グレインローゼ6

祈りの滝

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* 第1節  第2節  第3節  第4節 
* 第5節  第6節  第7節  第8節
完 2001.07.05
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第1節

「ええええっ!? ちょっと、テューがいないって、どういうこと!?」
 デズヴェリー家の朝。
 普段は静かな朝を迎えるのだが、この日は客がいた。小柄な少女、竜乗りのエルシェだ。
「だから、いないんだよ。今朝探したら、どこにも……」
 デズヴェリー家の当主、ファルクの言葉に、エルシェがえええっと、情けない声を出す。
「だって、一緒に行く約束じゃない。みんなで祈りの滝に……」
「おまえが勝手に決めたんだろう? テューが頷くのを見た覚えはないな」
 と、これはラテル。意地悪なデズヴェリー家の魔法使いだ。得意なのは冷気を操る魔法と、さぼること。
「だって、行くしかないじゃない! 滝に願えば、望みが何でも一つだけ、叶うんでしょう? だったら――」
「……一人で行ったんじゃないかな」
 ファルクが考え考え言った。
「『何でも望みの叶う滝』なんて、自力で見つけないといけないものって気がする。なんていうか、その滝はとても危険なものって気がするんだ。……人の心とか、世界のバランスとかにとってさ」
 でも、と、エルシェは泣きそうな顔をして言った。ファルクもラテルも、あの惨状を見ていないからこんなに呑気でいられるのだ。
 テューは壊れかけていた。最愛のディーンを失い、同時に唯一の肉親だった母を失い、その存在感は信じがたいほど薄まっていた。今にも消えてしまいそうだった。
「ほっとけるわけないじゃない! あんな……だめだよ、今のテューを一人にしたら!」
「クーリがついてる」
 ラテルが言った。
「だいたい、そんなだから一人で行ったんだろう? あの馬鹿は。俺たちに気を回す余裕がないんだろうな」
「……そうだな、俺もそう思う。上辺だけでも明るくふる舞うのが、つらいんだよ。一人になりたかったんだと思う」
 珍しくファルクとラテルが意見を一致させ、珍しげに顔を見合わせていた。
「そんな……」
 さて、と、ファルクが荷物を取り上げて立ち上がった。
「ファルク!? どこ行くの?」
 エルシェの問いに、ファルクはきょとんとして答えた。
「どこって、テューを追いかけるんだろ?」
 ラテルもやれやれ、という顔で、しかし「俺は行かない」などといつものようにごねることもなく、立ち上がった。
 行くのだ。
 テューを追って祈りの滝に。
 そうとわかると、エルシェはがぜん張り切って、満面の笑顔で頷いた。
「――うん!!」



第2節

 馬車も使わず魔法も使わず、とぼとぼと歩みを進めるテューの後を、クーリが心配そうに、ふわり、ふわり、と蛇行しながらついていた。
「テュー……」
 テューは答えない。
 ずっと静かに、今にも消えてしまいそうな様子で歩きながら、時々泣き出しそうに瞳を揺らす。それだけだった。

 ――クーリが心配している――
 わかっていたけれど、どうしていいかわからなかった。
 あの時、できもしないことを――
 もう止めようのない、止める権利もない、互いの命運を賭けた母と義弟の闘いに割って入ろうなどとしたから。
 あまりにも愚かな間違いだった。
 結果、どうなった?
 間に合わず、殺されそうになった彼女を庇い、最愛の青年が死んだ。
 あの闘いには全く関係なくて、巻き込まれるはずもなかったのに。
 勝者である母さえ、失ってしまった。
 義弟も救えなかった。
 一体、何を――!
 全身から力が抜けて、立っていられなくなりそうだった。
 ただ、見ていられなくて。
 あの時は、義弟を庇うことしか考えられなくて。


 ――祈りの滝に行きなさい――


 母の最期の言葉。
 そうだ、行かなければ――
 それだけが、今の彼女にできることだから。
 母は二十年もあの場所で、ただただ彼女の帰りを、ひたすらに彼女の帰りを待ち続けてくれていたのに。その母に、何一つ返せなかった。
 それでも、母は――
 テューはぐっと、形見となってしまった白い帯を握り締めた。
 母はここにいるから。
 幸せに、それが母の最期の言葉だったから。
 祈りの滝へ――

<更新日 2001.03.22>



第3節

「ねえ、これ、地図に載ってるこの道?」
 古ぼけたいい加減な地図を見ながら、エルシェがファルクに聞いた。ラテルには聞かない。
「うーん、もしかして、やっぱさっきの道かなあ……」

エルシェ
 この『古ぼけた地図』。
 そりゃあ苦労して、やっと手に入れたの!
 持ち主が、譲ってほしいんだったら滝の代わりに願いをかなえてくれなんて言い出しちゃって、それがまた無理難題で苦労したんだよ〜。
 でも、その話は長くなるから、また今度の機会にね。世の中には『ページの都合』ってものがあるみたい。何のことだろ?
 でも、やっと手に入れたのは良かったんだけど、これがまたすっごく古くて、いい加減な地図なの! 何か距離感も定かじゃないし、(てゆーか、かなりいい加減だってわかったわ。地図に示されてるA地点とB地点とC地点があるじゃない? A地点とB地点の距離って、B地点とC地点の距離の倍以上はあるのに、等間隔に書かれてるのよ!)道の幅も、目印との順序も定かじゃないし……。何と言っても、ここって山の中だから、獣道みたいな細い道がけっこうあるのよね。この細い道を、地図に載ってる道に数えるかって……悩んじゃうのよねー。何でも、実際に祈りの滝に行った人が、知り合いに頼まれて記憶を頼りに書いたらしいんだけど、それじゃあいい加減にもなるって。あたしだって、セリーゼからここまでの地図を書けなんて言われたって、いい加減なやつしか書けないもん。
 あーあ。まだまだ苦労しそう。
 テューは、場所知ってたのかなあ……。
終わり

「どうするんだ」
 不機嫌極まりない声で、いらいらとラテルが言った。歩くのが大嫌いなラテルは、半ばあてもなく山の中を彷徨う今の状況に、相当苛立っていた。
「……やっぱり、だめだ。この地図は相当古いから、多分、なくなった道とか、新しくできた道とかあると思うんだ。最悪、肝心の滝への道がなくなってるかもしれない。だから、だいたいの位置だけこれで見当つけて、俺たちで地図書きながら行くしかないと思う」
 ファルクの結論に、そうだねえとエルシェが頷く。ラテルはますますげんなりした。
「ねえ、ところで何で地図書くの? 誰が地図書くの?」
「だって、今は獣道に分け入ってないからいいけど、入ったら迷うかもしれないし。方向も距離もあやしくなってくるから、地図は書かないとだめだ。エルシェ、書いてよ」
「いいよ〜♪」
「だめだ! おまえ書け」
 と、ラテル。
「何で?」
 ファルクが怪訝そうに尋ねると、
「おまえ、エルシェの絵を見たことあるのか!? この間、『リーファ』とか言って、幼稚園児が書きそうな絵を書いてた女だ。こいつに距離感も方向感覚も絶対にない!! こんな山の中で遭難なんてまっぴらだ」
 ラテルは断固反対した。
「ひどい! ちょっとー、いくら何でもそこまで言う!? だいたい、絵と地図は……て……?」
 抗議半ばに、エルシェはぽかんとラテルの後ろを見た。
 何だろう、あれ。
「ラテル、後ろで何か、服の裾引っ張ってる」
「あ?」
 振り返り、ラテルはざざっと避けた。
 ラテルの服の裾をつかんで引いていたそれが、たまらず転がる。
 おにぎりみたいな毛玉。
 ちみっこい羽根のような手と、ちみっこい飾りのような足。ぬいぐるみっぽい。
 もちろん飛べそうなしろものではない。
 飛べないふくろうというか?
 大きさは四、五十センチくらい。
「いきなりうごく らんぼう」
 『それ』が言った。
 顔についた尖ったもの、鼻かと思っていたらくちばしだった。
 なんなんだろう?
「ファルク、これ、何……?」
「俺に聞かれても……でも、グレインローゼが警戒してないから、害はないと思うけど」
 途端、おにぎりもどきがぽこぽこ動いた。
「うきゅる これ ちがう  うきゅるは うきゅる」
「うきゅる?」
 エルシェとファルクが顔を見合わせる。
 ラテルは一人、ただぎょっとした顔で、『それ』を凝視していた。
 『それ』が――もとい、うきゅるがぽこぽこ動く。
「おまえたち いのりのたき いくきゅる?」
「知ってるの!?」
 頷いたのだろうか。うきゅるが何やら動いたが、首がないのでよくわからない。
「おねがい しにいくきゅる  おねがい しにいくきゅる  おまえたち ねがいごと あるきゅる  うきゅるはみぬいたきゅる」
 何だか嬉しそう。
「――」
 らったらったと(?)動くうきゅるにいらついたラテルが、いきなり殴った。殴られたうきゅるがぽんぽん弾み、草むらまで転がる。
「ちょっとひどい! いきなり何するの!?」
「殴りたくなる形をしてる、そいつが悪い」
 つーんとそっぽを向きながら、ラテルが当然のように主張した。
「か、かたちって……かわいそうじゃない!」
「痛いもんか、こんなもこもこで」
 確かにあんまり痛くなさそうだった。しかし、だからといっていきなり殴るというのは、乱暴だ。
「うきゅる、大丈夫?」
 エルシェが抱き上げると、うきゅるはつぶらな瞳をふるふる潤ませ、エルシェに訴えた。
「あいつ らんぼう  うきゅる なぐる  うきゅる なぐる  うきゅる わるいことしてない  うきゅる かえる」
「おー、よしよし、かわいそうに……あいつは悪いやつよね〜」
 エルシェがよしよしと頭をなでると、うきゅるは気持ち良さそうにきゅるきゅる言った。その様子に「自分も」とリーファが寄ってくる。はいはいとエルシェが撫でると、リーファも嬉しそうにガアガア鳴いた。
「ところで、うきゅるは何しに出てきたの?」
「きゅる?」
 うきゅるはふかふかっと着地すると、
「うきゅる いのりのたきのばしょ しってるきゅる みちあんないきゅる」
 おお!
「やったあ!」
 手を叩き合って喜ぶエルシェとファルクに、うきゅるがちょいちょいっと服の裾を引いてねだった。
「ほうせき ほうせき」
「え?」
「ほうせき くれ」
「ええ!?」
 うきゅるがつぶらな瞳をクリクリさせて、期待に満ち満ちた顔で見上げてくる。
「タダじゃないの〜!?」
 エルシェが情けない声を出すが、うきゅるはぽこぽこ弾みながら、
「うきゅる きょうは あおいのがいいきゅる あかいのでもいいきゅる みどりのでもいいきゅる〜♪」
 なんて歌ってくれた。
 人の話なんてぜんぜん聞いていない。紫でもいい桃色でもいい透き通っているのもいいと、結局、ほぼ何でもよさげなことを歌って跳ねる。
 しかし。
「参ったなあ。俺、宝石なんて持ってきてないけど……ラテル、持ってるか?」
「そんなもこもこにやる物はない! 締め上げて……」
「はいはい、乱暴しない! もう〜、かわいそうでしょう、悪いことしてないんだから。って、それは?」
 エルシェがラテルの長い青色の髪を束ねる、小さな髪飾りを指して言った。なかなか見事な品で、透き通る緑の石が嵌め込まれている。
「ガラス?」
 カチンとばかり、エメラルドだと強く主張して、ラテルはふんっとそっぽを向いた。譲る気はないらしい。
「そんなうさんくさいもこもこ、ほっとけ。地図があるんだから、探すぞ」
 それまで一番探し回るのをいやがっていたのが、急にそんなことを言い出した。
「別にいいじゃん〜、髪飾りの一つや二つ。高いの?」
 エルシェの素朴な問いに、ラテルではなくファルクが答えた。
「いや、あれ、お母さんの形見だって、ゼフィさんが……」
 黙れとばかり、ラテルがうきゅるをファルクの顔めがけて投げつけた。
「うわっぷ」
「きゅ!」
 ファルクの顔にぽふっとぶつかり、軽くバウンドして、うきゅるはぽすっと地に落ちた。
「ああ、お母さんの形見なのね。それは譲れないよね、うんうん。でも、乱暴はだめ! 行け、リーファ!」
 何やら我慢ならない様子のラテルにリーファをけしかけ、エルシェはうーんと唸った。
 さて、どうしよう。
「おいバカ! リーファをけしかけるな! ちょっ……」
 じゃれあっているラテルとリーファは放っておいて。
「しょうがない、エルシェ、戻って取ってきてくれるかな。俺の自宅になら、なんかあったと思う。……ああ、水槽に敷いてあるやつ、あれも一応宝石だよな。安いけど。いいかな?」
「うん、いいよ! じゃあ、すぐに取ってくるね」


 エルシェを待ちながら、ラテルはふこふこうきゅるを殴った。
「こんなのが信用なるのか? だいたい、滝の場所を知ってるなら、滝に願えばいいんだ。宝石がほしいとでも何でも」
 途端、痛くなさげに殴られていたうきゅるが、「きゅる〜!」と鳴いてラテルを見た。
「うきゅる おねがいしたきゅる! うきゅる とべるようになりたかったきゅる! でも うきゅるのおねがい かなわなかったきゅる〜」
 うるうると瞳を潤ませ、うきゅるは世にも悲しそうにラテルを見た。
「叶わなかったって、どうしてだい?」
 ファルクが尋ねる。これから行く場所だし、テューの願いを思うと、放っておけなかった。
「おねがいは おなじこと 2どおねがいしないとかなわないきゅる。 うきゅるはこわくなって やっぱりいいっていってしまったきゅる〜!」
「あほか」
 ラテルがみもふたもなく一言。
「うーん、それは……よく考えてからお願いした方が良かったな」
 うきゅるはふるふるとかぶりを(?)ふった。
「よくかんがえたきゅる! どうしてもとびたかったきゅる! でも でも とんだらとりにたべられるかもしれないきゅる あめにふられて かみなりにうたれるかもしれないきゅる ほんとうにとびたいのかってきかれたら やっぱりいいっていってしまったきゅる〜!」
 あほめとラテルがうきゅるを殴る。やっぱり痛くなさそうだ。
「二度同じことを願う、か……」
 それにはどんな意味があるのだろう。エルシェを待ちながら、ファルクはゆっくり考えていた。

<更新日 2001.04.19>


第4節

 エルシェはなかなか戻ってこなかった。
「遅いな。リーファで飛べばすぐだと思ったんだけど……。何かあったのかな」
「おい、あれ」
 ファルクが言ったのと、ほぼ同時にラテルが空を指さした。
「エルシェじゃないか?」
「え?」
 ラテルの指し示す方向を見てみると、確かに鳥の割にはおかしな形のものが、見当違いの空をうろうろしていた。
「何やってんだ、あいつは」
「何って……」
 しまったと、ファルクは声を上げて額に手をやった。
「上空からじゃ、ここがわからないんだ。まずったな」
 ラテルも大きく目を見開いて、次にはああもう、という感じで言った。
「全然見当ちがいだろうが! 鳥ほどの大きさだぞ、ここから見たら!? どこまで方向音痴なんだ、あの女は!」
「いや、しょうがないよ。多分、空からだから、地図のイメージで見てるんだろ。あの地図、いい加減だったからなあ……」
 この際、問題はどうやってエルシェと連絡を取るかということだ。
「最悪、一度オレの屋敷に戻るしかないよな。エルシェも、どうしても見つからなければ帰るだろうし」
「冗談はよせ! ここまで来るの、どれだけ大変だったと思ってるんだ!?」
「そんなこと言ったって、しょうがないだろ! どうするんだよ」
 ラテルはしばし言葉に詰まり、しかしすぐに言った。
「鏡で光を当ててみるとか、煙を上げてみるとか、やりようはあるだろうが! 少しは考えろ!」
「それは とべないきゅる?」
 いきなり、暇そうにうろうろしていたうきゅるが口を挟んだ。「それ」とはグレインローゼのことだ。
「エルシェの二の舞になって、話がややこしくなるだけだ」
 みもふたもなく、突き放すようにラテルが言ったが、ファルクは違った。
「そうか、そうだよな。グレインローゼに頼めばいいんだ。グレインローゼはわかるよ、オレがどこにいるか。どこで飛ばしても、必ず帰ってくるからさ。その感覚で、エルシェに飛んでもらったのがまずかったよな」
 エルシェが駄目なのではなく、グレインローゼがさすがと言うべきだろう。
 アスベールの『守護者』とまで呼ばれる鷹なのだ。
 それでも、飼い主がしっかりしないと何にもならないんだなと、ファルクは改めて思った。
「グレインローゼ、エルシェを連れて来い!」
 一声不敵な鳴き声を上げ、グレインローゼは空高く舞い上がった。


 グレインローゼの案内で、やっと戻ってきたエルシェは、ひどくがっくりした顔をしていた。
「エルシェ?」
 ファルクがどうしたのかと、探し疲れたのかと声をかけると、エルシェはぶんぶんっと首をふった。無駄に飛び回った割に、元気は元気らしい。無駄足を踏まされても文句の一つも言わない辺り、ラテルとはえらい違いだ。
「滝、全然方向違うよ。ずっとあっち。あたしがうろうろしてた辺り」
 その答えに、ファルクとラテルがあっと顔を見合わせた。
「何で、最初からエルシェに探させないんだ!」
「思いつかなかったんだから、しょうがないじゃないか」
 考えてみれば、だ。
 探しているのは小さくもない滝なのだから、エルシェに上空から探してもらえば、話は極めて簡単だったのだ。
 地図もいらなかったし、地図を手に入れるために苦労する必要も、いい加減な地図に振り回されて足で探す必要も、まるでなかった。
「ばかばかしい! 何でいつもいつもこうなんだ!」
「何でって、ラテルだって気付かなかったんじゃないか」
「やってられるか!」
 もう一人、悲しい人(?)がいた。
「うきゅる ようなしきゅる?」
 きゅるきゅると、うきゅるが不安そうに聞いた。エルシェが袋で持ってきた宝石が、欲しくてたまらないのだ。
「用なしだ」
 と、これはラテル。
「あ。ああ……まあ……でも、いいよ。せっかくだから案内してよ。場所がわかるのと、道がわかるのは別だからさ。宝石も持ってきてもらっちゃったし」
「ほんときゅる!? ほうせき くれるきゅる!?」
 うきゅるは途端に顔を輝かせ、らったらったとはねた。
 そこをぽふっとラテルに殴られる。
 かなり思い切り殴っているのだが、うきゅるがふわふわなので、やっぱり深刻な音はしなかった。
「とりもどきは黙ってろ」
「うきゅる ルイーズきゅる  とりもどきちがうきゅる」
「ルイーズ!」
 声を上げたのはエルシェだ。
「あたし知ってる! 森に住む、幸せの鳥もどきでしょ?」
「いや、鳥もどきじゃなくて、『幸を呼ぶ妖精』だよ」
 ラテルにつられてるなあと、笑って訂正しながら、ファルクもさすがに意外だった。これが伝説のルイーズか。何だか、ちょっとありがたみというか、神秘性というかに欠ける。もとい、かなり欠ける。
 ルイーズという種族は皆こんなものなのか、うきゅるが特別なのか、少し気になった。

<更新日 2001.05.03>


第5節

「おまえ お願い あるきゅる?」
 滝への道すがら、うきゅるが興味深げにエルシェに尋ねた。ラテルもファルクもない、と言うのでつまらないのだ。
「あたしー? あるよー」
 途端に目を輝かせ、うきゅるはぽこぽこエルシェの周りを跳ねた。
「何きゅる!? 何きゅる!? 教えるきゅる」
「へっへー、さて、何でしょう」
 エルシェにそう言われ、うきゅるはじいっとエルシェを見た後、ぽんととび跳ねた。
「わかったきゅる! おまえ 飛びたいきゅる!」
「――それはおまえが失敗したやつだろう、がっ!」
 即座にぽこっとうきゅるを殴りつつ、ラテルが言った。
「なんだ おまえ さっきから」
 うきゅるがぴやぁ〜っと体をふくらます。
 一応、毛を逆立てて威嚇しているのだろうか。
「ったくもー、ラテルはほんっとに学習しないんだから! 可哀相でしょう!? リーファ、やっ――むぐ!?」
 ラテルにやめろとばかり口をふさがれて、エルシェはじたばた暴れた。
 これはこれで、リーファが低く唸り声を上げる。
 文字通り、一触即発の睨み合いだった。何だかやたら下らないとしても。
「で? エルシェは何を願うんだい?」
 偶然か。
 いや、わざとだろうか。
 ファルクがその緊張を破るように、いいタイミングで言った。
 ラテルがやっと手を緩める。途端、エルシェがよくもとばかりにその手に噛み付いた。
「たっ! 何すっ……」
 本気で痛そうなラテルにべーっとやって、エルシェは機嫌良く言った。
「あのね、あたし、普通になりたいんだ」
「普通?」
 途端、ラテルが爆笑した。
「おまえ、それは無茶だ。バカは死ななきゃ治らないってことわざ、知ってるか?」
「何ですってー!?」
 エルシェが殴りかかるのを、今度はひょいとよける。
「ああっ! よけるし!」
「たまにはな」
 もう、と頬をふくらませ、
「そうじゃなくて! あたし白子でしょ。普通になりたいの!」
「ああ、そういう意味……」
 納得するファルクをよそに、ラテルは意外そうにエルシェを見た。
「色が欲しいってことか?」
「そう」
 ラテルはしばしエルシェを眺め、不思議そうに言った。
「別にいいだろう? そのままでも。綺麗だろうが」
 これには驚かされて、エルシェもファルクも心底意外そうにラテルを見た。
「なんだ、その目は」
「えっ、だって、ラテルがあたしのことほめるなんて……熱、あったりしない?」
 ラテルは途端に真っ赤になって、半ば怒鳴るように言った。
「あるか! ほめたんじゃない、見たままに言ったんだっ」
 なんだか余計、ほめられた気がする。
 何はともあれ照れて仕方ないようなので(ラテルが)、エルシェは話を戻した。
 こんなふうに、頑なになったラテルは構うだけ無駄なのだ。面白いから、暇な時はいいけれど。
「ありがと、綺麗って言ってくれて。でも、あたしじゃなくってね。妹が……」
「文句言うのか?」
 ううん、とエルシェが首をふる。
「心配なの。お姉さんが白子だってなったら、お嫁に行く時、敬遠されるんじゃないかなあって」
「……下らないな」
 ラテルがぽつりと言った。
「なによ、何にも知らないくせに!」
 エルシェがむっとして言うと、
「おまえのことじゃない」
 なんて言ってくれた。案外、いいところがある。
「……でもさ、白子って突然変異だろ? 姉妹にいても、関係ないと思うけど」
 ファルクがファルクらしく、もっともな意見を述べた。エルシェはうんうん、と頷き、
「そーなのよ。そーなんだけどねー! 感情と理性は別っていうの? 理性では関係ないはずって思っても、でも、さわらぬ神にたたりなし、みたいにさ。っとに、親に余計なこと吹き込まれた悪ガキが、妹いじめて……」
「そうなのか……」
「もちろん、あたしがお返ししてやるけどね! でも、うちの妹、ほんとにおとなしくて可愛いから、心配なの。あたしにすごくなついてて……あたしが守ってやらなきゃあって、思うんだ」
 エルシェはいいお姉さんだなと、ファルクが笑う。
「願い、叶うといいな」
「うん!」
 エルシェも嬉しそうに笑った。

<更新日 2001.05.17>


第6節

 一体いつからあるのだろう。
 樹齢何千年かと見える大樹に抱かれ、その滝はあった。
 その滝壷の中ほどに、明るい若葉色の髪を背中に流した、美しい女性の姿が見える。
 テューはじっと滝を見つめていた。
 滝に棲む神が、小さき者の願いに耳を傾けるのは、ただ一度。
 失敗した時は、それまで――。
 祈るように両手を胸の前に組み、心を澄ませる。
 己が願いを見失わないように。
 クーリもそれにならって可愛らしい手を組み合わせていた。


「あれ、テューじゃないか?」
 ファルクたちがやっと滝にたどりついたのは、ちょうどその時だった。
 大喜びで呼びかけようとしたエルシェの口を、ファルクがあわてて塞ぐ。
「むぐっ!?」
「エルシェ、もう、儀式に入ってるのかもしれない。邪魔しない方がいい」
「考えなしめ」
 ラテルが心底嬉しそうに意地悪を言う。どことなく、「やーい、やーい、考えなし〜」とはやしたてる幼稚園児に通じるものがある。

エルシェ
 目よ!
 目が似てるんだわ!
 ラテルってばいちいち口が悪いんだから、ほんっとにもう。
 だってだって、やっと苦労してテューを見つけたんじゃない?
 『テュー!!』って、手をふって自分をアピールしたくなるのが人情ってもんよね。
 ここで、邪魔になるって気付けるファルクはたいしたものだと思うけど、ラテルなんて、自分だってぜえったい気付いてなかったくせに、こういうこと言うんだよー!
 いちいち気にしないからいいけどさー?
 えーい、蹴ってやれ。
 あはは、睨んでる睨んでる。
 ラテルのいいところは、それでも女子供には手を上げないとこだよね。
 うん、そこは偉いと思う。偉いけど、あたし調子にのって蹴っちゃおーっと!
終わり

 ファルクたちが息を詰めて見守る中、テューは静かに目を上げ、滝を見た。
「――ラヴェル」
 澄んだ声が、不思議に滝の水音にかき消されることもなく、そこに響いた。
 ラヴェルは滝の神。
 祈りの滝に棲むという、古く力の強い神の名だ。
 古竜の生みの親とも言われている。
 滝が淡く輝いた。
 性別不祥の、中性的な人の姿が浮かび上がる。

 ――小さき者よ 我に何用か――

 鳥の子色の長い髪。
 紫苑の衣を纏い、両足首の足輪には、金の鈴。
 極めて端整な面差しだ。

「慈悲深き神ラヴェルよ、どうか、私の願いを聞き届けて下さい――」

 ――望みを告げてみよ――

 テューは気持ちを静めるように深呼吸して、胸に手を当てた。こわい。緊張している。
 ただ一度きり、やり直しのきかない試練だから。
 賭けるものは、最愛の青年。
 どうして失ってしまったのか。
 取り戻せるのか。
 願いは最も罪深き、反魂――。
「ディーン・メイフェル様が、息を吹き返すことを望みます」

 ――反魂を――

 ラヴェルの目が大きく見開かれた。
 その眼光に射抜かれ、テューの意識は大きく震えた。
 景色も音も、何もわからなくなる。
 
 ――……――
 心の水底が波立ち、その深奥に、いくつもの未来が視えた。
 神に呑まれた彼女の心は夢を見ているようで、現実と幻の境が失われていた。
 起こり得る未来なのか。
 心の奥に抱えていた、不安なのか。


 確かに死んだのに、生き返った彼を化け物のように見る、視線。
 遺体にかりそめの命を与え、操り、そばに置いているらしい彼女をキチガイか、汚らわしいもののように見る、視線。


 その視線だけが視えた。誰の視線かはわからない。『人』のものだ。特定個人ではなく、『人』の視線なのだ。

 構わない。人になんと罵られても、構わない。
 そんなもの、受け止めて流してしまうから。
 構わない。


 ディーンがディーンとして認められない未来。
 それは、爵位の剥奪をも意味する。


 構わない。
 自由と命さえあれば、生きることはできるのだ。
 なくしたものは取り戻せばいい。
 肩書きなどなくても、立派な人だから。
 精一杯、支えていくから。
 たとえ力及ばなくても、滅びるまでの時間でもいい。束の間でもいい。ほんの一かけなりと、彼と生きたいのだ。少しでも長く、あの人と生きていたいのだ。
 何もなくとも、あの人さえあれば、生きていることそのものが喜びだから――。


 取り戻した途端、また亡くす未来。
 息を吹き返した彼が、彼女ならぬ者を――別の女性を愛し、彼女の元を去ってしまう未来。
 彼の方が息を吹き返した奇跡に負けて、内側から崩壊して行く未来。


 ラヴェルの試練は容赦なく、願う者に罪を知らしめる。
 反魂が罪であること。
 世の理を曲げ、望みを叶えることを滝に願うのが間違いなく、罪であることを。
 知らなかった、気付かなかったで許さないのだ。
 罪から逃げることを許さない。
 罪を知らぬ者の願いは叶えないのだ。
 罪を負えぬ者の願いは叶えないのだ。


 いくつもの未来が見えた。
 強引に運命を変え、ほころばせた結果として起こる、全ての不幸。
 その願いが彼女を、ディーンを、周囲をも不幸にし得ること。
 それでも願うのかと。


 願う。


 ディーンがファルクを斬り殺す様を見てさえ、彼女は願った。
 定まった未来ではない。
 こんなふうにしないことが大切なのだ。決して、こんなふうにしないことが。


 ――汝 愛する者の反魂を 願うか――


 ラヴェルが問うた。
 その瞬間見えたもの。
 最後の最後に見えたもの。
 それは――

 『死を望んでいた彼』だった。

 死に場所を求め、やっとその生から解放されたことに満足していた彼の、それを呼び戻した彼女に対する憎悪に満ちた眼差しだった。
 彼は彼女の救いだ。
 けれど、逆は?
 ディーンは自分自身を愛していなかった。
 生きることに喜びを覚えていなかった。
 テューがそばにいることも、何ら救いではないのだと――。
 息を吹き返すことを望まない、むしろ呼び戻されることに理不尽さ、憤り、憎悪――そんなものだけを強く覚える、暗く冷たいディーンの瞳。それが最後に見えたものだった。
 拒絶が満ちていた。
 呼ぶなと強く主張していた。
 おまえの勝手で人の命を弄ぶなと――
 テューは涙を流して胸を押さえた。
 その瞳を知っていた。見覚えのありすぎる瞳。
 真実なのだと。
 彼女では彼の救いになれない。
 あの人は、生きることを望まない――

 ――願うか?――

 ラヴェルが問うた。
 テューはぼろぼろ泣きながら、嗚咽混じりの声で答えた。
「願います――」
 あの人が望まなくても、そばにいてほしいのだ。
 間違いかもしれない。
 悔やむかもしれない。
 それでも――。

 ――罪深き者、我がいとし子よ……。その望み、ただ一度だけ叶えよう――

 瞬間、滝が輝いた。
 光の洪水が視界を覆う。
 視界を取り戻した時には、ラヴェルの姿は消えていた。
 代わりに、ラヴェルがいた辺りから落下したような格好で、ディーンが不可解そうに水しぶきにむせていた。
「ディーン様!」
「……けほっ……テュー……? ここは……」
 何でびしょ濡れなんだと参った様子で、ディーンが服の水をしぼりながら尋ねた。
 テューは夢中で駆け寄ると、真っ直ぐ彼の腕に飛び込んだ。
「ディーン様!」
「……テュー?」
 濡れるぞ、と言いかけ、ディーンはテューを軽く抱き留めて黙った。彼女が泣いていたから。


第7節

「!? っきゃあああっ」
 悲鳴を上げる暇もあらばこそ。
 ザブン!
 エルシェはまともに水に落ちた。
「ひっどーい、びしょ濡れ! ちょっとラテル、何すんのよ〜!」
 感動の再会にもらい泣きしていたところを、背後からいきなり突き落とされたのだ。
「さっきのお返しだ。さんざん蹴っただろうが」
「な、少しは時と場所を考えてよ! せっかく感動してた――」
「エルシェ!」
 いきなり後ろから抱きしめられて、エルシェは心底びっくりした。
「だ、誰??」
 聞き覚えのない声だ。
 ラテルも目を丸くしている。
 エルシェがおそるおそるふり向くと、知らない子がいた。
「……誰……?」
 外見は人間の少年くらい。だが、人間ではなかった。
 耳の代わりにウーパールーパーのようなひれがあり、尻尾も生えている。
 少年は嬉しそうにエルシェを抱きこんで、にこにこして言った。
「リーファだよ」
「リ……」
 エルシェはそれこそ目を丸くした。
「リーファって、だって、どうしたの!? そのかっこ……」
 リーファは得意そうに胸をはってみせた。
「へへ、エルシェとおんなじだろ?」
 ちょっと違う。
 それから、リーファはちゅっとエルシェにキスをした。
「な……」
 ほとんど骨髄反射でラテルが乱入し、本気でリーファを殴った。
「ってー、何すんだ!」
「それはこっちのセリフだ!」
 ラテルもひどく怒っていたが、リーファも心底怒った顔で主張した。
「エルシェは僕のお嫁さんだ!」
「ばっ……かが! ばかも休み休み言え! こんなのは、まだただのガキだ!」
「エルシェをばかにするな!」
 バチバチと火花を散らして睨み合う二人をよそに、止まっていたエルシェが情けない声を上げた。
「ちょっとお〜! リーファのばかぁ! あたし、今のファーストキスだったのよ!?」
 ええ!? と、怒られると思っていなかったリーファがおろおろする。
「だ、だってエルシェ、ほら、おんなじだろ? 何がいけないの?」
 純粋に途惑う瞳が可愛らしい。
 しかし!
 こーゆーのはだめだ。
「リーファ、こーゆーのはね! まずは女の子に綺麗な花束を贈って、遊びに行ったり、一緒にお弁当食べたりして、帰りがけに女の子がいやがってなかったら、ちゃんと責任取る覚悟でするものなの! それにしたってロマンティックな演出を……」
「はい」
 リーファはにこにこしながら、どこから取り出したのか綺麗な花束をエルシェに差し出した。
「大好きだよ、エルシェ」
「え……」
 エルシェはちょっとどきどきして、顔を赤らめた。……ちょっとだけ、嬉しい。
「あ、ありがと。でもこれ、どこから……?」
 リーファが得意げに笑う。
 自分が一番最初に気付いた秘密が、嬉しくて仕方ないのだ。
「へへー、ここ、お願いの叶う場所なんだよ! 願ったことが、何でも本当になるんだ」
「ええっ」
 本当だったらすごい。エルシェは早速試した。
 空中にポンとフルーツバスケット。
「わあ、美味しそう!」
 この女は色気より食い気かと、ラテルがこめかみを押さえる。
「んー……、ていっ!」
 リーファのかけ声と共に、エルシェの衣装がぱっとお姫様ドレスに変わった。
 きゃっと驚いた後、エルシェはすぐ嬉しそうに笑った。
「あはは、なになに、リーファってこーゆーのが好きなの?」
 ひらひらとふんだんに飾りのついた、布をぜいたくに使ったお人形さんのような、真っ白なドレス。
「うん! だって、エルシェにすっごく似合うよ! とっても可愛い」
 そう言ってにこにこしているリーファの方こそ、やたら可愛いのがわかっているのだろうか。エルシェはおかしいやら嬉しいやら、上機嫌で腕を差し上げた。
「鏡ぃーっ☆」
 ぽんと、これまた立派な鏡が出現する。
「きゃー、ほんとに可愛い! リーファ、リーファ、見て見て〜♪ 可愛い?」
 エルシェがくるりと回って見せると、リーファが大喜びで可愛い可愛いと褒めちぎった。
 面白くないのはラテルだ。
 何だこんな滝。
 何でもありか。
 いやな滝だ。こーゆーのは好かない。
 と、一人ぶちぶちぶーたれている。
「ウォーターリッパー☆」
 いつの間にやらとんがり帽子の魔法使いルックに身を包んだエルシェが、それっぽい杖をふって呪文もどきを唱えると、水がざばっと立ち上がってラテルに襲いかかった。
「おまえ、それ、意味わかって言ってるのか!?」
「ぜんぜーん!」

ラテル
 ったく、何であの女はいちいち俺を巻き込むんだ!
 ファルクかリーファに遊んでもらえばいいのに!!
 ああもう、びしょ濡れじゃないか。
 くそっ。
終わり

「うきゅるは遊ばないの?」
 その様子をうらやましそうに見ているうきゅるに、ファルクが尋ねた。
 何でも願いが叶うなら、ここでなら飛ぶことだってできるだろうに。
 その問いにうきゅるはとんでもないと、ふるふると身を震わせた。
「うきゅる だめきゅる。 もう 遊べないきゅる。 死んでしまうきゅる」
「え……? どういうことだ、それ!」

<更新日 2001.06.14>


第8節

「あのね、エルシェ。僕、人間になるから。だから、僕のお嫁さんになってね!」
「え!?」
 言うなり、リーファが滝に向かって駆け出すのを、エルシェはとにかく止めた。
 びっくりしてしまって、「待って!」と言うのが精一杯だ。
 そんなこと、お嫁さんとか、人間になるとか、急に言われたって困る。
 そんなの断然、困るってば!
「ねえ、リーファ!?」
「ラヴェル様ぁー!」
 しかし、リーファは顔を輝かせて滝に呼びかけてしまった。
 テューの時と同じように、滝が淡く輝いて――。


 あえかな光に、テューはハっとふり向いた。
「いけないっ!」
 リーファがラヴェルを呼び出していた。
 無邪気さだけで願いの叶う滝ではないのだ。止めないと――!
「リーファ、待っ――」
 しかし、遅かった。再び姿を現したラヴェルに、リーファは意気揚々と願ったのだ。
「ラヴェル様、リーファを人間にして下さぁいっ」
 瞬間、ラヴェルの目が大きく見開かれ、その眼光がリーファを射抜いた。


 ――えっ!?
 ふいに何かに意識を呑まれ、リーファはびくりとして身を引こうとした。
 けれど、もう既に、何が何だかわからない。
 見えるものは滝ではなく、自分がどこにいるのか、これが夢なのか現実なのかさえ、わからなかった。
 そこには人間になった彼がいた。
 人間だ。
 願いが叶ったのだ!
 リーファはまず喜んだが、すぐに困ったことに気付いた。
 何もできない。
 何もわからない。
 人間って、どうすればいいのだろう?
 何ができるのだろう?


 エルシェがいた。
 エルシェだ!
 リーファは大喜びで彼女に駆け寄った。
 エルシェがいつもの優しくて、可愛らしい笑顔でふり向く。
 なあに、と笑いかけてくれる。
 ――エルシェ、僕、人間になったよ! お嫁さんになってくれるよね!――
 リーファが嬉しそうにそう言ったのに、彼女はヘンな顔をした。
 ――どうして?――
 え?
 ――あたし、リーファのことも好きだけど、お嫁さんになるならファルクがいいな〜――
 人間はリーファだけではないのだと。
 どうしてリーファを選ぶのだと、彼女は言っていた。
 どうして?
 だってこんなに大好きなのに!
 僕が世界で一番、エルシェのこと思ってるよ!!
 どうしてかと詰め寄るリーファに、エルシェは困った顔をするだけだった。


 景色がまた、変わっていた。
 エルシェが危ない目にあっていた。
 助けなきゃ!
 飛べなかった。
 氷も吐けなかった。
 エルシェを守れない……!?
 途惑っているうちに、エルシェは殺されてしまった。
 ――エルシェーーー!!――
 目の前が真っ暗になったような絶望の中、リーファはただ絶叫した。


 どうして人間なんかになったのだ。
 どうしてこんなこと、願ったのだ。
 エルシェを守れなかったら、死なせてしまったら、人間になったって一つもいいことなんてないのに――!


 多くの未来が見えた。
 姿かたちは人間でも、おまえは人間じゃないとのけ者にされる未来。
 生きる術を持たないまま、居場所もないまま、飢えて死んでいく未来。


 リーファはただただ混乱した。
 違う。
 こんなことを望んだんじゃない。
 違う。
 ただ、人間になって、エルシェと同じになって、ずっとそばにいたいって――


 ――汝 人間となることを 願うか――


 ラヴェルが問うた。
 その瞬間見えたもの。
 最後の最後に見えたもの。
 それは――


 エルシェだった。
 人間になったリーファを見て、彼女はびっくりしたようだった。
 喜んでくれるだろうと思った。けれど。
 ――えー、リーファ、人間になっちゃったのー? なんだあ、じゃあ、お別れね――
 エルシェは当たり前みたいに、そう言った。
 え?
 ――だってあたしは竜乗りだもの。ルタークじゃないなら、リーファに用ないじゃん? ルタークだから良かったのに。元気でね――
 ええ!?
 待って。
 違う。
 待って待って待って――!!


 ――願うか?――


 ラヴェルが問うた。
「どうして……」
 リーファは目に涙をためて叫んだ。
「どうして駄目なの!? エルシェのために、エルシェのために人間になりたかったのに――!!」


 ――……幼き者、我がいとし子よ。その望み、聞き届けること叶わぬ。二度とは、我が滝に踏み込まぬよう――


「え……?」
 全ての光彩が消え、景色が元に戻っていた。
 願い……叶わない……?
 リーファはふらつく足取りで岸辺へと向かい、水から上がった。
 その途端、リーファはルタークに戻った。
 叶ってない。
 願い、叶ってない――!!
 リーファはすぐ水に戻ると、もう一度人の姿になった。
 エルシェが心配そうに彼を見ている。
 リーファはぼろぼろ泣きながら、いっぱいの痛みと悲しみに突き動かされるまま、エルシェを問い詰めた。
「どうして、どうしてなの、エルシェ! エルシェはルタークじゃないリーファはいらないの!?」
「え……!? リーファ、待って、わかんないよ!」
「どうして、どうしてリーファじゃだめなの!? おんなじになっても、おんなじになっても、お嫁さんになってくれないの!?」
 途惑うエルシェの代わりに、近付いてきたテューが答えた。
「リーファ……あなたが見たのは幻です。起こり得る未来――けれど、決して真実でも、現実でもないものです」
「……?」
 理解できない様子で首を傾げるリーファに、テューは噛み砕いて言った。
「あるかもしれない、ないかもしれない、ある種の夢です」
 夢……!?
「ほ、本当じゃなかったの!? あれ、全部嘘だったの!?」
 テューは諭すように言った。
「夢です。本当か嘘かはわからない。あなたの願いが叶ってみなければ、その上で生きてみなければ、わからない」
「そんな……そんなのひどい! 僕、人間になりたかったのに! エルシェと同じになりたかったのに!」
 テューは静かに首をふり、厳しい瞳で言った。
「リーファ、もう終わったのです。あなたはここにいてはいけない。望みを叶えられなかった者が、かりそめこの場で望みを叶え続ければ……その魂が削れ、存在していられなくなります」
 それを聞き、真っ青になったのはエルシェだ。
「そんなっ……テュー、それ、本当なの!? それ、死んじゃうってこと!?」
 テューが静かに頷いたのと、ほぼ同時だ。
「リーファ、上がれ! うきゅるに聞いた。おまえ、それ以上滝にいたら、死ぬんだ!」
 あわてて駆けつけてきたファルクが、リーファに言った。
「……」
 リーファはそっとエルシェの手を握り、押し黙ってしまった。
「リーファ!? どうしたの、早く上がらなきゃ!」
 リーファはいやだいやだとかぶりをふった。
「いやだ、上がらない! ルタークはいやだ!!」
「だって死んじゃうのよ!? ばか言ってないで上がりなさい!」
「いやだ!!」
「リーファ!」
 見ていたラテルが問答無用でリーファを引き上げようとしたが、滝の水が立ち上がり、流されてしまった。
「なんだ、どうなってるんだこの滝は!」
「リーファの思いが強すぎます。ここは何かを思う心がそのまま力になる場所です。リーファ以上の思いがない限り、力ずくで引き上げるのは無理です」
「なっ……おまえ、冷静に解説してないで何とかしろ! リーファがどうなってもいいのか!」
 テューは困った顔でうつむいた。
「……私にできることなど……」
 何もない。あったら黙って見ていない。
「北の山にいた頃から、あの子は私には……心を開きませんでした。あの子が必要としているのは――、あの子に必要なものを与えられるのは、」
 テューはただ、エルシェを見た。
 それは友達でも兄弟でもなくて。
 今のリーファに必要なのは、そういうものではなくて。
 恋人ですらなくて。
「リーファ、上がりなさい!」
「いやだ!!」
「聞いたでしょう!? 死んじゃうのよ!?」
「いやだ!!」
 エルシェはカっと頭に血を昇らせた。
「リーファのばか!!」
 罵られ、リーファがさっきまでとは別の涙で頬を濡らしながら、エルシェを見る。
 ルタークがどんなに悲しいか。
 エルシェにだってわからないのに。
 誰も、何もわかってくれないのに――!!
「リーファ!!」
「いやだ!!」
「いやだじゃないわよ、ばかっ! わかってるの!? 死んじゃったら、あたしにだって会えなくなるのよ!? それでもいいの!?」
「え……」
 頑なだったリーファの表情に、初めて途惑いが見えた。
「あたしと一緒にいることより、人間になることの方が大事なの!?」
「違うよ! エルシェの、エルシェのそばにいたいんだ。エルシェのそばにいたいから、同じになりたくて……」
「だったら上がってよ! 同じじゃなくたって、あたしはリーファのそばにいたじゃない!」
 リーファは唇をかんでうつむいた。
 違う。
 違うのだ。
 確かにエルシェはそばにいてくれた。
 でも、そうじゃ、ない。
 その様子に、エルシェが心底頭にきた様子で、リーファをひっぱたいた。
 リーファがびっくりしてエルシェを見る。
「ばかリーファ! 男の子でしょう!? 人間じゃないと、あたしのこと捕まえられないの!? いくじなしっ! あたしに好かれるようなリーファになってよ。好きになったら、あたしが願ってあげられるじゃない、リーファを人間にして下さいって。それもできないで……! もう、知らないからっ」
 え……、と。
 エルシェはもう、リーファを置いてさっさと水から上がってしまった。
「あ、待って……エルシェっ」
 エルシェは何も言わなかった。
 言いたいことは、みんな言ったから。
 それでもリーファが聞かないなら、もう、知らないのだ。
「エルシェ、お願い……上がるよ、上がるから……戻ってきて……」
「……リーファ?」
 リーファの瞳に、切ないほどの何かがあった。
 エルシェが吸い寄せられるように戻ってくると、リーファはぎゅっと彼女を抱き締めた。
「僕……」
 エルシェを守りたい。
 エルシェと生きたい。
「リーファ……」
 よしよしと、エルシェがリーファの頭をなでる。
 人の血が半分混じったルタークには、衝動があるのだ。
 人が当たり前に持つ様々な衝動が。
 好きなものを抱き締めたいとか。
 誰かに愛されたいとか。
 けれど、体がそういうふうにできていない。
 ルタークのリーファが抱き締めたら、エルシェが壊れてしまう。
「ちゃんと、上がれるね?」
「うん……」
 抱き締めたエルシェは、小さくて柔らかくて温かかった。


ディーン
 願いなんて、自分で叶えるものだと思うけどな。
終わり

<更新日 2001.07.05>



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* 【結果発表】
* 工事中
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