グレインローゼ4

グレインローゼの末裔【下】

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* 第1節  第2節  第3節  第4節  第5節
* 第6節  第7節  第8節  第9節   閑話
2000.12.21 完
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四貴様からのリクエストにお応えして、ディーン様ラフスケッチ公開☆
ラフスケッチじゃわかんないけど、この人、髪も瞳も黒です。

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第1節

 時を止めたような静寂が、部屋に降りた。
「……っ」
 テューが微かに呻いて腹部を押さえる。
 ディーンは戸口でしばらく沈黙していたが、やがてテューに向き直った。
 静かに彼女を抱き上げ、寝台に横たえる。
「テュー、私はまだ、後始末を終えていない」
「……」
 ディーンが引こうとした手を、テューの手が引き止めるように取った。
 強く澄んだ瞳がディーンを見つめる。
 静寂。
 彼はもう一度だけ、彼女に口付けた。
「テュー、小竜を多くの衛兵が目撃している。竜を馴らしているのは、エディフェイラ広しといえどもエルシェ・ミーアだけだ。放っておけばあの娘も、デズヴェリーも間違いなく断罪される。逃げ道はただ一つ。今回のことは『北の賢者』の反乱として、『エーダ』が殺した魔性の者の反乱として、彼らを被害者にすることだ。全てはリデール卿が魔性の者と契約し、成した不祥事とする。わかるな?」
 リデール卿はいずれにしても救えない。だから、もう一つ罪を被ってもらおうと――
「いけない」
 立とうとしたディーンの腕を、テューは離さなかった。
「偽ってはいけない。偽りは偽りを呼び、いずれ、あなたから真実を奪ってしまう」
「……テュー」
 ディーンはしばし沈黙し、やがてかぶりをふった。
「手遅れだ。私は7年前とは違う」
 彼は彼女に触れたことを後悔し始めた顔で、一本ずつテューの指を外していった。
「もう、この身も心も汚れてしまった。今の私には、たとえ玉座を手に入れようとも、あなたの手を取る資格がない。グレインローゼがそうであったように」
 彼は懐から何か、ペンダントのようなものを取り出すと、テューに握らせた。
「あなたの言う通り、偽りは偽りを呼び、罪は罪を呼ぶ。だから、あなたは決してその身を汚さず――。いつか、エディフェイラを正しき道へ」
「ディーン」
 彼が握らせたのは、メイフェル家の家紋が入ったペンダントだった。嵌め込まれた宝石も、施された精緻な加工も、共に一級だ。その権威と価値が、彼女を束の間でも守るようにと――
 けれど、それはある種の覚悟を反映していた。二度と彼女に会わない覚悟を。
「祖父の二の舞になってはいけない。エディフェイラを私に託し、あなたはどうするつもりなのですか」
 テューの問いに、ディーンは答えなかった。
 先は見えている。それでも、力の続く限り武力を介さず抵抗し――
 おそらく、リデール卿の後を追うことになるだろう。
「内乱は起こさない」
 ディーンはそれだけ言った。テューが哀しそうに首をふる。
「今のあなたが何を負っているかは知りません。ですが、あなたの魂までは汚れていない。あなたは今でも人を愛し、国を救いたいと願っている」
 魂までは――
 立ち尽くすディーンの前に、テューが静かに手を差し伸べた。
「口付けを」
 女性としてではなく、彼が仕える王家の一員として、テューが促した。
 その真意を測りかね、ディーンが従えずにいると、テューはいったんその手を引いた。
「ディーン、エディフェイラを救うのに、なくてはならないものは何ですか」
「……」
 しばしの沈黙。
「力だ。知力、権力、武力、あるいは時の運――総称して力と呼ばれるもの」
 純粋な彼女に伝えるには、やや無慈悲に過ぎる真実だった。けれど、この先彼女を守れはしない。彼にできることは、知る全てを伝えることだけだから。
「現実は綺麗事では計れない。どれほどの誠意も愛も、心なき力の前に引き裂かれる」
 テューの両親がそうだったように。あるいは、彼の母親がそうだったように。善でも悪でもなく、勝つのはいつも力を持つ者。それが現実だ。
 テューは落ち着いた仕種で首を横にふると、清流のように澄んだ声で言った。
「エディフェイラの民たちの、救われようという意思です」
 え……?
「ディーン、誠意や愛を力で引き裂くことなどできません。力で引き裂かれるのはあくまで肉体、人の思いそのものは、当事者たちが拒絶しなければ生き続けます」
「……」
「祖父の過ちは、己が思い、己が幸せを放棄することで、救国に一歩なりと近付けると信じたことです。限られた時間、限られた力。その全てを注ぎ込んでやっと達せるかどうかの目標に、己が幸せのためにまで力を使って、どうして達せようかと」
「……それが間違いと?」
 ディーンが問うと、テューは答える代わりに問い返した。
「祖父は、なぜ倒されたのでしょう」
 伝承歌では、国王に刺し殺されたとなっている。
 だが、どう考えても剣の腕はグレインローゼが上なのだ。それは何らかの脚色であり、実際には王家側に不名誉な展開があったか、あるいは歌の通り、妻の死に動揺したか。
 ディーンが黙っていると、テューが自ら答えた。
「祖父は己自身に負けたのです。疲れ果て、いつしか死を求めていた己自身に」
 なぜかどきりとし、ディーンは動揺した。
 死を求める。
 言われて初めて気付いたが、彼自身、それを求めていたのでは――
 いつから終わりたいと願うようになった? 昔から……。いや、違う。
「人を救いたいと願うなら、決して己が幸せを見失ってはいけない。あなたが夢や愛を追いかけてこそ、人はあなたに憧れ、救われたいと願う。相手が救われたいと願って初めて救えるのです。一人で闘ってはいけない。救うべき人々に憧れを与え、味方につけなくてはいけない。ここは彼らの土地。彼らの人生は、彼らが守るもの。一人の人間が、いつまでも国を守るのは無理なのですから。私もあなたも、いつか必ず土に還るのです」
 言葉もなく、ディーンはテューを見つめた。ほのかな明かりに照らされ、気高く神秘的な美貌が闇に映えている。
「口付けを」
 テューの白い手が、再び差し出された。
 ディーンが静かに従うと、彼女は告げた。
「私はエディフェイラの王家の者。あなたがエディフェイラに忠誠を誓い、その身を捧げる限り、あなたの罪は私のもの。もう、その罪から解放されなさい」
「……姫……」
「罪は償うために、不幸は脱するために存在します。その瞬間の喜びを、あなたもいずれ知るでしょう」
 テューはそっとディーンの手を取ると、その手を両手で包み、静かに祈りを捧げた。
 キン
 優しい光がその手を包む。
「何……」
 味わったことのない解放感に、ディーンは少なからず動揺した。体が急に軽くなる。
「何を……?」
 テューはどこか疲れた顔で微笑んだ。
「あなたの身に憑く汚れをこの身に受けました。私は大丈夫。少しずつですが、浄化していけます」
「な……」
 ディーンはしばし絶句した。
 誰が、誰がそんなことを望んだ!? こんな――!
 彼を支配したのが怒りであったか痛みであったかわからない。ただ。
「!?」
 その、怒りとも痛みともつかない何かに突き動かされ、ディーンは手加減もせずにテューを抱きしめていた。
 許せない。
 彼がどんなに彼女を守りたかったか。
 誰のために、エディフェイラを救いたかったか。
 それを――!
「ディーン?」
 息もできないほどきつく抱きしめられ、テューは何も言えずにいたが、彼の腕が緩んだところで名を呼んだ。彼が、泣いているように思えて。
「ん……」
 ディーンは何も言わず、その代わりのように彼女を再度抱きしめた。
 なぜだろう。
 激痛があるはずなのに気にならない。
 ただ、今は彼の腕の中にいたくて……。
 静かな時間が流れた。
「ディーン様」
 やがて、テューが囁いた。
「そばに……いて下さいますか?」
「――ええ」
「ありがとう」

<更新日 2000.10.12>


第2節

 淡い月の光を身に受けて、クーリは真剣な顔で鏡と向き合っていた。
「クーリ? 何やってるの?」
 それを見つけたエルシェが声をかける。
「しーっ」
 クーリはどこかあわててふり向くと、そのかわいい指をぴっと立てた。
「テューの様子を見るのよ。ディーンと何してるのか」
「ええ!?」
 それって、それってのぞき!?
 エルシェはがぜん瞳を輝かせた。
「あたしも、あたしも見たい!」
「しーっ、しーっ」
 クーリはあわててエルシェを静かにさせながら、一方で共犯者を得て得意気だった。
「じゃあ、クーリがすぐに魔法使うからね。騒いじゃだめよ」
「うん♪」
 期待に満ち満ちた声で答えるエルシェ。一方、クーリは真面目くさって言った。
「一つだけ、注意よ。ディーンはラテルと違ってこわいから、絶対にばれちゃダメ。命に関わるからね」
「そうなの?」
「うんそう。クーリは愛されてるから絶交くらいで済むと思うけど、エルシェじゃほんとに殺されちゃうから。ディーンってば、シャレが通じないんだもの」
「えー、やだなー。そーゆーココロの狭いひと」
「こら!」
 いきなり、2人は背中側から叱られた。
「何考えてるんだ。いくら仲間でも、やっていいことと悪いこと、あるだろう!?」
 もちろんファルクだ。珍しく真剣な顔で怒っている。
「えー、固いこと言いっこなし☆」
「言いっこなしじゃない!」
 ファルクは視線で背後を示し、
『ラテルがピリピリしてるのわかんないのか!? やめろよ、これ以上刺激するの』
 小声で懇願するように言った。
 酒場に行くと見えたラテルだが、店が閉まってでもいたのか、割とすぐに戻ってきていた。戻ってきたのはいいが、ファルクの言う通り、ラテルはあからさまに苛立っている。
「はーりゃりゃ」
 エルシェが声を抑えもせずにそう言ったので、ファルクはもちろんぎょっとした。刺激するなと――
 エルシェはお構いなしでラテルに近寄ると、下から覗いた。
「ラテル、だめじゃん、そんな顔してちゃ。そりゃ、あたしも最初はあの伯爵、やなやつだって思ったけどさ。こんな敵の真っ只中に、身一つでやって来ちゃうほどテューが好きなんだよ?」
「寄るな」
 身一つでやって来るほど?
 敵の真っ只中に?
 あほか。
 テューを除いて、このメンバーにあの化け物と渡り合える者などいない。
 まさしく、ラテルは切れる寸前だった。そうでなくとも腹立たしいのに、こんな――
「本当だよ」
 ふいに、エルシェの声が落ち着いた。軽く冗談めいた声音から、しっとりとした、妙に真実味のある口調に変わる。
「悔しいかもしれないけど、ラテルより、伯爵の方がずっとテューのこと思ってる。感じたもん、あの人の悲鳴」
「なに……」
「ラテルのなんて、しょせんは意地に負ける程度の思いでしょ? 好きだって、認めることもできないんだから」
「……!」
 ラテルは怒り心頭、射殺さんばかりの視線でエルシェを睨んだ。
「もー、男ならきっぱりすっぱり諦めなさい! 人の恋路を邪魔しちゃダメ。ラテルには元気になるまであたしがついててあげるから、いつまでもそんな顔してないの! いーね!?」
「ああ!? 誰が――」
「はい、おやすみ」
 エルシェはひらりとラテルの横に回り込むと、軽く彼の頬にキスしてしまった。
「☆◇×△□!?」
「グアアアア」
 それまで部屋の隅にうずくまっていた(寝ていた)リーファが騒ぎ出す。
「何!? リーファ、どうしたの??」
 ――エルシェ リーファの ラテルだめ!――
 おお、とエルシェとファルクが感心する。久々のテレパシーだ。
「ごめんごめん、リーファ、妬いちゃった?」
 エルシェは無邪気にリーファに駆け寄り、
「大丈夫だよ、リーファが一番大好きだから。機嫌なおして?」
 同じようにリーファにキスをした。それから、その鼻面を優しくなでた。
 ――リーファ 1番?――
「うん♪」
「グ グ グ」
 リーファが嬉しそうに、低く重い声で笑う(?)。エルシェはそれを確認すると、毛布を取りに隣の部屋へと行ってしまった。

「……ラテル」
 嵐が去って。
「どうにかしろ、あの女!」
 我に帰ったラテルの第一声。ファルクはぱしっとラテルを叩いた。
「何を――」
 すぐさま敵意を向けるラテルに向かい、ファルクは静かな声で言った。
「しっかりしろよ」
「!?」
「わかんないのか? エルシェ、おまえのつらそうな顔、見ていられないんだよ。簡単にあんなことする子じゃないぞ、エルシェは」
「……」
 ファルクも最初はハラハラしたが、今では感心している。
 腫れ物を扱うように、ただ、触れるまいとした彼に比べ、エルシェのなんと素直で勇敢なことか。
 見てみぬふりなどしない。
 傷ついたものを見れば、威嚇されても噛みつかれても、怯まず手当てする。
 おそらく妙にはしゃいでいたのも、空気を変えようとしてのことなのだ。
「おまえ、子供じゃないんだからさ。わかってやれよ」
「……わかるか、そんなもの……」
 ファルクは小さく息をつき、腰を上げた。
「俺も寝る。また明日な」

<更新日 2000.10.19>


第3節

 空が次第に色を変えて行く。夜明けが近付いていた。
「テュー、行ってもいいか?」
 それまでずっと彼女についていたディーンが、静かな声で言った。
 嘘をつくなと言われても、黙って首を切られるわけにもいかない。手を打たないわけには行かないのだ。
「いいえ」
 同じく静かな声で、けれどきっぱりと、テューが答えた。
「あなたに帰れる場所はないはずです、ディーン」
「……」
 ディーンは一度目を閉じ、それから真っ直ぐテューを見た。
「それでもだ。いや……だからこそ、だ。今の私が敵に背を向ければ、殺されるだけだ」
 テューが静かに首をふる。
「あなたがやるべきことは、他にあります。あなたには、私という切り札がある」
 ディーンが目を見張る。
「ディーン、なぜ、ミランジュがあなたに私を殺させたか」
「!」
 衝撃と驚きに、ディーンはしばし言葉を失った。彼女がそれを知っていようとは、あまつさえ受け止めようとは、思ってもみなかったのだ。
「あなたが私を手に入れた時、あの子にとって最大の脅威となるからです。あの子は決して、他者の幸を妬むような小さな者でも、まして他者の不幸に興じるようないやしい者でもありません。あの子は、ただ、エディフェイラを繁栄させたいと――受け継ぐべくして受け継いだものを、最後まで守り抜きたいと願っているだけです。けれど、あの子の不幸は――あの子が根絶せんとしているものと、守ろうとしているものが、根は同じものであることです。あの子は気付いていない。自分が籠の中のリスのように、ずっと同じ場所で走り続けていることに」
 それはぞっとしない。
 他人事とも思えなかった。
「ディーン」
 テューは真っ直ぐ彼を見つめると、微笑んで言った。
「私を助けて下さい」
「姫……」
 彼女は静かに彼の手を取ると、包帯が幾重にも巻かれた、その腹部に触れさせた。生ぬるく湿った感触に、ディーンの顔つきが変わる。
「傷が……」
「ええ、傷口が開いてしまって……。お疲れのところ申し訳ないのですが、医師様を朝一番で呼んで下さいますか? それから、見ての通り動けないので、宿の女将さんに数日間、かくまって頂きたいのです。全てを明かしてお願いして来て下さい」
 ディーンは一瞬呆気にとられ、それからその表情を厳しくした。
 やはり、彼女は深窓の令嬢だ。
「だめだ、テュー。おまえが生きていると知られただけで、大騒ぎになる。人の口に戸は立てられない。女将がかくまうことを承知しようとしまいと、噂があっという間に広まり、すぐに王子の耳にも届くだろう。今は事実を明かすべきでは――」
 テューは優しく笑うと、そっとディーンの頬に手を当てた。
「心配して下さってありがとう。構いませんから、お願いしたようにしてきて下さい。あなたにも、ぜひ外の世界を知ってもらいたいのです。勝手がわからなければファルクに――彼はとても上手に人を動かしますから、お手本に見せてもらって下さい」
「……デズヴェリーに?」
「ええ。ファルクは中の人間は動かせません。ですが、外の人間であればあなた以上に動かします。頼りになりますよ」
 ディーンはじっとテューを見た。
「――私の言ったことは、理解された上で?」
「はい」
 テューの穏やかな微笑みに、ディーンは目を伏せた。その上で、彼女が王族として命を下すなら――
「わかりました」
 と、テューがどこか名残惜しげに彼を見るのに気付いた。澄んだ瞳が薄明かりの中、寂しげに揺れている。
「……」
 彼は静かに彼女の髪をすくうと、指を絡ませた。そっと彼女の額に口付ける。
 それを受け、テューが素直な動作で腕を回してきた。
 まるで、7年分の思いを伝えようとでもするかのように。
 一瞬傷のことが頭をよぎったけれど、彼もそれに応えるように、軽く彼女を抱いた。その白いうなじに口付ける。
 テューがびくりと震えた。
 さらに深く口付ける。
「……あっ……」
 その震えを確かめるように愛撫する。
「あ……や……」
 テューは苦しそうな声を漏らすと、蚊の鳴くような声で懇願した。
「ごめん……なさい………待って……」
「――傷が痛むでしょう?」
 テューが真っ赤に頬を染めて頷く。
「わかったら、無理なことは望まれないように……」
 テューは悲しそうに彼を見た。彼の冷静さが、痛い。
 彼が見かけほどには冷めていないことに、彼女は気付かなかった。
「傷が癒えたら……」
 消え入りそうに震える声を、彼女はどうにか励ました。必死の思いで囁く。
「抱いて…………下さいますか……?」
 彼は答えなかった。
 迷っているのだ。そうするべきではないと、あるいは、それまで生きていようかと。
 テューはぎゅっと彼の胸にしがみついた。
「愛しています、ディーンさま……お願いです、どうか、二度とは私をお見捨てに……私を残して、逝かれないで下さい……」
 ディーンはそっと彼女を抱くと、安心させるように口付けた。
 けれど、答えることはできなかった。

<更新日 2000.10.26>


第4節

「……」
 与えられた任務を実行するべく、部屋を出て。ディーンはしばし悩んだ。
 結局一人で行くのは諦め、別の部屋の戸を叩いた。医師を呼べと言われても、昨日彼女を診たのがどこの医師かも知らないし。
 正直、慣れないことで勝手がわからない。
 ノックを受けて、都合良くファルクが顔を出した。
 もっともエルシェは隣の部屋でリーファと一緒だし、寝ているラテルはちょっとやそっとのことでは起きない。ファルク以外の者が出てくるはずもなかった。
「メイフェル伯? どう……」
 どうしたのかと言いかけ、ファルクはぽかんとディーンを見た。
「テューの容態が良くない。手を打ちに行くつもりだが、付き合ってもらえまいか?」
「え? ああ、はい。構いませんが……」
「……? どうした?」
「あ……」
 どうしたのかと聞きたいのは、むしろファルクの方だった。ディーンを最初に見た時感じた、あの鬼気迫る緊張感と不吉さが、今はまるで感じられないのだ。まるで、別人のよう……。いや、昔のディーンに戻ったようだ。ファルクの知るディーンは、もともとこういう人物だった。
「済みません、ちょっとびっくりして……何だか、憑き物が落ちたようなご様子なので」
 その答えに、ディーンは思わずファルクを見直した。テューの言葉を思い出し、少し納得する。
「わかるんだな……。なるほど、人を見る目は確かなようだ」
「え?」
「いや、いい。すぐ出られるか?」
「あ、はい。ちょっと待ってて下さい」
 ファルクは急いで支度を整えると、グレインローゼを肩に乗せて表に出た。これだけばたばたしても起きないラテルは、いっそ立派かもしれない。
「あの……俺たちやテューのこと、どうするおつもりですか? その……テューの傷が癒えたら、告発なさるおつもりだったり……」
 ディーンはしばし沈黙した。そういえば、彼らは何も知らないのだ。
 協力を頼む以上、彼にだけは話すか――。
「――デズヴェリー、心して聞けよ。間違っても騒ぐな」
「え? ……はい」
「8年前、ミランジュ王子の姉君……エディフェイラの王女が亡くなられたのは知っているな?」
「……知っています」
 それは暗殺で、目の前のメイフェル伯がその黒幕だと噂されている。機会があったら、そのことについても聞いてみたい。
「その姫の名前がテュー・ニース。彼女だ」
「ええ!?」
 思わず声を上げ、ファルクはディーンの鋭い視線に睨まれた。
「あ、す、済みません……って、何で……」
 ディーンは簡単に事の次第を語り、彼女を守る意思があることを告げた。
「だが、今回だけだ。私の権威は――もはや上層部では失墜している。今回、私は既に、ある程度おまえたちをかくまうために動いてしまった。この裏切りで決まりだ。リデール卿の次に断首されるのはこの私……この件が片付いたら、私とは関わり合いでない方がいい」
「そ……待って下さい! あなたが、断首されるようなどんな罪を犯したと――!?」
 その問いは、なおファルクが彼を信じる証だった。意外さを禁じえない。それ以前に、こんなまっさらで、何ができるというのか。
 ディーンは冷めた声で淡々と言った。
「聞いているはずだ、姫君を暗殺した」
「えっ……」
 ファルクはもちろん納得しなかった。
「だって、姫君暗殺って、テューは生きているじゃないですか!」
 ディーンが目配せして、声を抑えるようにと指示する。
「未遂だったというだけだ。私が彼女に薬の入った飲み物を与え、その部屋に火をかけたのも、槍で一突きにしたのも事実だ。……デズヴェリー、姫のことは他言無用。生きていると知られたが最後、確実に暗殺されると思え。私は……私は彼女を生かしたい。いつの日か、彼女がエディフェイラを救ってくれることを、願っている」
 ファルクはじっとディーンを見た。
「……つまり、姫は死んだという事実が欲しかったんですね? まだ力のなかった貴方が、それ以上に力のなかったテューを守るために」
「――!」
 鋭い指摘に、ディーンは再度ファルクを見直した。テューの言う通り、案外わかっているのだ、この若者は。これでどうして、人を疑うことを知らないのか……。
「メイフェル伯……俺には、難しいことはわかりません。でも、テューはきっと……いつの日かと言わず、今、貴方を救うために立つ気じゃないかと思います」
「まさか……だめだ、今立って何ができる」
「テューなら何でもできます。テューにとっては、貴方が生きてらっしゃる今こそが、大切なはずです」
「……」
「テューを愛してらっしゃるんでしょう? 支えてあげて下さい。今回だけと言わず、この先もずっと……」
 ディーンはどういうわけか、ひどくショックを受けていた。
「デズヴェリー、おまえはミランジュ王子を知らない。もしテューが立つ気なら、私を信じて立つ気なら、無茶だ……! 私では、とても守り切れない」
 彼自身の言葉に、ディーンは初めて気付いた。そして絶望した。
 彼はとっくに、王子に負けを認めていたのだ。考えただけでもぞっとする。再度、テューを賭けて王子と闘うなど――!
 まるで勝てる気がしない。
 7年前、まだ少年だった王子を相手にしてさえ、かなわなかったのだ。かわすだけで精一杯だった。あれから7年。
 王子とぶつかることは度々あった。その度に敗れた。
「メイフェル伯……」
 ファルクはためらったが、やがて毅然として言った。
「テューに全てを押し付けて、逃げようと言うんですか」
「――!」
「あなたは本当に、テューを愛していらっしゃるんですね。理性では闘うのはテューだとわかっているのに……その力があるとわかっているからこそ、未来を託そうとなさっているのに……。手元にあると、どうしてもあなた自身が彼女を守って闘わなければならない気になって、判断を誤られる」
「何……」
「自分がテューを愛し、守ろうとしていることを、自覚なさるべきだと思います。そうすれば、あなたなら状況判断を誤ることはないと思います。俺なんかより、ずっと頼りになる方なんですから」
 ディーンはふと、ファルクの燃えるような赤毛に気付いた。王子も赤毛だが、あれはブロンドに近い。
「……そうでもないかもしれないな」
「え……本当ですよ! 俺、あなたのことずっと目標にしてたんですから!」
 ディーンは苦笑すると、一瞬、真っ直ぐファルクを見た。
「おまえが思っているより、おまえ自身が頼りになるということだ」

<更新日 2000.11.03>


第5節

「王子、メイフェルにまかれました」
 王宮の一室。機能美を追求した、一つ一つの品が高価な割には簡素な書斎。王子はたいがいこの部屋にいた。
「ふ、最近不審な行動が目立ったが……いよいよ開き直ったな」
 報告を受けるミランジュ王子はブロンドに近い赤の巻き毛で、若く端整な顔立ちをしていた。瞳は碧。テューと同じ色だ。
「予定通り出立なさいますか? それとも、まずはメイフェル伯の断罪から……?」
 王子はしばし沈黙し、何事か考えていた。
「……タイミングがおかしいようだな。メイフェルは、意味のないタイミングでは事を起こさぬ、なかなかに読みやすい者だ」
 これは王子ゆえの見解だ。彼の狙いを見事に見抜ける者など、エディフェイラ広しと言えど王子くらいのものだ。
「……まさかとは思うが……」
 テューでも生きていた?
 このタイミングでの離反を、彼は計画していなかったはずだ。彼をふり回すのは、王子の知る限り、姉だけだった。
「北の賢者……女の魔物だったと言ったな」
「はっ」
 王宮への招待に応じなかったのは、姉だったからとも考えられる。
 だとしたら――
「よし、国中に触れを出し、メイフェルを皇族暗殺の咎で告発しろ。これで、森霊を倒さねばならぬ大義名分も成立する。どの道限界だったのだ、義姉上の死を、いつまでも化け物相手に隠しおおせることなどな」
「しかし本当に……本当に、森に手を出されるのですか……?」
「致仕方あるまい、機は熟した。そうでなくとも天候不順が続き、食料が不足していたのだ。その上セリーゼからの難民が……飢えた難民などが流れ込み、状況はますます悪くなっている。父上が、お考えもなくセリーゼ併合などに乗り出すから……。放っておけば、国が荒れる。余には森霊の呪いにしか見えぬよ、この状況は」
 報告者の男、ジハドは眉をひそめて王子を見た。
「王子……何も御自ら命を張って豊かな土地を確保せずとも、難民など皆殺しで良いではありませぬか。彼らを養うだけの食料は、我が国にはもとよりないのです」
「そうだな。このような時のため……これまで飢饉に備え、領主の搾取を多目に見てきた。民の危機管理能力など、たかが知れている。であれば欲の皮の張った領主に搾取させ、いざという時には、その蓄えを民に還元すれば良い。おかげで一昨年、昨年は乗り切ったが……リデール卿もメイフェル伯も、有力ながら、強欲ではない者達だ。たいした蓄えはない。腹の足しにもなるまいよ、あれだけの民に配ってしまえば……」
「ですから……」
 王子は深い瞳でジハドを見た。
「おかしいと思わぬか? エディフェイラがこれだけ苦しんでいるのに、すぐ隣の森はあれだけ豊かだ……。森霊はただ一つの要求を繰り返すばかり。娘を返せとな。単調な要求に見えて、案外、そうではないのかもしれぬ。我らが義姉上を返さぬとあらば、国を滅ぼす気かもわからぬ。だが知っての通り、義姉上は既にこの世にない。そうと知れ、滅ぼされるくらいであれば――。その前に、余が神を滅ぼそう」
「王子……相手は神です。返り討ちにあうかも、どのような呪いを受けるかもわかりません」
 王子はファサリと巻き毛をかき上げると、その端整な顔をわずかに歪めて外を見た。美しいエディフェイラ、彼の国を。
「民のためであれば、喜んで犠牲になるのが王室の姿勢だ……。余はこの血に誇りを持っている。この身に呪いを受けようと、この地への呪いが解けるなら、構わぬ」
 森霊の力を侮っていたのは事実だ。これほどの力があると知っていれば、あの時、姉を死なせはしなかったものを……。
「だが、力及ばず、余が果てた時には……先程そなたが申したように、まずは難民達を虐殺せよ。やつらに与える食料はない」
「――はっ」
 王子は再び、視線を落として考えた。
「……ジハド、義姉上が生きておられるかもしれぬ」
「何と!?」
 王子は微妙な顔でジハドを見た。彼女が生きているとも、生きていないとも確信できない顔だ。
「先の触れに加えて、義姉上の死に怒り、国に呪いをかける森霊を討ちに行くこと――この機に公表してみようと思う。義姉上が生きていれば、名乗りを上げるかも知れぬ」
「その時はどうなさるのですか……? 姫ご自身が、エディフェイラを恨んでいるかも知れません」
 ミランジュ王子はどこか残酷に笑った。
「構わぬ」
 力ずくでも妃にすればいい。王家の血は一つにまとまり、森霊も、エディフェイラに牙を剥けなくなるだろう。
「構わぬ……」
 姉とて、王家の一員なのだから。国のため、犠牲になるのはその義務だ。
「我が妃にするだけのこと――」

<更新日 2000.11.09>


第6節

「……」
 まずは宿の女将に事情を話して、テューをかくまってもらえるよう、頼まなくてはならない。ディーンはさっそくつまづいていた。
「ディーン様? 行かれないんですか?」
 女将の部屋を目の前にして立ち止まってしまったディーンを振り返り、ファルクが不思議そうに問いかけた。
「……だめだ。やはりどう考えても無理だ。取り引き材料がない上、相手は一般人だ。どう考えても信用するのは危険だ。一般人など、簡単に誘惑に負けるし、罠にもかかる」
「そんな大げさな……」
 ディーンは厳しい瞳でファルクを見た。
「大げさではないぞ、デズヴェリー。私が手を回して止めたが、国の正規兵数十名が、おまえたちを討ちに出されるところだった。事態はおまえが考えるよりはるかに深刻だ。おまえたちは、既に政争に巻き込まれている」
「え……」
「いつ暗殺隊が動くか知れない。いつ罠にかけられるか知れない。何の義理もない一般人に事情を話すなど、無用心にもほどがある」
 ディーンの言葉に、ファルクは短い沈黙の後、首をふった。
「ディーン様、無用心だろうとなんだろうと、かくまってもらうしかないんです。テューを動かすことはできないし、それほど事態が深刻だと言うなら、俺たちがここにいるだけで、宿の方には迷惑をかけかねません。女将さんには事情を話しておくべきです」
「……」
 ディーンはじっとファルクを見た。つまり、ファルクは――姫たるテューの意向、身の安全と、女将のそれを同じように尊重しているのだ。それを同列に扱うなど、ディーンにはおよそ考えられない。
 テューへの個人的な思いのためではない。そう、それは貴族の階級意識――。
 ディーンは難しい顔で眉をしかめた。
 テューは話せと言った。
 つまり、テューは、ファルクのような意識を望むと――
 彼を伴えと言ったのは、だからか。
「……わかった。だが、私には勝手がわからない。デズヴェリー、おまえが交渉してくれるか?」
「え? ……あ、はい。わかりました」


 夜明け前に叩き起こされ、宿の女将はさすがに不機嫌そうだった。しかし、ディーンを見るなり、現金にもにこにこし出した。
「ねえファルクさん、そちらはどなた? 素敵な方ねえ」
 女将は年甲斐もなくうきうきした顔で、ファルクに興味しんしん尋ねた。
 ディーンはあまり、いい顔をしていない。ファルクはちょっと苦笑した。こうして興味を持ってもらえた方が、話にはずっと入りやすい。しかもこれは好意だ。頼みごとをする以上、かなりいい状況だと言える。
 まあ、ディーンに「色仕掛け」なんて、素質があってもできないのだろう。
「実は、お願いがあるんです」
 ファルクの話を、女将は熱心に聞いてくれた。彼が事情を語り終える頃には、女将の顔には、『私は国家の一大事に関わっているんだわ、すごいわ! かくまい抜いたら、絶対みんなに話さなくっちゃ! どきどき』と書いてあった。
「どうでしょう、協力して頂けるでしょうか」
「まあまあまあ、当然ですよ。テューちゃんもかわいそうに……。お兄さん、テューちゃんを絶対、幸せにしておあげないさね。あんなにいい子は滅多にいませんよ」
 少々おせっかいだが、温かくて気持ちの良い女将さんだった。ファルクたちが宿に戻った時も、戻るなり、何をしていたのかとさんざん文句を言ったが、医師や部屋の手配はしっかり済ませてくれていた。その辺り、その人柄がうかがえる。
「ええ、ええ、任せなさいな。近所のみんなの方にもあたしが声をかけて、騒がないよう言っときますよ。大丈夫、慣れてるからね、こんなこた。姫様をかくまうなんて初めてだけど、人をかくまったことなら何度もあるんですよ。たとえばそう……」
 放っておくと、いつまでも話していそうな雰囲気だ。ファルクはあわてて言った。
「済みません、女将さん。テューの容態が悪くなってて、俺たち、先生を呼びに行くところなんです」
「あら大変。それならそうと早くお言いなさいな。あらあら、大変じゃないの」
 女将はあらあら言いながら、簡単な地図を書いて医師の居場所を教えてくれた。
「うまくおやんなさいねえ」
 女将の言葉に笑顔でこたえ、そこを後にする。
 宿を出ると、ディーンが少々驚いた顔でファルクを見た。
「随分簡単なんだな。あんなものでいいのか? ことの深刻さを、まるでわかっていないように見えるが……」
「そうですか? 頼もしいと思いましたけど」
 あまりにも納得行かない、不安の残る状況だが、テューの指示だ。彼女の意図を見極めるためにも、今は事の成り行きを見守るしかない。
 ディーンは腹を括り、歩き出した。もう一つの指示である、医者の手配をするために。

<更新日 2000.11.16>


第7節

「いいですか、回復するまで、水も食料もとってはいけません。あなたは今、そういったものを消化できない状態なんです。この状態では、お腹がすくこと自体ないと思いますが……。それからもちろん絶対安静にして、あと……」
 医師はテューを診て、一通りの指示を与えると、部屋を出た。テューに聞こえなさそうな場所まで来ると、医師は深刻な顔で首を横にふり、告げた。
「メイフェル伯、残念ですが、お覚悟下さい。おそらく……」
 何も言わず、ただ表情を険しくしたディーンの代わりに、ファルクが言った。
「覚悟って……覚悟ってどういうことですか!」
「胃をやられています。特に体力のあるお方だとも見えません。おそらく、食事ができる状態まで回復する前に――」
 餓死する。
 医師は無慈悲にそう言った。手は尽くしたが、こればかりはどうしようもないと。彼女の体力次第だと。
 愕然と医師を見送り、ファルクが呻いた。ディーンは静かに部屋に戻った。
「……ディーンさま……?」
 テューが細い声で名を呼び、嬉しそうに手を伸ばしてきた。彼が黙ってその手を取ると、彼女は花が綻ぶように笑った。
「良かった……。夢ではなかったのですね」
「夢?」
「あなたに再会できたのも、愛していると言われたのも、みな夢だったのではないかと――不安になってしまって」
 ディーンが何も言えずにいると、テューがそっと彼の手の甲に口付けした。
 絶望的な愛しさの中、ディーンも静かに彼女の額に口付けを返した。
「……ファルクは……ファルクは頼りになったでしょう?」
「……ええ」
 ディーンが静かに頷く。テューは満足そうに笑うと、少し首を傾げた。
「ディーンさま……医師様はなんと?」
「安静にさせるようにと」
「そうですか……」
 テューはじっとディーンを見ると、聞いた。
「あまり、死ぬ気はしないんですけれど……医師様は、私はどうして死ぬとおっしゃったのですか?」
 ディーンは思わず息を詰め、それからほうっと吐き出した。
 まったく、どうしてわかるのだ。昔からそうだった。テューとミランジュ王子は、どうしてか彼の全てを見抜いた。いつも、どんなに巧妙に隠したつもりでも、見抜かれた。
 決してディーンが隠し事のできないタイプ、というわけではない。むしろ得意な方だ。
 その証拠に、この2人以外の者なら、いくらでも欺けた。
 誇ることではなく、むしろ恥ずべきことだが。
「……なぜ、わかった?」
「……なんとなく」
 その答えに、ディーンは苦く笑うと口を開いた。医師から聞いたことを正確に、もはや何も隠さずテューに伝える。
 聞き終えると、テューはあろうことか微笑んだ。
 申し訳なさそうでもあったが、むしろ幸せそうな笑みだった。
「テュー?」
「ディーンさま……悲しんで下さるのですね、私が死ぬと――」
 その言葉に、ディーンは怒りすら覚えた。当たり前だ。滅多に表に出ない、彼の年相応の若さがちらりとのぞいた。
 死ぬと聞いてもまるで取り乱さない。
 その命の価値にまるで執着していない。
 愛する者がそんな態度を見せたら、誰だって腹が立つだろう。こちらがどんな思いで――。
 どんなに生きて欲しいと願っているかも知らないで。
「ありがとう。でも、大丈夫ですから」
 ディーンは内心ますます苛立った。
 大丈夫なわけがない。彼女が死んで平気なわけがない。
 ディーンは思わず、取っていたテューの右手を強く握った。彼女が痛がるくらいに。
 けれど、何も言わない。平気であるべきだから。人一人の死に、今さら動揺できない。
 理想のため、何人も死に追いやった。
 彼女とて、彼が彼の意思で追い詰めた。死なせるのだから。
 ――苛立つのは、彼自身の心の揺れに対してだった。
 彼女を生かせない、彼自身の無力に絶望していた。
「ディーンさま……本当に、大丈夫です。どうか安心なさって下さい。みな庇ってくれます。それに、私は森霊ハーフ……水と光があれば生きて行かれます。この程度の傷では死にませんから」
 ディーンは目を見開いてテューを見た。聞いた言葉が信じられなくて。
「何……?」
 テューはにっこり笑った。
「窓を開けて、髪を広げて頂けますか? それから、お水を一杯汲んできて下さい」
「……水も飲ませないようにと、医師に言われたが」
 信じたさと信じられない思いの狭間で、彼はそれだけ言った。ひどく無機質に。
 恐れと歓喜の狭間で、感情がこもらないのだ。
「大丈夫」
 柔らかい笑顔を見せて、テューが言った。死を待つ気配はない。
「飲みませんから。お願いします」
 笑顔に突き動かされ、ディーンはすぐに彼女の指示を実行した。
 それを待って、テューは白い指をそっとグラスの水に浸け、気持ち良さそうに微笑んだ。
 長い若葉の髪が朝日にキラキラきらめいて、眩しいほど美しかった。
「みなも、心配していますよね。大丈夫だからと、伝えてきて下さい。それから――」
 テューの瞳が、ふいに真剣にディーンを見詰めた。強い意志の光が見えた。
「5日後に、リデール卿の処刑があります。日時が変更されないよう、気をつけて見ていて下さい。予定通りになるようでしたら、その日に動きます。ディーン、あなたはもはやどこへも行かず、臣下として私を守って下さい」
 最初あっけにとられ、直後に腹が立った。あえて怒りを隠さず、ディーンは厳しく言った。
「早すぎる。5日で治る傷ではないことくらい、わかるだろう? テュー、卿のことは諦めろ」
 しかし、テューは頑固に首をふった。
「ディーン、あなたが守ってくれます。あなたをもっと信じて下さい。それから、姫を呼び捨てしてはいけませんよ」
 言ってころころ笑う。二人きりの時は、むしろ呼び捨てしないと悲しそうな顔をするくせに。
 無性に腹が立って、ディーンは冷たく拒んだ。
「いくら姫の命でも、無茶なものや理不尽なもの、私的なものは聞きかねます」
「……」
 テューは静かに彼を見て、それから少し、寂しそうに笑った。
「聞いて下さい。そんな顔で突き放されては悲しくなります。私のお願いなのですよ?」
 ――何だって?
 ディーンはまじまじとテューを見て、すぐ彼女の笑みに不敵なものがあるのに気付き、不機嫌そうな顔をした。
 会わなかった7年間も、彼女を全く変えなかった、と?
 ばかなことを考えた。気の迷いだった。
 少女らしい澄んだ瞳でただただ彼を見つめていたテューは、もはや、ここにはいない。
 7年間ですっかり女になった。あろうことか、彼に姫としてではなく、その魅力で言うことを聞かせようとしている。思い上がりだ。
 彼はやや乱暴に彼女の腕をつかむと、彼女を寝台に押し付けるようにして、その唇を奪った。テューが驚いて、あわてて抗う。ディーンはここぞとばかり、どちらが強いか思い知らせるように、その抵抗を押さえ込んだ。強引に舌に触れられ、テューが顔を真っ赤にして身を竦ませる。
「ず……ずるいことはやめて下さい!」
 やっと解放されると、テューが泣き出しそうな顔でそう言った。
「ずるいのはどちらです。嫌われたくないなら、おとなしくなさい」
「そ……」
 ずるいずるいと、テューがなけなしの怒りを込めて、その澄んだ碧の瞳で彼を非難する。
 しかし、ディーンはひょうひょうとしていた。主導権は握らせない。
 彼の思惑通り、ちょっと強気に睨んだだけで、彼女は怯んだ。嫌われること、突き放されることを恐れている。
「痛……」
 しかし、そんな優越感にひたったのも束の間、テューが青い顔をして傷を押さえるのを見て、ディーンはあっと思った。
 しまった。
「痛い……」
「――済まない、傷を……。すぐに人を呼びます。お許しください、どうか、気を強く持たれて……」
 テューは健気そうに首をふると、儚い声で「ここにいて下さい」と頼んだ。
 ディーンにやきもきしながら見守らせ、内心でほくそ笑む。
 どうやら、やはり彼女の方が一枚上手のようだった。

<更新日 2000.11.23>


第8節

 三日後。
「大変だ! ミラ……」
 ミランジュ王子が森霊を討ちに行く、と聞いてあわてて戻ったファルクは、ディーンの鋭い視線に睨めつけられ、射殺されたように黙った。
「デズヴェリー、テューを殺す気でないなら黙れ。知れば、彼女は傷など構わず動く」
「そ……」
 ファルクは気丈にもディーンをきっと睨み返すと、強く言った。
「それだけおおごとだからでしょう!? 義弟と母親が殺し合うのを、知らせずにおけるわけ――」
 ヒュっと、刃物が空を切った。
 ディーンの短剣が、ファルクの喉を薄皮一枚切った。
「二日後まで、他言無用。この上彼女に知らせる気なら、覚悟しろ。殺す」
 ディーンが極めて本気であることを、ファルクは全身で感じ取った。
 ――それ以前に、竦んでしまって動けない。
「――……! 〜! 〜!」
 ふと、ファルクは部屋の隅でじたばた暴れる小さなものに気付いた。クーリだ。
 可哀相に、何やら魔方陣の張られた小さなびんに詰められている。
 ……。
 ディーンが?
 そろそろとディーンを見ると、彼は静かに冷笑していた。
「クーリはだめだ。簡単に口を割る。娘と竜もだ。邪魔だから、ドラゴンハーフを護衛につかせて、一度北の山に避難させた。適当に言いくるめてな」
 ――案外強引だ。
 ファルクは冷や汗たらたら喉元を見た。短剣が痛い。
「オ、俺は……?」
「どうする? 従ってもらえるとありがたい。とうとう、私は名実ともにお尋ね者だ。下手に動けない」
「え……!?」
 ファルクが驚いてディーンを見ると、彼は苦笑した。
「情報が片手落ちだな、メイフェル。姫殺しの咎で告発された。問答無用で殺していいと触れが出ている」
 高圧的な態度を取りながら、ディーンが案外困っているのにファルクは気付いた。
 困っているというか……。
 テューに振り回されている。
「……知られた時、テューを止める自信がないんですね?」
 ファルクの鋭い指摘に、ディーンは破顔一笑頷いた。これだから彼が好きなのだ。穏やかな割にものわかりが良く、しかも誠実で、こういう時には一番頼りになる。
「まあ、当たり前だな。相手は北の賢者――王子すらふり回す、折り紙つきの知の守護者だ。行動力も抜群、魔法も使う、カリスマもある――彼女がその気になって、できないことなどおよそないだろう。彼女は――」
 ディーンは厳しい顔でファルクを見た。
「森と人が争うくらいなら、それを止めるためなら、命すら惜しまない。――行かせないでくれ」
 それが、本音――。
「……ですが……テューは、気付いているんじゃないですか? あなたが隠し事をしていることに。クーリのことだって、心配してると……」
「気付いている」
 ディーンはあっさり言った。
「大丈夫だ、クーリの心配はしていない。私が監禁していることくらい、彼女は察している。その上で、私を信じておとなしくしてくれている。不本意そうではあるが」
「……そうなんですか……」
 ファルクはほうっと息をついた。仕方ない。
「わかりました。協力します」

クーリ
 ちょっとお、どういうこと!?
 信じらんない!!
 もう最悪よ、ディーンったら!!
 クーリはちょっと、ちょおおっと覗いてみたかっただけじゃない?
 普通じゃない?
 クーリの大事なテューを、ディーンがちゃあんと大事にするか、ちょおおっとチェックしようとしただけなのよ?
 それを、テューもいけないの。クーリが魔法で覗いてるのに気付いて、中空を静かに見据えたりするから、ディーンが感付いちゃって……。
 ああやだ、思い出したくもないわ!
 ディーンってば気付いてない顔で、いかにも「テューのそばにいられて、私は機嫌がいいんだ」って顔でクーリを呼んで、お菓子をくれるって言うから、クーリが喜び勇んで瓶の中に入ったところを……容赦なくフタをしたの!! 結界まで張ったのよ!?
 もうもう、瓶の中のお菓子なんか食べちゃったよう〜。つまんない〜。
 誰か出して〜。しくしくしくしく……。
終わり

<更新日 2000.11.30>


第9節

 処刑当日の正午。
 処刑場となる広場には、相当な人だかりができていた。
 人々の悲鳴、怒号、そんなものが交錯している。
 民衆が納得していないからだ。
 リデール卿と、その助けで民衆代表として闘った者たちに、いったいどんな罪があるのか。
 お腹が空いた。戦役・労役がきつい。森霊の森に手を出してはいけない。
 それは民衆たちにとって、共通の思いだった。
 王家が打てる限りの手を打ち、それでも彼らを守っていることを、民衆は理解していなかった。王家側も理解されるのを諦め、力でねじ伏せようとしているのだから仕方ない。
 ピィ――
 刑場はかなり混乱していたが、それでも合図の笛が鳴り、死刑囚が引き出されてきた。
 その親類縁者の悲鳴や泣き声が上がり、ますます混乱の度合いが深まる。
 その時だ。
「その処刑、待ちなさーいっ!!」
 場違いに若く通る声が響いた。空の上から。
 人々が何事かと見上げる先に、小竜が一頭。
 背には銀髪の少女を乗せている。
 伝承歌にでも出てきそうな、ひどく絵になる一場面。
 少女の銀のくせ毛が風に舞い乱れ、その赤の瞳が印象的に空に映えていた。
 まるで、天使が降ってきたかのようだ。
 エルシェはリーファを操り、まずは処刑のために用意されていたギロチンを、そのブレス一吹きで氷漬けにした。
 リーファのブレスはキラキラ陽の光を反射し、幻想的なまでに美しかった。しかし、賞賛よりも恐怖が勝ったらしい。人々は固唾を飲んでリーファを遠巻きにした。
 エルシェは視界の端にその様子を見て、少しつまらない気持ちになりながら、気を取り直して役人を見た。
 いいのだ、これで。
 見ていればいい、このエルシェとリーファの勇姿を!
「おまえは……エルシェ・ミーア!?」
 役人の一人が言った。
 意外に有名人だ。エルシェはちょっと得意になって、偉そうに胸を張った。
「そうよ! 北の賢者の一番弟子、エルシェ・ミーアが邪魔してやる! ……じゃなくて、えーと、やんがと、なき、お方からの……ええと、お言葉を預かってきたわ!」
 しーん。
 しばしの沈黙。
 やがて、民衆の一人がおずおずと、遠慮がちに彼女に言った。
「……やんごとなきお方?」
 エルシェはじっとその人を見た。それから、こくりと頷いた。
「そうかも」
 雰囲気が一気に崩れた。せっかくの演出効果が台無しだ。
「射殺せ!」
 職務を思い出したように、役人が言った。
「ええ!? ちょっと、何で、聞いてよ! きゃああああっ」
 エルシェの危機を察して、リーファが庇うようにブレスを吐こうと息を溜める。
 その様子に、今度は役人側があわてた。
 エルシェはともかく、リーファをどうにかできる手立てはない。
「うわ、小娘、やめさせろ! 殺す気か!」
「それはこっちのセリフでしょおっ!」
 もはや収集がつかなくなりかけた時。
「静まれ! この処刑は許されぬ!」
 威厳と自信に満ちた強い声が割って入った。エルシェのものとは威圧感が違う。刑場は水を打ったように静かになった。
 混乱が大きい時にはエルシェの演出が、声が通るくらいに静かになったらディーンの威厳がものをいう。
 スラリとした長身で、壮麗な黒衣を見事に着こなした、若き伯爵。
 秀麗な面差しながら、冴えてきつい目つきが近寄りがたい感を与える。
 その伯爵を、知らぬ役人はいなかった。
「メイフェル伯……」
 役人たちがざっと展開し、彼を遠巻きに取り囲みながら槍を構えた。
「姫殺しのかどで、処刑せよとの命が下っております。もはや誰もあなたの命には従いませぬ」
 ディーンは怯みもせずに視線だけで民衆をどけ、道をあけさせた。
 人垣の向こうから、たおやかな女性が一人、進み出てきた。
 全身を白装束で包んだ、気高く優美な人物。
 彼女は中央まで来ると、静かに被りものを取った。
 世にも稀な美貌と、陽にきらめく若葉の髪があらわになった。
 こんな色の髪を持ち得る者は、ただ一人。
 森霊の愛娘と言われる、死んだはずの姫君ただ一人――。
「みな、武器を引きなさい。彼の身の潔白は、この私、テュー・ニースが保証します。私が生きているのに、よもや、これに異を唱えたりはしませんね?」
 誰もが周りの者と顔を見合わせた。
「……姫……? ……テュー・ニース姫……?」
 彼女は静かに頷くと、世にも優美で、気品に満ちた笑みを浮かべた。
「ゆえあって、伯にかくまって頂いておりました。私の不手際で、伯に不名誉な噂が流れたこと、申し訳なく思っています」
 ディーンはもったいないとばかり、テューに頭を垂れて礼を尽くしながら、油断なく辺りの様子をうかがっていた。全神経を研ぎ澄ませ、どんな小さな動きも見逃すまいと。
 テューの傷はまだまだ癒えていない。本当なら、歩いて良い状態ではないのだ。
「姫!」
 死刑囚の一人が声を上げた。枯れ木のような初老の男だ。
「リデール卿!」
 テューは微笑んで駆け寄りかけ、よろめいた。ディーンが庇うように支えに入る。
「姫!?」
 卿がどうしたのかと、気遣わしげな声をかける。テューはゆっくり卿に近付くと、その戒めに触れた。途端、戒めがばらりと地に落ちる。
「姫、生きておられたのですか……! よくぞご無事で!」
「ええ。心配をかけました。お元気そうで何よりです」
 二人は束の間、父娘のように抱き合った。
「メイフェル伯……? 伯が、姫を?」
 テューを離し、改めて状況を見たリデール卿がディーンに問うと、テューが嬉しそうに笑って言った。
「リデール卿、祝福して下さい。ディーン様に、妻に迎えて頂けることになりました」
「おお、それはおめでたい!」
 ディーンはまず耳を疑って、それから唖然とテューを見た。
 そんな話は聞いていない。打ち合わせにない。
 打ち合わせにないとしたら――
 誰がいつ、そんな約束をした!?
「……姫?」
「はい?」
 無邪気に見上げてくる、碧いテューの瞳は澄み切っていて、何の悪意も作意もうかがえなかった。だめだ、彼女は大真面目だ。いったい何をカン違いして――
 ディーンは軽いめまいを覚えた。頭から夢が叶ったと信じ、喜びも露に微笑みかけてくる彼女に、どうして「カン違いだ」などと言えよう。
 一難去ってまた一難――
 そうでなくても、頭の痛いことは山ほどあるのに。
 このまま彼女の傍にいたら、過労で倒れるかもしれないと、ディーンはふと不吉な予感を覚えた。
 ――後で、クーリを使って確かめよう。
 好奇心旺盛な妖精は、頼まなくても聞き出すだろうし。
「姫、ところで……この後はどうなさるおつもりですか?」
 卿が深刻な顔で問いかけてきた。
「まずは、弟に会って話をしようと思っています」
「ミランジュ王子に? 森に出向いて、止めて下さるのですか」
 テューは驚いて卿を見た。
「森? なぜミランジュが森にいるのですか?」
 狩りだろうかと思ったテューに、卿の口から衝撃的な事実が告げられた。
「王子は、姫の母君である、森霊を討ち果たすおつもりです。ここ数年のエディフェイラの天候不順、不作続きは森霊の神通力によるもので、これを討ち果たさねば、国が滅ぶとおっしゃって……」
 話を聞くと、テューははっとした顔でディーンを見た。彼が隠していたのは、クーリを監禁してまで隠していたのはこのことか、と。
 ディーンの黒い瞳が頷いていた。
「いつ……いつ出発するのです!? まさか、もう――!」
「昨日、森に入られたと聞きました」
 テューはキっと表情を厳しくすると、すぐにその場を収めにかかった。
「皆、よく聞きなさい。リデール卿とその協力を仰いだ者たちに、どれほどの罪もありません。彼らはただ、王宮に声を届けようとしただけです。本来ならば、私たちが努めて聞き取らなければならない声を、彼らの方から届けて下さったのです。その者達に感謝こそすれ、裁くなどもってのほかです。直ちに彼らを解放し、丁重に謝罪なさい。責任は全てこの私、テュー・ニースが取ります」
 最初はしぶっていた役人側の責任者も、テューの再三に渡る説得に、ついに言い負かされた。
 それはそうだろう。
 皇族であるテューと、宮廷内一の切れ者であると噂のディーンと、その場の民衆全てを敵に回して、誰が勝てるものか。意固地になって自分の役目を主張してみても、みっともないだけだ。
 死刑囚が解放されると、民衆は歓喜と歓声に湧きかえった。テューを胴上げせんばかりの勢いだ。これは怪我を理由に、ファルクが丁重に断った。
「ファルク、後をお任せしたいのですが、任されて頂けますか? 弟が、森霊を討ちに森に入っています。急がなければ……急いで止めに行かなければ、弟が殺されてしまう」
 これにはやや、ファルクもディーンも意表を突かれた。
 勝負は五分、あるいは王子有利と見ていたのだ。何しろ王子は手練の手勢を連れているし、知略に長けることで有名だ。
 相手がいかな森霊でも、討ち果たしてしまうのではと思われた。
「それは……ええ、もちろん任せてくれて構いません。ですが、王子が殺されると?」
 テューは厳しい表情で頷いた。
「森にいる森霊の力は絶大です。森の中でそれを討ち果たすなら、森を全焼させるくらいのことが必要です。けれど、あの子は森をこそ求めているのですから、そんなことはできません」
「だが、そうとわかればミランジュ王子のことだ。あなたの名を使い、森霊を森の外におびき出すくらいのことはやるぞ」
 ディーンの言葉に、テューは静かにかぶりをふった。
「森霊に刃を向け、そうとわかった時には手遅れです。罠を張る以前に、あの子は二度と森の外に出られない」
 ディーンはしばらく沈黙し、それから言った。
「ミランジュ王子は『神殺し』の剣を手に入れている。どういうものかは知らないが、それを手にしたために、今回、討伐に踏み切ったと聞いている」
 玉砕覚悟ではなく、勝算あってのことだったのかと、初めてテューの顔から確信が消えた。
「急ごう。手遅れになる前に……」
 ディーンの言葉に、テューはきゅっと口を引き結び、神妙な顔で頷いた。

 森へ――!

<更新日 2000.12.14>


閑話 遠く険しい道のり

※閑話……(1) 静かな話。閑談。 (2) むだばなし。

 森霊の森への道すがら、ディーンは軽くクーリを手招いた。
 つい先日瓶の中に閉じ込められたばかりのクーリはもちろん警戒していて、いつものように一目散には寄って来なかった。
 ふわふわと漂いながら行きつ戻りつ近付いてくる。
「クーリ、頼みがある」
「……なあにい〜? また瓶の中に閉じ込める気だったらいやあよ〜!」
 閉じ込めないから、とクーリを招き寄せ、ディーンはこそこそ耳打ちした。いつの間に彼と結婚することになったのか、その辺りの事情をテューにそれとなく聞いてきて欲しい、と。
 それを聞くと、クーリはぱっと顔を輝かせた。
「いつの間にそんなことになってたの!? いやあん、クーリも知りたいっ。教えて〜」
 ディーンは深々と嘆息し、告げた。
「それを聞いて来てほしいと、今頼んだばかりだろう? 私にはそんなつもりはなかったんだ。礼はする。例のものでいいな?」
 例のモノ、と聞いて、クーリの尖った耳がぴくんとそば立った。
「3本よ! 3本なら聞いてあげる。ディーンってば、クーリを閉じ込めたりして、クーリ、怒ってるんだからね!」
「3本?」
 ディーンはきょとんとクーリを見た。
 例のモノ、というのが実は裂きイカで、以前ディーンが酒のつまみにしていたものだ。それをクーリがくすねて食べて、いたく気に入ったらしい。以来、ことあるごとにイカをねだるのだから、おかしな妖精だ。小さな口であむあむと、それは一生懸命イカを噛み締めては、旨味がじんわり口の中に広がってくるのにご満悦している。
 ――それはともかくとして。
 3本どころか、1本すら食べ切れないくせに。
「……わかった。頼む」
 そんなことはおくびにも出さず、ディーンは涼しい顔で言った。裂きイカを3本与えること自体に、不都合は何もないからだ。クーリが「食べ切れない!」と後で泣いても知ったことではない。安上がりな妖精だ。
 クーリは嬉々として、テューの乗る馬車の方へと飛んで行った。

     *

「テュー、テュー、ディーンと結婚するってほんと!? 求婚されたの!?」
 クーリが馬車の中に飛び込むやいなや尋ねると、テューはちょっと驚いた顔でクーリを見た。それから優しく微笑んだ。
「ふふ、求婚されてはいませんよ。でもね」
 テューは世にも幸せそうに笑っていた。思わず見惚れてしまうほど、甘い。
「そのつもりもなしに、女性を組み伏せたりする方ではありませんから」
 だから間違いないのだと、テューはクーリを優しく諭すように言う。
 しかし諭されても、ディーン本人がそんなつもりはなかった、と言っていたわけで。

クーリ
 わかるかしら!?
 これは遠く険しい道のり、大変なことよね!
 結局のところ、テューはやっぱりお姫様なんだわ。いくら頭が良くても、人を見る目があっても、肝心なところでお姫様。
 ディーンはディーンで変にすれちゃって、テューの策士具合を見て自分と同類だとカン違いしたのが間違いのもとよね。
 この二人が理解し合うのは、本当に遠く険しい道のりだと思うわ!
 ぷくくっ。
 テューの目には、今でもディーンがすごく素敵な、尊敬に値しまくる人に見えてるのよね。
 ぷくくくくくっ。
 ディーンってば見栄っ張りだから、そうと知ったら後に引けないわ。幻滅されたくなくて、無理するに決まってるわ。
 そうして真の「立派な人」に強制的に近付かされるのね。
 ああ、ドラマティック〜!
 いや〜ん、楽し〜!!
 もうもう、クーリってば絶対二人を見守るわ! 応援するわ!!

 じゃ、クーリはこの素敵な事実をディーンに報告に行くから、またね!
終わり

<更新日 2000.12.21>



* 
* 
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