水晶師【テューカ】

一年目の冬

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もくじ

           

完 2000.07.07

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「だめだと言った。帝の不興を買えば、天邏がどうなるか――考えたことがあるのか? 何に不満があった? 今まで、そんなに不満があったのか。天邏を不利にすると承知で、おまえが白羽を選ぶ気なら……」
 後日、再度かけ合いに行った梓に、伯は厳しい態度で応じた。
「天邏を破滅させても白羽を選ぶ気なら、もはや何も言わん。どこへなりと行くがいい、鏡の梓として」
 鏡。
 鏡は梓の旧姓だ。
 伯は目で促し、梓を下がらせた。
 これで諦めるだろうか?
 天邏に絶縁されてしまっては、鏡の梓では、白羽は手の届かない存在だ。
 もっとも、それ以上に彼女には、『天邏を不利にする』という言葉が効いただろうが。彼女が、どれだけ天邏に感謝しているか知っている。
 もし嫌だと言えば、義兄も義父も立場を悪くする――
 その思い込みが、彼女を縛るだろう。
「白羽――」
 聡い方ではあっても、所詮、まだ少女ということだ。人を見る目がまだまだ甘い。
 それでも、その無邪気な感性を守ってやりたくて。
 白羽の龍影。彼はつい先日、親兄弟に刃物を向けた。二人の兄は死に、父親だけが瀕死で生き残った。家督目当ての犯行だ。
 彼女に言い寄ったのも、所詮は財産目当て――
 それを知らせていない以上、今は、義父を恨みもするだろう。それでも水晶師のもとがどこより、彼女の安息の場となるはずなのだ。慣れない、彼女には想像もつかないほど汚れた俗世より、間違いなく水晶師のもとが、あの清らの空間が、彼女には合うだろう。
 同じことが、水晶師にも言える。
 ――あの子を救ってやりたいのですよ、天邏殿――
 帝が仰せになった。
 きっと心は同じだ。自身がどんなに恨まれようと、あの子を幸せに――
 それで悔いはない。

<更新日 2000.06.04>


 

 夜。龍影は半ば牢と化した屋敷を抜け出して、天邏家へと向かっていた。梓は知っただろうか?あの日の惨劇を。彼女は、自分を信じてくれるだろうか――

 ――龍影、どういうつもりだ!? あれほど問題を起こすなと――
 ――兄上、お言葉ですが。誰かが新しい風を起こさなければ、どんどん腐っていくだけでしょう? そんなことを、黙って見ているわけには参りません――
 ――いい加減にしろ。十八にもなって、まだ分別がつかんのか。おまえにどれほどの力があると思っている!?――
 ――今はなくとも、手に入れてみせます! 私はいやなんです、不正を知っていながら、誰一人暴こうとしない。誇りなき者に、なぜ従わなくてはならないのです!!――
 ――龍影、言葉が過ぎるぞ――
 ふいに、下の兄が割り込んだ。いつからいたのか。
 ――真弓、おまえにも話がある。いや……おまえが先だ――
 ――そうですか――
 彼の単調な返事に、長男、天駆はどこか腹立たしげだった。
 ――龍影、おまえとの話の続きは後だ。外してくれ――
 彼が返事をするかしないか。
 突然、真弓が動いた。
 ――真弓!?――
 何の警戒もしていなかった天駆の胸に、深々と銀の短剣が突き立った。
 ――兄さん!――
 ――なぜ、名誉挽回の機会も頂けないのです? 秘伝のことも……。兄上に私の気持ちがわかるのですか? 賭弓の出場権を、弟に奪われた私の気持ちが――
 ――真……弓……きさま……――
 ――秘伝を外に漏らしたって、あなたはお怒りでしたが。それだって、その焦りゆえなんですよ……。まんまと騙されたんです。騙されただけなのに、あなたには、まるで情けがおありでない――
 ――だれ……――
 とっさに人を呼ぼうとした龍影に、すかさず真弓が襲いかかった。刀を両手で握って。
 もみあうように、彼らは転がった。龍影がなんとか刀を奪う。武器を失うと、真弓はいったん身を引いた。天駆に駆け寄り、その胸に突き立った短剣を抜く。吹き出した大量の血に、龍影が動揺した一瞬。真弓の握った短剣が、龍影の腕に突き立った。
 と、天駆がガシっと真弓の足首に組み付いた。
 ――龍影、殺れ! 早く!――
 ――兄……――
 龍影はためらった。
 話せばわかる、その思いが捨てきれなかった。相手は兄なのだ。
 痺れを切らした天駆が、自ら懐刀を抜いて切りつけた。天駆の懐刀が、一瞬で真弓の首筋を切り裂き――
 兄は両名とも、助からなかった。
 その後、父が書斎で倒れているのが発見されて。さらには、真弓が罪の全てを弟に――龍影に被せるべく、証拠として揃えていたものが発見されて。
 かくして、龍影は兄と名誉を失った。
 仮に希望があるとすれば、父の存命だ。真弓にしても、殺人なんて初めてだったから、止めを刺し損ねたのだ。

<更新日 2000.06.11>


 

 ……コン――
 不自然に窓が鳴ったような気がして、梓は立ち上がった。
「た……」
 あわてて声を切り、辺りの様子をうかがう。幸い、みな遠慮しているようだった。彼女がふさいでいたせいだ。
 梓は素早く窓を開け、龍影を迎え入れた。
「梓……」
 呼びかけ、ふと龍影は梓を見直した。
 何か違う――
 間もなくわかった。いつもは真っ直ぐ見つめる梓なのに、今は視線を逸らしている。
「梓、もう、俺が嫌いんなった? 俺なんかとは、結婚したくないって?」
「龍影――?」
 彼の突然の言葉に、彼女は途惑った。
「聞いたんだろ。俺が兄二人と父上手にかけたって」
 大きく見開かれた梓の目が、それを否定していた。
「……知らなかった?」
 梓が小さく頷く。
 龍影は訝った。なら、どうして目を逸らす――?
「……とにかく、身内殺しってことになってる。俺の話、聞く?」
 梓はもちろん頷いた。

 一通り話すと、龍影は顔を上げた。
「信じる?」
「信じる」
 龍影はほっと胸をなで下ろした。
「ところで梓、どうして目、逸らしてた?」
「……」
 梓はただ、うつむいた。何と言っていいのか――
「……ごめんなさい……」
「梓?」
「……結婚するの……」
 龍影はしばし、言葉を失った。
「何……」
 けれどすぐ、冷静さを取り戻す。十分あり得る――むしろ、自然な事態だ。
「……誰も恨まない。だから正直に、嘘付かずに答えろ。それは梓の意思? それとも伯の意思?」
「……」
「伯だね?」
 彼女がかろうじて頷く。彼は納得した。
「相手は?」
「テューカ」
 龍影が思わず、耳を疑った瞬間だ。
「水晶師って……礼樹か? それとも沙羅?」
 どちらも考えがたい。礼樹は既婚だし既に中年だ。親子ほど、年の離れた結婚になる。もちろん、もらう方は良かろうが……。あまりに梓が哀れだ。
 一方の沙羅は。こちらは帝の気に入りで、その筋から山ほど縁談がある。その全てを破談にされた――もとい、破談にさせたような人物なのだ。およそ結婚の意志があるとは思えない。そんな沙羅が、どうして嫌がる梓を望むと?
「……」
 梓はただ、首を横にふった。名前は聞いていない。
「何か、聞いてない? 年齢とか、功績とか」
「……帝からのご紹介で、厭世的だけど、良い方だって、義父が」
「帝から――沙羅だな」
「沙羅?」
 確かに厭世的だと聞いている。しかし、「良い方」と評されるような話の方は……。
 むしろ冷たくて暗くて意地悪、そう聞かされることが多かった。主に女生徒たちから。どこからともなく上流で年頃の男性の評は、ちまたに流れるのである。
 ただし水晶だけは。これだけは、絶品らしい。
「……」
 まだ、何か忘れているような――
「龍影?」
 はたと、彼は梓を見た。それから思い至った。そう、沙羅も梓と同じく――いや、より下層の出のはずだ。
 一連の事実が、見事につながったようだった。
「……梓、俺と来ない?」
 ぴくっと、梓の肩がわずかに震えた。
「水晶師と俺と、梓はどっちがいい? もし梓が逃げたいなら、俺が連れて逃げる。何もかもなくしかけた、今の俺でいいならね。父さえ目を覚ませば、まだ名誉挽回の余地もあるけど……難しいな」
「龍影……」
 梓の表情が苦しげだ。
「本当のこと言うとね、最初は、梓が天邏の養女だから近付いたんだ。社会を改革する力が欲しかった。腹立たしかったんだ。知れば知るほど、汚くて――」
 彼女は黙って聞いている。
「だけど、気がついたらすっかり本気になってた。楽しかったんだ、梓と一緒にいると。梓のものの見方、考え方――新鮮だったし、随分勇気づけられたと思うよ。俺がずっと心に抱いてて……でも、形にならなかったことをさ。いつも、まるで当たり前みたいに梓は形に、言葉にするんだ。ああ、そう思うの、俺だけじゃないんだなって。それならいつか――他の人にもわかってもらえる、改革も不可能じゃないって、自信が持てた」
 それこそ、梓にはびっくりすることばかりだった。嬉しいことばかりだった。それが怖くもあった。
「残念ながら、一からやり直すことになりそうだけど……それでも、俺はいいと思ってる。梓が一緒なら、きっと夢を失ったりはしないって、思ってる」
 龍影はそれだけ言うと、後は黙って梓を見つめた。彼の言葉を、梓がどう判断するか。そして何を取るのか。後は信じるだけだ。
「……逃げたい」
「梓、」
 龍影が自信を取り戻した顔で続けようとした言葉を。梓が遮った。
「でも、だめだよ。龍影について行きたいけど、一緒に生きたいけど、私が逃げたら天邏が……。今さら破談にしたら、天邏が破滅するって、義父が」
「梓……」
 龍影はじっと、梓を見つめた。
「どうして、梓が天邏の養女になったか――知ってる?」
「え?」
「梓の両親、殺したのは伯だ」
 突然のことに、梓は言葉も失い、凍りついたように彼を見た。龍影は真摯な瞳で彼女を見ていた。彼女を傷つけたくなくて、これまで黙っていたことだ。
「故意だったのか、事故だったのかはわからない。だけど、梓を養女にしたのは、その理由はわかった気がする。水晶師はね、梓と同じ、帝の養子なんだ」
「養子……?」
「伯は良い方だって言ったらしいけど……俺にはそうは思えない。だって、ならなんで、それこそたくさんあったはずの縁談が成立しないんだ?」
「……」
「伯は初めから、梓を水晶師に嫁がせるつもりで養女にしたんだ。彼と同じ境遇の梓なら、彼も受け入れると踏んで――そして、それは成功した。梓に選択権を与えないという方法で」
 彼の言葉の全てが、彼女には信じられないことばかりだった。けれど、龍影を疑う気にもなれない。
「梓、みんな嘘だ。梓が逃げたって、天邏にたいした被害はないんだ。もう、何度も水晶師は縁談を破談にしてる。されてる。帝も、いちいち腹を立てたりするもんか」
「……そ……」
 言わない方が良かったろうか――?
 彼は自問した。
 それでも、梓をみすみす伯の犠牲にするよりは。
「明日、迎えに来る。それまでに、準備できる?」
 梓の混乱しきった瞳が彼を見た。
 信じきれず、考えがまとまらないのだ。
 龍影はじっと、静かな黒い瞳で彼女を見ていた。それは偽りのない、誠意のこもった眼差しだった。彼女をいたわるそれだった。
 梓の顔が、泣く寸前のそれへと変わっていく。
「梓……」
 できる、梓のかすれる声が聞こえた気がした。
「明日のこの時間――表で、樫の木の下で、待ってる」
 梓は確かに頷いた。

<更新日 2000.06.14>


 

 翌晩。
 月が出ていた。満月に近い、やや欠けた月。
 ほのかな月光が、窓の外を淡く照らしている。
 伯はなぜか落ち着かず、書類を繰る手を止めた。
「……」
 屋敷は静かなものだ。
「梓」
 とうとう、伯は娘を呼んだ。本当は、落ち着かない理由は簡単なのだ。彼女の様子がおかしくて――
「梓!」
 それは虫の知らせだったかもしれない。
 不思議と、いつもならすぐのはずの返事がなかった。


 

 梓が伯の声を聞いたのは、玄関ホールの階段上でのことだった。
 いけない――
 伯の声に、いそいそと台所の方から侍女がやってきた。
 このままでは鉢合わせる。
 梓はとっさに辺りを見回した。どこかに隠れなければ。こんな格好、見られたら言いわけのしようがない。
 梓はとりあえず、適当な部屋へと転がり込んだ。
 扉にもたれてしばらく待つと、侍女は通り過ぎて行った。それはいいけれど、こんなに早く、不在に気付かれることになろうとは。
 いっそ外套を脱いで何食わぬ顔で出て行って、義父の話を聞こうか?
 けれど、自信がない。
 話は長引くかもしれない。
 ぼろを出してしまうかもしれない。
 嘘をつくのは苦手だ。しらをきるのも苦手だ。いつ気付かれるかと、身が震えてしまうから。それ以前に、後ろめたい思いを抱えたまま、相手の目を見ては話せない。そのためか、彼女に嘘をつき通せた試しはなかった。
 行こう――
 梓は一度目を閉じ、深く息を吸った。扉を開け、可能な限り気配を殺して、階段を駆け下りる。
「お嬢様!?」
 玄関の扉に手をかけたところで、侍女の悲鳴に近い声が背中を打った。
 頭の中が真っ白になる。
 どうしよう!?
 その後は、夢中だった。勢い良く扉を開け放ち、外へと飛び出す。
 真冬の夜の、冷たい外気が身を刺した。
 彼女は夢中で駆けた。
 約束の場所へ。
 彼のもとへ。

「龍影っ」
「梓!?」
 彼女は彼の姿を確認すると、倒れ込むように飛びついた。
「どうしよう、見つかっちゃった、見つかっちゃったよお!」
 梓がここまで取り乱すのを、龍影は初めて見た。
「大丈夫だ、落ち着いて」
 きつく肩をつかんで揺すると、少しは落ち着いたようだった。
「静かにして、闇に紛れれば逃げられる」
 梓が不安そうに頷く。彼はサっと彼女の手を取ると、庭木に紛れて進み出した。その後を、事態がわかっているのかいないのか、茶々が追いかける。
「ごめんね、私……」
 しばらく行くと、梓が小声で謝った。いきなりの失敗に、相当こたえた様子だ。
「いいよ。出てきただけでも上出来。梓にしてはね」
「……」
 ほっとしたような、少しひっかかるような。
 と、赤いたいまつの炎が二人を照らした。
「こっちだ!」
 家人が呼ばわった。

<更新日 2000.06.23>


 

 すぐに二人は取り囲まれた。当然だ。一度見つかってしまえば、梓の足では逃げられない。
「梓……」
 伯が苦々しげに呼びかけた。
 顔を上げられないでいる梓を、龍影が静かに背に庇う。
「梓を返せ! 役人に突き出されたいか!」
 伯の強い口調にも、龍影はまるで動揺した様子は見せなかった。
「何の権利があって、梓を縛るんです」
 伯はその質問には答えず、険しい表情で繰り返した。
「梓を返せ」
「いやです! 梓は人間だ、あなたの道具じゃない!」
 その言葉に、伯の表情はみるみる怒りに引きつっていった。
「貴様、白羽の三男か」
「ええ」
 怒りを押し殺したような伯の声。かえって威圧的だ。
「梓」
 彼女の身の震えを、龍影はつないだ手の中に感じた。わかっている。彼が、彼女を板挟みにした。彼女は両親の死の真相を知ってなお、伯を裏切るのがつらいのだ。
「黙っていたが、こうなったら仕方ない。聞きなさい、その者は親兄弟に刃物を向けた――非道極まりない者だ。おまえも騙されているだけだ」
「違います!」
 龍影ではない。梓だった。
「この人は何もしていません。何もできなかったんです、惨事が突然すぎて」
「梓……?」
 何より彼女が事件を知っていた、その事実に、伯は驚いた。
「無実なんです! お願い、義父様、彼と行かせて下さい」
 伯はしばし言葉に詰まり、それからかぶりをふった。
「だめだ」
「なぜです」
 龍影が言った。
「梓のためだというなら、相手に水晶師を選びはしないでしょう? それとも、彼女を楽な生活さえ与えれば満足する人間と、見下されているのか!」
「黙れ!」
 伯の身の震えは、もはや夜目にも明らかだった。怒りゆえの身震いだ。
「貴様、梓に何を吹き込んだ!? 水晶師は良い方だ。おまえなどよりよほど、梓を幸せにできる方だ。今のおまえに何がある!」
「何が必要だというんです! わざわざ幸せにしてもらわずとも、彼女には、自分でそれを掴むだけの強さがある。自分に必要なものが何なのか、判断できるだけの聡明さがある。わからないのですか」
 伯の震える手が、何かを構えた。
「義父様!?」
 弓だった。
「話し合いは終わりだ。梓はわしが幸せにする。梓を渡せ」
「……」
 いけない。
 龍影の方はなお冷静さを残して話していたが、伯はそうではなかったらしい。何かの言葉が伯を直撃したのだ。興奮状態にある伯は、本当に弓を引きかねない。梓すら危険だというのに――
 龍影は静かに、伯を刺激しないよう気をつけながら、梓から離れた。
「梓、こちらへ来なさい」
 彼女はぼう然と養父を見ていた。弓を引き絞る、考えられない、恐ろしい姿を。
 それまでどこかで――どこかで、まだ、彼女は義父を信じていた。
 龍影の言う通り、たとえ両親を殺したのが義父だとしても。それは本当に事故で、良心から彼女を引き取ってくれたのだと。
 そう信じて――
「……です」
 そうとしか思えなかった。普段の義父は、本当に尊敬すべき人だったから。
「いやです! 戻れません! もう、これ以上私から取り上げないで!」
「梓!?」
 伯は驚いて梓を見、それから龍影を見た。その表情に、そこに見える静かな怒りに、伯は悟った。納得した。梓が裏切ったわけを。
 当然だ。
 親の仇の命に、誰が素直に従えよう――
「おのれ――」
 伯はぎっと龍影を睨みつけ、狙いを定めた。
「義父様!?」
 梓が悲鳴を上げる。
「昨年、白羽が帝に上納した矢だ。家を潰したおまえの最期には、ふさわしかろう」
「や……」
 梓が夢中で龍影の前に飛び出したのと、伯が矢を放ったのとは。同時だった。
「梓!!」
 夜気を切り裂くような悲鳴が響き渡った。
 矢が突き立った梓の肩口から、何かが飛び散ったように見えた。
「梓!!」
 龍影が夢中で梓を抱き起こす。彼女は、いまだショック状態にあるようだった。
 茶々がちょこちょこと寄ってきて、心配げににゃあー、と鳴いた。
 また助け損ねた事実が、龍影を打ちのめす。
 目の前だ。兄も、梓も目の前で――
 しばらく凍ったように動きを止めていた伯が、思い出したように叫んだ。
「娘に触るな! この家から出て行け!」
 出て行け?
 先に梓じゃないのか!?
「――あんたは鬼だ! この人殺し!」
 龍影の叫びに、伯の顔がはっきりと強張った。二本目の矢を弓につがえる。
「やめて!」
 梓が叫んだ。
「梓!」
「殺さないで! 義父様! 嫁ぎます。水晶師に嫁ぎます。だから――!!」
 右手を地に突き、左手で顔を覆うようにしながら、梓が懇願した。
 あふれる涙がその頬を濡らしていく。
「だめだ! そんなのだめだ! 渡さない!!」
 龍影の言葉に、梓は必死にかぶりをふった。
「お願い、もう行って――早く! 殺されちゃうよっ」
「だめだっ」
「出て行け!」
 弓が引き絞られる。
「やめて、義父様!! 言う通りにします、言う通りにします! だから!!」
「梓!」
 彼女は泣き濡れた顔で彼を見た。わずかに唇を震わせ、悲しげに――
「……さよなら……」
「あずっ……」
 梓はくるりと龍影に背を向け、よろよろと立ち上がった。
「梓!」
 彼女はふり向かない。
 梓はふらつく足取りで、伯の方へと進んで行った。
 茶々が付き従う。
 大粒の涙が後から後から、あふれては梓の頬を濡らしていった。
「梓!」
 伯はぐっと梓の傷ついていない方の肩をつかむと、龍影に言った。
「出て行け」
 龍影は悔しさと憤りに、どうにかなってしまいそうだった。
 けれど、梓の肩の赤さが胸を打つ。
 彼が出て行かなければ、傷の手当てもままならないのだ。
「……」
 彼は無言のまま、屋敷を後にした。

<更新日 2000.06.30>


「梓」
 屋敷に戻る途中。
 重い足を引きずるように、それでも歩き続けていた梓に、伯が言った。
「この縁談、確かに帝からの御紹介だ。だが、正式に申し入れたのは天邏の方からだ。間違っても、水晶師に恨み言を言ったりするな」
 梓は力なく頷いた。
「それから……」
 しばらく間があった。言うべきかどうか、少し迷ったためだ。
「おまえが何を聞いたか知らないが、この際はっきり言っておく。水晶師は確かに優しい方だ。ただ、人を避けておられるのも事実だ。理由は会えばわかるだろうが……」
 梓は黙ったままだ。怒っている様子も、悲しんでいる様子もなかった。
 ただ疲れきった、まるで死人のような顔をして歩いている。
「梓、よく覚えておけ。どんな形であれ、おまえは水晶師に嫁ぐと言った。繰り返して言うが、水晶師に不快な思いはさせるな。嫁ぐと言った以上、責任持って水晶師を愛してもらう」
 梓は答えなかった。
 伯の言い分はわかる。その通りだとも思う。けれど。
 心の自由を奪われると、これほどまでつらいものなのか――
 止まっていたはずの涙が、また一筋、頬を伝っていった。
「わかったな」
 厳しく言い渡したものの、彼女の様子に、さすがに伯の胸も締め付けられた。
 屋敷に戻って。
 梓を静養させた部屋を去る際――全治二ヶ月とのことだった――伯は静かに言った。
「おまえがそれほど言うなら、無実の可能性がある限り、天邏は白羽に協力しよう」
 死んだようだった梓の目が、ふいにすがるように義父を見た。
「できるだけのことはしてやる。保証はできんがな」
 憎らしさは変わらない。
 不安定な白羽に、梓を任せるわけにもいかない。
 それでも彼の目は。梓の言う通り、彼の目は確かに潔白だった。
 ――腐ったものだな――
 いつからここはこれほど、彼らのような誠実な者たちにとって、生きにくい場所になったのか……。

<更新日 2000.07.07>

*  に続く

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