?起きる時間、食事の時間、だいたい……町には出ないのか?」
「……」
 梓は言葉に詰まった。だって、一度戻ってしまえば、耐え切れなくなりそうで――
 自分の孤独を、できれば実感したくない。
 失ったものの大きさに、また得る努力ができなくなりそうだから。
「明日、水晶を上納する。山を下りるが……一緒に来るか?」
「一緒?」
 驚いた。
 梓は驚いて沙羅を見た。
「一緒でいいの?」
「別に……」
 沙羅の方もきょとんとしていた。
 彼が嫌いなら、一人で町に下りればいいのに。こんなふうな態度を取られると、まるで好かれているようで。つい、甘い錯覚に陥りそうになる。
 義務的に彼に笑いかけ、話しかけ、誘いかける少女。見ていて哀れに思う。無理して機嫌を取らずとも、追い出しはしないのに……。
 帰りにくいのだろうとは、察しがついていた。彼女は養女だ。出戻っては、さぞ肩身が狭かろう。
 やはり最初の晩に、そうとも気付かず「出て行け」と怒鳴ってしまった、あれを気にしているのだろう。追い出されるまいと、必死に機嫌を取って……。
 胸が痛い。
 どうして救ってやれない?適当な離婚理由を提供して、帰らせてやればいいのに……。
「沙羅?」
 彼はふいに食事の手を止め、黙り込んだ。梓が不安げに呼びかける。
「……食べたくない。残していいか?」
「あ……うん、いいよ。無理して食べないで。嫌いなら、もう作らないし……」
 嫌い?
「いや」
 違う。味覚が合うらしく、梓の料理はだいたい食べられる。ただ、食事自体、あまり好きではない。食事をする度、どこかで思うのだ。食べなければ、ずっと食べなければ、楽になれるのに、と。
 沙羅の背中を見送って、梓は吐息をついた。

<更新日 2000.08.11>


 

 翌日も快晴だった。
 予定通り山を下り、皇居に参じ、沙羅は帝に目通りを願い出た。
 その沙羅を、梓は一人、客間で待っている。これからどうしようかと考えながら。
 帝に会った後、沙羅は帰路につく。
 町に寄ろうか寄るまいか。それが決まらない。
 コンコン
 戸が叩かれた。
「はい」
 返事をすると、見知らぬ初老の男性が入室してきた。かなり品が良く、身なりも良い。
 梓はとにかく礼をした。誰であれ、失礼があってはいけない。
「あなたが梓さん?」
「はい。どちら様でしょう」
 その人は小さく微笑んで、
「沙羅の後見人です」
 と言った。
 沙羅の後見人?
 梓はつい、相手をまじまじと見た。まさか――
「あの、陛下であらせられますか」
「よくご存知だ。少し、あなたとお話ししたいと思いましてね」
 梓は面食らった。困りに困った。帝に対し、どう話したものか。最上級の敬語なんて、とても使いこなせない。
「とりあえずおかけなさい。今や、私はあなたの義父でもあるのです」
「……はい」
 後ろめたい。
 沙羅とまるでうまくいかないで、帝を義父などと――どうして呼べよう。
「まず、あなたにお礼を言いたい。沙羅が笑うのを、私は初めて見たのでね」
 帝が言った。何て?
 梓が否定する前に、帝は話を続けた。
「私が沙羅に初めて会ったのは、去年の春先でした。6歳になったばかりの息子が皇居を抜け出し、川に落ちましてね。それを助けた沙羅を、私は感謝と謝罪の気持ちから、養子に迎えたのです」
「謝罪……」
 帝が小さく頷く。
「助けてもらった当の息子が、沙羅を見て悲鳴を上げてしまって……その悲鳴に衛士が駆けつけ、誤解のあげくに沙羅を手酷く殴って川に突き落とした」
「そんな……」
 ひどい。
 けれど、梓も悲鳴で沙羅を傷つけた。
 沙羅はあれ以来、梓に笑いかけるのをやめてしまった。
 だけれど、なぜ、沙羅は許してくれない?やり直したいと思うのは、寂しいと思うのは、彼女だけなのだろうか――
「沙羅には、不可解な弱さがある。その時も、沙羅は抵抗らしい抵抗もせず、弁明もせず、ただちょっと驚いた顔をしただけで、流れに任せていたらしくてね」
 流れに?つまり、素直に殺されようとしていたと――
 確かに不可解だ。
「目を離すといなくなってしまいそうで、私は気が気でなかった。いやがる沙羅に、しつこく見合いをさせて――。誰かに見ていてもらいたかったんです、沙羅が消えないよう。沙羅を孤独の闇から救ってほしかった。そしてあなたが」
 梓は大きくかぶりをふった。救うどころか、彼女はますます沙羅を傷つけて、不快な思いをさせて、あげくに避けられている。
「沙羅がお嫌いか?」
 梓は弱くかぶりをふった。
 嫌いではない。
 でも怖い。受け入れてもらえない。
「沙羅との日々は?」
 言葉にしようとしたら、急に胸が詰まった。寂しさで一杯になって、声の代わりに涙が出た。
「梓さん……」
「申し……わけ……ありません……」
 梓はふいに、帝に優しく抱かれた。
 温かかった。
「沙羅はあなたを好いてる」
 梓はただ、その言葉に驚いた。とても信じられない。
「あなたを失ったら、沙羅は死んでしまうかもしれない」
 まさか――
 帝は静かに梓をはなし、代わりに見つめた。真っ直ぐに。
「勝手は承知の上です。あなたにしてみれば、私はさぞひどい義父でしょう。ですが、どうか、沙羅のそばに――」
「義父上!」
 突然扉が開いて、沙羅が現れた。恐ろしい形相だった。
「沙羅!?」
「どういうことです!梓のせいではないと、そう言ったはず!」
「沙羅!」
 何が何だかわからず、梓はただただ目を丸くした。
「彼女と別れたいと思うのは、私の身勝手です。気に入らないんです、何もかも!彼女の顔も声も性格も――いちいち気に障る。これ以上、我慢できないだけです!」
「沙羅!!」
 さらに言い募ろうとして、沙羅は言葉を失った。視界の隅で、梓の頬を静かに涙が伝ったから。
 彼女は静かに、本当に静かに泣いていた。怒りも憎しみもなく、ただ、悲しげに――
 ぴしっと、帝が沙羅の頬を平手で打った。
「来なさい、話がある」
「……」
 ちらと梓を見、沙羅は帝に従って部屋を出た。
 梓は一人、魂が抜けたようになって椅子に座っていた。

<更新日 2000.08.18>


 

 結局、梓は町へは寄らずに山に戻った。
 あれから三日。
 織り上がった壁かけを持ち、梓は沙羅の部屋へとやってきた。

 帝と話すうち、梓は一つ、気付いたことがある。
 ――沙羅が笑うのを、私は初めて見たのでね
 ――沙羅はあなたを好いてる
 ――どうか、沙羅のそばに……
 帝が仰せになった。
 このほとんど現実味のない帝の言葉が、もし本当だったらどんなにか――
 その思いを抱いて、初めて気が付いた。
 沙羅が好き。多分、初めて会って、初めて笑ってもらった瞬間から。あの本当に楽しげで、ひどく人なつこい笑顔に魅せられた。驚くほど無防備に相手を愛する笑顔に、あっさりつかまった。
 彼の笑顔が見たくて見たくて――
 だけれどそうと気付いた途端、とうとう、沙羅に真正面から拒まれた。

 梓はしばらく扉を眺めていた。この向こうに沙羅がいる。今日も水晶に、真剣に神秘の力を込めている。多分。
 一度だけ見た光景は、まさに夢のようだった。沙羅の手の平からゆらゆらと、それは綺麗な魔力が溢れて。白から青、青から紫、そしてまた白に――
 彩りを微妙に変えながら、時折きらめきながら、淡い光が立ちのぼっていた。その光の中で、水晶は宙に浮いていた。
 沙羅には後悔するから見るのはよせと言われたけれど、梓は後悔しなかった。休みなしで十二時間、集中して魔力を込めるのだ。彼の邪魔をしないため、梓も動けない。それでも後悔しなかった。本当に綺麗だったから。魔力と水晶と、何より沙羅の澄んだ茶色の瞳が。
 梓は扉の脇に座り込み、ただ、沙羅が出てくるのを待った。

 チャ……
 やっと扉が開いた時、梓はうたたねしていた。
「梓」
 沙羅に軽く肩を揺すられて、彼女は目を開けた。
「……沙羅」
 梓は寝ぼけた声で彼を呼び、構ってもらえたことが嬉しくて、へら、と幸せそうに笑った。寝ぼけたまま、彼にすり寄った。沙羅がびっくりして後退る。その気配に、梓ははっとした。やっと目が覚めた。
「ご、ごめんなさい!」
 梓は真っ赤になって謝った。何してるんだか何してるんだか。
 とにかく恥ずかしい。沙羅の顔がまともに見られない。
 その直後の気まずい沈黙を、先に破ったのは沙羅だった。
「何か用?」
「え……えと」
 ぐっと、梓は壁かけを握る手に力を込めた。渡すのだ。
 渡すんだから。
 声が震えそうになる。
 受け取ってくれるだろうか?
 ――これ以上、我慢できないだけです!!――
 沙羅の言葉がこだまする。
「あの、私、ご迷惑ですか?」
 実際に梓の口をついたのは、予定していなかった言葉だった。
 沙羅はしばらく沈黙していた。
「……迷惑しているのはおまえだろう?私なんかに、こんな僻地に嫁がされて――」
 沙羅はするすると右腕の袖をたくし上げ、梓に青黒い腕を突きつけた。細いながらも、女性の腕ではありえない。右腕の、手の甲の方向が焼けていた。
「不気味だろう?顔だけじゃない。右の肩と腕も焼けてる。初めは真っ青だったのに、だんだん、ただれて盛り上がった部分だけが黒くなってきて――自分で見てもぞっとする」
「そんな……」
「さわれるか?」
 意地悪な声音、意地悪な提案。誰より、彼自身を傷つけて――
「さわっても……あの、痛くない?」
 沙羅は黙ってかぶりをふった。
「感覚自体がない。焼けてる部分は死んでるんだ。さわれないだろう?」
 確かに触れたら、何か変なものがつきそうな、あるいは痛がられそうな気がするけれど。本人が否定している。
 梓は恐る恐る、そのただれた部分に触れてみた。硬くて、滑らかな小石のような肌触り。ちらりと沙羅の様子をうかがうと、彼は呆れた顔で梓を見ていた。指先に視線を移す。黒くなるかな、という予想は外れた。
 沙羅は軽く息をつき、梓に聞いた。
「帰らないのか?」
 梓は沈黙していた。
 どうしてここに嫁いできたんだろう――?
 歓迎されていないのに、ここに留まることに意味があるんだろうか。
 忘れようとしていたことが、否定しようとしていた疑問が、どうしようもなく胸にわき上がってくる。
 沙羅のことは好き。
 だけれど、だからこそ、ここから出たかった。
 人を苦しめるのはもうたくさんだ。龍影を裏切って、それだけでもつらいのに。いくら義父との約束でも、沙羅にまで不快な思いをさせて、ここに留まるなんて――!
 梓の瞳が次第に潤むのを、沙羅は黙って見ていた。
 血迷った。
 結婚する気など、もとよりなかったのに。
 自分の血は、自分の代で絶やしてしまおうと――そう思っていたのに。
 帝に何度も何度も見合いをさせられ、とうとう、断るのが面倒になって――
 違う。
 それは言いわけだ。
 弱い自分が折れたのだ。誰かの存在を、笑顔を求めた自分が。いずれ相手の不幸を痛感するとわかっていながら折れてしまった。
 哀れな少女は、ただ沈黙している。
「帰っていい。後始末は私がする」
 沙羅が言った。
 帰っていい?
 帰れじゃなくて?
「あの……」
 どうしよう。
 梓はふいに、可能性に気付いてしまった。もしかして、帝の言葉こそ真実で――
 いや、彼女のことが好きとは言わなくても、嫌われてはいないのかもしれない。沙羅は優しい。もしかしたら、彼女が彼を恐れたからこそ、別れたいと言ったのかも――
 どうしよう。わからない。ありえない考えだろうか?ただの願望だろうか?
 そんなこと、あるわけない?
 本当にない??
「あの」
 だめだ、確かめずにいられない。
 人に笑われても、沙羅にどう思われても確かめたい!
「あなたのこと、好きになってもいいですか!?」
 梓は夢中で聞いていた。
「え……?」
「私のこと本当に、見るのもいやですか?」
「何……」
 沙羅は面食らって梓を見た。
「何を……本気で?本気で聞いてるの?」
 梓は言葉に詰まった。沙羅は「分かりきったこと」だと言っている。
 分かりきった――
 分からない、と答えるのがこんなにつらいとは。自分がどんなに間抜けであるか、どんなに彼を理解していないのか、その答えでさらしてしまう。
 もう、相手にしてもらえないかもしれない。
「……分からないんです……教えて下さい」
 梓は肩を落として言った。
 今だけわかった顔をしてみても、いずれしわ寄せがくる。いずれ壊れるなら、今壊した方がましだ。もう虚構の時間はたくさんだ。
「……じゃあ、傷つけたんだな」
 沙羅がやや気の毒そうに言った。
「別に、おまえが嫌いなわけじゃない。だけど、おまえは私が怖いだろう?私は望んでくれない相手と一緒にいたくはないんだ。無理に好かれたいとも思えない」
 言葉というのは不思議だ。嘘でさえ、言葉にすると本当になる。自分さえだませる感じだ。この数ヶ月、ずっと彼女が沈んでいるのを知っていた。彼の前では明るくふるまっていたけれど、気を遣ってだ。彼女の不幸を知りながら、なお手放したくなかったくせに。
「無理に……?」
「義務的には愛されたくない。普通だろう?」
 梓はこわごわ顔を上げ、沙羅を見た。今、言った?嫌いじゃないって?
「でも、私あなたのこと好きです。私……」
「梓?」
 沙羅は一瞬ほうけたような顔をした後、眉をしかめた。
「やめてくれ。おまえは怖がってる。私を拒んでる。心にもないことを、私のためなら言うな!」
 梓はびくっと震えたものの、必死にかぶりをふった。
「気付かなかったんです!お互い知らずに結婚して――初めから好きなわけないじゃないですか。私、怒られるの苦手で……それに、ずっと嫌われてると思ってて……」
 沙羅はただ、否定する目で梓を見ていた。梓は泣きたくなるのをこらえた。
「私、あなたのことも、ここもずっと嫌いじゃなくて――初めて見た時、綺麗な森でいいなって、家も気に入ったんです。それに最初に会った時、あなたが笑っててくれた時は、あの……」
 梓は少し口ごもり、その口許へと手をやった。
「素敵だなって、思ってました」
 沙羅は黙ったままだ。梓はいたたまれなくなってきた。
 間抜けだっただろうか?
 結局、受け入れてはもらえないのだろうか。
「敬語は使わなくていい」
 沙羅が言った。
「それは?」
 梓が胸に抱くものを、沙羅が指さした。
「あ、えと、壁かけ作って……みたの。良かったら……」
「見せて」
 梓はあわてて広げようとして、かえってもたついた。うまく広げられなくて、ますます焦ってしまう。
 いつもはこんなじゃないのに。どうして沙羅の前だと焦るのか。緊張して、何もかも失敗してしまう。
「貸して」
 沙羅が伸ばした手に、一瞬触れた。途端に頭に血が上り、梓はたまらず右手で顔を隠すようにした。
 壁かけは、素人の割には良くできた、森の風景を可愛らしく図案化したものだった。
「もらっていいの?」
 沙羅が聞く。
「あ……はい。もらってくれると、嬉しい……な……」
 梓の顔がやや上気しているのを見て、沙羅は少し、唐突にいじめたくなった。
 静かに手を伸ばし、そっと梓の頬に手をかける。そのまま離さない。
 彼女はみるみる頬を赤くして、耳まで真っ赤になってうつむいた。息すらしていない。
 間もなく十七?この程度で真っ赤になって。
 可愛らしい。
「私も――」
 彼はしばし視線を彷徨わせ、それを逸らしたままで微笑んだ。
「可愛いと思った」
 いきなり胸の鼓動が速くなり、梓は途惑った。
 彼は愛しげな微笑みのままに、その場に屈んだ。
 ふと、彼女は気が付いた。彼は目を逸らしてなんていなかった。
「茶々っていうんだろう?可愛いな」
 彼が伸ばした手に、茶々が甘えてすり寄る。
 ひょいっと抱き上げられると、茶々は甘えきった声で鳴いた。へれへれの猫なで声だ。
 なんだ、茶々のこと――
 梓は一人で恥ずかしくなって、それをごまかすように話題を変えた。
「あの、今度一緒に森に……ちゃ、茶々も一緒で行かない?」
「森に?」
「森の地図、作ってるの。あ、今見る?」
「……いや、明日見る。晴れたら遊びに行こうか」
 え、と一瞬驚いて。梓はすぐに、顔いっぱいの笑顔を見せた。
「うん!たくさんお話しようね!」
 梓はてててっと部屋に駆け戻った。胸の鼓動が速い。初めて誘いに応じてもらえた。
 そうだ、明日、沙羅が地図を見るって――。そうとなったら、もう少し見られる地図に手直ししたい。
 ――沙羅――


 沙羅は自然なそぶりで自室に入り、ぱたんと扉を閉めると、たまらずクックッと笑った。
 よく耐えた。
 顔が引きつりそうになるのを、微笑が微笑でなくなるのを、よく耐えた。
 もうおかしくておかしくて。
 もしあそこで梓を見ていたら、ちらりとでも見ていたら、絶対に笑ってしまっただろう。
 何がそんなにおかしい?
 ただ省いた主語を、あたかも猫であったかのようにふるまって。それだけだ。
 笑うまい、と思うと笑いたくなるから、茶々が可愛い、という事実のみに集中する。それが笑わない秘訣だ。
 やがて笑いの発作がおさまると、ふいに梓の笑顔が、梓の言葉が思い浮かんだ。
 好きって?
 そんなこと、両親を除けば初めて言われた。十年間、誰も彼を好きなんて――
 沙羅はふいに後悔した。一緒に遊びに行くなんて、言わなきゃ良かった。梓は彼を知らないから。よく知らないから、何か誤解して好きなのだ。彼のことは、誰より彼が知っている。弱くて卑怯で浅はかで――大嫌いだ、自分なんて。
 彼の本当の姿を知ったら、きっと梓も彼が嫌いになる。
 一緒に遊びに行くなんて、言わなきゃ良かった……。

<更新日 2000.09.01>

*  に続く

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