水晶師【テューカ】

一年目の春

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もくじ

               

完 2000.08.11

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 ガタゴトと一本道を馬車が行く。綺麗な森の中の一本道だ。
 がたんっ
 大きく馬車が揺れ、梓はあわてて窓枠につかまった。ごん、という音と「にゃっ」という情けない鳴き声が同時に聞こえた。
 道が悪いため、しょっちゅうこうなるのだ。
「ごめんね、茶々、大丈夫?」
 あわてて抱き上げると、茶々は何事もなかった様子であらぬ方を見ていた。「あそこでね、布が揺れてるの。揺れてるの」とでも言いたげだ。
 痛かったらしい。
 猫には共通の特質なのか、あるいは茶々だけか。梓の膝の上から転がり落ちて、しかも頭から床にぶつかった――なんて「違うのよ、今のはお遊びよ」と主張しないと気が済まない醜態らしい。思いっきり可愛いと思う。可愛くて可愛くて仕方ない。体は大きくなっても、猫の愛らしさは全然減らない。茶々の少女らしい、大きくつぶらな瞳が梓は大好きだ。
 梓は茶々を片手で押さえつつ(そうしないとまた落ちるのだ)窓の外へと視線を移した。
 緑の木の枝の上には点々と、先日降った雪がまだ残って輝いている。一生懸命探していれば、時折リスやうさぎも発見できる。
 芽吹きの季節だ。
 冬眠から覚めた動物たちが、そろそろと、あるいは待ってましたとばかりに行動を開始する。
 何もかもが明るく春めいて、気持ち良い早春の午後だった。
 あれから3ヵ月。
 肩の傷が癒えるやいなや、梓は大急ぎで花嫁修業をさせられて、やはり大急ぎで馬車に乗せられた。詰め込まれたのは梓と茶々、そして荷物が少々。荷物は着替えと料理の本、亡くなった両親の形見である、小さな手鏡だ。それ以外のものや残りの着替えは、先に水晶師のもとへと送られた。
「水晶師は優しい人なんだって。茶々が猫かぶったら、きっといちころだね。飼わせてもらおうね」
 なんだか現実味がない。水晶師なんて、梓にとっては絵本に出てくる存在だ。
 『お姫様になりたい』『水晶師か水晶使いになりたい、そのお嫁さんでもいーな』なんて、代表的な女の子の夢だ。
 今でさえ、梓が知っていることといえば、水晶師は特別な、魔力を持った水晶を作れる人なんだということだけだ。付け足すなら、その水晶は占い師や聖職者に使われる、ということくらいだ。龍影の話では、矢じりにまで水晶を使うらしいけど。
 とにかく水晶を使って占いや奇跡をする人が、俗に水晶使いと呼ばれる。
 数は水晶師も水晶使いも少ない。特に水晶師が少ない。今は2人だが、少し前までは一人だけだったそうだ。
 白羽は復興した。
 神官優の奇跡で、白羽の当主、つまり龍影の父親に意識が戻り、ことの真相が明かされたのだ。とはいえ残念ながら、年明けの射礼には間に合わなかった。もっとも、たとえ間に合っていても、白羽は喪中で辞退せざるを得なかったろうけど。
 龍影はどうしているだろう?
 子供の頃には、夢にまで見た水晶師。
 けれど現実は甘くない。
 憧れだった貴族社会は、入ってみると何だか怖かった。息が詰まるようだった。
 水晶師にも、礼樹になら会ったことが、というより見たことがある。学園の始業式だ。礼樹は40歳くらいのすらっとした男性で、厳しく有能そうな、まるで教官のような人だった。立派そうな人ではあったが、梓の想像とは、夢とは全然違った。どう見ても普通の人だった。
 沙羅は?
 やっぱり怖そうだろうか?おじさん?龍影の口ぶりからして、そう年を取ってもいなそうだけれど。
 少し、首を傾げる。水晶師、という語の響きのせいか、相性最悪かも、変な人かもしれないのに、あまりそういう気はしなかった。さすがに龍影のように気が合って、しかも遊んでくれる人とも想像しがたいけれど。なにしろ厭世的、とまで言われる人だ。できれば気軽に笑い合える、励まし合える、一緒にいて楽しい人と結婚したかった。
 龍影となら、尊敬さえし合えていたのに――
 ぱんっ
 梓は突然手を打った。茶々がびくっと耳をそばだてる。
 だめ。今のはなし。もう龍影のことは考えない。だったら良かったのに、も考えない。そう決めたから。今さらどうなることでもないし、何より水晶師に失礼だ。曲がりなりにも縁談を承知した以上、それらは考えてはいけないことだ。
 義父は約束通り白羽を支援し、盛り返しをはかってくれた。自分もきちんと約束を果たさねば。水晶師に不快な思いはさせられない。できるかぎり、誠実でありたい。
 梓は小さく息をつき、改めて景色を見た。
 見合いもしなかったし、式も挙げていない。貴族が挙式しないのは異例だが、梓は正直ほっとした。知らない人たちに囲まれて、知らない水晶師の手を取って――泣いていたかもしれない。心細さに、あるいはつらさに。
 景色は美しい。
 水晶師も、この綺麗な景色が気に入って、ここに住むことにしたのだろうか?森に誘ったら、一緒に歩いてくれるだろうか――

<更新日 2000.07.07>


 

「今日が?」
「ええ」
 疲れた顔で頷き、龍影は自嘲的に微笑んだ。それを見て、優は少なからず驚いた。彼がこんなふうに笑うのを、優は初めて見たから。
「疲れてますな」
「天邏――天邏なんです、孤立しかけた白羽の後援が。梓に、一番大事だった子に矢を受けさせて――その上犠牲にしたんだ! どうしてなんです!? 梓を失ってまで、梓を犠牲にしてまで、家を守りたいなんてかけらも思わなかったのに――!」
 ぽんぽんと、優の暖かな手が、龍影の肩を軽く叩いた。
「許しておあげなさい。あの子はまだまだ若い。いくら龍影君が望んでも、君を見殺しになんて、まずできない年頃でしょう? まして両親に死別して――死の残酷さを、残される者のつらさを、身にしみてわかった身の上ではね」
「……」
 こうして、彼をなだめるのも久しぶりだ。いつから、彼はここに来なくていいほど理性的になったのか。嬉しくもあり、寂しくもある。
「優さま、水晶師の沙羅って、どーゆーやつ? 知ってる?」
 優は少々間を置いて、それから話した。
「知ってますな。龍影君と正反対で、それでいながら同じくらい手のかかる、可愛い問題児でしたぞ。君がやれ先生を殴っただの、やれ上流貴族の息子にけんかを売っただのでここで謹慎させられてた頃に、よく自殺未遂を起こして連れて来られてましてな。先に狂ったように自分を責め出すもので、周囲がそれと気付いて止めるんですが」
「……ちょ……」
「何、昔のこと昔のこと。今は落ち着いたもんです。静かで優しい――やっぱり、君とは正反対の青年ですよ」
 誤解があっては困るが、龍影だって十分優しいのだ。ただ、水晶師とはその質が違うというか――。どちらがいいかは、人の主観によるだろう。
「……でも、あんまりいい噂は聞かないけど……」
「そうですな」
 否定はしない。相手を思うがゆえに、沙羅は冷たいそぶりを見せがちだ。縁談を破談にするためだ。
 なにしろ親の勧めで見合いに来る多くの令嬢たちにとって、沙羅との婚姻は不幸でしかない。使用人を置きたくない沙羅と置きたい娘。いきなり確執を免れない。その上社交界にも出られない。
 まして飾らない、素直な言葉より、大抵の娘は甘い恋の言葉がお好みだ。残念ながら、沙羅には礼儀でも言葉が飾れない。龍影などは、必要とあらば完璧に飾った言葉で娘を誘惑するけれど。双方承知の上での社交だ。それは詐欺ではない。
「龍影君」
 優は正面から彼を見据えると、その手にふわっとしたものを押しつけた。
「彼女の代わりにどうぞ、可愛がってやって下さい。飼い主に捨てられた、不憫な子なんです」
「優さま!? もう6匹目です!」
 今は自分を慕っている龍影だけれど、本当のことを知ったら――?
 水晶欲しさに、優は帝についた。帝、伯、優の三人が、彼から梓を奪った。
 沙羅と龍影の双方を、ペテンにかけたのだ。
 それを知っても、彼は同じ顔で笑ってくれるだろうか。
 そうして手に入れた水晶で、彼の父を回復させたのだから、皮肉と言わざるをえないが――
 神は、確かに人に不公平な才能をふりわける。けれど案外公平だ。
 『強い』者はその強さゆえに『耐える』ことを強いられる。本気で愛したなら、それを失う痛みは誰しも同じだ。
 確かに彼には親衛隊が――この事件のおかげで、ますます彼の人気は高まった――ついていて、白羽の嫡男としての地位も得た。天邏という強力な後援も手に入れた。
 けれど、やはり失う痛みは変わらない。何より欲したものが、手に入らない苦痛は変わらない。なのに多くを持っている、あるいは耐えられる、という理由で不当に耐えることを強いられる。さらに、その痛み、憤りが他者に解されることは滅多にない。贅沢者、そう言われるだけだ。
 ――済まないとは、思っているんですがね――
 優はにこやかに、白い捨てうさぎを彼に押しつけつつ、内心で詫びていた。

<更新日 2000.07.14>


 

 あと少しの所で梓は馬車から下り、荷物を受け取った。ここからは細い小道が続くだけなので、馬車では入れないのだ。
 澄んだ空気が心地よい。
 しばらく歩くと、梓は道沿いの水の流れに気付いた。緩やかに傾斜した道に、地面を濡らす程度の流れがある。なんだか、こういう場所の水は透明感があって素敵だ。梓はちょこんとその場に座り込み、しばらくその流れを見つめていた。茶々がその隣で喉を潤している。
「んしょっと」
 ただ座っていても仕方ない。間もなく梓は立ち上がり、再度歩き出した。
 二十分ほどで、彼女は奥ゆかしい佇まいの、目当ての家を見出した。
 ちょっとほっとする。
 やはり『家』というものはこういうサイズでなくては。天邏の屋敷は広すぎた。人を使うというのも、慣れない梓は落ち着かなかった。むしろ、世話好きの侍女はそれだけ小言が多く、梓はかなりびくびくしていた。小言を言われ慣れていなかったのだ。両親は非常に思慮深く、やんわりとたしなめることがほとんどだった。近所の人には「梓ちゃんは聞き分けがいいねえ」と言われたけれど、それは違うと思う。だって、両親は何がいけなかったのか、誰が困るのか、ちゃんとわかるように説明してくれた。その上、梓は両親が大好きだった。笑っていてほしかったし、いつかは両親のようになりたい、それが梓の目標だった。そんな状況なのに、素直に言うことを聞かない子供が、いったいどこの世界にいようか。
 家に近づくにつれ、その趣味の良さが梓の足取りを軽くした。少なくとも、家の趣味は合う。嬉しい。
 玄関に立つと、いきなり思い出したように緊張してきた。どんな人だろう? 沙羅って、どんな人だろう。義父は優しい方だと言った。けれど、優しさにもいろいろある。龍影から聞いた、「山のような縁談がことごとく不成立」という話も気になった。
 不安と場違いな好奇心。そしてある種の使命感。梓は片手で茶々を抱き、思い切ってドアをノックした。
 返事はない。
 しばらく待ってから、もう一度ノックした。
 家は静かなものだ。と、窓がカタンと開いた。二階の出窓。
「あ、あの、沙羅さんですか? 私――」
 顔を出したのは、ちょっと変わった雰囲気の人だった。頭に飾りだろうか、明るい色の布を巻いていて、顔が良く見えない。
「やあ。入れば? 開いてる」
 その人はそれだけ言った。
 ひとの家のドアを、勝手に開けちゃったりしていいのだろうか? いや、他人ではないのだけれど……。
 ――でも、気さくな感じの人だね。良かった――
 梓は遠慮がちにドアを開けた。
 見れば、階段からあの人が下りてくるところだった。
 白くゆったりした服に、紺青のベスト。背の高さは標準か。スマートで、静かな気品が漂うようだった。少しウエーブがかった薄茶の髪が、布とたわむれている。
「荷物はそれだけ?」
「はい。これだけです。あの」
 茶々を飼わせてもらわなくては。幸い、彼女の抱く猫が見えていないわけではなさそうなのに、いやそうな顔はしていない。
「梓っていうの? 物好きだな、こんな森しかない所に嫁いでくるなんて。しかも、人間は私しかいないよ?」
 からかうように言いながら、ひどく嬉しそうな笑顔を見せている。梓も自然につられて笑った。何だかいい人だ。こわい人でも、変な人でもなさそうだった。もしかして、義父はあんまりこの人が気に入って、あんな強い態度に出たのだろうか――?
 嫁ぐのは、義父ではないのに。
 年は梓と同じくらい、いや、少々年上か。二十歳前後に見えた。
「持つ」
 沙羅が短く言って、その手を差し出した。彼は梓と同じ、濃い茶色の瞳をしている。その澄んだ視線が、茶々に興味深げに注がれていた。
「こっち?」
 梓は少し、茶々を持ち上げた。
「そう、そっち。可愛くない荷物は自分で持って」
 梓は思わずくすっと笑った。楽しい人だ。猫が、少なくとも茶々が可愛いらしいし。
 彼は梓から茶々を受け取ると、慣れた手つきで抱き上げた。肩にもたせるように抱いて、さっそく手にじゃれつかせている。
「あの、この子、飼ってもいいですか?」
 それを見ながらなので、梓は安心して聞けた。
「いいけど、私になついて――こっちにつきまとうようになっても知らないな」
 またしても梓は笑ってしまった。面白いことを言う人だ。いや、案外、本当にそうなるかもしれない。薄情にも、茶々はもうすっかり彼になついたようだ。
 と、彼の手が梓に伸びてきた。茶々に向けるのとほぼ同じ視線で彼女を見、軽く髪に触れる。指を絡ませる。
 緊張が頂点に達し、梓は怯えたようにかたまった。息苦しい。
 ここで拒むのは、どう考えても場違いなんだけど……。
 梓が真っ赤になってうつむくと、彼は微笑んで手を引いた。
「おいで。部屋は勝手に決めたけど、他に、気に入った部屋があったら使っていい」
 とりあえずほっとして、梓は頷いた。まだ胸の辺りが奇妙に緊張して、調子は狂ったままだ。
「あ」
 階段を上りかけた所で、ふいに沙羅がふり向いた。
「布は……これは、外しててもいいか? 邪魔なんで、できれば家では巻きたくない」
「あの……?」
 梓がきょとんとした顔で首をかしげると、彼は訝しげな顔で彼女を見た。
「知ってるだろう?」
「……」
 梓は困惑した。その様子に、沙羅はみるみる顔を曇らせた。茶々を下ろし、頭に巻いた布に手をかける。
「――!?」
 沙羅の顔は半面、青黒かった。
 それを見て、梓はただただ目を見開いた。全身の感覚が麻痺したようだった。動けない。
「……知らなかったのか?」
 額から顎にかけて、無残に焼けただれたような跡がある。それも青色にだ。青く変色した肌が引きつって、その引きつった部分が黒変している。
「……」
 異様さに、ショックを隠せない。青黒くただれた肌。しかもそれでもなお、両目とも見えているようだった。
 火傷ではないのだろうか? 青黒いのは薬だろうか?
 疑惑を確信に変えて、沙羅は不愉快さを隠そうともせず、冷たい視線を梓に向けた。
 帝に騙された。
 彼を、彼の傷を知ってなお、受け入れた少女ではないではないか。
 相手を何も知らずに嫁いでくるような、いい加減な――
 彼にはわかっていなかった。その視線そのものが、彼の笑顔だけを頼りにしていた梓にとって、どれほど恐怖であるか。
 沙羅は梓を見据え、ほとんど睨むような視線で梓を見据え、彼女に向き直った。
 こんな結婚、相手も自分も傷つくだけと、なぜわからない?
 梓が後退る。
 彼女はいい。自業自得だ、勝手に苦しめば――
 だけれど、なぜ彼まで巻き込む!?
 沙羅はつかつかと、怒りもあらわに梓に詰め寄った。
 無言の圧迫は、その形相も手伝い相当恐ろしかった。
 梓の思考は完全に停止した。こわい。他には何も考えられない。
 ついに梓は悲鳴を上げた。
 夢中で逃げようとする足が、言うことをきかずにもつれた。
 見上げると、沙羅が凍りついたような視線で見ていた。何より、そこに静かな怒りを感じて、梓は恐怖した。
 許しを請おうとしたのか、再度悲鳴を上げようとしたのか。わずかに口許を動かしただけで、彼女の声は出なかった。
 沙羅はくるりと梓に背を向け、そのまま階段を駆け上がっていった。

<更新日 2000.07.21>


 

 しばらく、梓はその場に立ち尽くしていた。
 自分の激しい鼓動だけ、収まらない恐怖だけ、感じる。
 やがて。
 梓はくしゅっとくしゃみした。
 寒さを感じた。春先とはいえ、まだ名残雪の季節のことだ。感覚が戻ってきたらしい。それすら忘れるほど大きな衝撃だった。
「あ……」
 頭が正常に動き始めると、梓はまたも愕然とした。
 彼の目が、怒りで隠そうとしたものに気付いたからだ。
 痛み。
 今のは、どう考えても傷つけた。
 胸の鼓動が速まる。
 どうしよう、どうしよう!?
 取り返しのつかないことした――
 初めに強く与えた印象は、たいてい尾を引く。
 彼は親切だったのに。
 ずっと楽しげだったのに、彼女の反応は――彼女がいかに彼を傷つけたかは、想像に難くない。その深さを思うと、ぞっとした。泣きたくなった。
 だって、もう一生忘れてもらえないかもしれない。一生懸命謝れば、誠意をもって謝れば、許してくれるとは思う。だけれど許しても、納得しても、傷自体が消えてくれるとは限らない。彼女にも、いくつか普段は忘れているのに、ふとしたきっかけで疼く古傷がある。龍影とのことなど、記憶に新しい。
 ふと気配を感じて見上げると、階上に彼がいた。黙って見下ろしている。
「沙羅」
 彼は来いというふうなそぶりを見せた。
 梓はあわてて従った。
「あの、さっきは……」
 まるで彼女の言葉など聞こえていないように、彼は二階の一室の扉を開けた。白と空色で統一された、南向きの明るい部屋だ。
「あるものは勝手に使っていい。食べられるものがないなら、言えば取り寄せる。それから――」
 彼はいったん部屋を出、二階の短い廊下を曲がった。
「あの部屋は私が使ってる。あそこにだけは無断で入るな。迷惑だ。掃除も私がやるから必要ない」
 梓は口を挟む隙を探していたが、なかなか見つからなかった。とりつくしまもないとはこのことだ。
「夕食は? 作るのか?」
 沙羅が聞いた。なんとか発言権を得て、梓はそれを失わないうちにとあわてて言った。
「作ります。あの、何がいいですか?」
「何も」
 冷水を浴びせられたようだった。それほど、沙羅の言葉は冷たい拒絶に満ちていた。
「今日は食べたくない。何か質問は?」
「え……」
 泣きそうだった。
 最初のあの人懐こい笑顔を、もう二度とは向けてもらえない――
 いきなり、先が真っ暗になったような気がした。
 梓が黙っていると、彼はさっさと行こうとした。
「あ、待って」
 あわてて引き止める。彼は迷惑そうにふり向いた。
「あの、ごめんなさい! さっきは……びっくり、して……」
「用がないなら引き止めるな」
 彼は冷たく言って、自室に消えてしまった。取り残され、梓は一人立ち尽くした。
 そんな――
 彼女は力なく壁に寄りかかり、冷たい木目の床に視線を落とした。
 明日まで待ったら、少しは怒りも解けようか?
 謝らせてくれようか?
 彼女はふらふらと自室に向かい、とにかく荷物をしまった。


 

 ぺろぺろと、茶々が手を舐めた。茶々をじゃらしながら、その手に力が入らない。
 梓は不安と孤独に耐えつつ、食事と入浴を済ませた。
 夜。
 濡れた髪を梳かしながら見上げた空は、澄んでいた。星が瞬いている。
 寝よう――
 夜の森は静かだ。少し怖い。
 眠くないわけではないのだ。旅の疲れもある。ただ、何だか怖い。
 トン――
 軽いノックの音がした。
 どきっとして、梓は扉を眺めた。そう、いや、それは――
 確かに、曲がりなりにも初夜なのだ。気まずくなったからといって、流れるものでもないのかもしれない。
 梓は震えそうになる声をなんとか励まし、返事した。
 沙羅が静かに入室してくる。と、その手が何かを彼女に持たせた。ミルクだ。
「――ありがとう」
 彼は答えなかった。黙ったまま、はす向かいの椅子に腰かける。
 梓は沙羅の視線を意識しつつ、ミルクを半分ほど飲んだ。見られているのが落ち着かない。
「あの……」
 彼は黙ったままだ。謝ろうとした梓だけれど、ふとためらった。昼間、謝ったら怒られた。確かにそうかもしれない。怖がってごめんなさいなんて、謝ってもらっても困るのかもしれない。
 だけれど――
 他にどうしていいかもわからず、梓はやっぱり謝ることにした。
「昼間、ごめんね……」
 沙羅が静かに立ち上がる。
 今は薄明かりしかないので、沙羅の風貌の異様さも目立たない。もっともあまりに強烈で、あの青と黒の印象は鮮明なのだけど。
 そっと、沙羅の手が頬にかけられた。
 梓は思わず身を引いた。
 沙羅が左手を寝台に突いて、身を彼女の方へと寄せてくる。
 梓はぎりぎりまで――寝台に倒れるまで身を引いて、追い詰められると、固く目を閉じた。無意識に、感覚を遮断しようとしたらしい。
「何を謝った?」
 沙羅が言った。
 彼は何もしなかった。梓の頬にかけた手も、もう外れている。
「……え……」
「ぞっとするなら、触れられたくないなら、そう言ったらどうだ?」
「さ……」
 刺々しく皮肉げに。当然だ。
 ふと梓の手に、何かが押し付けられた。
「沙羅……?」
「勝手にすればいい。金は余ってる。何なら全額使え。どこに行こうが、何を買おうがおまえの勝手だ。ただし」
「沙羅!? 違うよ、待っ――」
 あわてて主張しようとした梓の口を、彼は右手で覆った。
「言い訳は聞きたくない。私の要求は一つだ。おまえは勝手にしていい。ただし、ここは私の家だ。私はどこにも行かない。ここに人を呼ぶのも許さない。それだけだ。呑めるな?」
 彼女を黙らせていた右手を外し、彼は返事を待った。
「や……」
「なら出て行け!!」
 びくっとした次の瞬間には、涙があふれた。
 いやだ。
 勝手になんてしたくない。
 一人で勝手になんて、今日だけでもう十分なのに――!
「お願い……いやだよ、さみし……」
 彼は聞く耳持たず、苛立たしげに部屋を出て行った。
「沙羅……!」
 追いかければ良かったかもしれない。
 聞いてもらえるまで、何度でも話してみれば。
 けれど、梓はそうしなかった。
 怖かったのだ。
 彼に触れられるのが。
 彼に見つめられるのが。
 怖かった。

<更新日 2000.07.28>


 

 朝、梓はかなり早めに起きた。沙羅がいつ起きてくるのか、まるでわからない。これで昼起きの人だったりした日には、結構悲しい。
「沙羅」
 彼もかなり早かった。服装は昨日とだいたい同じで、色だけ違っていた。水色の服に、青色のベスト。ちなみに梓は空色だ。空色のローブ。もっともローブはローブでも、むしろ丈夫さが取り柄の質素な服で、彼女が若いがゆえにさまになる、という感じだった。それで構わない。質素といえど、趣味さえ良ければ、それはかえって素材を引き立たせる。
 昨日は精緻な刺繍や飾りのついた、それでいて軽い感じのドレスを着ていたけれど、あれでは動けない。
「おはよう」
 彼はちらりと梓を見ただけで、何も答えなかった。もう布を巻く気はないらしく、素顔がさらされている。
「朝御飯、これでいい? あんまり上手じゃないんだけど……」
 昨日、食べていないのだ。いくらなんでも今朝は食べるだろう。
「作ったのか……別にいいのに」
 彼は無関心にそう言った。梓は悲しくなった。
「どこに座る?」
 沙羅が聞いた。
「えっと……こっち」
 梓が席を取ると、彼は正面からずれて横に座った。比較的、傷が見えない方向だ。胸が痛くなる。
 実際、沙羅は優しい。
 掃除をしていて知ったのだけど、壁紙が張られている部屋は、梓の部屋だけだった。残りは木目だ。木目もいいが、やはり心遣いが嬉しい。明るく爽やかな感じにまとめられ、梓の部屋は快適この上なかった。
「いただきます」
 梓が手を合わせて挨拶し、顔を上げると、沙羅があ然とした顔で彼女を見ていた。
「沙羅?」
 何か言おうとした途端、彼はたまらなくなったらしい。くっくっくっと、耐えかねたような笑いが漏れる。
「沙羅??」
 まだ楽しそうな顔をしたまま、彼は笑いまじりに言った。
「随分、礼儀正しいな」
 今時の娘が、手を合わせていただきますとは。そんなことをするのは、子供と年寄りだけかと思ってた。随分可愛い性格だ。
「そう?」
 梓が小首を傾げる。だけれど、彼女はすぐに微笑んだ。
「でも、ほめられて嬉しいな」
 今度こそ、彼は笑ってしまって食事もできなくなった。ほめてない。誰もほめてない。
「沙羅!?」
 梓が驚いている。
「何? 何? 私、何か変なこと言った? どうして笑うの?」
「別に」
 相好を崩したまま、彼はそっけなく食事を始めた。


 

 彼が笑っていたのは束の間で、すぐにそんなことは気のせいだったような、冷たい表情に戻ってしまった。食べ終えると、彼は席を立ちながら言った。
「今日は仕事する。よほどのことがない限りは、私が出てくるまで部屋には来るな」
 迷惑そうな口調で言われて、梓はしょんぼりとなった。
「はい……」
 構わず梓に背を向け、彼が行こうとする。
「あの、私は?」
 彼はちらりとふり向いただけで、何も言わなかった。彼女の言葉は黙殺された。
「森に、森に行きたいの」
 彼はもう一度だけふり向き、そのまま行ってしまった。梓のそばで落ち着かなげにもぞもぞしていた茶々が、やっぱりこっち、とばかり彼の後を追いかける。
「茶……」
 梓は動けなくなった。
 沙羅が気になるからか、あるいは梓に元気がないからか。茶々は行ってしまった。
 梓は急に、どうしてここにいるのかわからなくなった。
 一人きり。守るべきものも、愛してくれる人もいない。
 皮肉だ。町にいた頃こそ、彼女にとっては何の不自由もない、充実した日々だった。
 両親がいた。友人がいた。継ぐべき家業があった。
 当たり前のように思っていたけれど、あれは恵まれた日々だった。
 天邏の養女となると、環境はがらりと変わった。何もかもが近寄りがたく、心のままには生きにくくなった。それでも義父は尊敬できたし、すみれとは仲良くやれた。何より龍影という、良き理解者を得た。初恋だった。
 落ち着かないながらも、それなりに楽しい日々だった。
 今は――
 彼女は何も持っていない。
 梓が初めに拒んだ。
 ならば、彼女がどうにかするのが筋だ。わかっていながら、沙羅の容姿、態度、そして状況が、彼女の行動を鈍らせる。
 つまり、あの顔で睨まれると相当迫力があるということだ。梓など竦んでしまう。笑顔には、案外惹かれるものがあるのだけれど。
 さらには、梓は男性として沙羅がこわい。ほとんど知らない彼を、どうして受け入れられようか。
 そんなこんなでこのうやむやな状況を引き延ばし、その間に相手を知りたいという思いと、彼を傷つけたままであることの、拒まれ続けることのつらさとの間で梓は迷い、行動できないでいる。
 ――片付けよ――
 ただしょぼくれていても仕方ない。梓は潤んだ目をかわかし、流しに向かおうとした。
「梓」
「沙羅?」
 階上から声がかけられた。
 彼は静かに下りてきて、彼女のそばまでやってきた。
「手」
「手?」
 何か渡してくれるようだった。梓が手を出すと、彼は小さな水晶球をその手に握らせた。
「あまり奥まで行くな。大きな猫が出る」
 ――大きな猫?
「あの、虎かなにか……?」
「虎じゃない。名前は知らない。まあ、普段は探したって見つからない。大丈夫だとは思うが、万が一の時には使え」
「……どう使うの?」
「握って願うだけでいい。ただ、あてにはするな。せいぜい目くらましになる程度だ」
 梓は神妙な顔で頷いた。少し明るい気分になりながら。
「仕事の邪魔」
 そっけなく言って、茶々が返された。それはそうだ。猫ほど、人の邪魔をしたがる動物も珍しい。
 けれど、どちらかというと彼女を気遣ってくれたのでは――
 希望的推測だろうか?
「あの、お仕事いつ頃終わる?」
「……失敗すればすぐ、成功したら夜中頃」
 梓が驚いた顔をしていると、沙羅が相変わらずの冷たい口調で続けた。
「食事はいらない。仕事が終わったら、自分で食べる」

<更新日 2000.08.05>


 

 ピチ、ピチ、ピチュチュチュ
 外に出た途端、梓はふり向いた。随分近いのだ。小鳥のさえずりが。
 ――うわあ。
 梓はぽかんとそれを見た。
 二階の窓辺、沙羅の部屋の窓辺に、たくさんの小鳥たち。沙羅が楽しげにエサをやっている。
 すごい。
 かわいい。
 やってみたい。
 ああ、でも今日はだめだ。茶々がいるし。
 梓は夢中で眺めた。そして決意した。後で絶対、私にもやらせてって言ってみようと。

<更新日 2000.08.11>

*  に続く

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