賢者様の仲人事情【外伝】

サクリファイス 〜生贄の烙印〜


君は僕の生きる糧

空気や水や風と同じように
いつも傍にある存在

決して離したくない
僕の宝物


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「そこで待たれよ」
「槍を下げなさい! セデス様に何をするんですか!」
 二日後。カトレアを連れて皇居を訪ねたセデスに向けられたのは、張り詰めた敵意と槍先だった。
「カトレア、僕の名で皇族暗殺が行われた以上、仕方がないんだ。必ず、陛下はわかって下さるから――」
「でも……!」
 大丈夫だよと笑うセデスの指先が、冷たい。セデスとて、怖いのだ。
「やっぱりだめです、カトレアも行きます、お父様は、カトレアの前ではどんな酷いこともなさいませんもの……!」
「カトレア……」
 セデスは少し驚いて、声を震わせるカトレアを見た。やがて、首を横にふった。
 カトレアの気持ちは嬉しい。正直、カトレアが皇帝の本質に気付いているとは思わなかったから、驚いた。彼女の言う通り、彼女がいさえすれば、ここにおいてセデスは安全だ。
 けれどセデスにも、そしておそらく皇帝にも、カトレアがいては話せないことがあるから。
「ありがとう。でも、君がいたんじゃ――君が気になって、君を下さいって、言えないから」
 セデスが耳打ちした言葉に、カトレアは目を見開いてセデスを見た。
「……まあ、セデス様ったら正直です! そう……そうですよね、でも……」
 そこ、納得しないよーに。
 カトレアが可愛くて、セデスはくすくす笑った。
 本当に、酷いことをされたりしませんかと聞くカトレアに、セデスは優しく微笑みかけて、大丈夫だよと頷いた。彼の――サクリファイスの正装を、きゅっと握り締めて離さないカトレアの手を、そっと取った。
「大丈夫。ありがとう。君は、その間にお母様を安心させてきて」
「……」
 カトレアがこくりと頷く。
 あんなことがあった直後に姿を消して、そのまま2日も戻らなかったのだ。心配していないはずがない。
「――陛下がお会いになる、ひざまずけ」
 城付きの魔術師と見える男の言葉に、セデスは静かに従った。方術封じの魔法印を施された。先日までとは違い、今のセデスはサクリファイスだ。皇帝を暗殺する実力すら、あると判断されたのだろう。
 セデスは謁見の間ではなく、皇帝の私室に通された。
 カトレアと別れ、彼女を守らなければという意識が途切れると、神殿が皇室に何をしたか、彼の無知が何を招いたかの重さが、セデスに重圧となってのしかかった。何から、切り出せばいいのか――
 通された部屋では、皇帝が一人待っていた。
「おまえたちは下がれ。私が直に締め上げる」
 その言葉にぞくりとして顔を上げ、セデスはふと、違和感を覚えた。サラっとした、短い栗色の髪。冴えた切れ長の目。背の高い、美貌の青年。
 ――だった、だろうか?
 以前に覚えた、圧倒的な存在感と精悍さを、今は感じなかった。
「あの、陛下、ですか……?」
 まずいなと思ったけれど、二度会ったきりの皇帝の顔を、よくは思い出せなかった。同一人物かどうか、判断できない。
「……? ああ、見違えたのか。私だ」
 セデスはあわてて頭を下げた。
「申し訳ありません、失礼しました。……あの、もっと、覇気のある方だったように思って……」
 やつれませんかと尋ねると、多少やつれたかもなと、淡々とした返答があった。
「ここ2、3日、何も食べていないからな……。見てわかるか」
 そう言いながら、皇帝は置かれたままの果物に手を伸ばし、眺め、そのまま口にせずに元の場所に戻した。
「――空腹感はあるが、食べる気がしなくてな。もう数日……、あと、2、3日もすれば、いずれ、戻る。放っておけ」
「陛下……?」
 皇帝は殺伐とした、鋭い目でセデスを睨むと、
「どう、思った。神殿のやり方に、おまえは何を思った」
 釈明するまでもなく、皇帝がかけらも彼を疑っていないということに、セデスは驚いた。
「神殿は、アリエルドの残党の犯行と、その亡骸を差し出してきたがな。私には、アルベールの差し金としか――司祭長がそそのかしたとしか、思えんな」
 聞いた言葉に、セデスは息を呑んで皇帝を見た。
「アルベールって……私の義父が!? そんな、はず――」
 そんなはずがと言いかけ、果たしてそうなのかと、ふいに、黒い可能性がセデスの脳裏をよぎった。彼に、命を賭しての皇帝暗殺を指示したのは司祭長だ。なら、毒菓子を贈ったのも司祭長だとは、考えられないか。スクルドは、司祭長を庇って……? 違う。それにしたって、ことは『サクリファイス暗殺』にさえ及ぶのだ。聖アンナ神殿そのものを揺るがすことなど、義父がするはずがない。
「……陛下、今回のこと、本当に神殿が主犯の犯行なのでしょうか。私には――、仮にも聖アンナを信仰する者が、サクリファイスを暗殺するなど、理解できないのです。神殿の存続、いえ、カムラ方術師自体の存続に関わります。むしろ、皇室と神殿のいさかいにかこつけた、サクリファイスの意味を知らない反乱分子の犯行ではありませんか――?」
 皇帝は椅子にかけ、ゆったりと足を組むと、改めてセデスを見た。
「おまえのその発想は、評価に値するがな、セデス。確かに、その可能性はままある。――だが」
 向けられた皇帝の視線の静かさに、セデスは息を詰めた。
 何か、知っている瞳。
「おまえの知らない前提がある。セデス、アンナの存命中であれば、『サクリファイス』は替えがきく」
 今度こそ、セデスは目を見張った。
 そんな話はついぞ聞いたことがない。なまじ真実だとして、なぜ、皇帝が――?
「セデス、もう一度聞く。おまえは先日、ここに何らかの指示を受け、送り込まれたはずだ。指示したのは誰だ。それが、カトレアに身内を毒殺させ、カトレアの自害まで計算していた者だ。おまえが真実、カトレアを想うのなら――、庇う価値はない、吐け!」
 セデスはキリっと、唇を噛んだ。
 本当に、そうなのか。
 司祭長になり、今でこそ疎遠だが、それまでのあの人は懸命に、身寄りのなかった彼を守り育ててくれたのだ。幼い頃、行方不明になった彼を追い、2日も危険な森の中を探し回ってくれたことさえ、ある。
「陛下、なぜ、義父にこだわられるのですか……? アルベールと、ファースト・ネームで呼ばれるのも不自然です。義父が、過去に何か……?」
 皇帝の顔に、何とも言いがたい、きまりの悪い笑みが浮かんだ。
「あれが何かをしたわけではない。私の方が、奪った――恨まれる覚えがあるということだ。アルベールにしてみれば、私という存在は、どこまでも災厄であろうな」
 セデスは再度目を見張り、だからかと、ふいに、義父の言動を理解した。
「陛下、それはあまりに……!」
 言いかけて、言えることがなくて、セデスは唇を噛んだ。
 何があったのかはわからない。
 けれど、力でねじふせられたあの人は、真剣に、もう誰もそんな思いをしないように――弱者の尊厳をかけて闘っていたのだ。それが、神の意に適うことと信じて。
 だから、信仰の力が落ちなかったのだ。
「言わないか」
 アンナがなぜ、彼に白羽の矢を立てたのか。
「……言えません」
 その真意を、かいま見た気がした。
 ――司祭長、あなたがしていることは、復讐にしかならない。何も、変わらない――
 止めなければならない。義父を。皇帝を。
 一方、皇帝はわずか、自嘲にも似た笑みを浮かべた。
「言えません、か。言ったも同じだな」
「……陛下!?」
 皇帝はスっと椅子を立つと、窓枠にもたれて窓の外を見やった。
「気をつけろ、セデス。神殿内でアルベールだけが、サクリファイスと言えど替えがきくことを知っている。そして、アルベールにはおまえよりも大切な者が、ただ一人いた。その復讐のためなら、あの男はおまえさえ、殺そう」
 義父が急に冷たくなったと感じたのは、いつだった……?
 司祭長になった頃。司祭長になり、忙しくなって、彼を構う暇などなくなったのだと思っていた。
「もう一つ言っておく。私には、負い目がある。アルベールだけは、証拠を取れぬ限りは断罪しない。無意味な死んだ妻への義理立てだがな。――アルベールが黒幕で、それをなお、おまえが庇うのなら」
 え……?
「アルベールがいつかカトレアや私を殺すこと、覚悟しておけ」
 セデスは息を呑み、真っ直ぐに見据える皇帝の目を、美しくさえあるその瞳を、見返した。
「……はい」
 この人は――
 この人は、義父とは違う。
 この皇帝には、復讐よりも大切なことがあるのだ。
 いや。
 最初から、復讐などではないのかもしれない。守るために正義も悪もなく、ただ、愛する者に仇なす者を許さない。それだけなのだ。
「……いったい、義父との間に何が……?」
 皇帝は答えなかった。探り当ててみろと、挑むような、妙に誘惑的な笑みを見せただけだ。
 ――ふと、セデスは違和感の正体に気付いた。
「陛下、あの、髪を――?」
「――うん? ああ、妃に持たせた……――私の髪は、あれの気に入りで、あれが一日も欠かさず結っていたのでな。もう、伸ばさぬよ。――あれが妬くからな」
 そう言って、微笑んで見せた。皇帝。
 ただ、それだけの――
「カトレアには言うなよ」
 泣くから、と。
 何も言えなくて、セデスはただ、頷いた。
 腕で口許を隠すようにしたセデスの頭をぐいとつかんで、皇帝が言った。
「おまえ、何を泣きそうな顔をしているんだ」
 セデスはカっと頬を染め、皇帝を睨んだものの、ふいと顔を背けた。
「……あなたが……泣かないからです」
 食事を眺めるだけで口に運ばなかったのも、待っているからだ、きっと。眠りについてしまったその人が、目を覚ますのを。
 もう少し待ってみようかなと、もう、丸二日も何も食べていないのだ。この人は。
 二度と目を開けないと、待っても無駄だと理解するのに、まだ時間がかかると――頭で理解しても、心が追いつかない。皇帝はそう、言ったのだ。言ったくせに。
「器用な奴だな。私の代わりに泣くのか?」
 セデスは顔を背けていたから、皇帝が少し痛みのある甘い顔で微笑んだことは、知らない。
「……最愛の、奥方だったんですか……?」
 沈黙。
 セデスが顔を上げると、気付いた皇帝が、ふふんと笑って見せた。青いなと。
「私は愛した女しか、妻にはしない。皆、最愛の妻だ。6人いるからと言って、代えがきくものではないんだぞ。――ああ、夜伽の代えはきくかな。いや、だが、それを言ったら大変なんだ、妻がごねれば2人でも3人でもはしごするからな。おい、聞いてるか」
 聞くうちに置いていかれたセデスには、答えられなかった。
 沈痛に、こめかみを押さえる。
「陛下、あなたは真剣な話の最中に――!」
 皇帝はきょとんとして、次にはおかしそうに笑った。
「おまえ、何を真っ赤になっているんだ。十八の男の反応じゃない」
「私のことはいいんです! あなたの態度は、不謹慎です!」
「――……謹慎して、妻が帰ってくるならいくらでも、謹慎してやるがな。――帰って来るのか?」
 ふいに静かにすごまれて、セデスは言葉をなくした。
 自分が殺したも同然だと思っているセデスが、返答に窮して困るのを、皇帝は怒るでもなく、見ていて。
「冗談だ、少し……困らせてみたくてな」
「……」
 顔を上げられないセデスの頭に、皇帝がぽんと手を置いた。温かい、安心する手だった。
 父親がいたら、こういう感じなのかなと、思った。
 そして、この深さで愛せる人が、このタイミングで、ごく自然に相手を安心させられる人が、カトレアを守っているんだと、思った。彼で、同じことができるだろうか……。
 そう思った時だ。
 既に置いた手は引いて、考え込むようにしていた皇帝が、
「おまえ、少し気をつけろよ。そそるだろう? 手を出したくなるじゃないか」
 とんでもないことを言い、何だか不穏な目で、セデスを見た。
 ぎょっとしたセデスが身を引くと、余計にその気になったのか、にやりと笑って彼を追い、慣れた、隙のない身ごなしで、簡単にセデスを壁際まで追い詰めた。
「何すっ……!」
「おまえ、キスの仕方がわからないなら教えてやろうか? カトレアがご不満だぞ?」
 どうしてしないんだと言って、皇帝が迫る。
「へ、陛下、おかしな目で見ないで下さい! 結構です!!」
 抵抗の気配を見せるセデスの腕を、無造作に取って、囁いた。
「こう、つかむと動けないだろう? 女がどきっとしたら、機を逃さずこう――」
「っ! やめて下さい!!」
 セデスが本気で抵抗し、魔力を集中した手ではね飛ばそうとするのを知ると、皇帝はクスリと笑ってそれをかわした。
「冗談だ、殺すなよ」
 セデスは目を見開いた。
「陛下! あなたは――!!」
「生半可なものでは方術封じもきかないか。サクリファイスの魔力、さすがだな」
「!」
 それを試すため――?
 じゃ  ない。
 ついでだ。
 確かめたのはついでだと、なぜか、セデスは確信していた。
「悪かった、泣くな」
「泣いていません!」
「してないんだからいいだろう?」
「よくありません!」
 何だ、どうせ怒るならすれば良かったとか、何か言っているのは放っておく。
「セデス」
 ふいに、皇帝が真剣な声で言った。
「おまえが私を殺せば、神殿の咎になる。忘れるなよ」
「!」
 言うと、皇帝は再度セデスを壁際に追い詰め、その聖衣に手をかけた。
「陛下……何を……」
 皇帝はくすりと笑うと、軽くその首筋に指を這わせて、囁いた。
「随分、怯えるんだな、あれだけの呪詛を受けても毅然としていたくせに――」
 だから、手を出したくなるんだと、なぶるように言うなり、皇帝が容赦なく鎖骨の辺りに吸い付いてきた。
「――っ!!」
 冗談だって、言っ――!
 灼けつくような痛みがあって、セデスは息を詰めた。強い、魔力の気配。施術――!?
 解放されると、セデスは荒い息をして皇帝を見た。
「何……を……!」
 皇帝は意地悪くクツクツと笑った。
「教えてやろうか?」
 瞬間、皇帝の左目が緋色に染まり、セデスの身を、激痛が襲った。
「あうっ!」
 立っていられなくなり、たまらず膝をついたセデスの脇に立ち、皇帝が告げる。
「今のは手加減してやった。本気でやれば、簡単におまえの命を摘める呪だ」
「そ……」
 セデスは口を開きかけ、けれど、言葉にできないまま、飲み込んだ。
 皇帝がこうするのは、別段、不自然ではないのだ。ただ――
「……」
 認めてもらえて、信じてもらえて、嬉しかったんだなと、痛みの中に思った。
 この人を守りたいと思ったし、その時には、また認めてもらいたいと思ったから。
 見返りを求めて人を守るものではないけれど、精一杯やっても、真っ直ぐに命を遂行しても、この先はただ、命惜しさだと――
 彼が、自主的にそうするとは思ってもらえないことが、ひどく、やり切れなかった。
「素直だな」
 寄ってきて、彼の表情をのぞきこんだ皇帝が、おかしそうにクスクス笑った。
「……どうして笑うんですか」
 悔しさと憤りに、セデスはただ、顔を背けた。
「そうくさるな。おまえごとき、呪詛などかけなくても殺せる。その呪詛はおまえのためだ。アンナに頼めば解けるだろうが、カトレアに会いたいなら、解くなよ。城中の者に警戒されて歩くのは、今日だけで、もう、たくさんだろう?」
「……え……?」
 セデスは驚いて、皇帝を見た。皇帝はにやにやと笑っている。
「ほとぼりが冷めたら解いてやる。私は、おまえが命惜しむとも思わぬが――。城の者は、おまえを知らないからな。私がおまえの命を握っていた方が、安心する。その方が、何かとやりやすいだろう」
「あっ……。はい、言われる通りです、済みません」
 セデスはあわてて頭を下げた。皇帝の真意も汲めず、勝手にくさったのかと、顔から火が出る思いだ。彼が思っていたよりずっと、皇帝が彼を信じてくれることにも、驚いた。
 何より、あの警戒をどうにかする方法を、この人は造作もなく導き出したのだ。驚くなというのが無理だった。
 ただし「男には施術しないことにしているのに、サービスだぞ」とか、何か言っているのは放っておく。
「あの、陛下」
 セデスは覚えた感謝と畏敬の念を、伝えたいと思って声をかけ、そこで途惑った。どう、表現したらいいんだろう。
「どうした? 愛の告白か?」
 皇帝が言った。
 それ違います。
 突っ込もうとして、セデスは急に、おかしくなってきた。
 案外、違わないだろうか?
 そう思うと、おかしい。つい、笑ってしまう。
「――セデス?」
 司祭長やカトレアの前でさえ、こんなに笑ったことないのに。
「陛下、あなたが好きです」
 真っ直ぐに皇帝を見て、邪気のない笑顔で告げた。皇帝がたじろぐ。
「いや、待てセデス。冗談だ。冗談だからな? 本気になられても、困るんだ」
「へー、困るんですか?」
 弱みを握ったかなと笑うと、皇帝がぐいとセデスの髪をつかんで上向かせた。
「おまえ、意外にあくどいな」
 セデスはくすりと笑うと、頼んで放してもらい、皇帝に向き直った。
「冗談です。でも、多分――貴方を敬愛しているのは、本当だと思います。私でお役に立てる時には、呼び立てて下さい」
 神殿に戻れば、司祭位を受けることにもなるし、サクリファイスの力、役に立たないとは思わない。少しずつでも、神殿と皇室の和解を進められたらと思う。
「――いや」
「……? 陛下?」
「おまえ、カトレアが欲しいか」
 セデスは知らず喉を鳴らし、沈黙の後、頷いた。
「――はい」
 今回のことで、その資格がないのは思い知ったけれど。
「陛下」
 覚悟を決めて、セデスは口を開いた。今日、言おうと思ってきたこと。
「もし、私に神殿を止めることができたら――、神殿と皇室の和解をなすことができたら、カトレア姫に求婚すること、お許し頂けないでしょうか」
 ――最後まで、言えた。
 声も震えなかった。
 心臓はどくどく、打っているけれど。
 皇帝はすぐには答えなかった。
 思案するものか、彼の様子をみるものなのか、沈黙。
「――だめだ」
 やがて返った答えに、セデスは暗い顔をして、唇を噛んだ。
 少し、期待したから。会ってもいいようなことを皇帝が言ったから、もしかしたら許されるかと、思って――
 もとより身分違いだ。まして、彼は皇室の仇敵とも言える神殿に属する者なのだから、甘かったなと、思った。
「おまえ、カトレアを何年待たせる気だ」
 皇帝の反論は、だから、そんなセデスの意表を突いた。
「陛下……?」
 4年か5年か、それくらいで片が付けば、カトレアも適齢期だと思う。何年かくらい、待たせるべきだと思うけど……?
「セデス、2択だ。欲しければ今すぐ求婚しろ。神殿に戻ることは許さぬ、皇室に入れ。できぬなら用はない、失せろ。二度とカトレアには会わせぬ。あれはすぐに別の男に嫁がせる」
「!」
 セデスは目を見開いて皇帝を見た。
「何を――何をおっしゃるんですか! カトレアはまだ十三です! 結婚する年ではないでしょう!? 第一、そんな――!」
 別の――
 わかっていたはずなのに、灼かれた。胸が、灼けつく。自分自身の感情に――!
 皇帝は危険な笑みを浮かべてセデスの胸倉をつかむと、瞳を赤く光らせた。
「っ……!」
 苦痛に息を詰めて耐えるセデスに、最前までの甘さなど忘れたかのような口調で、告げた。
「セデス、甘く考えるな。皇室に入るには、十八は遅すぎるくらいだ。今すぐこちらに移り、十五年分を四年で学べ! いいか、それだけでは足りん、おまえはサクリファイスだ。あらゆる方術が使えるはずだが――ただ使えるのと、使いこなせるのは違う。守護輪(サークル)と復活(リザレクション)を極めろ。サークルは五連までの連輪、持続時間は最低でも1時間、目に付く応用技も全て覚えてもらう。発動にかける時間は数呼吸、リザレクションは四半時だ。いずれも、日に何度でも使えるようにしろ。いいな。目の前で救える命を失って、悔やみたくなければやれ。サクリファイスは当代ただ一人――おまえ以外の誰にも代われん。最終的には、サークル内において、リザレクションを使えるようになるのが理想だ」
「そんな……陛下!」
 狂気の沙汰だった。
 十五年分を四年でなんて、無謀すぎる。
 まして、国のことなんて、何も知らないのに――!
 サークルにしても、おそらく今のセデスには、一輪、四半時が限界だ。集中が乱れれば解けてしまうし、他の術とサークルとの併用なんて、高度に過ぎる技術だ。それも、サークルと並ぶ奥義の一つ、リザレクションとの併用が、皇帝の要求だ。
 高すぎる。力を尽くす気ではいたけれど、ここまでの要求を突きつけられるなんて、思いもよらなかった。
「カトレアはそれだけの女だ。おまえが軽々しく口にした夢もな」
「軽い気持ちではありません! 私は真剣に……」
「なら、なぜやろうとしない? アンナは12輪を操るし、カトレアとて、8年分を軽く5年で修めた才媛だ。私の娘だ、美貌はもとより折り紙つきだしな。――セデス、おまえ、誰にも果たせなかった変革を成すのに、カトレアほどの女を得るのに、人並みの覚悟と力で足りると思うなよ」
 セデスは返答に詰まり、それでも、かぶりをふった。
「……陛下、サクリファイスとアンナの力は同等ではありません。サクリファイスはあくまで、アンナの力を借り受ける身です。それに――何かをなすためには、まず、その意思が大切なはずです。私一人の力で無理でも、志を同じくする人々と、力を合わせて――」
 しかし、皇帝は鼻で笑った。
「綺麗事だな、セデス。いいことを教えてやる。貴様がなすと言ったのは、方術師を統べるアンナが二百年かけてなせない変革だ。私自身、もう十五年以上手掛けている。だが、いまだ、皇室と神殿は険悪なままだな」
 今日何度目かの驚きをもって、セデスは皇帝を見た。
「意外そうな顔だな――? 知らなかっただろう。私とアンナがその気になって、なお変えられないなど、思いもよらなかったろうな」
 まさに、思いもよらなかった。アンナはもちろん、皇帝にも、嘘は感じられない。それでなぜ、和解がならない……?
「おまえはどうする? いまだ、私もアンナも、諦めてはいない。おまえが手掛けると言うなら、後援もしてやる。カトレアさえ、賭けてな。だが、やるなら果たすまでやり抜け。果たせぬなら、命ある限りだ。それくらいの覚悟で当たれ」
 覚悟――
「……カトレアは……それで幸せでしょうか……」
 それでもまだ、十三歳の少女なのだ。必要があるからと言って、こんな風に性急に――
「甘えるな。幸せにしろ」
 セデスは息を呑んで、皇帝を見た。この皇帝と話していると、本当に、目が覚める。
「できないのか? スメリ伯爵は、できると言ったがな。おまえにできないなら、スメリ伯爵にやろうか」
「なっ」
 その伯爵、知っている。彼女に『カトレアのこと、いやらしい目で見る変態さんです!』と、毛嫌いされている人だ。しかも、しつこいって。
「できます! 悪い冗談はやめて下さい!」
 だいたい、その伯爵、正室はいないけど既に数人側室がいるのに、なんでそんな――
「ほう、冗談とは大きく出たな。おまえにカトレアをくれてやることの方が、余程狂気の沙汰だぞ? 伯爵には地位も財産もある、顔も頭も悪くない男だ。政治手腕もある。おまえが無理だと言った政治知識、きちんと修めているしな。伯爵は正式に、カトレアに求婚している」
「そんな、――そんなの、私がすぐに追いつきます! カトレアが嫌がります、やめて下さい!!」
 夢中だった。
 カトレアが嫁ぐなんて、まだ先だと思って――いて――。
「やめて下さい!!」
 他に、何も言えなかった。
 気付かなかった、今の自分がどんなに無力か。
 無力でいることが、どれほどの理不尽を伴うのか。
「言ったな? はずみじゃ済まさんぞ」
「は……はずみじゃありません。追いつきます」
 このまま、無力なのはいやだ。
 カトレアが意に沿わない相手に嫁がされるのを黙って見ているのも、義父とこの皇帝が、憎しみ合うのをただ見ているのも。
「意外と負けず嫌いじゃないか。カトレアに求婚するんだな?」
「し、します」
 皇帝はにやりと笑うと、釘を刺した。
「言っておくが、この程度のことでカトレアをないがしろにしたら、八つ裂きにして獣の餌にしてやるからな。知識習得も、改革も、カトレアを守る片手間にこなせよ」
 なんだかもう、無茶も言われ慣れてきた。
「――あなたの6分の1でしょう? そのくらい、やれます」
 ほほうと、皇帝が嬉しそうに笑う。
「わかってきたじゃないか。死の覚悟など易い。重責を負って、歩き続ける覚悟よりよほどな。――カトレアのために、生きろよ」
「……陛下……」
 こくりと頷いたセデスの手に、皇帝が何か、小さなものを握らせた。何かの鍵。
「陛下……?」
「一部屋与える。中身ごとな。それから、明日から朝八時の会議と、午前十時からの戦闘訓練に参加させる。そのつもりでな」
「あっ……はい。でも、明日は神殿で司祭位を受ける予定なので」
「ああ。それはもらってこい。面白くなるぞ、カムラ皇室がサクリファイス囲い込み――クク、神殿側はどう出てくるかな。ああそう、とりあえず二ヶ月で二輪使えるようになれ。こなしたら褒賞をやる。おまえ、財産を得たことがないだろう。自分で得た金で、カトレアに装飾品の一つも買ってやるんだな。女を美しくしておくのは、男の甲斐性だ」
 セデスは軽く目を開き、少し、意外そうに皇帝を見た。
「どうした?」
 ――知らなかった。
 期待されること、できることがあること。何かを持つこと、自分で手に入れること。
 こんなに、胸高鳴るんだ。
 途方もない無茶を課されたのに、その重圧さえ、心地良い。
 カトレアと、この皇帝を守りたいと思った。生まれて初めて、ここに居場所があると思った。
 ずっと、守れたらいい。この人たちを。この場所を。
 と、部屋を出るかと見えた皇帝が、ふと振り向いた。
「セデス、一つ気になることがあるんだ」
「? 何ですか?」
「実は以前、アンナに求婚したことがある。断られたが。以来、気になって仕方のないことがあるんだ」
 ……。
 えええっ!?
「あの、アンナに……!? それは、知りませんでした……。アンナが女性だったこと自体……」
「それだ。アンナの性別が知りたい」
 ……。
 それはどちらかというと、求婚する前に 気にして欲しい。
「知りません! そんなこと、自分で聞いて下さい!」
「ケチケチするな、はぐらかされたんだ。うまく突き止めてきたら、もう二度と迫らないでやるぞ? いい条件だろう? 頑張れよ」
 ――何だか、最後にどっと疲れた気のするセデスだった。

     *

 与えられたのは『私室』と呼ぶには広すぎる部屋で、セデスは正直、『この広さがあったら、ここでサークルの練習ができるかな』とか、何かカン違いしたことを考えてしまった。
 さらに、サークルは勝手に練習すればいいとして、リザレクションの練習って、どうやるんだろうかと思った。怪我人なんて、必要な時に必要なだけ、転がっていてはくれないし。
 しかし、ふと机に目をやって、その隣の書棚に目をやって、修めろということらしい書物を見つけると、セデスは吸い寄せられたようにそれを取り、開いていた。
 話してみた皇帝は噂よりもずっと尊敬できる人物で、だからこそ、その皇帝がどうして圧政を敷くのか、知りたくなっていたのだ。皇帝と話して、自分がどんなに物をわかっていないのかも、痛感した。
 コンコンと部屋の戸が叩かれたのは、夕飯と入浴以外はひたすら書物に没頭していたセデスが、いい加減寝ようかなと、ランプの明かりを落としかけた時だ。
「はい」
 誰だろう。こんな時間に。
 扉を開けて、セデスはびっくりした。
「カ、カトレア……!?」
 薄い、可愛らしい夜着一枚の無防備な姿で彼女が立っていて、正直、セデスはどきりとした。
「セデス様っ!」
「わっ」
 そのまま抱きつかれて、あわてて支えて、セデスはさらに動揺した。
 薄布越しに、カトレアを抱いた形になったから。
 こんなの、意識するなというのが無理だ。
「セデス様、今日からここに住むんですね♪ お父様に聞きました! カトレア、一緒に寝てあげますっ」
 ええっ!?
「ま、待って! ちょっ……」
「わあいっ」
 ふかふかなんですよ〜、と、寝台の上にあっという間に陣取ったカトレアが言う。枕を抱きしめる姿が、天使もかくやの可愛らしさだ。
 なんて、思ってる場合じゃないし。
「カ……、カトレア、君は可愛いんだから、困るよ! ごめん、自分の部屋で……」
 カトレアがきょとんとセデスを見る。
「? どうして可愛かったら困るんですか?」
 えっ……。
 と、それは。
「お父様が、セデス様、すごくカトレアと結婚したがってたって言ってました!」
「!」
 セデスはびっくりして、次には、キリっと唇を噛んだ。
 自分で言いたかったのに。
 何で、先に言うだろう?
 あの人無神経だ。きちんと身辺を整えて、その上で、きちんと言うつもりだったのに。
 カトレアがどんな顔をするか、楽しみだったのに。
 ――今度会ったら蹴飛ばしたい。蹴飛ばそう。
 他人に対してそんなこと、初めて考えたセデスだ。
「……カトレア、お母様が心配するよ? 部屋に戻って――」
「大丈夫ですっ。ちゃんと、今日はこっちで寝るって言ってきたんですよ♪」
 セデスは絶句した。
 どうして、それが通るだろう? 皇室ってやっぱり、普通じゃない。
「ええと、それ、いいって言われたの……?」
「はいっ!」
 力いっぱいカトレア。
「今日はお父様のお渡りがあるから、カトレアはじゃま者なんです。お部屋に戻ったらいけないんです。いつもは……」
 そこまで楽しげに話していたカトレアが、ふいに、沈黙した。
「カトレア……?」
 どこで突っ込もうかと隙を見ていたセデスだけれど、その様子に、心配になった。
 カトレアは肩を落として、抱きしめた枕に顔を埋めた。
「……いつもは、お義母様のところに泊まるんです。……でも、カトレアが……」
 小さな肩が、震えた。
「……殺しちゃいました……」
 枕に顔を埋めて、カトレアはそれきり、口を閉ざした。
 ――……馬鹿、だった。
 気付かなかった。
 義母を殺した形になったカトレアが、奥宮の中で、どんな思いをしていたのか。
 他の義母の部屋にも行きにくくて、おかしくない。
 実の母親のもとにすら、いづらかったのかもしれない。
 いづらかったのだ。
 だから、彼のそばから離れようとしなかったのだ。
 死ぬつもりで、彼女が彼を殺しにきたことの意味を、もっと、考えるべきだったのに――
 セデスは寝台にかけると、枕ごと、彼女を抱き締めた。
「カトレア、君が殺したんじゃない。もう二度と、こんなことにならないように僕が守るから――」
 華奢で小さな体を震わせながら、カトレアが首を横にふる。
「お父様から、たとえセデス様からのものでも、神殿から届いたものには手をつけないようにって、言われてたんです。セデス様から、贈り物はできないからって、大切な指輪を頂いてたんです。考えれば、……少し考えれば、セデス様がくれたものじゃないって、おかしいって、わかったはず……でしたのに……、カ、カトレアは――……考えなくて……だから、だから、カトレアが、お義母様を殺したんです! お父様の言うことも、セデス様の言うことも、た、大切なことだったのに、聞けな……うっ……」
 喉を詰まらせて泣くカトレアを、セデスはただ、抱き締めた。
「明日は……明日は、義弟も連れてきて、いいですか……?」
「……うん、いつでも、誰でも連れておいで。……カトレア……」
 謝ろうと思った。けれど、謝ったら、どうして謝るのか、聞かれるだろうなと思った。
「……セデス様……?」
 それに、答えられない。
「――カトレア、もう、いいんだ。もう、わかったから――。君がどうしてしまって、今どんなにつらいのか、わかったから……。もう、二度とこんなことがないようにしようね。精一杯、守るから……」
 カトレアがこくりと頷いて、しがみつく。
 ――震える小さな体が、温かかった。

     *

 司祭長は、ただ冷たくセデスを睨みつけた。ただ一言の祝福もなく。
 すれ違いざま、許さないという声音で告げた。裏切り者、と。

     *

 司教から司祭位を授与された後、セデスは一人、アンナの元を訪ねた。
 聖殿ではなく、その私室にセデスを通したアンナが、微笑む。
「司祭への昇進、カトレア姫との婚約、どちらもおめでとう」
 セデスはふっと、顔を上げた。
 美しい紫水晶の瞳が、優しくセデスを見ていた。どうかしましたかと、アンナが問う。
「あの……祝福して頂けると、思わなかったので……」
 セデスの答えに、アンナは彼を肯定するように、頷いた。
「アルベールのことを、気にしていますね」
「……はい」
 冷たく投げられた、拒絶の言葉。静かながら、深い怒りに満ちたその言葉に、セデスの中で何かが揺らいだ。スクルド司祭のそれとは、同じ言葉でありながら、明らかにセデスにとっての重さが違った。なお、信じる人の、言葉だったから。
 間違ったのか。
 カムラの未来に良かれと動いたつもりで、ただ、周囲を振り回し、混乱を招いているのか――
「セデス、アルベールが身内をゼルダ皇帝に奪われるのは、これが二度目になります。この件に関する限り、アルベールは決して、冷静ではいられないでしょう」
「……二度目?」
 皇帝が言っていた、あのことだろうか。
「もう、十年以上前の、ゼルダ皇帝が皇子だった頃のことです。まだ若かった皇子は、初陣で歴史に残る大きな戦を成功させ、自信をつけ、次には、長くカムラの基盤を揺るがしてきた、皇室と神殿の不和に目をとめました。その和解を手掛けようとなさったのです。まずは私に求婚し、断られると、」
 ――それ、冗談じゃなかったんだと、セデスは少し沈痛な気持ちになった。
 本当に、あの人は。
 一方、アンナはわずか表情を翳らせた。
「可憐な少女だった、巫女シルフィスに目をつけ、神殿から連れ去りました。アルベールの、ただ一人の肉親――、最愛の妹を。二人の両親は、内乱の折、カムラに断首されていて、二人は共に、皇室に対して潜在的な憎悪を抱えていました。ですから、シルフィスは必死に抗い、皇子を拒んだけれど、皇子は力ずくで彼女の処女を奪い、側室として後宮に入れたのです。アルベールは――怒り狂い、憎悪と絶望に、人が変わったようになりました。けれど、妹を人質に取られた彼にはもう、皇子の手駒になるしか道はなかった。アルベールの心が、負の感情に蝕まれるようになったのは、この頃からです。黒い感情にとらわれたアルベールは、方術師としての力を落としました。――裏腹に、皇子の手回しで、いやおうなく司祭長に昇格させられ、同僚からは、地位欲しさに妹を売った卑劣な者との謗りを受け、孤独の中に、誰より憎悪しているゼルダ皇子の言いなりに動くしかない自分自身に、あの人は絶望していった」
「――そんな、の……当たり前です……! どうして……!」
 セデスは皇帝がなぜ司祭長を疑っていたのか、はじめて理解した。『恨まれる覚えがある』と聞いた時、内心、納得が行かなかった。司祭長は決して狭量ではないのに、どうして謝れないのかと。
 けれど、そこまでしたなら、たとえ謝っても、許されるとは思えなかった。彼とて、カトレアをそんな目にあわされたら、相手がどれほど深く悔い改めようと、許せまい。
「セデス、当時、あなたはアルベールが冷たくなったと感じたでしょうね……。けれど、私にはほとんど奇跡のようでした。あの人が、それでもあなただけは大切にしていて、自分への不信と中傷があなたに飛び火しないよう、あなたを遠ざけたこと。あなたに向ける目には、なくしたと見えた優しさが、まだ見えたこと。あの人はよく――執務のかたわら、窓からあなたを見ていたのですよ……」
 胸を締め付けられる思いがした。
 知らなかった。そんなこと、何も……。
 彼が、彼が可愛がるのが、その皇帝の娘だと知った時、義父はどんな思いをしただろう。
 裏切り者、と言った時、どんな思いで――。
 昔。
 ずっと、忘れていたこと。思い出した。
 まだ、セデスが7つか8つの頃だ。当時、司祭長は今の彼くらいで、どういうわけか、神殿内でつらく当たられることが多かった。人前では決して感情を露にしない人だったけれど、夜中、何となく目の覚めたセデスが様子を見に行くと、声を殺して泣いていることがあった。
 何が悲しいのか、わからなかった。翌朝、セデスが心配して手伝いに行くと、ただ、ありがとうと穏やかに笑う人だった。誰が憎いとも、つらいとも、言わなかった。
 どうして、なのだ。
 アンナが語る悲劇は、終わらない。
「――絶望の中、全てを蹂躙されたシルフィスは、一矢報いんがため、サクリファイスの道を選び――ゼルダ皇子に対し、貴方に捧げるものは何もない、この身も心も天使のものだと、皇子を完膚なきまでに拒みました。そうでもしなければ、もう彼女は生きていられないほど追い詰められていたんです。彼女が後宮にいることが、どれほどアルベールの重荷になるか、わからない娘ではなかったから。皇子に妃として抱かれることも、彼女には苦痛でしかありませんでした。シルフィスは、アルベールが彼女のために道を誤ることを望まなかった」
「……アンナ……あなたはなぜ、そこまで知りながら、義父とシルフィス様を救ってはくださらなかったのですか……」
 甘えている、と。
 頭では理解しても、感情が納得しなかった。
 神はなぜ、天使が直に手を下すことを禁じたのだ。
 けれど、アンナはふっと、場違いに優しく笑った。
「セデス、私にアルベールを何から救えと?」
「……アンナ……?」
「――神殿内の誰もが、ゼルダ皇子を敵だと思い込んでいました。皇子は卑劣で残酷で、不遜、血の歴史を持つカムラ皇室の一員、既に実力ある死霊術師でしたから。皇子もそれを取り繕うとはしなかった。神殿に対し慈悲のある態度を取ることは、当時、皇帝への裏切り行為に等しく、ゼルダ皇子にとって、父皇帝の不興を買うことは、自殺行為に他ならなかった。その暗殺を狙う皇后、義母の手から、父皇帝だけに、皇子は守られていたのですから」
 話が、見えない。困惑するセデスに、優しく諭すようなアンナの声が、続けた。
「先の戦役の中で、皇子は、神殿を残すことを考えるようになっていました。そうしたいという思いと、その価値があるという政治的判断の両面から。ですが、父皇帝は、その逆を――包囲しての焼き払いを、実行に移さんとしていました。皇子はギリギリまで粘り、考え得る限りの手を打ち、ついに、その阻止に入ったのです。皇子は聡明で、あらかじめ、それにどれほどの困難が伴うか、どれほど危険な賭けとなるか、理解していました。それだけでなく、命懸けの局面で、そのままでは自分が死の誘惑に弱いということも、理解していました。だからこそ、皇子は『やり遂げなければならない』という強い動機を必要として、シルフィスとアルベールに白羽の矢を立てたのです。この2人なら、神殿を守るための確実な手駒となりえたし、何より、優しく美しいシルフィスのためと思えば、皇子自身がやる気になれたのでしょう。皇子は、シルフィスをめげずに大切にしていて――サクリファイスになられた時には、皇子ともあろう方が取り乱して、事実が漏れたらシルフィスを殺されるとカン違いして、その事実をひた隠しにしていたんです」
 くすくすと笑うアンナを見て、セデスはひどく驚いた。
 アンナって、実はゼルダ皇帝のこと、好きなのかもしれない。
 ゼルダ皇子の求婚、どんな気持ちで断ったんだろう。
 4つの娘に結婚をせがまれた父親の気持ち、だろうか。
「皇子は一度として、アルベールに酷い裏切り行為は強いなかったし、皇子が何を意図しているかは、やがて、シルフィスの知るところとなりました。神殿の存続を譲らない皇子は、皇帝から手酷い暴行を加えられることもしばしばありましたし、皇子に対する様々な誹謗中傷が、逆に、シルフィスに事実を知らしめたのです。シルフィスは――……皇子の真意を知り、彼女の願いと仕打ちがどれほど皇子を痛めつけてきたかを目の当たりにすると、ただの一度も痛いと言わなかった皇子をなじりました。それでも、彼女はついに、皇子に心許しました。皇子も、彼女に受け入れてもらえて嬉しかったのでしょう、ほんの少し、気を緩めてしまった」
「……え……?」
 セデスはふいに、アンナの紫水晶の瞳に、はっきりと、哀しげな陰りを見た。
「私には、視ようと思えば、過去と今の全てを視ることができます。けれど、未来だけは、見通すことができません。神が、大いなる力で紡ぐ予定未来だけは、視ることもできますが……」
 シルフィスは、そのすぐ後に、亡くなってしまったのだと。
「皇子に心を開いたシルフィスは、兄と話し合いを持ちたいと願い出ました。皇子はそれを許可し、自ら彼女の護衛について、神殿に赴こうとしたのです。それが、間違いでした……」
「なぜ……?」
 どう考えても、必要な話し合いだ。そのままでは、司祭長が手を誤る。
「皇后が、それを内通の現場に仕立て上げ、大義名分を掲げ、皇子暗殺に出たのです」
 言えることは、なかった。
 アンナもただ、目を伏せた。
 内通などありえなくても、皇后がそう言って、皇帝が信じれば、終わりなのだ。
「シルフィスは、皇子を庇い、亡くなりました。皇子は――、その足で神殿に向かい、シルフィスは死んだとだけ、アルベールに伝えました。その返り血は何かと問うアルベールに、殺したとだけ、答えてしまった。シルフィスを殺され、逆上した皇子は皇后以下、暗殺者の全てを屠ってしまった。おそらく――その場でアルベールに殺されたいような気に、なっていたのでしょう」
「――義父は……?」
「皇子を殺せませんでした。彼自身、なぜ、その時殺せなかったかわかっていません。シルフィスの最後のこだまが、アルベールを止めたから――」
 その後、皇子は生きるために実の父を手にかけ、それからの十年間に、カムラは3度も皇帝を交代する。つい先頃、当のゼルダ皇子が即位するまで。
 語り終えると、アンナは真っ直ぐ彼を見た。
「セデス」
 次の言葉を待つように、セデスもアンナを見た。
「ゼルダ皇帝の長男、エルディナス皇子を殺したのはアルベールです。――もう、間に合いませんか」
 これは途方もないことかもしれない。
 神の意向は、その両者の和解――
「ゼルダ皇帝は、あなたと結んだような関係を、本当は、アルベールと結ぶつもりでした。今なお、あの人の中にはシルフィスとの約束と、罪の意識、父親として、子を殺した者を許しがたい思い――それらが乱れ内在し、あの人を揺らしています。もう、絡まった糸は、二度と、解かれませんか」
 セデスは沈黙し、やがて、かぶりをふった。
「わかりません。――でも、解きたいと願います」
「その身を懸けても?」
 セデスはふっと、微笑んだ。あの時、誰もが彼の死を望んでいると、前提にしていると思った。
 そんなこと、誰も望んではいなかったのに。
「御心のままに」
 誰の目にも入っていなかった。そんな、小さな存在だった。
 それでも、カトレアには大きくて。
「アンナ、陛下は少し、あなたに似ています」
 初めて何かを得たいと思った彼に、それを得るための力を、示してくれた。
 選択する局面だったのだ。這い上がってもそれを得たいか、諦めるか。
 司祭長の背に守られて、ただ、後をついていくのはもう終わりだと、そういう時期だった。
 守り、慈しみ育ててくれた司祭長への感謝は変わらない。
 それでも、その背はもはや狭い。
 今は、彼が守る番だ。
 誰もが必死にそうしてきたように、今またそうしているように、大切だと思うものを、彼自身の手で守りたい。
 司祭長と皇帝と、その両者を守りたいなんて、あまりにも身の程知らずで欲深き願いだったのに、そのための力すら、天使は与えてくれた。
 望み、得た力を、どう使うかは彼次第――
 そういえば、こう使えと指示した人がいたっけと、彼はくすくす笑った。
「セデス、神殿は私が守りましょう。あなたは皇室を――あなたの大切な人々を、破滅ならぬ道へ導いて、いつか、」
「はい、いつか――」
 セデスとアンナは真っ直ぐに向かい合うと、皆の願いが叶うと良いですねと、微笑みあった。
 それは、途方もない夢。
 それでも、いつか叶うかもしれない、小さな光のある夢。
 信じて、天使と共に、歩んで行く。
 今この時に、何の悔いもないから。
 未来ではなく、今この場所に、既に、幸せがあるから。

 いつか、たどりつけたらいい。
 最後まで、あの笑顔を守れたらいい。

 サークルを二輪操れるようになって、褒章をもらえたら、カトレアに花を贈ろうと思った。どんな宝石よりも、衣装よりも、花の中で、無邪気に笑っているのが似合う少女だから。

 とりどりの花を添えて贈りたい。咲き誇る、蘭(カトレア)の花を――

● おしまい ●




逢えない君を想うときは
空を見上げて祈ろう


君がいつでも笑顔でいますように
――――