(きつね)



 

「やっと3尾になったな、燐火」
 ゆらゆらと、青白い炎が揺れていた。
「おまえもそろそろ、山を下るが良い。麓に小さな村がある。小さくて、平和で、なぶりがいのある良い村がな」
「……はい、父上」


 

 チ、チチチチ……
 小鳥たちが盛んに鳴いていた。雪解け水の流れる音が、春の到来を告げている。
水を汲みに来た少女は桶を置き、素足で冷たい岩の上に登った。腰かけ、懐から横笛を取り出す。彼女はせせらぎの音を聞きながら、それに合わせるように横笛を吹き始めた。

「娘」
「はい?」
 ふいに声をかけられ、少女がふり向く。そこには、見知らぬ美しい若者が立っていた。
「何をしている?」
「は、あの……あまり気持ちが良いので、笛を吹いておりました」
 どこの若様だろう? 若者が身に纏うアサギの衣は、見たこともないほど上等なものだった。
 高貴な若者は、上品な声音で尋ねる。
「麓の村の者か?」
「はい」
 若者は興味深そうに少女に近寄り、何気ない仕種で少女の長い黒髪に触れた。絹のような肌触りを残して、それは指の間を流れて行く。
 多分、人間の中では、割と美しい部類に入る娘なのだろう。
「名は?」
 少女は驚いて身を硬くしていたが、失礼があってはいけないとでも思っているのだろう。あわてて答えた。
「梢と申します」
「梢……良い名だな。私は燐火だ」
「燐火……? あの、お名前ですか?」
「ああ。珍しいか?」
「いえ、あの……」
 燐火は優雅に梢の隣に腰かけ、彼女を見た。みるみる梢の頬に赤みが差す。
「どうした?」
 自分でも不思議なくらい、鼓動が速まって体の自由がきかない。梢は途惑いながら、とにかく何か言わなければと思った。
「えと……あの、燐火って言うと、きつね火ですよね?」
「そう――闇の中にゆらゆらと揺れて、美しいだろう?父が戯れにおつけになった」
 燐火は少女の手元を見やる。
「もう吹かぬのか?」
 少女は手の中の横笛を見、それからもう一度燐火を見た。彼は罪深い微笑みを見せ、
「聞かせてくれ」
 と言った。
 梢は言われるまま、笛を口許に持っていって吹き始めた。始めは震えていた指も、やがていつものように動き出す。美しく切ない調べが、森を流れて行った。
「見事なものだな」
 やがて梢が笛を置くと、燐火はすっと手を出してその笛を取った。
「私にも吹けるかな?初めて触るが」
「笛の音は、人の心を映すのだそうです。初めはたどたどしくとも、やがて美しく調べをなして行くのが――まさに人の心と同じだと、母が」
 ふうん、と、わずかに首を傾げて。燐火は笛を吹き始めた。澄んだ美しい音色が流れ出す。高く、低く。妙なる旋律が風に乗る。
「いかが?」
 梢は目をいっぱいに見開いて燐火を見ていた。
「とても……とても素敵です」
 それから、まじまじと返してもらった笛を見る。
「この笛でも、そんなに綺麗な音が出せるなんて……」
 素直に賞賛されて、燐火は内心面白くもなかった。羨ましがるとか恥ずかしがるとか、そういう反応を期待していたのに。
「きっと、お心が美しくていらっしゃるんですね。私にも、いつか燐火さまのように吹けるかしら……」
「無理だな」
 梢はちょっと悲しそうにうつむき、それから頷いた。
「梢?」
「私……そろそろ戻らないと」
 彼女は桶を取り、水を汲む。
「もう吹かぬのか?」
「あまり道草していると叱られます。あの……」
 明日もいらっしゃるのですか?
 その問いを、梢は飲み込んだ。風に揺れる長い亜麻色の髪や、綺麗な鳶色の瞳を――できることなら、いつまでも眺めていたかったけれど。まるで自分とは釣り合わない方だ。
 夢を見られただけ、運が良かったと思わねば。
「村に戻るのか?」
「はい」
「案内してくれ」
 驚いた顔で見つめる少女に、燐火は優しく微笑みかけた。
 心が美しい、とは笑わせる。これから村を滅ぼそうという自分の心が?
 燐火は無性に、少女の口から呪いの言葉を聞きたいと思った。どうやったら。どこまでやれば、彼女は呪いの言葉を吐くだろう?既に、自分が彼女の憧れと崇拝の全てであることはわかっている。それを裏切ってやれば、それだけでもたいした痛手にはなろうが。
 彼は胸躍らせながら、邪悪な算段を巡らせ始めた。


 

 三日後。村を、初めてあやかしの群が襲った。挨拶のように数人の負傷者を出し、その日は退散して行った。

「梢」
「燐火さま」
 梢が再び燐火に会ったのは、災いの翌日だった。さすがに、梢の顔色は悪い。
「燐火さま、村に何用なのですか?早くお出になられませ」
「なぜ?」
 燐火は平然としらをきった。
「あやかしが……あやかしが出たのです。今まで、こんなことは一度もなかったのに……。危のうございます。お逃げ下さいませ」
 燐火はくすりと笑った。
「大丈夫だよ。梢が無事なのに、私が怪我をするって?」
「でも……」
 梢はしばらくうつむいていたが、やがて顔を上げて言った。
「村長がおっしゃっていました。狐様のお怒りだと」
「狐様?」
 燐火が奇妙な笑みを浮かべているのに、梢は気付かなかった。
「この山は、霊峰なのです。もう何千年も前から狐様が住んでいて……」
 お怒りではなく、お戯れだとは思わないのだろうか?まあ、人間たちにとってはどちらでも一緒だろうが。
「私の心配はいらぬよ。こう見えても腕は立つ。まあ、一月ほどしたら出て行くつもりだけれどね」
「一月……」


 

「梢?」
 三度目に二人が会ったのは。梢が禊を行った帰り道のことだった。
「こんな時間に何を……」
 梢の髪は、濡れて冷たかった。燐火はじっと梢を見つめる。
「まさか、おまえが生贄に?」
 梢は静かに頷いた。
 昨日、再びあやかしが現れて。村に生贄を要求した。出さねば、狐の祟りがあると……。
「なぜだ? 誰の命だ」
「違うのです、燐火さま。誰の命でも……」
「梢?」
 彼女はうつむいたまま、黙っている。
「まさか……志願したのか?」
 彼女はかすかに頷いた。
「なぜ……」
「――もうすぐ、嫁がねばならなくて……。身寄りのない私を、拾って下さった義父様には感謝しています。でも……」
 声を落とす少女を見ながら、ひどく胸がむかついた。
「いっそ、死んでしまおうかとも思っていました」
「だから、志願したのか?」
 少女が頷く。
「相手は? 相手は誰だ、梢」
 ここで梢が生贄になっては、計画が狂うではないか。まず、一人むごたらしく殺して。それから、彼女を指名するつもりだったのに。
 ――まあ、いいか――
 半ば無意識のうちに。彼は計画を変更していた。


 

「ひ、助け……」
 あでやかな笑みを浮かべ、燐火はじりじりと獲物に近付いて行った。
 その日の夜。彼はあやかし数匹を連れて、一軒の館に侵入した。
「汚い」
 手を伸ばす。小太りした中年男の腹を、燐火はためらいもなくその爪で抉った。絶叫が迸る。
「うるさい」
 そのまま、彼は獲物の心臓まで抉った。飛び散った赤い血の感触が鮮烈だ。
「少しは綺麗になるかと思ったが……汚いままだな」
 貴様が、梢の夫になろうだと?
 あの後梢を問い詰めて。全て聞き出した。養父がこの男に多額の借金をしていたこと。彼は必死にそれを返そうとしていたが、力及ばぬままこの春急逝したこと。そして、借金と子供たちだけが残り――そのカタに、嫁がなければならなくなったこと。生贄になれば、村から金をもらって借金を返すことができる。借金さえなくなれば、子供たちだけでも生活して行かれるからと。
 絵に描いたような悲劇ではないか。なのに、彼女は身の不幸を嘆くようなことは一言も言わなかった。それが、何より腹立たしくて。人間を狙って楽しいのは、知恵が回るゆえに恨んだり嘆いたりするからで。それをしないなど、嘘だ。
 半ば身を濡らす血に酔うように。燐火は館中の者を殺して回った。別に、どこを襲っても良かったのだけれど。気が向いたから、ここにした。
 ――偽りだ――
 何とかして、彼女を汚したい。必ず、どこかに曇りがあるはず――それを暴いてやりたい。傷つけたくて仕方ない。
 それは奇妙な執着だった。
 ――明日、教えてやろう――
 彼女はこの殺戮を知らない。今日は社に籠もっているはずだから。
 ――明日――
 燐火は婉然と笑った。


 

 梢は一人、籠に腰かけて待っていた。喰い殺されるのを――
 日が、中天に差しかかろうとしている。緑の森はいまだ、平和なのに。
 視界を、一瞬大きな鳥が遮った。鮮やかな茶色の。
 ――燐火さま――
 いつしか、彼女の頬を涙が伝っていた。
 いっそ、思いを打ち明けてしまえば良かった。もちろん身のほど知らずだ。ご迷惑にしかならないだろう。それでも、この思いを伝えたら。どんなにか胸が晴れたことだろう。
 叶わぬ恋は、むしろ都合が良かった。なまじ思いが通じたら。きっと、自分は運命を――あの人とは結ばれ得ない運命を、嘆かねばならなくなるから。
 あるわけのない彼の姿を、梢は無意識に探していた。
 その目が大きく見開かれる。
 ふいに、木の陰から現れたのは――
「燐火さまっ!?」
「梢」
 一気に血の気が引いた。ぞっと背筋が凍る。
「燐火さま、なぜこのような所に!? 早く、早くお逃げ下さい!もうすぐ狐が――!!」
「梢」
 真っ青な顔で叫ぶ彼女に、燐火はすっと手をのばした。腕を取り、抱き寄せる。
「愛している、梢――。一緒に逃げよう」
 黒い目を。梢は澄んだ黒い目をいっぱいに見開いて、燐火を見た。
「燐火……さま?」
「おまえが愛しい、梢――」
 涙が溢れた。涙が溢れて、止まらなくなった。嗚咽が漏れる。
「梢?」
 なぜだ?
 抱く腕を緩めると、少女はその場に泣き崩れた。
「なぜ泣く……?」
「行けません……行けないのです、燐火さま……」
「梢……?」
 彼女は苦しそうに胸を押さえた。
「私が逃げれば、村に祟りがふりかかります。あなたと行けたらどんなにか……」
 喉を詰まらせる。
「逃げて下さい、燐火さま……私は……」
「私は?」
 彼女は顔を上げ、精一杯の笑顔を見せた。
「誰より、お慕い申し上げております……お幸せに」
 ぐっと、彼はこぶしを握りしめた。なぜだ!?裏切りたいのに!
「梢」
 奇妙な笑みが、燐火の顔に浮かんだ。
「もう、狐は来ているぞ――」
 彼女の目の前で、燐火は変化を遂げた。しなやかな三尾の狐が姿を現す。梢はぼう然と彼を見つめていた。
 燐火は、静かに梢に歩み寄って行った。
 再び、梢の頬を涙が伝う。
 今度こそ。
 燐火は恐怖の叫び声を待った。恐ろしくないわけがない。早く――
 梢はふらふらと立ち上がると、狐の首に手を回した。抱きしめる。
「!?」
 再度、燐火は人の姿を取った。
「梢!?」
「燐火さま、燐火さまっ」
 彼女は泣きじゃくっていたが、それは明らかに恐怖のためではなかった。
「なぜだ……なぜ、おまえは……」
 諦めるしかないと思っていた。見つめることも許されない、身分違いの恋だと――。
 結局、身分違いはそのままかもしれないけれど。
「燐火さま、燐火さまだったのですね? みんな――ただの悪戯なのですね?」
「梢?」
 彼女は泣き濡れた顔で、嬉しそうに微笑んだ。
「大好きです、燐火さま」
 何だ、これは――。
「何が悪戯だ?」
 自分が違うものになっていくような気がした。知らない。こんな感情は、知らない。
「だって、燐火さま、祟りなんてなされないでしょう?あの――」
 ふいに、視線を落とす。
「さっきのこと……。本当ですか?」
「……何が」
「……愛していると……」
 本当のわけがない。自分に全てを委ねた瞬間、裏切ってやろうと思って――
「だとしたらどうなのだ? ついてくるのか? この私に」
「行かせて下さい」
 何なのだ、この娘は!
 無性に腹が立つ。
「おまえが何を勘違いしているのか知らないが――。もう、人も殺めたぞ?昨日山ほど。狐様のお怒り? お戯れだ、全て」
 初めて、梢の顔に影が差した。
「燐火……さま?」
「殺してやった――内臓を抉って、はらわたを引きずり出して。素晴らしかったぞ。血しぶきだけは、どんなやつのでも美しい」
 少女の顔がみるみる青くなるのが、痛快だった。そう、これでいい――
「そんなこと……嘘です……」
「来い」
「あ……」
 彼女の手を取り、燐火は梢を引きずるように歩き出した。村の中へと入って行く。
「梢!?」
 見咎めた村人に、燐火は無造作に答えた。
「狐は私が殺った。そら」
 術で狐の死骸を生み出し、放り投げる。
 燐火は例の館まで歩き、さらにその中へと向かった。梢の手の震えが伝わってくる。
 無人の館は、ひどく不気味で静かだった。
「見ろ」
 奥の部屋で。さすがに死体は始末されていたが、乾いた血に染まった奥の部屋で。
 燐火は無造作に梢を中に突き飛ばした。
「見せてやる」
 短く呪を唱え、昨夜の光景を再現する。
「や……」
 ついに、梢の口から恐怖の叫び声が上がった。
 けれど――何なのだ、この痛みは!?ずっと望んでいたことのはずなのに――!
「どうして……」
「どうした?」
 燐火はほとんどやけになって問い返した。少女の頬を後から後から転げ落ちる涙が、胸を締めつける。
「なぜ、殺すのです? どうして――どうして殺すのです、燐火さま!」
「綺麗だろう? 赤い血が散って――ぞくぞくしないか?」
「嘘です!!」
 梢の手首をつかみ、その震える顎に手をかける。そのまま、彼は少女の唇を奪った。
「これが私だ――おまえを愛しているだと?ああ、愛しているとも――汚して弄んで、ずたずたに切り裂いてやりたいくらいに」
「嘘です――だったらなぜ、あなたは泣いていらっしゃるんですか!?」
「なっ……」
 そこに滴ったものを、涙だと理解するまで。かなりの時間がかかった。
「泣いてなど……」
 何故だ?
「泣いてなどおらぬっ」
 何故なのだ!?
「燐火さまっ」
 彼は夢中で駆け出していた。何が何だかわからない。
 何もかも、偽りだ――!


 

 それからしばらくは、何も起こらなかった。
 洞の中にうずくまったまま、燐火は何もする気になれなかったから。
 ――燐火さま――
 梢の声が聞こえた気がした。
「梢――」
 さやさやと、木々の葉ずれの音だけが聞こえる。

「燐火……さま……」
 梢は悪夢をさまよっていた。狐の毒気に当てられたのだと、村の者は解釈していた。
 春先のこと、昼間は皆、出払う。燐火は音もなく少女の部屋に侵入し、そっとその名を呼んだ。
「梢――」
 少女がうっすらと目を開ける。
「燐火さ……」
「苦しいのか?」
 頷いたのか、首を横にふろうとしたのか。
「燐火さま……なぜ、殺すのですか?」
「戯れだと言った」
「でしたら……でしたらどうかおやめ下さい。お願いです」
「駄目だ。飽き足りぬ。この村を滅ぼすまで……飽き足りぬ」
 梢はひどく哀しそうな目で燐火を見た。
「私たちは、殺されねばならぬほど、罪深い存在なのですか?」
 ――罪深い?――
「……おまえは……まだ、私を信じているのか?」
 なぜ、自分の言葉を聞かない?戯れだと言っておろうに――
「心やましい人に、あのような笛の音は出せません。燐火さま……私の血では、許して頂けませんか」
「何をばかな……」
「お願いです。皆精一杯生きています。お見逃し下さい」
 だから。だから殺すのではないか。断末魔の恨みが、憎しみが糧となる。
「なら、おまえはどうなのだ」
「私は一度死のうとした身――逃げ出そうとした、卑怯な女です」
 梢はふっと目を逸らしたが、やがて、もう一度燐火を見た。これほど美しい人も、澄んだ笛の音も――その存在そのものが夢のような、燐火さま。
「なぜ……かような目で私を見る?」
「……」
 ――触れたい――
 梢が静かに伸ばした手を。燐火は魅せられたように取って、口付けた。
 壊れそうなくらい儚いその手を、いつしか、彼は強く強く握っていた。
「燐火さま――。お願いです。もう、誰も傷つけないで下さい――」
「……だめだ」
 燐火は梢から目を逸らした。

 後で。梢はいつの間にか、自分が床から起き上がれるのを知った。
 ――燐火さま?――
 口付けられた右の手を。梢は宝物のように押し包んだ。


 

 満たされていた――。
 自分が何で己を満たしたのか、燐火は気付いていた。
 憎しみとも悲しみとも恐怖とも。そのどれとも違うもので、自分は己を満たしてしまった。
 かっと頬に血が上る。それは妖狐として――少なくとも凶の一族の一員として、最も恥ずべきことだったから。
 ――燐火――
 はっとして辺りを見回す。闇の中に、青白い炎が燃えていた。きつね火――
 ――何をぐずぐずしておる? さっさと滅ぼさぬか、あのような小さな村――
「父上」
 そうだ。何を、自分は血迷って――
「あの村は私に頂けるのでしょう? 好きにしているだけです」
 炎が揺らいだ。
 ――好きに? 何もしておらぬではないか!――
「……口出しも手出しも無用。いずれ、滅ぼします」
 ――燐火!――
 うるさい。
 いらいらする。
「やりたいようにやらせて頂く!あなたの指図は受けぬ!」
 ぐわっと、大きく揺らいだ炎が燐火に襲いかかった。
「斬気!」
 瞬時に炎は霧散し、後には静寂のみが残った。
 ――言われずとも、滅ぼす――
 彼は力一杯こぶしを握りしめ、村を睨めつけるように見下ろした。
 ――滅ぼす――


 

 数多のあやかしを率い、燐火は山の上から村を見下ろしていた。
 あとは、号令をかけて乗り込めば終わり――
 ふと、村から火の手が上がっているのに気付いた。あやかしが騒ぎ出す。
 ――まさか?――
「散れ!村へは下るな!」
 燐火は滑るように駆け出した。

 ザアァァァ
 村を恐怖と悲しみが支配していた。
 固く閉ざした門戸や雨戸を、ガリガリとあやかしどもが引っ掻く。中には火を放たれた家もあったが、それをするあやかしは少なかった。焼き殺すより、喰い殺す方を好んだから。
 戸を破り、次々と。あやかしどもは家の中に侵入し、人を殺していった。
「愛!」
 あやかしは庇った梢ではなく、その義妹の方を先に殺して彼女をせせら笑った。
「愛!」
 妹を抱きしめたまま。梢はもう、動く気になれなかった。
 キッ
 右腕を、鋭い痛みが襲う。
 あやかしが一匹彼女に飛びつき、かじりついたのだ。
「あぐっ」
 血と肉片が散った。あやかしがギャ、ギャ、と不気味に笑う。けれど。
 もうどうでもよかった。
 ――燐火さま――
 腕の痛みより、悲しかった。あの方がやらせている――
「梢!」
 びくっと、梢は身を震わせた。彼女に飛びかかろうとしたあやかしを、誰かが一刀のもとに斬り伏せる。
「り……」
 彼は中のあやかしを全て斬り殺すと、表に出た。狐に戻り、片端からあやかしどもを散らして回る。
 ――余計な真似を――
 父の仕業に違いなかった。無性に腹が立つ。
 ――余計な真似を!――

 梢の家の前に、村人が数人集まっていた。
「狐の祟り?」
 村人たちの言葉を、燐火は冷たくあざけった。
「狐は祟りなどなさぬ。約束も守らぬ。生贄など出すだけ無駄だ」
「しかし、それではこれは……」
 燐火は口の端だけで笑い、山を指し示した。
「あやかしの氾濫よ。山にはあやかしがあふれている。誰にも止められはせぬ」
「まさか……何を根拠に!?そもそも主はいったい……」
 燐火はすっと目を細めた。
「私は都から遣わされた呪師。守れる限りは守ってやるが」
 おお、と村人がどよめいた。
「保証はできかねるな」

「動くな、梢。今癒してやる」
「燐火さま……」
 落ち着くと、燐火は梢のもとへと戻った。その噛み裂かれた腕を取る。
 静かに、時だけが流れていった。やがて。
「燐火さま、どうか……もうおやめ下さい」
 梢の傷口をくわえたまま、彼はしばらく黙っていた。
「だめだと言った」
「……では、共に逝かせて下さい。見たくないのです。これ以上――」
 梢の、村の悲しみ、苦しみで己が満たされているのを知っていた。本来、自分はこうあるべき存在なのだ。なのに、なぜそれが苦しい?
 いきなり梢を押し倒し、燐火はじっとその喉元に見入った。喰い裂きたい衝動に駆られる。
「……っ」
 その首筋に、彼は食らいつく代わりに口付けた。
 もう、手遅れ――。
 今さら彼女を殺しても。もう手遅れなのだ。
「りん……?」
 唇を重ねる。
 燐火は何も言わなかった。
 先が暗いことは知っていたけれど。
 梢もそれ以上は何も言わず、彼に身を任せていた。


 

 逃げたい――
 洞の中で、燐火はじっと外を見つめていた。
 梢を連れて、父の目の届かぬところへ逃げてしまいたい。
 ぎりっと、燐火は歯噛みした。妖狐としての誇りが、彼の基本となっている誇りが、身を縛る。
 ふいに、青い燐光に取り巻かれた。
 戦慄に襲われる。
 次の瞬間、彼の姿はそこになかった。


 どろどろと、血に澱んだ空気が充満していた。慣れているはずの血にぬかった地面が、不快だった。
「燐火」
 再び、戦慄を覚えた。彼は一度目を閉じ、気を落ち着けてから、顔を上げる。
 黄金の瞳に射抜かれ、彼はそこを動けなくなった。
 波打つ銀の毛並みの、彼より一回りは大きい五尾の妖狐がそこにいた。
「釈明の余地はいるのか?燐火」
「……いえ」
 妖狐の怒気に空間が震えた。わっと、あやかしが燐火に襲いかかる。
 自身が忌み嫌う、ただの狐とさして変わらぬ亜麻色の毛並みが血に染まる。動けぬまま、彼はあやかしに喰い荒らされた。
「燐火」
 呪縛を解かれた瞬間、燐火はその場に崩れた。
「さあ、村を滅ぼして参れ。さもなくばその傷――命に関わるぞ」
 五尾妖狐は燐火に近付き、楽しそうに囁いた。
「まず、人に化けて介抱しようとする愚か者を殺すがよい。女子供でもよいな。うまく殺せば、傷も癒えよう?あとは、皆殺しにするだけだ。簡単だな」
 言い終えると、五尾妖狐は燐火を村の外れに飛ばした。


 

 他者の憎しみを食らいて力となす。確かに、それ以外に生き延びるすべはありえなかった。凶の一族の一員として――
 朱に染まった身を、引きずるように歩く。空も、彼の身と同じ色に染まっていた。夕暮れ時。
「大丈夫?」
 気付くと、5、6歳の子供が心配そうに彼を見ていた。
「お母さん呼んでくるから、待ってて」
 去りかけた子供の手を、彼はとっさにつかんだ。
 ――喰い殺せ――
「痛いの?」
 子供が覗き込む。これだけ強くつかまれれば、自分こそ痛いだろうに。
 ――死にたくないだろう!?――
 殺せば殺しただけ、憎まれれば憎まれただけ、それが力となる。妖狐とはそうしたものだ。
 彼の手の震えに、子供は恐怖した。この人は死にかけている。そう思った。
 ――殺せ! 今まで、ためらいもなくやってきたことだろう!?――
「こ……」
「なあに!?お母さん呼んでくるの。放して。死んじゃうよ!」
「……こず……えを……」

「燐火さまっ」
 彼女の家に運び込まれた時、彼はすでに虫の息だった。
「こず……え……」
 震える手を彼女に伸ばす。
「どうして……何があったのです!? どうすれば……どうすれば良いのです!? いや……死なないで……!」
「何も……しなくていい……おまえがいれば……」
「燐火さま!!」
 梢が与えるものを、燐火は拒まなかった。
「医師様を……医師様を呼んで来ます」
「大丈夫だ。そこにおいで」
「でも……!」
 彼女の手当てなど高が知れている。このままでは――
 けれど、梢に燐火の手をふり払うことはできなかった。それをしたら、本当に死んでしまいそうで。
「大丈夫」
 もう一度だけ言って。燐火は目を閉じた。


 十一

 ひどく、胸が苦しかった。凶族の妖狐であることの誇り。それだけが、手放せない。
 笑い者になることも、父を敵に回すことすらもできるのに。
 ただ、誇りだけが手放せない。
 彼は梢を受け入れてしまった。
 彼の全てだった誇りと、梢は両立しえない――


 髪を指で梳かれて、梢は目を覚ました。
「燐火……さま?」
 自分が疲れて眠ってしまったことに気付いて、少し恥ずかしかった。けれど、命は取り留めたらしい燐火の姿が、ずっと嬉しい。
「りん……」
 もう、すっかり力を取り戻した腕が抱き寄せる。
「大丈夫と言ったろう?泣くな」
 暖かい。
 梢は微かに頷いた。


 十二

 山に戻ろうと、村外れに差しかかった時。燐火はふいに、数人の人間に取り囲まれた。
「身ぐるみ剥いじまえ!」
 ――盗人か――
 変化を解き、妖狐の姿に戻る。途端に悲鳴を上げて逃げ散ろうとする盗賊たちの喉笛を、燐火は容赦なく食い千切って回った。
 誰も動かなくなって。
 燐火は茫然と佇んだ。
 ――何も感じない――
 以前のような高揚感が、まるで得られなかった。皮肉な笑みがこぼれる。
 血に愉悦も覚えられない身で、凶族の誇りだと!?
 恨みつらみや恐怖、そんなものを糧とする凶族。
 逆に愛や喜びを糧とする賀族。
 どちらも根は一つなのだ。
 いまだ彼は賀族を蔑み、忌み嫌ってはいるけれど。
 ――やっていることは、既に同じではないか!?
 腹が立って腹が立って、燐火は手近に転がっていた小刀を拾い、自分の腕を突いた。


 十三

 梢を殺してしまおうか?
 それから数日、彼はそれだけをひたすら考え続けていた。
 結論は出ているのだ。殺してしまえばいいと。けれど、踏み切れない。
 いっそ、自害してしまえば?
 ちらりと脳裏をよぎった考えに、彼は自嘲した。そんな恥さらしな真似をするくらいなら、梢と逃げる方がずっと良い。
 けれど、悩み続けている己こそが――何より汚らわしく、憎かった。このまま堕ちるくらいなら、いっそ――
 ふいに、狐火がそこここに揺れた。
「……」
 父が呼んでいる。行かねば――


「燐火」
 5尾狐の奇妙な視線に、燐火は何か不吉さを覚えた。
「しばらく山を空ける。なかなか興味深いことがあってな。その間、山はおまえに預ける。よいな?」
「父上?」
「任せてよいな?」
 断る理由はない。
「――はい」
 5尾狐は奇妙に笑うと、その身を鳥に変じて飛び去った。あまりにも突然。
 おかしい。
 今度こそ、殺されるかとさえ思っていたのに。
 あやかしたちがざわめく。

 5尾狐に親しい邪仙からの誘いと、燐火についての興味深い報告があったのは同時だった。何でも、燐火は女に迷っているとか。ならば、あやかしたちに娘の抹殺を命じて、放り置けばそれで良い。帰って来る頃には、もとの燐火に戻っていよう。
 全ては一時の気の迷いだ。
 5尾狐は悠々と飛び去った。


 十四

 梢を殺そうと、燐火は村へ下った。彼女は機織をしていた。
 じっと、窓から眺める。彼女は気付いていないようだった。
 きりが悪い。最後だし、織り終わるのを待つくらいは――
 梢の手の動きを、燐火は静かに追っていた。
 これで終わり――
 彼女はいなくなり、全ては元に戻る。
 ふいに、燐火は眉をひそめた。耐えがたいほど苦しくなって、胸を押さえる。
 ――今だけだ――
「……?」
 梢の背後で、何かが動いた気がした。目をこらす。あやかし――?
 それは突然、彼女に襲いかかった。
「梢っ!」
 驚いた顔でふり向く梢の喉元目がけて、あやかしの牙が突き出される。
「り……」
 ざっ!
 あっという間の出来事だった。
 夢中で、燐火はあやかしを真っ二つに割っていた。直後、時が止まったかのような錯覚を覚える。
「り……ん……?」
「梢……」
 震える手が、梢に向かって伸びた。
 肩先に触れると、一気に力を込め、抱き寄せる。
「梢!」
 これほど何かを恐れたのは初めてだった。あの一瞬――心臓が凍るかとさえ思った。
 ――失えない――
 おそらくは父の差し金だ。どうやって知ったのかは知らないが、あやかしたちには勝手に村に下るなと言ってある。それを破ったばかりか、あやかしは梢を狙った。
 ――おまえを失いたくない、私は――


 十五

 梢のそばには、分身だけを置いて。燐火は山へと戻って来ていた。
 いったい、どうすれば……。
 彼は完全に進退窮まっていた。いよいよ、迷いは妖力にさえ影響をきたし始めている。
 このままでは、どちらも失ってしまう――。
 苛々する。
 何も考えられなくなって、燐火は目につくものを片端から破壊していった。手段も選ばない。破片や衝撃で、亜麻色の毛並みが数ヵ所破れて赤くなった。
 けれどいくら自身を傷つけても、この苛立ちを消し去るほどの痛みは得られない。
 なぜ、こんな時に父はいないのだ?いれば間違いなく、殺してくれるだろうに……。
 その思考が、再び燐火を吐き気がするほどの自己嫌悪に陥れた。
 胸がむかつく。気が狂いそうなほど、苛立つ。
 かように悩み苦しむなど、恥さらしにも程がある。誇りなど、とうに失っているのではなかろうか。
 ……悩み苦しむ?
「……」
 自分が嫌悪しているのは何だ?
 何をもって、自分は誇りだと――
 洞に、一条の光が差し込んだ。紫みを帯びた朝日が。
 ――夜明けか――
 じっと、燐火はそれを見つめていた。ふいに、笑みがこぼれる。
 何を愚かな――
 彼の顔には、いつしか本来の自信が戻っていた。凛とした空気を纏い、立ち上がる。もとより、何も失う必要などなかった。
 自分は凶族である以前に妖狐だ。誇りは、何ものにも縛られず、自由であること。
 すなわち己がなしたいようになすことだ。
 同じ誇りのもと、妖狐は二派に別れた。凶族も賀族も知ったことではない。そんな下らない名前に、一族に縛られるなど愚かなことだ。
 燐火は晴れやかな気持ちで洞を出、山を下った。
 梢に会う。全てはそれからだ。欲しいと思ったなら、力ずくでも手に入れよう。そしてそうでなければ、なぶるなり殺すなりすればいい。

 人心地つくと、むしろ悩んでいた自分が不思議だった。


 十六

「村を?」
 驚いて梢が問い返す。燐火は優雅に笑っていた。
「ついてくると言ったろう?」
「でも……」
 いきなり村を出ると言われて、梢はとっさには頷けなかった。
 心にかかるのは弟妹のことだ。あんなふうに愛を失って、その上、彼女までいなくなったら……。
 燐火はふいに梢を引き寄せ、顔を上げさせた。
「言わせたいか?」
「え……」
 微笑する。
「顔が赤いぞ、梢。私が恋しかろう?」
 やや熱を持った頬に口付けると、それは薔薇色に染まった。燐火は支配者の笑みを見せ、梢を抱きしめる。
「言わせたいなら言ってやる、もう一度――」
 あの時とは、また別の意味を込めて。
「おまえが愛しい――。一緒に逃げよう?」
 ほら、もう動けない。
 思い通り、梢が自分の手に落ちるのが痛快だった。まだまだ足りない。こんなものでは許さない。もっともっと、海より深く自分を愛するまで許さない。
「村を滅ぼすなと、私に願ったのはおまえだろう?このままここにいれば、私は父に殺される」
 途端に、梢は顔色を失って燐火の服をつかんだ。
「燐火さま……?」
 あの時の怪我も?父親に??
「いや……いやですっ」
 過去の恐怖が蘇り、梢は夢中で燐火にしがみついた。
 怖い。
 この人を失うなど、もう考えることもできないのに――。
「明晩、迎えに来る」


 十七

 翌日。燐火はまだ日の高いうちから梢のもとへと向かっていた。彼女があわてるさまが目に浮かぶ。夜に迎えに行くと言っただけで、昼に遊びに行かないとは言っていない。
 なるほど、賀族のやりようも頷けた。殺戮以外に、これほど胸躍ることがあるとは。いずれ梢にも飽くだろうが、それ以前に殺戮に飽いてしまっている。もはや、彼は凶族の妖狐として不完全だった。それは構わないし、賀族に寝返る気もないけれど。
 村の入り口まで来た時、ふと。何か好ましくない気配を感じて、燐火はとっさに物陰に隠れた。
 ――何だ?――
 意識を集中する。気配は、畑を挟んだ向こう側から感じられた。見慣れぬ出で立ちの一群。
 ――天仙!?――          *天仙――正義の仙人。(良い子にしていないと退治される)
 瞬間、うちの一人と目が合った。すらりとした長身で、何か金属的な鎧を着込んでいる。その時点で、既に不快だったが……。
 燐火はすっと身をひるがえし、急ぎ梢の家へと向かった。入るなり、その場で気配を探りにかかる。追っては来たらしかった。しかし、間もなく諦めたものか気配は消えた。
 間違いなく、天仙の気配だった。
「燐火さま?」
 ふいに、耳慣れた声が現実に引き戻した。
「梢」
「あの、え、と……私、今夜かと思って……」
「……いい。延期する」
 けげんそうな目が向けられた。少し、残念そうな。
「梢」
「はい」
 しばらく彼女の顔を見つめて。燐火はふいっと背を向けた。
「帰る」


 天仙――。
 相手の気配に気付いたのは、こちらだけではありえない。
 改めて確認する。やはり、自分は凶族なのだと。天仙の気配は不快だった。善行を積んで長寿と力を得る、賀族と似たような者共。
「殺らねばなるまいな……」
 呟き、燐火はあやかしを集めた。


 十八

「梢」
 翌日。迎える梢の顔色は悪かった。
「昨日のことか?」
 梢が小さく頷く。昨夜、彼はあやかしに村を襲わせた。正確には、天仙を。あえなく全滅させられたのはあやかしの方だったけれど。
「村に、怪しげな集団がいるだろう?敵だ」
「え……それでは、村には……」
 頷き、梢の髪を一筋つかむ。
「おまえが望むまで、手出しはせぬ。嬉しいか?」
 梢は心からほっとした顔で頷いた。
「嬉しゅうございます、燐火さま」
「燐でいい」
 え、と。梢が聞き返す。
「燐」
 燐火はもう一度言った。梢は驚いた顔でしばらく彼を見つめて。
「り……」
 いいのだろうか? 本当に?? 自分と燐火さまでは、到底つり合わないのに――。
 どうしても、怖くて顔色を窺いながら。
「……燐……」
「何?」
 少し首を傾げて。燐火は上品に問い返した。
 たまらない。どうしようもなくて、梢は口許を覆った。
「どうした?」
 梢の瞳から、涙がぽろぽろと転がり落ちる。嬉しくて――
「大好きです……大好きです、……燐……」
 まだ、かなり燐と呼ぶのはこわかった。今度こそ、嫌がられそうで。
「泣くほど嬉しい? おかしいね、おまえは……」
 梢がつい頷くと、燐火は呆れ顔でくすくすと笑った。
「もう一度呼んで」
「……燐」
 こわいような、たまらなく幸せなような。満ち足りた笑みがこぼれる。
 燐火は優しく微笑み、梢の額に口付けた。
「そう、そんなに私のことが好きなら……おまえの半分だけ、私もおまえを好きになってやろうか?」
「そんな、あの、半分……も?」
 も?
 再び、燐火は微笑った。
「そう」
 呆れたから、愛しいから。抱きしめる。
「……燐……」
 梢の呟きが聞こえた。


 十九

「燐?」
 ふいに、彼の気が逸れた気がして。呼んだけれど、燐火は虚空を見つめたまま動かない。
「燐火さま?」
「……梢」
 嗅ぎつけられた――
 すぐ近くに、天仙の気配を感じる。
「ついておいで」
「……はい」
 水面に、ただ一滴墨をこぼしたように。不安が胸に広がった。


 燐火は黙って、梢の手を引いて村を出た。山を登って行く。
 不安は次第に増していたが、梢には何も聞けなかった。その瞬間、予感が形を取ってしまいそうで……。
 どれほど登った頃だろう。ふいに、燐火が立ち止まった。
「……燐……?」
「離れるな」
 囁き、ふり返る。
「出て来たらどうだ?」
 ぱらぱらと、数人の人影が現れた。
「あ……」
 これが、彼が敵と言っていた?
「燐火さ……」
 そこにいたのは、既に燐火ではなく3尾の狐だった。
 コーン……
 一声。
 ざざっ
 周囲をあやかしの群が埋め尽くす。それが戦闘開始の合図だった。
 燐火が地を蹴ろうとした、その瞬間。
「足を禁ずれば、すなわち歩くことあたわず!」
 くすんだ紫色の衣に身を包んだ老仙が、朗々たる声で叫んだ。
「!」
 抵抗できない!?
 燐火は老仙の仙術に捕まり、そこを動けなくなった。
 ぞっと背筋が凍る。夢中で化身して、燐火は考える前に叫んでいた。
「何ということを! 何ということをしてくれた!!」
 何のために、梢をここまで連れて来たと思っている!? 下手に一人にすれば、あやかしに殺されかねない。これから戦おうという時に、分身など作っておけない。それ故だ。
 動けなければ、梢を守れない。守れなければ……。
 初めから難しい戦いではあったのだ。あやかしを利用しつつ、一方でそれらから梢を守らなければならない。とはいえ少なくとも天仙が、梢に手を出すことはなかろうと――そんな、甘い考えを抱いた罰なのか?
 ――梢!――
 あやかしたちが動き出す、刹那。
「金行をもって針の雨となす、滅びよ!」
 針が降った。
 それがいまだ静まらぬうちに、美麗な歌声が雹を呼ぶ。
 雹が降った。
 いきなり、静かになった。
 針も雹も、梢と燐火は傷つけなかったけれど――
 燐火は愕然と立ち尽くしていた。これほど差がある? あまりにも、歴然とした実力差――。
 しかも、目の当たりにするまで彼にはそれがわからなかった。
「燐火さま……」
 梢が不安そうに寄り添ってくる。燐火は一度、目を閉じた。静かに梢の手を取り、心の内で囁きかける。
 ――大丈夫。おまえが殺されることはない――
 相手は天仙だ。ただの人間である梢を、余程のことがない限りは殺しはすまい。
「なぜ、いたずらに村人を苦しめる?」
 天仙が問うた。
「……理由がいるのか?」
 何か言いかけた梢を、燐火は制した。
「苦しめたいから苦しめる。傷つけたいから傷つける。それだけだ」
 天仙たちは顔を見合わせ、首をふった。
「仕方あるまいな」
 紫の老仙が一歩前に出、短く呪を唱える。燐火は体の自由を取り戻した。
「明日の正午、ここで待つ。一騎討ちだ」
 そう言ったのは、長身の偉丈夫だった。
 ――互いに相いれぬ主張を持つ以上、和解はできまい?――
 黒曜の瞳が雄弁だ。
「……」
 燐火は黙って、梢を連れて歩み去った。


 二十

 洞の外の大岩に、燐火はじっと腰かけていた。夜風が冷たい。
「燐火さま……」
「梢――」
 すっと、燐火は右手を差し出した。
「笛を貸して」
 静かな調べが夜風に乗った。初めて会った時と同じ、妙なる澄んだ音色がしじまを渡る。
 同じ――?
 梢はしばし目を瞑り、調べに聞き入った。
 違う。あの時より、ずっと哀しくて切なくて――優しい。
 ――笛の音は、人の心を映すのよ――
 それは真実だったのだ。初めて会ったあの頃、それでも彼の心は澄んでいた。冷たく、鋭く冴えて――。
 こんなに綺麗なのに。
 こんなに切ないのに。
 なぜ、あの人たちは彼を邪悪だと言うのだろう?
「梢」
 ふいに、笛の音が途切れた。
 燐火が大岩を下り、梢のもとへと歩み寄ってくる。
「燐火さま?」
 コッ
 何か、地に落ちた。
 笛――?
 次の瞬間、梢は燐火に抱き締められていた。
「死にたくない――」
 燐火の苦しげな声が、すぐ耳元で聞こえた。
「おまえの――おまえのそばにいたい……」
 なぜ――
 燐火の頬を雫が伝い落ちた。
 いったい、どんな罪の罰なのだ? 愚かさの? それとも冷酷さの?
 一騎討ちとは笑わせた。誤解もいいところだ。自分とあの者とで、勝負になどなるものか。結果は見えている。
 けれど、天仙たちの要求は呑めなかった。自己を否定することはできない。
 善の束縛に、甘んじることはできない。
 いったいいつ、歯車が狂った?
 ただ、梢を。このままでそばに置いておきたかっただけなのに――。



二一

 日が昇っていた。
「……眠らなかったな」
 燐火の滑らかな毛皮にもたれて、梢はじっとその亜麻色の波を見つめていた。一晩中。
 燐火は燐火で、ただ梢を眺めていたから同じだ。
「一緒に逃げよう?」
 三度。
 今までで一番、分の悪い申し出だった。今度ばかりは、逃げようと思って逃げられるものとも思われない。
 けれど、梢は頷いた。初めて何も言わずに。
 燐火は静かに梢を抱き上げ、
「呼んで」
 とだけ囁いた。
「……燐」
 そのまま、しばらく目を閉じて。それから彼は立ち上がった。微笑む。
「行こうか」
 外に出ると、燐火はまず邪魔なものを破壊した。昨日天仙たちに付けられた、麗麗虫を。
 これで、こちらの正確な位置はわかるまいが――燐火に天仙の気配が読めるのと同様、天仙にも燐火の妖気が追える。逃げ切れるだろうか……。
 燐火に手を引かれながら、梢はずっと、心で問い続けていた。
 ――どうしたら……どうしたらあなたを守れるのですか? 燐火さま――


 二二

「逃げるのか?」
 いくらも行かないうちに。
 結局、山を下りることさえかなわなかった。辺りでは、みずみずしく鮮やかな緑が、陽光を照り返して輝いている。
 もう、この山も見納め――
 人の姿のまま、燐火は静かに抜刀した。
「燐火さまっ」
 ――仕方ないのだ、梢――
 燐火の方からしかけた。敵の急所に狙いを定め、風を切って突き入れる。
 キン
 届かなかった。はね上げられた刀を、かろうじて手放すのだけはさける。けれど体勢を立て直す前にふり下ろされてきた刀身を、燐火には避けることも受けることもできなかった。左の二の腕から血がしぶく。
 ――死なない――
 左腕を紅に染めながら、それでも燐火は両手で刀を握りしめ、ふるった。
 受け止めようと動く銀の刀身をくぐり抜け、刀は正確に天仙の胸を突いた。
 かつっという音と、鈍い衝撃だけを残して。甲衣に阻まれ、貫くことなく刀は止まっていた。
 込み上げる絶望を、燐火は気力で拒絶した。
 死なない。
 死にたくない。
 梢がいる――。全ての束縛を断ち切るべき、この時に――!
 二度目の斬撃が、あいていた脇腹を抉った。
「……っ」
 呼吸が荒い。かすみ、歪んでしまって視界も悪い。
 最後の力で地を蹴った。
 ――梢――
 不思議と、狐に戻ろうとは思わなかった。このままでいい。いずれにしても、結果が同じならば――
 ちらと、視界の端に梢が映った。
 ――泣くな――
 呼んでいる。早く、ここを片付けて行ってやらねば……。
 ほのかに光る、銀の刀身が貫いた。
「燐火さまっ!!」
 梢の絶叫が響く。
 ――ああ――
 ふいに、気付いた。単に初めて少女に出会った時の姿で、終わろうと思っただけのこと――。
「いやあぁああぁ!!」
 剣戟の音が途切れて。静かに、静かに燐火がその場に崩れて。
 やっと梢は解放された。夢中で飛び込もうとしたために、彼女は天仙の一人にずっと押さえられていたのだ。
 化身の解けた血まみれの妖狐が一匹、横たわっているだけだった。
「……燐……」
 静かだった。
 起き上がっても、目を開けてもくれない――
「ああぁあぁぁああーー!!」
 もう、何もわからなかった。考えたくなかった。自らの返り血のみを浴びた燐火の刀を取り、胸に突き立てる。
「……」
 なぜ、動かないのだろう?
 困った顔をした天仙に押し止められているからだという、それだけのことがわからない。
 ふいに、聞こえた。
「最後まで、潔くあって欲しかったがな――。逃げなければな」
 瞬間。確かに、梢は生まれて初めての憎悪を覚えていた。
 潔く?
 まるで抗う力などなかった妖狐を、その手にかけておきながら!?
「――!」
 精一杯の憎しみをぶつけたけれど。言葉にはならなかった。あまりに慣れないことで、何一つ言うべき言葉が浮かばなかったから。


 

 その後、一体どうなったのか……。覚えていない。
 気付くと自分の部屋で寝ていて、弟妹が心配そうに覗いていた。
 遺体は葬られた後で、もう何も残っていなかった。


 風が吹いていた。
 せり出した岩場で、一人、梢は横笛を吹いていた。
 高く、低く。紡がれた旋律を追いかける。けれどそれはあまりにたどたどしくて。
 やがて、梢は笛を口許から離した。
「燐火さま……」
 虚空に。
「やっぱり、私ではだめなのですか? 私にも、吹き方を教えて下さい。お願いです――」
 ――無理だよ――
「意地わっ……」
 立ち上がったはずみに、バランスが崩れた。
 ――だって、夢だもの――
 それは半ば自殺で、半ば事故だった。
 ――悪いことは、みんな夢――
 景色が勢い良く背後に流れて行く。


「お姉ちゃん」
「愛」
 駆け寄ってくる少女を、梢は微笑んで抱きとめた。
「お姉ちゃん、誰かね、お姉ちゃんに会いたいんだって」
「誰か?」
「梢」
 声のした方を見やると、ほのかで優しい色の景色の中、亜麻色の髪の青年が微笑っていた。綺麗な綺麗な鳶色の瞳で。
「燐」
 微笑んで駆け寄る。静かに手を差しのべて待っている、彼のもとへ――
「おかしいね、おまえは――そんなに私が好きなの?」
 景色が流れ、手が触れる。
 ――大好きです――
 彼女は心から幸せそうに微笑んだ。

≪完 2000.3.31≫

あとがき